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金沢市民劇場

劇評 「私の「かあてんこおる」T」

 

 以前、出版した観劇の感想文集「私のかあてんこおるTU」の本文です。いちいち項目を立てず、8つに分割して全部そのままアップしてあります。劇名などは、各々の頁冒頭の「目次」をご覧ください。

 

■□ 目      次 □■

 

 一 九 八 六 〜 八 八 年                               
                                              
『おんにょろ盛衰記  三年寝太郎』

『罠』                         
『払えないの? 払わないのよ!』                     
『頭痛肩こり樋口一葉』                       
『こんな話』                     
『プラザスイート』                   
『薮原検校』                 
『夢の降る街』      

 

 

一九八六 〜 八 八 年


寅次郎・熊太郎・寝太郎      
宇野重吉一座(民藝)公演『おんにょろ盛衰記 三年寝太郎』第137回例会

 

 いつものように金沢市文化ホール横の二輪置き場に原付自転車を置いて、雪吊りを模した巨大な傘の屋根がある中央広場に入ると、いつもと違う雰囲気が漂っていた。村芝居の興行よろしく、たくさんの幟(のぼり)がはためいている。なかなか感じがいい。木下順二の民話劇に相応しいではないか。観る前から気分が盛り上がってくる。
 今日の芝居は、劇団民藝の公演『おんにょろ盛衰記』と『三年寝太郎』の二本立て。ただ、幟には「宇野重吉一座」と染め上げている。村芝居のようにという宇野の演出と、今回の地方興行が彼にとって特別な意味があるからであろう。
 『おんにょろ盛衰記』は、京劇の『除三害』を日本風に翻案したものと後で知った。いわれてみると、おんにょろ(「仁王」の方言という)熊太郎(里居正美)の髭だらけの姿や、無骨なエネルギーには中国の荒武者のイメージが残っている。
 久しぶりに帰ってきた村には虎狼や大うわばみが出没し、村人を苦しめている。村人にとっては熊太郎の存在も難儀のひとつなのだが、おだてまくってその気にさせ、熊太郎は首尾よく魔物を退治する。しかし、自分が嫌われていることを知り、死のうとしても死にきれず悲嘆にくれるところで幕となる。完全に「めでたしめでたし」とならないところが、民話らしくなくて新鮮。
 『三年寝太郎』は、ものぐさな寝太郎(宇野)が悪知恵を働かして、お金も美しい娘も手に入れるという何とも羨ましい話。これも道徳的結論にならないところがいい。
 順二の民話劇は第二次大戦中に企画されている。現実では起こり得ないうまい話に、過酷な労働に苦しむ農民や戦火に苦しむ市民は夢を託すことができたのだろう。
 ふたつの芝居、どちらの主人公も、常識の回路からはずれた人物だ。
 この芝居を観ていて、映画『男はつらいよ』のフーテンの寅さんを思い出していた。
 山田洋次監督は、終戦後、大連から引き揚げ、山口県の宇部で、海産物を買い町で売るヤミ屋、担ぎ屋のようなことをしていたという。そこに、大した働きはないけれど、一緒にいるだけでみんなを楽しい気分にしてくれるひょうきんな人物がまじっていたそうだ。しまいには、みんながお金を出しあって、仕事はしなくてもいいから一緒について来てくれるように頼んだという(「映画と私」昭五三)。
 生産的でも倫理的でもなく、常識からもはずれている。しかし、彼の存在がなかったら、みんなは黙々と辛い仕事をしなければならない。無用の用とでもいった存在。まるで寅さんを連想させる人間ではないか。
 われわれは、非日常的な人間がいてくれることを、心の中では望んでいるようだ。寅さんはおだんごの製造販売には何の役にも立たないが、「とらや」の人々にとって、いてくれなくては困る人だ。それは、魔物を退治してくれる熊太郎が村人から嫌われながらもいてくれなくては困る存在だし、なまくら者が得をする寝太郎がいたればこその「憂き世」で、努力しないと報われないことが百%決まっていたら寂しいのと同様だ。
 平凡な常識人と彼等は、いわば表裏の関係だ。対になってこそ正常の天秤が保たれる。『おんにょろ盛衰記』で描かれたように、村人は熊太郎が魔物とあい打ちになってどちらも死ねばいいと期待するほど<地域エゴ>まるだしで、常識側にいる集団が必ずしも正しいとは限らない。
 芝居では、ばあさん(『おんにょろ盛衰記』は日色ともゑ、『三年寝太郎』は小夜福子)の存在が主人公をうまくつなぎ止めている。寅さんにとっての「とらや」のおばちゃんのようなものだ。
 感想文集を読むと「テレビアニメ『まんが日本昔ばなし』のようで、ほのぼのとしてよかった」という賛辞がある反面、「テンポがのろく退屈」と否定的なものもあった。これは劇の出来不出来のせいではなく<民話劇>という形式に対する趣味の違いなのだろう。
 なかに「寝太郎の生き方にひとこと。詐欺師はいつか滅びます」というのがあった。書いた人は『水戸黄門』のファンにちがいない。きっと。
 宇野重吉は病気をおしての出演で、失礼な話だが、われわれのような地方の者には、彼を観る最後の機会だろうという気持ちがあった。だから私は、彼の一挙一動を目を皿のようにして心に焼きつけようとした。彼の生の芝居が観られてよかったという気持ちが、正直、一番の感想で、あまりに物見遊山的興味でわれながら恥ずかしい。                                      (1986・10)

