総計: 4377198  今日: 643  昨日: 165       Home Search SiteMap Admin Page
  日本近代文学論究
耽美派(潤一郎・荷風)
ベストセラー論
金沢・石川の文学
近現代文学
書評・同人誌評
劇評「私のかあてんこおる」
エッセイ・コラム
ものぐさ
パラサイト
<<前月 次月>>

2005年05月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31        

 カメラ道楽 
 アイラブJAZZ 
 オ−ディオ帰り新参 
 2004年
11月〜12月
 2005年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2006年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2007年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2008年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2009年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2010年
1月〜2月
3月〜4月
7月〜8月
5月〜6月
9月〜10月
11月〜12月
 2011年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2012年
1月〜4月
5月〜8月
9月〜12月
 2013年
1月〜4月
5月〜8月
9月〜12月
 2014年
1月〜3月

ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年05月31日
  「漫画を読む力」が落ちている

 最近、CDショップに行って思うこと。
 昔は、日曜日ともなれば、レコード店は高校生で一杯。大枚はたいてLPレコードを買い、学校に割れないように、専用の布袋に入れて大事に持っていって、友達と貸し借りしていたものである。お小遣いの大半はレコードで消えた。
 それが今、閑散としている。客は中年ばかり。もう、若者はCDにお金を落とさない。音楽業界も、中高年にターゲットを絞った企画で、これ以上の顧客の減少を食い止めようと必死である。かつての名盤が廉価でシリーズ化されたりしていて、価格的に輸入盤とほとんど変わらなくなり、では、国内版を買おうかということになる。私は典型的にこっちの組である。
 同様に、子供や学生さんといえば、漫画ばかり読んで……という図式も過去の話のようだ。漫画本コーナーには、もちろん今でも子供らがたむろしているが、以前ほどの賑やかしさはない。漫画自体に、昔ほどの執着はなさそうなのである。お金を払ってでも読みたい魅力のあるメディアでなくなっているということだろう。
 時々行く工業大学近くの郊外型書店のコミックコーナーは、当然ながら、大きなスペースを占めているが、ビニール包装されていて立ち読みが出来ないこともあり、いつ見てもほとんど人が立っていない。
 第一、今、爆発的大流行のコミックというものも寡聞にして知らない。
 どうやら、子供たちは、漫画を「読解する力」さえ落ちてきているようなのだ。どうもそうなのではないかと、同僚に話したら、先日の「朝日新聞」に記事がでていたという(残念ながら未見)。

 私も、若い頃、多少、漫画を読んだ(見た?)。小学校のころは「サイボーグ009」「サブマリン707」など。中学高校では、これと言って読んだものが思い出せない。もともと「漫画人間」ではないのである。
 ところが、大学に入ってからは、友人から借りた「男おいどん」「パタリロ」、銭湯に置いてあった週刊漫画雑誌連載の「うる星やつら」などを楽しく読んだ。今考えると、大学生の時が一番読んだような気がする。これ、やはり、ご多聞に漏れずといった感じである。
 読まなくなって数十年。久しぶりに読むと、読むのに苦労している自分がいて、唖然とする。
 漫画は、「吹きだし」と「絵」からなっている。吹きだしを読み、絵を見て、状況を把握し、次のコマに行く。次のコマは、どれだけか場面が進んだ一瞬であり、その間は読者が想像して埋めなければならない。活字と絵との行ったり来たり、その上での、コマ間の補填作業が頭の中でどうも巧くいかないのだ。そのため、全然、内容が頭に入っていかない。これなら、活字でずっと読んでいたほうが単線作業で楽である。こう思って、興味が完全になくなった。つまり、私は、最初から「否定派」なのではなく、ついていけなくなった「脱落派」なのである。

 おそらく、同様のことが、子供たちにも起こっている。私のほうは、脳の老化のためだが、彼らは、もっと刺激のある映像が既に情報流入の主力となって、それで育った世代だから、漫画を読む訓練(!)ができていないのである。イマジネーションを飛翔できる大事な空白部分を、彼らは、逆に、不完全なものあると感じるのだろう。
 映像は与えられるだけ。こちらの想像力を潜り込ませる余地はない。結局、アニメーションが「漫画文化」を奪ったことになる。私たち年配者にしてみれば、同じもののように見える二つのメディアだが、漫画は、今や活字文化に近い運命を辿りつつあるようだ。
 動かないキャラクターは、アニメの不完全版、乃至、下請け代用バージョンでしかない。そんな感覚である。
 生徒は、コミック目当てに図書室に来てくれる。活字と同じ「紙プリントメディア」として、仲良くしていかねばなるまい。
 そういえば、昔よくあった教室での漫画本の貸し借りも、CDと同様、最近はほどんど見かけなくなったような気がする。

 2005年05月29日
  (つづき)

 他に、巧いと思ったこととしては、女主人公と彼氏の関係が、そのまま紫式部と時の権力者藤原道長の関係に重ね合わせていることである。これは、多くの人が、読んでいて気づくことだ。彼氏が国文業界の人でなく、俗世を生きる社会人としての面を多く持ちつつ、彼女に文学的助言などをしている様子などは、当時、貴重だった紙を彼女に融通して、色々、アドバイスやネタを提供している道長そのものである。
 作者は、いつものように表現に技巧を凝らす。明治小説風に、ルビを利用したあて字の効用をうまく利用したり、「今風」な言葉をわざわざ交ぜたり。それが、丸谷流の歴史的仮名遣いによって、見た目古風に書かれている。本当にあの手この手。これも読んでいての楽しみの一つであった。
 ある個人サイトの日記に、「ところどころ、作者の『うまいだろう』というささやきが聞こえるような感じがする」とあった。確かに、あの手この手の作者のほうが、登場人物が活動する内容自体より全面に出ている印象で、なかなか図星の感想。笑った。
 ただ、ちょっといつもより雑然とした印象がある。先般、読んだ阿川の『亡き母や』(講談社)にも感じたことで、失礼ながら、年寄りは、長尺ものを整然とまとめていくだけの持続力がなくなっていくものである。
  表現的にも内容的にも、現代では少々重い。そうした意味で『女ざかり』ほどの大ベストセラーにならなかったのは仕方がないような気がした。

 現代の読者は、国語の力が落ちている。小説もそれにあわせて、かつての概念では、未熟にしか見えない内容で、文学賞をとったりしている。ある程度の「読み」の力量のある読者にとって、小説が物足りないものばかりになってしまった。
 そのアンチテーゼが、例えば、平野啓一郎『日蝕』(新潮社)だろう。、24歳の若さで芥川賞(1998年下期)を受賞して評判となった作品で、漢文調が難しいとの評判だったが、あれなど、高校卒業程度の漢文書き下し文を読む実力があれば、本当は読みこなすことができるはずの文体である。あの小説の成功の因は、そうしたちょっと読みにくい古めかしい文体が、情けない表現しかできなくなった小説に飽き飽きしていた一部の読者に歓迎されたといった側面があるのではないか。そのちょっとしたハードルをくぐると、中身は宮崎駿アニメ的中世ファンタジーで、そのあたりで、尚古趣味に陥らずに済んでいる。
 それと同じようなところが、この小説にはあるのではないか。国語力があり国文学に興味のある人向け。読者を特化させることで生き残りをはかった小説の一種といえはしないか。

 

 2005年05月28日
  読者を特化させる  丸谷才一『輝く日の宮』を読む。

 随筆ばかりを読んでいた入院生活の中で、本格小説は、丸谷才一『輝く日の宮』(講談社)一冊だけだった。これも、発売後すぐに買ったまま積ん読だったもの。この時に読むには最適だと持参した。結局、読了したのは退院間際であった。一気に読むには情報が詰まっていて、ちょっとしんどかったからである。
 「輝く日の宮」のという言葉は、「源氏物語」桐壺の巻に、藤壺の入内の様子を描く箇所に出てくる。私は、何年もその箇所を授業で教えていたことがある。
 「源氏物語」論が絡んでくるのは、だから、予想していたことだが、これがなかなか出てこない。最初の章を読むと、古めかしい明治小説ばりの文体で、こんな感じで、全編通すのだろうか、読者は読むだけで大変だという思いがよぎる。次の章で、通常の文体に変わり、これは主人公の女子高校生が書いた泉鏡花もどきの小説であることが明かされるのだが、いくらその後、国文学研究者になった主人公とはいえ、泉鏡花を愛読し、鏡花ばりの小説が書ける高校生など、ちょっとあり得ない。最初からリアリズムなどを無視している訳で、いかにも丸谷の小説らしい。
 出てくる人物の深い心理の彫り込みなどという煩わしいこともあまりしていない。そのため、人物は類型的で、作者がコマを動かしている印象が強い。これも従来通り。そんなところに力点を置いていないのである。
 この小説、『女ざかり』(文芸春秋社)と同じく、ある種の「業界小説」である。前作が女性新聞論説委員だったのに対して、こちらは女性国文学者。国文学学会の内情がうまくパロディ化されている。国文学の学会という禁断の(?)場所を覗き見するというのがまず第一の楽しさである。こうした目のつげどころは彼の得意技だ。
 ただ、学会でのやりとりをそのまま書くと、専門的すぎて、読者に分かりづらいという配慮からか、専門家集団の学会で、こんな自明のことを自明のことだと断ったうえで、わざわざ話さないだろうに……という箇所が散見された。このあたり、作者の苦しい配慮である。
 この小説は、一言で言えば「情報小説」である。もっと言うなら「蘊蓄小説」である。つまりは「トリビア小説」。
 「芭蕉の奥の細道は、源義経鎮魂の旅だったのではないか。」「源氏には今はない「輝く日の宮」という帖があった可能性がある。」
 「ヘー」という感じである。
 あの人気テレビ番組、情報を知っている人には、何が面白いのか分からない。「そんなことが珍しいの? 常識。」で終わってしまう。が、知らない人には確かに面白い。つまり、知らない業界の小ネタ集なのである。この小説、それと似た情報が詰まっている。
 後半、ようやく出てきた源氏成立論は、成立の学説紹介として分かりやすい。その上で、主人公の口を借りた丸谷自身の意見の開陳がある。国文学の学識と興味がある人には面白かろう。だが、一般にはちょっと重い話題である。
 どうして、この源氏成立論を小説仕立てにしたのだろう。
 初期の傑作『たった一人の反乱』(講談社)は、最後の演説に主題がしっかり乗せてあった。それと同じように、彼の眼目がこの最後に語られる源氏論であるのは明白である。だとしたら、『忠臣蔵とは何か』(講談社)のような形の評論でも充分面白かったのではないかと思ったのである。
 しかし、うがった考えもよぎる。彼も老齢である。評論としてカチッとまとめるには大変な労力がいる。対して、小説にして、主人公の口を借りれば、口語で語ることになり、自分の学説の発酵過程をそのまま語ることができる。多少、舌足らずな言い方があっても、登場人物がしゃべっているのだから許される。つまりは、せっかく考えた学説を、そのままにして死ねないという発想が、この小説につながっていったのではないか。
 そして、そうした批判を逃れるために、女主人公が、自己の学説を小説という形で発表しようとするという展開にすることによって、この小説の執筆意図自体に重ね、必然性を持たせようと目論んだのではないか。なかなか巧い「逃げ」であると感じたのだが、どうだろうか。(つづく)


