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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年12月31日
  明日からスローダウン

 二〇〇四年十一月から書き始めて、この日記も一年以上経過した。当初、連絡や備忘録以上のものを考えていなかったが、今年初め頃から、ちょっと感ずるところがあって、ほぼ毎日、書くようになった。
 健康に問題を抱えた中年教員の私が、日々、考えたことを集積していく。その行為によって、自分自身、どんなことをいつも考えているのかを検証するよい機会になる。そこに意義を見いだして、では、一年間は頑張ろうと思ったのである。「田舎教師一年の記録」といった感じで……。
 その一年が過ぎた。日記を読み返してみて、自分が何に感応しているのか、どんなことに面白がっているのか、どんな人物なのか、自分のことながら、よく分かる。
 さて、目論み通り、ほぼ毎日アップすることが出来た。自分なりに、ここで一区切りつけたい気分である。
 あとは、教員商売、そう大きな変化があるわけでもない。こうしたことを考えて四季を歩んでいるのだなと思っていただければ充分である。
 明日からは、多くのブログがそうであるように、気の向いた時に書くという本来の形にスローダウンするつもりである。
 これまでのご愛読に感謝しつつ、今後のスローペースにも、宜しくお付き合い願いたい。

  今日は除日(大晦日)。例年のごとく実家の大掃除に行き、深夜に帰る。役立たずになり、掛け声係になって三回目の大つごもり。
 長年、除夜の鐘を聞いてから初詣に行っていたが、父母も老いたし、こちらも元気がなくなった。家族の行事が一つ減った格好だが、致し方あるまい。
 あとしばらくで今年も暮れる。

 

 2005年12月30日
  一年を振り返って(今年総括3)

 暮れも押し迫った。今日は、私自身の一年を振り返ってみたい(自分のことを縷々述べているので、そんなに楽しい話題ではありません。適当にパスしてください)。
 まず、肉体的には、なんと言っても、三月、人生で始めての手術入院をしたことが特記事項だった。術後の回復にも頑張ったつもりだが、若干の改善は見られたものの、結局、痛いままでここまできた。
 痛み止め薬を飲むと、一時的に改善されるが、それは痛みを誤魔化しているだけ。一回飲むと、ほぼ一日半弱効く。しかし、常飲していては体よくない。効果が切れると、やっぱりこれだけ痛いのだなと、ちょっとその落差に気分が暗くなる。
 飲めば楽だし、気分的に安定するが、常用すると、命を縮めるようなところがあり、反面、飲まなければ、薬の害はないかわりに、痛くて何事にも消極的になる。その板挟みの中で生きて行かねばならないことがはっきりしてきたのが今年の後半だった。
 ただ、精神的には、昨年ほどの落ち込みはなく、淡々としてすごせるようになった。気持ちに張りがなくなり、出歩かなくなって、ちょっと引き籠もりぎみの生活で固定した感もあり、これは改善の余地があるように思う。
 また、従兄弟や友人の死に直面して、死や老いを自分の意識にうまく取り込んで生きていくことが、この歳になると、大事になってくるということがわかった。この歳で今更ながらである。真正面に対峙すると負けてしまう。受け流すというと語弊があるが、「メメントモリ(死を忘れるな)」の精神を心の底にしっかり置きつつ、しなやかにすり抜けていく度量が、人間には必要のようである。負を正に、後を前に変換する精神の持ちようといったらいいかもしれない。
 知的な方面では、この日記のために、生活のいろいろな局面で、これは材料になるとか、あの話にくっつけて、この話ができるぞといった、アンテナを常に張る態度を続けたことが例年にない新しさだった。書き続けることで文章の練習になったし、語彙もちょっぴり増えた。
 お楽しみ面では、自分用のコンパクトデジカメを買い、カメラで遊んだことがあげられる。触る・撮るばかりでなく、デジカメを軸にネットで関連サイトを覗いたりして消閑の友とした。
 愚妻は、この頃、来年のあなたのマイブームは何にするの?と聞くようになった。彼女的発想では、毎年毎年テーマを決めなくてはならないらしい。そのうち考えておくと言いながら、今日まできた。マイブームって、自然に盛り上がるものでしょ。決めておくものじゃないような気がするんですけどねえと反論したが、これを「来年の目標」と言い換えれば、確かに大事なことかもしれない。
 さあて、何にするか。早急に腰を入れて考えねば。
 今日は霙。どうやら、金沢は久しぶりに雪景色の正月になりそうである。

