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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年08月14日
   語り継ぐことに立ち戻ってー戦後六十年に思う。

 今年の8月6日、広島の原爆投下の時間、私は、合宿中で、弓具を積んで道場に移動していた。9日、長崎の投下の時間、私は金沢地区弓道大会の真っ最中だった。
 あの時、広島は朝8時15分、子供たちは登校途中だったり、学校に着いたところだったりした。長崎は11時2分、みんな日中の活動をしていた。あれから六十年の年月。
 毎年、威儀を正して黙祷している訳でもないが、いつも、この時間は意識している。
 若い頃は、正直なところ、全然、考えなしだったが、原民喜が「夏の花」で書き残した彼自身の逃避の足跡をなぞる旅を経験したことと、それにともなって、原爆資料を多く読み漁って以来、私は、脳裏に、はっきり、映画のように光景を描けるようになった。
 例えば、縮景園横の川岸の様子は、多くの人が絵に描き、文章に残している。それらを総合しても、何の矛盾もない。みんな、あの時の異様な光景を、後年まで、雲の動き一つに到るまで、はっきり記憶しているのである。私は、一つの事実を、あらゆる角度から立体的に見させられている思いで、頭の中にその映像を構築した。
 特に、長田新編「原爆の子(上)(下)」(岩波文庫)や、朗読劇「この子たちの夏」の子供たちの証言は、一人一人の思いの丈が詰まっていて、深い悲しみを誘った。近所の図書館からは、原爆写真集を何度も借りてコピーした。それと、広島文学旅行で撮った写真を組み合わせて、私は、私的な「原民喜『夏の花』アルバム」を完成させている。

 

 生き残った人たちが見た光景。
 首のない我が子をおぶりながら、幽霊のようにさまよい歩く母親。
 水を飲むために川に降り、そのまま動けなくなって、増水で流されていく人々。
 防火用水に顔をつけてうっぷしたまま事切れている死体。
 親が燃えさかる家の下敷きになり、早くお逃げと言われて、そのままにして逃げざるを得なかった子供たち。彼は一生このことを負い目に感じながら生きていただろう。
 むごたらしい、こうした光景は、勿論、私の実体験ではなく、頭の中でイメージを再構築したものに過ぎない。が、おそらく一生忘れない光景である。
 長崎のほうは、残念ながら勉強不足であまり詳しくない。もう十五年以上昔、三省堂の大判国語教科書で「ナガサキの郵便配達」(ピーター・タウンゼント作)の抄録が採られていた。そこには、郵便配達の少年が九死に一生を得て、健康を取り戻していく様子が克明に描かれていて、印象深かった。逃げ延びた山から見た市内の火災の様子など、今でもよく覚えている。
 それゆえ、あの惨状の中で死んでいった人たち、なんとか生き残った人たちに、哀悼と生きる尊さを教えてくれたことへの感謝を捧げるのは当然であるという、人間としてベーシックな部分で、私はあの時間を過ごす。そして、今、何処で何をしている最中か、確認する。こうした何気ない日常の一瞬に閃光が散ったのだな、今、この場所で、運良く生き残ったら、どう行動するだろうか、と思う。

 

 戦後六十年たつということは、単純に言えば、当時を知らない世代が多数を占めるようになったということである。その頃、世の中を動かしていた中年以上の人は、誰もいなくなっている。
 我が老父は、戦争末期、学徒動員で、富山県石動の工場で働かされていた。年齢的には徴兵の歳だが、理系の学徒は兵役が免除されていた。8月1日には、富山市大空襲で空が真っ赤になるのを眺め、そこで終戦を迎える。冬、山口への墓参の途中、広島に降り立ち、焼け野原や原爆症の患者さんを、自分の目で目撃している。
 これに対し、義父は少年兵だった。九州で終戦を迎え、長崎と、金沢への帰りの列車から、やはり、焼け野原の広島を、二箇所とも目撃している。これは、投下からほど近い時期である。
 あの頃は、学年一つの違いや、ちょっとした進路の相違で、人生の明暗を分けた。
 金沢は、戦災に遭わなかったので、直接の戦争の傷は、他の都市の住民からみたら浅いほうである。それでも、親族を戦争で無くした人は多くおられる。
 私の親戚では、金沢の叔母一家が満州からの引き上げ途中に、幼い我が子が死亡し、それでもおぶって引き上げ船に乗り、見つかって水葬に附されたという悲しい話がある。何十年たっても、その話がでると、叔母は涙を流すと、父はよく語っていた。その叔母ももういない。それでも、我が一族は、誰も戦地に行かずに済んで僥倖だった部類である。

 

 七十歳代後半の父たちの世代でさえ、もう国外に派兵されなくて済んだ世代。外地で大変な目にあってきた人たちは、もう八十歳を超えている。逆に、六十歳すぎから七十歳前半の世代となると、子供心に覚えていて、お腹がすいて辛かったという思い出になる。
 我々の仕事は六十歳定年だから、今、子供に教えている現職教師は、もう全員、「戦争を知らない子供たち」である。
 やがて、あの時を生きていた人がいなくなる。まだまだ先のことだが、近づきつつあることを、予感させるに充分な時の長さになった。
 そして、その次に我々が年寄りになる時代がくる。その時、日本の平和教育はうまく受け継がれているのだろうか。(つづく)

[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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