 

(補説)宇野は、自分が肺癌であることを公表していた。そのため、以後、彼の舞台を一目観ようと公演は満員になった。「ぼくの力を振り絞ってやっていることだけを観に来ていただいているようで……。なんなら八十歳までやるかな」と彼は苦笑いしていたという(北川登園『終幕の思想−演劇人の死−』(白水社 平五・一〇))。どうやら、他の観客の方も、私と同じ発想だったようだ。
 なぜ、「民藝」という名ではなく「宇野重吉一座」と名乗って旅まわりをしたのか。これについて、本人は、地方公演といっても地方都市どまりで、生の劇を観に来られるのは、ほんの一部の人に限られているという危機感と、当時、若者に圧倒的人気があり、隆盛をきわめていた小劇場への挑戦として企画したとのだという。もともと、十年来、温めていた希望で、近い死期が実現を促した感もある。
 この、まるで民藝から分派したような行動については、さまざまな解釈ができる。例えば、鈴木忠志は、民藝という組織のなかで共有された藝術上の基準が機能しなくなっていることを意味するもので、「自分のかかわっている行為は、自分の藝術的基準と責任において行われている、ということをもう一度確認してみたいという衝動に支えられていた」とする。宇野が示したのは、「死ぬまで個人として純粋であろうとする行動」だったとするのである。簡単にいうと、民藝のなかで、藝術上も経営上も独裁者となり得なかった彼の巻き返し行為だと考えるのである。死ぬまで芝居を続けたという美談も、一般の俳優なら、当然、降板すべきもので、美談の「宣伝がそのまま自己の職業的使命と生き方に通ずるような特権的な地位にいる人」だからこそできることで、いかにも演劇人らしい「自己劇化の演出」であると考えるのである(「宇野重吉の死」(「海燕」昭六三・四 『演出家の発想』太田出版所収))。
 なかなかシニカルな指摘だ。そういえば、観劇当時、いくら民藝の指導者でも、こうもはっきり個人名を掲げては、組織の私物化だと批判がでないのかなと、ちらりと感じたことを思い出した。
 いずれ、われわれも生から外れていく。人間が死期を悟ってからする行動をことさら美化することもないが、その人が信ずるものに殉じようとした志には敬意を払うべきだろう。彼が特権的立場にいたのだという指摘は認めつつ、それでも願いを実現させてあげようする周囲の善意こそ信じたいものだ。      (1995・8)


 

推理劇の限界          
五五の会公演『罠』第139回例会

 

