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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年07月01日
  (つづき)

 この他、文部省唱歌の成立に絡んで、作詞者が匿名になっている場合が多く、それもあって、教育の名のもとに、勝手な改竄が横行していることも、以前から知っていた。
  例えば、「春の小川」(岡野貞一作曲)の「さらさら行くよ」は、もともと「流る」だったということは、かなり有名な話だ。私自身、子供ながら、この歌を習った時、違和感を持ったことをはっきり覚えている。この曲、高野辰之博士(1876〜1947)の詞で、彼が、明治期、日本の音楽教育に輝かしい業績を上げたことは、以前訪れた、信州野沢温泉「おぼろ月夜の館(斑山文庫)」で勉強して知っていた。これなど、作詞者に対して失礼だし、識者の多くも改悪だと主張しているにもかかわらず復していない。「改むるに憚る事勿れ」である。
 文語を一切音楽教育から駆逐して、具体的に、何かメリットがあるのだろうか。「流れる」という言葉は、「流る」という言い方もあるのだなという程度のことがわかるだけで充分である。日本人が、一生、文語と無縁ならば、それでもいいが、中学三年からは勉強する。生徒は、古文を習う初期、「流れる」から「流る」の移行に、昔にくらべえらく手こずっている。それならば、そんな「言葉の無菌状態」にしておく方が、よほど問題ということになる。
 斎藤孝「声にだして読みたい日本語」(草思社)によって、音読の復権が叫ばれて数年たつ。あの時、幼稚園で「寿限無寿限無五劫の擦り切れ」や「祇園精舎」は大ブームだった。子供の吸収力は大変なものである。それを利用しない手はないと思うのだが。

 この本は「産経新聞」に連載されたもの。作者は音楽の専門家でなく記者(現論説副委員長)である。その感覚で書かれているので、分かりやすかった。
 ただ、部分的に過度の「原文至上主義」的な発想も感じられた。「蛍の光」三番四番に見られる「へだてなくひとつに尽くせ国のため」などの歌詞も、明治十四年に出来た当時の国威昂揚の精神を、いたづらにカットせず、「時代背景まで教えるのが教育」であるというのは、明らかに行き過ぎである。免疫のない子供らに、現在の大人が、正しいフィルターをかけて提示する、それが教育である。軍国的歌詞の歴史的意味合いは、大人になってから判断すべき部分である。

 誰でも知っている童謡・唱歌だが、大抵は一番くらいしか知らない。今回、はじめて全番知ったものも多い。その中で、特に「かなりや」(成田為三作曲)の歌詞に惹きつけられた。「唄を忘れた金糸雀は(中略)いえいえそれはなりませぬ」と、中間部を替えたパタンを三番まで続け、最後の四番で、「象牙の船に銀の櫂、月夜の海に浮かぶれば、忘れた唄を思い出す」と結ぶ。三番までは、四番に至る長いプロローグで、四番で、この詩は、一遽にシュールレアリステックな絵画的イメージに結実するのである。童謡の歌詞というのは軽視されがちだけど、西条八十という詩人の凄さをはっきり理解できた。
 「赤い靴」も同様。人身売買的な匂いがするので、掲載不可になっているようだが、背景に複雑な物語を感じる。歌詞は、その大きなストーリーを想起する端緒のような役割である。どんな物語か。それは決まっている訳でない。各自が想像するべきものである。
 こんな非現実主義的な抽象の世界や、ゾクゾクする物語世界のとば口を、昔の子供は歌っていたんだなと思うと、大人の配慮を押しつけられている今の子供が可哀想でならない。
 「昔に比べ、幼くなった」「学力が低下した」「想像力がなくなった」
 みんな大人がレールを敷いたことである。

 2005年06月30日
  日本語教育としての唱歌・童謡 横田憲一郎『教科書から消えた唱歌・童謡』(産経新聞社)を読む。 

 「枕草子」の、もの尽くしの章段「ありがたきもの」(第七十一段)には、滅多にないものとして、「毛のよく抜くるしろがねの毛抜き」が、三番目に挙げられている。「舅に褒めらるる婿、また、姑に思はるる嫁の君」に続くのだから、毛抜きの性能は、彼女たちにとって重要関心事だったことがわかる。「しろがね」とは、「銀」のこと。注釈には、「銀製のものは見栄えはするが、鉄製のものと比べ材質が柔らかいので、毛を挟みにくい。」とある。おそらく眉毛などの脱毛処理に大活躍だったのだろう。女性のお化粧の必需品といったところだ。「徒然草」が「枕草子」を強烈に意識しながらも、超えられない鋭い「女の感覚」の部分が、こういうところにパッと出てきて面白い。
 教えている側としては、そんな比較論的な部分にこそ、妙味があると思うのだが、生徒は、それ以前に、この「しろがね」の意味が分からない。「注釈」で、銀のことと知るのだが、言葉自体は知らないらしい。ほら、「山はシロガネ、朝日を浴びて、滑るスキーの〜」という歌があるでしょ。と、遠慮がちに歌う。でも、そもそも、そんな歌自体知らないというのである。妙味に行きつく前に、先生の音痴な歌のほうが笑いの対象になる。(歌わなきゃよかった。)

 

 最近の小・中学校の「音楽」教科書は、新しい歌ばかりで、日本人なら、知っていて当然と思うような歌が、大幅に減っていることは、こうしたやり取りを毎年繰り返しているので、実感として知っていた。どうも、唱歌や童謡の歌詞に出てくる言葉から意味やニュアンスを汲み取るといった作業はもう出来なくなりつつある。
 例えば、私は、子供の時、「夏は来ぬ」(作詞 佐々木信綱)で、「初夏=卯の花=時鳥」の取り合わせを覚えた。花札みたいなもんだ、鹿にモミジ、鶴に松、と同じと思えばいいんだといったスタンスである。「ぬ」も打ち消しばかりでなく、「〜た」と訳せばいい「ぬ」(完了の助動詞)もあることも、子供心に自然に覚えた。これは、ある種の事前教育といえるが、曲がついているから、メロディーとともにあるから、自然に体で覚えるのである。確かに、紙に書いてあるだけだったら、子供に文語は無理という結論も理解できなくはない。それを、歌の歌詞まで根こそぎ根絶やしにしていしまうなんて、まるで文語が諸悪の根元のような扱いである。
 つまり、これは、かつて音楽教育の大事な要素のひとつであった、日本語・文化教育が欠落しているということである。今回読んだこの本にも、これは、はっきり指摘されていた。
 小学校低学年では、擬音語を使った歌詞が多い。「詞」というより「言葉遊び」的で、日本語になっていないものも多く見受けられたという。高学年では、世界の歌という扱いで、韓国語・中国語・英語の歌詞が載っているが、それは片仮名表記だという。中国語を片仮名で書いてあっても、四声が無視されているから、字面をそのまま発音しても意味をなさない。教員に中国語の素養があってはじめて指導できる種類のものである。
 また、選曲が子供に迎合したようなものが多く、子供の時はいいが、大人になってからも歌える歌が少ないともあった。日本人として、共通な文化の土台として「歌」を継承していこうという発想がないというのだ。宮崎駿監督映画の曲が大人気で、多くの教科書で採用されているそうだが、確かに大人になって「歩こ、歩こ、私は元気。」(となりのトトロ「散歩」)もないものである。(ただし、老人のリハビリには良いかも……。)(つづく)

 2005年06月29日
   S女史の思い出

  女の子は、大抵、男に比べると、皆と仲良くなるのがうまいものだが、その中で、そうした集団から離れて、ぽつねんと立っているタイプの子が、一人くらいはいるものだ。亡くなったS女史の第一印象は、まさにそんな感じだった。大学入学当初、学校主催の親睦を兼ねた横浜文学散歩があったのだが、その記念写真には、一番端に、ぽつんと立っている彼女の姿があったように記憶している。
 名列順の便宜的なクラスわけであったが、同じクラスということで、教室でよく一緒になった。T君は、机の前後を挟んで、授業前の小暇、三人で駄弁っていた光景をはっきり覚えているという。その時は、漢和辞典の話をしていたそうである。一週間ほど前に彼から来たメールに書かれてあった思い出話である。
 人間、何でもないありふれた日常のワンシーンを、何故かはっきりおぼえていることがある。特にトピック的な光景でもない。何故覚えているか、その意味とて判然としない、そんな光景である。当然、他の人ははっきりと覚えていない。でも、言われてみると、確かにそうしていたはずだから、そうだったのだろう、彼が覚えているのだから、間違いないことだというレベルで同意することになる。
 私の場合、彼女の卒論のテーマだった武田泰淳の墓が、当時の私の下宿の近くにあったので、一緒に探索したことを、今でもはっきり覚えている。 去年、彼女とメールでやり取りした中で、そのことを懐かしげに書いたら、そんなことあったっけ?と言われてしまった。彼女はその後数回行っているようだが、私は一回だけのこと。印象の度合いが全然違っていたようである。それに、墓参自体が大事なのであって、同行者が誰だったかは、まあ、副次的なこと。忘れていて当然である。

 

