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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年12月01日
   予測が当たった?(今年総括1)

 年頭に、ラジオなど既存メディアは、インターネットの驚異に晒されているという趣旨の文章を書いたが、今年の出来事を見ていると、まさにそれが、表面化した年になったことに驚く。
 今年一年、IT産業によるラジオ局、テレビ局の株取得問題で喧しかった。書いてすぐに、インターネット関連会社ライブドアによるニッポン放送買収問題が世情を賑わせた。今年後半は、ネット小売りの胴元のような商売をして急成長した楽天によるTBS株取得問題である。IT側は、メディアとネットの融合による利便性を訴えている。まあ、簡単に言うと、配信は電波ではなく、ネットを利用するが、IT産業自体に番組製作能力がないから、売る商品、つまり「番組」というコンテンツが欲しいということなのである。
 それにしても、日本を動かしている資本は、今や、ものを作る「産業」資本から、IT関連産業やファンドに移った感がある。プロ野球の球団名の変遷を見れば、それは一目瞭然。
 今、せっせと解いている評論問題に、現代は産業資本主義から、どこに儲けがあるかを、めざとく見つけ、そこに投資するマネーゲームの時代になってきた。キーワードは「差異性」であるという文章があったが、そうした産業構造の変化を、経済に疎い私も、まざまざと実感した一年であった。
 この種の会社、マネーロンダリングに代表されるように、お金転がしのような悪い印象がつきまとう。そもそも、ものを作らなくて大丈夫なのかと素朴に思うが、産地から原料を買ってきて加工して商品に仕立てる「加工貿易」が、産業のグローバル化によって崩壊しつつある今、日本の生きる道は、確かに、「差異」を見つけ続ける綱渡りをしていくしかなくなったようにも思える。
 予測が当たったというより、なんだか、そんな予兆がするなと、末端の我々庶民が感じはじめた頃には、上の方では、もうとっくに、その方向で巨大な力が動いてしまっている、そんな印象を持った。
 二〇〇五年は、後に、産業構造の変化が内部完了して表面化した、日本経済のIT産業主導元年、ポスト産業資本主義元年として銘記されるのではないかと、ここで、素人プチ予測をしておきたい。
 十年後、この文章を読み返すのが楽しみである。

 

 2005年11月30日
   最短道が伝承されない

 昨日の話から思い出したことがある。
 寺町台地の奥のほうに住んでいる人間は、本多町・広坂界隈や小立野台地の厚生年金会館へ行く時、よい交通手段がないので、歩くことになる。下菊橋を渡って、斜めの道と称されている永井善隣館前の小道をいくと、いい具合に、観光会館などがある本多町通りの一角に行き着く。この道が、地図で確認しても、まさに最短距離。、大通りをまともに歩くと、三角形の二辺を歩くことになる。
 父が子供の時代から使っている古い道だが、今もそれが常識になっているかといえば、心許ない。
 文化教室の時、午前中の授業で、移動は、この斜めの道を通ると早いよと生徒に助言したのだが、知っている者はいなかった。高校は遠くから通っている生徒も多く、このあたりの地理に疎いのも無理はないのだが、近所の子も知らないという。その日、実際、私はその道を使ったが、ついぞ誰一人とも会わなかった。どうやら、みんな大通りから行ったのである。
 千人以上の人間が、誰も最短距離の道を使わないという事実は、私には異常なことのように思える。歩くとなれば、一番短い距離で行きたいと思うのが人情ではないか。
 なぜだろう? 理由をいくつか考えてみた。

1、昔、あの道は、細道ながら、いつもそれなりの人が歩いていた。最近は、そもそも人影を見なくことが少なくなった。つまり、人が歩かなくなったから。ちょっとした距離でも交通手段に頼る。だから、小径を知らない。

2 学校からあのあたりに行くときには、あの道が早いよというようなことが、毎年の行事にもかかわらず、上から伝承されていない。そんな話題を先輩と喋らなくなったから。部活などでも、以前ほど上下関係が親密でない感じがする。同学年同士でまとまってしまって、上下とはできるだけ摩擦を少なくする方向で人間関係を築く傾向がある。だから、細かいことは伝わらなくなった。

3 みんなの後を歩けばつくだろうという他人任せの態度があって、自分から積極的に調べるという態度に欠けているから。先生が誘導すれば、その通りに動くが、特にこちらから誘導がないものは、列の流れで歩いていけば着くだろうという自主性の欠如、努力をすることの欠如があるから。

4 そもそも、大道を歩めばよいと、それで行き着くんだったら、それでいいじゃん。なにも無理にこせこせ小道を探して歩む必要はないという、人任せ主義が一歩進んでの開き直り。

 

 いずれにしても、たかだか小径ひとつのことで、ちょっとオーバーかもしれないが、人間の知恵、ひいては「叡智」とは対極の、「思考停止の思想」を感じて、やり切れない思いがするのだが、私の考えすぎだろうか。

 

