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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年10月31日
  ふらっとバス初乗車

 予報が外れて、秋晴れの昨日、義妹の出演する民謡の発表会が金沢厚生年金会館大ホールであった。実家に車を停め、少し歩いて、「ふらっとバス」で会場に向う。
 このミニバス、バス会社の路線の合間を縫うように走る市営のコミューターバスで、菊川コースは、繁華街と犀川右岸・小立野地区を時計と逆回りで周回する。我が家は路線と離れているので、これまで利用したことがなかった。今回、これに乗るのも半分楽しみの秋の町中散歩。
 私鉄の路線バスとは違う小さなバス。十人も乗ったら満員の圧縮された空間。相乗りの感じとでもいえばいいか。向かいの客一人一人の様子がよくわかる。そこが新鮮だった。
 買い物の足がわりに使っている老人や体の不自由な人がやはり多い。でも、キャピキャピ・ギャル(古!)も結構乗ってくる。真ん中がいない。
 「寺町台地のほうにも導入してくれればいいのに。」と愚妻。まあ、バス会社の既得権もいろいろ絡むのだろう。
 義妹が出演している踊りの演目を観てから、斜め向かいの県立美術館へ移動。このところ、毎週、どちらかの美術館に来ている。

 今は、「第52回伝統産業工芸展」が開催されていて、これも職員互助会から、毎年、無料券が配布される。そのため、会場の客に見知った同業者が混じっていた。でも、正直、ちょっと見飽きている。会場をスタスタと巡り、これはと思ったのものだけに足を止める。
 こんな日は、建物の中にいるより、外の太陽を浴びたほうがいい。
 知らない間に、里に紅葉が下りている。落葉樹の赤、芝生の緑、石川県立歴史博物館の煉瓦色、華やかな色合いが、秋の午後の斜光を浴びて輝く。
 ふらっとバスのバス停は目の前にある。一方周りしかしていないので、ちょっと遠回りになるけど、待ってバスにするか、歩いて帰るか。愚妻と協議の結果、歩くことにする。
 嫁坂を下り、崖下の本多町に至る。車ではまず通らない迷路状の道。初めて通る道筋も幾つか。こんなところに小公園があるんだねぇなどと言いながら……。
 実家にほど近い下菊橋を通過したのは、斜めに傾いた太陽の日差しが弱まってきた頃。
 暖かい今年の秋だったが、それもそろそろ店じまいの予感を、川風は教えてくれていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(今日はハロウィン。先日行ったレストランのデイスプレー)

 2005年10月30日
  1969年からはじまった。

 金沢の混雑解消のため敷設中の外環状線に、10日ほど前、セスナ機が不時着、大破した。工事中の幹線道路、空から見れば、絶好の不時着地点に見えたのだろう。自宅からは2kmほどのところで、翌日、地元新聞のトップニュースになっていた。
 ちょっと気になったのは、怪我をした外人操縦士が、エンジン・ファイアーと「ほのめかしていた」(「北陸中日新聞」22日朝刊)と書いてあることである。この見出し、何か引っかかる。はっきりと原因を叫んでいるのに、なんで「ほのめかす」なのだろう? これでは、意図があって情報を小出しにしているかのようである。

 墜落事故というと、このあたりの古株は、1969年(昭44)2月8日、小松基地の戦闘機が、有松交差点付近の住宅地に墜落し、住民4人が死亡、半径50m範囲の民家が延焼した大事故を思い出す。戦前戦後を通じ、近隣でおこった最大の事件で、昔語りに話題にのぼる。
 私は堕ちた隣の校下(「校区」のこと、金沢言葉だが地元新聞でも使う)の小学生だった。バーンと大きな音がして、教室の窓からモクモクと煙が上がっているのがよく見えた。職場でご一緒の女性の先生は、数百mしか離れていない中学校の生徒だったそうで、近いだけにものすごい音がしたそうだ。愚妻は、私よりもう一つ離れた小学校なので、煙りが見えた程度だったらしい。
 今、調べてみて、2月の出来事だということに、夫婦揃って意外な気がした。そんな寒い時期だっけ? 曇っていたけど雪など積もってなくて、寒かったなんて思いは付帯していない。確か窓を開けてみんなで見ていたよねぇという会話をつらつらと続ける。同世代、それもお隣校下同士の夫婦は、話題がえらく地域的・共時的でる。
 それぞれ見た場所は多少違っても、子供の強烈な記憶として残っている1969年の一瞬。
  そんな子供の記憶に比べ、お隣りに座っておられる男の先生は、当時、もう大学生で、翌々日の学生主催の抗議集会に参加、市内をデモ行進して歩いたという。
 我々には、そんなリベラルな意識など全然育っていない。何でも珍しいことが起きると好奇心だけで眺めていた。

 世の中、平穏な年もあれば激動の年もある。年譜を見ると、この年は、本当に日本にとって大きなうねりの年だったと実感する。

 

1月18日 東大安田講堂攻防戦。
1月24日 美濃部都知事、都営ギャンブル廃止を発表。
2月23日 安中市でイタイイタイ病患者発覚。
5月1日 「イザナギ景気」が四三ヵ月目に突入。
5月26日 東名高速道路が全線開通し名神高速と直結。
6月2日  多摩ニュータウン起工。
6月10日 経企庁、GNP世界第二位と発表。
6月12日 日本初の原子力船「むつ」進水。
7月8日  米軍、南ベトナムから撤退開始。
7月20日 アポロ11号、人類史上初めて月面に着陸。
10月29日 ソニーと松下電器、家庭用ビデオでベータ・VHS戦争開始。
11月21日 日米共同声明発表。沖縄を「核抜き・基地本土並み」で四七年に返還。

 

 学生運動がピークを迎え、政府と国民の意識のズレが非常に大きかった反面、経済的には高度経済成長のまっただ中、毎年20%を超す成長率で、技術革新も相次いでいた。人類は月に到達して、「人類の進歩(と調和)」(70年万博テーマ)が永劫続くと信じられていた時代だった。そうした混乱と明るい希望とが入り交じった年。時間がたって見ると、その年の持つ意味合いがよくわかる。雑多なゴッタ煮の時代で、問題点も噴出していたが、今と違って、人間が躍動していた時代だったように思う。
 風俗面でも、寅さんシリーズが始まり、ドリフの「8時だよ」も始まった。NHK大河ドラマ「天と地と」も大人気、「長崎は今日も雨だった」「白いブランコ」「風」「今日でお別れ」「夜明けのスキャット」「いいじゃないの幸せならば」「黒ネコのタンゴ」などの歌謡史に残る定番曲も次々とヒットしている(もっと長いタイトルリストを見たが、全部歌えるのに我ながら驚いた)。
 正直、前年の印象はまったく希薄である。どうやら、政治的にも文化的にも、その後の七十年代八十年代の基本的枠組みを決めた出発点の年だったのではないだろうか。
  実は、この年、自分史的には「社会の動きと自分の存在」という二元論を徐々に意識し始めた年、社会を見る目を見つけた年だと思っている。だから、なおさら、妙に出発点のように感じるだけのことかもしれないが、そうした激動の年だったからこそ、自己と社会のスタンスを感じざるを得なかったということでもあったはずである。
 安保世代が「69(シックスティナイン)」にノスタルジーを感ずることはよく分かる。それよりも下の私たち、社会的意味づけもできなかった年齢。でも、興味津々、好奇心だけの子供心に、やっぱり何だか、よくは分からないけど、色々なものが一杯つまった年だったように感じたのであろう。

 

 2005年10月29日
  (つづき)

  代表的金沢言葉である「〜まっし。」の接続が変化しているというのも、国語教師としては面白かった。
 「まっし」は、優しく命令する形。助動詞なのだという。変化しない。ということは、活用を未然形から言うと、「マル、マル、マル。マルマルまっし。」となって、くねーと猫のようにまあるくなっている図を思い浮かべたのだが、これが正しい活用かはまったく保証しない。
 この「まっし」、昔は 五段活用は終止形接続、それ以外は連用形接続だったそうで、「頑張るまっし」が普通だったようだが、今は、言葉の単純化路線で、すべて連用形接続となりつつあり、「頑張りまっし」になっているという。
 あるクラスで挙手させたところ、ほとんど「頑張りまっし」派であった。たしかにどちらも使うが「る」のほうが古い言い方だと感じる。
 連用形接続になった結果、標準語「なさい」がそのまま「まっし」に置き換わっただけの形となった訳だが、それでも、「まっし」という文末言葉だけは、標準語の侵攻に耐え、頑とその勢力を張っているのがなんとも力強い。
 もう一つ、「寺町まっすぐ」という言葉にもびっくりした。寺町大通りは、前田家墓所に行くために、城下町にしては珍しく直線道路である。それに引っかけ、多少の揶揄も入れて、「まっすぐな性格」の人のことを言うらしい。
 寺町の人は知らず、周辺地区の人が使っている言葉だという。道理で、寺町生まれの私も、80年近くここに住んでいる父も知らない言葉だ。
 実際にその道路を知っているということが大前提の、町の名を冠したえらく地域限定な方言。こんな超マイナーなものもかつてはあったらしい。
 関西から広く分布しているもの、富山と共通のもの、市内だけ、こんな極小地域限定まで、細分化するときりがない言葉の分布のグラデーション。

 それに、時代変化が重なる。標準方言などが存在しないだけに、変化にもブレーキがない。
 冒頭で結構流動的といったのは、そういう意味である。一筋縄ではいかない捉えどころのなさを実感した本であった。

