昨日の話から思い出したことがある。 寺町台地の奥のほうに住んでいる人間は、本多町・広坂界隈や小立野台地の厚生年金会館へ行く時、よい交通手段がないので、歩くことになる。下菊橋を渡って、斜めの道と称されている永井善隣館前の小道をいくと、いい具合に、観光会館などがある本多町通りの一角に行き着く。この道が、地図で確認しても、まさに最短距離。、大通りをまともに歩くと、三角形の二辺を歩くことになる。 父が子供の時代から使っている古い道だが、今もそれが常識になっているかといえば、心許ない。 文化教室の時、午前中の授業で、移動は、この斜めの道を通ると早いよと生徒に助言したのだが、知っている者はいなかった。高校は遠くから通っている生徒も多く、このあたりの地理に疎いのも無理はないのだが、近所の子も知らないという。その日、実際、私はその道を使ったが、ついぞ誰一人とも会わなかった。どうやら、みんな大通りから行ったのである。 千人以上の人間が、誰も最短距離の道を使わないという事実は、私には異常なことのように思える。歩くとなれば、一番短い距離で行きたいと思うのが人情ではないか。 なぜだろう? 理由をいくつか考えてみた。
1、昔、あの道は、細道ながら、いつもそれなりの人が歩いていた。最近は、そもそも人影を見なくことが少なくなった。つまり、人が歩かなくなったから。ちょっとした距離でも交通手段に頼る。だから、小径を知らない。
2 学校からあのあたりに行くときには、あの道が早いよというようなことが、毎年の行事にもかかわらず、上から伝承されていない。そんな話題を先輩と喋らなくなったから。部活などでも、以前ほど上下関係が親密でない感じがする。同学年同士でまとまってしまって、上下とはできるだけ摩擦を少なくする方向で人間関係を築く傾向がある。だから、細かいことは伝わらなくなった。
3 みんなの後を歩けばつくだろうという他人任せの態度があって、自分から積極的に調べるという態度に欠けているから。先生が誘導すれば、その通りに動くが、特にこちらから誘導がないものは、列の流れで歩いていけば着くだろうという自主性の欠如、努力をすることの欠如があるから。
4 そもそも、大道を歩めばよいと、それで行き着くんだったら、それでいいじゃん。なにも無理にこせこせ小道を探して歩む必要はないという、人任せ主義が一歩進んでの開き直り。
いずれにしても、たかだか小径ひとつのことで、ちょっとオーバーかもしれないが、人間の知恵、ひいては「叡智」とは対極の、「思考停止の思想」を感じて、やり切れない思いがするのだが、私の考えすぎだろうか。
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