 2005年11月29日
   嫁坂再発見
 金沢は坂の町である。子供の頃はそれが当たり前だったので、長じて、ダコベコ(デコボコの金沢弁)していない町に逆に違和感を持つことになった。平面的な町は殺伐としていると映ってしまうのである。東京が、散歩人にとって絶好の町なのは、谷と台地が入り組んだ坂の町だからである。特に、地勢的に河岸段丘の先端にあたる文京区は坂の町と言ってよく、私は、荷風の散策記『日和下駄』を調べるために、かなり文京区の坂を歩き回った。あの時書いた論文の眼目は、一見、東京を項目的網羅的に記しているようだが、「崖」「坂」など同じものを重複してまで立てることで、故郷小石川の風景を繰り返し確認しているのだということであった。
 高低差は陰影を生む。崖上と崖下、光と影、富めるものと富めないもの、乗り越えられない断絶として、二つを分かつ。そして、その二つを結ぶのが坂なのである。本来断絶しているものを繋ぐ細長いコミュニケーションのルート。
 水に浸食されてV字に削られたところが、おそらく原初的な坂の形態である。登山道の成り立ちを考えたらすぐに判る。でも、多くは急峻で町中の道としては適さない。だから、江戸時代までの坂は、傾斜に沿って斜めに下りる道のことが多いようだ。崖に対して垂直な坂は、水が涸れてから、あるいは、治水を施した上で、後からできた坂のことが多い。実家近くの長良坂も、下るにつれて、周囲の壁が高くなり、犀川に真っ直ぐ下りていく典型的V字型。やはり、江戸時代、小川が浸食して削った後に道をつけたそうだ。
 下菊橋から小立野台地に上がる坂に二十人坂がある。台地の上の部分をV字に削り、崖下の低地の部分は逆に土盛りがしてある。父によると、当時、珍しかった爆薬で掘削したてできたと聞いているとのことだった。こうして、人工的にまっすぐに台地に上がっていく道は、江戸の発想ではない。人間が自然を屈服させてできたもの。あの坂が何時出来たのか、正確には知らないが、近代の思想を強く感ずる。
 半年前の文化教室は、県立工業高校横の大乗寺坂から小立野台地に上がり、帰りは嫁坂を使った。嫁坂の細い階段坂を歩いたのは久しぶりだった。十年ほど前、坂巡りが目的で、真横の車が通る新坂をスクーターで下りた覚えがある。この坂、下りたところが住宅密集地で、大通りに出る分かりやすい道がないので、知った人しか使わない地味な坂である。先の美術館の帰りにも使ったが、一年に二度も使うのは珍しい。
 これで、ちょっと判らなかった崖下の迷路もこれで判った。この坂、崖上の武家のお屋敷から崖下に嫁に行った娘のために開削したのが名前の由来。親御さんの愛情溢れる坂なのである。
 金沢の人でも、存在自体知っている人がほとんどいない。人通りも少ない。この前通った時は、陰のベンチで県工の生徒がデートしていたくらい。もともと私は判官贔屓である。もっと使ってあげようと勝手に思った今年。
 2005年11月28日
  (つづき)
 以前、NHKが、ボサノバを一躍世に知らしめた名曲「イパネマの娘」一曲にスポットを当てた特集(「世紀を刻んだ歌」シリーズ2001・12・27)をやっていていた。その中で、クリード・テイラーのプロデュースで行われた録音当日の裏話がドキュメントとして生々しく紹介されていて、断然、面白かった。テイラーはあくまでも売れ筋を考えるし、ジョアンは芸術肌の人でゲッツを嫌ったようだし、ついてきただけのジョアンの妻アストラットは歌いたがってしかたなかったらしいし、ジョビンはそんな中で気の遣い通しだったらしい。こもごもの思いで進行する録音という感じがよく判った。音楽好きはこの手のこぼれ話が大好きである。
 ボサノバの歴史を顧みると、発見と興隆が音楽史的にスリリングだし、ブラジルの政治情勢、現代人の癒し心理など、社会情勢が静かに絡んで進んでいく。その動き自体に、何だかボサノバ音楽が持つ揺れのようなものを感じて興味深かった。
 本のジャケットがリオデジャネイロの海岸とバックの奇岩山。ボサノバのジャケットでリオ全景を使っているものは、「キャノンボールズ・ボサノバ」(キャピトル)を始め数多い。ラグビーボールを半分に切って立てたような一枚岩のポン・ジ・アスーカルがなんと言っても印象的である。
 実は、昔、雑誌「ラジオの製作」の表紙で、高いところに立つ、両手を広げた巨大なキリスト像を見て、どこにあるのだろう、大きいなあ、いつか行ってみたいなあと、子供心に思っていたのである。
 それが、有名なコルコバードの丘の神像で、リオ全景写真は大抵そこから撮られたものだと知るのは、ジャズを聞き始めてからだから、かなり後年のことである。「コルコバード」も「イパネマ」も「コパカバーナ」も、みんなここのことを指すのだということも知り、二つの画像がくっついて、以後、私が行きたい外国の都市ナンバーワンになった。
 でも、地球の裏側なんて、今の腰ではとんでもない遠地である。そんなこんなで、あんまりどこに行きたいと思うタイプでもないのだが、まだ見ぬ憧憬の景色としてのコルコバードのイエス像は、私の中でどんどん純化されつつある。
 2005年11月27日
   コルコバードの丘
 先日借りてきたのは、ボサノバ名盤紹介本。柿木央久『決定盤 ボサ・ノヴァCD一〇〇選』(河出書房新社)。著者はボサノバで東大の卒論を書いた人らしい。
 ボサノバは、昔から大好きなのだが、あくまでも「ジャズに消化された」という括弧付きの知識しかなかった。だから、ちょうどいいレベル。これが「モダンジャズ名盤入門」だったら、絶対、手に取らなかった。
 私は、アメリカでのボサノバブームを作った敏腕プロデューサー、クリード・テイラーが立ち上げたCTIレーベルからジャズに入ったので、リズムとしてのボサノバは、私のジャズの森探索と共にいつも身近にあった。この本に紹介されているアルバムで、彼製作のヴァーヴやA&Mレーベルのものなど、持っているものも多い。だが、アドリブのないブラジル現地録音のものなど、コアな部分の状況はよく知らなかった。そこが判って勉強になった。
 ボサノバは、ブラジルのサンバとショーロが、ジャズなどポピュラーミュージックの影響を受けて、土臭さが抜け、洗練されて出来たジャンルである。もともと、本国からじわっと広がったわけではない。一国で流行しつつあった新しいサウンドが、アメリカのマーケットに着目され、ジャズ的な要素を更に付加されて、一気に全世界を席巻したもの。アメリカ録音を商業主義と一蹴できないのが特殊なところである。ブラジルものだけを本場とあがめていると、えらく痩せた解釈になる。いかにも戦後音楽の成り立ちの雛型を見る思いである。
 でも、「イパネマの娘」が入っているボサノバの金字塔「ゲッツ・ジルバルト」(ヴァーヴ)など、知らぬ人なき大名盤なのだけれど、現地主義のコアなファンから見ると、ジャズ畑のスタン・ゲッツのサックスが小うるさくて、「これは、偽物」と感ずるらしい。世の中みんな、アレをボサノバそのものと思っているのに、贔屓の引き倒しみたいな人はどこの世界にもいるようである。ジャズファンから言わせれば、ゲッツのテナーサックスのアドリブがなかったらジャズとして認知されることはなかったハズで、ということは、ボサノバが大ブームになることもなかったことになる。クリードの読みの凄さであるが、ちょっと痛し痒しみたいなところがあるかもしれない。
 あれだけ大ブームだったボサノバが、本国では六〇年代後半にはさっさと下火になってしまう。そのことも知っていたが、ブラジル軍事政権が退廃的なこの音楽を弾圧したことも大きく影響していたことを、今回、初めて知った。そのため、一時期、滅んだ音楽扱いされ、本国でさえ楽譜一つ手に入らない状態だったという。
 ジャズのリズムの一つとして、大抵、コンサートで一曲は演奏する。もう三十年もジャズを聞いてきた身としては、全然、そんな断絶感はなかったのだが、一九八〇年代以降、一気に復活してきたのだそうである。もちろん、そこには「癒し」の音楽として、現代人にマッチしたということがある。
 私も歳をとって、ハードな音楽は敬遠気味。気がついたらボサノバリズムのCDを買っていることが多くなった。今月、まとめて買って聴いているダイアナ・クラ−ル(vo)もボサ曲が多い。
 そういえば、私は、渡辺貞夫のFM番組「ナイトリーユアーズ」を毎週聞いている。そこで、ブラジルやアフリカのワールドミュージックがよく紹介されていて、ポルトガル語やアフリカ言語の曲を聞くことが多かった。それも、この本を借りようと思った遠因かもしれない。そもそも、日本に、当時最新の音楽だったボサノバを紹介したのは、アメリカ帰りの若き日のナベサダである。(つづく)
 2005年11月26日
   詩人祭を見る
  先の祭日、金沢市民芸術村里山の家で「第三回石川詩人祭」を短時間参観した。再生古民家で繰り広げられる地元詩人主催のイベント。
 いかにも、国語教員らしい行事に行ってきたように思われるかもしれないが、全然、違う。国語教員は概して創作とは無縁である。公立学校教員は役人気質が染みつく。芸術肌とはあい入れない部分があるし、郵便配達夫は休日に遠足しないの類でもある。教員は、商売として国語を教えているのであって、楽しくてやっている訳ではない。生徒の助動詞の習得加減に一喜一憂している存在にすぎない。それに、活動の中心は校務や部活。余暇に創作まで興味をのばす気はない。だから、地元にどんな創作者がいるかも一切知らないという人も結構多い。つまり、かくほどまでに別の世界なのである。
 朗読のコーナー。初老の男性が自作を一人芝居よろしく熱弁するのを聴いたが、到底、私にはできない行為であると恐れ入る。演劇をやっている方とちょっと似たものを感じる。どちらも自己表現というものに貪欲な人たちなのだということに気づく。理系の愚妻にいたっては、知らない人種の世界を垣間見たという怖いもの見たさ的感想。
 でも、この方々、日常の隅々にまでアンテナをはり、掴まえ、温め、言葉を選び、意識の軌跡としてつなぎ止めることの名人たちである。
 どこの文学サークルでも同じ悩みを抱えているが、運営者、聴衆ともども、年齢層がかなり上なのが気にかかった。
  この時の外出のメインは、もうひとつ、会場近くの生協ストアでの買い物。ちょうと冷蔵庫が空になり、お米がなくなっていた。こっちのほうの違和感のなさっていったら、もう。
 
