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エッセイ・コラム・雑文

 

 ここでは、運営者が各種媒体に書いた随筆(エッセイ)・雑文を載せています。ちょっと文学的なエッセイ、昔の思い出話、高校生向けコラム、提言など、内容はさまざまです。

 

 

  (箒苔紀行U)極私的野田山墓地紀行(下)

(箒苔紀行2)極私的野田山墓地紀行(下) 

 

 酔いのつれづれに前半を書いてから、はや一年半。怠惰の性甚だしく、書いたことさえ忘れていたが、今夏、パソコンの調子が悪くなり、再セットアップするはめに……。そこで半端さしのファイルを見つけてしまった。仕方がない。リフレッシュ後のパソコンの初仕事として、調子見かたがた書きついでいこう。

 

 その昔、大乗寺山(野田山という呼び名との厳密な地理上の境界はよく知らないが、長坂口から右の道を上ると大乗寺があり、こちら側に行く時はこう言ったほうがしっくりくる。)の中腹にある西山公園付近は、小学校低学年の遠足コースだったこともあり、何度も行っている。父の子供の頃もそうだったそうで、冬場ともなると、白山麓にスキー場とてない時代、市民の大切なゲレンデとなった。段々畑がそのまま滑降面になるので、少し滑ると段差がある。そのたびにブレーキをかけ、一度止まって慎重に下り、また滑ることを数度繰り返すのである。もちろん、スキーは担いで戻る。その頃、スキーとはそういうものだと思っていた。
 父の述懐によると、当時、このあたりはスキー客相手の屋台店が出て暖かい饂飩の湯気が客を誘っていたという。もちろん、私がスキーをしていた昭和四十年代時分には、そうした店なぞなかったが、なんだか懐かしそうに父が話しているのを聞いていると、昭和初期の厚ぼったい防寒服を着た竹スキーの子供たちが饂飩をすする姿が彷彿としてくるのだった。
  家が寺町と近かったので、スキーの帰りは、出来るだけ、スキーを履いたまま滑っていけるところまでいった。いつもは長坂のほうに降りていくのだが、ある時、冒険心を出して、まっすぐ円光寺方面に降りていったことがある。ふもとの岡部病院あたりに大きな段差があって、そこを降りるのに一苦労したが、平地となってからは歩くスキーよろしく、一面、白い景色の中、地黄煎交差点(現泉ヶ丘交差点)から円光寺に至る幹線道路まで、スキーを履いたままいけてしまった。当時は、泉丘高校の茶けて古ぼけた校舎を過ぎると円光寺バスターミナルまで、家が一軒も建っておらず、途中の小径さえ数本。その小径とて除雪してあるはずもなく、無理なところまで来たらやめようと思いながら滑っていたら、そこまで来てしまったという感じだった。子供ながらに冒険心が満たされたのだろう。この時の高揚感は今でもよく覚えている。
 さて、重たいスキーを外して、これからどうして家に帰ればいいのだろうと我に返って、俄然、途方に暮れた。バス賃とてない。スキーは当時全然お金のいらない遊びだったのだ。家まで二キロの道のり。重たいスキーを担いでとぼとぼ歩いて帰った、あの情けない気持ち……。

 

  話を野田山墓地に戻そう。

 墓地に眠っている人の中で、前田一族を除くと、一番の有名人は室生犀星だろう。墓があることは以前から知っていたが、実際に訪れたのは、二十歳もかなり過ぎてからだった。石川近代文学館の展示パネルなどで、多宝塔型の墓石の姿は見知っていて、いつかはこの景色にぶつかるだろうと、特に探しもしていなかったので、出会えずじまいになっていた。結局、犀星墓を見つけるのを目的にしていったのが初めだったような気がする。案内杭を見つけ、その通りに歩いていくと、そこに、写真通りの景色があった……そんな感じの初対面だった。以来、何回も行って、そのつど写真を撮っているのだが、墓石の苔むした感じがうまくでず、しっとりとした写真にならない。薄暗いところの写真は難しく、かといって、撮影条件のいい晴れ上がった日中は墓所としての雰囲気がでない。犀星に限らず、墓は意外に難しい被写体である。
  何年か前、園内に立派な管理事務所ができ、その前に墓の位置を示す案内板ができた。どんな有名人がいるのだろうと覗き込んだが、いかんせん、あまり知った人はいなかった。江戸時代の実力者や文人などが多いようである。現代の人で、この人はどんな人物と説明できる人は、かなり加賀藩の歴史にお詳しい方だろう。知らない人を目当てに歩いても興がのらない。あてもなく歩く中に発見があるといった風情が私にはいい。