 大空真弓(妻)、山本學(夫)、村井国夫(神父)、下元勉(浮浪者)、金田龍之介(部長刑事)と、プロデュース作品ならではの豪華キャスト。
 莫大な遺産を受け継ぐはずの新婚四カ月の妻が失踪。ある日、その妻は戻ってきたが、夫の眼には、どう見ても妻には見えない。ところが、周りの人々は彼の言うことを取り合わない。この設定が、演劇という表現様式によく似合う。周りの冷たい対応に夫は歯痒がるが、観ているわれわれも歯痒い思いでいっぱいになる。さすが、個性的な役者揃いの芝居である。
 この作品のような<推理劇>では、犯人は登場人物たちを裏切るほかに、われわれ観客も裏切り続けなければならない。
  作者は、途中から、妻と名のる女と神父との不審な行動を、われわれに提示し始める。観客はこの情報を信用するか、それともドンデン返しの伏線として警戒しながら観ていくかの決断を迫られる。私はそのまま信用するのは危険だと思い、犯人は別にいると判断、一番怪しいは、一見公平で誰からも怪しまれることのない刑事部長ではないかと推理した。
  結局、私の予想は見事に外れた。しかし、「終わってみると、それまでの場面がすべて納得できる」(「毎日新聞」初演時の劇評)と手放しでは言えないように思った。
 あの落ちつきのなさそうな夫が、後半、本当に追いつめられて落ちつきをなくしていったとしても、冒頭部から彼はずっとお芝居をしていたことになる。
 何故、誰もいない時にまで、酔っぱらいの演技をしなければならないのか。
 もちろん、答は簡単。最初から犯人に不審な行動をさせるわけにはいかなかったからだ。つまり、この場面は、明らかに観客向けの<作者の裏切り>なのである。
 こうした不整合は、小説では描かないということで逃げることができるが、常に舞台で人物を活動させなければならない芝居の場合、無理が生じやすい。<推理劇>とは、何と厄介なものなのだろう。
 『罠』は、一九六〇年、当時、無名であった作家ロベール・トマを一躍有名にした出世作。上演回数も一万二千回を超えるという。演出(高橋昌也)もスピーディで、訳(和田誠一)もこなれていた。翻訳推理喜劇として出色の部類に入るが、それでも、以上のような芝居の持つ限界も露呈させていたように思
。                                        (1987・2)

 


女の現実主義、男の理想主義  
民藝公演『払えないの? 払わないのよ!』第146回例会

 

  客席からなだれ込んでくる買い物姿の役者に圧倒されたオープニング−。
 奈良岡朋子のイメージを破る、意外なほど歯切れのいいアントニアの台詞まわしとバイタリティ溢れる動き、それに何と言っても大滝修治の、巡査部長、刑事、葬儀屋、ジョバンニの父親という一人四役の大車輪に、観客は演劇の楽しさを充分に味わった。
 中幕を利用して舞台最前列で芝居をして次につなぐなど、ひとつひとつは舞台作法として目新しいものではないが、ギュッと圧縮してあれこれと使うことで「芝居のもつあらん限りの面白さ(中略)仕掛けを駆使する」(金沢市民劇場第二十三回総会記念講演)という演出家渡辺浩子の意図は十二分に表現されていた。とにかくアップテンポな芝居であった。
 一月九日に民藝の重鎮、宇野重吉が逝去して間もない時期だっただけに、少々心配していたのだが、こちらの杞憂をいとも軽やかに吹き飛ばしてくれた。感想文にも「あの民藝とは思えなかった」というものが多かった。
  ところで、この芝居で提出された「女の現実主義    男の理想主義」という相剋は、人類永遠の課題のひとつだ(と、いきなり強引なくくり方。でも、紙幅がないと大抵そうなる。あまり気にせず、次のセンテンスへどうぞ)。冒頭の主人公夫婦の会話を聞いて、まず、このテーゼを思い出していた。少し年輩の方は、終戦直後、闇米は喰わぬと言って、結局、餓死してしまった裁判官のエピソードを想起された人も多いのではないだろうか。
 こうしたやせ我慢が、理想主義などではなく、いつの間にか<体制順応><事勿かれ主義>に堕ちていくのだと作者(ダリオ・フォ)は言いたげである。
 ただ、男性の立場からいうと、もう少し男としての理屈もこねてもらいたかった気もする。何故なら、これでは「やっぱり女は強しだね」という至極当然な(?)結論で終わってしまうようだから……。
 また、組合をめぐっての労働者の問題がモチーフとして出てくるが、「どうにも古臭くて、現在の日本の現実とシンクロしていない」という感想も散見された。テーマの適時性に対する疑問や、思想と喜劇性の混じりあいが不十分と感じた人は評価が低くなったようだ。
 会社と組合との間で自己の立場をうまくバランスさせようと、日々、悪戦苦闘している人間にとって、ここでの議論はかなり甘いものと受け取られても仕方がない。私自身も多少そうした感じを受けたが、この喜劇にそこまで現実的なニュアンスを求める必要はないのではないかと判断した。
 もともとはイタリアの喜劇。バイタリティはお国柄か。初演はオイルショックの翌年。いかにもそれらしい芝居だ。                                                                  (1988・2)