 

 2005年12月29日
  木村治美『エッセイを書くたしなみ』(文芸春秋社)を読む

 生徒は冬休み中に本を五冊まで借りられる。読書好きの子は、話題の本をしっかり借りていった。今は『生協の白石さん』(講談社)なんかが大人気である。こちらも、それに刺激されて、いくつか借りてきた。その中の一冊。
 作者は、一九七七年『黄昏のロンドンから』(PHP研究所)で大宅壮一賞を受賞し、ベストセラーになった人。当時、買って読んだが、読みやすいけれど、可もなく不可もなくといった印象だった。おそらくエッセイを味わうには若すぎたのだと思う。
 この本、タイトル通り、エッセイを書く心構えや技術面のアドバイスが書かれてある随筆。長年、エッセイ執筆の指導をされている体験から出た話。
 毎日、この日記を書いているので、いちいち納得することが多かった。そうそう、このことは私も感じていたという指摘が多い。それには気がつかなかったが、確かにそうだなあというのも幾つか。
 私自身、耳の痛かった指摘は、以下の二つである。

 

 ・エッセイとは、もともと試論の意。途中も、あっちに寄りこっちに寄りでかまわないし、結論やオチを無理につけずともよい。
 ・枕は長くなりがちになるので注意。全事実を言おうとすべきではない。本人には大事なことかもしれないが、肝心の後の話題がぼやけてしまう。

 

 自分の文章を読んで、露払いの文章が最初にゴテゴテついていたり、最後に無理矢理オチをつけている文章が多いなと内心思っていたので、「恐れ入りました、以後、気をつけます。」である。貴方は如何?
 技術的には、

 

 ・丸括弧を使わないで文章を進める書き方を習得せよ。
 ・「〜こと」が多くなりがちなので注意せよ。
 ・「私」は、ここぞという時以外は省略できる書き方をせよ。
 ・そのままカギ括弧で区切っての引用はあまりに藝がない。自分
の文章に うまく入れ込め。その際、「〜そうだ」「〜という」は最小限にせよ。
  ・常套的な手垢の付いた表現を使う時は、「〜という言い方があるが、ま さにそれだった」というように、うまく逃げをうて。

 

などの指摘が参考になった。
 そのまま技術指導書として項目を羅列してあるだけだったら、ハウツウ本になってしまうが、こうした、具体的な指摘が、随筆仕立ての文章の中で展開されていて、「読ませる」形になっているところがこの本の美点である。

 

