ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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今から四十年後、現代の風俗がノスタルジーの対象になるのに、何の不思議もなけれども、では、一体、今の、どの部分が対象になるのかは、なかなか想像し難い。 人間の生活として連綿と続いているものは、対象になり得ない。変化がないから。 かといって、一瞬の風俗であったものまで、そういちいちノスタルジーを感ずるものでもない。今は消失してしまったが、その時は、見慣れた光景だった、あるいは、必需品だったというような、思い入れのあったものに対して感ずるもののはずである。
先日、ある番組で、今の生活で、無くなったものを取り上げていた。その中で、一番、そうだ、そうだった、こんなのあったと膝を叩いたものがある。 それは、トイレの手水(ちょうず)タンク。 正式には何というのだろうか。トイレの横にぶら下がっていた手洗い水用のタンクである。下を向いた蓮口の棒を手で押し上げると水がでる仕組み。昔、厠は汲み取り式で、水道がきてなかったので必要だった道具。何週間も同じ水なので、中で腐っていたかもしれない、今から考えると、あまり衛生的とは言えない代物。 あれも、水洗の普及とともになくなった。 家々に絶対あった。絶対必要で誰でも知ってる器具。個人を超えた、日本人に共通したノスタルジーになりうるのは、こんな日常の品々である。
ノスタルジーとは、本来「郷愁」のこと。つまり、「故郷を思う心」のことをいう。しかし、今は拡大解釈されて、過去に対する懐かしさをも指すようになった。先ほど言った、消失した「もの」に対する懐かしさの感情などもその範疇に入る。 ある文章で、ノスタルジーとは、今や、テクノロジーの消長に対して使う言葉だという指摘があったが、確かに、もう使われなくなった電気製品の話で、我々世代はよく盛り上がったりする。 昔、家にあった父愛用のオープンリールテープレコーダーを、石川県立歴史博物館で見つけた時の私の気持ちなんて、その典型的なものだ。 都市生まれの都市育ち。帰るべき懐かしい田舎の風景を原風景として持たない我々にとって、その機械を使っていた過去の記憶こそ帰るべき懐かしき原風景なのである。悲しいことと言えば、悲しいが、それを嘆いていてもどうにもならない。それが現実である。 つまり、ノスタルジーという言葉の意味の変質は、そのまま実態の変質を表しているのであった。(つづく)
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