 

 2005年05月27日
  北欧の歌姫モニカの死

 少し前の全国紙を開いていたら、小さくモニカ・セッテルンドの死亡記事が載っていた。

 

「ジャズ歌手セッテルンドさん火事で死亡」
 スウェーデンのジャズ歌手、モニカ・セッテルンドさんが12日夜、ストックホルム中心部の自宅マンションで起きた火災で死去した。67歳。地元メディアによると、ベッドでの喫煙が原因とみられる。
 1937年、同国ハーグフォルス生まれ。地元バンドで歌った後、ストックホルムの有名ジャズクラブに出演、60年の米国公演で国際的な名声を得た。最も有名な録音は64年にビル・エバンス・トリオと共演した「ワルツ・フォー・デビー」。
 女優としても活動、同国の映画やテレビに出演した。ここ数年は脊柱(せきちゅう)側彎(そくわん)症で、不自由な生活を送っていた。(共同通信)

 

 眼鏡をかけた老婦人の顔写真も小さく載っている。地方紙では見かけなかった情報である。
 彼女は、ジャズファンには、上述のビル・エバンス(p)との共演盤でなじみの深い北欧の歌姫だった。そもそも情報が多く入ってくる地域でもなく、また、「ジャズ歌手」と紹介されてはいるが、そんなにジャジーなスタイルでもない。有名なのはこの一枚だけである。
 ジャケットには、髪の短い、上品で知的な装いの美女が写っている。我々は、この姿で彼女のイメージが止まっているのだが、このCDを聞く度に、ご存命なのだろうか、もうそれなりのお歳のはずだと思っていた。まだ六十歳代だったことに逆に驚いたくらいである。死亡年齢から逆算すると、この録音時、26歳の若さということになる。競演のビルエバンスは、既に、1980年、もう25年も前に亡くなっている。彼女の場合、死因が「火災で」というのが痛ましい。
  この名盤、ビルのレコードとして買う人がほとんどである。私もそう。だから、始めて聞いた時の感想は、「悪くはないけど。」という程度。ジャズファンはどうしても器楽中心に聞いてしまう。つまり、歌を無視しがちなのである。だが、ビルはあくまでも伴奏者であって、間奏でソロをとることもあるが、長いものではない。
 ところが、十年ほど前から、人間の「ボイス」についてのアレルギーがとれてきて、女性ボーカリストのアルバムをよく聞くようになった。その流れで、このCDも聞き直して、その素晴らしさにようやく気がづいた。彼女自身の歌い方は実にあっさりとしている。黒人のパワーをかけた歌とは対極にある、その清楚な美しさ。
  特に、エバンス作曲のタイトル曲、スウェーデン語で歌う現地のトラディショナル小品数曲が美しい。
 英語が母国語でない国のボーカリストは圧倒的に不利である。英語で歌えば、その国特有の訛りがでるし、もし、米国のスタンダードを母国語で歌えば、格下の印象を受けざるを得ない。日本語で「テネシーワルツ」を歌っても、古い歌謡曲というような感覚しかしないのと同様である。
 その点、バッキングは名匠エバンスである。彼女が母国語で母国のトラディショナルを歌っても、我々は、これはジャズであるという安心感のもとで聞いていく。そして、北欧の曲自体がもつ美しさに感動するのである。多くのジャズファンが、皆、こうした道を辿って、これを名盤と認定する。実際、私自身、これと同じ話を何度も見聞きしている。
 母国語で歌っているのはほんの数曲だけである。しかし、彼女はその数曲で、ジャズファンの記憶に残る歌姫になった。 

 2005年05月25日
  立てば芍薬、座れば牡丹
 私のいる職員4人の図書室に、いつも季節の花を持ってきてくださる方がいる。女性2人を含め、皆、そう植物には詳しくないので、いい勉強になる。「教科書に載っていた」と調べたり、ネットで検索したり。職場の和み話題である。一年間、そうした話題を続けていくと、無粋も随分改善されるかもしれない。
 今は、紫と白の芍薬、白地に黄色が混じるイチハツ(一八)が、司書カウンターに生けてある。
 イチハツは、よく見かける花だが、そういう名前だとは知らなかった。名前自体が初耳である。「鳶尾草」という別名があるそうで、確かに、花弁が鳥の尾のように垂れている。
 芍薬は、牡丹に似た花で、ああ、「立てば〜」の、あの花ねという感想。白色には、清楚な中に豪華さが、赤紫には、きりっとした年増の色気がある。
 立っているのと座っているのは、よく似た花だから、そこに共通性が感じられるが、なぜ、動作を伴うと、途端に、ああも形状の違った筒状の花になってしまうのだろう。
 あの成句、女性の、動かない時の見た目と、動く実際はまったく違うから注意しなさいという、男性からの「教訓」なのかもしれない。
 
 2005年05月24日
  (つづき)

 「物欲」の楽しさは、注文するまでが一番である。次に、商品が届くまで。次に、商品が期待通りだったかが分かる最初の数日。後は、どんなものにも完璧はないから、徐々に「おやおや、これはこれは。」という感じが出てくる。その歩留まりがあまりないものが、「お気に入り」となる。あっという間に古びるデジカメは、下げ止まらず、さっさと新たな物欲が湧き出す可能性のきわめて高いジャンルである。
 そのため、マニアによっては、「デジカメ買い足して、これで8台目」などということが平気で起きる。常に新製品を物色していると、1年に一台くらいは「これはいいかも。」と思える機種が発売される。その心に忠実に買っていたら、自然、そのくらいの台数になる。それでも、我慢に我慢を重ねての数字ではないかと、深く御同輩の心中、御察し申し上げている。

 この「お気に入り」や「愛着」という感情、他人の評判でもかなり左右されるように思う。自分では、「悪くはないカメラだ。」程度にしか思っていなくても、「名機」の評判が定着すると、そうなのかと自己の評価を上方修正し、いい買い物だったと自己満足する。欠点があっても、その部分さえ愛着になる。
 リコーの銀塩カメラ「GR1」がそうした経過を辿った。私が買った時は、評判のいいカメラ程度だったので、スキーのお供にポケットに入れ、多少濡れても、転んで衝撃を与えても、平気で乱雑に使いまくっていたのだが、途中から、カメラ雑誌などで「名機」扱いされだして驚いた。確かに、ちょっと値段の高いカメラではあったけれど、こういう気軽な軽量スナップカメラが名機とは……。それで、これまでのように乱暴に使いづらくなって、私の心の中で「大切に使おうカメラ」に昇格したのである。そんな評判さえなければ、今頃、もっといい加減に扱って、薄汚れていただろう。
 使い込んだ結果の、文字通りの「愛着」とは少々別の、こうした外圧(?)による自己満足的愛着の形成過程というものも、「お気に入り」という心理には大きくあずかっているように思う。
 注文してしまった後なのに、今、必死でインプレッション記事を探しまくっている。自分の買い物の正当性を納得したいことが見え見えである。
 さて、この機種はどうだろう。

 

 2005年05月23日
  物欲の日々  デジタルカメラを買う

 デジカメを注文した。リコーの「caplioGX8」という機種である。
 我が家には、既に3年半前に購入したデジカメがある。だが、これは愚妻用。もちろん、使う時は所有者の許可がいる。ちゃんと「何時から何時まで借りる。」と言わないといけない。重なった場合は、もちろん所有者優先である。
 画質は未だに優秀だが(1月5日付日記参照)、動作が鈍く、気軽に撮るという訳にはいかない。かなり前から、自分用のを買うと宣言し、新製品のリサーチは怠らなかったが、これだという機種には巡り会わなかった。デジカメは発展途上の機械で、そういって悠長に待っていては、いつまでたっても買えないことも、重々分かっていたのだけれど。
 結局、どのあたりで納得するか、その落としどころの心理的な「理由付け」の問題になってくる。
 徒歩通勤がこれで二か月。朝の光を浴びた町並み、植え込みや庭の花々を眺めることも多くなり、久しぶりに「写欲」(辞書には載っていない言葉。でも、カメラ愛好家の間では常識語)が高まった。折角の徒歩である。納得のカメラなんてまだないけど、今、この時点で、「お散歩カメラ」に使えるものを買おう。早くしないと花の季節が終わってしまう……。
 機械としての完璧さばかりを求めている時は、見えてなかったが、こうして、何を撮るのか目的がはっきりしてくると、その部分だけで納得する性能のものを選べばいいと割り切りができて、さっさと機種を絞り込むことができた。そして、徐々に買いたいという「物欲」も高まったのである。
 「広角が充実しているほうがいい。」「マクロ撮影がしたい。」「オートだけは物足らない、弄くれるほうが趣味のものとして楽しい。」
 こうして選んだのが、この機種だった。前機種のブラッシュアップ版で、欠点を改良してあるというのが謳い文句。画素数も大幅アップしている。
 その分、前機種が値崩れし、割安感がでて、そちらにしようかさんざん悩んだ。だが、カメラは趣味のものである。新しいのを購入しておけばよかったと後悔するの嫌さに、かなり割高ではあるが、こちらのほうに定め、発売の次の日に注文した。
 この「次の日」というのがミソ。当日買った人のファーストインプレッションがネットにいくつか載っていて、それを読んで、評価がよいことを確かめてから買ったのである。

 実は、「買いたいものがあれば買えばいい。」という朝食の時の愚妻の言葉が、私の背中を押した。愚妻曰く、
 「貧乏して、お金に困っている訳でなし。」
 「何十万円という大金はたくものでもなし。」
 以前なら、買いたいものがあると、半年以上前から、山の神に、その旨、恐る恐る具申申し上げ、時々、「欲しいなあ。こんな時に○○があったらなあ。」と、陰に陽にアピールして、ようやく裁可が下りるという手順(?)を踏んでいた。
 それが、最近、ハードルが低くなってきたのである。
 お互い五十歳台に近づき、人生の折り返しもとっくに済ました年齢となった。「短い人生、我慢して生きていてもつまらない。」という発想に変わってきたのである。愚妻は、健康を害した私を傍目から見てきているので、なおさらそう思うなのかもしれないし、私も、確かにそういう気持ちになってきているのを感じる。
 ギャンブルする訳でもなく、繁華街の裏通りで散財する訳でもない。煙草も吸わない。結構、世の旦那衆には、こうしたことにお金を使っている人が多いのものである。その分、数ヶ月で値崩れを起こし、数年後には二束三文になる欠陥機械に投資したとしても罰はあたるまい。
 だから、愚妻が背中を押した夕方には、もう買う決心をしていた。「これ幸いに」というやつである。
 注文はネット通販。
 購入といっても、以前買ったことのある店なので、既に住所などは登録されていて、画面の「購入する」ボタンをクリックするだけ。すぐに確認メールが来て、隣のコンビニの端末で手続きをし、カウンターで現金を払う。それですべてが終わりである。クレジットだとコンビニに行く手間さえいらないが、カード番号の流出が心配で、時々こうした「コンビニ決済」を利用している。この制度、一昨年ごろから利用し始めたのだが、買い物の仕方が本当に以前とは違ってきた。(つづく)

