今日、久しぶりにコンサートに行って来た。発病以来、一年半ぶりである。 2003年秋、鶴来町立文化会館クレインで、ハリー・アレン(ts)=スコット・ハミルトン(ts)双頭コンボを、日をおかず、金沢市観光会館でソニー・ロリンズ(ts)聴いて以来のこと。それから1ヶ月ほどして、腰を痛めたことになる。一時期、あれが自分にとって、最後のコンサート行きになったのしれないと思って、悲しかった時期もある。 あの年は、金沢市民芸術村パフォーミングスクエアに渡辺貞夫(as)を、野々市文化会館フォルテにジェームス・ムーディ(ts)も聴きに行って、ジャズサックスづいていたなあ。 長時間、窮屈な姿勢で椅子に座っていることが辛くて、注意も散漫になる。高いお金払ってそれでは、尚更、悲しくなるという理由から、今まで避けていたのだが、「大事大事ではもうダメだ。どんどん日常生活に戻っていきなさい。」という医者の指導もあり、今回、共済の福利事業として無料のコンサートだったこともあり、お試しということで、楽な気持ちで出かけた。
場所は、駅前の石川県立音楽堂コンサートホール。演奏は、ルドルフ・シュトライヒャー指揮、オーケストラアンサンブル金沢(OEK)。曲は、モーツアルト「アイネ・クライネ・ナハトマジーク」「ピアノ協奏曲第二十番」、ベートーヴェン「交響曲第七番」というポピュラーな演目。 七番はマイフェイバリットチューンである。こんな有名曲を好きだと広言すること自体ちょっと恥ずかしいくらいだけど、作曲家が酔っぱらいながら書いたというまことしやかな伝説があるくらい、華やかで明るい曲。「舞踏の聖化(ワーグナー)」「リズムの神化(リスト)」という形容をつけるのが常套で、解説という解説に絶対書いてある。 ピッコロ、トロンボーン、コントラファゴットなどがなく、管は弱い。前時代に後退したようなシンプルな楽器編成。それで、これだけのリズムを作り出す。そこに作曲者の眼目があったのではないか。親しみやすいメロディで一般受けをかち取りつつ、当時、恐ろしく新しかったのではないかと聴くたびに思う。
このオケで、この曲を聴くのは二回目である。前回は、十年近く前、根上町総合文化会館タント(現能美市根上総合文化会館)で、マイケル・ダウス(vln)の指揮&演奏で聴いた。熱演で、あの頃のこのオケのうまくなろうという勢いが感じられた演奏だった。 小編成オーケストラなので、とうしてもたっぷりとした豊かさを表現するのには多少の無理があるが、こんな元気のいい曲は、オケの良い面が出る。このオケの得意演目である。ただ、今回は、悲しいかな、音圧が足りないと思った。全強奏の第四楽章で、早めにマックスになる。緊張感も若干欠いていた。 因みに、CDのほうでは、カルロス・クライバー(指揮)の情熱的な中に洗練を極めた演奏が名演として知られる。小沢〜サイトウキネンもいい。勿論、愛聴盤。
私が好きな理由も分かっている。この曲にジャズのエッセンスを感じるからだ。作曲家の筆に、思うがままの伸びやかさを感ずる。リズムが明快で、同一パターンが続くのも、ある意味、ジャズ的。ストップ&ゴー(短い総休止)の多用や、コール&レスポンスになっている部分も結構あって、その部分など、ジャズの二管編成でアダプトして演奏できてしまいそうなくらいである。つまり、ジャズの語法を感じる部分が多く、ジャズファンもクラシックアレルギーを感じない。終章の、畳みかけるようなお祭り騒ぎもジャズ好きには親しいノリである。 おそらく、グレン・グールド(p)が鼻歌交じりに演奏する「ゴールドベルグ変奏曲」(CBSソニー)をジャズファンならだれでも愛聴するように、この曲も絶対好きになる種類の香りを持っているのだ。 もちろん、歴史的に言えば、きちんとしたフォーマットの古典主義の枠組みの中に、ロマン主義の萌芽も感じられる。そんな二面性を持っているのが魅力である。
弟夫婦にもチケットを融通して、夫婦二組で音楽鑑賞。こんなことははじめてである。腰もずっと痛くて気になったけど、座布団持参で何とかなった。 今回、二年ぶりにバスを使った。定期がタッチ式のカードシステムになっているも初めて見た。いつの間にか、世の中、色々変わっていて、何かと新鮮である。 元気だった時の普通の休日。それが出来た。帰りのバスの中で、知らない店の増えた片町・香林坊の景色を見ながら、何だか涙が出るくらい嬉しかった。
夜、駅で買った、糸魚川の「海老釜飯」と地元大友楼の「おまつ御膳」なる駅弁で夕食。糸魚川から遠く旅した弁当だねと言いながら箸を運ぶ。駅弁も何年かぶり。 ちょっと文化的な、フツーの休日を過ごせたことに、感謝。
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