 

文学研究を取り入れた芝居 
こまつ座公演 『頭痛肩こり樋口一葉』第148回例会

 

 ようやく念願の『頭痛肩こり樋口一葉』(演出木村光一)を観ることができた。戯曲(集英社)を読む限り、井上ひさしの近作では出色の出来と評価していただけに、期待を持って会場に臨んだ。
 今回は四回目の再演。出演者は大幅に変わっており、初演から今公演までをリストアップすると次のようになる。

 

                 (初演)(二演)(三演)  (四演)
樋口多喜役    渡辺美佐子−大塚道子 −曾我廻家鶴蝶−大塚道子
夏子(一葉)役  香野百合子− 同   − 同    −日下由美
邦子役      白都真理 −友里千賀子−岩崎良美  −天久美智子
中野八重役    風間舞子 − 同   − 同    −三浦リカ
稲葉鑛役     上月晃  −春日宏美 −安奈淳   − 同
幽霊の花螢役   新橋耐子 − 同   − 同    −大橋芳恵

 

 大変めまぐるしい交替ぶりで、今回、遂に全員入れ替わってしまった。四演は全体として若々しくフレッシュな人選になっているようだ。特に大橋芳恵の演技はピタリとはまっていて、新橋耐子が交通事故のケガによって出演できなくなり、急遽、差し替えとなったとは、到底思えない。
 女性六人だけのお芝居だけに、<女優の競演>も演出のひとつなのだろう。こまつ座としては、今後の再演もおそらく経験者を数人残して入れ替え入れ替えでやっていくのではないだろうか。華のある脚本で、違った役者の再演も観てみたい気にさせる芝居である。
  井上の樋口一葉理解は、実に骨太で、図式的ともいえる人物配置が無駄のない展開をみせ、スッキリとしてすがすがしい。
 狂言回し役の花螢が、怨むべき対象を因果はめぐる式に探しあぐねたあげく、結局、世の中全体を呪わなければならないと諦めかけた時に、夏子がひとり呟く、
 「でも私、小説の世界で世の中全体にとりついてやったような気がする」
という台詞に、井上の一葉理解の核心がある。
  井上は、一葉が「世の中の回り舞台から外れてその外側に立っているとはっきり感じていた」ことを、前田愛の著作『樋口一葉の世界』(平凡社選書)から読みとり、この戯曲の眼目である「一葉はこの世に生きている時から、すでにあの世の住人であったという仮の力点」を考え出したと、前田との対談「一葉についての『噂』」(「国文學」昭五九・一〇)のなかで告白している。
 古い因習にとらわれている母の多喜、近代的な妹の邦子を両極にし、その中間に夏子がいるという前田の分析もそのまま作品世界の構図として援用しているようだ。
 しかし、エピローグで、多喜があの世から、意外にも「邦子、しっかりおやり! 世間体なんか気にしちゃだめだよ」と叫んで、一挙にこの図式を崩して結末を迎えるところに井上芝居の面目躍如たるものがある。得意のどんでん返しの一種と言えなくもないが、主題につながっている分、奇をてらったものではない重みがある。保守的な立場を象徴する多喜が叫ぶことで、作者の主張は、クッキリとした形で観客の心に入ってくる。
 ラスト、仏壇を背負ってひとり退場する邦子に、われわれ観客も、多喜と同じように「ガンバレ! いい人生を送れよ!」と心の中で叫んでいるのだ。
  この作品、前田の研究をはじめとする近代日本文学研究の成果が、ひとりの藝術家によって吸い上げられ、作品として結晶したものといえるだろう。
                                                                    (1988・5)