 

 2005年05月22日
  非礼を詫びる
 金曜日は2限から6限まで埋まっていた上に、放課後、補習2コマ分近く入って、8時間ぶっ通しで出ずっぱりであった。最近、教員は皆尻に火がついたようになっている。
 最後の方はさすがに疲れはてクラクラする。声を高めて力説してる時は、まだいい。生徒に作業させている時などに、ふと、昨日の友人の「くも膜下出血」のことを思い出して、意識が授業から離れ、気分がくぐもる。
 こんな無理はしたくない。
 そんな気持ちが根底にあったのだろう。
 特に、放課後の仕事は、上から強制されたものではなく、該当セクションの「しゃかりきさ」で増えた、私の立場から言えば「頼まれ仕事」である。居残りや再テストという罰を与えて勉強させる、時には必要だが、それが毎週いくつかの教科で常態化している。それが正しい教育とは思えない。そんな気持ちもあったので、来週分の仕事を頼みにきた、穏健なお考えの女性同僚に声を荒げてしまった。はっきり言って八つ当たりである。
 「しゃかりき」の人々は、橋が狭まっていることに、まだ、気がついていない人なのだろう。そのペースで人にも要求する。人は困っている。おそらく、それも知っている。でも、かまうことではない。自分は頑張っているのだから……。他の人にそのくらいのことをしてもらってもおかしくない。そんな心理なのだろう。
 その日、私は、感情を揺らしたことに後味の悪い思いで帰宅した。
 その夜は、職場で出来なかった明日の予習。翌日午前は、土曜補習で3コマ連続。
 いったい、どこまで働かす。教員が疲れるということは子供も疲れるということ。「疲れた子供」を輩出して、どうするのだろう。
 昼、帰る時、彼女を見つけた。すぐに駆け寄って(勿論、私は駆けられない。そういうくらいの気持ちで)、昨日の非礼を詫びる。自分の気持ちのためにも、しっかりと……。
 友人の病気のことで、気持ちがざわざわと揺れていることを知った一日。
 2005年05月20日
  大学の同級生が倒れる

  昨夜、仕事から帰宅すると一通の葉書が来ていた。大学の同級生の父親からである。いぶかしく読むと、同級生がくも膜下出血で4月中旬に倒れ、現在も集中治療室で意識不明になっているという。そういえば、二週間ほど前、メールを送ったが返事が来ていない。仕事が忙しいのだろうくらいに思って、気にもとめていなかった……。
 共通の友人たちは知っているのだろうか。慌てて数人に連絡をとる。しかし、初耳の人ばかりであった。東京在住の一人が代表して父親に電話を入れることにする。
 葉書と折り返しの連絡によると、この日は、ある作家についての研究発表をすることになっていて、その研究会会場で倒れたのだという。四月はじめ、彼女はその作家を卒論に書いたK君のところへ問い合わせの電話をし、彼は幾ばくかの助言をしたという。だから、彼は結果報告がそろそろあってもいい頃だと思っていたようだ。
 年度当初は、一年で一番忙しい時である。その時期に、仕事と勉強を同時並行でこなしていた様子がどことなく見えてきた。
 倒れた日曜日は、年度が始まって二週間、疲れがピークに達する頃である。だから、ゆっくり静養していたほうがよかっただろうに……。

 勉強も大事だが、余力あってのこと。無理をしてはいけない。気がつかなくても、体のあちこちが徐々に老化している。渡っている橋の幅はどんどん狭くなっている。ちょっとでもラインからぶれると、川に落ちる。
 面会謝絶。遠き金沢の空の下、どうすることもできない。
 私は、彼女に「頑張れメール」を打った。元気になって家に戻り、パソコンに溜まったメールを読む時のために。

 

 2005年05月19日
  カルシウムは、よい子だらけ

  「しっかりカルシウムを摂取すること。但し、カルシウムは吸収しにくい栄養素なので、大量にとっても効果はない。牛乳一杯程度の量を毎日確実にとるように。」
 これが、医者から言われた食事の注意である。
 苦労して、朝、カルシウム吸収促進剤ボナロンを飲んでいるくらいだから、やはり、少なかったら意味がないように思われて、「カルシウムおたく」になりつつある。「カルシウム配合」と大書してある食品ならどんどん買う。
 スーパーで漁っていて気がついたことがある。小魚や小エビなど、食材自体にカルシウムが豊富なものはともかく、加工食品で添加したものは、子供をターゲットにしたものばかり。

 

 「おいしく食べようカルシウムーこどもベビーチーズ」(COOP)
 「マンナウエハースーカルシウムがおいしくとれるよ(6ヶ月ごろから食べられます)」(森永製菓)
 「強い子のミロ」(ネッスル)などなど。

 

 お菓子に至っては、完全に幼児・児童向けのみ。発育に必要なものをお菓子から、という発想で、これはこれでよくわかる。
 でも、例えば、閉経後、女性は骨密度が急激に減少する。骨粗鬆症で悩んでいる人も多い。老人にこそ必要な栄養素である。
 急に、周りにお子様食品が増えて、「なんだかなあ。」である。
  「老人ベビーチーズ」「婆ばウエハース」「強い年寄りのミロ」はないのか?

 

 2005年05月18日
  ベンチの濃密さ

  通勤途中に小公園がある。いつ見ても人気がなく静か。ちょっと割を食っていると思うのは、すぐ近くに小学校があること。学齢児は校庭のほうで遊ぶ。
  それにしても、いつも幼児の声が喧しい我が家の前の公園と雰囲気がだいぶ違う。滑り台などの遊具もそれぞれにあり、住宅地の小公園として、そんなに差がないように思えるのだが、なぜ、こうも人の匂いの密度が違うのだろう。
 この季節、朝、この公園の横を通ると、木漏れ日が斜めから差し、芝生や遊具、ベンチをまだら模様に染めている。新緑の、グラデーションがかかった逆光が上から注ぎ、きらきら目に入り、美しい。
 誰もいないのだけれど、二台ならんでいるベンチにだけは、なぜか、人間の意識を集める不思議な力を感じる。滑り台でも木々でもない。そこに人はいないのに、いるかのような見えない磁場を感じるのだ。
 写真家は公園のベンチを撮る。そんな写真をよく見かける。この時、その意味がなんとなくわかったような気がした。写真家は、表現しようとして撮るのではなく、何かを感じて、惹かれようにシャッターを切るのだ。
 おそらく、理屈としてはこうだ。ベンチにはドラマがある。家族の愛、恋愛、別れ、そんな情愛のドラマがそこで繰り広げられる。人がいない分、そんな様々な情の世界が複層的に連想され、見るもののイメージとして広がるからなのだと。
 でも、そんな理屈より、人の気持ちの残り香のようなものが、アロマかなにかのように周辺に漂っている、そこだけ密度が違っているような感じ、その空気の濃密さ。それを、今日、ベンチを目にした瞬間、強く感じた、この一瞬の発見の心を、私は大事にしたいと思う。
 椅子は、コンクリートでなく、鉄の枠と横木。背もたれが少し後ろに開いたクラシックな形である。

 2005年05月17日
  ジムのロッカーキー


 ジムには、もちろん、運動のために行くのだが、正直な話、風呂屋さんがわりにもなっている。ご近所の銭湯より近いのだから、本当に最寄りの「お風呂屋さん」である。実際、会員になって、家の風呂が使われることが稀になった。
 受付で、バーコード付きの会員証を読み取り機にかざし、ロッカーキーのついた青い腕ベルトを受け取る。受付嬢とも馴染みになって、時に簡単な会話を交わすこともある。
 昨夜は、愚妻が先に行き、私は十分ほど遅れて到着した。

 

受付嬢「今日は奥様とは、時間差ですね。」と、私にキーベルトを差し出す。
私「ありがとう。一度入ってみたかったです。」

受付嬢「?」

 

 彼女は、赤色のキーベルトを私にくれたのである。
 彼女、「奥様が先に入られたことを話題にしようと思いながら、手に取ったので、間違えました。」と言い訳していた。
  しかし、そのまま受け取って女子更衣室に入ったとしても、どうだろう。歩くのも多少ご不自由なご高齢のご婦人を上限に、下限は下腹のでたオバチャンたち……。
 うれしそうに言ったのは「男子の礼儀」というべきものである。

 

 2005年05月16日
  中沢けい「親、まあ」(河出書房新社)を読む

 職場の都合で土曜出勤。そのかわり13日の金曜日が休みとなった。西洋的には縁起の悪い日である。斎戒沐浴して自重すべきかとチラリと思ったが、ここは日本、「物忌みの日です」と言われた方が、外出は控えようと思う度合い大かもしれない。
 久しぶりの平日の休日、天気もよい。有効に使わねばと、午前中、K市民病院で内科の受診。行ったはいいが、混んでいて半日つぶれてしまう。
 そこで、待合い廊下の書架に置いてあった本の中から、中沢けい「親、まあ」(河出書房新社1994.1)を選び、消閑の友とする。行き当たりばったりの読書も楽しいものである。

 タイトル通り、子育てに関するエッセイを集めたもの。十年前の著作なので、今は子どもも大きくなって、手が離れているだろう。子育て中の親としての実感を、うまく掬い取ってある。女親しかわからない、子との微細な心理と距離感。また、それを、今度は、自分と亡くなった両親とに当てはめる。そうした上の世代を見つめる目と下の世代を見つめる目が錯綜しているところに、作者の位置がある。子を育てることは、そうした受け渡しの中の自分を見つめるということなのだろう。
 ただ、読み進めると、マンションに「私一人に子二人」とあるので、旦那はいないことがわかる。家族を論じていて、縦の関係は細やかに語られるのだが、そうした横の関係の視点が切り捨てられているのが気になった。いないのだからしかたがないが、そうした機微を語ることをしていないところに弱さがあるように思った。
 この本、全部を読んだ訳でない。エッセイにしては読みにくいと思ったからである。だから、読みやすそうなものだけ拾って読んだ。
 実感を語る部分、心の動きを細やかに描写してあるのだが、それが、うねうねと段落なしでつながっている。数珠つなぎに湧き出る思いを文体として定着させたような文章で、理屈の部分もそういう傾向だった。それが彼女の文体なのである。
 読みながら、彼女のデビュー作「海を感ずる時」(講談社1978)を思い出す。高校生の時書いたこの作品で彼女は「群像」新人賞を受賞し、ベストセラーになった。同い歳でもあり、すぐに買ってきて読んだ覚えがある。その時も、こうした心理分析的な、緻密な文体が印象的だった。ただ、内容は男性にとってはあまり面白くなかった。文系の女性向けといった印象である。「野葡萄を摘む」(講談社1981)「女ともだち」(河出書房新社1981)までは読んで、どうも私の趣味ではないと、以後、読まなくなった。今回、彼女の文章を読むのは、だから、二十数年ぶりであったが、文体的にも内容的にも同じ印象であった。
 小説はそれでよい、それが芸術としての命なのだから。でも、エッセイの方は、もう少し、読みやすいほうがいい。時に1頁段落なしのところもあったけれど、せめて、もう少し段落をとるだけでも読みやすくなるのに……という箇所が時々あった。

