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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年08月31日
  ジブリ「猫の恩返し」を観る

 その買いたてのビデオキャプチャで、最初に録ったのが、TV初放送(日本テレビ系8/26)のスタジオジブリ「猫の恩返し」(2002年)。
 「自分の時間」を見つけられない主人公の女子高生は、猫を助けたことで、図らずも猫の国に行くことになり、猫の王子と結婚させられそうになるのを、バロンらの活躍で元の世界に戻ることが出来たという話。
 大枠では、「耳をすませば」(1995年)と同系列の作品。猫のバロンなど同一キャラクターが出てくることもあるが、現代の女の子が主人公の「成長物語」「自分捜し」という点で、モチーフが一緒である。現代がフレーム(額縁)になっていて、別世界に行く点では、「千と千尋の神隠し」(2001年)的な要素もある。いろいろ、ジブリの常套をうまく使いながら、楽しいファンタジーに仕立ててある。

 

 ジブリのアニメは「風の谷のナウシカ」(1984年)「もののけ姫」(1997年)など、ちょっと児童には難しいものもあるが、これは、猫の話なので、幼児も問題なく楽しめる。その辺りから、主人公の高校生世代くらいまでが、おそらく想定観客層。だから、「おもいでぽろぽろ」(1991年)などよりは少し下の層を狙っている。ちなみに、「おもいでぽろぽろ」の主人公は27歳のOL。「耳をすませば」は中三の受験生である。
 ネット上では、B級だという厳しい評価も散見されたが、その人は、想定観客から外れている人だからだろう。幼児から女子高生向けの作品を観て、「ナウシカ」あたりの名作と較べること自体、あまり意味がない。

 この「ナウシカ」と較べてしまうというのは、以前は、スタジオジブリの宿命みたいなものだった。テーマも重厚で、大人も楽しめるアニメというところが、発表当時、新鮮だった。次作「天空の城ラピュタ」(1986年)は、しっかり封切りで観たが、正直、「ナウシカ」より子供向けだと、ちょっとがっかりした思い出がある。次の「となりのトトロ」(1988年)にいたっては、あまりに短くさっさと終わる「お子様向け」で、最初、拍子抜けさえした。
 そもそも、「となりのトトロ」を、映画館で見た人は極めて少ない。私もLDで。封切り時の観客動員数も、ジブリの中で低いほうのはずである(観客動員数約80万人。「千と千尋の神隠し」は2350万人)。後になって評価が高まったタイプの作品。これも、「風の谷のナウシカ」の呪縛である。おそらく、再評価されていったこと自体、観客のほうが、呪縛から解放されていったということなのであろう。お子様向けだが、何故か印象に残り、何度も観てしまうという気持ちで、大人は評価を上げていったはずだ。

 

 私が、最初に宮崎駿作品を知ったのは、「ルパン三世 カリオストロの城」(1979年)。大学生時代、封切り館で観た。これはちょっと自慢。今でこそ、宮崎駿だからと、それだけで観に行く人も多いが、特に漫画ファンでもない金欠病の学生が、面白いかどうかも判らないアニメにロードショー料金払うのは、ちょっとした賭けだった。現に私の周囲には誰もいない。多くの人は、テレビ放映で遡って観たクチだろう。ちょっと、モンキーパンチのタッチと違っていて、冒頭、違和感があったが、筋立てがうまく、ひき込まれた。ラストの時計台のシーンなど特に迫力があり、いつものルパンとだいぶ違っていたが、これはこれで名作だと思ったことをよく覚えている。
 もちろん、この作風が宮崎の世界なのだと知ったのは、随分、後年のこと。何度もテレビで放映され、女の子の顔なども含め、あちこち、これはジブリの世界であると確認できた。おそらく、私だけでなく、多くの人が、そうして楽しんだのではないか。逆に若い人は、最初から宮崎作品として観るから、全然、違和感は感じないだろう。

 

 「猫の恩返し」を観て思ったのは、主人公の女子高生が、いかにも今時の女の子であるということ。「耳をすませば」でもなく「おもいでぽろぽろ」でもない。今時の女子高生によくいる、素直だけど、少しボンヤリしているタイプの子。
 女性ものを作る場合、どんなキャラクターにするかということは一番の重要事。幼児から小学校くらいまでの客は、目がクルクル回るカリカチャアされた猫王や、格好いいバロンなどの猫キャラクターで引っ張っていける。しかし、客層を高校生まで引き上げるには、女性の共感を得ることが第一条件である。そうした意味で、日々、彼女らに接している高校教師の私が、「あ、この子は今時の子。」と違和感なく感じたということは、それだけで大成功ということだ。中間部の猫の国の話が子供っぽいので、圧倒的に女子高生に共感を与えるという話ではないが、シンパシーは感じたはずである。
 「となりのトトロ」や「千と千尋の神隠し」は、子供が主人公のファンタジー、「猫の恩返し」もファンタジーだが、主人公は女子高生、ちょっと年齢を上げて、過去作と重ならないように作ってある。ちょっと、対象が分裂していて「二兎を追う者」になっているような気がしないでもないが、まあ、うまいものである。

 2005年08月30日
  ビデオキャプチャを買う。(物欲話題)

 パソコンというのは、仕事でも使うが、大人の玩具でもある。映像に凝っている人など、ビデオ編集などで楽しんでいる。私はカメラの人なので、本当は高処理機は必要ないのだが、、せっかく、今冬、ちょっとCPUのいいノートパソコンを買ったのだから、有効利用ということで、先日、1万円ほど出して、ソフトエンコーダタイプの「外付けビデオキャプチャ(TVチューナー)」(I-O DATA GW-MVP/SZ)を買った。
 欲しくてたまらなかったというより、生活に、何か、新しい展開がほしかったのである。新しいカメラを買って3ヶ月が経過。ちょうど、次の物欲が湧いてくるころだったからかもしれない。
 今の住まいは、各部屋にテレビの端子がきている。これで、どの部屋からでもテレビが見られるようになった。
 最新型マンションなら、ネット用に、全部屋、電話端子もきているようだけど、十年前の建物では、電話線は一箇所、居間のカウンターの横にあるだけ。電話が鳴ると、家の中心までトコトコ出かけなければならない(まるで大邸宅のような言い方)。そこが、ちょっとこのマンションの古さを感じるところである。
 さて、インプレッション。
 デスクトップパソコンで、既にテレビを使っているので、ノートだからといって、そんなに感激はなかった。お手軽タイプなので、画像もそれなり。布団にノートパソコン持っていって、寝ながらテレビが見られることだけが「進化」である。
 進化? いや、退化かも……。

 

 それにしても、パソコン話題はすぐ古びる。外付けといえば、家には四年ほど前に買った外付けCD−Rドライブがあるが、今やDVDの時代、不要品になった。壊れたわけでもないので捨てられもせず、その辺に放置されている。
 この周辺機器も、どうなることやら。数年後、「あの頃、世の中に、ビデオキャプチャなんてものがあったな、そういえば。」というのが、この項を読んでの感想になること必至である。

 

 2005年08月29日
   「いただきました」その後。

 この前、言葉遣いを茶化したラーメン屋さんに行ってきた。書いたこっちは忘れていたのだけれど、愚妻は、入った当初、私の雑談に上の空、聞き耳を立てている。どうしたのかと問うと、あんた、忘れたの? という返事。そういえば、思い出した。
 実は、あの次の日、同僚の国語教師に、この「いただきました」のことを話したところ、「そうよねえ。最近、タメ口と過剰敬語とに二極分化しているわね。」と同意をもらい、調子に乗って、そのラーメンチェーン本部のHPに、あの文章をメールに添付して、投書したのである。匿名というのも卑怯である、ちゃんと名前も名乗って、アドレスも書いた。正々堂々、意見を言ったつもり。彼女にはそのことを話してあった。
 店員が注文を受けて、賄いに行った。さて、何というか、私も耳を澄ます。
「味噌、御願いします。」
 なるほど、「御〜します」は、丁寧語。話し手の聞き手への敬語。ここでは、注文聞いた店員が、調理人に敬意を表したことになる。これなら問題はない。即、本部お客様係が対処したようだ。
 でも、しばらくいると、なんだか、前とちょっと雰囲気が違う。お寿司屋さんよろしく「いただきました」を声高に連発していた時と違って、元気がない。
 トップダウン式に、この店に注意が行き、メンバー全員、意気消沈。自分たちの接客言葉に自信が持てなくなっているかのようである。なんだか、私がいじめたみたいで嫌な感じ。
 元気がないのも、それはそれで、ちょっと問題だなあと思ったけれど、まあ、それは店の判断である。いくら何でも、また投書する気にはなれない。