 2005年11月25日
   ゴミ箱買えないの?
  日銀短観は、緩やかな回復傾向というのが、ここのところ続いているが、絶対に嘘だと思っている人がほとんどではないか。
 昔、大本営、今、日銀。
 日曜日に立ち寄った図書館でびっくりしたのは、そこの新刊雑誌閲覧コーナー。立てかけてある雑誌二十数冊が、今月号で、購読を停止する旨、告知してあった。全体の五分の一近い。「アサヒカメラ」は生き残ったが「日本カメラ」はアウトである。おそらく経費節減ということなのだろう。
 この秋、何度も行った県立美術館でも、庭木が全然手入れされなくなっていることに気づいた。休憩コーナーから見える前栽が雑然としている。展示業務をケチるわけにはいかない。まず、そのあたりから切られたのである。
 振り返って、我が校。先日、ゴミの分別の仕方が変更され、ゴミ箱が各部屋に必要になったのだが、それが買えない。一部ご不便があるが、おいおい揃えるというのが事務方からのアナウンスである。
 ゴミ箱一つ買えないのか!と、先生方全員、情けない思いが湧く。
 県立学校、今年度、前年度比三分の一のマイナスシーリングとかで、大変である。一度に予算が三分の二になるなんて、いくらなんでも頑固な話である。公教育にお金ケチって、企画の競争させて、本当に明るい日本の未来がくると思っているのだろうか。
 民間は弱肉強食。いいアイデアで、うまくやったところが生き残る。そういった意味で厳しくはなっているが、繁盛しているところは繁盛している。ところが、お役所は、一律、大きな網をかけるだけだから、こういうことになる。その結果、心理的に不況感を煽っているようなことになって、えらく逆効果のように思うのだが……。
 それにしても、昔は、人事院勧告があれば給料は上がるもの、制度の改定があれば、よくなる方向でのものと思いこんでいた。今は、変更イコール縮小・改悪の類である。その違和感を、職場のある五十歳代の女性がよく口にするのだが、彼女の気持ちはよく分かる。戦後民主主義教育の提出した明るい未来像を子供心に真正直に受け止めて、かつ高度成長経済の中で育ってきた世代である。それが、人生後半になって、こんな世の中になるなんて、あの説明は何だったの?という気分なのである。
 私が、高校時代、世界恐慌を習って素朴に思ったことは、恐慌といっても、台風のように不可抗力のものでなし、物資自体がなくなったわけもなし、あくまで人間の所業である。最悪になる前に、全世界の叡智を結集して打開にむけ策を講じれば、何とかなるはずのものなのに、その時の人間たちは、いったい何をしてたんだろうというもの。今から考えると、高度成長まっただ中のノンポリ若者らしいお間抜けさ加減である。
 現状はちょっと冷えたくらいの感じだが、この何十倍もひどいことになるのが「恐慌」なのだなと、今では、逆に、しっかり実感できてしまうのが、これはこれで、また悲しい。
 人として、最後まで明るい世の中で生きていけるというのは、自分ではどうすることもできないだけに、当たり外れのようなものだが、そうあれかしと思わずにはいられない。
 2005年11月24日
   電池好き

 どうも、私は無類の電池好きのようである。二次電池の容量が増えるたびに買い足して、家には、リチウムイオン充電池がごろごろしているし、ニッケル水素乾電池が出たオキシライドが出たといっては試している。
 かなり以前、愚妻からそれを指摘されて、図星のような気がして、これは反論の余地がなかった。
 今年買ったデジカメは単三型対応だが、専用充電池のほうがレスポンスが上がるので、追加で純正専用充電池を買ったのが七月。替えがあったらいいだろうと、今度は、色々調べて安価なサードパーティ製のを二つ買った。これは十月。一昨日は、電器店でメモリカードリーダーを買ったついでに、安売りしていた単三・単四型充電池計六本もついつい買ってしまう……。
 そんな性癖(?)だから、いつの間にか、家庭内で使う電池製品はほとんど充電池に取って代わった。切れると充電。私は、いわば、「充電池取扱管理責任者」である(うーん、ちっちゃい役職だなあ)。
 なんでこんな人になってしまったのか、我ながら、全然、判らない。
 ただ、言えるのは、子供の頃、雑誌「ラジオの製作」や「子供の科学」を月々買って、ゲルマニウムラジオなんかを作っていた、電気好き少年の成れの果てだということ。これが案外、真相ズバリのような気もする。文学中年は仮の顔なのである(?)。
 それにしても、子供のころ、創造性豊かな人間になれかしと、工作ものを厭わずに買ってくれた親には、絶対、知らせたくない好尚である。

 

 2005年11月23日
   四方君の詩集で読書会

 先週、四方君の詩集を使って後期校内読書会をした。最新詩集の詩は、ちょっと難しいので、数編にして、ほとんどを処女詩集のなかから選んだ。君たちと同世代の時の作品だよというのが惹句。司会の生徒さんとの事前の打ち合わせで、まず、興味を持った作品数編をあげてもらい、上位の作品から見ていくというアイデアを出してくれて、その方式でやったら、比較的うまくいった。普通、高校読書会の大人(助言者)は、最後にまとめるのが役目。話し合いがスムーズに流れれば出番は最小というのが正しい。今回は、彼の置かれた立場からの説明が必要で、こちらが長々喋らなくてはならず、話し合いというより講義みたいになるのではないかと危惧していたが、逆に、小説と較べ、一編一編が短いから、その場で考えて意見をいえるといった気軽さもあり、こっちもかなり喋り、生徒も意見も言ってくれ、生徒の「ちゃんと参加した」感はちゃんと達成されたようだ。
 昔々、四方君と二人でせっせと伊東静雄の読解をしていた。それとやっていることは何も変わらない。人数が多くなっただけである。あの時は、二人だけなので煮詰まってきて、教室の横を通った先生を招き入れ、その人の詩についての思いなんかを聞いたこともある。「一人の詩人で、その時期その時期で、色々な思いがあることがわかった」「自分とは違う解釈をしてる人がいて、びっくりした」という感想は、こちらとしては、この会のねらいでもあるので、うまくいったと安堵感もあるのだが、後からよく考えてみると、そうした実感を、今まで子供たちに味わわせたことがない国語教育のほうがよほど問題である。

 

 2005年11月22日
   生徒は見ている
 朝、時間休をとって整形の診察を受ける。医者は決して患者を暗くする言い方をしない。でも、彼の話した断片的な情報を総合すると、一生この痛みと付き合わねばならないらしいし、痛み止め飲み続けて体に害はないのでしょうかという質問にも返答がなかった。骨密度もかなり低値で、十年後は骨粗鬆症の覚悟がいるらしい。全然明るくない。
 でも、もう以前ほどのショックはない。そういうことなのだろうという感慨で職場に向かう。
 昨日のS女史の一筆が心に浮かぶ。つまり、そういうことなのである。
  到着が遅れ、授業が差し迫っていたので、おっとり刀で教室へ。すぐに漢詩の授業に入ったが、どうもエンジンがかからず一時間が終わってしまう。 人間、面白いもので、授業が朝からなくても、職場にいると、ちゃんと授業モードにシフトしていて問題がないのに、外の空気を吸っていて、急にビルの中に入ってしゃべりはじめても、切り替えがうまくいかないものらしい。
 おまけに、授業の行きしなに、何だか今日の先生暗いよと生徒に声をかけられた。生徒は実によく見ている。
 2005年11月21日
  年賀状印刷の季節