 ある日の夕刻、そぞろ歩きの途中、切支丹墓地を見つけた。これも、話だけは知っていて、いつか見つけるだろうとは思っていたのだが、北端に位置し、長坂口から入る私には見つけにくかったようだ。ちょうど夕陽が斜めに長く影を落として、墓石が赤く照り映えていた時で、それが、墓面の上部に描かれたクルス(十字架)に当たって、この区画だけが暮れ残って浮きあがって見え、幻想的だった。私はカメラを肩に下げていたが、見とれている、それこそ一分とたたないうちに、赤い斜光は夜陰に同化し、シャッターを押す機会を失った。ああ、すぐに撮っておけばよかったと今でも後悔している。しかし、そこが撮影という行為の永遠のジレンマで、感動してはじめて撮そうと思うのだし、思いが高まるという時間の経過を待つということは、シャッターチャンスを永久に失うということでもある。
 過ぎ去るものを留めようとする行為自体の空しさをよくわかっているからなのだろうか、まったく写真に無頓着な人も世間には多い。その人に言わせると、今、写真を撮らねばという意識がその瞬間に湧かないというのだ。後になってちらり後悔はするが、まあ仕方がないと小さな諦めをすればそれで終わりで、ただ、困ったのは、我が子が大きくなって、なぜ、こんなにも自分の小さい頃の写真がないのか、自分はいらん子だったのかと責められたことだといっていた。
  切支丹の墓石の多くは縦長の和式で、遠目では区別がつかない。先ほど言った前面上部に十字架が彫られていることが最大の特徴だが、もう一つ、多く、洗礼名が中央に漢字であて字されている。洗礼名は、いわば戒名のような扱いである。「亜暦算度留」(アレキサンドル)などという字を読みあてながら、歩むのはなかなか楽しい。おそらく高山右近が種を蒔いたのであろう。目立たない場所にあるが、野田山散策の折り、探されるとよい。

 

 こうした江戸のころに話以上に、近代文学専攻だった私にとっては、野田山といえば、犀星に招かれて来沢中の芥川龍之介が訪れたというエピソードが忘れがたい。大正十三年五月十八日、芥川は犀星の俳句の先輩桂井未翁・太田南圃らと共に、室鳩巣や木下順庵らの碑文をたずねて散策に出かけている。この時の芥川の感想は、南圃によって記録されている(「掃苔の跡を追うて」)ので、ここに紹介しよう。
 芥川は、前田家の墳墓が柵をめぐらし歴代藩主順序よく配置されている様に一際興味を覚え、また、一山すべて墓地に充て、数万基の墓が集中している様に、さすが雄藩の面影ありと評価したものの、野田村から前田家墓所への参道以外の路に秩序がなく、墓も統一感なくただ並べられているだけであること、篠笹生い茂り、むさ苦しく、墓参の交通に不便であるとの不満を述べている。要するに、整備不足だというのである。今でこそ、管理事務所が入り、いつ行っても業者がなにかしらの工事をしているが、私の子供の頃は、もっとほったらかしだった。芥川から私の記憶の野田山まで、五十年近くの隔たりがあるが、間にあるのは太平洋戦争。生きるのが精一杯の時代、墓地など捨て置かれたに違いなく、私の幼時の印象とそう大差なかったのではあるまいか。
 芥川が兼六園三好庵別荘に泊まって、芸者のしゃっぽと遊んだという話は有名だが、この、野田山にまで足をのばしたということを知る人は意外に少ない。犀星が案内したのは、雨宝院、料亭つば甚、北間楼など。呼んだのは西の郭の芸者。と、こうして列記すると、犀星らしく犀川周辺・金沢市南部を中心としているのが興味深い。おそらく芥川は、男川である犀川の情緒を金沢の町の文化として理解したのではないだろうか。
 私は、仕事柄、『羅生門』や『舞踏会』などの教材を教え終えて、作者紹介の折りなどに、当時の来沢の様子を生徒に話してきかせていた時期があった。君たちの窓から見えるあの山にあの芥川さんが来たんだよと。しかし、最近は、ゆっくり脱線していると肝心の読解の時間が無くなって、自分の首を絞めるだけ、言わないことのほうが多くなってしまった。