 それより、私が急に心配になったのは、ポイントカードのこと。ポイント貯まったら食事券をくれる。カードは回収。そこには、当然、私の名前が書かれてある。
 「あ、コイツが、俺らに文句を言った奴だ。」と、そこでバレる。文句言いの要注意人物ブラックリストに載るかもしれない(?)。

 

 困った。行きつけの店なのに、なんだか行きづらいことになってしまった。

(追記 その後もこのお店には行っています。途中から、えらく元気になって、生きのいいお寿司屋さんのようになりました。言葉も問題なし。フロア係の女性の客さばきも見事で、いい感じになっています。2007.4)

 

 

 2005年08月28日
  妻の体調不良(2)
 その最悪の体調の次の朝、彼女は立派に声を潰しておりました。微熱が喉にきたのである。
 にもかかわらず、その夜、宴会に行って、午前様近くまで酒場でわあわあとしゃべり、次の日、彼女の喉は最悪になっておりました。自業自得。
 慌てて内科に行って風邪薬もらってきたようだけど、その時、どうしてここまでひどくなったのですかと医者に質問されたらしい。もちろん、酒場でがなり立てて悪化させたなんてことは、一言も言わないまま。
 患者が、正確な情報を言わなかったので、おそらく、薬の処方箋、ピントがはずれていると思います。
 2005年08月27日
   妻の体調不良(1)

 ブログから人気が出た「実録鬼嫁日記」(カズマ著 アメーバブックス)が話題になっている。私は、本の方ではなく、ブログの方に行って、旦那が描く妻の鬼嫁ぶりを読み、我が妻も、旦那に対してこんな感じの態度とるよなあと共感しきり。被害者同盟的共鳴。

 その愚妻が珍しく体調を崩している。旅行が続いた上に、膨満感があるということで、その日、昼食を抜いて、夕刻、ジムの風呂に入り、冷房を入れない暑い自室に戻ってきたあたりで、吐き気がするとダウン。実は、朝すでにちょっと吐いたらしい。
 疲れと暑気あたりが重なって発症したのだろう。
 こんな時に言う日本語は決まっている。
 「鬼の霍乱」。どんな屈強の者も病気になることがある。
もちろん、私は、ここぞとばかりに使いましたよ。
 
 それが、数日前の話。
 ところで、「霍乱」ってなんだろうと、今日、「広辞苑」を繰りました。
 
  霍乱(カクラン)……暑気あたりの病。日射病を指すが、古くは吐瀉病も含めて用いた。季題ー夏。

 

 つまり、吐き気を伴う暑気あたりのこと。あまりに「文字通り」のことが起こっているので、吃驚しました。
 「鬼嫁の暑気あたり」。

 

 2005年08月26日
  研修雑感二題。

 その一。
 8月は研修が多い。昨日、通る発声の仕方を習って、その講演終了後、司会者が、「ありがとうございました。えー、なにかご質問がありましたら〜」と、まとめにかかった。それが、ちょっと下を向きつつのボソボソ声。
 即、こっち側から、「おおい、全然、習ったこと生かされてないぞ。」と、本人に聞こえない程度にヤジが飛んでいた。
 前にも書いたけど、やっぱり、教員は、すぐに習ったことを当て嵌めたがる人種であります。

 

 その二。
 授業中、ごく一部、やる気のない生徒が寝る。寝ているのは、教員の授業に魅力がなく、工夫がないからだ、一層、努力せよ。と我々は言われ続けている。
 数ヶ月前の教員研修の時、仕事が錯綜している最中の開催で、皆疲れ切っていた。その上、内容に魅力がなかったので、クラクラとなった人がいたようだ。次の会議の際、教員が寝ているなんてとんでもない。まず、しっかり聞く態度を身につけなければならないと怒られた。
 ひとつひとつは、間違っていないけど、並列したら、ちょっと矛盾してませんかねえ。
 ただ、どっちにしろ、怒られるのは我々教員のほうである。
 

 

 2005年08月25日
  時間の問題

 18日より後期補習中。午後は、会議やら研修やら何やら。提出問題集のチェック、読書感想文読みなどで潰れていく。
 昔と違って、今の生徒には、まとまった夏休みがないに等しい。クーラーも入り、全校生徒出校なのだから、変則的な補習するより通常授業をしたほうが余程よいのではという呟きも聞こえてくる。私も、徐々にそんな気がしてきた。なんだが、中途半端な印象。
 それにしても、子供の頃、夏休みは楽しみだった。人生の一大イベント。それは、高校になっても変わらない。そんなお楽しみを奪って平然としているのは大人たちである。

 

 今日の研修の講師は、現勤務校に赴任してきた時、大学入ったばかりのOBで顔見知り。こっちは、「おい、○○。」と、下の名前呼び捨てだった子。今日は講師様で、我々に授業の発声の仕方などについて教えてくれる。
  彼は、だから、教え子ではない。ぎりぎりセーフ。
 でも、「負うた子に教えられ」ではないが、教え子が私を教育しにくるのも時間の問題だ。ふぅ〜。

 2005年08月24日
  (つづき)

 工業的箱食品には、色々なまがい物が入っていて、色や香り、味が人工的に補強されていることも、我々は、箱に書いてある「内容表示」を見て知っている。聞いたことない名前の添加物も多い。こんなに人工的に色々調製されていたら、後世、問題になる危険物質が含まれているかもしれないということも判っている。
 だが、そんなこと、今、心配したって仕方がない。暇とお金がある人だけが、食品の「安全」を買えるのである。
 そこで、一般消費者は、大手の食品会社だから大丈夫だろうという「ブランド信仰」に走ることになる。あのブランドさんでさえ混ぜている添加物なのだから、大丈夫なのだろうと……。つまり、個人個人、心の中で、お墨付きを勝手に与えて安心しているのである。この心理を悪用すれば、使いはじめた大企業勝ちということになってしまう。ある種、ブランドの影に犯罪が隠されてしまう危険性がある。
 この、「ブランド」力、失墜するとどうなるかは、何年か前の「雪印」問題で目の当たりにしたことである。

 

 今のは生産の話だが、流通もそう。英国では上位五社の食品小売業で国内食品販売の三分の二を占めているという(鷲谷いづみ「自然再生」中公新書)。これは、日本で言うと、大手のジャスコが取り扱っているのだから安心だというような神話が形成された結果、生まれた寡占状態なのだろう。これでは、問題が起これば、一遽に国民の大多数が、直接健康に影響を受けることになりかねず、空恐ろしい事態になっているともいえる。
 
 これまで、あまりに外食中心、家食もレトルトやインスタント食品に頼ってきた。ちょっとはヘルシーを心がけよう、でも、日々、忙しい。その結果、我が家は、最初に書いたような、素材の袋物の多用というかたちになって現れたのである。
 筍の水煮。ヒジキの半戻しレトルト、根野菜の水煮、大豆のサラダ用、小豆の……。
 先に言ったように、素材だから、安全度は加工品よりは高いはず。野菜なのでヘルシー。すぐ腐らず、日持ちがする。半完成なのですぐ出来る。ーなぜ、急に多用し始めたのか、こう列記していくと実によくわかる。

 

 最後に、よくやる定番料理を、もうひとつご紹介。
 煮物野菜の水煮一袋をご用意下さい。これだけでは量がたりないので、カットされた蒟蒻、豚の角切り肉を買ってきて、全部、フライパンに突っ込んで甘くどく煮る。筑前煮の出来上がりである。これも、まな板なんか、全然、要らない。
 問題なのは、包丁使わなくても調理ハサミを使わない日がないくらい、毎日毎日、包装をジョキジョキ切っていること。包装ゴミが大量に出る。
 家庭料理って、こんなんでいいんでしょうか。ちょっと不安です。

 2005年08月23日
  袋の中の安全

 共稼ぎなので、ゆっくり夕食を作っている時間的余裕がない。出来合いか冷凍食品の解凍だけで用の済むもの一品、もう一品は、作り置きの日持ちのするものを、折に触れ大量に作って、三〜四食はそれでこなす。あとは、買ってきた漬け物類。
 他の家庭はどうなのだろう。料理大好き奥さんのいる家庭とはくらべものにならない手抜き食事だが、職場で目の前に座っていらっしゃる年上の女性は、どこの家庭もそんなものですよとのこと。ただ、こういうのは、家庭によって千差万別、標準というのを割り出すこと自体、難しい。

 私がよく作る作り置き手抜き料理は、「高野豆腐のたき合わせ」。
 粉末ダシ付き、八分でOKなんていうのをベースに、スライス済の干し椎茸、刻んである乾燥小松菜を入れて煮るだけ。お湯に、乾物の袋三つ口を開けて入れ込んで煮れば出来上がり。
 我が家は、熱源が電気なので、タイマーをかけて弱火にして、あとはその場を離れても問題なし。作ったことさえ忘れている有様で、出来上がっている。豆類、茸類、葉物と、栄養的にもバランスがとれていて、ヘルシー。おすすめ簡単料理である。