 
解決の糸口、展望は?    
地人会公演『こんな話』第149回例会
                                   
 登場人物は三人だけ、役者は二人だけの比較的短い芝居(作エルソン・フガード他 演出木村光一)。
 前半は、南アフリカ共和国の黒人居住区で、フォードの自動車工場をやめ、写真屋を開業したスタイルズ(平田満)による一人語りで、かなり長く続く。語りの内容は、人種差別に対する不平不満で、これが地でやっているのではと思わせるくらい、軽妙、コミカルで、彼の演技を楽しみにしてきた映画『蒲田行進曲』以来の女性ファンは充分満足したのではないだろうか。私も大いに楽しんだ。
 しかし、後半は人間の尊厳をめぐっての重いテーマが全面にあらわれ、雰囲気は一変する。シーズウェ(塩島昭彦)が「おれは人間だ」と叫んでパンツを下げるところがクライマックスである。
 この時、運悪く(良く?)最前列に陣取っていた私は、男性の逸物を間近に観てしまい、一瞬、<猥褻物陳列罪>などという言葉が脳裏に浮かんた。よく考えれば、われわれ市民の側が官憲の基準でものを考えるなどというのは本末転倒もはなはだしく、気にする必要はないのだと納得するまでに約十秒。一瞬、意識が芝居の世界から飛んでしまった。
 芝居の感想としては、アパルトヘイトのことから書くのが自然なのかもしれない。しかし、個人的には、前半部、スタイルズが新聞を読みながら語る自動車工場でのフォード会長視察のエピソードが印象に残った。
 実は、昨年、NHKテレビで放映されたドキュメンタリー『自動車』の原作『覇者の驕り−自動車・男たちの産業史(上下巻)』(日本放送出版協会)を読んでいたせいもある。著者のデイビット・ハルバースタムの分析によれば、利潤追求のみに走る、ビジネススクール出身の財務部門のエリートたちが経営の実権を握ったことが、米国の自動車産業界没落の原因だという。「消費者に魅力的な車づくり」という生産の大原則を軽視し、当座の儲けのそろばんだけが優先する。
 そうしてできあがっていく自動車。一時的には儲かるだろうが、長期的には売り上げも減少するし、労働意欲も削がれていく。首脳部から発せられる現場無視の命令に対して、この芝居では戯画的に語られる工場長でさえ、実際は、部下との板挟みの苦境に立ち、上司に虚偽の報告を繰り返していたという。
  スタイルズが語る、会長が工場に視察に来るため大騒ぎでなされた、工場内の塗装直しや安全対策、新品の作業服との交換などは、おそらく、その場を取り繕う工場側の浅知恵というより、今まで報告していた虚偽の書類に、大慌てでつじつまを合わせようとしたといった方が真実に近いと思われる。現場の責任者にとってみれば、嘘がバレないようにするための必死の保身術ということになる。
 こうなると、単純に管理者と労働者との二元論で論ずること自体、無意味に思えてくる。
  同じように、この芝居を観て、黒人階級の側に身を置き、一緒になって白人階級支配を怨んでも、何の解決にもならない。国際世論の高まりのなかで、アメリカ企業が南アフリカ共和国から撤退、その間隙を縫って、名誉市民である日本人の企業が進出中であるという。しかし、これとて、批判に晒されて、日本企業が撤退したとしても、今度は新興工業国が入り込むだけの話である。
 この劇は、反アパルトヘイトの芝居だが、二人芝居ということもあり、はっきりと虐げられた実態を暴き出しているわけではない。どちらかというと間接的な描き方だ。そこが物足りないという意見も聞かれたが、それよりも私は、どういう解決の糸口があるのか、未来への展望、希望という面で、示唆を与えてくれていないことに不満を持った。そして何よりも、人種差別の意識を生んだ人間の業とでもいうべきものを暴き出してくれなかったことに、この作品の弱さがあるように思った。 
                                                                    (1988・7)