 2005年12月28日
  仕事納め
 今日まで出勤。部の納めの会には、顔を出した程度で、あとは正顧問にお任せ。優勝した一年生二人、納射の作法を、コーチが一度教えただけで、ちゃんとこなし、基礎能力の高さを示した。私が選手だったら到底覚えられない。こんな時、なんやかや言っても、ここの学校の子は、立派な生徒さんたちだなと思う。
 あとは、授業プリントの印刷などで比較的ゆったりとした時間が流れた。
 こんな時こそ、どんどん来月の予習をすればいいのだけれど、人間、差し迫らないとやる気が出ないもの。まあ、隣の学習室の室温調整係で出てきていると思えばよい。生徒とは何人も「よいお年を。」とお声がけした。ちゃんと挨拶が出来る子たちばかりである。
 定刻、そそくさと退社(退校? まさか退学?)。
 この日記も二年目に入っているので、去年は、どんなことを書いたのかなと振り返ることができる。ちなみに去年の今日は「ジョグカフェ」なる役所に研修に行った話だ。今年は、校内でのが昨日あった。
 ノスタルジックになるときには、便利かもしれないが、おそらく何年も書いていると、同じ行事でも、過去に言わなかったことを書かなくてはと、落ち穂拾い的発想になって、文章を書くのが辛くなってくると思う。
 丸一年たった。そろそろ潮時である。
 2005年12月27日
  ブログで「金沢」を検索する
 お盆休みの消閑に、「エキサイト」内のブログ検索で「金沢」でヒットしたサイトを片っ端から見てまわった。あれから四か月、この連休に同じことをしてみた。
 金沢在住の方のサイトは、十二月にしては結構降った、ここのところの大雪について触れているものばかり。大抵、雪景色写真付き。日記だから気象について書くのは当然といえば当然だが、どれもこれも、それ以上の発展がない。
 県外の人のは、観光旅行の印象記がほとんどだ。多くが同じところに行く。同じスポットのオンパレード。先月は、兼六園の雪吊り写真が多かった。
 その上、ブログという形式は、どこの会社のものを使っても、ほぼ同じレイアウトである。上部にタイトル、横にカレンダーとジャンル分け。真ん中に横書きで日記本文。
 今回の検索は、同じブログ会社のサイト検索だから、スキン(背景)までまったく同じものも結構ある。同じスキンを使って、同じような金沢旅行記が書かれていては、はて、前に見たのと同じだったかと疑うほどである。ソフトの枠組みが決まっているので、その枠中で、均質的にチマチマやっているような印象。
 それでも、読んでいて面白いのは、やはり、感想が生き生きとしているものである。
 それに、せっかくの日数をかけた旅行なのに、たった十行ほどで終わっているものも多い。日記形式だから、何日もかかって、じっくり紀行文として文章をまとめる労力を省かざるを得ないのだろう。紀行文として常駐させるスペースを持たないお手軽ブログの宿命を感ずる。だから、大抵、食べ物ばかり撮して「ウマー!」で終わる。本当にブログは食べ物のアップだらけである。
 何か卓抜な指摘や都市論でもないだろうかと、次々に開いていったが、「小京都のよう」だとか「和の雰囲気」だとかいう印象から抜け出すものはほとんどなかった。まあ、そこまでブログに期待したこっちが悪かったのかもしれない。
 文章的にいうと、押したり突っ込んだり、漫才的なノリの文章が多い。インターネット巨大掲示板のノリを、そのまま移したような文体が標準文体になっているようだ。ネットという発表の場で、赤の他人に面白おかしく読んで貰おうとした結果がこうなった。でも、これもなんだか均質な感じである。
 今年から始めたサイトが多いなあとも思ったが、総務省の調査によると、三か月百万単位で増殖中らしい。(私もその一人だけど……)。本当に爆発的ブームといっていい。ぱあぁと開いたパソコン文化といった感じだが、これでは、早晩飽きられるだろうというのが、四時間、金沢話題を読みまくった暇人の偽らざるところ。
 2005年12月26日
  自分の常識だけで行動すると
 先日のクリスマス会は、大人だけだったので、実質、ワインとケーキ会だったのだけれど、その席上、夜間の暖房はどうしているかという話題になった。その時、病院勤務の義妹が話してくれたことを、ここに紹介したい。
 あるお年寄りが、入院時の注意事項のレクチャアを受けていて、夜、暖房が切れることを知り、そんなこと聞いていない。オレは寒いと死んでしまうと、そこまで話が進んでいながら、勝手にキャンセルして帰っていったのだそうだ。ビルの中の温度は、暖房が止まっても長時間維持される。冷え切る前に朝になるからそんなに寒くはない。その方は、木造住宅の、あの冷え冷えした北陸の朝の冷たさしか想像できなかったのだろう。
 おまけに、医者と話をしたにもかかわらず、オレは診察受けていない、医者に相談しにきただけだといって、お金も払わず帰ったそうだ。これも、聴診器あてられた以降が診察、事前のカウンセリングは医療行為だと思っていないから。
 本人にしてみれば、自分の常識から考えて、変なことをしている意識は、全然ないに違いない。でも、もう通用しない常識である。
 この御老人、職場をリタイアしてだいぶ経つのだろう。常識という漠然としたかたまりは、微妙に変わっていく。数年で、「昨日の常識は、今日の非常識」ということも少なくない。
 実社会にいる今はいいけど、歳をとったら、いやいや、今でも、結構、ハタから見ると奇異な行動しているかもしれない。気をつけねばと思った話だった。
 2005年12月25日
  クリスマスプレゼント

 一昨日夕方、テファニー金沢支店の前を通った愚妻からの報告。日頃は閑散としている店内は、若い男女でごった返していたそうだ。ブランドにはとんと疎い私でさえ、「テファニー」イコール「オープンハート」くらいは知っている。ハートマークだから、カップルのクリスマスプレゼントに最適である。
 でも、連中、この大雪の中、女はミニスカート生足のケバいおネーちゃん。男は、今風ズボンズリ下げ恰好のアンちゃんたち。まともな恰好のカップルは皆無だったそうで、愚妻は激しく違和感を感じたという。そうはいっても、おそらく、このお店、ここ数日の彼らの買い物で、年間の売り上げのかなりを占めるはずである。
 その話を聞いて、映画「テファニーで朝食を」で、物欲しそうにウインドウを覗いていた若きヘップバーンの顔を想起したのだが、ちょっと思い出すものが古いかもしれない。