 彼女は、ちょっと普通の人と違っていた。世の中の常識と思えることをさっぱり知らない反面、例えば、ペンギンの話題になった途端、皇帝ペンギンがどうの、マゼランペンギンがどうのと蘊蓄を語り出して、文学の話なら兎も角、なんでそんなことに詳しいのか、周りが訝ると、え、皆知らないの?と不思議そうな顔をして、友人たちを唖然とさせた。だから、そんな彼女を突っついて遊ぶのが、みんな大好きだったのである。
 スカートを穿いた姿を、我々は見たことがなく、いつも黒ずくめのズボン姿だったので、男連中の恰好のターゲットになった。「なぜ、穿かないんだ。」「自分を型にはめてはいけない。」「自己改革すべきだ。」などと言いたい放題。そんな彼女が、ある時、何か公式の場で、フォーマルなウエアながら、スカートを穿いてきて、みんな拍手喝采、なんてこともあった。

 下世話な世界からは遠い人だったので、七年前ほど前、最後に東京で会った時、車をゴルフに替えたという話を嬉しそうにして、その乗り味や、家での食事の話が話題の中心だったことに、ちょっと昔と違うものを感じた。昔なら、文学の話だけで盛り上がっていたのにねえ、お互い「生活人」になっちゃったねと苦笑したものである。こっちは、元々俗人なので、そんなものなのだが、彼女は、途中、母親を亡くし、おさんどんに心砕かなくてはならなくなってから、かなり経っていたので、「生活」面のウエイトが否応なく重くなっている現実を感じて、そんな彼女に、頑張っているなと安堵もし、少し寂しくもあった。

 

 3月下旬、私の退院報告の返信が彼女から来た最後のメールになった。手術したけど、痛いのが治らないという私の愚痴メールに、焦らずじっくり治しましょうという慰めの言葉。それに、車を今度もゴルフの新型に替えたよという嬉しそうな報告だった。合掌。

 2005年06月28日
  (つづき)

 さて、せっかくだから、この話の裏付けの意味を込めて、現代中国の言語状況の勉強をした。といっても、お手軽にネット検索だが。

 

 「中国語」と何気なく言うけれど、実はこれは幻想である。彼らの人工的な共通語である「普通話」は、清朝の宮廷語であった「北京官話」をベースにした、中国共産党製の国内用語。北京官話は清朝の後継である中華民国の公用語でもあったので、台湾では今でも北京官話が標準語。(中略)しかも、宮廷語といっても、皇帝一族が宦官達に対して命令する時の言語であり、皇帝一族の日常言語は満洲語だった。満洲語はしかし徐々に北京官話に浸食されていったわけだが。もちろん一般大衆はそれぞれの地方語を話していた。
 我々はシナの人口の9割を占める「漢民族」と少数民族という創作に染まっているので、純粋な漢民族というのがいるように思っているが、実は彼らこそ雑種であり、系統や出自のはっきりしている「少数民族」の方が人種的には純度が高い。まあ少数民族といっても1000万人を超えるようなグループもいるわけだが。
 で、シナに行くとどうなるかというと、いわゆる漢民族の人達は自らの母語を当然のように使う。書き言葉なら漢字が共通なので意思の疎通ができるが(というか漢字そのものが、いろいろな言語の仲立ちをするために存在しているわけで)、話し言葉になるともうお手上げである。北京語と広東語で通訳がいるのだ(実際に香港で目撃している)。ま、北京語は北方言語の影響が強くアルタイ語的な要素が大きいのに対して、広東や福建は南方系の言語だから、当然と言えば当然。(後略)
WEBサイト「薄唇短舌」(2005年3月20日 (日)「中国語という幻想と日本語」)
             (註……「シナ」という片仮名表記は執筆者の信条による)

 

 朝鮮半島二国が、ある種、ナショナリズムから現地読みを主張し、金大中(キンダイチュウ)氏は、途中からキム・デジュン(Kim Dae Jung)という言い方になった。その点、いまだに毛沢東はマオ・ツェトゥン(Mao Tse Tung)と読まずにモウタクトウと読むことを、中国は特に問題にしていない。中国は、その国の読みで結構という態度で、いたく鷹揚だと前から感心していたのだが、つまりは、漢字の読みは千差万別でも、漢字自体はビクともしないという、漢字による統一主義というか、接着剤としての漢字の威力を、彼らは絶対的に信じているからだろう。日本語読み(音読)も、漢字という確固たるものの、単なる地方読みの一つでしかない、そう考えているふしがある。
 つまり、これは、寛容というより、典型的な「中華」思想なのである。そのことに、今回、気がついた。

 

 ところで、5月ごろ、新一年生が「中国の人って、文章を上がったり下がったりして読まなきゃならないなんて、大変やね。」と言っているのを小耳に挟んだ。なぜ、訓読するのか、そんな漢文の第一時間目の「押さえ」さえ聞かずに、訓点のやり方だけ習ってきている今の中学校教育に、正直、あきれた。
 何年か前から高校入試に漢文が入ってきて、入門編は中学で教えるようになった。しかし、これでは、こっちでしっかり頭から教えますから、いらんこと教えんといてくださいとさえ言いたい気分である。
  それにしても、Sさんとこの1年生との、知的言語レベルの差は、いったい何だ。

 2005年06月27日
  中国の人が習う漢文。
 中国から来たSさんが、社会の先生のところに質問にきた。便乗して、中国語について知らなかったことを色々教えて貰う。
 彼女は中学の時の来日。日本語は達者である。森鴎外『舞姫』の文語を、分かりやすい文章だと言っていたので、もう万全。そう言えば、今、西洋人の血が混じって、洋風の顔だちをしているHさんを教えているが、彼女の読解力も実にしっかりしている。下手な語尾上げニッポン娘の比ではない。
 さて、Sさんに、「教科書に出てくる漢文というのは、古い中国の文章だけど、上から下に全部中国語で読めますか。」と聞いたところ、難しい漢字は幾つかあるが、九割以上は読めるという。特に「漢詩」は簡単なようである。
 ただ、現代中国語は簡体字なので、日本人の使う漢字のほうが難しい場合が多いそうで、十七歳の彼女では、読めるけど、書けない漢字が時々あるという。
 「香港や台湾は正字を使っているから、もっと画数が多いはずだよ。」と付け加えたが、彼女の人生経験で、そこまで、しっかりした区別をもって各地域の漢字に接しているわけではないので、ちょっと、その辺は分からない風だった。
 ではと、気になっていた質問をする。
 北京語や北京官話(標準語)で話している人は、あの飛び跳ねたような広東語は理解できるのだろうか。
 彼女の話によると、二割ほど同じ発音のものもあるが、基本的にはさっぱり分からないそうだ。逆に、広東語の人は、北京官話を知らないと中国全土で仕事ができないので、基本的に分かるはずだという。
 この点、後で社会の先生に解説して頂いた。香港などの地域では、学校教育がもう官話のほうなので、徐々にそちらを話す人口が増えているという。家では広東語でも、公では北京官話。
 香港に二度行った私の経験では、あそこは、英語ができるかできないかで収入や身分が大きく違うから、英語の習得は死活問題のはずだ。とすると、これでは、三カ国語を要求されているようなもので、考えただけでも、なかなか大変な言語状況である。
 ところで、Sさん、上がったり下がったりする例の漢文訓読を、「なんで、あんな面倒なことをするのか、よく分からない。」と言っていた。漢文独特の言い回しの方がよっぽど難しいのだそうである。
 まったくその通りだと思う。「〜べけんや。」(可能に反語がついた形。「〜できるだろうか、いや、できない。」)なんて、現代語ではまず使わない。「訓読」とは、昔の日本人が、中国語ができなくても、訓点つけることで意味だけをとろうとした、いわば「方便」である。バイリンガルの彼女が、古びた訓読の言い回しを覚えても、利点はほどんどない。
 そうか、そうだよね。妙に納得する発言だった。(つづく)
 2005年06月26日
  大好きなアマチュアオーケストラ

 昨夜、地元のアマチュアオーケストラ、金沢交響楽団「第40回定期演奏会」を、市観光会館に夫婦ともども聴きに出かけた。
 ホルン奏者のMさんは、私の研究会仲間。愚妻の高校の同級生でもある。その誼(よしみ)で、毎回、チケットを頂き、欠かさず聴きに行っていた。もう十五年以上前からの、定例で、いつも楽しみにしていた。アマチュアの演奏聞いても……と思われるかもしれないが、とんでもない。この楽団の演奏で、初めて生で聞いた曲が結構あって、貴重な体験になっている。そのたびに、CDでは分からなかった発見がたくさんある。
 音だけで聞いているのと、目の前で、生の楽器を演奏しているのを観るのとでは、情報量が全然違う。
 例えば、テクニック的に難しい部分では、音がヨレたり、かつては、奏者によって、一部の音を飛ばして演奏したりしていた。それを見て、その箇所が演奏上の難所だということを知る。うまいと絶対そんなこと分からない。
 あるいは、弦がヴァイオリンの高音から下降してコントラバスに流れ込むところ。初期のステレオさながらに、左から右へ音が流れていくことに、作曲者のオーディオ的センスを感じたり、その音の移動が、奏者の腕の運動の移動という具体的な動作として、目に入ってくるのもCDでは実感出来ないこと。
 そりゃあ、プロよりはうまくはないけれど、音楽の感動は、うまさとは別のところにある。このオーケストラで、私は何度もそう思った。
 去年は、腰痛でパスしたのだが、先々週のオーケストラアンサンブル金沢もなんとかなった。会場の椅子によって、腰の負担感の軽重が違うようなので、このホールの椅子のお試し体験も兼ねている。
  ところで、会場までどうして行くか、私の場合、問題となる。昔なら、スクーターでサッと乗りつけていたのだが……。我が家からはバスの便が悪く、タクシーは贅沢だし、近くに安くて便利な駐車場とてない。そこで、夫婦で話し合って、時間をかけてでも歩いていくことにする。結果、ちょっと、遅刻した。
 今回のプログラムは、モーツアルト交響曲第40番、ドボルザーク交響曲第9番「新世界」の定番二曲。でも、腰で気が散りがちな私には、小難しい初耳曲よりも助かる選曲だった。
 Mさんの演奏姿を目で追いながら思う。私は聴くばかりだが、実際に演奏する人は、楽譜がしっかり読める訳だから、作曲者の意図が、何倍も実感として理解できているだろう。それに、自己表現の場をはっきりと持っている。なんとも羨ましい限り。 
 魅力的なメロディの宝庫のような二曲に、アンコール「ユーモレスク」の愛らしさを加え、楽しい気分で帰宅の途につく。帰りも、ゆっくり時間をかけて。
 そういえば、十五年間、チケットを送ってもらいっぱなしだね。と、道々、愚妻と話しをする。お礼にお蕎麦でも贈ろうよ。十五年間の感謝を込めてとかなんとか書いて。で、文末はこう締めくくろう。
 「ただし、次回の感謝の贈り物は、十五年後です。」
 これで、Mさんも変な気遣いしなくて済む。