 

 1978年、「海を感ずる時」出版の時、彼女は明治大学の学生さんで、口写真に全身ポートレートが載っていた。ちょっと早見優似の知的なお嬢さんである。この作品で印税がかなり入ったので、お金に不自由しない学生生活を送っているというエッセイを、そのころ新聞か何かで読んだことがある。ご多聞に漏れず、金欠病の学生生活を送っていたので、ノンシャランと語っているのが、ちょっとうらやましかった。
 時は流れ、昨年。中高年向けパソコン雑誌を買ったら、彼女へのインタビュー記事と写真が載っていて、久しぶりに彼女の名前を見た。公式WEBサイト「豆畑の友」もお持ちで、ワープロソフトの改善に意見を言ったりと、かなりパソコンにお詳しいようであった。
 ただ、ただである。
 そこに写っていたのは、とっ散らかった生活感溢れる部屋をバックに話しているどっかのおばちゃん然としたオバチャンだったのである。「おや、まあ。」
 あれから二十七年の歳月。


 

 2005年05月15日
  死語「御不浄に行く」 介護と言葉

 入院していたせいで、看護・介護の話題に、前より神経がいく。
 8日、TBSの長寿番組「噂の東京マガジン」の「トライ娘の社会見学」のコーナーで、厚化粧・マニュキアばっちりの現代娘二人が、介護の体験をする話をやっていた。彼女たちは、3泊4日、老人介護施設の実習生として介護の現場を実体験したのだった。
 彼女たちは、不潔になりがちで独特の匂いがする老人たちを介護したあと、その匂いで胸がつまり、昼食が食べられないと訴えていた。「どうしているんですか。」と職員に尋ねると、「気持ちはわかるけど、忙しくてそんなこと気にしている暇はありません。」と答えていた。日々の現場はそういうものである。
 それにしても、思った以上に彼女たちはよくやった。
 男性の下の世話など、若い女性なら躊躇して当然だ。どこまで、どう拭けばいいのかわからないと困っていたが、確かに女性と違って、かなりデコボコしている。
 最後に、彼女たちには職員から「あなた達には介護のこころがあります。」と褒められていたけど、私も観ていて、そう思った。どんなに見かけが派手なイケイケ娘でも、その仕事の「こころ」があれば、ちゃんと一人前になる。それは、昨日も書いたこと。
 ただ、お年寄りと文化が違うので、頓珍漢もあった。「御不浄に行きたい」と言われても、彼女たちには分からない。どんなに一生懸命触れ合おうとしても、そんな言葉のすれ違いの方が、大きな問題のように感じた。
 今の老若の場合、間に戦前・戦後の断層が横たわっている。今の高齢者は、旧仮名遣い文化の最後の世代。それに、現代の土砂崩れ的言語崩壊が拍車をかける。

 

 ところで、「御不浄」という言葉。何と優雅な言い方だろう。このおばあちゃん、もともとお上品な人か、テレビがまわっているから奮発した言い方をしたのか、どちらかである。
 「不浄」とは、けがれていること。「浄」は、だから、きよらかでけがれのないこと。「浄」「不浄」の字を見ていて、そういえば、そんな「けがれ」という観念をもとにしたものの見方が、最近、世の中全体でなくなっていることに気がついた。けがれのない生き方、身の処し方をする。極めて純度の高い生き方である。
 もちろん、その反対は、「法律に触れなきゃいいんだろ」路線の生き方。

 

 「不浄観」という修行もある。死体が腐敗していく様を見たり心に観ずることで、無常を知り、俗世の執着から解脱しようという「行」である。
 最初にこれを知ったのは、高校時代に読んだ谷崎潤一郎「少将滋幹の母」。その時は、物語の中の特殊な話かと思っていた。後で大学の授業で習って、ああ、あれのことだ、当時は一般的なことだったんだと知った。
 考えてみれば、実に現実的で生々しい荒技の修行だが、確かに、腐って蛆がわいてくる様子を眺め続ければ、有無を言わせず、俗世の欲望など死すれば無、阿呆くさいことであると「観ずる」だろう。そんな気持ちを人間全員持ったら、喧嘩、いがみ合い、派閥なんて、なくなること必定。つまり、不浄を観ずることで、浄に至るということになる。

 

 翌朝のNHKテレビで、今度は、フィリピン人女性に介護の資格を取らせて施設に送る人材派遣会社の取り組みを紹介していた。彼女たちは、本当に真面目に研修に取り組んでいた。多くは旦那が日本人の、身元もしっかりした方たちばかりである。
 ところが、いざ蓋を開けてみると、施設側が採用をしてくれない。そこで、会社は、実習生として施設に送り込み、まず、人物を見てもらおうという作戦にでた。
 言っては悪いが、下手な日本の現代娘などより、よほど戦力になるはずだ、と思いながらニュースを見ていたのだが、途中から、やはり少し問題もあるかもしれないと思い始めた。どんなに熱心でも、片言の外人さんには、年寄りの古風な言い回しは理解しにくいのである。一生懸命、耳を傾けても意味がとれない。日本の娘でさえトイレひとつ分からないのだから、当然である。
 ここでも、最大の問題は言葉のようである。 

 2005年05月14日
  看護師Tさんのこと(入院話題7)

 そういえば、私の入っていた病院は、なぜか若い看護師さんが多かった。中年の方のほうが稀。みんな若い女の子ばかりなので、その中で、誰がベテランなのか、最初は分からなかった。でも、AさんがBさんを「先パ〜イ。」と呼んでいて、ああ、Bさんのほうが年上(化けていても実はオバサン)だなと、ちょっとずつ、私の頭の中で、病棟内人物関係図が出来上がっていった。
  その中で、一番若い子は、今年度、看護師さんになったばかりのTさん。入院当日にお世話をしてもらったので、一番最初に名前を覚えた。初対面で、ニコニコと妙に明るい。でも、ちょっと明るすぎるかも……。(^^;)
 なぜって、会ったばかりの私に、最近、彼氏と別れたなんて話をするんだから……。これ、リハビリの日程説明の時、3月14日はホワイトデイだという話になり、でも、私はクッキーがもらえないという話になって、飛び出した発言なのである。人を無垢に信ずる、すれていない良い子だなとはすぐに思ったけれど、何分、こちらは、これから入院・手術で、気分的にあまり明るくない。人の失恋に興味を示すほどの余裕はないのである。
 「これから、あなたが私の担当なのですか。」と尋ねたところ、「ちょくちょく病室に顔は出しますが、担当看護師ではありません。」という。どういうことかなと思っていたが、後でだんだん分かってきた。彼女は新米で、まだ、直接の医療行為はあまりさせてもらえず、食事の世話、お風呂の介護などが仕事の中心なのであった。「早く後輩がこないかなあ。」と言っていたので、あと1ヶ月で先輩になり、正規のローテーションに入るのだろう。
 最初の患者調書で、私の年齢を聞いて、「ああ、父と同い年で〜す。」と言われ、かなり凹んだ。今、生徒さんの親御さんが、ほぼ、私と同世代である。もう社会人になっている人から言われたのは、これが始めてで、ちょっとショックだった。(計算したら、お父さん二十三歳の時の子である。)
 それにしても、彼女のノリは、私のメシの種である生徒さんの、その中でも、特に明るめタイプの子と変わらない。廊下の向こうの方で私を見かけると、大袈裟に手を振ってくれる。入院患者さんに手を振る看護師さんというのもちょっと珍しい。
 ただ、そんな子なので、細かいこと聞いてもよく分からないし、ミスがやたらに多い。放送で、朝、「昼食の用意ができました。」といったり、ベッドまでやってきても、一度で用が済んだことがない。大抵、忘れ物をナースセンターまで取りに帰る。
 「私の患者さんは、患者さんのほうがしっかりしてきますから……。ハハハハハ。」
 うーん、ちょっと問題である。安心して彼女のいうこと聞けないではないか。この子、看護師さんとして、ちゃんとやっていけるだろうか、ちょっと心配になった。
 例えば、彼女が大声で、例の忠臣蔵のKさんと話している。大部屋なので、みんな聞いている。
「わたし患者さんって好きよ。子供の頃から、私、高齢者の方が好きだったから。」
 そこにいたのは、七十二歳のKさん、同い年の方もう一人、六十代はじめの方、四十代後半の私。四人とも、自分を「高齢者」だなんて思っておらず、バリバリの現役だと思っているので、自分たちが要介護のお年寄りみないな言い方をされて、一瞬、微妙な雰囲気になった。彼女は、もちろん、親愛の情を示したつもりで言った訳で、そんなことは皆よく分かっているので、誰も咎めたりはしない。でも、ちょっと、みんな凹んだことには気がつかないのだった。若い彼女の目からみたら、みんな「じいちゃん」。十把一絡げで「高齢者」の範疇に入ってしまうのだろう……。
 ある時、彼女が私に注射を打つことになり、しゃがんで私の左手をもぞもぞやっている。その時、小声で「マジ、ヤバ。」というのだ。日本語に翻訳すれば(?)、「これは、冗談ではなく危険な事態である。」ということになる。
 どきっとした。
 なにが起こったのだ。なにを失敗したのだ。と焦ったが、何のことはない、静脈に針がうまく入らなくて、悪戦苦闘しているだけなのであった。
 お〜い。Tさん。医療行為中に、患者さんが不安になるような言葉を発してはいけないよ。
 でも、そんな彼女の発言の中で、
「看護婦さんって、いい仕事ですよね。ひとのためになる仕事ですから。」という一言だけは、今も、輝いて私の記憶にある。
 この子は自分の仕事に誇りをもっている。そして、年寄りは、話しているうちに、お孫さんか親しい親戚の娘さんがお見舞いに来てくれたかのような嬉しい気分になってくる。
 彼女には、ちゃんと「看護のこころ」があるようだ。
 人よりちょっと一人前になるのが遅くなるかもしれないけど、でも、大丈夫。彼女はきっといい看護師さんになる。
 