 

 2005年10月28日
  「頑張りまっし金沢言葉」(北国新聞社)を読む。
 平成7年、地元新聞の「方言の今」をテーマにした連載を本にしたもの。
 取材でつなげて書いてあるので、学問的な体系的論述でないのが残念であるが、今の金沢方言を書き残しておこうという趣旨は充分成功している。
 おそらく、ここに出てくる八十歳を過ぎている古老の多くは、すでにお亡くなりになっているだろう。彼らの話しているような伝統的な金沢言葉(「ございみす」など)を生で聞く機会はますます減っている。それに対し、ここで最近の若者言葉として紹介されているものは、ますます根を張ってきているようで、十年という時間の経過によって、なおさら興味深いものとなっている。
 方言は結構流動的なのだというのが読後の感想である。
 まず、今は、テレビなどで東京言葉がダイレクトに入ってくるので、その二つが混合したり、棲み分けしたりしているという。
 例えば、油揚げの入った饂飩を、こちらでは「いなりうどん」という。東京では「きつねうどん」。東京の狐が田舎の稲荷を駆逐するのかと思ったらさにあらず。仲良く棲み分けしているという。東京のきつねは、揚げが大きく1枚、甘煮にしてある。金沢のいなりは、小さく短冊切りにして、葱と一緒に散らす。別段甘くは煮ない。そこで二つともメニューにあるお店があるという。品物に微妙な差があることを利用して、別物として棲み分けているというのである。そこで、未だに「いなりうどん」は安泰なのであった。
 この本によく出てくる「ネオ方言」という言葉も初耳であった。新しく変化をきたした方言のことを言う。金沢は「〜がや。」と、ガを多用するので、昔から、あまり奇麗な言葉ではないと言われていたが、それが、いつの間にか「〜ゲ。」になり、今は「〜ゲン。」になっている。「私、今日、塾いくゲン。」というような使い方をする。若い女の子が、ちょっとかわい子ぶって使う言い方で、中年は使わない。言われてみれば、確かに、「がや」の勢力は弱まっている。(つづく)
 2005年10月27日
   生徒のお陰で漢字をひとつ学ぶ 

 合唱部の生徒が、読めない漢字を聞きに来た。谷川俊太郎の詩に曲をつけることになり、読みを確定しているらしい。どれどれと見たら、「燠火」という字。
 うーん。私も読めない。
 そこで、漢和辞典で「燠」を調べる。字音は、イク、オウ。意味は、あたたかい・あつい。国字で「おき」とある。
 今度は、国語辞典で「おき」をくると、「燠・熾」@赤くおこった炭火、A薪が燃えて炭のようになったものとあった。
 同義の「熾」の方が「熾烈」という言葉でなじみ深く、こちらは、火が盛んに燃えさかるさま。
 そこで、生徒には、「おきび」と読む。この詩の場合は、残り火の意味で使っているようなので、炭のようになった弱い火のことをいうと教えた。
 同じ「おきび」と読んでも「熾火」では、燃えさかっている感じがしてしまうので、谷川の漢字の選択はまったく間違っていないのだけれど、それならせめてルビが欲しいと思ったのだけれど、どうだろう。

  谷川俊太郎には、例の「ことばあそびうた」がある。幼稚園にも分かる意味の言葉を使って、リズムの遊びをしようという詩。「かっぱかっぱらった〜」「はなののののはなはなのななあに」などが有名である。
 そんな彼である。ルビの効用なんて熟知しているだろうに……。

 

 実は、四方君の詩集を読んでいて、難しい漢字が多く使われているのが気になっていたところだった。
 出版祝賀会当日、詩の幾つかを朗読することになっていた元同僚の先生(文系)が、こっそり愚妻(理系)のところにやって来て、「この字なんて読むの?」と聞いたそうで、確かにちょっと多い気がしたのである。ワープロで簡単に難漢字が出てしまうので使いたくなるが、そこはちょっと自制しなくてはならない部分でもあるように思う。自戒。

 

 2005年10月26日
  (つづき)

 先日手術のお見舞いに行った元同僚も彼を教えた一人。彼は、ベッドで横になりながら、四方君たち、どんな気持ちで寝ていたのだろうと思ったと述懐していた。
 私も立っていられない時、同じ気持ちだった。横臥して、ぼんやりベッドサイドを眺めながら、彼らのことが何度も何度も脳裏に去来した。
 今でも、朝、目を覚ました時、普通ならそれから体を動かして起きあがるのだが、彼らにはこれ以上の行動はないのだな、この状態が彼らの全てなのだなと思う。そして、しばらく、じっとしてみる。そうしていると、少しだけだろうけど彼らの気持ちがわかる。
 目に入るものだけが自分の世界。布団カバーの繊維の織り目、鉛筆立ての缶の汚れ。そうした目の前の微細な景物だけが、えらく拡大されて眼前にある。それだけが親しい。一種マクロ的な映像世界。
 音も同様である。ラジオや音楽が、意識の手前にあって親しく大きく感じられ、遠くに、マンションの他の階の物音や通りの車の音が聞こえる。
 動かない自分という存在を「点」として、身の回りのほんの些細な情報を同心円的に蒐集する。それを唯一の手がかりにして「考える。」そして「思う。」。
 おそらく、そうして紡がれた詩たちである。

 四方君には、祝賀会に出られなかったかわりに、しっかりした読後感想を送ると、だいぶ前にこちらから約束したのだが、未だに果たされていない。
 それが、今、一番の気がかりである。

 

(追伸…四方君へ)
 もう三十代後半の貴方に、「君」もないものだと、「氏」「さん」色々考えてみたのだけれど、どうもしっくりこない。失礼を顧みず「君」にしたよ。了解して下さい。

 

↓四方君のHPアドレス

http://www2.spacelan.ne.jp/~hoyomaru/index.html

 2005年10月25日
   四方健二君の詩集のこと

 私の初任は養護学校だった。国立病院付設の長期入院者のための教育施設である。私は高等部に配属され、主にデュシャンヌ型筋ジストロフィー症の生徒さんを教えた。難病で、中学校の頃に車椅子、高校の頃には電動になり、当時は二十歳前後で亡くなることが多かった。その後、レスピレーター(人工呼吸器)などの医療の進歩で、寿命は格段に延びたが、終日ベッド生活は変わらない。
 彼らに受験国語を教えても意味がない。新米教師は、何を教えるか悩んだ。四方健二君は、あの時、高校二年生。前任国語教師が、彼に伊東静雄の詩を教え、彼はこの詩人に興味を持った。私に課せられたのは、選択授業で、彼と一緒に静雄の詩を読み解いていくことだった。彼は優秀な生徒さんで、読解力も相当なものだったので、こちらは、夏休み、慌てて東京の国文学専門書店に出かけ、伊東静雄の専門書を買い付けて予習するなど、下勉強が大変だっとことをよく覚えている。でも、これまで小説家しか調べたことがなかったので、いい勉強になった。彼のお陰である。
 3年後、異動になり、連絡をとることもなくなったが、5年ほど前、気管支切開するため、声が出なくなるという連絡を受け、愚妻と病棟に会いに行ったことがある。
 今は顔面の動きを利用したパソコンがあって、かなり早く文章を打てるようだ。マイHPを開設し、全国の仲間と広く交流してネット上で大活躍である。

 そんな彼が、処女詩集「軌跡」、第二詩集「雫」に続き、第三詩集「羅針盤」(郁朋社)を上梓した。これまでは自費出版だったが、今回は出版社がつき、書店取り次ぎで全国販売される。彼流に言うなら「メジャーデビュー」である。
 今月初旬、出版祝賀会が病院近くのレストランであり、当時の教員も招かれた。私は所用で行けなかったが、愚妻は参加して、元同僚たちと久闊を叙したようである。

 その前日、ちよっと嬉しいことがあった。
 私は、その日、前にも書いた、図書室に入れる図書を生徒自身が選ぶ会があって、市内の有名書店に足を運んでいたのだが、選んだ本を入れる段ボール箱の中に彼の詩集があるのを見つけたのである。時期的に本屋さんに並んだばかりだったはずで、その時がこの詩集との初対面であった。生徒は、おそらくパラパラとめくったくらいで選んだのだろうが、誘導があった訳でもないのに、純粋にこの詩集を気に入って選んでくれたことに、心温まるものを感じた。
  後日、司書さんにこのことを話すと、彼女は興味を示し、本が納入されるや読んでくれ、前の二冊も読んでくれた。そして、学校の掲示板に、彼の詩を紹介する壁新聞を作ってくれたのである。
 その上、今度の後期読書会のテキストをこれに決め、助言者はこの私にとご指名が下った。なんと仕事の早い司書さんであることか。(つづく)

 

 

 

 

 

(司書さんが作ってくれた壁新聞)

 