 2005年06月25日
  通夜の様子

  K君、Y君より通夜の様子をメールで書き送ってくれる。
 現職の死とて、教え子、卒業生ら多数の会葬者があったそうである。久しぶりに再会した友人達は、知り合って四半世紀以上が経過し、お互いに歳をとってきたことを実感したようだ。学会の発表の時倒れたんだから、学問に殉じた純粋な彼女らしい生涯だったのではないかとY君は思ったという。
 彼女とは、同業ということで、卒業後も、親しく電話や手紙、最近はメールで行き来していた。今更、人には聞けないけれど、実は、ここ、よく知らないので、こっそり教えて。とか、教育に関する情報とかを、迷惑も顧みず、色々聞いた。私が腰を痛めて、精神的にまいってしまった時、SOSを発信したのも彼女宛だった。この一年間、だから、いつも以上にメールを送り、その都度、返事をくれた。愚痴を平気で言える数少ない異性の友人であった。
 歳をとると、異性で何でも言い合える友人を作ることはほとんど不可能になってくる。一生、こんな感じでお付き合いしていただけるものと、今の今まで何の疑いも持っていなかった。
 受け止めてくれる人の消失。その寂しさが私の心を占めている。
 通夜という「儀式」に出席した人は、否応なく現実を把握させられる。ある種の区切りともなる。それが「儀式」の役割である。しかし、メールで字面からだけしか情報を得ていない私は、いつまでたっても、彼女にメールを打とうとするのではないかと、今から心配している。

 

 2005年06月23日
  合掌。

 昨日昼前、K君より職場に電話。S女史が亡くなったとの知らせ。ちょうど、定期試験中で、テスト監督に行こうとした間際だったので、後報はメールでと手短にお願いして、担当教室へ向かった。素っ気ない応対で、K君には申し訳ないことをした。
 思ったより随分早い。彼は男性陣ということで、結局、最後の顔は見られなかったようだ。
 帰宅すると、大学の先輩からの留守電が入っていた。折り返し連絡し、香典の代参を依頼する。年賀状や書状でのやり取りはしていたが、お声を聞いたのは久しぶりである。でも、ご不幸の打ち合わせでは話も弾まない。
 夜、K君から、思い出を記した長文のメール来る。葬儀の日取りなども。
 事態の推移を見つめるだけの日々。

 

 2005年06月22日
  岩波新書の新刊を予測する
 図書室の予算は、毎年削られ、数年前まで年間百万円だったのに、今年は五十万円台に落とされている。継続購入図書があるので、それに予算のかなりの部分を使わざるを得ず、残りの金額で、良書と、生徒からの要望の多い客引き用の軽い読み物とのバランスを考えて選択する。その選択のための図書館運営委員会がこの前あった。
 岩波新書は、継続図書のほう。全巻揃えている。
 ここ十年、各社から新しいタイプの新書が発行され、新書は、カタログに長く残そうという気がさらさらない「旬」向きの本と、昔ながらの良書を末長くという発想の本とが、書店の棚に混ざるようになった。よく言えば、百花繚乱、悪く言えば、玉石混淆。その分、目当ての本に行きつきにくくなった。
 
 司書室に、まだ、分類シールの貼っていない、未処理の新刊本が置いてある。岩波新書では、小澤勲「認知症とは何か」(3月新刊)、須貝佑一「ぼけの予防」(5月新刊)など。
 雑誌は、読者とともに歳をとるという。若い人は、新しいスタイルの新書のほうに流れるだろう。その伝で行くと、岩波新書の購読年齢もかなりあがってきていることになる。
 今までは、どう介護するかというようなテーマの本ばかりだったけれど、今後、「正しい介護のされ方」「若い介護士との楽しく付き合う方法」「ボケは楽し」なんていう本が、絶対に出るような予感。
 2005年06月21日
   2ch掲示板で見つけた、ちょっといい話

 「どうしても誰かに聞いて欲しい話がある。 実は俺、恥ずかしながら稼ぎの悪い安サラリーマンなんだけど、ライカDIIが欲しくて 少ない小遣いからヘソクリなどしている。自宅のPCの壁紙にもDIIの写真を 使っているほど惚れ込んでいる。カメラなんかに全く興味の無い女房は、カメラの写真なんて見て楽しいの?と馬鹿にし続けていた。まあ、女房というのはこんなものだろう。

  そして一昨日、俺の誕生日だったんだが、女房が何年かぶりに「誕生日プレゼント」を俺に呉れた。新婚以来の珍事だった。包みを開けてみると中身はカメラ。
  しかし、軍艦部の銘は「ZORKII」レンズは「INDUSTAR」。女房は俺に「欲しかったんでしょ」と微笑む。涙が出そうになった。

  もうDIIなんかいらない。こいつを動かなくなるまで毎日使ってやろう。他のどんなカメラより大切にしようと誓ったね。]

(2005.6.17名無しさん)

 

 少し説明がいるかもしれない。ライカDUは1932年発売のカメラ史に残る名機。この御仁はかなりのマニアである。「ZORKII」ボディ、「INDUSTAR」レンズは、ライカの模造品。彼女は、自分のへそくり積んで、偽物を掴まされたのである。でも、彼は、一生、そのことを彼女には言わないだろう。
 ちょっとどころか、すごくいい話である。涙が出てくる。O・ヘンリーの短編「賢者の贈り物」(The Gift of the Magi)を思い出す。

 

 2005年06月20日
   何度もメール確認
 昨日の日曜日も、何度も何度もメールの確認をしてすごした。
 夜、連絡があって、面会した2人の友人の感想を知ることができた。
 体に何本もチューブをつながれ、枕元に機械が並んでいる集中治療室の彼女は、思ったより面やつれもなく、可愛い顔して寝ていたとのこと。呼吸器はつけておらず、手を握って話しかけることもできたようだ。しかし、呼吸が浅いまま眠っている姿に、ひたすら速く目覚めておくれと、呼びかけるしかなく、無念の思いだったとのこと。「痛々しいし見ていて涙が出て仕方がなかった」とも。
  私も、3ヶ月前、1日だけだが、集中治療室にいて、何本もの線に繋がれていたので、部屋の雰囲気は、ほぼ想像がつく。
 報告してくれたお礼のメールを打ったが、何をどう書けばいいのか、文章が思い浮かばない。「連絡有り難う。」と一言書いて、そのまま、ずっと画面を眺めていた。
 
 2005年06月18日
   連絡を受け取るだけなのが……。

 大学時代ワイワイやっていたメンバーの一人S女史が倒れて2ヶ月。連絡を受けてからは1ヶ月近くが経過した。まず意識が戻ることが回復の第一歩ということだったので、早く戻らないか祈りながらここのところ過ごしていたのだが……。 
 
 昨朝、共通の友人のYさんからメールが来ていたので開いたところ、数日前に危ない状態になり、会わせたい人があれば会わせた方がいいと医者が親族に告げたという。
 長引いていることの不安はあったが、意識がないと、徐々に悪い方に進行していくということなのだろう。
 慌てて、数人に、彼女のメールを添付して送った。
  昼、今度は、K君から職場のほうへ電話あり。会えるか分からないけれど、病院に行くつもりだという。お前も来るならばという誘いのニュアンスもあったが、現状の腰では、市内の移動が精一杯、東京行きなど、とても無理であると告げる。
 夜、Yさんから、再度、詳細な電話連絡。血圧が50くらいに下がっているので、医療的に上げている状態だという。面会は時間帯が決められて許可されているそうで、Yさん自身は、行きたい思っているが、本人の意識ないのに、寝ている様子を見に行くのは本人が不本意かもしれない。それに会うのに忍びないという思いが一方にあるということも言っていた。女性らしい、相手を思いやる心配りの言葉で、それもよく分かる。
 でも、会わなかったら、後で後悔するかもしれない。
 会いにいける距離の人は、その人なりに、自分の気持ちと相談しなければならず、辛い迷いである。
  で、この私といえば、結局、連絡を受けても、何も行動出来ず、見守っているだけ。そこが歯がゆい。
 何だか、信じられない気がする一方、若かったあのころのことが次々に思い出され、悲しい気持ちが湧いてくる。でも、まだまだ、意識のない中でも、彼女の体は病気と闘っているのだろうから、こっちが、そんな気持ちになってはダメではないかと思い返したり……。
 胸の真ん中に、重い錘を抱き込んだかのような気持ちを引きずったまま、終日、梅雨間近の湿気を感じる蒸し暑い西向きのリビングで、友人のメールを待っていた一日。