 さて、実は、てっきり異動になると思っていたし、退院が25日にずれ込むなんて思ってもいなかったので、24日の離任式の壇上で何を話すか、入院中ずっと考えていた。彼女の様子を見ていて、この子の話をしようと思い、話の流れまでベッドの上で考えていたのだった。この話は、いわば、ボツになった幻の生徒向け「離任挨拶」要旨である。

 

 2005年05月13日
  文庫版「大和古寺風物誌」に載っていない

 職場の図書室で、亀井勝一郎「大和古寺風物誌」の文庫版(新潮文庫)を見つけた。
 以前、五木寛之の「百寺巡礼」を評した時(1月12日)に触れたので、亀井の本文を確かめようと開いたのだが、なんと「唐招提寺」の項に、五木が下敷きにした文章が載っていない。私は、受験問題集の問題文に出ていたのを、毎年授業で使っていたので、この一まとまりの文章を隅から隅まで熟知していて、その上、本文の最後には、しっかり(「大和古寺風物誌」より)と書いてあったので、疑いもしなかったのである。孫引き引用のボロがでた格好だ。
 慌てて問題集の「解説と解答」の「出典」の項を読むと、副題に<古典への旅>とある。しかし、文庫にそんな小見出しはない。
 文庫本の「あとがき」に、昭和十七年の初版以来、折々増訂していると書いてあるので、どこかの時期に、取捨選択されたのかもしれないが、そのあたりの事情はよく分からない。
 はっきりさせようとすれば、「亀井勝一郎全集」で該当文章を探し、書誌を確認するしかないが、手近になく、それに、確か、あの全集、全集とは名ばかりの、杜撰な寄せ集め作品集でしかなかったはずである。
 もし、あの文章が、今、唯一、容易に手に入る文庫版から漏れていることを知っていて、その上で、五木が下敷きに使ったとしたなら、かなりの確信犯であると思ったりもしたのだが、これは、あまりに穿った見方かもしれない。
 通俗版古寺巡礼の、ごく一部を論ずるだけでも、いろいろ問題が起こる。やはり、お寺巡りの文章を論ずるときは、和辻の「古寺巡礼」、亀井の「大和古寺風物誌」。再度しっかり読んでからでないと始まらないようだ。

 


 

 2005年05月12日
   遠藤周作の仕事場を訪ねる 「夫婦の一日」(新潮社)再読(あのころ5)

  遠藤周作「最後の純文学短編集」と腰巻きにある。刊行(1997年)後、2年ほどたって購入したが、読みかけのまま書棚に放置していた、今回、入院中の乱読の1冊として、病室に持っていって、最後まで読んだ。
 彼は1996年に逝去したが、作品は1980年頃のものが多い。
 タイトルの短編は、カトリック信者にも関わらず、妻がインチキ占い師の言うことを信じて、夫の不幸を回避しようと鳥取砂丘に行ってくれと言い出し、それに、不承不承、気が済むならと付き合う話である。
 集中の短編は、老いや身内の死がモチーフとなっているが、闘病など、自身の死に至る直接的な話はない。それは、死の十年以上前の作品ということで、当然のことなのだが、死ぬ数年の、病気に苦悩する話を知っているだけに、腰巻きの惹句との間に、ちょっと違和感があった。

  「六十歳の男」は、原宿に仕事場を持つ男が、表参道裏の喫茶店にたむろする竹の子族の娘に声をかけて親しくなる話。夜、彼女を押し倒す夢を見る。それは「情欲ためでなく(中略)生命を陵辱したい衝動」からであり、「生命への執着、生き残る者への嫉妬、醜いあえぎ」からだというのである。ラスト、ベンチで妻と語る平和なシーンを対比して、この短い話は終わる。

 

 この話を読んで、私は東京にいた四半世紀前のことを思い出した。
  当時、遠藤周作は、この物語通り、原宿を仕事場にしていた。自宅から仕事場に向かい、夜、自宅に帰る、勤め人のような生活をしていた。つまり、この男は作者の完全な分身である。
 その仕事場に、学生時代、一度だけ訪れたことがある。先年亡くなられた中村宏先生(筆名上総英郎)に連れられて行ったのである。
 彼は「遠藤周作論」(春秋社)などのカトリック作家論で著名な文芸評論家で、私が通った大学の助教授として、私の在籍中に就任され、近代文学の講座を担当された方。他に原爆体験を綴った「閃光の記憶から」(マルジュ社)などの著作がある(未読)。
 私自身、すでに別の先生の授業で単位をとってしまった講座だったので、授業を聴講するということはなかったが、同級のK君は、よく先生のところに出入りしていて、その縁で、一夜、一緒に飲んだ後、いいところに連れて行ってやろうと、酔っぱらいの私たちを連れていってくれたのである。

 電車を降り、ちょっとした距離を歩いて着いた遠藤周作の仕事場は、静かな通りにひっそりと建つ目立たないマンション一階角の区画にあった。
 中村先生は、合い鍵を持っていて、出入り自由なのだという。当時、遠藤の関心は、ホスピスの定着など社会的活動にも向けられていて、そうした打ち合わせの場所としても利用するため、何人もの関係者がスペアキーを持っているという。グランドピアノが設置してある部屋もあった。時に親しい人を招き、ミニコンサートもひらかれるのだという。つまりは、一種の文化サロンとしての意味もあったのだろう。
 夜なので本人はいない。主が帰宅した後の職場見学といったところである。
 遠藤が実際に仕事をする部屋は、六畳ほどの小部屋で(作品では「四畳半」ほどと書いてある)、真ん中に大きな机があり、目をあげた前の壁(入り口入ってすぐ右の壁)には、今執筆に利用したりしている本の書棚があった。もちろん、全蔵書ではない。出入り自由の人たちは、図書館よろしく借りていってもいいのだという。
 私たち闖入者数人は、それらの本をザッと眺めたが、ユング心理学の本が多かったのが印象的だった。彼の関心が、今、ユングにあることが知られ、今後の作品の転換が予想された。何だか、人の知らないことを事前に知ってしまったようで、少しワクワクしたのを覚えている。ちょうど「スキャンダル」(新潮社)執筆の頃の話である。

 あの仕事場は、今、どうなっているのだろう。
 先年、中村先生が逝去された折り、K君が連絡を入れてくれた。私は、深いお付き合いもなかったので、特に何もしなかった。ただ、先生といえば、この夜のことを、先生のちょっと酔って赤くなった穏和なお顔とともにはっきり思い出す。
 四半世紀後、思いもよらぬ病院のベッドの上で、あの原宿に再会する。ちょうどあの頃、あそこで書いた短編である。なんだか不思議な気持ちだった。

 

 2005年05月11日
   サナギから蝶へ(あのころ4)

 4月から徒歩通勤をし始めて、最寄りのバス停に、毎日、同じ年頃の若い女の子が30人以上並んでいるのに気がついた。怪しい教祖のいる教団でも近くにあるのかと訝ったが、そうではない。近所の金沢大学女子寮から、学校に向かうために、朝一本しかない大学行きのバスを待っているのだ。
 高校生が私服を着ただけのような、あか抜けない集団。
 1年間、一所懸命勉強し、国立大学に見事合格。親元を離れ、寮暮らしを始めたばかりの子たちなのである。

 さて、今日も彼女らの横を通ったが、何だか4月当初と微妙に印象が違う。通り過ぎて、考えた。何が違うのだろう。
 まず、人数が少し減ったようだ。マイカーかバイク、自転車(ちょっと遠くて無理っぽいけど)に鞍替えした子がいるのだろう。送ってくれる男を見つけた子、さっさと退寮した子もいるかもしれない。
 次に、髪。茶髪・パーマが混じるようになった。アイシャドウ失敗のお狸メイクも一人いた。服装もほんのちょっとあか抜けてきたぞ。
「だって女の子なんだもん。」
 早いなあ。あと1ヶ月もしたら、大人と区別がつかなくなる。

 

 そういえば……と、記憶は、また、あのころに遡る。
 私の通った大学は、市ヶ谷と飯田橋の中間にあって、いつもは飯田橋を使っていたが、時々、気分を変えて、市ヶ谷駅で降りた。市ヶ谷を使う大学は数校あって、我が母校の近くには、有名なOT女子大学がある。そこで、最後に路が分かれるまで、我がN大の学生と、この女子大の学生は同じ路を歩いていくのであった。1学期、明らかに新入生らしい女の子の後ろを歩いていても、その子が、どちらの大学に通うのか分からなかった。友人と、どっちに行くか賭けたこともある。美人さんだと、「一緒の方向に来ないかな。」と思いながら、男連中はストーカーよろしく歩くのだ。で、本校生だと分かっても、だからどうということもない。それで声をかけた男は私の周りには誰もいなかった。勇気のない男たちの陰気な楽しみ(?)である。
 ところが、この賭け、夏休みを過ぎると、一気に面白くなくなる。賭けが成立しない。この子は女子大、この子は我が大学。全部当たる。 
 なぜって、夏が過ぎると、一夏の経験をした(?)女子大の女の子は、サナギから孵った蝶のように美しくなるからである。当時は、「サーファー」全盛で、風になびいたような長髪と、真っ青なアイシャドー。今から考えると、学校行って勉強するというより、マリンスポーツしにいくといったほうが似合うようなカッコである。(「サーフィンする人」という意味だから当たり前か。)
 それにくらべて、(と、声のトーンはぐっと低くなるが……)、我が校の女子は、1学期のまま。
 賭けにならないのは当然である。
 何でなんだろう。

 (実は、理由は分析済みだが、同窓の女性たちから総スカンを食いそうなので、この辺で。)

 2005年05月10日
   愛情をかける

 今朝の、出勤前の慌ただしい時間の夫婦の会話。

 

夫「このお弁当、ドレッシングかけた?」
妻「かけてな〜い。」
夫「愛情は?」
妻「かけてな〜い。」
夫「……。」

 

やっぱり。でも、ちょっと自爆ぎみ。(なお、多少の脚色があります)。(←愚妻が読んだ時用の言い訳です。)

 

 愚妻は、生野菜になにもかかってなくても、美味しくいただくという。だから全然弁当に調味料をかけようという意識がないのである。私は、揚げ物に関しては、何もかかっていなくても、それ自体にはっきりした風味があるので、どうということはないが、生野菜は、ドレッシングがないと、さすがに食べにくい。葉っぱを食っているという感じになる。
 我が家の弁当の野菜ちぎり係は、彼女のほうなので、かかっているためしがないという結果になるのである。
 私は、なんだか、かかっているかいないかが弁当における愛情表出のバロメーターになるような気がしてこだわっているのかもしれない。

 

