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エッセイ・コラム・雑文

 

 ここでは、運営者が各種媒体に書いた随筆(エッセイ)・雑文を載せています。ちょっと文学的なエッセイ、昔の思い出話、高校生向けコラム、提言など、内容はさまざまです。

 

 

  (随筆)鶴来往還

鶴来往還

 

 現在、石川県立鶴来高等学校に通学している生徒の半数以上は、地元の、鶴来・白山郷以外の所から通っている。多くは金沢方面からの通学者だ。人によって、電車だったり、自転車だったり、さまざまな方法を利用していると思うが、その昔、私達の先祖は、どのようにして金沢から、ここ鶴来に足を運んだのであろうか。いにしえの交通手段を少し考えてみたい。
 江戸時代、交通の中心手段はもちろん徒歩であった。金沢=鶴来間は四里という。一里が四キロメートルとして、約十六キロ。子供の遠足の距離とほぼ同じだ。当時は、今の犀川大橋を渡ると、左手の蛤坂を上がり、妙立寺(忍者寺)へ抜ける道と、寺町通りが交差する地点が前田家墓所への道と鶴来街道との分岐になっていたようだ。
 御存知の人も多いと思うが、今は観光地として有名な忍者寺の前の道を行くと、ほどなく、「広小路の広見」に出る。その昔、曲がりくねった道が多かった城下町では、<火避地>として、町の所々にこうした広場のような土地を設けていた。その広見の一端から、今でも土地の人には「六斗林」といった方が通りがいい古い街道がつながっている。そして、今の県立金沢泉丘高等学校の前の現在車が行き交う新道の、一本下の細い道を通って鶴来方面に到る道、これが当時の鶴来街道であった。
 現代の我々だったら、鶴来は、金沢の中心部から自動車で二十分もあれば着く距離なのだが、はて、徒歩だったら、一体、何時間かかるだろう。残念ながら、一度も歩いたことことがないので正確なことはわからないが、距離から推してみるに、三時間半というところだろうか。おおよそ半日がかりである。

 さて、江戸時代末期、鶴来出身で加賀前田家の儒臣となった金子鶴村という人がいた。彼は実に筆まめな人で、膨大な分量の日記を残しており、現在、「鶴村日記」として、六冊に分冊されて刊行されている。これを読むと、当時のこの地方の武士の生活の一端がしのばれて、なかなか興味深い。
 彼は、金沢・寺町に居を構え、家臣として金沢城に出仕するかたわら、詩文をよくし、友人と詩会を催す等、いかにも文人らしい生活を送っている。日記には、その時の自作詩の他、宴会のメニュ−と料理の感想までもが事細かに記されており、文章は堅い漢文崩しながら、内容はそんなに高尚でもない。何だか、いかめしい顔をしながら、真剣にメニューを思い出して筆を動かしている幕末儒臣を想像すると、なんとも微笑ましい感じもしてくる。
 その中に、彼の郷里である鶴来に帰った日の記述があったので、当時を知るよすがに、ここに紹介してみよう。
 城内から十時ごろ出立した彼は、犀川を渡り、寺町台地に入る。当時、この辺りは、寺町と六斗林周辺以外、竹林と耕作地ばかりであった。地黄煎(現在の泉野図書館横交差点付近)まで歩き、そこにあった茶屋で一服している。現代の我々の感覚から言えば、まだ市内もいいところで、何だか出発した途端、休憩してしまった感じだが、以降、田圃道に集落が点在するばかりなので、本格的な歩きの前の一休みといったところなのだろう。もちろん、当時はそれでも市街地からはだいぶ離れた感じなのである。
 このお茶屋のことは、新保望著「金沢城下南部の歴史」の資料の中に、幕府の役人が視察の折、ここで休憩し、接待を受けたという古文書があり、実在が確認できる。
 鶴村は、夕方とも言えぬ頃、鶴来地内に入るのだが、まっすぐ実家には戻らず、町の入り口にある一閑院(現在でも鶴来山手バイパス左手にある)におまいりをしている。当時、土地にゆかりの人々は、まずここにおまいりして、町へ入ったものらしい。鶴村は、それから足をのばし、白山比盗_社にも詣でて、結局、夕方すぎ、実家の方へ到着している。優に、移動に一日かかった訳だ。
 当時のこうした記録を読んでいくと、不便だったんだなと感ずるよりも、確かに時間はかかるし、労力もかかるけれども、彼らの方が、よほど人間らしい生活を送っていたのではないだろうかとも思えてくる。茶屋でゆっくりと雑談もしただろうし、時折会う通りすがりの人にもお互い声をかけただろう。お寺にも神社にもおまいりし、息災を感謝し、そして、里に戻ってから、ゆっくり風呂にでも入って、久しぶりに積もる話に花が咲いたことだろう。
 もちろん、日記には、そんなことまで書いてある訳ではなく、ほんの数行の記述があるばかりである。しかし、その行間に、彼のこうした一日の行動が想像できる。現代人が失なった大事な何かがそこにはあるような気がして、長嘆息するばかりである。

 鶴来街道は、新道に重なってしまった部分もあるが、幸い、昔の面影が残っている箇所も少なくない。一度、嘆息の代わりに深呼吸でもしながら、この小さな街道の旅を味わってみようと思っている。
                 (平成二年十二月二十一日)

(石川県立鶴来高校生徒会誌「連峰」39号所収 平成3年3月) 

                        (のち加筆) 

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 (卯辰山から金沢浅野川界隈を望む)
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