 

  ところで、実は、我が家は祖父母の時代に山口県より引っ越してきたので、これだけ野田山墓地の話をしている割には、金沢に墓はない。亡くなった祖父母も、本家がある山口の山奥の墓に戻っていった。そこで、生粋の金沢っ子である父の代からこちらで墓を建てなければならなくなった。
 江戸時代からある、木漏れ陽の苔むした区画を新しく貸借するのは難しいらしく、現在、造成されているところは、どんどん山の上にいって、いまや山頂である。縦横すっきり合理的に墓を区切り、樹木も植えていないので、景色はいいが、遠目からみるとスカイスクレイパー(摩天楼)のごとき石のビル群で、何とも味気ない。
 傍観者としては悪口になってしまうのだが、落ち葉で汚れる、根が張って墓を壊すなど、管理面を考えたら、何もない方がいいに決まっている。往々にして風情と実利とは矛盾するもの。それに、文句を言っている当人にしてからが、おそらく、遠かれ近かれその一画を買うことになるのだろうから、文句をいうものほどほどにしておこう。奥卯辰山に近代的な墓苑があるが、城南の地に住む人間にとって、やはり野田山こそが自分の裏山の墓地なのだから。
 父は、早めにお墓を決めておいた方がいいと、一時期、物件(というのだろうか?)を幾つか墓石屋さんに案内してもらった。もちろん、すべて、例の、妙に明るい四角い区画の集合体である。
 だが、これといって気に入った場所がないまま、「早く墓を決めると早死にする」という話を、弟がどこかから聞きつけてきて、結局、この件は沙汰止みになってしまった。あれから十年以上すぎたが、野田山墓地は未だに上に上にと造成しているようだし、そろそろ打ち止めとするという話も聞かない。
 家族はあれからこの話題をしていない。

 

 さて、そろそろ私の野田山墓地の話も尽きてきた。墓めぐりをしながら、いつも思い出していることを二つほど紹介してこの紀行文を結ぼうと思う。
 その昔、永井荷風は、墓めぐりをするようになっては、もはや私にアバンギャルドの鐘はならせないと江戸趣味に韜晦していった。彼のこの言葉はいつも私の脳裏を離れない。確かに墓めぐりは後ろ向きかと思う。パソコンソフトの一つでもマスターした方がいいのかもしれない。しかし、そんな時、荷風の韜晦が、大逆事件の明治四十三年、三十二歳の時。ぶらぶら歩きの成果である散策記の古典「日和下駄」の連載が大正三年、三十五歳の若さであることを思い、そう懐疑的になることもないさと自ら慰めているのである。

 さて、最後に、何だか微笑ましい(?)話を。
 徳川夢声が、孫を連れて歩いているところに出会った彼の友人が、「今からどちらへ。」と尋ねたところ、「ええ、近いうちに引っ越しをするもんで、その下見に。」と答えたそうだ。夢声は墓地を見に行ったのである。いかにも洒脱な彼らしい話ではないか。墓めぐりの究極の気持ちはおそらくこれだ。
 墓石の下の皆さん、遅かれ早かれそちらに行きますから、その時の下調べと思うて、時に不躾に踏み入るのを許してください……と。
  いやはや、墓地めぐりのこの紀行文は、最後に、自分の落ち着き先という、何やら実にお墓本来の話になって終わりそうである。                                                                            

                           (完)
             (二〇〇二・八・十五
  盆の日に)

 

(「イミタチオ」第39号所収)                            (2002・12)

    [1] 
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 (卯辰山から金沢浅野川界隈を望む)
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