 2005年10月24日
   「ふいんき(なぜか変換できない)」
 もうだいぶ前のことになるが、インターネットのデジカメ掲示板を読んでいたら、「ふいんき(なぜか変換できない)」というフレーズを見つけた。
 「雰囲気」を「フインキ」と間違って使っている若者が多いという話は以前から聞いていたが、実際の使用人種に遭遇したのは初めてだった。
 ほど遠からずして、若手女性漫才師がTV番組「笑点」で「フインキ悪いやん。」と使っているのも聞いた。
 言葉を扱っているあるサイトによると、この話題はネットでは出尽くされていて、今や、勘違いしている人より、誤用を楽しんでいる人の方が多いのだという。ネット上で「(なぜか変換できない)」という言葉が付いているのは、「分かってやっているから、そこのところ宜しく」という符丁のようなものらしい。
 見つけたゾ気分だった私は、ちょっと馬鹿をみたようで、ゲンナリ。
 だが、掲示板特有の言葉遊びだと安心もできない。いつの間にか、フインキには漢字が充ててあって、「不陰気」となっている。すぐにはワープロで変換しないので、無理矢理、「ふ」で切って、それらしい漢字を充てたのであろう。でも、これでは、御陽気という意味になってしまう。暗いフンイキの時はどうするのだろう。
 一度確定してしまえば、次からは当たり前のように出てくるのがワープロの恐ろしいところである。
 片仮名・平仮名での検索では、確かに、わざと使っているもの、誤用を論じているものばかりだったが、「不陰気」では大量ヒットした(Google検索で5万件以上にのぼる)。
 サンプルにと、幾つかのサイトを覗いてみたが、石川県庁県民交流課の運営しているWEBサイトに散見されたのは、地元のお役所だけに、なんとも「いかがなものか。」であった。
 最近の若い世代は、その言葉の漢字を思い浮かべて使っていないという特色がある。これははっきり教えていて感じることである。それと関係があるような気がする。音として耳に入ったまま使っていて、頭の中で字として定着させていない。聞き間違えてもそのまま。
 フインキという言葉、誰か若者文化の中心人物が間違えて使った。メディアに乗って全国に流れた。それを「音ダケ鸚鵡返し若者」が信じ込んだ……そんな図式が思い浮かぶ。
 クラスの生徒に聞いたところ、誰も使用例を聞いたことがないとのこと。
 どうやら今は一部地域だけのようだが、「○円からいただきます。」のあっという間の伝播例もある。これ以上広まらないことを祈るだけである。
 2005年10月23日
   久しぶりのキース・ヘリング  ホイットニー美術館展を観る

 今日は、金沢21世紀美術館市民ギャラリーにて、「素顔のアメリカ ホイットニー美術館展」(主催北陸中日新聞他)を観る。ニューヨークにある十九世紀以降の米国美術を展示する現代美術館だそうである。先週のは「ベルガー展」と言い間違え、今回のは「ヒューストン」を余分につけて言ってしまいそうになるのが、いかにも私の通俗的教養レベルを表していて、御愛嬌。
 チケットやポスターに描かれた作品が、シルクスクリーンを使ったようなポップな女性の半身絵(ロイ・リキテンスタイン「窓辺の少女」1963)だったので、そうした戦後ポップアートばかりが展示されているのかと思っていたが、そうではなかった。広大な大地と粗末な家を描いた20世紀初頭の素朴な作品から、平面構成中心のシンプルなアブストラクト作品、それにアンディ・ウォーホルらポップアート派まで、バラエティに富んだコレクションであった。どれも過去の伝統という重石がないので、スタイルに軽やかな自由さがあるのが特徴である。
 アメリカが生んだ音楽ジャズでは、よく自分のスタイルを持てと言われる。誰々風ではダメ、その人だけの個性ができているか。一生、ファーストコール(すぐにお呼びがかかる)プレーヤーとしてやっていくにはそれが絶対必要である。もちろん、どの芸術でも、どこの国でも、持っているは当たり前なのだが、そんな自己のスタイルの確立とそれを強烈に押し出すアピール力を、特に強く芸術家に要求されているのが、アメリカ現代芸術の世界であるように感じた。
 自己の信じたスタイルを追求する中で、作品一つ一つに自由なアドリブ精神の発露があって作品が成立する。そんなジャズスピリットと共通したものを感ずる。
 よかったのは、キース・へリング。工事用のブルーシートに描いたものなど即興だろう。一見、子供の悪戯書きのようで、その中に、原始社会の象形文字的な意味性やシャーマニズムを感ずる。実は、この夏、ハワイ土産で愚妻が買ってきたTシャツが、原住民の古い絵をデザインしたもので、それが、キース・へリングに似ていて、斬新な彼の絵に内包する古代性を見つけたばかりだったので、尚更そう思うのかもしれない。
 私たちが若い頃に、彼の大ブームがあって、みんなTシャツの柄にしていたものだ。ナウなヤング(!)が集う東京のブテックの建物側面にデカデカと描かれていたのも覚えている。「誰でも描けるキースの絵。」とかなんとか言って、私も一筆書きのようなもどき絵を描いてお茶化したこともある。ちょっと、露出過多になっているなあと思った頃、さっさと三十すぎでこの世を去った人である。今、こうして時間を置いて観ると、1枚1枚、ちゃんとメーセージが込められていたことが判る。特に「祭壇衝立」は、下に例の手をくねくねした人間を置いて歓喜を表し、中央には基督・マリアを描いて、ポップな中に伝統的宗教性を打ち出していて興味深かった。

 天候は今日もすっきりしない。出遅れて、最近時々利用する美術館近くのレストランで昼食を済ませてからの入場となった。帰りは横なぐりの雨も混じる。ほぼ先週と同じ運動量なのに、疲労が大きかったのは、やはり気温の変動のせいだろうか。

 

 

 

 

 

 

 

 

(途中寄ったエルフプラザに展示中の近江町市場のにぎわい人形)

 

 2005年10月22日
   秋から冬へ  
 今日は、終日、雨模様。寒くてフリースを出してきた。やはり今年の秋は温かかったようで、今月金沢で平年気温を下回った日はなかったそうである。温かいとそんなものと思ってしまって話題にならない。
 それが、今日は、11月の先駆けのような冷え込みである。部屋のカーテンを開けると、ガラスが白く曇っていた。今年初の景色である。
 休みの土曜日なので、人様から頂いた秋野菜を使ってめった汁をつくり、体を温める。愚妻は、昨日の出張先にノートパソコン忘れたとかで、朝から、また遠路能登まで往復しにいって不在である。
 昼は、テレビと化した枕横のノートパソコンの音を改善しようと、使われていないアンプと小型スピーカーを配線してミニAV化する。結構、時間がかかったけど、こんなのは苦にならない。男の楽しみの領域である。
 午後は、カメラファンの間で話題沸騰の単焦点デジカメGR−Dが21日発売され、その使用感や画像がブログにアップされはじめたので、ネット鑑賞。素人カメラ評論家が色々感想を書いている。手に入れるまで、箱を開け充電、雨の中のファーストショットと、逐一報告が入る。それが何十人も。楽しみのカメラ、ワクワクと勤め帰りにカメラ屋に立ち寄って……と各人のストーリー。
 判で押したように同じような行動、同じようなカメラの印象。同じ機械だからおなじような色調。でも、最後に被写体だけが違う。賑わう前の繁華街、自然風景、静物など。感応する一瞬が違うことがはっきり判る。そこが面白い。
 それにしても、同一カメラで、とりあえずお近く歩いて撮ったものばかりだから、なおさらセンスの有無が歴然としていて、ちょっと可笑しかった。見慣れているはずのご近所で、まだこんな発見があるんだと感心するのから、これ撮って一体何になるのというものまで。

 夕刻、帰宅した愚妻と、今日のガソリン代、どこからも出ないよねぇなどと言い合いながら、じっくり煮込まれた汁と奮発した栗ご飯を頂く。
 秋から冬へ。北陸の冬初日といっていいような一日。 
 2005年10月21日
  我、セレブなお客様に非ず。

 この夏、ガソリンスタンドのアンちゃんから、マフラー傷んでいる音がしていますよと注意を受けた。ちょっとうるさいなとは思っていたが、乗っている本人は、徐々になのでよく分からない。修理に出してマフラー交換。
 今月は愚妻の車が車検である。10年選手なので、あちこち直さねばならず、基本所定料金の倍近くの修理代が別途かかる。12月には私の方の車検も控えている。
 貧乏で困っている訳ではないが、車を維持しているというだけで、ぼーんと、ン十万出ていってしまうはさすがに痛い。昔、大人が「ああ、なんて物入りだ。」とこぼしているのを聞いて、車検代払うお金にも不自由しているなんて、相当苦しい家なんだなあと子供心に思っていたが、そういう問題ではないことは長じてわかった。今は自分がこぼす番である。

 先々週の夕刻。交差点で停車中、後続車両に追突された。パンパーの凹み矯正で、また修理へ。これは、相手の全額負担である。
 という訳で、ここのところ、車屋さんとえらく緊密である。 
 いつもお世話になっている整備工場の人は、高校の同級生。破損状況を見に、我が家へ新型フォルクスワーゲンゴルフで現れた。
「アンタのマイカーかい?」
 と聞いたら、代車だという。
「外車が代車なのか?」
 ちょっとびっくりである。聞くと、ベンツなど高級乗用車に乗っている人は、代車が軽自動車や国産小型車だと嫌がるそうで、そういうセレブな(?)お客様用なのだという。ランク落としてもドイツ大衆車クラスまでということなのだろう。
 この会社、金沢の隣町鶴来にある。先の休み、毎年恒例のお客様感謝祭があって、支払いかたがた出掛けた。仮設テントにテーブルが並べられ、芋煮やお握りが振る舞われる。帰りには地元産のとれとれ野菜(とりたての野菜)をお土産にくれる。郊外の町らしいノンビリしたおもてなし。
 せっかくだから、12月の車検の日程も決めてしまう。
 代車はスズキのアルトという。
 やっぱり。ま、軽の代車は軽だわな、ゴルフはこないわな。