 

 ちゃんと生鮮野菜使えと言われれば、その通りなのだが、野菜をまるまる買ってくると、我が家のような二人暮らしでは、腐らせてしまうこともしばしば。野菜は傷んだところを切り取りながら使うのが当たり前のようになって、野菜といえば、大丈夫か、見落として、傷んだのを混ぜて調理していないか、お腹こわさないかといった不安感がつきまとうことになる。
 そこで、乾物の出番。半端差しで終わっても、輪ゴムで括って食料庫に戻すだけ。便利便利。それに、この、乾物のような、もともと自然なものをドライ化したものならば、残留農薬以外、まず問題はない。

 

 しかし、我々は、気がつくと、保存性と利便性優先で、レトルトや「○○の素」みたいな箱入り食品を買いがちである。食品庫の棚にそんな箱が並んでいると、傷みかかった野菜使うより、工業的にオートメーション化され、衛生的に留意して生産された「製品」の方が、食品として安心という気になってくる。なにせ、口の切っていない箱から出しているのだから大丈夫にちがいないというような……。
 もちろん、それは虚妄でしかないのだが、そんな保証のない安心感が心に巣くっているのも事実である。(つづく)

 2005年08月22日
  お盆総括

 ハワイに引き続き行った義母の墓参のツアーコンダクター(?)から愚妻が戻ってきて、我が家は平常運転に。
 腰が悪くなって以降、休みは終日在宅ばかり。お籠もりに飽き飽きして、息が詰まってくる。これが心理的には随分辛い。人間、行動が制限されると、のびのびすることがなくなって、胸に重たいものを抱え込んだ感じになるようなのだ。
 ネットばかりというのもあんまりである。そこで、HPの手直しをすることにした。これまで文章ばかりで地味だったHPに、画像を貼り付けたり、リンクのバナーを貼ったりして、視覚的に多少カラフルなものにした。新しく趣味の頁も新設。プチリニューアルである。
 「最新更新情報」の項は、だから、1月に論文アップしましたからポンと飛んで、8月日付でいくつも並んでいる。いかにも、お盆にまとめてやりましたである。

 旅行に行った人は、あの夏は何をしたという記憶が残る。家にいた人は何もない。例えば、去年の夏、何をしていたのか、さっきから思い出そうとしているのだが、全然、思い出せない。このままでは、来年、同じ感慨を持つことになる。
 旅行から帰ってすぐの愚妻に、私は「HPの更改で、それなりに忙しかったよ。」としゃべったのだが、どうも私は、家にいたことの理由づけと、その記憶の同意者が欲しかったのである。  


 

 2005年08月21日
   高島徹治「わかる!技術」(三笠書房 知的生き方文庫)を読む。

 本校の文芸部は、毎年、文化祭で古本市をする。このため、今、要らなくなった本を募集していて、今年も愚妻に声をかけたら、上記の文庫を渡してくれた。
 供出箱に出す前に、職場でパラパラと読んだ。読む技術、書く技術、覚える技術など八項目に分けて説明されているが、たいしたことない話を長々書いてある。例えば、「読む」技術、「書く」技術」って、こっちが生徒に教えているようなこと。麗々しく、トップダウンで文章は書けとアドバイスしているが、つまりは、頭括式文章(演繹法)のことである。半頁も説明すれば済むような話。
 愚妻が要らないはずである。ハズレ。
 即、箱にポイ。

 

 2005年08月20日
   ラーメン屋さんは、たらふく食っている?

 よくいくファミレス型ラーメン屋での、店員の言葉にちょっと問題が……。
 店員が客に注文を聞いて、賄いの窓口まで行って、大声で、餃子いただきました。醤油いただきました。冷麺いただきました。と注文を通している。立ち働いている全員、「いただきました。いただきました。」の連発。
 いただきましたって、いただくのはこっちじゃないか、君たち、そんなに自分らの商品食ってどうするんだ、もうお腹一杯だろうと、チャチャを入れたくなった。

 

 「いただく」とは、本来、頭の上に載せる意。「明鏡国語辞典」では、C番目に「もらう」の謙譲語、「頂戴する」の意。D番目に「食べる」の謙譲語とある。
  確かに、注文をもらったのだから、Cの意味で使っている訳で、なんだ問題ないのかなと一瞬思ったが、いや待て。やはり、おかしい。
 お客さんからもらったのは、味噌ラーメンではない。客から、「ハイ、味噌ラーメンあげるよ。」と、丼渡されたら、確かに「味噌ラーメンいただきました」だ。でも、もらったのは、ラーメンの「注文」である。だから、「お客様より味噌ラーメンのご注文をいただきました。」というのなら正しい。
 この場合、いただくの前に、食べ物がきているのが曲者。そのため、日本語として、食べ物に「いただく」をつければ、食べる意味に使うのが普通というもの。
 大事な本体の「注文」という言葉を省略したために起こった混同。ちょっとした笑い話ならいいけれど、大真面目に言っているので、おかしくなっちゃったのである。
 そもそも、調理人に伝える時まで、客の注文に敬語をつけて言う必要はない。面と向かっている時に使えばいいことである。
 典型的な過剰敬語。
 奥に向かって、「味噌二つ、餃子一丁で〜す。」で充分ですよ。△番ラーメンさん。

 2005年08月19日
  (つづき)

  我々は高度成長経済とともに育ってきた世代だが、それでも、幼児期は、本当に戦前と変わらないような生活を体験している。親のお里帰りで田舎に行けば、水は井戸ポンプで汲んだりしていた。田圃一面、蛍の乱舞を見て綺麗だったこともよく覚えている。
 では、生まれも育ちも高層マンションというような、現代っ子はどうなのだろう。

 奥野卓司は、蛍狩りや焼き芋など、大人の過去にはあって子供にはないにもかかわらず、大人の勝手な郷愁に充分付き合って、ちゃんと懐かしがってくれるという事実に着目し、ないものを「あたかも在るかのようにふるまえる感性こそ、彼らの才能である」と評価する。現代っ子の、大人には太刀打ちできない「感性」や「想像力」の部分で、ちゃんと「現代文明の暴走を制御」できるのではないかと期待をかけているのである。(「朝日新聞」S60.7.10)
 ゲーム遊びばかりしてと、いつも否定的な評価しか受けない子供たちを、だからこそ、我々と違った形で、しっかり未来に対応していくにちがいないとする論旨は、初めて読んだ時、なかなか新鮮であった。
 確かに、前述の昭和三、四十年代テーマパークなど、大人だけのノスタルジーだけで流行っているとも思えない。親と一緒に懐かしがってくれる子供たちの存在は大きいようにも思う。
 
 とすると、発表後十五年近く、今も大人気の映画「となりのトトロ」。あの懐かしい田舎の光景を観ている子供たちの感覚って、どうなのだろう。
 ちょっと、四つほど考えてみた。

 

1、農耕民族である日本人のDNAに、ああした田園風景が、懐かしいものとしてインプットされており、どんなに実生活の環境がサイバー化しようとも、本能として、懐かしく思うように日本人はできているに違いない。

 

2、奥野が言うように、子供には、体験したこともないことを在るかのように対処できるコンピュータ世代ならではの感性があり、大人の郷愁に付き合うことが可能、それで、一緒に楽しむこともできる。トトロではそんな楽しみ方をしているのだ。

 

3、見たこともない田園風景は、まるで異国のように見えており、ノスタルジーというより、エキゾチズムのような感覚で観て、新鮮さを感じている。

 

4、大人は、あの昔の風景が懐かしく、そこに惹かれるが、子供は、そんなところは観ていない。ぷっくり図体のトトロやまっくろくろすけなどという可愛いキャラクターが好きなだけである。保育園・幼稚園で永遠のスターになったのは、それと、教える大人側のノスタルジーとが一致したからである。 

 

 昔は、1だと思っていたのだが、今は、ちょっと自信がない。

 

 

 

(職場で、手を拭こうとしたら、ヨレたタオルにいた。)

 2005年08月18日
  (つづき)

  今から四十年後、現代の風俗がノスタルジーの対象になるのに、何の不思議もなけれども、では、一体、今の、どの部分が対象になるのかは、なかなか想像し難い。
 人間の生活として連綿と続いているものは、対象になり得ない。変化がないから。
 かといって、一瞬の風俗であったものまで、そういちいちノスタルジーを感ずるものでもない。今は消失してしまったが、その時は、見慣れた光景だった、あるいは、必需品だったというような、思い入れのあったものに対して感ずるもののはずである。