 さて、これだけで終わっては、単なる愚痴である。
 雨上がりの家々の新緑を眺めて歩きながら、この「かける」という言葉について考えた。
 この「かける」、微妙に意味が違うようだ。ドレッシングは、上からものを撒き注ぐ意味。これは間違いない。愛情のほうも、上からふりかけるように思うからこのジョークが成立するのだけれど、本当は「情けをかける」「手間暇かける」などと同様の使い方ではないのか。
 そういえば、「かける」には沢山の意味がありそうだなと幾つか考えながら職場へ到着。早速、「広辞苑」(電子辞書版)を引いた。画面をみて驚いた。どれだけスクロールしても終わらない。大意味が9番まで。それぞれに小意味があって、合計46個書いてある。どの意味か探すに苦労する。
 「愛情をかける」は、そのうちのどの意味か。引いてご覧なさい。大変だから。


 

 2005年05月09日
  「はい、おはよう。」

 今朝、マンションのエレベーターに乗る。階下で、黄色い帽子を被った小学校低学年の女の子のが乗り込んでくる。
「おはようございます。」
元気のいい挨拶である。
私も元気に挨拶を返す。
「はい、おはよう。」
 あ、この言い方、校内での生徒向けの言い方だった。しまった。

 職場では、同僚に会ったときには、もちろん、「おはようございます。」 
 生徒が先に挨拶した場合は、今のように、ちょっと声のトーンを落として偉そうに、「はい」を付け足して言う。
 挨拶しない生徒には、こちらから「おはよう。」と声かけすることも。もちろん、「ございます。」はつけない。
 その子は、変な顔をして、私の顔を見た。エレベーターを出て、通りに出ても、時々、私を振り返り振り返りしていた。
 あの子、私が教員だと分かったのだろうか。いや、そこまで気はまわるまい。でも、何だか、じいちゃん先生に怒られたかのように感じたのかもしれない。

 

 2005年05月08日
  吉村昭のエッセイ見つけた。

 ここのところ、吉村昭の随筆を続けて4冊読んだ。
 「私の好きな悪い癖」(講談社文庫)が最初。入院中、コンビニ売店においてあった文庫本の中で、唯一、読んでも良いなと思った本である。あとは、「なんたら殺人事件」の類であった。

 この本は、実は数奇な(?)運命を辿る。
 購入の次の日には全部読んでしまい、その夜、見舞いに来た愚妻に、洗濯物の入った紙バックともに、「ここに入れるよ。」と注意を喚起した上で手渡した。病室に用の済んだものを放置したくなかったのである。
 翌々日、戻ってきた黒のフリースが妙に白っぽい。そこで妻を追求したら、あの日、紙袋の中身を、そのまま洗濯機の中に突っ込んで、洗濯してしまったという。鼻紙をポケットに入れたまま回してしまったということは、過去に何度かはある。それだけでも、水槽の中は浮遊物で泡っぽいことになるのに、今回は、文庫とはいえ、本1冊まるごとである。最初、ガッタンガッタンと音をたてたろうに、気がつかなかったのかと聞いたが、分からなかったという。ブザーが鳴り、水槽の中を覗いたら大変なことになっていたそうだ。あの本、たった一日の命だった。合掌。
 二冊目「縁起のいい客」(文藝春秋)のほうは、試験外泊の際、単行本で購入した。いずれも近年の随筆を集めたもの。
 「白い遠景」(講談社)は、職場の図書館からの借りたもので、四半世紀ほど前の作者壮年のころの作品。近作を読んでから読んだので、時間が逆に流れて、ちょっと違和感があったが、基本的な物の見方は何も変わっていない。
 「街のはなし」(文藝春秋)は、前に話題に出したように、市立図書館から借り出した本。十数年前の女性誌への連載。

 

  吉村昭の著作を読むのは、高校生以来である。高校の図書館に新潮文庫のハードカバーシリーズ(図書館用特装本)があって、文庫でハードカバーというのがちょっと格好良く、何冊も読んだ。中身より外見がよかったのである。
 その中に、「戦艦武蔵」があった。戦争物を読み始めた最初で、その後、数年の間に阿川弘之の提督シリーズなども読んで、ちょっとした太平洋戦争通になったものだ。阿川作品は、指導者の人間的個性を掘り起こしているが、吉村作品は、言うなれば戦艦そのものが主人公といえ、この小説を読んで、「武蔵」と「大和」は姉妹艦で、しかし、民間で作った「武蔵」の方が豪華船になり、その分重かったという事実を知った。戦歴華やかな艦でもない。建造の挿話が中心をなしていた印象がある。暫く後、別の作者の巡洋艦「瑞鶴」の戦記物を読んだが、そちらの方は華やかな実録もので、それはそれで面白かったが、そうした読み物とこの作品を比べて、この作品の特異性がはっきりしたように高校生ながら思った。戦記物は、安易な読み物か、特定思想を元にした、ある種の「視点」からの裁断が含まれる。それに対し、なんとこの作品のストイックなことか。思想的な裁断はしない、フィクションの美名に安住した安易な展開はしない、嘘は書かないという作者の態度は、今でこそ文学の一つのあり方として見識だと理解できるが、太宰、谷崎らストーリーテラーの作品に耽溺していた当時の私にとっては、これは文学ではなくてドキュメンタリーにすぎないと思った覚えがある。それで、この作者の作品を続けて読むことをしなかったのである。

 自分が、ストーリーテラー系、耽美主義作家に惹かれる文学観を持っていることに気づくのは大学生になってからである。小学生の時、子供用ホームズ全集を読破し、中学では、江戸川乱歩を、大人用の耽美的作品も含めて耽読した私は、つまりは、そういう趣味の人だと意識しながら読んでいた訳では、もちろんない。大人になって、文学史的腑分けが出来るようになって、ハッと気がついたのであった。

 

 まったく虚構を入れないということは、原則的にあり得ないことだ。だが、「所詮、小説は虚構に過ぎない。」と喝破して、有効に展開しようと考えるのと、虚構を入れない態度を貫いて書くという立場で、しかし、資料の空白がある場合、事実への最大限のアプローチの上で、実物の人物個性を逸脱しない範囲で、ストイックなイマジネーションを働かすことで埋めていこうというのでは、全然、方向性が違う。できあがったものは事実そのままではないが、事実として受け取っていいと思わせる説得力を持つ。
 森鴎外は、歴史小説で、こうした歴史と虚構の問題を考えた先達であることは有名だが、私は、彼の晩年の史伝「渋江抽斎」を読んだとき、虚構を捨てた、淡々とした記述が持つ絶対的な力とでもいうべきものに圧倒された。文体的にも、簡潔の表現の最高峰で、「である」体の理想型だと思った。ここでのある文末は、確かにほかの言い方では駄目だ、確かに「〜である。」で終わるしかない、と我々に思わせる完全なものであった。
 鴎外読書以後、芳醇なたっぷりとした肉付きのよい小説以外の小説の魅力も分かったような気がしたものである。

 

 吉村昭は、数年前、真柄教育財団の招きで金沢で講演会があって出かけ、初めて謦咳に接した。彼の文学同様、地味だが誠実な方であった。脱牢者の物語を書いたのがきっかけで刑務所職員向け講演会の講師をつとめるようになった話などを、妻太田洋子との日常生活の断片を織り交ぜながら語った。彼の、多くの関係者への取材を中心とする創作態度が、その時に語られたが、今回読んだ近作の随筆でも、そのことが触れられていて、いくつかの心和む小話もそのまま書いてあったので、あの時の講演の復習をしている気分であった。よく知っている人生の先輩から、何度も同じ話を聞かされる、そんな感じで微笑ましく、作者に親しさがわいた。

 

 私が若い頃一生懸命読んでいた中堅小説家は、今や鬼籍にはいられたり、高齢である。阿川弘之の随筆を楽しみにしている私は、同様のベテラン小説家の随筆をもっと読みたいと思っていたので、「ああ、そうだ、吉村さんがおられた。」という気持ちなのである。

  泣く子も黙る随筆の名手かと言えば、そうでもない。最後のまとめを、もう一つうまく締めていたらよかったのにという話もあるにはある。しかし、書きなぐりでない吟味された自在な文章で、無理に受けをねらったような俗気がない。
 自宅で書きものをし、時に講演や取材で旅行をする。冠婚葬祭も厭わずに、恩返しと思って出かけていく。そんな日常が描出される。そして、戦争中の故郷日暮里の思い出、行きつけの飲食店での出来事など。
 さらりと自分の創作方法や態度に触れたものもあり、今後、吉村論を書く人は絶対引用するであろう記述も散見された。当時を知る人が死に絶えていく現実を前に、戦争小説の筆を折る潔癖さ。以後、それまでの取材を元に、縛りを緩めるような形での創作は可能のように思えるのだが……。
 しかし、彼は虚構を峻拒するような偏狭な事実主義者ではない。「文学は文体である」という文学観は、事実を重視する人の発言として、最初、意外な感を受けたが、彼の文学と正反対な感受性と文体を持つように思われる吉行淳之介への高い評価と敬意の念などを読むと、彼がドキュメンタリー作家なぞではなく、実にニュートラルに小説に接している「芸術家」であることが分かる。そして、そこに、同人雑誌に辛抱強く作品を発表しながら腕を磨いていった「文学」に対する思いが伝わるような気がして、印象的であった。

  彼は言う。時に出来すぎだと思われ、創作ではなかと疑われるものがあるが、すべて自分の書く「エッセイは事実です」と。小説家として各方面に触手をのばして、ダイヤモンドを探しているが、時に、エメラルドに行き着く場合がある。それがエッセイのネタになるというのである。
 知人の町医者に紹介されて大学病院に行き、名前を見た助教授から「小説家と同姓同名ですね。」と言われ、「はい。」と返事をしてしまう話など、クスッと笑ったが、これなど、この医者のほうから、絶好のエメラルドを小説家に提供したようなものだ。
 四冊付き合って、親しい叔父さんを見つけたような嬉しい気持ちであった。


 

 2005年05月07日
  2面連写ができない 

 
  職場には、リコーの印刷機が3台ある。2台はタッチパネル方式の最新版。1台はボタン式の旧式である。年寄りに人気なのは、勿論、アナログ式のほう。
 ある女性曰く、「新しい機械、2面連写がうまくできないのよ。」
 私は、すぐにその原因が分かった。連写の画面には、2面だけでなく、4,8,16面まで選ぶことができる。2面を選んでから、「確定」をタッチしなければならないのだ。それを忘れて、メニュー画面に戻ると、キャンセル扱いになってしまうのである。
 旧型より一手間多いことを話すと、ようやく、なるほどとなる。