 

 

 2005年06月17日
  (つづき)

  これと同じようなことは、時々、経験する。
 某運動具メーカーが、市内の産業展示館で、夏と冬、安売りフェアを開催していている。我々夫婦は、毎回、行って、ジャージなど、日常の衣類をこの時にそろえる。
 店内放送では、爽やかな案内放送が流れている。訓練された澄み切った声。タイトスカートなんかが似合う、きりっとしたOLという感じの声調。
 ある時、臨時に置かれたキャッシャーの後ろで、背を向けて、折り畳み机に向かって、何やらモソモソやっている女性を発見した。よく見ると、みすぼらしいアンプとマイクに向かってしゃべっているではないか。もっと立派な放送室かどこかで流しているとばかり思っていたので、そのお手軽さ加減にも驚いたが、ばあちゃん服を着た、ウエストの結構あるオバチャンだったのには、もっと唖然とした。絶対にイメージがつながらない。
 でも、この話、並列したら、Hさん、絶対、怒るだろうなあ。一緒にせんといてって。
 
 ということで、今度は、プロのアナウンサーで、声も美人、見た目も、(若い頃は?)美人の大橋照子さんのサイトで見つけた話。

 

「ねぇ、聞いて聞いて」(2005/06/06)

 今日の午後、玄関で「ピンポーン」と鳴ったので、普段着のTシャツのまま私が出たら、40歳くらいのおにいさん(おじさん?)がトラックで来ていて、「すみませ〜ん」と言う。
私が、「何ですか?」と聞くと、「あの……。おとうさんか、おかあさん、いませんか? 荷物が届いているんですけど」だって。
ワ〜〜〜イ!「おとうさんか、おかあさん、いませんか?」だって〜!(笑)もちろん、「いませ〜ん!」と答えましたよ。
         (Webサイト「大橋照子のテルネットイン☆照子の部屋☆」)

 

 この嬉々とした報告ぶり。ドア越しの会話だったので、相手は声で判断したのである。この話、放送でも「みんな、聞いて、聞いて。」状態で嬉しそうにしゃべっていて、可笑しかった。よっぽど若く見られることは、女性にとって重要なんだと、男の私はちょっと傍観的に不思議に思う。
 愚妻に、ここの箇所を読んでもらうと、何が面白いのかとわからんという。まあ、そう言われればそうだけど……。でも、五十歳半ばの女性が、十幾つに間違われたその年齢差がやっぱり少しすごいという気はします。四十以上は誤魔化したんだから、
 やっぱり声美人はオトクです。
 
 こうした話と、反対のような、でも、同じような、いやいや、全然関係ない話を最後にします。
 職場の、活発なNさん。いかつい男子生徒を顎で使う、でも、さっぱりとした性格で、みんなから好かれる素敵な独身女性である。開けっぴろげな人なので、宴会で酔った拍子に校長を突き飛ばしたりする武勇伝も豊富にお持ちである。下手な男なら、後先のことを考えて、恐ろしくて絶対そんな行動出来っこない。それが出来てしまうのが羨ましい。
 その彼女、電話で話している声が聞こえる。いつもの竹を割ったような声ではない。内容は仕事の話だが、電話の相手は、気に入っている男性からなのだろう、優しい声を出している。彼女もこんな声を使うことがあるんだ。ちょっと甘えた声。精一杯、女性らしさをアピールしているようである。
 でも、何だが「甘えた」というのとはちょっと違うなあ。なんと言えばいいのか。彼女のしゃべり方を聞きながら、いろいろと形容を考えた。
 そうだ、あの声、「猫撫で声」に近い。鼠を捕まえる前の猫。ゴロゴロにゃん。
 うんうん、そうだそうだ、と、自分の表現の的確さに、一人悦に入っていたが、うれしさの余り、電話の終わった彼女に、そうしゃべってしまった。
 即、彼女の手が伸び、ネクタイを掴まれ、引っ張られ………(以下略)。

 

 2005年06月16日
  声美人

 もう一ヶ月以上前のことになるが、今年も恒例のアマチュア無線仲間による竹の子賞味会があった。ちゃんと、あれからお誘いの電話があり、滞りなく実施されたわけである。一家族が転勤され、今回、別に二名欠席ということで、三家族六人だけのこじんまりした会。
 無線が繋げた何の関係もなかった人たち。一度みんなで会いましょうということで、集まった。それ以来、もう二十年近いおつきあい。今では、みんな無線をしなくなったが、こうして、お食事会仲間に変質して、一年に一度楽しい時をすごす。
 そこで、いろいろな話がでたが、元々、機械もの大好きな連中である。やっぱり、発想がよく似ている。
 持っているケータイが、新旧あれど、何故か同じ機種。ごちゃごちゃした機能はいらない、基本性能が充実したものがよい。頑丈で小型化しているのがよいという発想。結局、ずっと前に、ワイワイやっていた、トランシーバー選びの基準と同じなのである。それで、何の打ち合わせもないのに、同じになった。
 デジカメもそう。これは、メーカー、機種は違えど、単三型電池対応を機種選びの第一条件にしている。専用バッテリーは、メーカーが足元を見て法外な値段をつけている上に、いつまで供給してくれるか不信感がある。みんな、それで痛い目に遭ってきたのである。
 似たもの同士が、自営業、国家公務員、大学職員、フリーター、様々な職種に就いている。日頃、高校の教育現場にいて、同業者とだけ付き合っている、狭小な世界に住んでる私にとって、こうした機会は貴重である。

 

 さて、今回は、声美人は得という話。
 メンバーのうちでHさんは最長老。今、息子さんが三十代のお母さん。しっとりした声色で、電波の上で聞くと、どんな落ち着いた麗人かと思ってしまう。これは、男の私ばかりでなく、愚妻もそう思ったそうだから間違いない。それほど、魅力的なお声をしている。彼女、同じく無線をやっている息子さんを弟と詐称していて、最初は真に受けて、そういう年齢の人だと思っていた。だから、初めてお会いした時は、「やられた〜。」である。でも、一世代下の我々と違和感なく話が出来て、可愛いらしさがあって、魅力的な方である。
 それにしても、声美人は得である。当時、金沢の電波の上で(だけ)は、彼女、知らぬ人なきマドンナだったような気がする。(つづく)

 

 2005年06月15日
  私は生徒?  ボツになった送別会「離任挨拶」(入院話題8)

 入院して数日目、ベッドでぼんやりしてたら、館内放送が入った。
「ただ今より会議を始めますので、関係の先生方は会議室にご参集下さい。」
 ああ、行かなきゃと思って、体を少し起こしてから、あれっと思う。私は、ここでは、「先生」ではなくて「患者さん」だ。職場でよく耳にする親しいフレーズの放送なので、一瞬、勘違いしたのである。
 その時、ああ、私は、今、学校でいうと「生徒」の立場なのだなと悟った。そこで、生徒の立場から、先生がいっぱいいるこの組織を眺めてやろうと思ったのである。一種の教員の企業研修。
 入棟の最初に、看護師より、職業を中心とした生活一般を聞かれる。それが、患者別ファイルに書かれる。患者さんと付き合う時、これまでどういうことをして、どういう性格で、どういう価値観の持ち主かを押さえることは、大事なことである。ファイルの始めのほうの欄には、どういう態度で接すれば有効かも書かれてようだ。
 ある時、患者さんが「その書類なに書いてあるの? この患者は要注意人物なんて書いてあるんやろ。」と質問した。看護師さんは、「そんなあからさまには書いてないけど……、その人のこと色々とね。」と誤魔化していた。
「やっぱ、悪口書いてあるんやな。」
茶化されていたけど、おそらく当たらずとも遠からずである。
 看護師は交代制で、どんどん業務がバトンタッチされていく。しかし、患者からどんな依頼があったか、愁訴があったかなど、実にしっかり伝わっている。
 ある女性の患者さんによると、娘が今日結納だったと親しい看護師にチラリと漏らしただけなのに、以後、一巡するまで、延々とおめでとうを言われ続けたという。きっと、そのことをファイルに書かれてしまったのである。本当に雑談で漏らした小事までも書いてあるようで、何で貴方がそんなことまで知っているの?という感じになる。
 つまりは、ケースカンファレンスが実にしっかりしているということだろう。
 振り返って、我々、教員。1限目にそのクラスで起こったことを、2限目の先生は全然知らない。全体を把握しているのはクラス担任だが、その担任さえ、クラス朝礼(ST)と授業のコマ、週に数時間だけである。どんな生徒がいるのか、担任は比較的早く把握するが、授業担当者は、完全に分かるのに一年かかる。分かった時には、クラス解体である。
 どうような性格かが、書類に書かれるのは、「指導要録」だけである。それは、記録のためであって、実地に使うためのものになっていない。
  医療は、ミスをすれば人の命に関わる。神経の使い方は教育とは比べものにならない。見習うべき点が多々あるような気がした。

 