 

 2005年10月20日
   金沢21世紀美術館は大繁盛(その四 体験編ーゲルハルト・リヒター展を観る)

 10月15日は金沢市民の日で、金沢21世紀博物館の入場料が無料になった。それを狙って朝からでかけた。以前、無料ゾーンを散策したことはあるが、中央ゾーンは初めてである。
 腰痛持ちでも、美術展は、時に休憩を入れながら自分のペースで動ける。椅子に縛られる芝居や音楽会よりも早く鑑賞を再開できた所以である。
  開催中なのは「ゲルハルト・リヒター展」。ゲルハルトといえば、F1運転手ゲルハルト・ベルガー、リヒターといえば、指揮者のカール・リヒターを思い出すのが私の背負っている文化である。美術に疎い私は、浅学にして彼を知らない。だから、愚妻に「ベルガー展」と何度も言って、その都度、間違いを訂正された。そんな知識だから、作風も解らず、勝手に訳の分からない抽象画を想像しながら入場した。

 写真にペイントする手法から出発した人らしく、作品に写真的発想が強く感じられる。作品は一種の「画像」であるというのが基本姿勢とでも言えばいいか。鑑賞者がどうその画像を受容するかということを強く意識しており、鏡やガラスを素材に選ぶことで、鑑賞者の観る視点を加えて、はじめて作品が完成するという思想が顕著であった。
 例えば、鏡一枚だけの作品。単に木枠に入れてあるだけ。どこが作品なのかと訝ったが、前に立つと、すぐに意図が理解できた。反対側に高く掲げてある女性のポートレートの列が上部に映り、その下に我々鑑賞者が立っている絵になっている。鑑賞者は次々移ろい、それぞれの顔や装いが絵柄になる。
 例えば、ガラスを11枚重ねただけの作品。観る本人は正面だからフラットに見えるが、傍らの人はと観ると、こちらからは視線が斜めになるので、何枚ものガラスに反射して、影の如き幾層ものグラデーション画像になる。
 絵の具を使ったものは、多くが横縞のヘアラインが入り、ぼやけて印象派的印象。絵描きとしても手堅い技量の持ち主である。
 作品は、小難しくなくトリックに満ちて楽しかった。解りやすい部類の人だ。
 現代芸術家一人に焦点をあてた大規模な作品展を観ることはほとんどなかったので、作家の発想全体を感じられ、統一的に理解できた。いつも観ているのがコンピレーションCDなら、こちらはベスト盤といったところである。

  コレクション展示「アナザー・ストーリー」も初めて入場し、堪能した。全体として、現代アートは、ギミック(gimmick 巧妙な仕掛け)とイリュージョン(illusion 錯覚)を本質としているという印象を持った。エッシャー、ダリ、マグリットの思想の一部が拡大増幅されていった流れである。ぱっと観た瞬間の感興が命というところがある。そうした意味で「知」の部分がなくても大いに楽しめるので、子供に大人気なのはよくわかる。
 無料常設コーナーに、人間の目と口の映像が顔の輪郭をした球体に投影されている作品があって、ベビーカーに乗った、まだ喋れない幼児がウーウーとその顔に語りかけているのに遭遇して微笑ましかった。作品と鑑賞者の交感が、人間のプリミティブな部分でおこわれている証拠で、これこそ現代アートの一特質である。
 でも、飽きないかなあ。ぱっと見は楽しいが、持続性に乏しい。歴史や文化など、自己の持っている知識を総動員して、知と感性との統合的理解をするという楽しみに欠けているような気がする。それがないと、何度観ても新しい発見をするというような深みに到らない。細部に目を凝らしたり、作品と対座し会話する楽しみがない。
 コレクション展示の中に、女の子の左右に広げている両手の掌がラズベリーの赤色で染まっている画像作品があった。若い女の二人連れは、「掌が赤いよね。」と事実を確認しただけで、さっさと次の絵に移ってしまったのだが、勿論、これは基督の磔をモチーフにしている。そうした意味でオーソドックスなテーマなのだが、全然気づいていないようだった。
 多くの作品を観たり、じっくり観ることによって、芸術のモチーフを知り、「知」が深まっていくはずなのに、第一印象勝負にこだわって、鑑賞者のそうした積み重ねを現代作品は重視していないようである。知識や感性がある人に理解してください、出来ない人はそれで終わりですというような突き放し感を感じないでもなかった。
 現代美術は、美の享楽主義・刹那主義に陥っていると直感的に思ったのだが、それがどうした何が悪いと開き直られたら、こちらとしては返す言葉がない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(無料ゾーンに吊されているモビール。「デススターの最後」と勝手に命名。)

 

 2005年10月19日
   金沢21世紀美術館は大繁盛(その三 ようやく本論編)

 実は、先日、戯れに「金沢」をキーワードにしてブログ検索をしてみた。出てくるわ出てくるわ、金沢観光印象記のオンパレードである。続けて読むと、観光客がどういうルートでどう金沢を味わったか、流れのようなものが見えてきて面白かった。今は、21世紀美術館がトレンドのようで、日帰りで見に来る東京人も少なくないようだ。多く場合、大盛況に驚き、地元民が公園のように大勢利用していることに地域密着型美術館の理想型を見い出して、手放しの褒めようである。

 

 ところで、金沢市民にこの美術館が待ち望まれていたのかというと否である。市の中心部、広大な金沢大学付属小中学校跡地をどうするかの検討会が開かれ、現代アート美術館を建設すると決定されたのが1996年のこと。その時の市民の素朴な感想は、「なぜ、金沢で現代アートなのか。」というものであった。せっかくの一等地、そんなとってつけたお客様向けのものではなく、混雑解消の大駐車場や図書館など市民サービスに振った施設のほうがいいという反応が多かった。市税113億円をつぎ込む大事業、失敗は許されない。
 このため、市は、不信感払拭のため、「市民に開かれた」という部分に躍起になった。異例の20回に及ぶ開館前イベントの開催、どこからでも入れる公園のような設計、体験型作品を多く収蔵する、市民ボランティアの養成など。これだけ地元住民に気を遣った美術館も珍しい。逆に言うと、いかに市民が懐疑的だったか、わかろうというものである。
 さて、蓋を開けてみると、連日大混雑。大成功が喧伝された。開館3ヶ月で年間目標の40万人を突破。そのニュースも全国配信された。また、NHKのニュース解説番組でも「勝ち組」として取り上げられ、30分に渡り全国放送で紹介されたりもした。結局、年間入場者数は150万人を突破している。
 この驚異的な数字、素人でもわかる仕掛けがしてある。「キッズ・クルーズ」という横文字をつけて、市立小中学校の児童生徒は、絶対、学校から行くようにしたのである。穿った見方を敢えてすれば、市の一施設の成功を確実なものにするため、教育現場を利用したともいえる。それに、有料なのは中央だけ。建物の外周ゾーンは無料なので、歩行者で反対側に突っ切るため建物に入った人も立派な入場者となる。
 こうした取り込みは、皮肉でもなんでもなく大成功だと思うし、努力は評価に値する。

 ただ、どうして県外者をこれだけ集客し得たのかは、私には謎である。だれかが加賀梅酒のようにしかけたとしか考えられない。そうでなければ、地方の一美術館のことを東京の人がこんなに知っているはずがない。地方には腐るほど箱もの美術館があるのだから……。
 田舎の凡夫には思いつくことではない。おそらく中央のコーディネーターあたりが入って情報発信のノウハウを伝授したのであろう。
 どんなノウハウか。それは、「言ったもの勝ちの論理」だったのではないだろうか。
 数が物言う美術館業界(?)のようである。通過者も入場者、地元の子供もみんな入場者みたいなやり方で、まず数を稼ぐ。特にスタート数ヶ月が勝負。それで評価が決まる。闇雲にダッシュしよう、そして大量入場者数を確保し、それを中央に大宣伝する。地元で大人気ですと中央に印象づけさせる。美術館業界では、数少ない「勝ち組」ですと早々に名乗ることで、評価を勝ち取り、後に事実としての勝ち組の地位を手に入れる、そんな先行逃げ切り策を発案したのではないだろうか。
 何をするにも、今や情報発信の成否ですべてが決まる、事実がどうであるかは問題ではない、そう信じさせた方が勝ちである。お菓子も酒もアートも、そうした事態に変わりはない。
  今は中央から過褒の嵐で、ご同慶の至りだが、美術館の白い壁がくすんできた頃からが本当の勝負である。
 現館長は専門家である。その薫陶も今は宜しきを得ている。爾来、市の施設だからといって、間違っても役人を館長に据えることのないようにしてもらいたい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(集客イベント 胡弓ミニコンサート)

 2005年10月18日
  金沢21世紀美術館は大繁盛(その二 加賀梅酒編)