 家庭用コピー機が家にあったので、我が夫婦、お互いの実家、計三軒分の年賀状製作担当が私ということになっている。今は、パソコンのプリンターがそれに取って代わった。
 去年、今年と、プリンタ会社のサイトに無料の絵柄素材が提供されていて、そこから選ぶ。考えなしの定番デザインならあっという間である。あとは、六百枚の印刷のお守り。
 愚妻の実家は愛犬がいるので、その写真が中央。今年はこの手のペット自慢のオンパレードだろう。先日、そのために実家に写真を撮りにいったけど、短時間でいい顔してくれるほど犬も下卑ていない。
 我が家のは、勤務先の文化祭で見つけ、マクロで撮った犬の縫いぐるみが採用されている。
 さて、表書きである。一時期はパソコンで管理、ラベル打ち出ししていたが、更新をさぼっていたら古びて使えなくなった。もう面倒なことはしたくない。最近は、前年きた人に鸚鵡返しをしているだけである。
 そろそろだと、去年の束を見直していたら、今年六月亡くなった同級生S女史からの賀状が目に飛び込んできた。
「歳をとるとヌカ喜びもしなくなるけど、完全な絶望もしなくなる精神のバランスのとり方ができてしまうのかな」
と一筆加えてある。
 もらった時は、他の賀状に紛れて読み流していたようだ。なにやら達観した文章である。だが、どうしたというのだろう、インクの青色が薄くなって、もう見にくくなっている。消え入りそうな筆の跡。
 私は、ちょっと躊躇してから、意を決して、愛用のペリカン万年筆の太い字で、その横に「彼女の最後の年賀状。要保存」と、青々と書き足した。
 途端、どっと悲しくなった。

 

 2005年11月20日
  図書館を通過する
 ウイークエンドになると悪天候というのが、ここのところ続いていた。ようやく今日の午後、少し晴れ間が見えた。そこで、外の空気を吸おうと、遅い昼食を近くのラーメン店に食べに行く。(この店は、言葉遣いに文句を言った店ではありません。念のため。ただ、店員さんは、「お待たせしました。こちら醤油ラーメンになります。」といって、丼置いていったけど、もう懲りて指摘はしませんでした。大人ですから……?)
 帰りは図書館の横を通るので、ふらっと立ち寄る。腰を悪くしてから、ここは足が遠のいた。勉強どころじゃなかった。今でも短時間いただけで腰がしんどくなって、帰ろうという意識が先に立つ。どうせ読むのだったら借りてくればいい。家とは目睫の間である、返却もそう苦にはならない。そこで、雑誌コーナーで最新号をパラパラとめくっただけで、目についた軽目の本を数冊借りて、それこそ通過程度で外に出る。
 でも、図書館の静かな時間の流れは、やっぱりいい。慌ただしい散文的な生活とは違う、ゆったりとした時間の動き。全国でも利用者上位の人気図書館なので、館内は今日もかなりの人だが、それを感じさせない。外では駐車待ちの車が十台近くいる。近場に住んでいてよかったと思う。
 ああ、早くこの知的空間の空気をたっぷり思う存分味わいたい。今日、調べものしていたり、途中飽きて、趣味の雑誌なんかを見ていたら、一日いちゃったよというような時間の使い方。
 腰を痛めたのが一昨年十二月上旬。
 必要に迫られた時だけ外出、用が済めばさっさと帰るという生活が、もう二年になる。
 2005年11月19日
   手帳を買う

 来年の手帳を買った。見開きで一か月がカレンダー型に書かれてあるペラペラなもの。判で押したように職場に通勤するサラリーマンである。職場の行事関係と、病院の予約日を書き込むくらいが関の山。かさばらず、軽いのが一番という発想で選んだ。
 去年、希望者に配布される普通の厚さの「教職員手帳」でも重く感じて困っていたところ、二月頃、投げ売りになっていた薄いのを愚妻が買ってきてくれ、思いのほか心地よかった。それで、自分の利用スタイルをはっきり自覚したのである。今年は、例年通り、教職員手帳に戻ったが、ほとんど使わなかった。「もの」というのは、勝手が悪いと使わなくなるものである。
 では、薄ければいいかと、業者が販促品として配布したミニミニ手帳も考えたのだが、日付が縦に並んでいて、曜日感覚が希薄なことが気になった。人間、結構、曜日で予定を思い出すものである。
 そこで、はっきりした基準を持って、来年用を手帳売り場で物色したので、ものの一分もかからず、これがいいと見つけることができた。見えている買い物は速攻で買っても、まず間違いがない。(パイロットPD-06-35L)
 さて、問題は愚妻である。
 愚妻は、ここのところ、自分から、手帳がプチ・マイ・ブームだとか何とか言って、手帳愛好家委員会編「選ぶ・使う・極める みんなの手帳」(大和書房)や、関係のサイトを覗いて研究していた。その上で、立て続けに三冊も買っていた。
 おいおい、手帳なんて、年に一冊だろう? 
 本人の心づもりによると、「REAL SIMPLE」創刊号(日経BP社)付録の大判特製ダイアリーは、職場の仕事用。野口悠紀雄「「超」時間管理法二〇〇六」(アスコム)付録の縦長折紙タイプの「超」整理手帳は、スケジュール管理用。糸井重里の「ほぼ日手帳」のは分厚くて、雑記や日記用だという。
 そんなにうまくいくものかしらん?
 来年の手帳だけで五千円の出費。マイブームとかなんとか言って煙に巻かないと、呆れられるのが普通である。
 もう、まったく。
 でも、結局、我が家は、食卓の横にあるカレンダーの書き込みを見ながら動いていたりする。
 これが真実。

 2005年11月18日
  サケにあたる
 Sさんの話題が小部屋で出る。その方、アトピー性皮膚炎で、化学調味料含有の食べ物すべてにアレルギーが出る。天然の味付け以外のものは受け付けない。それを聞くにつけ、我々は彼より許容が少し大きいだけにすぎないことに気づく。だからといって、避けて通るのは不可能に近い。
 彼、化学調味料を一切使用しない旨の看板が出ているお店に行っても炎症が出ることもあり、そこは嘘をついているということがわかるそうである。聞くと、我が家の近くで無添加を謳っているラーメン屋は大丈夫らしい。
 「人間リトマス試験紙」みたいな人である。
 アレルギーつながりで同僚が教えてくれた話。ある女性、赤身の魚でひどいことになる。若い頃、旦那の実家で鮭の切り身が出た。初々しかった彼女は、断りきれずに頂いて、病院に担ぎ込まれる騒ぎに、当然、仕事へは行けない。鮭に当たったので休みますと連絡を入れたそうだ。
 回復して、職場に復帰したところ、昨日までの年休簿の事由の欄には、「急性アルコール中毒のため」と書かれてあったそうだ。
 酒に当たった?
 2005年11月17日
   四半世紀前の講演会(江藤淳4)