  前に、ボツになった離任挨拶要旨を紹介したが、あれは生徒向け。こっちは、職員の送別会での異動挨拶に考えた要旨で、これも「幻の」である。

 

 2005年06月14日
  丸谷才一『猫のつもりが虎』(マガジンハウス)を読む

 丸谷才一のエッセイ集を、いつも行く書店の棚で見つけた。昨年6月の発刊。新刊以来、ここにいたのだろうか。気がつかなかった。
 90年代始めに、特定読者向けに配られていた雑誌の連載エッセイで、これまで本になっていなかったものを、今回、和田誠のカラーイラストも、そのまま、ふんだんに入れて、単行本化したものらしい。内容は、例の知的好奇心の横溢した縦横無尽の蘊蓄話で、時事をほとんど入れていないので(年来のファンであるホエールズが勝った負けたというような話はあるけど)、十年以上昔の文章でも、全然古びていない。
 和田さんと丸谷さんは本当に長いコンビで、丸谷さんのエッセイといえば和田さんの絵と、もう付いたもの状態である。今回は、タイトル絵で各回一頁、挿絵で一頁となかなか贅沢な作り。紙質もカラー用。文章の量がない分、活字も大きく、老眼進行中の目に優しい。弓道大会控室という、慌ただしい時間の合間に読むにはちょうどよい選択だった。
 絵で楽しみ、文章で楽しむ。
 それにしても、和田さん、一時期、爆発的に流行児になって、新刊本の平置きを俯瞰すると、大抵、二、三冊、彼の装幀の本があった時期がある。大好きなイラストレーターだったので、こんなに売れると、芸が荒れるのでは、とか、ブームが去ったら忘れ去られるのでは、とか、ちょっと心配した時期もある。
 つまり、この画家独特の「ほっこり」としたスタイルが、これでは飽きられて、見られなくなるのではないかと恐れたのである。
 でも、彼は、今も売れっ子で、そして、全然、スタイルを変えていない。それがいい。ベテランの今は、和田さんのスタイルに合う文章の方が、向こうからやってくるという感じになっているのではないだろうか。
 素人が手書きで書いたかのようなゴジック体風の中抜け文字。これで、和田さんの装幀だとすぐわかる。それに、似顔絵が本当に似ている。
 そして何よりも、本文と実にうまく連動している。挿絵として、これは最も重要なことだ。その文章のポイントを上手に掬い取って、その上に、和田流ウイットをまぶして絵画化している。丸谷さんが離さないのはよく分かる。

 

 最後に、今回のものを一つ紹介したい。文章で説明しても面白さ半減ですが。
 野坂昭如と半藤一利が、丁々発止、相撲談義している様子を横で聞いていたという回(「四十八手」)。錦絵風モリモリ筋肉の力士の投げのポーズに、二人の似顔がのせてある。髷を結った野坂と半藤の顔。
 はははは。傑作!!

 

 2005年06月13日
  テレビに出る?

 1ヶ月ほど前、放送部の生徒がやってきて、方言についての番組を撮っているのだけれどコメントがほしいという。「方言は必要ですか。」「最近、学校教育で方言を大事にしようという考え方がありますが、賛成ですか。」というような質問だった。その場で慌てて考えて、骨子を説明したら、えらく生徒は喜んで、そんなコメントが欲しかったのですと、喜々として撮っていった。
 私は、方言は、古い日本の言葉が多く残っているから、方言を勉強するということは、古典を学ぶことと同様、言葉の世界を豊かにするという話をしたのである。
 例えば、こちらの方言で「きときとの魚」というは、新鮮な魚という意味だが、これはもともと「急いで、すぐに」の意味の「きと」の重語で、おそらく、すぐに海から持ってきた魚という意味である。
 この話を、後で、司書の先生にすると、ピチピチというような擬態語的なニュアンスで使われているのかと思っていましたとのこと。確かに青魚の肌が光っているようなイメージがある。それも、おそらく含んではいるのだろう。

 私は、高校時代、放送部だった。
 彼らが喜んでいたのは、実は、よく分かる。
 企画を立てる段階で、最終的にどういう結論にもっていくか、部員同士で話し合い、大筋を決めて置かねばならない。行き当たりばったりでインタビューを続けても、テープが溜まっていくだけで、収斂していく方向性が見えなくなって混乱するばかりである。途中の変更の余地は残しつつ、ある方向性のコメントを期待して、インタビューをしていく。
 だが、思惑通りのコメントなど、そうそう取れるものではない。時に、制作者として心臓部だと思われるコメントを、「やらせ」ででっち上げることもある。番組中、何人かのインタビューが続くと、その最後のインタビューは、ちょっと怪しいことが多い。友達か誰かに頼んで言ってもらい、そのコメントを受けて、ナレーターや進行役は、話のまとめに入るのである。
 
 このドキュメンタリー番組、地元NHKで賞をとり、先日、夜のゴールデンタイムに放送されたらしい。私は見ていないが、およそ八分ほどの長さだったという。
 製作の裏事情はよくわかっている。おそらく、私のコメントは、最後の方の、結論的なところに挿入されたのではあるまいか。こちらは、国語が商売である。他の生徒や先生より、ちょっとは理屈っぽいコメントができる。だから、次の日、ある先生から、あれはやらせですかと聞かれた。違う違う。オリジナルです。
 この日、一番困ったのは、小部屋にいて、多くの先生方と頻繁にお会いすることがなくなっているので、教室前廊下ですれ違った方に、お久しぶりですねと声を掛けたところ、「いえ、あなたとは、昨日、テレビでお会いしました。」と言われたことである。

 

 2005年06月12日
   幸福な休日  ベートーヴェン七番を聴く。

 今日、久しぶりにコンサートに行って来た。発病以来、一年半ぶりである。
 2003年秋、鶴来町立文化会館クレインで、ハリー・アレン(ts)=スコット・ハミルトン(ts)双頭コンボを、日をおかず、金沢市観光会館でソニー・ロリンズ(ts)聴いて以来のこと。それから1ヶ月ほどして、腰を痛めたことになる。一時期、あれが自分にとって、最後のコンサート行きになったのしれないと思って、悲しかった時期もある。
 あの年は、金沢市民芸術村パフォーミングスクエアに渡辺貞夫(as)を、野々市文化会館フォルテにジェームス・ムーディ(ts)も聴きに行って、ジャズサックスづいていたなあ。
 長時間、窮屈な姿勢で椅子に座っていることが辛くて、注意も散漫になる。高いお金払ってそれでは、尚更、悲しくなるという理由から、今まで避けていたのだが、「大事大事ではもうダメだ。どんどん日常生活に戻っていきなさい。」という医者の指導もあり、今回、共済の福利事業として無料のコンサートだったこともあり、お試しということで、楽な気持ちで出かけた。

 場所は、駅前の石川県立音楽堂コンサートホール。演奏は、ルドルフ・シュトライヒャー指揮、オーケストラアンサンブル金沢(OEK)。曲は、モーツアルト「アイネ・クライネ・ナハトマジーク」「ピアノ協奏曲第二十番」、ベートーヴェン「交響曲第七番」というポピュラーな演目。
 七番はマイフェイバリットチューンである。こんな有名曲を好きだと広言すること自体ちょっと恥ずかしいくらいだけど、作曲家が酔っぱらいながら書いたというまことしやかな伝説があるくらい、華やかで明るい曲。「舞踏の聖化(ワーグナー)」「リズムの神化(リスト)」という形容をつけるのが常套で、解説という解説に絶対書いてある。
 ピッコロ、トロンボーン、コントラファゴットなどがなく、管は弱い。前時代に後退したようなシンプルな楽器編成。それで、これだけのリズムを作り出す。そこに作曲者の眼目があったのではないか。親しみやすいメロディで一般受けをかち取りつつ、当時、恐ろしく新しかったのではないかと聴くたびに思う。

 このオケで、この曲を聴くのは二回目である。前回は、十年近く前、根上町総合文化会館タント(現能美市根上総合文化会館)で、マイケル・ダウス(vln)の指揮&演奏で聴いた。熱演で、あの頃のこのオケのうまくなろうという勢いが感じられた演奏だった。
 小編成オーケストラなので、とうしてもたっぷりとした豊かさを表現するのには多少の無理があるが、こんな元気のいい曲は、オケの良い面が出る。このオケの得意演目である。ただ、今回は、悲しいかな、音圧が足りないと思った。全強奏の第四楽章で、早めにマックスになる。緊張感も若干欠いていた。
 因みに、CDのほうでは、カルロス・クライバー(指揮)の情熱的な中に洗練を極めた演奏が名演として知られる。小沢〜サイトウキネンもいい。勿論、愛聴盤。

 

 私が好きな理由も分かっている。この曲にジャズのエッセンスを感じるからだ。作曲家の筆に、思うがままの伸びやかさを感ずる。リズムが明快で、同一パターンが続くのも、ある意味、ジャズ的。ストップ&ゴー(短い総休止)の多用や、コール&レスポンスになっている部分も結構あって、その部分など、ジャズの二管編成でアダプトして演奏できてしまいそうなくらいである。つまり、ジャズの語法を感じる部分が多く、ジャズファンもクラシックアレルギーを感じない。終章の、畳みかけるようなお祭り騒ぎもジャズ好きには親しいノリである。
 おそらく、グレン・グールド(p)が鼻歌交じりに演奏する「ゴールドベルグ変奏曲」(CBSソニー)をジャズファンならだれでも愛聴するように、この曲も絶対好きになる種類の香りを持っているのだ。
 もちろん、歴史的に言えば、きちんとしたフォーマットの古典主義の枠組みの中に、ロマン主義の萌芽も感じられる。そんな二面性を持っているのが魅力である。

