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エッセイ・コラム・雑文

 

 ここでは、運営者が各種媒体に書いた随筆(エッセイ)・雑文を載せています。ちょっと文学的なエッセイ、昔の思い出話、高校生向けコラム、提言など、内容はさまざまです。

 

 

  (箒苔紀行V)広島への旅ー原民喜「夏の花」を訪ねてー

(紀行)広島への旅ー原民喜「夏の花」を訪ねてー

 それは友人からの一本の電話から始まった。小説の解説を引き受けてくれないかという。大学の某先生の担当だったのだが、間に合わず、穴が空きそうなのだという。締切がひどく迫っているが、勉強のつもりで引き受けることにした。

  作品は、原民喜の『夏の花』。原爆に被災してから郊外に避難するまでの三日間を描いた作品である。私は彼が歩んだ広島の道を地図の上から辿ることから始めた。観光ガイドと地名事典を頼りに、訪れたこともない街を脳裏に描いた。当時の廃墟の状況は写真や絵でイメージして彼が見た 生き延びた行動を追体験したた。

 私の解説の文章は、期日通りに予定枚数までいき、出版社に提出。締切に追われる作業はひとまず終わった。が、心の中で、調べが中途半端に終わったことの悔恨が残った。しかし、日々の仕事が忙しく、ゆっくり続きの調査もできないまま半年がたち、このまま立ち消えていくかのようにように思われた。
 私の怠惰を戒めたのは配偶者であった。忘れないうちに広島行きを勧めた彼女の準備によって まとまった休みは黄金週間しかない。私は混雑を懸念したが、こうして私はいよいよ実地検分しなければならなくなったのだった。

 

  広島へは半日の旅である。私は平和公園内の原爆資料館で下勉強をした後、翌一日をかけて主人公と同じ道を歩いてみた。原は実家で被爆、頑丈な家だったので、九死に一生を得た。彼は家が燃える直前、京橋川に出、北上し、「絶好の避難場所」と思っていた縮景園に避難した。
 避難途中の栄橋のたもとは、あの時、火災になっていて大勢の人たちが逃げまどっていた。私が参考にした「広島・長崎原爆の記録」には、まさに彼が通った時間帯の様子が描かれている絵があり、まるで「生き地獄」のようだったと書かれてある。
 現在、栄橋周辺はベンチのある河畔散策路になって、何とも長閑な春の空気が漂っていた。私の地元金沢の犀川の河畔と同じような何処の地方都市にもあるような川辺の景色なのであった。五十年前の惨状のほうが先に頭にある私には、それが逆に奇妙な光景にように思えた。
 平和公園や広島ドーム周辺が爆心地で焼け野原になったのは、公園化したことによって当時を知らない者でも肌で感じられる。しかし、それ以外の場所は中国地方随一の大都会の姿でしかない。原爆の余韻は少なくとも表面的には何もないように思われる。それが不思議だった。あたかも原爆は平和公園という箱庭のなかで起こったかのような錯覚にとらわれそうになってしまう自分に気がついた。

 

 こうした印象は、実際に「縮景園(泉邸)」を見学した時も変わらなかった。ここは金沢でいうと「兼六園」に当たる江戸時代からの名園で、あの日は避難民でごったかえしたところである。名木が焼け焦げた無惨な傷跡は、当時の写真プレートで知るばかりである。
 ところどころ、高層マンションが木々の上から顔を出しているのを煩わしく思いながら園内の京橋川寄りの小高い土手を巡っていた時だった。私はそこに小さな石が置かれているのが眼に入った。それは人目に全くつかないところい置かれてはいたが、間違いなく原爆慰霊碑であった。何の説明もないが、私ははっとした。ここは死体が川岸の至る所に転がっていたところ。多くの人がここで息をひきとったところだったのであ
  広島では、こうした多くの人がまとまって犠牲になったところに、慰霊のものが人知れず置かれているようだった。何も平和公園内の合同慰霊碑だけが慰霊碑ではない。自分の身内が死んだところが、家族にとっては大事な慰霊の場所なのだ。そして、そうした小さい慰霊碑は、おそらくそこで死んだ人の遺族の人が建立し、維持しているのだろう……。この小さい碑からは、何もかもが整然とした公園内の合同慰霊碑には感じられない、人、個人個人の思いがはっきり感じられた。

 

 今回、広島中央図書館で調べもの原の墓の在処を見つけることができたのも収穫だった。現在の墓は白島交差点横の円光寺にあり、そこは、民喜一行が東照宮境内から避難する途中の道すがらに通ったところだ。私は、彼の墓に詣でたあと、何気なく他の墓にも眼をやった。その多くが、昭和二十年八月から九月死亡の銘である。享年からみて、一家全滅ものも多い。墓には、単に「死亡年月」と「氏名」と「享年」の三つの情報が書かれてあるにすぎない。しかし、その一つ一つに、原爆の一瞬の体験があり、無念さがある。最初、その異様さに驚いたが、ここに、何十万人の死という事実の、抽象概念ではない、はっきりした現実があるのだと実感した。

 

  原爆はまさしく人間の原初的な思想である。しかし、それは政治イデオロギーに彩られることによって危険な思想ともなり、抽象的理念でしかなくなったりする。
 原爆を声高に言う者に対して、それを否定することは、リベラルではないから、表面的にはものわかりのよい顔をするが、その内面は、臭いものには蓋のような意識が我々日本人の心をベールのように覆っているようにも感じられて仕方がない。私は、今回、広島に生きた人たちの個人レベルの重さを少し体験できたように思ったのだが、それは 竹西寛子の言い方を借りれば、「意味づけされていない広島」(「広島に言わせる言葉」)を体験したということなのだろう……。広島を問うことは、イデオロギーのリトマス紙ではなく、人間の生き方を問うことである。

 私は広島の旅に誘ってくれた原民喜に感謝して、帰りの新幹線で、真っ赤なボディのプロ野球赤ヘル球団応援缶ビールを空けた。
                                                                                                  (未発表原稿)

 

    [1] 
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