女性の方はどうなんですか     
テアトルエコー公演『プラザ・スイート』150回例会

 

  人気脚本家ニール・サイモン作の読み切り短編集。
 ニューヨーク五番街セントラルパークの入口付近にある実在の高級ホテル「プラザ・ホテル」のスイートルーム七一九号室を舞台にして、結婚二十三年目の夫婦関係を描く第一話「ママロネックの客」、ハリウッド映画のプロデューサーとして成功した男が、高校時代のガールフレンドで今は子持ちの女を口説く第二話「ハリウッドの客」、結婚式直前にバスルームに閉じこもってしまった娘を説得しようと親が悪戦苦闘する第三話「フォレストヒルズの客」の三つの話からなる。
 <夫婦><友人><親子>という、男女の人間関係の基本の型を三つに分けて描いているわけで、どの話も、はじめの頃のようには人間関係がうまくいかなくなっていて、それをスイート・ルームでなんとかしようとするのが何とも皮肉。作者の狙った設定だ。

この作品の各幕の男性主人公たちは、みなそれなりに世間的成功を手に入れた中年男たちだが、必ずしも精神的に充実も成熟もしていない。

 観劇後に読んだ、訳・演出の酒井洋子氏のこの文章が、妙に心に引っかかった。男性陣の人格にことさら留意しながら観ていたわけではないので、こうした男性に対する視点が演出家にあったことを知り、不意をつかれた。
 なるほど、各話に登場する男たちは、満たされた者ではないようだ。冷え切った仲を何とか修復しようと、あの手この手の言辞を弄する妻に嫌気がさしている夫(納谷悟朗)。性的欲望の充足のために、人妻を誘惑せずにはいられない男(沖恂一郎)。娘の感情よりも世間体や金のことばかりを気にする父親(熊倉一雄)。皆、空虚感を持っていたり、自分の都合ばかり考えている人種である。
 でも、「ちょっと待って下さい、酒井さん」と言いたい。
 「では、女性陣のほうはどうなんです?」
  あれだけの心理作戦で夫から浮気の事実を引き出し、それでも感情的にならない妻(緋多景子)。修羅場になったほうが、絶対、人間的な気がする。夫の立場から観れば、やはり一緒に生活するには辛い相手ではないだろうか。
 第二話の人妻(一柳みる)も、相手の男がハリウッドゴシップにほとほと嫌気がさしているのにまったく気づかず、熱心に聞き出してはひとりで陶酔していき、二人の感情は行き違ったまま、打算のアバンチュールだけが成立していく。
 第三話では、娘とのコミュニケーションがまったくとれていなかったことが明らかになるヒステリックな母親(牧野和子)がそうだ。
 結局、女性のほうも「精神的に充実も成熟もしていない」ではないか。何も男性に限定することはないのだ。
  かつて、身分制度や性役割が固定されていた時代、人間はその枠組みのなかで生活していけばよかった。そうしたシステムが崩壊してしまった今、よりかかるべきものを失った現代人は、社会的、経済的安定をはかるのに懸命で、自己を確立するという内面的な成熟への努力を忘れていた。それが、大人になって大きな亀裂となって表れてくるということなのだろう。プラザ・ホテル、スイートルーム七一九号室とは、<現代社会>の謂なのである。
  舞台は、テアトルエコーらしい軽いタッチのコメディで、第一話の評価は賛否相半ば、第三話は圧倒的な好評を得た。特に熊倉の熱演が光る。                                                                    (1988・9)

 

正常人の敵は正常人      
地人会公演『薮原検校』第151回例会

 