 

 弟夫婦にもチケットを融通して、夫婦二組で音楽鑑賞。こんなことははじめてである。腰もずっと痛くて気になったけど、座布団持参で何とかなった。
 今回、二年ぶりにバスを使った。定期がタッチ式のカードシステムになっているも初めて見た。いつの間にか、世の中、色々変わっていて、何かと新鮮である。
 元気だった時の普通の休日。それが出来た。帰りのバスの中で、知らない店の増えた片町・香林坊の景色を見ながら、何だか涙が出るくらい嬉しかった。

 夜、駅で買った、糸魚川の「海老釜飯」と地元大友楼の「おまつ御膳」なる駅弁で夕食。糸魚川から遠く旅した弁当だねと言いながら箸を運ぶ。駅弁も何年かぶり。
 ちょっと文化的な、フツーの休日を過ごせたことに、感謝。

 

 2005年06月11日
  額紫陽花、花開く。

 (いかにも以前からわかっていたような口ぶりですが)、真っ赤に咲き誇っていたサツキも盛りをすぎ、枯れ出したものも出てきた。太陽に熱を帯びてきたので、それに耐えきれなくなるかのような風情で凋む。
 通勤は、同じ経路なので、同じ道、同じ建物で、そうした無機的な部分は、何の変わりばえもないが、植物だけは毎日微妙に違っていて楽しい。その小さな変化を発見する15分の旅だと思いながら歩いている。
 あるお宅は、玄関先に色々な花が植えられていて、今が盛りに家を飾っている。変哲のない家が華やぐ。丹精込めているのだろうと思っていたら、昨朝、老婦人が水やりをしているところに出くわした。自分の余りの花の名前の知らなさに、ちょっと呆れていたところだったので、勇気を出して声をかける。
 あの、ちょっとお伺いしますが、この朝顔に似た白い花は何という名前なのでしょうか。
 ちょっと怪訝な顔をされる。無理もない。物騒な世の中である。
 話のやりとりの中で、彼女は警戒を解いてくれて、鉢の大きさとかを教えてくれた。「ペチュニア」(ナス科)という花らしい。これもカタカナ名前で、覚えきれるか怪しいなと思いながら、礼を言い、歩みを続けた。ちょっと、引退して暇を持て余している「じっちゃん」みたいな行動である。

 今度は、額紫陽花が咲いているのに出会う。西洋アジサイは一部に咲いているものを見かけていたが、額紫陽花はまだだった。6月10日、金沢で開花確認である。
 元々、アジサイは好きな花だった。花色が変化するのが、やはり、なんと言っても楽しい。一時期、ボロアパートのベランダで育てていた時期もある。生命力の強い低木で、今のマンションに引っ越す時に、株分けして、粘土質の敷地に植えてきた。あんな悪い土でも、今ではこんもりとそれなりの花勢である。もう一つは、愚妻の職場に植えた。これも細々ながら育っているらしい。
 若い頃、派手なアジサイに比べ、額紫陽花は周りしか花をつけず、何てみすぼらしい花なのだろうと思っていた。それが、いつ頃からか、額紫陽花のほうが好きになった。
 古い校舎時代、小職員室の眼下にアジサイが咲いていて、それで、今はとうに退職された先生に、この話をしたところ、今頃気づいたのですか、みたいに言われたのをはっきり覚えているので、もう十年は昔の話だ。その時、周りの同僚もこれに同意した方が多かったので、日本人は、加齢に従い、清楚でシンプルなものへの愛着を深めるものなのかもしれないと思ったことも、覚えている。
 咲き誇るアジサイは西洋種で、額紫陽花こそ在来種。古典で紫陽花が出てきたら額紫陽花のことという知識もその頃仕入れた。道理で、という感じである。
 今、例えば、パンジーを見ると、そのくっきりした色味に驚くが、全体の花の中に入れると、どことなく異質である。自己主張が強すぎるように思う。後からやってきた余所者といった感じに映る。
 そんなことに気づいたのも、徒歩だからである。

 2005年06月10日
  三年生引退式

 県総体が終わった次の週は、恒例の三年生の引退式である。空き教室に集まって、三年生一人一人、挨拶をする。
 女子の責任者である副部長など、「○○さんは本当に我が儘で、迷惑かけられっぱなしでした。」などど、言いにくいことも全部話す。普通、大人なら、いくらこれで最後とはいえ、これを言ったら終わりだなと我慢するようなことも、みんなバンバン言う。
 でも、起こるのは笑いである。同じ釜の飯を食った仲間だからこそ言える本音トークで、青春にだけ許された世界がここにあると、端から見ていて羨ましかった。話ながら、泣いたり笑ったり。言葉は足りないは、つっかかって沈黙はあるは。でも、今、彼らは輝いて美しい。

 最後に、正副顧問、コーチに記念品贈呈がある。私には、円座の低反発クッション。厚さ15cm近くあって、最初、椅子には不適ではないかと驚いたが、これ、道場の板の間にはぴったりだ。あの子たちなりによく考えてある。その気持ちがうれしい。「教師冥利に尽きる」という言葉があるが、そんな瞬間である。
 最後に、顧問からの訓話。
 「無粋ですが、」と断って、「毎年、この時に言うことがある。これは、前顧問がずっと言ってきたことで、ここにいないから私がかわりに言う。これで燃え尽きてはいけない。このパワーを今度は、受験に燃やせ。それが出来て、文武両道、弓道部部員である。それで三年間部をやってきたことになるのだ。」と。
 いやあ、今、こう書きながらも、本当に無粋だ。

 

  締めは全員で記念撮影。フルメンバーで写真を撮るのは、後にも先にも、毎年この時だけである。
 この写真が、後々まで何度でも見かえす、いい思い出写真になりますように。パシャ。

 2005年06月09日
  読書会のテキスト選び  山田詠美「ひよこの眼」を読む

 図書室にいると、生徒が、「人から薦められたんだけど、この本ここに置いていない?」と聞きにくる。司書の先生は、ここにあるものは、どこに置いてあるかすべて知っている。ないものは検索して、テキパキと指示している。さすがは専門だなと感心させられる。国語の教員は、教材関係、研究分野、自分の趣味の分野については詳しいものの、最近の話題本、生徒が興味をもつような分野の本は、意外に疎いものである。
 ここ2か月、本校の図書室で貸し出しが多かったのは、小川洋子『博士が愛した数式』(新潮社)、ダン・ブラウン『ダ・ヴィンチ・コード』(角川書店)。人気衰えずのものは、綿矢りさ『インストール』(河出書房新社)、片山恭一『世界の中心で、愛を叫ぶ』(小学館)など。すべて私は読んでない。
 老作家の随筆ばかり読んでいるようではイカンな、と反省。でも、少しだけ。
 先日、生徒が聞きに来たのは、「ひよこの眼」という作品。他校の友人が勧めてくれたのだという。灰谷健次郎『兎の眼』なら知っているけどねえと、大人は答える。ネットで検索すると、山田詠美の短編ということが分かる。『晩年の子供』(講談社1991)所収の短編で、高校教科書(2年配当)にも載っているそうだ。教材研究のサイトに本文が載っていたので、私はそれで読むことができた。(ただ、全文アップしてあるけれど、いいのだろうか。著作権法上問題がありそうだ。)
 この部屋の大人は、集団読書会用のテキストを探していたところなので、そうした営業目的(?)で読んでみる。
 転校生の寂しげな目に惹かれた女主人公は、周囲に冷やかされて仲良くなる。ある日、彼の目が、以前、飼って死んだひよこの眼と同じだと気づく。まもなく、彼は父親の無理心中の巻き添えで死亡。しかし、彼女はいつかそうなることがわかっていたような気がしていたというもの。
 文化祭の委員を決める時に、クラスメイトから茶化されて……と、どこにでもありそうな高校生活が活写されており、この年頃の女の子の心情を描いたら山田詠美はピカイチである。
 『ベッドタイムアイズ』(河出書房新社1985)で世に出て以来、ああした男性との性の交渉を中心にした作風の作家といったイメージしかなかったので、高校生の日常生活を描いた作品が入試や問題集に頻繁に採られるようになって、彼女の作風の変化を知った。高校国語教員は、こうした形で情報を仕入れることが多いのである。
 私がよく使うのは、短編小説「スイートバジル」(『放課後の音符』新潮社1989)からの出題(「小説問題の解法」桐原書店)である。
 幼なじみに恋をして、これまで通りのフランクな関係を維持できなくなった女主人公の心理を描いて、これもうまい。絶対高校生を引きつける話題である。今では、私にとって、彼女は、女子高校生ものの作家といったイメージになっている。
 さて、この「ひよこの眼」も、読書会用のテキストとして、取っつきは絶対にいい。ただ、問題は討議の内容が深まるかということ。高校生の恋愛というテーマなら盛り上がるだろうけれど、肝心なモチーフの「死の予感」に話が深まった時に、どういう反応が返ってくるだろう。元気な盛りの彼・彼女たちである。実体験があるはずもないこのモチーフに、実感として自分なりの意見を展開できるか、ちょっと疑問のところもある。
 彼ら流にいうと、ちょっと「微妙〜」。ということで、現在、保留中。