 もちろん、本当のプレゼントは、彼氏ではなくて、サンタさんが運んでくる。
 「サンタさんっているの?」と質問した少女に、百年以上前、米国の新聞の社説はこう答えたそうだ。
「この世の中に愛や思いやりや真心があるようにサンタさんもいるのです。」 目に見えぬものでも、絶対にあるものはある。サンタさんはそんな存在なのですと教えた名社説。昨日のコラム(「中日春秋」)で知った。
 それじゃあと、中の社説欄を開いたけど、選挙制度の見直し論議と中国の情報公開を求める内容だった。なあんだ。
 連動して、気の利いたクリスマス社説載っていたら褒めようと思っていたのに……。


(追伸 書き終えて、この文章を愚妻に見せたら、この社説の逸話はあまりにも有名で、こんな使い古されたネタでこのコラム書いていると思ったという。苦し紛れのネタに、社説が連動するはずないじゃないのと、彼女にかかると、しみじみ話もにべもない。)


(二伸 ホントかと、今日、インターネットで検索すると、もう、ここ数日、あちこちで腐るほどこの話が書いてあって、一遽に食傷した。顛末を記した本まで出ている。削除しようかと思ったけど、ま、私も、そうした一人であるという証明として、隠さずアップします。)

 

 

 

 

 

 

(クリスマスお菓子と鏡餅が同居する今日のスーパーマーケット)

 2005年12月24日
   フォー!

  一昨年あたり、「ゲッツ」と言いながら指をピストルの恰好させて、両手前に突き出すギャグが流行っていたけど、今年は、「フォー!」というのが流行らしい。万歳しながら左右を指さす。
 昨日、ケーキ屋さんでケーキを受け取り、外に出た時、入れ替わりに、親と連れだって中に入ろうとしていた子供が、でっかい声で叫んだ。
「ケーキ、フォー!」
 これ、分析的に言うと、「流行ギャグに託して歓びを吐露した表現」
 結構、笑えた。子供のワクワク感が伝わってきて、年中行事でケーキ買っているにすぎない中年は、ちょっと心が温まった。

 2005年12月23日
  「伊勢屋稲荷に犬の糞」
 先日、社会の先生が、「伊勢屋稲荷に犬の糞」の伊勢屋は、そもそも何屋さんかと国語科教員二人いるこの小部屋に聞きにきた。でも、その言葉自体知らない。彼の話によると、江戸によく見かけるものを羅列してあるということで、「火事、喧嘩、伊勢屋稲荷に犬の糞」ともいうらしい。
 大抵、地名が入っているのは、創業者がそこの出身ということだろうから、江戸で商売している人に伊勢の国の人が多かったということだろうねえと、常識的な答えをしておいて、ちょっと調べた。図書室住まいはそんな時、何かと便利である。小学館の大部な「日本国語大辞典」他で、あっさり判明。
 江戸の町に、伊勢屋という大チェーン店があったわけではなく、あちこちに伊勢屋を名乗る、いろいろな業種のお店が多かったということらしい。
 もともと、伊勢商人というのは、蒲生氏郷が松坂の町をひらいた際、近江から商人を連れてきたのがはじまりで、そこで成功した者が江戸に出て、そこでも持ち前の倹約ぶりを発揮し、多くの者が成功して、江戸の伊勢屋乱立に至った。「宵越しの銭はもたねえ」気質の中で、その堅実な商売ぶりが評価を得、「伊勢屋」という看板自体に、そうした、堅くて「信用のできる」というイメージがついた。でも、それで、ちょっと、やっかみ半分に「犬の糞」と並列されることになったようだ。
 そこまで有名になると、暖簾分けで店を出した人、信用を得たいために、伊勢と何の関係もない人も、この名で看板を出すので、現在まで続く全国数多ある伊勢屋さんが、必ずしも松坂商人由来というわけではないということなのだそうだ。
 私の記憶にあるのは、昔、愚妻と木曽路を旅した時、奈良井の宿で、昔ながらの旅籠に逗留した、そこが伊勢屋さんだった。江戸とは、ほど遠いところにあるけれど、由来はどうなのだろう?
 国名に「屋」といえば、能登の和倉温泉に全国的に有名な巨大旅館「加賀屋」というのがある。順当に考えると、創業者が加賀の人だったのだろうが、同じ前田様の藩内、わざわざ名乗るには、ちょっと近すぎるような気もする。これも、どうなのだろう?
 