 市民劇場に入会して、井上ひさしの作品をコンスタントに観られるようになった。特に今回の『薮原検校』(演出木村光一)は、昭和四十八年初演で、おそらく戯曲でしか接することができないだろうとあきらめていただけに感慨ひとしおである。
 今から十年以上前、井上の作品を片っ端から読破していた時期があった。戯曲では『日本人のへそ』(新潮文庫)が何とも面白く、舞台を観なくとも、ドンデン返しの連続に観客が何度も唖然とするのが目にみえるようであった(この作品も、後年、金沢で公演があり、舞台を観ることができた)。それに対して、この『薮原検校』(新潮文庫)は何とも暗く、読み終えるのが他の本より遅かった覚えがある。
 テーマ的には、同じ時期の小説『四十一番目の少年』(文藝春秋)と似ている部分があるが、この作品の独自性をあげるならば、やはり、障害者という問題を正面にすえていることだろう。 実は私の家にも身障者がおり、以前働いていた職場も関係があったので、少しはこの問題を考えていたと思うのだけれど、私の貧弱な経験からいえば、福祉の問題は、いつも最終的に政治に吸い取られ、「物言えば唇寒し」となって、口をつぐんでしまうのがお決まりのパターンであった。お金の絡む問題だけに無理もない面もあるが、福祉でも教育でも、結局、プロパー(上部構造)は政治であるという虚しい状況はなんとかならないだろうか。
 閑話休題。井上の物言いは実に大胆だ。舞台は冒頭から「盲(めくら)」という差別用語がポンポン飛び出して驚く。これは私一人の感想ではなく、武藤元昭氏などは「その言葉の使用によって、作者が非難されはしないかと余計な心配をする己を発見し、秘かに自ら恥じた」(「国文學」昭五九・八)と述べているくらいだ。もちろん、作者は承知の上で使っている。 初演終了後「朝日ジャーナル」に批判記事が載り、昭和四十九年十二月、再演時のパンフレットで井上は反論している(「いわゆる差別用語について−朝日ジャーナルの匿名批評家に寄す−」今回の機関誌にこの抜刷が添付されていた)。
 そのなかで、井上は、近年行われている差別用語の制限は「もっとも金のかからない方法で彼等を慰めようとした(中略)流行の福祉文化政策」で、「実体はそのままでレッテルだけを貼りかえ」たにすぎず、この芝居が盲人に対する差別だという見方のほうが、かえって差別的であると述べている。
 語り部を含め盲人自身がこの言葉を使うことで、ある種の免罪符を得ているし、実態の変革がなければ何の意味もないことは、それこそ作者が「心眼を見開いてこの芝居を虚心に見てください」と注文をつけなくとも、容易に理解できることである。それでも、私自身をふくめ武藤氏のようないらぬ心配をしてしまうところに、形式主義的な発想に毒されている現代人の心理を見る思いがする。こうした発想を切り崩したいとする志向は、単に言葉だけの問題ではなく、作品自体のモチーフにもつながっているようだ。
 『薮原検校』の原資料は『名講談解題』の中の二頁ほどの短い文章で、多くのエピソードをここから採っているという。だが、主人公の杉の市(高橋長英)を東北出身にした点は作者の創作。当時は気がつかなかったが、今回の舞台を観て、主人公の杉の市が、東北の孤児院で育った作者の分身であることに気づいた。似た境遇であった作者も、もしかしたら杉の市と同じ道を歩んだかも知れないという気持ちがこの人物に色濃く投影しているようだ。
 「東北の片田舎に生まれた盲の少年が、晴眼者に伍して生きていこうとしたとき、彼の武器はなにか?」(「二通の手紙」)と自問し、それは「悪事以外にない!」と自答したとき、作者には是非「実在させなければならぬ」という「得体の知れぬ思いこみ」が沸々と湧いたという。人生の暗黒面を徹底的に歩ませたら一体どうなるであろうかという作家としての人間追求の結果が彼なのである。
 ゆえに主人公の性格は実に明解である。「浪費、怠惰、出鱈目さ、悪らつさ、みにくさ、汚さなどをすべて一身に合わせ持った人間」がそれである。
 彼が重ねる殺人は、当初、正当防衛の色彩が濃かったが、徐々に悪辣さが増して、いわば、悪道が板についてくる。しかし、唯一の例外が、命取りとなったお市(岩瀬晃子)の殺人である。彼女も悪人には違いないが、彼の愛を信じたために身を落としていった女性であり、彼の根っこを知っている人間である。作品ではその女性を、守り刀で殺したところで彼の悪運が尽きることになっている。