 

 2005年06月08日
  ウインドウディスプレーを撮る

 先日の日曜日、母親と愚妻を乗せて買い物に行く運転手役を仰せつかった。数十分程度なら車に乗っていられるようになったので、この種の手伝いもできる。
 量販店に行くのは1年半ぶりだった。特に欲しいものとてない。女性陣が買い物している間、どこかで休憩しようと思っていたが、ウエストが細くなって、ズボンが合わなくなっているからと、強く妻に勧められ、ズボンを新調することにした。軽くて腰に負担のないやつが大前提である。基準がはっきりしているので、超特急で見つかる。それで、やっぱり時間をもてあました。
 そこで、中央階段横のベンチでじっとしている。よく、奥さんを待っているくたびれたおっさんを見かけるが、私もいよいよ名実ともにその一員になった。

 目の前が子供服売り場である。マネキンのウインドウディスプレ

ーが美しい。じっと眺めていて、これを撮ろうと思いついた。
 なぜだろう。
 おそらく、ウインドウの中が原色の世界だったからである。色の対比は、写真好きにとって格好の素材である。そういえば、写真マニアサイトに、こうしたデパートディスプレーの画像がよくアップされている。
 スポット照明が降りそそぎ、明暗がコントラストを見せる。彩なす色たちの舞踏。そこに日常性を超えた視覚の世界がある。服という日常を提示することで、非日常をアピールする。そんなアブストラクトな世界なのだと気づいたのである。
 一度、ゆっくり、この巨大ショッピングモールの中で、スナップすると面白いかもしれない、そんな写欲が湧いてきた。(でも、本当にやったら、はっきり、怪しいおじさんである。あるいは、ライバル業者の視察と思われるかもしれない。)

 帰り、車が置いてある屋上駐車場から、あたりの景色を撮る。正面駐車場と、通りを隔てたビル、それに、近郊の山々が写っている何の変哲のない、がさついた街の写真。
 でも、家でパソコンに映し出された画像を見ながら、心揺れるものを感じる。
 なんでか。
 ここのところ、地べたを歩くことで精一杯。上から俯瞰する景色を見ること自体がなかった。久しぶりに大きく(?)行動した結果の景色だったからである。

 

 

 2005年06月07日
   阿川弘之『犬やさき人やさき』(文藝春秋社)を読む。

 入院中読んだ月刊誌「文芸春秋」で、阿川弘之の随筆が長期連載されていることを知る。既に二冊単行本化しているようなので、新しい方を取り寄せて、総体引率中の試合の合間に少しずつ読んでいった。
 掲載誌柄であろう、これまで読んできた滋味溢れるエッセイとは、多少、性格が違い、時事問題にも積極的に発言している。怒っている時は思いっきり怒っているような書き方がしてある。政治や時事に対するものは、その時々には、読者の興味をひくが、何年も経つと、どんな社会的事象を踏まえているのかさえ、分明でなくなる場合がある。また、経過中の事件などについてのコメントも、最終的な結論が、何年も後に読む我々には見えているので、古びて見える。
 志賀直哉に文章の極意を習った彼は、勿論、そうしたことは重々承知の上で、『七十の手習い』(講談社)『春風落月』(講談社)のような佳品とは、話題や書き方を変えているのである。古びてもよいという覚悟の文章として書いている。政治家への批判も多く、実際に政治家当人から反論の手紙さえもらっている。
 彼の立場は、「反共親台」である。彼ら世代が習った教育からも、戦中・戦後の中国・アジア情勢を同時代として生きてきた事実からも、彼の政治的立場はよく分かる。先だって読んだ江藤より一世代上の人だが、母国の荒廃を経験し「国単位」でものを考え、憂いている共通点を強く感じる。
 思想上の違いは、人間関係をはっきりと弁別する。修復や歩み寄りの余地のない絶対的な関係である。それと同様、阿川のこうした政治的発言ばかりを取り上げれば、頑迷な保守派として読むに足りぬと思う御仁も多数出てくるだろうことも、よく分かる。
 しかも、この作者、そうしたマイナス面を百も承知で書いているのである。
 こちらとしては、共感する部分もあれば、ずっと下の戦後世代として、違和感が残る部分もある。彼の心情をよく知るが故に、はらはらして、これ以上、刺激的なことは書かない方がいいのではと心配する心情も湧いてくるくらいだ。
 しかし、一面、彼の英国紳士を範にするダンディズムは、「なんでもあり」の現代には貴重だ。思想・心情的には同じ方向性でも、文化・生活面に発揮されたものは、痛快に読むことができる。
 だから、読んでいて面白かったのは、クイーンエリザベスU世号に接触された自衛艦の艦長が、謝りに来た上級航海士に「女王陛下にキスされて光栄であります。」と答え、小さいながら世界ニュースになったことを紹介しているような回である。現海上自衛隊も、旧海軍の伝統を引き継いで、英国風のユーモアを解していると、いたくご満悦な海軍大好き老作家の笑顔が彷彿とされるのである。

 

 2005年06月06日
  花*花、花。

 司書カウンターの花は、先週、「サポナリア」だった。撫子科の花だそうだが、本家とはあまり似ていない。この花は、見るのもはじめてなら名前も初耳である。薄赤紫色の小さい花で枝振りも細い。絶対、明日になったら忘れているね、カタカナ名前は意味がとれないから年寄りには困るねといいながら、皆で眺めた。
 翌朝、図書室に入ると、すぐに目がいく。やはり、花には「華」がある(当たり前か)。そこに座っておられた司書の先生に「ここで問題です。この花の名前はなんだったでしょうか。」と出題する。朝の第一声がこれである。彼女はちゃんと答えたので、感心したら、朝、復習しましたとのこと。エライ。勿論、私は忘れている。
 後日、また、彼女に聞いてみる。ちゃんと答えてくれる。大丈夫。定着している。
 でも、なんだかこの行動、まるで、生徒に動詞の活用を暗記しているか何度も復習させるのと一緒で、いかにも教員くさい。
 では、その出題者のほうはどうかといえば、ご心配なく。この文章書くために、私は、しっかり司書の先生に名前を確認しました。これで四度目。
 私にはちゃんと彼女がいる。

 

 自宅横の大通りの街路樹下にはツツジの植え込みが1kmほど続いており、5月上旬から中旬にかけ、赤やピンクの色をつけて美しかった。今は、それが枯れ、茶色となって、葉や枝に付着して少々汚く見える。今年もツツジの季節が終わったとばかり思いこんでいたら、このところ、職場や近所のマンション前の植え込みのツツジが、また、満開なのに気づいた。個体差によって多少の時期のずれがあるのは分かるが、途中、完全に見かけなくなって、第二の満開の時期がきたような感じなのである。おそらく日照の問題なのだろう。通り沿いは開けているので、終日太陽をうけているのに対して、ビルの植え込みは、建物の影になって数時間しか当たらない。
 でも、こっちは、ついこの前サヨナラをした友達にまた会ったような気分で、嬉しくなる。早速、マクロモードでお散歩カメラを向ける。
 本当に、今は花の盛りである。ちょっと違う道を歩くと、あちこちの家や用水の端、畑の隅で色々な花を見つける。パンジーくらいしか名前が分からないのがちょっと残念だが、名前を知っていると、「ああ、パンジーね。」で終わりで、花自体を見つめる「眼」を失ってしまうそうなので、それもよしとしよう。
 今は、「ここに見ぃつけた。」気分で、あちこち目配せするのが、歩行中の楽しみである。 

 

 さて、ここまでは早朝書いた。今日、我が職場の花博士が、梅花卯木(バイカウツギ、ユキノシタ科)をもっていらしたので、この疑問をぶつけてみた。すると、今咲いているのは、ツツジではなくてサツキですとの答え。花はそっくりだけど、葉が小さく先が尖っているとのこと。そういえば、明らかに葉が違う。時期が違うのも当たり前である。
 ツツジの仲間で見事なのは「ミヤマキリシマ(霧島ツツジ)」だと、これは、区別が分かっていた同僚の方から教えられ、ネットで検索、しばし、画像で一面燃えるような赤を堪能した。九州の山岳地帯に出向かず、ネットでさっさと鑑賞するのだから、何とも現代的である。
 それにしても、本当に基本的なことさえ何も知らない。小難しい読解ばっかり教えていて、こんなことさえ、教養を積まずに、うかうか生きてきたのである。

 2005年06月05日
  目出度いが、大人は。  個人戦報告

 昨日の個人戦で弓道は全日程を終了した。何と、男子個人でY君が2位。インターハイ出場を手にした。昨日言ったトラウマを跳ね返しての準優勝である。
 準決勝12射中11中で決勝に残り、決勝射詰めでは、5本連続で当て続け、6本目でハズして、それを当てた市立高の生徒に優勝をもっていかれた。でも、我が校弓道部男子個人の全国大会出場は、平成11年度のI君以来、6年ぶり。中りが続く、息も継がせぬいい決勝だった。
 表彰式後、賞状を持った本人を囲んでの記念撮影を買いたてのデジカメでした。それから顧問は居残って、出場手続きについて専門委員長より説明を受ける。
 目出度いが、問題山積。
 正顧問は、夏休み、県教委が科した十年次研修(強制)に出ねばならず、私は千葉県の片田舎まで引率する体ではない。計画していた部の夏合宿とも日程が一部重なる。名前だけお借りした第三顧問に、先日、その夏合宿の引率を、ご自分の予定を動かして頂いて、承諾を頂いたばかりである。顔さえ知らぬ生徒の県外引率を頼める義理ではない。はてさて、どうすれば解決するのか、若いコーチを交え鳩首協議したが、さっぱり分からないまま、まずは目出度い目出度いで解散した。
 さて、来週、再度協議である。は〜ぁ。