 先日、YAHOOニュースで「加賀梅酒、二社も追従」という記事をみて、初めて、清酒「萬歳楽」の小堀酒造が「加賀梅酒」という商品を出していることを知った。全国発信で追従のニュースを流すくらいだから、中央ではかなり有名なもののようだ。ちょっと注意してみると、日本経済新聞などにも取り上げられ、加賀の名物として、お酒の人気ランキングの上位に食い込んでいる。特に東京の地酒好きの連中に人気沸騰、現在、手に入りにくい状態らしい。
  どうやら日本酒で漬けた梅酒らしいのだが、地元では見たこともないし、話題にもなっていない。私の周りに知っていた人はいなかった。
 ただ、それで思い出した。先日、スーパーで、梅酒からあげたシワシワ古梅が麗々しく置いてあって、袋に小堀酒造と書いてあった。「蔵元が何で梅なんだろう?」と、ちょっとあの時訝ったのだった。これで話がつながった。製品は地元を飛び越えて、副産物のほうを地元で売っているのである。
 地元で評判をとって、じわじわ全国に浸透していったのではない。東京だけで有名な地域の名物。
 こうしたことは、情報化が進んだ現代ならではの現象だ。人工的な、言い換えれば、情報操作的な結果の出来事で、そこには、どうしたら売れるか、誰かしかけを考えた者ががいたはずである。
 中央でメジャーになればこっちのもの。いずれ地元でも舞い降りるような形で有名になるだろう。
 さて、オープン一周年の金沢21世紀美術館。大繁盛である。でも、この盛況も、ちょっと作られたものという気がしないでもない。(つづく)

 

 2005年10月17日
  金沢21世紀美術館は大繁盛(その一 東京ばな奈編)

 2日間ほど職場を空ける方の肩代わりの仕事をしたら、その方から「東京ばな奈」を頂いた。和菓子バージョンだという。いつまでもカスタードでは飽きられるから、目先を変えた新製品ということなのだろう。ちょっと能登名物の芋菓子風で、採点に飽き飽きしていた我々小部屋の住人の御茶請けになった。
 ところで、いつごろから「東京ばな奈」が東京土産の定番になったのだろう。そんな昔の話ではない。昔なら、浅草雷おこし、虎屋の羊羹などがあって、栄枯盛衰、今はお土産界に君臨している感じである。いつか何かのきっかけで、前任者を押しのけて、のし上がってきたはずで、その大本のところがなんだったのか。企業家ならずとも、興味のあるところである。「東京ばな奈」自体は、菓子処金沢の住人から言わせれば、何の変哲もない洋菓子。持って帰るのに「軽かったから」という説は、ちょっと説得力があるような気はするが、根本原因ではなかろう。誰かが、何かのしかけをして、こうなった。そうしたところは、売れてしまえば、陰に隠れてあやふやになる。(つづく)

 

 2005年10月16日
   (つづき)

 話の始め、母が娘の来訪を喜んで、十三夜の月見団子を勧める場面が直接のタイトルの由来である。
「十五夜にあげなんだから片月見に成つても悪るし。喰べさせたいと思ひながら、思ふばかりで〜」と母。
 「片月見」。主に関東方面では、江戸時代、十五夜と十三夜、両方観ないと片月見になるといって忌み嫌ったらしい。北陸の私には初耳の言葉である。
 「今日は旧暦の十三夜、旧弊なれどお月見の真似事に団子をこしらへて」とあり、「亥之助も何か極りを悪がつて、其様な物はお止なされと言ふし」という台詞から、明治二十年代後半には、すでに十三夜のお月見は「旧弊」な風習と思われていたことがわかる。明治六年に新暦にかわってから二十年以上が経過している。前の時代の文化が滅びるのに十分な時間である。
 前近代にいる父と母、近代の浅薄性を体現する夫原田勇、前近代から近代に足を踏み入れつつある弟の亥之助。そうした中で揺れ動くお関という、実にあの頃の時代の過渡性を象徴した図式になっていて、一葉さんの時代把握の確かさと人物への載せ方に舌を巻く。
 そのお関は、弟と違って、母手作りのお団子を「ありがたく頂戴」するタイプの人物である。十三夜のお月見話で、ぱっとそれぞれの立場が明確になる象徴的な場面。
 こう考えると、「十三夜」とは、滅びゆく時代の象徴であることがわかる。時をこの夜に設定し、かつタイトルにしたこの閨秀作家が、如何に物語の主題の明確化に意識的だったかを物語っていて、さすが。文章は擬古文で古めかしいが、そうしたところは驚くほど近代主義的である。
 それにしても、この作品、後半の、零落した幼馴染みとの再会の意味も含め、論ずるところ満載である。ちょっと文学を囓った人なら誰だって分析を試みたくなる作品といえる。現に今、私の頭の中を、論文もどきの理屈が巡っているが、大抵、ぐるぐる低回しているだけで、それなりの結論に達せず、いつのまにか放置され忘れさられてしまうのが、よくある落ち着き先である。今回も、そうなりそうな予感がたっぷり。

 

 昨日の十三夜、残念ながら曇天で月は見えなかった。それにしても、十三夜を知っている日本人は、今、どのくらいいるのだろう。
 明治の女性の生き方に思いをはせながら、別名「栗名月」であるからと、レトルトパックの甘栗をパクついているのが、なんとも現代的風流の図である。栗は大好物。
 「あんた何個食べたの? 九個? もう袋にそのぐらいしか残ってないんじゃないの。」 百年後の日本人女性の某が、当然の権利を主張する声が背中から聞こえてくる……。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(17日の部分月食 2ch掲示板の作例より転載)

 2005年10月15日
  篠原一他訳「現代語訳樋口一葉☆十三夜他」(河出書房新社)を読む。
 今日は十三夜(旧暦9月13日)。栗名月である。
 醍醐天皇の御代の観月の宴が発端とも、長月の方が空気が澄んで美しいからとも言われているが、いずれにしろ、中国にはない日本独自の風習。左上が少し欠けている満月手前の月を、十五夜(旧暦8月15日)と並んで愛でるのは、完璧を嫌う、いかにも日本人らしい感性だ。ちなみに、今年の月齢は12.1である。
 そこで、それにちなみ、現代語訳の樋口一葉「十三夜」を読んだ。
 実は、一昨年まで使っていた現国入試問題集に、「十三夜」が載っていて、父が、夫との離縁を申し出る娘のお関を説得する有名な場面が出題されていた。私は、問題の解説をする毎に、「大昔に読んだきりで、ほとんど忘れているなあ、もう一度、ちゃんと読まないと、生徒に申し訳ないなあ。」と、ずっと思っていたのであった。
 選んだ本は、作品ごとに訳者を変えて載せてあるシリーズの一冊。若い人に一葉を読んでもらいたいという意図がはっきりみえる、どちらかというと若者向けの本である。
 「十三夜」の訳担当は、篠原一。1976年生まれ。この本、1997年3月初版だから 二十歳そこそこの若輩小説家の訳業ということになる。
 現代的な言いまわしの会話文があるかと思うと、「わたしで御座んす。」といった、古めかしい原文の言い方がそのまま混在していて、最初、ちょっと違和感があった。
 また、問題集に抜かれていた部分は、この訳では地の文になっていたのだが、確か会話文ではなかったかと疑問を持った。
 そこで、日本近代文学大系「樋口一葉集」(角川書店)で確認してみる。原文は、ご存じのように、カギ括弧がなく、地の文と会話とが渾然となった擬古文。なるほど、これのどこからどこまでを会話文とし、どこからを地の文とするかは、難しい問題だ。問題集の方は、適宜、カギ括弧を挿入して、読みやすくしてあるので、何の疑問もなく会話文だと思っていたのであった。
 地の文と会話文では、動作主の言い方が違ってくる。会話なら「私は〜」となるし、地の文なら三人称にして、例えば「お関は〜」となる。それだけで文章の印象は全然違ったものになる。
 無理な原文尊重主義に陥らず、現代の言葉に融通無碍に当て嵌める柔軟性もある。他の小説「やみ夜」(藤沢周訳)「わかれ道」(阿部和重訳)の訳が、あのくねくねした擬古文の雰囲気をそのまま残して、逆に読みにくくなっているのに比べると、物語世界に入りやすく、これはこれで、若い人向けとしていい訳なのではないかと、途中から思い直した。(つづく)
 2005年10月14日
  あっさりとセンチメンタルジャーニー
 先々週、叔母の市内巡りの運転手をした。運転だけなら弟でもよかったのだが、古い町並みをすこしは知っているということで、年嵩の私が選ばれた。
 金沢生まれのこの叔母は、昭和二十年代に東京に嫁いで以来、ほとんど金沢に戻ることがなかった。その間、金沢の町並みは激変している。
 今回、女学校の同窓会を機に、時間をとって子供の頃の馴染みの場所がどうなっているかを巡ってみることにしたのである。兄貴である私の父がガイド役で同乗し、市内をまわる。市内といっても、子供の生活範囲、半径2Kmくらいのものである。
 戦時中、食料を賄うために河原で耕した畑、通った小学校、動員で働かされた工場跡、など。
 共に八十歳前の二人が、あの時はこうだった、こんなことがあったと話をしているのを運転席で聞いている。戦争を実体験として生き抜いた一番若い部類の世代。子供の頃の記憶なので、部分的にえらく鮮明である。
 叔母は、結構、淡々としていたが、それは、しなければならないことをしたという感慨からなのだろう。
 我々の親世代は、今、着々と死出の準備をしているのである。
 2005年10月13日
  美術展巡りの日々

 招待券が手元にあるので、日程に急かされるように展覧会に行く。
 9日は、名鉄エムザ催事場で開催中の「趣味悠々鶴太郎流墨彩画塾展」(主催NHK金沢放送局)。
 NHK教育TVで好評だったお絵描き番組の生徒、高橋英樹、田中好子ら有名芸能人が番組中に書いた作品と、お師匠さん片岡鶴太郎の作品の展示。素人が指導によって上手くなる様子はよく分かったが、それを出演者全員分、次々に見せられても飽きるだけ。師匠本人の作品も素人芸の域で感心しなかった。もっと巧い人だと思っていた。だが、多くの年寄りは気に入っているようで、会場はサイン会やらグッズ購入で大混雑であった。その後、別の階の「中日写真サロン入賞展」も鑑賞。