 先日、ある番組で、今の生活で、無くなったものを取り上げていた。その中で、一番、そうだ、そうだった、こんなのあったと膝を叩いたものがある。
 それは、トイレの手水(ちょうず)タンク。
 正式には何というのだろうか。トイレの横にぶら下がっていた手洗い水用のタンクである。下を向いた蓮口の棒を手で押し上げると水がでる仕組み。昔、厠は汲み取り式で、水道がきてなかったので必要だった道具。何週間も同じ水なので、中で腐っていたかもしれない、今から考えると、あまり衛生的とは言えない代物。
 あれも、水洗の普及とともになくなった。
 家々に絶対あった。絶対必要で誰でも知ってる器具。個人を超えた、日本人に共通したノスタルジーになりうるのは、こんな日常の品々である。

 ノスタルジーとは、本来「郷愁」のこと。つまり、「故郷を思う心」のことをいう。しかし、今は拡大解釈されて、過去に対する懐かしさをも指すようになった。先ほど言った、消失した「もの」に対する懐かしさの感情などもその範疇に入る。
 ある文章で、ノスタルジーとは、今や、テクノロジーの消長に対して使う言葉だという指摘があったが、確かに、もう使われなくなった電気製品の話で、我々世代はよく盛り上がったりする。
 昔、家にあった父愛用のオープンリールテープレコーダーを、石川県立歴史博物館で見つけた時の私の気持ちなんて、その典型的なものだ。
 都市生まれの都市育ち。帰るべき懐かしい田舎の風景を原風景として持たない我々にとって、その機械を使っていた過去の記憶こそ帰るべき懐かしき原風景なのである。悲しいことと言えば、悲しいが、それを嘆いていてもどうにもならない。それが現実である。
 つまり、ノスタルジーという言葉の意味の変質は、そのまま実態の変質を表しているのであった。(つづく)

 

 2005年08月17日
  ノスタルジー

 そういえば、5月末頃、小学館から「昭和の時代」なる写真とデータからなるビジュアル本が出ると、パンフレットを外商さんが持ってきていた。今、現物が新刊として、司書室の未処理棚に置いてある。帯に「戦後六十年記念出版」とある。
 昭和が終わった時、「昭和時代」を総括する企画が乱立した。あの時との大きな違いは、「高度経済成長期から」となっている点で、それ以前を切って捨ててある。本をめくると、昭和三、四十年代の卓袱台食事風景や、お母さんの割烹着姿の写真などが並んでいる。なるほど、それ以前の時代を懐かしがる人は、もはや老齢で、積極的な購買層ではない。昭和三十、四十年代を懐かしがる人が、今の世の中の主力になっている訳で、商売としては、よく考えられている。
 昭和三十年代前半生まれの私にとっても、この手の写真は、子どもの頃の懐かしい記憶そのもので、ノスタルジーを感ずる。昭和三、四十年代を模した博物館やフードパークも大流行、懐かし世代に、若い世代も巻き込んで、今、大ブームとなっているのは周知の通り。
 「愛・地球博」でも、サツキとメイの家(映画「となりのトトロ」)が大人気。予約で一杯である。あの話は、昭和三十年頃が時代設定で、大正から昭和初期の和風建築に、家の前面だけテラス状の西洋建築を継ぎ足したような、典型的な和洋折衷建築である。
 実は、私の実家も同じ昭和初期の建築。外観は洋館仕立てで、内は一部に洋式を取り入れてはいるものの、全体的には和式の作り。少し似ている。この手の折衷造り、当時流行の建築様式だったようである。
 先日、愚妻が母を連れて、このトトロの家を見に行ったが、そこに置いてあった小物が糊づけしてあって、笑ったという。確かに、いろいろな懐かしグッズは、盗まれやすそうである。
 ただ、この家、万博ツアーのメインだったにもかかわらず、七十歳代の義母は、全然、感激しなかったそうである。こんなの、実家の九州の田舎には、今も沢山建っているというのである。
 彼女が立ち返る原風景は、その前の時代、戦前・戦中の生活で、戦後十年頃の風俗に、取り立てて感慨がないのも無理からぬことであった。(つづく)

 

 2005年08月16日
  あの頃のラジオ

 今から二十五年ほど前の夏、NHKラジオ第一で、ラジオドラマシリーズ「黒後家蜘蛛の会」(アイザック・アシモフ作)が、連夜、放送された。女人禁制のクラブに集うなじみの客が不可解な話をし、皆でそれを推理する。でも、いつも最後に給仕のヘンリーが図星の答えを言って終わるのである。安楽椅子探偵もののバリエーションといったところだが、アシモフの筋立ての面白さ、ヘンリー役の久米明のはまり具合、第一話だけで魅了され、毎回、聞くのが楽しみだったことをよく覚えている。アシモフの名もその時覚えた。その時まで、SF界の巨匠なんてことは知らなかった。
 因みに、この小説、創元推理文庫から「黒後家蜘蛛の会(1)〜(5)」(池央耿訳)として、今も現役で出ている。

 

  先だっての部合宿の時、同世代で、お宅も我が家のご近所の同僚と同室だった。夜、ビール片手に昔話になる。深夜放送全盛で、オールナイトニッポン(ニッポン放送)やパックインミュージック(TBS)なんかを必死で聞いていた世代だ。ナッチャコパック(金曜日担当)の話も出る。「早稲田の星」なんていう投稿者のペンネームまで覚えている。
 あの頃、BCL(海外短波放送傍受)も盛んで、彼は、多バンドのラジオが欲しくてたまらなかったという。私は買ってもらったよ、羨ましいでしょと、威張ってみる。
 でも、まあ、ここまでは、我々同世代の定番話題である。

 

 あの頃は、お互いラジオ少年でしたねと相槌を打って、短波や深夜放送だけでなく、私は、よくNHKのラジオドラマも聞いていました。ご存じないでしょうけど、夏にアシモフの「黒後家蜘蛛の会」というのをやっていて……と話しはじめたら、彼、よく知っています。あれに感動して、以後のドラマシリーズ、第一からFMに放送が移ってからもずっと聞いていましたとのたまう。私よりフリークで、なんと、実家のどこかに、今でも録音テープがあるはずだという。傑作ですよね、アシモフもあれで知りました。それまで、全然、興味なかったけど、あれでドラマ(劇)もいいモンだとはじめて思いましたと語った。
 私は、彼に近寄って、握手したいくらい嬉しかった。今まで、この話をして、知っていた人はいなかった。無理もない、深夜放送みたいなブームでもなんでもない、四半世紀前の、ただのNHKの日々の放送である。
 あの頃、お互い知らない青年が、ラジオドラマを聞いて感激し、今も、しっかりそれを覚えている。自分だけじゃない、同じ時に同じ思いをした人がここにいる。紛うことなくあれは名作ドラマだった。そんな思いを今でも抱いていた人がいたという共有感。  
 もう五年も職場でご一緒だが、お互い、そんな話はしたことがない。仕事の話かご近所話題が関の山である。職場みんなでこんな話できたら、仕事もスムーズにいくだろうに……。何か、心の懐かしい部分を隠して、大人という生き物は、あくせく仕事にいそしんでいるようなのだ。
  夜1時頃まで雑談して、明日があると慌てて寝たのだが、ひどく満足した気持ちの一夜だった。

 

 2005年08月15日
  (つづき) 

 広島・長崎を、いつまでも事実の記録や情緒面から訴えてみても駄目だ。早く、核兵器廃絶の「思想」を確立して、世界に訴えていかねばならないという評論を、若い頃読んで、その通りだと、高く評価していた時期が長かった。けれど、全然、世界に浸透せずに、事ここに到っていることを思うと、まず、事実を正確に、人々の心に残るように、しっかりと受け継ぎ、語り継いでいくという、基本中の基本に戻らないと、大変なことになるのではいかという危惧の念が、年々、大きくなっている。まずは、それを、もう一度日本人から。

 

 昔、授業に余裕があった頃、1学年に一編、原爆教材か戦争教材を意識的に入れていてた。でも、今は、それどころではない。徐々に教科書会社も力を入れなくなってきたし、授業が統一教材・統一テストの方向で進んでいて、自主教材が扱いづらくなってきたこともある。且つ、隣県に完全に負けている旧帝大系大学進学者増加至上主義が県上層部の意向となれば、のんびり、そんなことやっていると、教員能力主義の世の中、自分の首を絞めることにもなりかねない。そこで、あまりやらなくなった。
 自分から、語り継ぎを放棄していて、偉そうになんだと怒られそうで、ちょっと言い訳がましいが、そんな流れだからこそ、余計、心配している。本当に何にも知らない連中が急増しているのだから……。