 でも、人のことは笑えない。私がこの前やった大ボケ。
  B5のプリント2種類3クラス分印刷しようと、まず原紙1枚載せ、2面連写モードにし、40枚に設定、一回印刷し、これを裁断し、2クラス分が完成する。次に、20枚に設定し直し、印刷。それをまた裁断して、これで3クラス完成。この作業をもう1回繰り返して、作業は終了した。
 終わった途端、自分の頭の固さ加減に気づいて、一人苦笑した。
 どう印刷したら、一番早かったか、もう説明しなくても、わかると思うので、ここでは書きません。分からない人は、頭の固さ、かなり重症です。

 
 リコーつながりということで、リコー製デジカメを語る2ch掲示板に、ちょっと笑える話題を見つけたので、紹介したい。

 

 某量販店にて。OLらしき女性客がデジカメを選んでいる。店員が歩み寄り、説明をはじめる。女性客、なにげにキャプリオR2を手にとる。
店員「こちらはリコーの新製品、「Caplio R2」です。ワイドも撮れるお薦め機種ですよ。」と、キャプリオを薦める。
女性「リコーかぁ。…私生活でまでこのロゴ、見たくないなぁー。」
店員「…(^_^;)」

 

きっと彼女は、仕事でさんざんリコーのコピー機使わされてトラウマになってるんですね。(このコメントは引用文)

 2005年05月06日
   ムキムキ、エアロビ。


 例の「ゾウの時間ネズミの時間」の、ロッカー室での頓珍漢な会話を、授業の枕にしていたときのこと。「わたしはフイットネスクラブにいっているのだけど、そこで……」と言いかけると、ザワザワと私語が聞かれ、どんどん大きな波に……。生徒が何故か笑っている。「何が可笑しいの?」と、前の席の生徒に聞いても、「いいえ、なんにも。」と教えてくれない。こういうとき、教員は仲間はずれになって、どうリアクションすればいいかわからなくて困る。
  そのクラスは、それで終わったのだが、次のクラスで事態が判明した。また、同じ話題をしかけたところ、同様の反応。
 その時、私のほうが閃いた。
 「おい、もしかしたら、この、腰を傷めたおっさんが、もっこりタイツでもはいて、ワンツー・ワンツーのかけ声の下、エアロビクスかジャズダンスをやっているところを想像してんじゃないだろうな?」前の女子を見る。「いいえ」という風に首を横に振っているのだが、目が笑っている。
 やっぱり。
 「えーっ、知らないかもしれませんが、トレーニングジムは、若くて元気な人ばっかり行っているわけではありません。今や、あそこは、中高年天国です。メンバーの3分の1は、お年寄りです。私のようなリハビリ目的や、老化防止のために、太極拳、ヨーガ、気功、プール歩行などに通っているのです。」
 でも、なんだか言い訳くさい。真実を言っているのだが、一度インプットされたイメージは強力に残る。絶対にあいつら、ヨレヨレとエアロビやっている哀れな「年寄りの冷や水」的姿を忘れまい。

 

 2005年05月05日
  服の値段の話はしないほうが……。

 この連休、100円ショップに行って、ネクタイと靴下を買ってきた。
 私は、服装には頓着しないほうで、ネクタイ選びも、自己主張しない色と柄を選ぶ。どんな背広を着ても違和感がない方が気が楽。朝、色が合わなくて、何本も胸に当ててみるなんて行動は、真っ平御免である。
 愚妻は、目につくものだから、100円ネクタイだけはやめといてと言うのだけれど、私は気にしない。現に、もう洋服ダンスに数本かかっている。
 背広も吊り下げ既製服で充分である。ここ5年ほどで買った背広は、大型スーパーの1万円台背広である。これで充分。

 ただ、ちょっと問題が起こりそうになったことがある。
 職場の隣の隣に座っていた若手が、「これ、ジャスコで買ってきました。1万円で問題ないですよ。」と見せびらかした背広を、えっと思ってよく見ると、私が、先日、別のジャスコで背広選びをして、どれにしようか、最後まで迷った2着のうちの1着だったのである。その時、私が着ていたのが、そのもう一着。危ないところで「お揃い」になってしまうところだった。実は俺のもそうだと彼に言ったら、マジマジと私の柄を点検し、これも候補にしてましたと言うではないか。
 本当に危なかった。

 

  この時、隣に座っていた男は、ラグビーの専門家なので、イギリス大好き人間だった。バチッと英国風デザインのオーダーメイドを着こなしている。1着10万円だという。人間、どこにお金をかけるか、本当に人それぞれだなというくらいの気持ちでみていたのだが、そんな彼だって、吊り下げを着てくることもある。当たり前だ。同じ商売、同じ給料である。反対に、私だって、いつも1万円背広ばかりではない。ちゃんとした吊り下げ(?)を着てくることもある。
 そんなある日、ジャスコ背広仲間の若手の彼が、われわれ2人の格好を見て言ったものだ。
 「田辺さん、それもジャスコですか? ○○さん、いつも決まっていますね。それは10万円くらいですか?」
 この時、2人は同じくらいの値段だったのである。
 以来、私は、自分の着ている服装の安さを得々としゃべるのは止めようと決心した。本人は、コストパフォーマンスのよさ、ひいては、買い物上手をアピールしたくて、しゃべるのである。だから、相手から「ほう、そうは見えませんね。」と言ってくれるのを期待しているわけだ。それが、こういうリアクションになるなんて……。

 
 四十歳で独身の男性がいた。地球を股にかけて歩くタイプである。身なりを気にしないこと、私の比ではない。背広は2着だけ。ワイシャツは6枚だけ。普段着は寝間着代わりのジャージ1枚。終わり。という猛者である。ワイシャツは毎曜日用で、日曜日にまとめて洗濯するから6枚なのだそうである。一度、寝坊してジャージのまま職場に現れた。普段着兼寝間着代わりのジャージであるからして、見るからに薄汚い。スポーツのために着ているのではないことが、ヨレヨレ加減で分かる。
 おそらく、給料の多くは、海外旅行に費やしているのだろう。彼は人が行ったことのないようなところへ、平気で一人で侵入する。銃口を向けられて命を落としそうになった話など抜群に面白く、彼の真骨頂であった。
 その彼と話していて、たまたま、ネクタイピンの話になった。
 私が、「男稼業を長年していると、人からのプレゼントとか、団体からの記念品とかで、自然にピンが増えてくるよね。」と、何気なく言ったら、「えー、そうですか。俺は1本もないけど……。」といって、えらくショックを受けていた。
 自分がファッションにいかに無頓着かを得意げに語る割には、そんなところではひどく落ち込むのが可笑しかった。
 彼の無頓着話を聞きながら、ちょっとなあと思ったので、思い切って、こう言ってみた。
 「××さん、私は男だから、あなたの発想はよくわかるよ。でもね。女の人にこの手の話、絶対、言ったらダメだよ。あなたの話を聞きながら、私が女だったら、絶対、そんな人とは結婚したいとは思わないだろうなって思ったから。あなたがファッションにお金をかけないように、この人、私にお金をかけてくれないだろうなって女性は思うものだよ。」
 暫く沈黙。そして、ポソッと、「そうかもしれない……。」
 彼は私に言われて、はじめてすべてを納得したようだった。絶対に、その日、彼は落ち込んだに違いない。
 今年、その彼からの年賀状に、「私も身を固めました」と書かれてあった。
 彼は、私の進言を覚えていただろうか。
 最近、会っていないけど、少しは服も増えたに違いない。

 

 2005年05月04日
  「鳥肌が立つ」  吉村昭「街のはなし」(文藝春秋)を読む。

  先週、近所の市立図書館に、久しぶりに行って、カメラの雑誌のバックナンバー数冊と、吉村昭のエッセイ「街のはなし」(文芸春秋 一九九六)を、借り出して、弓道大会引率の空き時間に読んだ。ここのところ、彼のエッセイを連続して読んでいる。
 この随筆、「クレア」(文藝春秋)創刊の一九八九年から六年間掲載されたもの。十年以上前の文章である。この作者には珍しい女性雑誌への寄稿で、「恐るべき女性を納得させるものが、果たして書けるかどうか」(あとがき)と、本人も最初はかなり弱腰だったらしい。決して今風の作家ではないし、作者自身、「保守的な男」であると自己規定している。
 例えば、女性を見るとき、子供の頃から、結婚したらうまくやっていけるだろうかという視点で観察する癖があったと告白している。好きな女の子がいて、でも、魅力的な中に、自由奔放な部分があって、子供ながら、家庭的に幸せな人生を送らないだろうということが予測できたという。後年、彼女は親戚一同、誰もどこにいるのかわからない行方知れずになったそうで、彼の推測は当たっていたのである。
 彼は、そうした女性を非難している訳ではない。彼の女性観が、家庭的な人を理想としているということなのである。
 ある女性のエピソードを紹介し、最後に、いい妻、いい母になるだろう結ぶ文章があった。しっかり自己管理でき、慎ましさを持ち合わせている人が、人間として素晴らしいと彼は思っているだ。
 それは何も女性だけのこととは限らない。列車の車両間の扉を、大人は全然閉めないのに、しっかりと閉めた小学生に感心する話があったが、その態度を、人間として好ましく思っている、それと同じなのである。
 読み終わるまで、発表誌のことは知らなかった。ただ、確かに、今回、女性話題が多く、ちょっと女性に気を遣っているなとは思った。
 離婚が多くなったことに、昔は世間体などから辛い状態のままに置かれていたからで、現代の方が、女性にとって幸福だとか、高年齢結婚になったことに対しても、異性を見る目がなく、早めに結婚してしまうほうが可哀想で、三十台近く、落ち着きがでてから結婚した方が無理がないと晩婚を肯定したり、決して、昔はよかったの頑固親父にはなっていないのである。
 だいだい、若い頃は、妻と喧嘩して「出て行け」と言ったものだが、いつの間にか、家は妻の城で、自分の居場所ではないことを実感し、最近は、喧嘩するとこっちが「出て行く」と言ってしまうと告白している人である。女性主導で、最初から白旗を揚げているような現代の若い男性の態度も正しい態度だと肯定しているくらいなのだから……。
 
 ここで、彼が「鳥肌が立つ」について触れた回の文章を紹介したい。結末で、「あ〜あ。」と思ったので……。
 最近のテレビで、芸能人が恐怖の時使うべきこの言葉を、間違って使っていると指摘し、

 

「テレビの出演者が多用していると、一般の人たちもそれに少しの疑いももたず日常語として使う恐れがある。少年、少女が国語のテストで、「鳥肌が立つ」の意味を「感動し、じーんとすること」などと書くかもしれない。」

 

と心配している。これ、もう、ここ5、6年で多くの人が気づいている事態だが、彼の指摘は、十年以上前のこと。そこに意義がある。
 ちなみに、私は、テストにこそ出していないが、去年だったか、教室で「感激し鳥肌が立った」という言い方に違和感がないか聞いたことがある。既にして、4分の3は疑問を持っていなかった。
 文末はこう結んでいる。