 

(名鉄エムザのある武蔵が辻交差点の風景。眼前のダイエー金沢店は今月閉店する)

 

 翌日は、石川県立美術館にて、「サントリー美術館名品展ー日本美術の精華ー」(企画展)。
 赤坂見附の地下鉄を上がったところにあったこの美術館に、かつて行ったことがある。ビルの幾階かのフロアを占めるタイプの美術館で、たしか、一休宗純らの禅画の展覧会を観に行ったのである。
 赤坂見附の町並み、思ったより小さかった展示室、幾つかの達磨の絵や和讃、窓下の皇居外堀と高速道路が大きなカーブしている風景。この日一日の印象の断片が連鎖して記憶から浮かび上がる。何十年も前のことである。展示品は数点しか覚えていない。でも、外の景色はディティールまではっきり覚えていたりする。
 どうやら、美術鑑賞とは、そうした印象の総体、つきつめれば、今日は知的な行動をとったという精神の充足感を味わうことのようである。

 そういえば、あのころ、できるだけ知的なものを吸収しようと、あちらこちらの美術館にでかけた。秋は見応えがある特別展が多く、在京ならではと満足もしたが、そのため、ただでさえ苦しい生活費を圧迫した。知的リッチ感を味わうと、ひもじいプアな思いをする。全体レベルは相殺されて変わらず、知的向上も経済原理の枠の中、どこでパーテーション切るかだけの話であることを、当時、しみじみと実感した。美術館帰りの夕食は、大抵パンと牛乳だけ。この急降下落差が、今考えると青春時代そのものなのだろう。

 現在、六本木寄りに新しい美術館を建設中という。その休館を利用しての巡回展であることを知る。
 展示は、日本の室町から江戸のコレクションが中心をなしている。文箱、硯箱などの箱ものや、簪・櫛・笄(こうがい)などの精緻な細工物を観ながら、それらが現に使われていたものであるということの意味を感じた。もともとそれらは実用の品で、その中に芸術を封じ込めている。それが日々の生活の中にあった。使われていたということは、その作品に人間の手のぬくもりが付着しているということである。出来たて未使用品を飾る「現代伝統工芸展」との大きな違いはそこにある。床の間に飾らなくてはならないような、いかにも手をかけ技を凝らしたぞという生硬さを感じるそれらの芸術作品に較べ、優しさ、柔らかさがある。ショーケースから出したら、すぐに触れてみたくなるような親近感を感ずるのである。
 愚妻が、「大きい屏風などを観ても何にも思わなかったけど、小さい細工物は使ってみたいとちょっと思ったわ。」と言ったのを聞いて、それはもしかしたら最高の賛辞なのではないかと思った。

 

 入場の時、受付で互助会発行の券を提示したら、上階のコレクション展(常設展)のチケットをくれた。そこで、蔵品展示や小企画「宮本三郎素描展」も観て回った。素描は、戦時中のものにデッサンの確かさを実感した。
 開館一年の金沢21世紀美術館大盛況の余波を受け、客足減少が懸念される「県美」。歯止め策として、職員互助会と協力してこのサービスをおこなっているということなのだろう。これで、一人来ると二名にカウントされる訳で、いいアイデアだ。けれど、ちょっと姑息なような気もする。こっちは、数字上げにうかうか乗ってしまった気分である。
 どうやら、美術館業界の入場者数というのは、テレビ業界の視聴率みたいなものであるようだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(デパ地下のレストランでランチ)

 

 2005年10月12日
  嘖嘖・サクサク・さくさく
 この日記を読み返してみると、よく言葉をめぐる話題を書いている。仕事柄ということもあるのかもしれないが、大学で国語学専攻だった訳でもなく、専門的な知識はほとんどない。えらく気になり始めたのは、実はこの日記を書くようになってからである。
 パソコンに向かって文章を打ち込んでいくと、この表現はこれでよかったのかしらと疑問が湧く。世に「バカにみえる日本語」(辰巳出版)という本があるくらいである。一応、ネットという公に出す以上、国語教師が間違った言葉の使い方していたら恥ずかしいというただその一点で、せっせと辞書を繰るようになったのである。
 例えば、先日使った「不評サクサク」。書こうと思ってから、この「さくさく」ってなんだろうと疑問が湧いた。辞書で繰っておかないと不安になる。
 普通、@雪などを踏む時や、A歯ごたえがある時に使う擬声語だが、明らかにそれではない。
 まず、平仮名で「B水を注ぎ入れる音」というのがあることに驚く。昔は「釜に水がさくさく入る」と言っていたらしい。
 次の項目は「索索」。心に安んじないさまとある。これは、古語「さうざうし(索々し)」を教えているので想定内である。この古語、物足りない・心寂しい・張り合いがないという意味で、本来あるべきものがない欠落感を表す。勉強していない生徒が訳すと、見事に「騒々しい」とやって、こちらの思う壺である。受験暗記必須語。
 その次に「嘖嘖」。口々に言いはやすさまとあって、これだと安心する。ただ、あまり使わない字なので、平仮名・片仮名それぞれに変換して検討し、擬音語的面白さを加味して片仮名で書くことにする。
 これで一件落着と思い、8日の日記は書いたのだが、広辞苑の例文に「好評嘖嘖」とあることにちょっとひっかかった。そこで、今日、改めて漢和辞典で「嘖」を調べた。
 中国では褒める時にも舌打ちをするらしく、「しきりに舌打ちをしてほめるさま」が原義だと知る。ということは、本来は好評の時に使うべき言葉で、「不評サクサク」は正しくない言い方ということになる。このことは「NHK放送文化研究所」サイトで解説されていて間違いないことを確認した。
 ところが、情けないことに、検索をかけると、「好評嘖嘖」ではほとんどヒットしない。「好評サクサク」ですると、「サクサク感が好評で〜す。」というのばかり。それに対して「不評サクサク」は何万件もヒットする。つまり、今や誤用の方が一般的になっていることを知る。誤用は使うべきでないという正論と、現状では、誰もこの言葉を使ったからといって、そこでひっかかる人はいない、つまり恥はかかないという葛藤がほんの一瞬あって、まあ、いいか、直すのも面倒だしと、そのままにした。今後、使わないことにして、ここでは許してもらおう。 
 吉村昭がエッセイの中で、未だに毎日十回は辞書をひいているというようなことを書いていた。プロの作家、それも大ベテランの彼が、そんなにひくものかなと思ったことがあったけれど、今はよく分かる。
 2005年10月11日
   金沢駅西地区雑感

 昨日の体育の日、元同僚のお見舞いにでかけた。椎間板ヘルニアで手術後六日目という。開口一番、「術後のことなど、何でもわからないことがあったら聞いて下さい。」と言い放ち、「大便でましたか。」「ああ、その痛みは心配いりません、直にひきますよ。」なんて、したり顔で受け答えしているのがちょっと他の見舞い客と違うところ。

 病院は駅西地区にあった。昔は「駅裏」などと陰口を叩かれていたが、今や県庁が移転して、発展著しい。穀倉地帯の田畑をどんどん潰して、あっという間に、新町がぬっくと出現した感じで、駅から港へのびる「大道髪の如き」50m道路には、大型店舗や大会社の支店が軒を連ねつつある。
 ただ、金沢平野のまっただ中である。四方に山なく土地に高低がない。道も整然としている。つまり、町の香りがないのである。のっぺりとした風景。方角でさえはっきりしない。
 遠景の山並みや坂・崖、くねった道は町の特色を生む。地形、気候、土地柄に合わせ、人が住みやすいように工夫したてできたもの、いわば自然に寄り添う「合理」の極致の景観が、長い時を経て、その土地の香りになる。
 先の遠足の時に歩いた、こうした落ち着いた古町の佇まいと、今日見ている、槌音高らかに建設中の現代建築の群れ。同じ括りに入れるに躊躇するかのような対比的な景色だが、どちらも紛う方なく金沢の今である。
 でも、昔も……、と思う。前田利家が入城した時、尾山御坊(金沢)は、武士の町でも何でもなく、坊主と町人の小さな町だった。それを、城下町としての体裁を整えるべく、急ごしらえの造成もやったに違いない。今は古びた足軽たちの町も、当初はペキペキの普請だったはずで、いつでもどこでも、新しいというだけで、既成側からは軽佻浮薄に映るものである。
 新しい街も、現代に意味づけられた「合理」精神の結果であろう。それがなんだか素人にはさっぱり判らないが、きっと都市コーディネーターや高名な建築士あたりの高邁なコンセプトがあるのだろう。
 何百年か後、このコンクリ色の町は、どんな町の香りを発散することになるのだろうか。

 

 いつもこぢんまりとした旧市街地ばかりを動いている私は、別世界のような広々とした空間の景観に、少々、怖じ気にも似た感情が湧いてきたことに気づいた。この景色に自分は関係がないという疎外感のようなものである。
 現代文明に無用之人、茲に在り。
 私は車の後席で窓の外の流れる景色をぼんやり眺めていた。