 私にとって、江藤淳はそんなに親しい存在ではない。『夏目漱石』(東京ライフ社)『漱石とその時代(全五部)』(新潮選書)などの著作を持つ漱石研究家であり、『成熟と喪失』(河出書房)で第三の新人を、『奴隷の思想を排す』(文藝春秋社)で既成批評を批判した文芸評論家としてのイメージで終わっている。他には、随筆数冊読んだ程度。昭和五十年代、保守思想への大転換といったニュアンスで話題になったことは知っているが、その戦争論、公私論を私は読んではいない。
 そんな熱心な読者でもない私であるが、その昔、正確に言うと、昭和五十七年六月三日、「私の漱石研究」という演題で、大学に講演会にきて、謦咳に接したことがある。比較文学がご専門の恩師K先生のつながりでお呼びすることができたということで、司会進行は、そのK教授だった。七年ほど前、比較文学的考察『アーサー王伝説と漱石』(東大出版会)で博士論文を提出し、学位を授与されたことが話題になっていたので、当然、比較文学論的に分析するのだろうと思っていたのだが、自分がどういう状況で、なぜ『夏目漱石』を書いて世に出たかという回想的な内容だった。
 その時、彼は東工大教授で、理系の生徒の中で文学に興味を持っている生徒が集まってくれる方が、気持ちよくつきあえるというようなことを言っていた。そういえば、同じく文芸評論家の磯田光一も、大学では英文学の先生をしていて、国文学を生徒に教えるのは嫌だとはっきり言っていた。そのほうが、教育と仕事は別と割り切れるというようなニュアンスで、妙に納得した覚えがある。それに似ている心境なのかもしれない。
 講演の話に戻る。実は、その時、カセットを回していて、今でもテープが手元にある。落ち着いた語りぶりで、淡々と話されいるのが印象的。最初と最後に、K教授のお声も入っていて、無性に懐かしい。
 二十年ぶりに聞き直した講演は、当時より何倍も感銘深かった。ただ、A面が終わっているのに気づかず、B面との間に十五分近くの空白があることに、今回、気が付いた。そういえば、そうだった。四半世紀前、ちょっと失敗したなあと思ったことまで、今、まざまざと思い出す。
 あの時、私は「研究者」江藤淳を期待し、肝心の漱石自体に何ら触れられなかったことに不満を持ったのだが、今聞くと、実に率直に「批評家」江藤淳の誕生秘話を話しているのであって、その中に彼の個性を聞くことができる。どうも、当時は、聞く観点が間違っていたのである。
 彼は、若い頃、結核を患ったことが、ものの考え方に如何に大きな影を落としているかを繰り返し繰り返し述べている。何時死ぬか判らない存在としての自分を見つめてのスタートということである。
 そう考えると、彼にとっては、健康な時は、できる限りの仕事をしよう、でも、遠かれ近かれ仕事ができなくなる時が来る、それを強烈に意識しながら、誠実に働いてきた人物なのだということが、穏やかな語り口のなかに看取できる。
 戦争で自分の上の世代が多く死んだ。自分も若くして死すべき状況だった。それが、僥倖にも、六十歳をこえるまで生きてきた。そうして、妻の死、脳梗塞による制限。もはや「死して已むべし」という意識だったのだろう。
 もちろん、私は、四半世紀前、元気だった頃の講演から、自裁の思想を無理矢理酌み取っているだけで、『妻と私』を読んで感じたのと同じような、既定化された地点からの御都合主義的感慨にすぎないような気はする。
 だが、そうであっても、なぜか、『妻と私』以前から、以前も以前、青春期に病気をした時から、彼の「生」への考え方は、ほとんど変わっていないように思えてならなかった。
 以上、何の分析にもなっていない。『妻と私』と講演を聴いただけの素朴な感想である。

 

 2005年11月16日
   私が野球を観なくなった理由

  今年の日本シリーズは、毎試合、ロッテが十点以上とって、阪神を圧倒した。仮にもセリーグの覇者である。阪神の情けなさが際立った。パリーグ最下位チームの次が、セリーグ優勝チームではないかと陰口が囁かれる始末。実力選手がメジャーに行って、プロ野球界自体の脆弱性が表面化した出来事と感じたのは私だけだろうか。ただでさえ、スター不足。あれでは、人気が凋落するのも当然である。
 最近、日本のプロ野球の視聴率が急落しているらしい。昔ほど、職場の話題にも出なくなった。でも、実は、私個人、人様よりだいぶ早くプロ野球を観なくなっている。そこで、今回は、野球と私の微妙な関係の話を……。
  もちろんと言うべきか、典型的「巨人・大鵬・卵焼き」世代なので、子供の頃は巨人ファンでした。漫画「巨人の星」(「少年マガジン」連載)も大人気で、あのころ、ガキン子で、地元以外、他チームのファンなんていなかったと断言してもいいくらい。
 子供は早く寝なさいと、八時に布団に入らされたが、耳元にはいつもラジオがあった。ナイター中継で、王・長島がバッターボックスに入るのが、ただただ待ち遠しかった。打席の間中、ホームラン打たないかなあとワクワクドキドキする。彼らの打席が終わると、次の打席まで頑張って起きてようと思うのだけれど、絶対、寝てしまって、結果を知らないというのが毎夜だった。いつも試合中盤まで。
 じゃあ、野球が得意だったのかといえば、からっきし。いつもライトとセンターの間を守っていた。放課後、三々五々集まってきた子の数が多くなると、へたくそな子は、そんなどうでもいい守備に回されるのであった。打席も下手な子二人で一人分。交代で二回に一回しか回ってこない。その日、バッターボックス一回だけだったなんてこともしょっちゅうだった。
 長じて、大学生までは、それでも、野球中継くらいは観ていた。が、決定的に聞かなくなったのは、ある年の日本シリーズの試合。レフトポール際の打球がファールかホームランアかで、阪急の上田監督が審判に猛抗議し、試合が三時間以上中断したことがある。あの日、確か下宿で雑用しながらテレビをつけていた。
 プロはお客さんにお金をもらって野球という商売をしている。ある種のエンターティメント業である。それをこんなに待たせて、決定的に彼は勘違いしていると思った。それ以来、ぷっつりプロ野球は観なくなった。だから、もう二十年以上、テレビで最初から試合を見続けたことはない。今、現役選手で顔と名前が一致する選手もほとんどいない。
 だから、私にとって野球といえば、勤務校の野球部の夏の大会県予選に都合がつけば行く程度である。
 以前、理髪店で、若い理容師さんが、顧客名簿で私が教員であると確認して、高校野球の話を始めたことがあった。その年は、星稜高校が甲子園にいくことに決まっていたが、私も新聞で知っているだけ。それ以上の知識はなにもない。でも、彼女、高校の先生だから野球の話をすればよいと思ったらしい。
 他の学校、それも私学で、係累のない運動種目の一つについて、私が何を知っていよう。「はあ、そうですか。」と生返事を繰り返すのを、不思議に思った彼女は、途中、顧客名簿で、私の職業を確認しなおしていた。
 多くの教員がそれぞれの部で頑張っている。運動部・文化部、それぞれに強豪校がいて、それに追いつけ追い越せでやっている。
 マスコミに載る率が高いので仕方がないのかもしれないが、世間が思っている学校教育のイメージ全体が、どうも違うんじゃないかと思う、ちょっとした瞬間である。
 でも、この種の違和感、勉強のことを含め、しばしば感ずる。

 