 この女性の意味について、扇田昭彦氏は「リアリステックな個人の生命を超えた存在」で「東北の風土そのものの象徴」(新潮文庫「解説」)ではないかと推察している。つまり、自己の出自そのものであり、悪業の正当性を確信する彼の<良心>の存在としてあったといえる。その彼女を殺害することで、自らのアイデンティティーを切り捨ててしまったため、今度は正宗の刀の神通力のほうが彼を見捨てたのである。
  身障者の中でも、盲人には比較的古くからこの芝居に描かれているような制度があり、天国と地獄、天才と乞食といわれるほど上下の格差が激しい。そんななかで、作者は、金と学問、悪と善の両極にいる杉の市と塙保己市(藤木孝)を対比して表現してみせる。
 杉の市の信念は、社会的弱者という立場を利用して、体制を愚弄し、超えようとする所にある。われわれは、その恐るべきバイタリティに徐々に共感しはじめる。それは、扇田の言うように「圧倒的に不利な形態を逆転してのけた者だけが与えうる劇的な快感」を感じるからだろう。反逆者としての悪の魅力である。
 これに対して、保己市は客観的には正義側の人間だ。だが、「晴眼者たる観客は、保己市の行為にむしろ憎悪感を感じる」(武藤)ように振り当ててある。このため、正悪の倫理と、観客の心情はクロスする。
 このふたり、一見、両極の人物のようでありながら、保己市は杉の市のことを「同志です」と述べる。「あなたの『金への執着』も、わたしの『学問への執着』も、所詮は悪あがきかもしれません」と冷徹に分析する保己市には、自分も彼も立場は異にしていても「正常人の敵」という点では何の変わりもないということを見通しているのだ。これを強調するため、作者は台本で「二人はまるで幼なじみのように見える」と、どう演技すればいいのか役者が困るような卜書きを書き加えている。
 だから、保己市の松平定信(仲恭司)への進言は、一見、裏切りにしか見えないが、実際には、「正常人の敵」同志として、彼を祭りの「いけにえ」に仕立て上げることで、保己市なりの思いやりを示したことになる。「わたしはあの男に花道を作ってやったのだと思っております」という言葉に、それは端的に表れている。つまり、保己市は杉の市を、田沼政治の時代から粛正の定信時代へのターニングポイントの象徴として、文字どおり、死をもって祭り上げることで、正常人が創り出してきた道徳、常識、体制などあらゆる正常人のシステムから彼を超えさせようとしたのである。「彼はおそらくそのために生まれ、これまで生きてきたのです」という保己市の言葉は、そのまま作者が杉の市に与えた役割を説明したものと考えられはしないだろうか。
 ともかく、彼の初発の命題、「東北」出身であること、「盲の少年」という弱者であることという人生の出発点にすでに負い目を持つ者が、その処世の手段に「悪」を選んだとしても、それはそれで無意味ではない、あるいは無意味にしたくない−という作者の強烈な願いが表現されているとみてよいだろう。
 ところが、観劇後の感想文を読むと、二人を両極の存在とのみ限定し、保己市が「同志」と言ったことを「謎めいた言葉の真意をつかみかねる」と感じたり、「盲人であるがために、晴眼者に取り入るために、同志を差し出すのが怖かった」として、裏切り行為とのみ理解した方が多かったようだ。もちろん、表面的には裏切りには違いはないのだが、その裏にあるものが読み取りにくいのでは困る。
 これはひとつには、保己市が、実在の人物塙保己一をモデルにしているため、観客の側に先入観があったことも原因しているように思う。われわれの一般常識では、膨大な国史国文資料『群書類従』を編纂したとか、講義中に灯が消えて、弟子がオロオロしていたら「目明きは不便なものよ」と笑ったとか、盲人の能力の高さの代表のようなイメージがある(明治から昭和の初期まで『尋常小学読本』にこの逸話が載っていて、年輩の方ならまず知っている話だ)。
 また、松平定信の存在が思ったほど前面に出てこないのも、保己市の主張に説得性を欠く一因になった。後半、主題が保己市にすり寄るにもかかわらず、喰わせ者のような印象に終始してしまっては、それこそ真意がつかみかねることとなる。
 言葉の形式主義を排除したところから書き出されたこの作品は、実質としての社会変

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