 2005年10月10日
  用水の町金沢  

 土曜日、雨の中、職場の恒例行事であるゴミ拾い遠足に参加して、駅から勤務校に至るルートを歩いた。(といっても、私は、無理せず途中で脱落。)
 ゴミの多くは吸い殻である。昔、信号待ちの舗道に大量に捨ててあって見苦しかったものだが、近年、ぐっと少なくなった。「マナーがよくなったということかねぇ?」と同行の方に問うたら、違う違う、喫煙者人口自体が少なくなったからだよとクールな分析が返ってきた。そういえば、そこにいた大人六人誰も吸わない。
 旧市街地を縦断する形になるので、大野庄用水、鞍月用水沿いの道を歩く。江戸末期から昭和初期くらいの古ぼけた家々。みんな用水に小橋をかけて家の玄関にしている。用水が生活の一部として機能していた時代の名残りである。軒々の合間から高層マンションの灰色の塊が見え隠れする。古い町並みの二元論的空間映像。
 大野庄用水からようやく離れると、すぐ次の用水が現れる。二つの用水が玉川町付近で急接近していることを知らないと、武家の町特有の小路と相まって、ラビリンス感覚を味わうこととなる。
 昔、母校の大学の先生がゼミ旅行の引率で来られ、町を案内したことがある。友人の指導教官で、私は初対面の方だったが、「金沢は一言で言うと用水の町だね。」と喝破して、さすが文学部教授と感服したことを覚えている。たしか、その時もこの辺りを歩いていたような気がする。

 帰宅後、金沢の治水の要、辰巳用水も含め、江戸ゆかりの用水の行き先を、地図を広げて確かめた。どこを通ってどこに流れ着くのか、全体像は意外に知らないものである。
 地図を「用水」という観点で眺めるのは初めて。ああ、あそこがあそこにつながるのかと、ちょっとした発見をした反面、暗渠が多くなっているのだろう、青の線が所々寸断されていて、どうつながっているのかはっきりしないところも多くあった。

 用水とは、水を「用いる」ということ。農地では、勿論、昔と変わらず重要な灌漑の水路。でも、今、わざわざ、都市部に川の上流から人工的に水を流す理由を、現代人はなくしてしまっているのではないかと思い当たった。生活排水は下水パイプの役目で、用水には流さない。いわば、上水でも下水でもない中途半端な水の通行路になってしまっているのではないだろうか。
 金沢人には見慣れた用水の風景。古都金沢の大事な観光スポット、長町の武家屋敷あたりを滔々と流れゆく清い水。ポスターにでもなりそうな景色である。
 どうやら、今や用水は、景観としての都市イメージの維持・促進にその大きな役割があるのかもしれないという結論に辿り着いたが、なんだが、あまりに悲しい論で、誰か軽やかに反論してほしいなあと思いながら。私は地図を閉じた。

(追記)鬼嫁、この文章を観て曰く、「雪捨て場。」
 よかった。確かに北陸にとって大事な役目である。

 2005年10月08日
   お名前様

 日本経済新聞(10/1付「NIKKEIプラス1」欄)で、気になる言葉遣いのアンケート結果を発表していた。一位は「〜でよろしかったでしょうか。」というレストランのウエートレス言葉。「へりくだっているようだがぞんざいな気持ちがでている。」(四十代男性)と不評サクサクである。他に、例の「○○円から頂きます。」「〜ほうになります。」などがあがっている。接客言葉が変ということである。
 もう一系統は、若者言葉。「私って〜じゃないですか。」「私的には〜」「語尾上げ言葉」「タメ口」「〜なくない?」など。これはよく分かる。
 敬意を出そうと思ってヘンテコ言葉になったか、言葉というもの自体に敬意がまったくないかの違いである。
 びっくりしたのは、11位に「お名前様いただけますか」というのがあったこと。これは初耳である。あるクラスで調査したが、誰も知らないという。まだ金沢には広まっていないようで一安心。絶対、広まってほしくない呆れた敬語である。
 まず、「名前を頂く」という言い方からして変である。受付かなにかで言う言葉なのだろうから、「お名前お聞かせ願います。」「お名前をお願いします。」「お名前をお教え下さい。」など、まだまだ色々言い方がある。それをよりによって……。
 これじゃあ、固有名詞をその人に進呈することになってしまう。私が言われたら、「これは私の名前です。貴方には差し上げられません。」ときっぱり言ってやろう。
  それに、この「様」。「名前」という一般名詞についている。「お机様」「お大根様」と言っているのと同じ。これで相手を尊敬したことになると思っているのだろうか。いやはや噴飯ものである。
 でも、本当に、こんな情けない言葉、東京では平気で使われているのだろうか。ちょっと疑念が湧くのだが……。

 

 2005年10月06日
  図書選定会

 先の土曜日、「図書選定会」なる会に参加した。
 実は、これ、会議をするのではない。図書委員の生徒を、地元で一番品揃えが充実している書店に集めて、自分が読みたいもので図書室に入れてほしい本を1時間で選びなさいという企画である。お金の制限は5000円まで。
 生徒たちにとっては、学校のお金を使って買い物が楽しめるようなもので、喜々として選んでいた。これと思ったものを、各階においてある専用箱にどんどん入れていく。もうシステムになっていて、本は後日配送してくれるし、似つかわしくない本は返却もできる。金沢市内の学校で定番の行事のようである。
 引率の教員は、だから、鵜飼いの鵜匠のような気分になる。いいの獲ってきてねという感じである。大人が選ぶと子供の興味との間に径庭を生ずる。図書委員になる生徒は、もともと本好きの子たちだから、今流行の高校生が興味のある本をしっかり嗅ぎ分けて選んでくれる。それを並べると、生徒がどんどん図書室にやってくるという寸法なのである。

 書店もまとめて購入してくれるので、対応しましょうということなのだろう、誰が考えついたのか、売り手、教員、生徒、みんな満足の会なのであった。
 私も一緒に選びながら、昔、こんな風な、制限時間内にお金を決めて商品選ぶテレビ番組があったような……と考えていたけど、途中で思い出した。夢路いとし喜味こいしの名漫才コンビがやっていた日曜お昼のお買い物番組「がっちり買いましょう」(昭38〜昭50)。それを口にすると、引率メンバー、ホントだとえらく盛りがった。番組終わって三十年、みんないい年寄りである。

 

 一人、「文学」のコーナーに立つ。専門書の置いている書店に行って、長時間、本選びをしたのは久しぶりのこと。若くて真面目だったころは、よくこうした客のほとんどいない専門書の階で、本の香りをかぎながら知的書棚散策を楽しんだものだった。
 忘れた記憶をほぐすような感覚に包まれたひととき。

 

 

 

 

 

 

 

 

(単なる立ち読みの写真と区別がつかんなあ)

 2005年10月05日
  浅井あい「心ひたすら」(皓星社)を読む。

 ハンセン病の偏見と闘う象徴的な存在だった浅井あいさんの書物。歌人でもあるので、前半は歌集、後半はエッセイの体裁をとる。
 彼女は金沢出身。14歳で発病、地元を離れ、長く群馬の療養所での生活を余儀なくされた。国家賠償請求訴訟原告の一員として全国的に有名になった人だが、、平成13年、母校の金沢大学附属中学校から67年ぶりの卒業証書を受けとり、石川では大きな話題になった。その彼女が、8月3日、85歳で亡くなった。そのことが念頭にあったので、図書室でこの本を見つけ、今、読むべきと通読した。
 司書さんの話によると、数年前、この本で校内読書会を開くに際し、療養所に電話したところ、とても丁寧な対応で、逆に感謝されたという。
 
 この病気、昔は癩病といった。病名として漢字があるくらいだから、中国でもかなり古くからの病気なのだろう。広辞苑では「源平盛衰記」の用例を載せている。また、「かったい」とも言った。カタイの転。「異土の乞食(カタイ)となるとても、帰るところにあるまじや」(「小景異情」)のカタイである。漢字で「乞丐」とも書く。この「丐」も物乞いの意味。つまり漢字の世界では、「ハンセン病=物乞い」のイメージで繋がっている。置かれた状況がいかに過酷だったかを物語っていて、漢字を調べただけでも心重くなった。
 だから、ハンセン病と言い換えたことは、古いイメージを打破するために有効だったと思う。名前だけ変えて本質が変わらない<愚>も多いが、この場合は、大事なことだったように思う。「一太郎」では、すぐには変換しない漢字扱いである。
 
 私自身、皮膚・筋肉が冒される病気ということくらいしか知らなかったが、末梢神経系を冒す病気で、失明、難聴、それに喉もやられる病気であることを初めて知った。戦前に有効な薬が発見され、治る病気になっていたにもかかわらず、政府は「らい予防法」という昔ながらの隔離政策を変えず、患者は辛い思いをしてきたのであった。
 親は彼女が去ると、すぐに彼女の全ての持ち物を焼いて、彼女の存在を抹消せねばならなかった。また、兄弟は、長年連れ添った自分の配偶者にも黙っていなければならなかったなど、家族も大変な苦労を強いられている。

 そうした家族への配慮、早期に新薬を導入してくれていれば、目・耳をやられずにすんだという無念さ、同病で連れ添ってきた亡夫への思慕、亡くなった同志ともいうべき友人たちへの追懐など心情的な思いの他に、訴訟では原告として言うべきことをしっかり発言したいという意志、政府の無策ぶりへの批判、明確な反政府政党への支持など、外に向かっては、きっぱりした政治的信条を貫いている。この辺りに彼女の彼女らしさを感じる。
 贈呈式の様子とあわせ、金沢への思い出を記しているが、当然のことながら全て14歳までのことに限定される。それが、六十年以上前とは思えないほどの鮮明さで語られている。おそらく何度も何度も反芻した情景なのだろう。
 その後、一夜にして彼女の人生は結節点を迎え、後は療養所生活一本となる。我々は、高校時代、大学時代、初任時代、中堅時代と人生の段階を踏んでいくが彼女にはそれがない。人生、二局面しかないところに、彼女の人生の厳しさが浮き出てくるように感じた。
 読みながら、この方は、金沢弁でいう「はしかい人」だったいうことがよくわかる。利発で気丈な人である。