 2005年11月15日
  杉浦日向子『隠居の日向ぼっこ』(新潮社)を読む
 NHKのバラエティ番組「お江戸でござる」で、江戸の生活を解説していた江戸風俗研究家杉浦日向子さんが四十六歳の若さで亡くなったのは今年七月のこと。人気コーナーだったのに降板してしまって、訝しく思っていたのだが、体をこわされてのことだったとは、死亡記事が出るまで知らなかった。私と同学年の人だったことも、その時気づいた。
 私の書庫には、若い頃読んだ、興津要『江戸庶民の風俗と人情』(桜楓社)シリーズ四冊があって、これで結構、江戸町人の世界を理解した。だが、彼女の名解説のお陰で知った知識も数多い。ファンというわけではないが、番組前半のドタバタ喜劇をパスして、あのコーナーだけを観たこともあるくらいの好感度を持っていた。
 あれだけ、江戸の庶民の生活に造詣が深い人である。大学の名物先生としても充分やっていけたと思う。これから知識が総括的になって、花開く時だったろうに……。
 死因は咽頭癌。先日、短いながら、闘病の様子をテレビで紹介していた。最後まで生きる望みを捨てなかった彼女らしい末期(まつご)だったらしい。今頃あの世で、存分、好きなお酒を飲んでいることだろう。
 この本、一か月前、デパートの客寄せ美術展に行った折りに見つけて、追悼気分で購ったもの。彼女の纏まった本を読むのは初めてであった。
 内容は、櫛、手拭いなどの小物を女性らしい視点で取り上げた短いエッセイ集である。途中、彼女の漫画のコマが挿絵がわりに入る。江戸の風俗を紹介しつつも、自分の子供の頃、昭和三十年代あたりの風俗と照らし合わせているところに同世代を感じる。あの頃で途絶えた古き良き習俗は数多い。
 もともと新聞の連載小コラム。ちょっと短すぎて展開不足なのが瑕瑾である。
 2005年11月14日
   ゴミを捨てる

  可燃物週二回、瓶・不燃物月一回、包装ゴミ二週に一回。これが金沢の回収スケジュールである。結構ゴミの日があり、通勤途中、何カ所も置き場を通るので、集配曜日が違うところもあって、毎日、「ゴミの日」といった感じに映る。無人ながらしっかり出されているところ、乱雑なところがあり、お世話の方が交代でついているところもある。そんなところは、ご近所の情報交換場所になっているようで、賑やかしい。昔は、井戸端会議といったが、今は、いうなれば「ゴミ端会議」である。
 ある女性が、雑然とした印象の朽ちた家から出てきた。一応、町行きの格好はしているが、疲れの痕を額に印した六十歳をとうにまわった媼である。手にゴミ袋を持っている。彼女、無人のゴミ置き場に近づいたと思ったら、叩きつけるように袋を投げ捨てて、そそくさと通りすぎて行った。
 彼女、おそらく人生の不満をいっぱい溜め込んでいるのだろう。それが、ちょっとした行動に出る。
 投げ捨てられたゴミ袋を横目で見ながら歩む。
 寒い。もう、朝、気持ちよく歩けるのは暫くのことである。

 

 

 

 

 

 

 

 

(そこに捨てられているのは、もしかしたらキティーちゃん?)

 

 2005年11月13日
   電話さまざま

 新人戦前夜、元同僚で同世代のA氏より電話があった。ふらっとかけてくる人なので、大挙して教員が出払うこの時期、その種の話題かと思ったら、先週、父親が逝去したとのこと。休日をはさんだせいで、回章のファックスが遅れ、昨年度までいた職場の同僚は誰も来なかったという話だった。こだわる人ではないが、ちょっと淋しい気がしたのだろう。そのあたりの人の心理は微妙である。知らないだろうから言っておきます、喪中欠礼ですというのが趣旨の電話。彼らしい。
 「では、こっちも聞くが、正直なところ、今からの御香典は迷惑か、対応できるか?」
 この言い方、不躾だが、変に気をまわすよりは余程いい。持っていくのが筋だが、葬儀終わって一週間のお宅にお邪魔するのも、何かと気が引ける。躊躇した末、大会中、近くの郵便局から郵送してしまった。後で、なお手間になったのではないかと、ちょっと気になった。
 今朝は「題名のない音楽会」(テレビ朝日系)で、三十八歳の若さで急逝した歌手本田美奈子さんの追悼特集をしていた。夕方の「笑点」(日本テレビ系)では、こん平さんに続き、圓楽さんも病気降板中で、現在、司会が持ち回っている。 
 夜、父より電話あり。亡くなった従兄弟の法事の日程の打ち合わせ。受話器を下ろしてすぐに、今度は、先月お見舞いに行った元同僚から、退院報告の電話。
 今日一日、何気なく過ごしたが、周りを眺めると、「老病死」が、いっぱい私を囲んでいたようなのである。 
 昼、金沢大学近くの大型店で買い物をした。鍋用のカセットコンロ、コーデュロイのジャケット、厚手ズボン。そろそろ、冬越しの準備である。
 なぜ人はものを買うか。それは、生きるためである。

 

 2005年11月12日
   新人大会

 六月の県総体と並んで大きな大会である「県高校新人大会弓道競技」で、県立武道館に日参した。高校野球でいう春の選抜大会出場をかけての大会である。団体戦男子は、決勝リーグ(上位四校)に勝ち残り、総当たり戦でも全試合高的中率をマークした。これほど最後までしっかり当て続けたのは例年にないことで、我が部としては天晴れである。が、強豪校は二十射十七中あたりを連発していて、選手は、上には上がいることを思い知らされた大会でもあったろう。個人戦でも高位を獲得できた。
 昨年からご担当の正顧問、若きコーチの指導宜しきを得て、上げ潮基調。つなぎの役目も終わり、もう部活で私がすることとてないのだが、まあ、もうしばらくの間、このよちよち歩きのオッさんも部活に混ぜて下さいね気分である。
 例年、真冬を思わせる底冷えの年も多い。控室の鉄筋ビル特有の寒さ、吹きさらしの外で業務の辛さを思って心配したが、穏やかな日々が続き、その点でも、和らいだ気持ちで過ごせた三日間であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

          (矢渡しの儀式)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

        (決勝進出は誰?)

 2005年11月09日
   ここで、問題です

 (問題)昨日の日記で、作者は、最後に、長年勤めている勤務校を「初めて見た建物のように」感じていますが、それはどうしてなのでしょう。作者の気持ちに即して説明しなさい。

 (ヒント)作者の勤務校は、母校ではありません。

  (解答)  各自で。(ただ、作者の私は、あれからいろいろ考えて、わかってしまいました。)


 

 2005年11月08日
   学校見学

 中・高授業見学交流会とやらで、近隣の中学校の授業を見学しにいった。中学校に行くこと自体、稀なので、校舎見学も含め、少々余裕を持って仕事場を出た。実は自分の母校である。
 小さな教室、低い黒板、小学校ほどではないが、目線が下の造りである。男女が仲良く机をくっつけているのも、高校では考えられない風景。
 班に分かれての共同活動が多く、作業が多いという印象。授業がゆっくり動いている。もともと中学はこんなペースなのかもしれず、また、「ゆとり教育」の結果なのかもしれない。しっかり授業聞いている子もいるが、全然、聞く態度が身に付いていない子もいる。選別され同等の能力を持った子が集まっている高校に較べると、対象が千差万別で、中学の先生は、さぞ、やりにくかろう。
 ある先生が観てきた国語の授業。辞書で言葉を調べてくる宿題、「やってきた人?」と聞いたところ、八人だけ。「辞書、今、持っていない人?」と聞いたら、大多数。では、図書館に借りに行きましょうとの指示で、どっと生徒が教室からいなくなり、今度は、全然戻ってこない。ようやく作業が始まったのは、二十分近くたってからであったという。ちゃんと調べてきていた生徒は、この時間、何をしていたのだろう?
 科の会議で、見に行った先生から、これと似たり寄ったりの報告が続出した。上の子を伸ばしていないというのが一致した意見。よく真面目な生徒が、「中学校の時は、家で勉強しなくてもなんとかなったのに……。」と言っていたが、なるほどと頷かれる。高校入学当初、徹底的に気持ちの入れ替えをたたき込まなければいけないねというのがその日の結論になった。