 2005年12月22日
   仏師西村公朝さんのこと
 十八日夜、何気なくテレビをつけていると、「NHK映像ファイル・あの人に会いたい「西村公朝」」という、インタビューを短くまとめた人物紹介番組をやっていた。 愛宕念仏寺住職で、仏師としても最高位の方。二年前にお亡くなりになっていたことを初めて知る。
 二〇〇一年秋、NHK教育テレビで、仏像の見方についての講座「趣味悠々「西村公朝のほとけの造形」」の初回が放送されていたのを観た。そこでお話しされていた歳を召されたご住職のお話が分かり易くて気に入り、シリーズのほとんどを毎週楽しみながら観たのだが、その時、その方の経歴の紹介やお話の内容から、ある一つの確信が湧いた。
 昔読んだ、国宝修理所を訪ねた時の様子が書かれてある増田れい子の文章の中で、「拝みしめた仏像」という所長さんの言葉が印象深かったとあったのだが、その発言をされた方こそ、この西村公朝さんにちがいないと思ったのである。
 公朝さんは、長年、美術院国宝修理所の所長を勤められていた。この言葉、お役人上がりに言える台詞ではない。増田のエッセイを読んだとき、宗教家のような気持ちで仏像修理にあたっているのだなと感銘を受けたので、この言葉をはっきり覚えていたのだけれど、その方が公朝さんだとしたら、すっきり合点がいく。
 あのシリーズで、仏像を観る時の観点がよく判った。そこには「拝む」心がないといけないこともよく判った。我々、民氓(みんぼう)が一心に拝むこと、その願いの集積が、仏像を仏像たらしめている。「〜しめる」という言葉に、そうした多くの衆民の思いが含まれているのである。
 沢山いらっしゃる仏様の種類などという知識の方面は、もうすっかり忘れたが、淡々とした中に愛情溢れる語り口を聞いていると、ありがたい御法話を聞いているようで、私はいっぺんで尊敬してしまった。この世知辛い世の中で、このような人がいらっしゃること自体が素晴らしい。日本の真心のような人だと思った。
 この日、あの時以来の久しぶりの出会い。
 もう二年も後になってしまって、遅くなってしまったが、冥福をお祈りしたい。
 2005年12月21日
  やっぱり小説
 では、小説をやっていて、どう思うかといえば、これは、問題を解く以前に、どうしても書き手の巧い下手をはっきり感じてしまう。生徒は、与えられたものを解くのに精一杯なので、そうした作品の出来は興味がないし、もちろん、そこまでの眼力もついていない。
 『夏の庭』で著名な湯本香樹美の『西日の町』というのを解いた。これだけで見る限り、この人はダメである。
 昭和四十年前後の設定にしてあるのだが、「関鯵(せきあじ)」なんてのがでてくる。漁港がブランド化し、庶民の会話にのぼるようになったのは、そんなに古い話ではない。違和感あり。
 それに、出てくる人物の一部が漫画チック。でも、本筋は、嫌われ父親に対する姉弟の認識のズレというシリアスな部分も持つ。どっち路線でいっているか、出題部分だけでは判然としない。
 次に、津島祐子『水辺』(センター過去問)。夫と別居中、娘と二人暮らしのアパート屋上が、給水塔の故障で水浸しになる話。世間を気にしつつ、夫不在の生活に徐々に確かなものを感じ始める女の気持ちが実に巧く描かれている。月とスッポン。
 主人公が抱えている呵責の念を、閨秀作家らしく丹念に描いている部分からの出題だが、その描写は、離婚に対する世間の冷たい目が存在していた時代にこそ大きな意味をなすもので、これだけ、自由恋愛や、それに伴う男女の離合集散が日常になった現代においては、いささか古風な苦悩に映ってしまう。おそらく、現代の若い女性には、なぜここまで深刻に悩んでいるのか、共感を持ち得なくなっているのではと感じる。
 小説の栄枯盛衰は、世相の変化と連動するのが常だから、それは仕方がないけれど、現代は、恋愛の実相が、どんどんマイクロ化していって、単なる男と女の「好悪」の感情、つまり、個々人の趣味の問題に帰着するだけになっている面がある。それが恋愛だといってしまえばそれまでだけれど、小説家は、さぞ、書きづらいだろうと思う。
 結局、小説としては、男女の「生理感覚の差」描き競争になって、その感覚的実感が同世代に受け入れられるかどうかが判断になる。
 表現も、重厚な描写は嫌われ、ぽんと書かれた単語の選択の鋭さの問題に還元されてしまう。つまり、人生経験や、職業的熟練とは無縁の世界。そうなると、若ければ若いほどいい。
 巧いとは到底思えない若者主人公の純愛ドラマがベストセラーとなるのは故なしとしない。
 この商売、巧いなあと思うような小説が読めるから、問題集も楽しいのである。「なんだ、これ?」と思うような筆力のない小説ばかりが問題文になり、無理矢理、選択肢を作ったような問題を解くのが当たり前になったら、世の中の「知」は終わりである。
 さて、今日のは、読み始めた瞬間、あ、これは三島由紀夫だとわかる文章。警句や機知、理知的な比喩がゴロゴロでてくる。『午後の曳航』である。やがて義父となり、登少年に殺されるべき船乗り竜二の出航場面。はじめの方。数頁堪能し、問題へ。
 設問は、三島の場合、その、ちょっと気取った言い回しを生徒が判っているかを問う問題ばかりになる。いままでのもそうだった。だから、ここにこう書いてあるから、あるいは、こういう動きをしているから、こういう気持ちだよねというお決まりの説明の仕方が出来なくて、ちょっと困るタイプ。
 選択肢で微妙な違いを判断しなければならないが、なんだか、このどちらかだとさえ判れば、どっちでもいいんじゃないのかなあという感情が湧いてきて困った。重箱の隅の選択肢をにらめっこしているくらいなら、どんどん小説を先に先にと味わったほうがいい。
 ちょっと古くさくなったけど、依然として格好いいじゃないか。一時期の横光利一の文章をスマートにさせたような感じ。大昔に挑戦したけど、どういう方法で少年が義父を殺すんだったか忘れたなあ、ラストだけでも確認したいなという思いばかりが浮上して、予習を中止して、書架に向かった。
 でも、それが自然な気持ちである。
 明日で授業は終わり。格闘は一時休戦である。
 早く受験シーズン終わってくれないかなあ。
 2005年12月20日
  問題集の季節