 2005年06月04日
  男女の違い  県総体団体戦結果

 昨日は、県総体弓道競技3日目。団体戦が終了した。毎年のことだが疲れ果てて、帰宅。今年は、男子団体予選落ち、女子24校中7位の成績であった。
 男子は、この一年、練習の実力を出し切れずに敗退するパターンが続いていて、そのトラウマから、この最後の大会で脱却してほしかったのだが、抜け出せなかった。練習であんなにいい射をしているのに、大会では、別人のように浮つく。
 女子は、その点、伝統的に本番に強い。今回は、不安だった2番3番4番がいい仕事をしてくれた。いつも安定しているマエ(1番)とオチ(5番)に当たらない回があって、それが残念だったが、でも実力はほぼ出し切った。
 「男は度胸、女は愛嬌」の時代ではないのである。
 
 大会は、準決勝の上位4校で、新たに総当たり戦(決勝リーグ戦)をするので、4位にさえ入れば、優勝のチャンスが再び巡ってくる。準決勝では、大抵、強豪が上位3校を占める。だから、4位に潜り込むのが、我々のようなごく普通レベルの学校の大目標である。今回も、最後に、3年をねぎらい、下級生が、先輩の果たせなかった夢の実現に邁進するよう訓話した。この話、毎年している大事な「意欲づけ」である。
 平成11年、あと1本入れておけば、優勝、インターハイに行けたのに、それが足りず涙を飲んだ経験がある。その涙を見ていた次の代が頑張って、翌年、優勝。念願の全国大会出場を果たした。本当に劇的な展開だった。
 生まれてこの方、スポーツなんぞやったことがない文弱の徒の私が、縁あって運動部の顧問となり、生徒の努力のお陰で、インターハイに行く。勿論、私は副顧問で、果たした役割はたいしたことないのだが、そんな自分がインターハイに行っている。それだけでも感激ものであった。我が教員人生のハイライトの一つとして、今でも大切な思い出である。
 そもそも、どれだけ一所懸命にやっていても、インターハイは、各スポーツ県一校しか出場できない。強豪校ひしめく中、県一位になることさえ、遠い世界の話だと思っていた。
 弓道は、いらぬ筋肉の力み一つで当たらない。最後は精神力がものをいうスポーツである。射場の後ろから見ていて、適度な緊張感があるのか、緊張しすぎて自分を見失っているのか、立ち上ってくるオーラのようなものがあって、手に取るようにわかる。一回終わるごとに反省会。よいテンションが4本とも持続できた場合は、まず褒める。その上で技術論である。持続できなかった時は、まず、それを指摘するところから。やっている本人たちは、チームとしてどんな雰囲気だったかまで客観的に分からないからである。

 男女の大きな違いは、男子が、こちらの助言が納得できるものであれば、「わかったか。」「ハイ。」で用が済むのに、女子は、感情が乱高下し、ある時は、顧問に食ってかかる子にじっくりと説明してやったり、ある時は、当たらずにみんなの迷惑だから選手交代してくれと落ち込むのを、なだめて落ち着かせたり。気持ちを一つにもっていくのに、大変な苦労をすることだ。
 その割に、心の弱さが出る男子と、本番でまとまる女子。
 これって、部だけの話でなく、男と女の本質的違いのミニチュア版を毎回体験させられているようなものかもしれない。
 それを毎回やっている我々は、もしかしたら、女性扱いの大ベテランかもしれないとチラリと思う。
 でも、それにしては、唐変木、いや朴念仁の集まりだ、男の教員って。

 2005年06月03日
  精神論的指導?

  今週は、県総体週間。ほとんどの教員が大会に出払っている。私も武道館に釘付け状態。顧問控室に、多くの教員が待機をしている。
 弓道は、団体の場合、一人4本5人立ちで計20本射るのを、何回か繰り返えす。それが男女ある。一時間おきくらいに出番が回る。
 完全に何時間も空いているのなら、息抜きに外出できるのだが、このサイクルでは、それもままならず、役員としての仕事が当たっていない時も、じっと待機するほかない。そんな待ち疲れが弓道のしんどさである。
 昨日、控室で、本を読んでいたら、ある女性顧問のところに、生徒が二人指導を仰ぎに来た。この方、年の頃なら三十半ば、十年以上顧問をされているが、確かご自分では引かない方である。
 「あなたは、引きがまだ足りないね。もっと伸びあって。」という声が聞こえてくる。こんな時、意外にみんな聞き耳をたてているものである。
 「先生、オレは?」
  「オレね。あんたは、そうねえ………ガンバってね。」
 一同大爆笑。彼女、この生徒のどこをどう直せばいいか分からなかったのだろう。でも、いいなあ。頑張ってという指導。彼女は、ちゃんと精神論的指導をしたことになる。

 

 2005年06月02日
  (つづき)

 「「西郷南洲」という思想。マルクス主義もアナーキズムもそのあらゆる変種も、近代化論もポストモダニズムも、日本人はかつて「西郷南洲」以上に強力な思想を一度も持ったことがなかった。」というエピローグの結論は、だから、そのまま、作者の現代に対する憂国の心情である。こうした思想は、つまりは明治政府の「姦謀」たちと変わることがない。そう作者はいいたいようである。
 
 情報・交通の国際化によって、世界はどんどんグローバル化しつつある。国単位でものを考えることが、以前に比べて当然ではなくなってきた。それこそが「平和主義」であるいう幻想さえ常識になりつつあるように思える。
 しかし、と私は考える。世界は依然として国の寄せ集めである。内戦の国、発展の端緒を見つけられずに低迷している国、順調に発展途上の国、発展を停止した国、イギリス病に犯されつつある国、それらの国々の集合体である。
 日本の基幹産業の自動車は、日産のルノー子会社化に代表されるように国際的再編の波に飲み込まれている。もう国中心主義に世界が戻らないというのならいい、ルノーは日本に利益を保証してくれるだろう。しかし、もし、世界が再びいがみあうようなことになった時、フランスの親会社はどんな決定を下すかは目に見えている。
 今年のニュースを拾っても、西武鉄道再建のゴタゴタに外国投資グループが虎視眈々と進出をねらい、ニッポン放送の買収劇にも米投資グループの影がある。
 もし、世界が緊張化した瞬間、日本は国際間でどう立ち回るとかいう以前に、足元自体が崩壊している可能性がある。
 江藤の投げかけは、敗戦と復興という経験を経てきた世代が持つ共通の危機感であり、国家意識の薄れた世代が導いている「滅びの道」への警鐘と受け止めるべきなのだろう。

 

 2005年06月01日
  国単位でものを考える 江藤淳『南洲残影』(文芸春秋社)を読む(江藤淳3)

 西南戦争にのみに焦点を絞った南洲西郷隆盛の滅亡記である。江藤淳には、三十歳代の仕事として『海舟余波ーわが読史余滴』(文藝春秋)があり、作者の幕末・維新期の時代把握はとうに済んでいる。西郷の正伝とも言える「西南記伝」にほとんど依拠しながら、江藤は滅びの行軍を跡付けていく。田原坂しか知らない私は、あの戦いですべてが決したのかと思っていたので、この本ではじめて連戦の全体像が理解できた。こうしたストーリーの部分は、歴史読み物として純粋に面白かった。

  しかし、江藤は、ほとんど南洲の人物的彫り込みをしていない。どちらかと言えば、ブレーンの策に乗って茫洋と動いているだけのような書き方である。おそらく、作者は西郷の人間的魅力の洗い出しなどに興味がなかったはずである。西郷ははじめから滅びを選んだ人として、西南戦争を始めるのであり、西南戦争のみを描いたこの作品では、だから、最初から、勝つために活動的に動くことが、この物語では許されていないのである。作者にとっての唯一の関心は、そう決断した「「西郷南洲」という思想」そのものだったのはずである。
 なぜ、江藤は南洲の滅亡を描かなければならなかったか。
 江藤は、第二次世界大戦降伏調印のため現れた、相模湾を埋め尽くす米国太平洋艦隊の記憶を語り、「その巨大な艦隊の幻影を、ひょっとすると西郷も観ていたのではないか」と、時代を遡って重ね合わせる。西郷は、いずれ来る日本の壊滅が見えていたのであり、「人間には(中略)国の滅亡を予感する能力は与えられているのではないか。その能力が少なくとも西郷隆盛にはあり、だからこそ敢えて挙兵したのではなかったか。」と彼は考えるのである。

  賊軍の汚名を負い、圧倒的官軍の兵力の前で負けることが明らかな戦いに何故挑んだのか。

  それは、「政府の「姦謀」が、ともに相寄って自ら国を滅ぼそうとしているとすれば、この一事だけはどうしても許すことができない。」という国家の正道を見据えた真っ直ぐな思いである。天子の軍に弓引くことで、「尽忠」とは相反することになってしまうが、国の行く末だけは見誤ってはならない、過つ者には、それが我が身の滅亡につながろうが、無謀を冒して戦うべき時もあるーそう南洲は確信していたはずだと江藤は考えたのである。(つづく)

 

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