 今年のNHKの調査によると、広島に原爆が落ちた日を知っている人は、二十歳以上の日本人の38%しかいなくなったという。今や、知っている方が少数派なのである。

 私たちの世代は、親が苦労してきたのを何度も何度も聞かされて知っている世代である。それに、自分の子供時代、今から考えると、ものがあまりなくて貧乏だった。我が家だけでなく、日本全体がそうだった。それで、少しは類推できるのである。いわば「推理でわかる世代」。でも、そこ辺りが限度。もう一つ下の世代からは、新たにイメージしてもらうところから始めなければならない。

 

 先日、広島の慰霊祭を取り上げた韓国の報道を、日本のテレビで紹介していた。その時の韓国人記者のコメントはこうだった。
 「加害者の日本が、ここでは、まるで被害者のように振る舞っています。」
 なんと冷徹な発想。これでは、広島・長崎の宣言が世界の思想になる訳がない。正直、暗い気持ちになった。
 でも、おそらく、今の日本の子供たちは、原爆で人が大勢死んだから慰霊祭をやっているだけで、原爆はいけないのだということは、世界の人が当たり前と思っていると思っている。その認識不足が怖い。
 米国の世論の約八割(前述の調査では約六割)が、広島原爆投下容認派なのだよ、そんな中で、子孫累代影響を及ぼす、井上ひさし流に言うと、兵器としてあるまじき、「分不相応」な爆弾を使ったことに、反省を迫ることは必要なことだし、今後、絶対に使わないと、二度使った国をはじめとして全世界が統一して意思表示しなければならないでしょう。どんなに強固に自国の行為の正当性が主張されていて、そっちの方が世界世論として多数派でも、それを突き崩して、禁止思想を全人類に植え付けねば、結局、どこかの国が、また、どこかで使うことになるよ。そうした意味で、ここ六十年間、原爆がどこにも落とされなかったのは、単に僥倖でしかないのだよ。
 この最低限の廃絶の思想、それに、人間を人間でなくす無差別大量殺戮の実感的なイメージ。まずは、そこから。しっかり引き継がねば……。

 

 ここのところの近隣諸国の日本バッシングを見るにつけ、今もアジア諸国は日本が大嫌いなことがよく分かる。今頃になってはっきり判ることだが、日本の戦後の歩みは、見事なまでに失敗だった。
 戦後、明確に戦争を謝罪し、軍国主義と決別したことを世界にアピールしつづけること。迷惑をかけた国々の心証を少しずつ和らげ、長年かけてでも許しをもらうこと。ドイツはこれをしっかりやってきたではないか。その上で、核兵器禁止の思想を、リーダーシップをもって推進していく。その時初めて、世界は日本の言うことに耳を貸すだろう。
 これまでは、サーバントとして、ご主人様のいうことさえ聞いていれば、すべてうまくいくと思いこんでいたのだ。そして、今も、その路線は変わらない。
 こんなシンプルな未来見取り図さえ描けず、実行も出来なかった日本人は、ちょっと呆れるくらいの甚六である。

 2005年08月14日
   語り継ぐことに立ち戻ってー戦後六十年に思う。

 今年の8月6日、広島の原爆投下の時間、私は、合宿中で、弓具を積んで道場に移動していた。9日、長崎の投下の時間、私は金沢地区弓道大会の真っ最中だった。
 あの時、広島は朝8時15分、子供たちは登校途中だったり、学校に着いたところだったりした。長崎は11時2分、みんな日中の活動をしていた。あれから六十年の年月。
 毎年、威儀を正して黙祷している訳でもないが、いつも、この時間は意識している。
 若い頃は、正直なところ、全然、考えなしだったが、原民喜が「夏の花」で書き残した彼自身の逃避の足跡をなぞる旅を経験したことと、それにともなって、原爆資料を多く読み漁って以来、私は、脳裏に、はっきり、映画のように光景を描けるようになった。
 例えば、縮景園横の川岸の様子は、多くの人が絵に描き、文章に残している。それらを総合しても、何の矛盾もない。みんな、あの時の異様な光景を、後年まで、雲の動き一つに到るまで、はっきり記憶しているのである。私は、一つの事実を、あらゆる角度から立体的に見させられている思いで、頭の中にその映像を構築した。
 特に、長田新編「原爆の子(上)(下)」(岩波文庫)や、朗読劇「この子たちの夏」の子供たちの証言は、一人一人の思いの丈が詰まっていて、深い悲しみを誘った。近所の図書館からは、原爆写真集を何度も借りてコピーした。それと、広島文学旅行で撮った写真を組み合わせて、私は、私的な「原民喜『夏の花』アルバム」を完成させている。

 

 生き残った人たちが見た光景。
 首のない我が子をおぶりながら、幽霊のようにさまよい歩く母親。
 水を飲むために川に降り、そのまま動けなくなって、増水で流されていく人々。
 防火用水に顔をつけてうっぷしたまま事切れている死体。
 親が燃えさかる家の下敷きになり、早くお逃げと言われて、そのままにして逃げざるを得なかった子供たち。彼は一生このことを負い目に感じながら生きていただろう。
 むごたらしい、こうした光景は、勿論、私の実体験ではなく、頭の中でイメージを再構築したものに過ぎない。が、おそらく一生忘れない光景である。
 長崎のほうは、残念ながら勉強不足であまり詳しくない。もう十五年以上昔、三省堂の大判国語教科書で「ナガサキの郵便配達」(ピーター・タウンゼント作)の抄録が採られていた。そこには、郵便配達の少年が九死に一生を得て、健康を取り戻していく様子が克明に描かれていて、印象深かった。逃げ延びた山から見た市内の火災の様子など、今でもよく覚えている。
 それゆえ、あの惨状の中で死んでいった人たち、なんとか生き残った人たちに、哀悼と生きる尊さを教えてくれたことへの感謝を捧げるのは当然であるという、人間としてベーシックな部分で、私はあの時間を過ごす。そして、今、何処で何をしている最中か、確認する。こうした何気ない日常の一瞬に閃光が散ったのだな、今、この場所で、運良く生き残ったら、どう行動するだろうか、と思う。

 

 戦後六十年たつということは、単純に言えば、当時を知らない世代が多数を占めるようになったということである。その頃、世の中を動かしていた中年以上の人は、誰もいなくなっている。
 我が老父は、戦争末期、学徒動員で、富山県石動の工場で働かされていた。年齢的には徴兵の歳だが、理系の学徒は兵役が免除されていた。8月1日には、富山市大空襲で空が真っ赤になるのを眺め、そこで終戦を迎える。冬、山口への墓参の途中、広島に降り立ち、焼け野原や原爆症の患者さんを、自分の目で目撃している。
 これに対し、義父は少年兵だった。九州で終戦を迎え、長崎と、金沢への帰りの列車から、やはり、焼け野原の広島を、二箇所とも目撃している。これは、投下からほど近い時期である。
 あの頃は、学年一つの違いや、ちょっとした進路の相違で、人生の明暗を分けた。
 金沢は、戦災に遭わなかったので、直接の戦争の傷は、他の都市の住民からみたら浅いほうである。それでも、親族を戦争で無くした人は多くおられる。
 私の親戚では、金沢の叔母一家が満州からの引き上げ途中に、幼い我が子が死亡し、それでもおぶって引き上げ船に乗り、見つかって水葬に附されたという悲しい話がある。何十年たっても、その話がでると、叔母は涙を流すと、父はよく語っていた。その叔母ももういない。それでも、我が一族は、誰も戦地に行かずに済んで僥倖だった部類である。

 

 七十歳代後半の父たちの世代でさえ、もう国外に派兵されなくて済んだ世代。外地で大変な目にあってきた人たちは、もう八十歳を超えている。逆に、六十歳すぎから七十歳前半の世代となると、子供心に覚えていて、お腹がすいて辛かったという思い出になる。
 我々の仕事は六十歳定年だから、今、子供に教えている現職教師は、もう全員、「戦争を知らない子供たち」である。
 やがて、あの時を生きていた人がいなくなる。まだまだ先のことだが、近づきつつあることを、予感させるに充分な時の長さになった。
 そして、その次に我々が年寄りになる時代がくる。その時、日本の平和教育はうまく受け継がれているのだろうか。(つづく)

 2005年08月13日
   仕事が好き?