 

  生徒の減少で、校舎自体は大きいものの、事実上、死んでいる部屋が多数あった。最盛期には一学年十三クラスあったはずだが、今は七クラス。これも少子化の今を反映している。
  懐かしの我が母校。でも、私が学んだ木造校舎ではない。かつての運動場側に作られた鉄筋のビルディング。それももう古びている。授業見学終了後、校舎の周りをゆっくり一周した。何か木造校舎時代ゆかりのものが残されていないだろうかという気分で。
 見つけた。中庭にあった鷲の彫塑が、今も門扉近くに健在。でも、それくらい。そのまま敷地を出て、見慣れた道を、太陽を浴びながら学童ペースで歩いて戻る。
 中学校から高校へ。母校から勤務校へ。 
 自分の勤め先が見えてきた時、一瞬、初めて見た建物のように思えたのだが、はて? 何故だろう。

 2005年11月07日
   手厚い

 昨夜は、愚妻の誕生日だったので、ちょっとリッチな外食にしようということになる。近所の焼肉屋さん、これまで入ったことなかった。そこに行こうということに。洒落たフランス料理店にならないのが、いかにも中年である。煙の向こうに乾杯。
 帰りに、家の前のケーキ屋さんでケーキを購い、日々、食事をしている食卓でいただく。これも、ハレなんだかケなんだか。ケがかなり浸食しているハレ?
 高級時計と外食とケーキ。
 「何だか、今年のアンタの誕生日は手厚いねえ。」と私。
 じゃあ、今年の三月八日、私の誕生日はどうだったのかと、この日記を遡ってみる。
 術後四日目。大便が出ず膨満感があったのを、ようやく苦労して出した日である。一段落ついたと安堵して、「出ました!」と看護師さんに嬉しそうに報告したこともよく覚えている。
 でも、あの日が誕生日で、心を占めていたものが大便だったとは……。
 雲泥の差。トホホホホ気分横溢。

 

 

 

 

 

 

 

 

(どのケーキにしようかな?)

 

 2005年11月06日
  愚妻の誕生日

 今日は、愚妻の誕生日。
 以前、この日を忘れて、嫌みを言われ続けたことがある。以後、妻が振る十一月上旬話題には、細心の注意を払って、迂闊な物言いをしないようにしている。
 妻帯者は、多かれ少なかれそういう配慮をしているものである。していると思う。しているんじゃないかな?

 我々は、誕生日にそれぞれ欲しいものを買うことにしている。我が家の収入は、一度愚妻にすべて集約され、そこから必要経費を請求して、なにがしかのお金が下りるシステムになっているので、私の個人管理費はないに等しい。それゆえ、私から誕生日プレゼントを贈るということはありえない。もし贈ったら、そのお金はどこから出たのかということになる。
 ということで、お互い、自分で欲しいものを決め、今年はこれにすると相手に告知の上、クレジットで買い物をする。つまり、誕生日は単なる物欲の契機となっているにすぎないのであった。私は味気ないような気がするが、でも、そうした強固な中央集権管理システムを家庭内に構築したのは愚妻のほうである。
 だから、気持ち的に、O・ヘンリー「賢者の贈り物」みたいなことは絶対起こらない。
 愚妻は、十年ほど愛用したソーラー腕時計の調子がよくなくて、安時計でつないでいたので、いい時計がほしいという。理学部出身の職業婦人なので、電波・ソーラー・チタンで防水、軽くて薄くて、大きく実用的な文字盤、全部兼ね備えたのがいいという。そもそも女性用は、装飾性の高いものばかりで、男物を少し小型にした実用本位のタイプは思ったほど展開がない。調べたら、すべての希望を入れたモデルは一機種あったにはあったが、発売されたばかりで割高だった。
 
 そんな折り、ちらしの特価品に、R社の「オイスター・パーペチュアル」(平行輸入品)が出ていた。自動巻モデルで結構厚い。チタンでも電波でもない。全然、希望と違うのだが、R社のものとしては確かに格安価格。一生ものということで、急遽、それにすることになった。瓢箪から駒的な衝動買いの部類である。
 時計をつけてみて、彼女は、「私の人生、R社の時計の所有者になるなんて、考えてもみなかったわ。」と感慨を漏らしていた。そうだろう、普段使いのもので、最も高価なものに違いない。

 でも、そんなしみじみ路線も、一時のこと。
 値段から考えて、ここ五年、お前の誕生日プレゼントはなしだぞという私と、「あんたの今年のノートパソコン、いくらだったと思ってんのよ。三年くらいなもんだわ。」と主張する愚妻との間で、今、攻防の真っ最中である。

 

 

 

 

 

 

 

 

(犀川をバックに記念撮影)

 

 2005年11月05日
   回転寿司屋さんにて

 今日の夕食は回転寿司屋さん。美味しくてリーズナブルなので、定期的にと言っていいくらいよく行く。
 帰りの車の中で、愚妻が、隣のカウンターから聞こえてきたやりとりを教えてくれた。
 
 店員「空いているビールのジョッキお下げしてよろしいでしょうか。」
 お客「ああいいよ。ついでに空いてるお皿もさげて。」

 

 うん、うまい。店員さんはそのまま引き下がったそうだが、ここは、なにか反応すべきだった。そこで、続きはどうあるべきか考えた。

 店員「ハイ、では、かわりに汚れていない金の皿をお持ちしましょう」

 これでどうでしょう? 一皿八四〇円也。

 2005年11月04日
   用事を書いた紙
 仕事中、管理棟の大職員室へ行く時は、処理する用件を書き出した紙を持って行くようにしている。小部屋に戻って、「あれ、あれをし忘れた!」という徒労感を味わわないようにするためである。
 でも、それでも忘れる。情けない。
 そこで、現地で用を足したものから線を入れて消していくことにした。見た目、職員室の防災機器か何かををチェックしているような行動となる。ちょっと変。
 先日、印刷室に居合わせた教頭に、メモ紙チェックをしながら、こうしていると話したところ、一言。
「オレは、その書いた紙を、どこに置いたかわかんなくなるよ。」
 さすが、私と同病の先輩。そっちの方でも大先輩であります! 敬礼。ピシッ。
 2005年11月03日
  食卓用ラジオを買う
 外環状道路の完成を見込んで、これまで未発展だった犀川左岸大桑地区に、雨後の筍のごとく量販店がオープンしている。市街地の末端と山麓が立ち上がるその端境(はざかい)の地、段々畑の風景が大化けに化けつつある。
 全国シェア一割を誇る家電量販店も、近頃、オープン。今は、こんな田舎にこんな巨大売り場面積で大丈夫?という感じだが、いずれ、一大商業地になるのだろう。特に高級バッグなどのブランド物売り場と、普請中然とした周囲の景色とはえらくアンバランスである。
 夏に書いたように、食卓用の聞きやすいラジオが欲しかったので、お店の偵察に行って、しっかり買ってきてしまった。パナソニックの据え置き型(RF-U700)。
 短波は諦め、AMとFM・TV音声のみだが、そのかわり、ボタンは日本語、スピーカーは大きめで、オン・オフが音量調節と独立しているのが便利。まさに実用本位である。
 欠点は、思ったほどAMの受信感度がよくないこと。ジャイロアンテナの威力が感じられない。
 でも、買って、説明書読みながら思ったのだけれど、これって、つまり老人向けである。自分のチョイスの基準が、だんだん、そっちに寄っている。
 そういえば、去年、横臥の慰めにと、ポータブルMDを買って、若い音楽の先生に見せた時もそうだった。
 単三型、スピーカー付き、録音可能にこだわって物色し、ソニーMZ-B10にした。価格コムの書き込みによると、楽器や語学練習、会議録音など、幅広い用途に使われているようで、いわば万能機なのだが、それを、年寄りが持っているような、と彼は言ったのである。
 見た目にシルバー一色と地味(そういえば、今度買ったラジオもそう)。表示も日本語。再生専用機に較べてちょっとごっつくて、ファッショナブルとは言い難い。でも、扱いやすい。
 これは、だからどうした、何が悪いと開き直るしかなさそうである。
 あ、もうひとつ、ユニバーサルデザインのを買っているんだと突っ切る手もある。
 2005年11月02日
  突きつけられても……