 

「オリンピックで優勝した日本人選手が台に立ち、メインポールに日章旗があがった時、「それは、日本人にとって鳥肌が立つ一瞬でした」などとテレビのアナウンスが言ったらどうしよう。まさに鳥肌が立つ思いである」

 

 吉村さん、ご心配なく。ちゃんと教育を受けているアナウンサーは、まだ、そんなこと言っていません。
 ただ、去年のアテネオリンピック、100m平泳ぎで優勝した北島康介なる選手が、試合直後のプールサイドでインタビューされ、「超気持ちイイ。鳥肌もんッスヨ。」と、感激の面持ちで、力を入れて語り、全国的に、何度も何度も流れただけである。あ〜あ。
 直後、「鳥肌が立ったのは俺たちの方。感動をありがとう。」という祝福メールがオリンピック特番宛に殺到。マスコミは(NHKですら)何度も何度も紹介していた。
 もうダメかもしれない。
 北島選手は、「超」も「ナニゲに」も何気に(!)使う。つまりは、現代っ子なのである。今年、彼は日体大大学院生になり、コカコーラから高額でスポンサードされた。いずれは日本水泳界を背負って立つ指導者である。

 

 2005年05月03日
  タケノコ大好き
 タケノコを戴いた。大好物である。タケノコは時間との勝負。茹で上げるのがちょっとでも遅くなると堅くなってしまう。糠を常備していないので、米のとぎ汁で下煮をする。すぐにタケノコご飯を仕掛けるので、とぎ汁がどうせ出るのである。どんなに時間に余裕のない時でも、下処理だけは済ませなければならない。
 柔らかな穂先は、今回は梅肉和え。一番下の堅いところは、昆布との煮物。その上あたりを炊き込みご飯に。中程をみそ汁の具にした。残りは冷蔵庫に。明日は天麩羅である。特にしようと思わなくても、その日の食事は「タケノコずくし」である。
 今や保存の利く中国産の安い水煮が入ってきて、一年中食べることができるが、何と言っても、美味しいのは地物。ここ金沢城南地区は、別所という産地を持っており、地元の朝堀りに勝るものはない。スーパーでは、早くから四国産が並ぶが、買うべきではないと、地元産の出回るのをじっと待つ。以前、朝、別所まで車を飛ばして、タケノコを買いに行ったこともあるくらいである。
 今回は、妻の実家で親しくしていている方が、富山県に竹林があり、朝掘って持ってきてくれたものを、妻が連絡を受けてすぐ実家に行って受け取り、昼過ぎには下茹でしたもの。まあ、地物に準じているといってよい。
 それにしても、地元に、好物の産地があるというのは、なんと幸せなことだろうと、この季節、いつもそう思う。本当の贅沢というのは、こういうことをいうのだろう。
 毎年、地物のタケノコを何回か買って、づくし料理を戴き、そろそろ飽きたころに、シーズンが終わる。今年も沢山食べたなあと満足する。毎年、この繰り返しである。
 別所は、自宅から車で十五分ほどの山あいの村。普通の農家で、タケノコ料理を出している店が、七、八軒ある。昔はもっと多くの農家でやっていて、家族で、毎年、食べにいった。人様の家に上がり、のんびりと味わい、庭や付近を散策して帰る。春の日の午後の絶好の行楽であった。
 今も、毎年、アマチュア無線仲間と食べに行く。もう全軒回って、今は2廻り目。
 ただ、今年は、メンバーのある家族が県外へ転勤ということで、3月、私の入院中に送別会をしてしまっていて、会ったばかりである。
 今回はどうするのだろう。タケノコ会するのなら、そろそろお誘いの電話があってもよさそうなのにと、今、すごく気になっている。
 2005年05月02日
  目がテンになる。

 今年の黄金週間は、休みの巡りあわせがよく、10連休という企業もあるとか。我々の商売は、暦通りである。
 前半の3連休のうち、2日間は弓道部の大会引率で、昨日は終日家にいた。入院中、大会の引率ができなかったので、久しぶりの大会引率となったが、正直、疲労困憊で帰宅。それで、体力が完全に元に戻っていないことを知る。(単に年をとったからかもしれないが、そうとは考えないことにしておこう。) 
 前任校で、何のご縁もなかった弓道の部顧問を仰せつかって、早や20年近くになる。今でも弓はひいたことはなく、まったくの門外漢だが、人生のかなりの時間、弓をひく子供たちをじっと眺めていたので、「門前の小僧、習わぬ経を読む」状態になっている。技術指導も少しはする。弓道は、型に合わせていくスポーツなので、行き着く先の理想型ははっきりしているからである。
 ただ、お前の射形はここがおかしいよと指摘はできるが、「それは分かっているのだけれど、治らないのです。どうすればいいのですか。」と聞かれたら、それから先は皆目分からない。また、握り手の「手の内」の微妙な力加減などの質問もそう。これらは、コツの範疇で、やっている者しか分からない世界なのである。
 弓道にかかわりはじめた当初、難しい専門用語が多いのに、驚いた。現代の感覚では、弓も、バレーボールなどと同様、普通のスポーツの範疇で捉えられていていると思うが、用語には、伝統的な「武道」の世界を強く感じる。江戸以前の、武士の世界のものをしているのだと感じるのである。弓は戦争の道具であり、その昔は狩猟の道具、つまりは、生きるための生死を隔つ道具である。
 弓を弾く時、右手にはめる剣道の籠手(こて)のような革製の手袋を「かけ」という。何万本と打って、自分なりの癖が革の皺に反映される。人のものを借りてなんとかなるという道具ではない。
 ベテランの先生から、「かげがえのない」という言葉は、この弓道の「かけ」から来ているのだという話を伺ったことがある。かけはその人一人用で、代わりがないというのが原義だという。何年も前の大会の顧問控え室で聞いた話だが、引かない組の我々は、ほうと感心したものだった。私も拝借して、何回か部員への訓話に使ったことがある。
 「的を射た」などはもちろん弓道から来ている。今と違って、弓道が生活の中に食い込んでいた加減は、今の比ではない。今はちょっと思い出せないが、弓道起源の言葉は幾つかあるはずである。ただ、この「かけがえのない」に関して言えば、実は、国語的にはどうなんだろうと、内心、思っていた。原義の説明は、眉唾が多く、あとからつけた理屈のことが多く、これもその匂いがする。
 心にタスキを掛けるのが「必」という字であるという精神論的説明を、お年寄りはよく使うが、上の世代からそう習ってきたのだろう。しかし、これなど、典型的な間違い。第一、書き順がちがう。タスキは二画目で、まずカタカナの「ソ」と書く。あのころの時代が、そういうことを言わせた時代だったからだろう。
 古典の世界でも、同様な俗説がある。例えば、「如月(きさらぎ)」。2月は寒いから「着ているその上に、更に着る」から来ているという説明がそれである。これも、かなり新しい誤まった解釈だ。睦月が早春、如月は仲春、弥生は晩春で、2月は春真っ盛りのはずである。いくら当時から暦は季節を先取りしていたとはいえ、寒いを意味の中心に据えた春の月の異称などある訳がない。そもそも、なぜ「如月」と書くかさえ諸説あって判別し難いくらいである。
 にわか指導者なので、その昔、「弓道教本」や指導書を数冊読んで、付け焼き刃の勉強をした。弓道の専門用語を漢字で書くと、見たことがないような画数の多い難しいのが時々ある。これらは、その言葉が発せられても、漢字で難しい字だったなという意識が先に立ってしまって、逆にその用語を覚えられず、苦労した。
 それに比べて、生徒は、漢字でどう書くかなんて、何にも思わず、言葉を丸ごと覚えてしまう。定着率は、むろんそっちのほうがいいに決まっている。
 普通、授業では、音だけに頼ると、ひどい勘違いをすることがあるよ。どういう漢字なのかを考えようと言っているのだが、こと、弓道に関して言えば、まず言葉自体を丸覚えたほうがよいようである。
  さて、今回の大会でのこと。
 1年生は入ったばかりで、右も左も分からない。まずは試合を見なさいというのが指導である。選手の射が当たったら、かけ声をかけるのだけが彼らの大きな仕事。「しっかり「射」と声を合わせ大声を出すように。」と言ったら、「先生、うちの学校は「良し」と言っています。」と、横の2年生に言われた。学校によって、この二つのどちらかで応援しているのである。私は、前任校が「射」だったので、そちらの方が先に頭に入っていて、どうしてもそう言ってしまう。
 ああ、うちの学校はそうだったね、と訂正したのだが、そのあと、この2年生の女子がとんでもないことを口走った。
  「先生、それって、やっぱり、二つ合わせると「よっしゃ〜。」になるからですよね。」
 目がテンになった。
 そんな口語、格調の高い弓道で使うわけがない。

 

 2005年05月01日
  「好きになってかまわない?」

 例の「問題な日本語」(大修館書店)を読んで、「全然」の肯定表現をどう説明したらいいのかが解説されていて、国語教員としては、助かった。
 「全然」は、通常、打ち消しがともなうので、例えば、芥川龍之介「羅生門」の中に、「この老婆の生死が、全然、自分の意志に支配されているということを意識した」という文があって、こういうのを、どう説明すればいいか困っていた。
 一時期、これは誤用だから、芥川のミスだろう。触れないようにしようと、授業で、すっとそこを素通りしていた時期もあったのだが、途中から、打ち消しばかりでないという説も聞こえてきて、確かにそうかもしれないとは思っても、そのあたりをどう説明したらいいのか、「全然」、わからなかったのである。
 「全然」には、「まったく問題がない」、「あなたの予想とは反しているかもしれないが」というニュアンスがある。そのニュアンスで肯定表現があっても問題ないということらしい。
 そこで、この本に載っていた漫画をアレンジして、以下の二つの例文を出してみた。授業の枕にする雑談ネタである。

 

例文1 女「あなたのこと好きになってかまわない?」 男「全然。」
問題、この男は断っているのでしょうか。承諾しているのでしょうか。

生徒の答えは、全員、承諾のほう。それであたりである。「おれはかまわないよ」という返事である。これを間違うと、二人にとって不幸なことになる。

 

例文2 女「私のこと好き?」 男「全然。」
さあ、どっち? でも、これは単なる受けねらい。生徒に聞くまでもない。

[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

  感想をお寄せください。この「ものぐさ」のフォームは、コメントやトラックバックがあるブログ形式を採っておりません。ご面倒でも、左の運営者紹介BOXにあるアドレスを利用下さい。

 

(マイノートパソコンと今は無き時計 2005.6 リコー キャプリオGX8)

 

 

 

 

Yahoo! JAPAN
Toshitatsu Tanabe Copyright(C)2004
EasyMagic Copyright (C) 2003 LantechSoftware Co.,Ltd.
All rights reserved.