 愚妻がハワイに行き、独り身のお盆休みとなっている。ジムも今日からお休みで、腰の痛いオジサンは行くところがない。地元で盆の行事がない一族であるからして、終日、インターネット三昧ですごす。
 数珠つなぎでネットサーフィンしていて、全然、知らない専業主婦のブログ(HP日記)に、やっぱり、今日からジムが休みで行くところがないと書いてあって、ちょっと笑った。中年女性のジム大流行の一端がこんなところにも仄見える。それにしても、よく似た生活ぶりである。

 

 他のサイトに移動して、目に飛び込んだ文章。

 

 「日記に、仕事の話を平気で書いている人は、よほど、その仕事が好きなのだ。」と。

 

 そういえば、大抵は、自分の趣味の分野を開陳するのが目的でHPを開設している。仕事の話を個人のHPに書くことはあまりしない。好きでなきゃ書かないでしょということらしい。
 ところで、この私はといえば、よく、この日記に教育関係の話題を書く。
 ということは、自分は、そんなに仕事が好きなのだろうかと、一瞬、疑心暗鬼を生じた(?)けれど、これ、おそらく違いますね。わたくし、子供を愛してやまないタイプの人じゃない。

 観察の対象が、教員だったり、教育だったりするというだけ。なぜなら、変な人物がいたり、変なことがよく起こるからです。変なことだらけ。

 結構毛だらけ、猫灰だらけ。お前の○は○だらけ。
(すいません。暴走しました。「だらけ」から寅さんの啖呵売(タンカウリ、タンカバイとも)を思い出してしまったのでした。)

 2005年08月12日
  生老病死の合間を縫って

 10日よりお盆休みに入った。
 7日日曜日は、姪の赤子披露の集いが愚妻の実家であり、一族再会。実家の松任に帰って出産をした姪が、盆休みで帰ってきた旦那と一緒に、赤ちゃんを見せに、母方の家に顔を出してくれたのである。盆明け、赤ちゃんを連れて関西の任地に戻る予定という。
 輪の中に赤ん坊がいる、若い生命がいる。それだけで、場が華やぐ。古い大婆ばは、赤子を抱いて離さず、婆ちゃんなりたて母親は、まだ自覚がなさそう。二十歳代前半の新米母親と言えば、子育ての先輩である姉貴に聞いても、「忘れた」ばっかりであてにならんと試行錯誤中のよう。女中心で、わあわあと盛り上がり、お寿司もとって酒も飲んで、数時間、いつも静かな家は歓声に包まれた。
 夜になり、疲れ果てた大婆ばが、もう帰れやと宣言し、若夫婦は「なんか、追い出されるみたいや。」といいながら退散して、宴はお開きになった。
 そろそろ、なんていう前触れもなく、もてなし側から急に宣言するのが彼女らしい。
 県外にいる孫夫婦、そうはこられない。今年、自分の姉を亡くした大婆ばには、ある思いがあったのだろう。周りの顰蹙ものともせず、この先、何年か分まとめての曾孫抱きを決行して、そうして、すっかり飽きてしまったのである。

 

 休みを利用して、初日午前中に、胆石の診察を受けに行く。エコー映像の結果、石が小さくなっているとかで、順調とのこと。慶賀のいたり。この調子で、今後も延々と溶かす薬(ウルソ)を飲み続けるように言われる。
 待たされた挙げ句、ようやくもらった薬袋。これが、本当になんとも大きい袋である。お菓子の詰め合わせ袋なら、中がカラフルで楽しくもあろうが、全部、無機的な銀のプレートにのった錠剤。これだけの分量を、毎食毎食、飽きもせず、欠かさず飲み下すのかと思うと、ちょっと、イヤハヤ気分であった。
 食生活が乱れると、また、すぐに育ちますよと、釘もしっかり刺されて、ちょっと近頃の食生活を反省しつつ、帰る。
 この日、弟が入院手術の次の日だったのだが、この、私自身の通院のため、母親連れての見舞いは午後になった。老父は、今度は、午後に通院予約があり、翌日のお見舞いとなる。これも私が運転手。

 

 かたや生、かたや老病。それぞれの「生老病死」の合間を縫って、自分の予定を組んでいるみたいで、哀しいくらいに可笑しい。


 

 2005年08月11日
   (つづき)

 私のボロ下宿は目黒にあったけれど、漫画家たちの揺籃の地、有名なトキワ荘はどこにあったのか、ちょっと気になって、この本に書いてあった住所を地図検索してみた。
 現豊島区南長崎3丁目(旧椎名町)。目白通りを少し入ったところに、それはあった。当時の最寄り駅は、西武池袋線椎名町駅。
 私は、1978年、上京して数ヶ月、西武新宿線下落合駅前にある学生寮に住んでいたことがあり、一度、そこから北上して、椎名町駅まで歩いたことがある。別の路線なのだが、あの辺りは、かなり両線が寄っていて、意外に近いので驚いた。かたや豊島区で池袋線、かたや新宿区で新宿線。全然別の地域のようなイメージだったからである。
 椎名町へ行く時には、下落合から、一度、高田馬場まで出て、山手線で池袋へ行き、再度、西武に乗り換えて椎名町までへ行かなければならないものだと思いこんでいた。それなのに、徒歩で簡単に行けてしまって、びっくりしたのである。
 今、地図上で測ると、豊島区のトキワ荘は、新宿区の我が寮から北西へ八百米ほどしか離れていない。取り壊しは、昭和57年(1982)なので、現存していたはず。あの時、見に行っておけばよかったと、今頃になって後悔したけど、でも、当時は、まだ、このアパートのことは、一部マニア以外、そんなに知られていなかった。全国的に有名になったのは、80年代に入ってからである。

 

 ここまで書いて、そういえば……と、急に、懐かしい昔話を思い出した。
 あの当時、寮の仲間から、赤塚不二夫がこの近所に住んでいて、よく行く近所のラーメン屋に食べに来ると聞いたことがあった。確か、寮の一人は、そこで赤塚にラーメンをおごられたという話も伝わっていた。
 トキワ荘の住人たちは、近くの中華食堂「松葉」のラーメンをこよなく愛していた(ご存じのラーメン好きの小池さんというキャラクターまで作っちゃっているくらいだ)から、彼も、もちろん、ラーメン大好きだったのだろう。
 「おそ松くん」が私の小学校低学年頃に大ヒットしたから、赤塚は、売れっ子時代を少し過ぎたくらいの時期だったはず。その時は、ふうん、近くに有名人がいるんだ程度に聞いていただけだったが、今から考えると、そんな時代になっても、彼は、トキワ荘から程遠からぬところに住んでいたことになる。
 おそらく、東京のあの周辺は、赤塚にとって、青春の思い出、離れ難きホームグラウンドだったのだろう。そして、私も、生まれて初めての東京。観るもの聞くもの新鮮だった頃の、あの辺り。

 漫画史の一コマに、私自身の懐かしい思い出が色々絡まってくる。
 この本を読み、トキワ荘のことを調べながら、私は、なんだか、しばらく不思議な懐かしい感覚に浸っていた。

                                  (番組販促用フリー画像より)

 2005年08月10日
  トキワ荘の青春 山辺健史「マンガ世界の歩き方」(岩波ジュニア新書)を読む。

 我が校は、新入生の合格から入学までの間の課題として、数冊の新書から適当に1冊あてがって、感想を書いてもらっている。夏の読書感想文の宿題以外に、その中からもよいものを選んで、県の大会に出している。そこで、その作文読みが図書課教員の夏の仕事になっている。
 上記の新書も、その中の一冊。古本屋でバイトをしている二十代の若者の体当たりルポである。「駅でゴミになっている漫画を拾って売る百円雑誌屋」「コミックマーケット」「マンガ喫茶」「同人コミックと業界マンガ」など、現代の漫画をめぐる状況を報告してくれて、詳しくない私にはわかりやすかった。
 この新書を読もうと思ったのは、生徒の感想文によって、トキワ荘グループの中で、最後まで売れなかった一人の漫画家の話が載っていることを知ったからである。


 森安なおやー後にアニメーターとなる鈴木伸一の部屋に転がり込んでトキワ荘の住人となった人。きら星のごとき大家が輩出した中で、何故、大成しなかったかは、このルポ中の証言から推し量ることができる。芸術肌の人で、締め切りを守らず、ついに書かなかったこともあったという。作風も文学的で、時流に合わなかったらしい。大工などの仕事を転々としながら、大作を書いていたようだが、遂に未完のまま没した(1999)。
 よく、成功した面々が写っている記念写真で、「右より○○、○○。一人置いて、○○。」なんていうキャプションがあるが、彼は、いわば、この「一人置いて」に属する人である。
 でも、最後まで、発表のあてのない大作漫画を書き続けた行為にこそ、トキワ荘の一員だったという矜持があるのだろう。
 私は、その逆に、完全に筆を折った人を知っている。寺田ヒロオ。トキワ荘の中で、明朗快活、面倒見がよく、兄貴分として慕われた。しかし、昭和三十年代末には仕事がなくなり、漫画界から離れた。のちにブームになってからの同窓会的な回顧座談会などにも出席をかたくなに拒んだそうだ。おそらく、自分の過去と断絶したかったのだろう。その彼も、もう亡くなっている(1992)。
 私は、もう一人、今一歩、売れなかった長谷邦夫という漫画家も知っている。マンガ学的には、「トキワ荘通勤組」に分類される人。赤塚不二夫、藤子不二雄ら仲間の有名キャラクター総出演の漫画を、三十年以上前に読んだことがあり、こんな他人のフンドシ書いているようでは大したことない人だと思ったことを覚えている。
 今回、「あの人は今」気分で、検索したところ、HPがあり、手塚治虫賞の選考委員をしたり、大学で講義したりして、ちょっとした長老格、漫画文化評論家になっているようである。あの手法も「パロディ」精神ということらしい。
 キャラクターがヒットしなければ、漫画家は苦しい。そうした意味で、この人は、ヒットしなかった人なりに、ちゃんと現代まで生き延びていて、それはそれで、大変なことである。