 

 法律は廃止された。あとは偏見との戦いでということになるのだが、人種にしろ障害にしろ「異形(いぎょう)」のものに対する差別は根強い。おそらく種の保存からくる本能的な恐怖を下地にしたものだろうが、それだからこそである。熊本のホテルの宿泊拒否事件とその後の経過を見るにつけ、易くはいかぬ道であることを実感する。
 けれど、彼女の最晩年、暖かい配慮に恵まれ、光りを見いだして終えることができたことに、未来への希望を感じた読後感であった。

 

 2005年10月04日
   最後のボナロン錠を飲む

  先日の通院で、数値が戻ってきてますので、骨粗鬆症の薬はもういいでしょうとボナロン錠が処方されなかった。貴方が五十五歳以上なら引き続き飲んでもらいますが、まだ若いですからねぇという理由。
 ここ半年、この薬を飲むために三十分早めの起床を励行した。朝食を作っていると、思わず味見をしてしまうので、台所には近寄らず、手持ちぶさたなその時間でパソコンに向かった。その意味で、日記を真面目に書いていた原動力になっていた(?)のである。
 その薬が今日で切れた。
 変なもので、この薬に一縷の望みを託していたからなのだろう、もう飲まなくていいとなると、ちょっと残念なような感慨が湧いてくる。
 長く付き合うと、本来、付き合わないにこしたことがないものでも愛着が湧いてくるものらしい。

 

 最近は、薬をもらうと、その薬の情報が書いてある書類をくれる。今飲んでいる薬は、モービック錠というらしい。「関節・筋肉の痛みを和らげる」とある。強い薬らしく胃腸薬も処方されていて、その他に、「気持ちを落ち着かせ緊張や不安を和らげる」薬もある。これは一種の精神安定剤であろう。
 今、まじまじとこの仕様書読んで、ちょっと納得したことがあった。ここのところ、体調がよくなく、微弱な胃の痛み、悪寒、眠気があったのだが、それらは、そのまま「副作用」欄に書いてある通りだったのである。
 この薬、確かに効く。痛みが一日軽減される。でも、対処療法に過ぎず、なんだか誤魔化されているような気がして、あまり好きではない。それに、どうも、今後、軽い副作用とも相談しながら飲まねばならない。
 患者さんの気持ちとしては、時間がかかってもいいから、病気本体を直してくれるお薬が欲しいのである。

 2005年10月03日
   ピーター・タウンゼント「ナガサキの郵便配達」(「ナガサキの郵便配達」を復刊する会)を読む。

 敗戦記念日の日記に、原爆のことを書いた。その時、三省堂の大判教科書に載っていたピーター・タウンゼント作「ナガサキの郵便配達」についてちょっと触れた。あれを書いてすぐに、この本が再刊されるというニュースを見つけ、ちょっと因縁を感じて、早速、注文した。
 正規の書店販売ではなく、復刊する会に電話をして送ってもらい、振替で現金を送る方式。流通にのらない自費出版である。本を買うのではなく、協力金としてということらしい。下らぬ雑本が溢れる出版界。原爆を生き抜いた青年の人生を追ったドキュメント一つ、流通にのらないのかと思うと、戦争の風化を感じ、情けなさひとしおである。この復刊によって洛陽の紙価が高まらんことを期待したい。

 今回、改めて全文通読してみると、教科書で読んだ時と、微妙に印象が違っていた。
 教科書は、途中、梗概を入れる形の抜粋で、かなりの長文が載っていた。主人公谷口稜曄(スミテル)の人生の劇的な部分だけをうまくピックアップして作られていたようだ。被爆の瞬間、周囲の惨状、燃えさかる市街地、驚異的な生命力、その後の人生……。
 しかし、この本は、彼を襲った惨禍だけを細叙した作品ではなかった。戦争開始までの経緯から筆を起こし、開戦、戦局の動向、日本の軍閥が国政を席巻していく様子、米国のマンハッタン計画に対するトルーマンの軽挙妄動にも多く筆を割いている。そうした両国の指導者層の洞察のなさが、結局、長崎に原爆が投下された原因になっていると跡付け、その犠牲になった、何の罪もないのに大きく人生を狂わされた市民の象徴として、スミテルが選ばれているのであった。
 どうやら、この作品は、極東の政治的事情に疎い、英仏両国民に、日本の太平洋戦争と原爆の意味を分かりやすく俯瞰してもらい、目を向けてもらうために書かれたドキュメンタリータッチの太平洋戦争概史であるというのが正しい位置である。
 日本の狂信的軍国主義者によって挑発されたものの、それに乗って世紀の犯罪を犯した張本人は、原爆を破壊力の強い爆弾だというようなレベルでしか理解していなかったトルーマンをはじめとするアメリカ好戦派の連中だと彼は断罪している。不必要な一般市民の大量虐殺をしたという点で、「テロリズムそのものではないとしても、非常にそれに近い」行為だとするのである。
 「訳者あとがき」によると、「原爆とその後遺症がいかに恐ろしいものであるかがはじめてわかった」という仏国著名誌の書評があったようで、その好意的書評から、逆に、欧州ではそういったレベルでしかないのだという感慨を強く感じた。
 この作品、確かに、スミテル青年の生き生きとした描写は、この作品に存在感を与えたが、長崎原爆記録の古典として、すぐに定着しなかった理由もどことなく理解できたような気がした。かなりの部分を占める、太平洋戦争の全体像の描出と意味づけより、個々の被爆体験をじっくり描いてくれれた方が、日本人にとっては有り難かったのではないかと感じないでもなかったからである。
 ほかに、刊行が1985年で、この手のものとして、かなり遅かったこと。外国人の聞き書きということで、どうしても細かいニュアンスに違和感がある部分があり、それも早期廃版の理由かと思われた。
 取材したタウンゼント氏は、エリザベス女王の妹、マーガレット王女との恋愛で、昔々、英国全土の話題となった第二次世界大戦の英雄(空軍大佐)。どこかで聞いたことのある名前だと思ったのは、違っていなかった。
 その作者氏、訳者氏ももう鬼籍に入られた。命拾いしたスミテル青年のほうが未だご健在で、聞きに来る人に、淡々とあの時を語っているそうである。
 この本、今の生徒にも読んでほしいと思ったのだけれど、流通にのらない本は、学校図書館では、公費の関係で購入できない。
 なんとかならないものだろうか。

 

 2005年10月01日
  『志賀直哉対話集』(大和書房1969.2)を読む。

 図書室の書架にこの本を見つけた。教科書で習う以外、大正の作家を読むなんて行動をする生徒さんは、今や皆無に近くなってきたので、まあ、私が読んであげようという気分で借りてきた。
 志賀を敬して拝聴する体の後輩作家との対話より、谷崎潤一郎ら同輩作家とのやり取りのほうが断然面白い。そこで、興味のある対談相手のものだけつまみ読むことにする。

 

 谷崎と志賀は同世代。当時の二人の読書遍歴が面白い。志賀は明治十六年、谷崎は十九年生まれである。
 彼らの幼児期から青年期、いかにまともな本がなかったかということがよくわかる。時は近代文学の揺籃期である。文学史に残る有名な作品を、子供ながら同時代人として読んだことに感慨が湧くが、逆に言うと、子供が『雪中梅』や『佳人之奇遇』とかいう作品読んでいたことに、選択のバリエーションが全然なかった当時の出版界の状況が垣間見えて面白い。今では埋もれて、現代の我々が聞いたこともない作家・作品も多く話題に上がる。あの作品は全然駄目だったという話も結構あって、当時、手に入る本は、子供用であろうがなかろうが、面白かろうがなかろうが、片っ端から読んでいくしかなかった様子が彷彿とされた。
 本当に、日本文学は、小さな世界で、玉石混淆の時代だったようだ。
 戦後に生き残った大家が、明治時代の自分の読書体験をざっくばらんに語る、生き証人的発言。
 その他、興味を持ったのは、「白樺派」の内部事情の話。各学年でバラバラにやっていた回覧雑誌を統合する形で発足したので、当初、人道主義的ニュアンスはほとんどなかったらしい。それは、やはり武者小路実篤の影響が大きく、後期、そういう作品ばかりが紙面を飾るようになって、志賀自身は距離を置き始め、わざわざ紙面に馴染まぬ作品を載せたりもしたようだ。最後まで僚友武者小路との交友は続くが、倉田百三あたりは、志賀の眼鏡にはかなわなかったらしい。若い頃は、ちょっとした年齢差も人間関係に重大な影響があり、全員同等の立場で、大の仲良しだったということではなかったようだ。言われてみれば、当たり前のことである。

 

 福田蘭堂が、志賀のお宅に出入りして、その様子を語った『随筆 志賀先生の台所』(現代企画室)は、晩年の志賀の、洒脱だが好悪のはっきりした一家の長らしい人柄が生き生きと描かれていて、私の好きな本のひとつだ。この本も対話集なので、そうしたさっぱりとした一面がほの見えて、そこも楽しんだ。

 

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お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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