 月曜日、いつものように徒歩通勤していて気がついた。
 ゴミの日なので、朝、ゴミ出しの人が集積場へと歩いている。大抵、老婦人である。中に跛行(はこう)の人が混じっている。膝を悪くしている歩き方だ。私の横を歩いている犬の散歩の人も、歩みがぎこちない。彼女は腰を傷めているのだろう。犬より自分のリハビリのほうが主目的かもしれない。私はといえば、もちろんヨタヨタと歩いている。
 日中は表に出ない人が、朝、そして、ゴミ出しということで外に出ている。
 世の中、体を壊してひっそり生きている人が思っている以上に多いのではないだろうか。いったい、世の中の何割の人が健康で、何割の人が不自由をかこっているのだろう。
 入院するまでもないが、大車輪の活躍も出来ない。ご近所くらいは動けるけど、遠出は無理。出来る範囲のことをして、無理せず静かに暮らす。
 世の中、健康な人が多いからまわっているだけ。そんな静かな目立たない人たちをたっぷり抱え込んで、でも、表面上は何事もないかのように、社会は活溌溌地(かっぱつはっち)と動いているのにちがいない。

 

 痛くて、暗い気持ちになるくらいなら、痛み止めの薬をしっかり飲んで、前向きに動いていた方がよいというのが、医者の助言。そこで、最近は、毎日のように飲んでいる。コンサートも帰宅道も問題なくこなした。
 でも、飲まなかったら、やっぱり夕方頃にかなり痛くなる。腰椎2番3番の傷みが背中の筋を違えたように痛む。

 

 先日、共済組合から、貴方は最近これだけの医療機関にかかり、こちらはこれだけの医療費を負担していますよという明細書が来た。お知らせの顔をしているが、実際は、医者にかかりすぎであるという警告書である。医者にかかる前に健康に留意するようにと書いてある。
 でも、と思う。腰、歯、目、耳、胆が、悪くなったり、なりつつあったりする。順繰りに行かねばならぬ。ここは省略というわけにはいかない。もう手遅れの注意書き。
 そんなことはわかっている。そのことを突きつけてどうしろと言うんだと哀しい気持ちになった。
 あまり見たくないこの書類、ちらっと眺めてから二つに畳んで、レシート入れのカゴに突っ込んだ。

 

(追記)書いてすぐ後、愚妻にもこの通知書が来た。彼女は町医者に数度通っただけなので、この書類、なにも高額支払者のみに出されたものではないようだ。「いじけ根性があるから、そう受け取ってしまうのよ。美しくない文章だわ。」と彼女から叱られた。いつも整わないことばかり言う人だが、今回は、その通りと反省。削除も考えたが、そのままにすることにした。これは日記である。その瞬間はそう思った、その記録である。

 

 2005年11月01日
  ついにジャズコンサートへ

 ぷっつり行かなくなっていたジャズコンサートへ、昨夜、二年ぶりに行って来た。それも、腰を傷める直前に聞いたのと同じスコット・ハミルトン(ts)〜ハリー・アレン(ts)ニューヨークセクステット。もう二度とジャズを聴きに行けなくなるのではないかなんて思っていた時期があったので、同じグループで再開できたことに多少の因縁を感じないでもない。そうはいっても、ディープな思い入れなどではなく、「やあ、お久しぶり。」という気分である。
 実は、前から行くと決めていたわけではない。一昨日、能登のジャズ好きから切符があると誘われて、「一緒に行く、行く。」と二つ返事で同意しただけのことである。富士通コンコードジャズフェスティバルは、今年で二十周年だそうで、そういえば、昔、彼と福井にメル・トーメ(vo)を聴きに行ったりしている。
  ファーストセットは、ベニー・グリーン(p)ラッセルマローン(g)のデュオ。ベニーは、売り出し中の頃、バリバリ弾いていたイメージがあって、ビレッジバンガードのライブCD(ブルーノート)を愛聴したが、今や中堅。しっとりとしたスローの表現が巧くなっているようだ。マローンは、噂に違わぬ超絶技巧で、運指の早さに唸った。
 セカンドセット。双頭バンドの方は、フロントの二人と御高齢のジョン・バンチ(p)は不動だが、リズムセクションが替わっている。前回のメンバーは、最小のドラムセットであれだけのリズムを叩き出せるのに恐れ入ったジェイク・ハナ(ds)、リズムキーパーとして国宝級のバッキー・ピザレリ(g)他。まるでロールスロイスに乗っているようなスイング感であった。間違いなく、これまで聞いた中で最高のスイングリズム。今回は、ちょっと落ちたが、較べる相手が凄すぎなのである。

 その代わり、選曲は、マイフェイバリットチューンである「バーニーズ・チューン」「スカイラーク」を始め、「タニーボーイ」、エリントンの「コットンテイル」などお馴染みのものばかりで、断然、こちらのほうが楽しめた。
 昔ながらの正統的ジャズ。誰でも判る、誰でも楽しい、浮き浮きした気分になる音楽である。
 聴衆は、案の定、年齢層が高かった。それなりに女性客が散見されるのが意外だが、美男子系のベニーが目当てだったのかもしれない。
 それにしても、こんな名人芸を聴きに来る人が、金沢市文化ホール三百人程度というのは情けない。でも、まあ、二年前、鶴来町立文化会館クレインの時は百名を切っていたので、よしとせねばならぬのかもしれない。
 
 帰り、デジタルカメラで街撮りしながら繁華街を抜ける。毎日の住宅地往復に較べ、色の刺激が強い。ショーウインドウ、ネオンサイン、テールランプの列……。原色の光が溢れている。平日の九時過ぎなので、従業員が店を閉めるため、片づけている様子をあちこちで見かけた。週末、飲み屋に繰り出した時とは微妙に違う、それなりに落ち着いた夜の街の、日々、繰り返される風景。
 「激写」な気分でシャッターを切る。
 耳の肥やし、目の肥やし。
 被写体に事欠かず、きょろきょろスナップしながらだったので、帰宅が遅くなって体が冷えた。そこで、宮崎から贈られた高級焼酎の栓を抜き、小さなグラスに注ぐ。
 これで、明日やる入試問題集、まだ解いていないのが気にならなかったら、至福の時なのになあ。

 

 

 

 

 

 

 

(香林坊のテファニー金沢支店のディスプレー)

 

 

[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

  感想をお寄せください。この「ものぐさ」のフォームは、コメントやトラックバックがあるブログ形式を採っておりません。ご面倒でも、左の運営者紹介BOXにあるアドレスを利用下さい。

 

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