 

 売れた人の影に、売れなかった人たちのそれぞれの人生。トキワ荘の物語は、「青春群像とその後」の典型的なかたちである。
 あの頃、みんな同じ目的に向かって頑張った。センスや実力があるか、不断の努力を続けているか。みんな、充分、琢磨していた。
 でも、時運ということがある。自分ではどうしようもない外の力。それに乗れたか乗れなかったか。
 他に、もう一つ、売れれば官軍かということもある。目指すものが、その時の時流に合わないかもしれない。例えば、編集者などから、受けるためにと、とやかく言われる。しかし、迎合はしたくない。藝術に携わる人共通の苦悩。
 そうしたことが複雑に絡み合って、それぞれの人生、明暗を分ける。

 もう、売れ組の、手塚、藤本、石ノ森も鬼籍に入られた。赤塚もガン闘病中でもう描くことはないだろう。一つの時代が終わりつつあるからこそ、我々は、おのおのの人生を客観的に眺めて、無常を感ずる。でも、あの当時は、後に自分たちがそういう風に観られることなど夢にも思わず、あのアパートで若さにまかせてワイワイやっていただろう……。
 玄関が一緒の木造共同アパートだったトキワ荘。調べるにつけ、私が住んでいたボロ共同アパートと造りや建った年代、雰囲気が同じであることに懐かしさを覚えた。我がアパートも、同じ頃、取り壊されて、今はこの世に無い。
 私は、だから、頭の中で、あの頃の自分のボロ下宿とダブって仕方なかった。自分もあの時、部屋が空いたよという、しっかり者の友人の紹介で隣室に引っ越してきたのだった。トキワ荘の森安なおやみたいな感じで。長く住むうち、トイレも一緒なくらいである、同じ階の住人たちとすっかり仲良くなり、みんなで一つ部屋に集まって、ワイワイ、夕食会なんぞを開いたものである。もちろん、同じ目的を持って住んでいた訳ではないけれど、それでも……。

 

 トキワ荘のような、青春群像は、今でも、東京のどこかのボロアパートで、生まれては消えているのだろうか。
 それとも、個別アパートばかりで、もう消えた青春のかたちなのだろうか。(つづく)

 

 2005年08月09日
  教員の「者」

  教員には、五つの「者」の側面があるという。考えてご覧なさいと、ある先生に言われて、「学者」「役者」はすぐに答えることができたけど、後が出てこない。

 

 答。「芸者」「医者」「易者」。

 

 元ネタがあるらしいけど、詳細は不明。だいぶ前からの説らしい。
  実際の仕事に当てはめて、いちいち納得。
 これの順位のつけ具合こそ、その人の教育観そのものである。
 昔は「学者」が一番なのが当たり前、元ネタもそうだったそうだが、今は、多く教員が5番目と答えるような気が……。

 2005年08月08日
  演劇部の劇を観る。
 演劇部の県大会「第57回石川県高校演劇合同発表会」を、野々市町文化会館フォルテに観に行く。オリジナル台本作成の段階から助言をしていたので、生徒に、是非、見に来て下さいと頼まれていたのである。往復入れて約2時間の外出。
 夏休みの部の大会を観に行くだけでも、臨時外出簿に記入の上、許可がいる。「万一、事故があった場合は、その場で年休扱いに変更するので、そのつもりで。」と釘を刺される。生徒の大事な発表を観に行って、感想を言ってあげる、それだけで値千金のコミュニケーションがとれる。教員として根っこの仕事のような気がするのだが。
 教員は、学校にいるのが当たり前、お前は好きで職場から離れる、それを許可するのだというようなお役所発想の匂いがする。私用の外出と同じ扱いなのが腑に落ちない。
 実際、会場に来ていた先生は、演劇部顧問と取材の新聞部顧問以外ゼロ。どうも、出ようという気が起きにくい雰囲気になってしまっているようだ。
 教員を、役人と同じ枠組みの中に押し込めようとしても、絶対、はみ出る部分があるんじゃないでしょうか。でも、今や、机に向かってパソコン打つような仕事こそ仕事、イベントの企画運営がうまい人が、できる教員なのでしょう。どんどんビジネスライクになって、どんどん生徒との付き合いがなくなって、それを、公務員規律の遵守やカウンセリング制度などの「システム」の充実で乗り切ろうとする。
 台所のナベに火が入って、まず、ガスの元栓締めればいいのに、慌てて消化器の使用説明書読んでいるのが今の教育のような気がしてなりません。
  教育って、根っこは、もっと、すごくシンプルなものだと思います。
 
 2005年08月07日
  インターハイの魅力

 全国総合文化祭から帰った先生から、今年の様子を聞いた。総文祭とは、文化部のインターハイである。今年は青森県。いつも8月上旬にあるのに、今年は7月下旬の開催。どうして早まったのと聞くと、「ねぶた祭りと重なるでしょ。」とのこと。
 一同、ひどく納得した。

 

 仕事が重なった引率問題を何とかクリアして、インターハイ弓道競技に生徒引率してきた第一顧問が、合宿後半から合流した。道場の近くの中華蕎麦屋で昼食をとりながら、現地での様子を聞いた。今年は千葉県。
 練習会場で見ていると、団体はほとんど20射全中で、一本でも外すと、監督から叱咤の声が飛ぶという。全国のレベルの高さ、大会の規模の大きさ。大いに啓発されて、帰られたようだ。興奮気味に話される様子から、それがよく分かる。
 私も、5年前、可児市であった大会に参加して、同様の感想を抱いた。運動部の顧問として、この大会を目の当たりにすると、やる気倍増。絶対、常連になりたいと思わない人はいない。
 合宿中、若いコーチも本当に熱心に指導してくれたし、お名前だけの約束の第三顧問の先生も快く引率をお引き受け頂いたし、今年の2年生は、人間的に素直な子ばかりだし、新部長もインターハイを見学できて、期すところがあったと思うし。
 去年の3月、腰痛で精神状態最悪、ベテラン顧問は異動して、新たに配される顧問が弓道を知っている可能性が高いわけがなく、コーチも決まらず、このまままじゃ、指導・監督不足で、士気が弛緩して、部で殺傷事件が起こること必定と、暗澹たる気分だったことが嘘のようである。
 私などいなくても今年の部は安泰である。
 合宿中は、忙しくて感じなかったが、家に帰って振り返ってみて、関係者の善意を一杯浴びていることを実感して、感謝の気持ちで満たされた。
 もちろん、それもこれも、このスポーツが持つ魅力からなんだと思う。


 

 2005年08月06日
  犯罪者集団写真

 弓道部夏期合宿のため、2泊3日で、家を留守にしていた。
 病院以外で外泊したのは、病気になって以来である。ベッドとの相性、道場での指導、知らず知らず無理をして悪化するのではと、ちょっと心配だったが、痛み止めが奏功したのか、思ったより元気に行動できた。
 でも、真夏の道場で3日間、神経尖らせて射形を観察する。いつものことだけど、心身ともに疲れて帰宅。
 8月は、ロシア人学生との交歓会で、外人さんの見学があったり、中学生体験入学の部活見学があったりして、ジャパニーズ弓道は、客寄せパンダ状態となった。そこで、しっかり道場に張りつき、今回の合宿、そして、9日は地区大会と、弓道漬けの日々である。

 合宿の最後は恒例の記念撮影。私も写るのでタイマーで。
 まず、真面目バージョン。次、リラックスバージョン。
 3枚目は、「此奴ら馬鹿か」バージョン。思いっきり馬鹿やれってことなのだけど、あまり列に動きがない。はじけない連中だなとちらりと思う。
 今、パソコン画面で確認しながらプリントしているのだけれど、こ、こ、こいつら……。
 神棚の前で、凛々しく道着をつけたこの連中は、自分の両目を一本指で隠していたのである。

