ようやくノルマの読書感想文を読み終わった。 まず、5クラス分を読んだ。原稿用紙5枚×40人×5クラス=計1000枚。その中から、いいものを選び、各人持ち寄って、校外コンクールに出すものを選び直す。予選・本選方式。これが、5枚×60編=300枚。合計1300枚の大長編を読んだことになる。ただし、誤字、意味不明など読みにくいこと甚だしく、楽しく3000枚クラスの大河小説読んだ以上の労力。 この時期、当分、へたくそな字読みたくない病に罹る。
さて、最近の傾向を思いつくままに……。
○小説より実録もの中心である。 不況になった途端、顕著になって、もうだいぶたつ。この傾向の問題点は、私はあちこちで訴えているので省略。そもそも、感想文、書きにくいと思うのだが……。 いじめもの、障害もの、カンボジア・アフガンなどの発展途上ものが定番。 今回、先のイラクでのジャーナリスト死傷事件や福知山線脱線事故などの速報社会派ものが混ざる。今年起きた事故の本の感想文なんて、昔は考えられなかった。出版も早くなったし、旬の話題を求めているのが今の学生さんなのだろう。でも、私に言わせると、「現実」ばかりの読書は、人間を育てない。
○定番には、ゆっくり流行廃りがある。 一時期の「アルジャーノンに花束を」「五体不満足」などはさすがに下火になってきた。ここのところは「夏の庭」あたりが定番。まあ、こうした消長は、いつの時代もあること。
○名作主義は廃れる とっくに廃れているはずと思うかもしれないが、そうでもない。一時期、「名作を読まねばならぬ必要はない。」と、事前に指導したくらい、彼らの日頃の読書傾向とはかけ離れた、名作主義が横行していた時期があった。せっかく読むのだから、日頃、読まない名作をということらしい。「車輪の下」がその最たるもので、本当に面白かったのやら、いつも疑問に思いながら読んでいた。それが、さすがに完全に廃れた。20年くらい前まで大量にあった「人間失格」なども、今では1編くらい。 今年、倉田百三「出家とその弟子」があって、ちょっと驚いた。親の推薦らしい。
○その結果、ほとんど知らない作品ばかりになった。
恩田陸、梨木香歩あたりが大人気だが、彼女らの作品は、だいたいどんなのか、まだ、わかるほう。まったく作者もタイトルも知らない感想文を読むので、いい感想文なのか判断がしづらいこと、しづらいこと。 本が大量発行大量消費のメカニズムに組み込まれているので、各自、選択がバラバラ、傾向もつかみにくくなった。そうした意味で、妙にバラエティ豊かになった。
○読書経験が不足しているので、程度の低い「ライトノベルス」クラスで、妙に感激したかのような作文が多い。
高校生が、本当にこんなので満足しているのだろうかと心配になる。わかっていて、面倒だから、楽そうなのを選んだだけ。いい本だなんてさらさら思っていない。褒めまくっているのは、世渡り、嘘も方便というものです、というのなら、まだいいけど。
最後に、ああ、またかとゲッソリする感想文を紹介します。 まず、なぜ、この本を選んだかについて、私的な出会いの講釈が1枚弱も。ようやく本の話題になったかと思ったら、本の腰巻きクラスの紹介文が続く。これで、2枚目。 それから、冒頭からの部分的な粗筋を紹介して、短い感想がつく。これを数回繰り返す。文末に「私は本当によい本を読んだと思いました。」と手放しで褒めちぎって終わり。4枚目に数行いったところでチョン。一応、5枚という要件は満たしているが、実質は4枚。 その、いらぬところを排除すると、本自体の感想は、たった数行ということになる。 文末が「敬体」のものも多く、読書感想文は、こういう書き方をしないといけないかのごとくである。「〜と思いました。」では、子供っぽく映る。小学校から、作文というのはこういうもんだと思いこんでいるのだろう。おそらく念頭に置いている文章の程度が低い。これも本に触れていないから。 ここから、大学受験の小論文までには限りなく逕庭がある。 引き上げる目標ラインは昔も今も変わらない。だが、高校1年のエントリーラインが年々下がっているので、その間は広くなった。そこをつなげるのが我々の仕事。
つまり、何が言いたいか。 教える方は、結構、大変ということです。
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