 

  そこで、焼き増し、半分はこの3枚目にしました。一生大事にして下さい。

 2005年08月03日
  信徒はかく語りき。 

 時々、この日記に出てくるK君は、大学時代の友人で、カトリック教徒。筆名は、筆銀亭主人(ペンギンていしゅじん)。いわれは、お腹の出具合だったような(違ってたらゴメン)。ここのところMagiや聖書画などの話題が続いたので、読んだ感想を送ってきてくれた。
 彼によると、「ガスパール」という名で、色々連想があるように、カトリックでは、名前にともなう連想があるという。

 

「例えば、マリアといえば聖母だけでなく、マグダラのマリアとか。テレジアといえば、小さき花のテレジアとか大きなテレジアとかね。だから、モーリアックのテレーズ・ディスケイルゥとなると、そんな聖人テレジアと結び付けるんです。有名なところでは、ペテロと鶏は切っても切れない縁があるし。ペテロといえばイエスを3回も拒んだ人「そんな人は知らない」といってね。で、イエスがつかまった夜、そんな人は知らないって3回いったら鶏が鳴いたのね。詳しくはマタイ受難曲を聞けばよい。」

 

 三回裏切った話も、鶏が鳴いたというのも、教養として知っている。でも、そのせいで、連結されたイメージとして西洋人に定着しているなんてことは知らなかった。まるで、花札の、松に鶴、紅葉に鹿みたいだ。(ちょっと違うか?)
 また、例の、マリア・ヨゼフの服の色の件については、次のように教えてくれた。

 

「青は聖母マリアを象徴する色です。ですから、特に東方教会では、マリアの祭儀には青の祭服を用います。カトリックでも、かのマザーテレサに集った「神の愛宣教者会」も青の布をかならず身につけていたような気がします。黄色は黄金を示し、聖人全般を象徴する色。そう、あの芥川龍之介が「奉教人の死」で記した「黄金の聖人伝(legenda Aurea)」って幻の著がありますね。イエスの父ヨゼフを始め、聖人たちは、カトリックの教えにとって黄金なのですよ。でもって、三博士の一人も黄金を捧げものとして持ってきましたよね。」

 

 なるほど、やはり、深い象徴性があったのである。
 「よくお気づきになりましたとカトリックはかくも感心しました」「炯眼に感心」と、お褒めの言葉を頂いたが、文面よく読むと、口を極めて褒められているのは、愚妻のほうである。
 あれれ。

 

 2005年08月02日
   ぼちぼち。(病状報告)

 「腰の具合は如何ですか。」と、よく聞かれる。
 でも、これは、私に声を掛ける時の決まり文句のようなもの。くどくど病状を説明していたこともあったが、向こうが困ったような顔して、話が終わるのをじっと待っていることに気づいて、以後、やめにした。
 ええ、まあ、ぼちぼちです。
 これでよい。相手も、すぐに用件に入れる。

 

 今年3月、手術はしたが、何カ所も傷めたうち、一番症状が出ている箇所を削っただけなので、退院直後は、ほとんど痛みがとれず、ああ、やっぱりという気持ちであった。
 ただ、その後一ヶ月くらいは、徐々に元気になって、痛みも軽減されたことを実感する。
 しかし、それ以後は、ほとんど変化なし。動かさなくても常に腰に鈍痛があり、恐る恐る腰を動かして歩いている。もっとちゃんと歩けないのかと言われれば、歩けないでもないのだが、無理をするとすぐしんどくなる予感がするので、スローペースのよちよち歩きのまま。座る時など、腰を屈伸させる時は、イタタタタと小声で言いながら……。
 日中、無性に横になりたくなるが、フロア張りやカーペットでは、その場で横になる訳にもいかず、早く家に帰りたくなる。
 体を動かすと痛みを伴うから、動かしたくない気持ちが先に立つ。じっとしていたい。で、出不精、口だけ人間となる。断れるものは断る。
 美術館に行くと、それが、一日のメイン仕事。午後は家でじっとしている。先日、酒場にいけたのも、仕事が午前でハネたから。午後休んで、夜に出陣。2時間でタイマーが切れる。未だに、車でちょっとのところくらいは行けるけれど、遠出は全然無理。どう考えたって、四十歳代の行動半径ではない。
 「七十歳すぎの爺ちゃんのレベルだと思っていただければ、だいたい当たっています。」少し病状の説明をしたほうがよさそうな人には、こう答えている。これが一番実態と合った解説。

 

 昨日、1か月半ぶりに整形外科で検診。もはや外科的治療は何もない。愁訴を聞くカウンセリングの部類である。
 「もっと改善されていてもいいんですがねえ。」
 血液の流れをよくする注射、骨粗鬆症の薬ボナロン、それに、今回新たに、気持ちを落ち着かせ緊張を和らげる薬をもらって職場に戻る。気にしないようにというのである。
 今の医学では、もうなんにも出来ないと確認しに行くみたいで、最近は気が重い。

 

 2005年08月01日
  どこで習うの?

 それにしても、ギリシャ神話や聖書の話を、我々日本人は、どこから仕入れるのだろう。西洋を理解する時、絶対、必要な知識なのだが……。
 学校の社会の時間ではない。昔は「倫理」という教科があって、宗教概観みたいなことをやっていたが、今、その種の教育は、ほとんど除外されている。どんな教義かの教育でさえ、おざなりになっている現在、奇蹟や神々の挿話などは触れてもあたらない。
 大人になって、本物の絵画、文学に触れて、初めてその重要性を認識する。でも、気づいても、忙しくってね。実際、勉強する人は、その何分の一か。つまり、本人の努力に任されている。まあ、我々をとりまく環境が、ヨーロッパ文明オンリーという訳でもないので、必要に迫られる訳でもない。
 では、日本人が日本の文化として、聖書やギリシャ神話にあたるものを、しっかり身につけているかといえば、これも悲しいことに否である。日本の神話の細かいところ、釈迦の人生の概略、一体、何時、誰に習ったというのだろう。
 おそらく、ほどんどの人の知識は、幼児期の母親の寝物語や、テレビの幼児向けお話番組あたり。
 でも、枕元で母から話を聞かされた子供は、随分、幸福である。稲葉の白兎の話などを、断片的に、何だか自然と知っている程度の知識レベルの人がほとんどだろう。釈迦のエピソードにいたっては、知識皆無の子供も多いのではないか。
  これでいいのだろうか。
 こうしたことを強調すると、すぐ保守思想だと断罪する人がいそうだが、私は国語教師である。ちょっと大げさだけど、文化の伝承を担当していると思っている。それが途絶えそうで、大丈夫かと心配しているだけなのである。

 

 六年ほど前、敦煌の莫高窟に行った時、そこの壁画に描かれた釈迦の事跡が、我々が聞き知っている話ばかりで、中国西端の地で、子供の頃、地元のお寺さんで習った、懐かしい話をまた聞いているような気持ちになった。この砂漠地帯、極東の日本とは、何千キロと隔たった異境である。でも、仏教という文化の根っこは一緒なのだという感慨が、あの旅行で一番感じたことだった。だが、こうした基盤がない若い人が、あの壁画を見ても、おそらくエキゾチズムを感じるだけである。感想のベクトルは正反対になる。

 私たちの世代は、まだ、自宅で報恩講をやっていた世代である。数年に一度、お講の当番が回ってきて、家は一日中大騒ぎだった。二階の襖を外し、座布団やお茶を用意し、提灯を玄関にぶら下げる。夜、ご近所が集まり、有り難いお坊さんの御法話を聞くのである。子供心に、今日はいつもと違う特別の日という感覚で昂奮していた。今、考えると、自分の生活の場という「ケ」が、この日だけ「ハレ」の場として機能したことへの気持ちだったのである。
 私は、その縁で、浄土宗の総本山、知恩院さんがやっていた「おてつぎ運動(こども奉仕団)」に参加して、知恩院さんの講堂にお泊まりし、お経の読み方まで習った。今でも日々の勤行経の最初の数行くらいなら諳んずることができる。
 反面、通った幼稚園がプロテスタント教会の経営だったし、小学校の近くに教会があったので、日曜学校にも参加していた。今から考えると、お話の宝庫である宗教は、我々の身近に常にあったように思う。
 でも、今の子供達はどうなのだろう。そんな機会はあるのだろうか。 
 何十年か後、日本の神話や釈迦の物語の絵の横に、「八俣の大蛇は日本の神話に出てくる想像上の生き物であって〜」とか、「この絵は、釈迦の涅槃を描いたもので、涅槃とは〜」なんていう解説が張り出されているのを読まないといけなくなるのだろう。
 一体、どこの国の文化なんだと言いたくなる。

 

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