 夏休みの補習で、一冊まるごと入試問題集をやって大変だと愚痴を書いた覚えがあるが、三年生は、ここのところ問題集漬けである。今年も、去年と違った現代文問題集が与えられ、それを毎時間解説せねばならぬ。ちょっと油断すると追いつかれる。こっちは必死である。せっつかれるように問題を解く。今日は労働論、明日は言語論。あさっては芸術論、明々後日は……。
 この前やった経済論の文章に、「金融オプション市場や金融スワップ市場といったいわゆるデリバティブ市場が次々と登場」とあって、これに注がなくて困った。さっぱり分からない。論理展開が込み入っているのを紐解いていくのが現代文の仕事。だから、聞き慣れない専門用語で書かれてある部分をそのまま放置してあるのは、出版社の怠慢である。もちろん、分からなくても流れで理解できればかまわないのだけれど、こっちは一応説明しなければならない。慌てて、社会の先生に聞く。でも、まあ、こんなのは、単語だから、一人でも何とか下調べは出来る部類。 
 でも、次のような文章に出くわすと……。
「本来的自己を通してのみ接近できる存在への通路を失った存在忘却の姿」(岩田靖夫「ヨーロッパ思想入門」)云々。
 うーん。わからん。でも、誰に聞くわけにもいかない。
 国語の教員がいいと感ずる文章は、一見、難しそうでも、よく読むと、実はすっきりと論理的展開がなされているもの。
 生徒には難しいが、論理は明快なので、解いていて、こうやったら、ばちっと分析できるだろうと、こっちは威張れる。生徒も「へえ。」となって、現代文って、ちゃんとやれば判るんだ! と納得してくれるやつ。
 こちらの作業としては、その文章を理解してくれるために、具体な例として、どんな話が適切かを考え、説明にくっつける。
 斎藤孝「子供に伝えたい三つの力」では、スポーツの「型」の話をしていた。型と自分の手技とのズレから、型との対話になり、それが応用のエネルギーになるという内容で、これなど、弓道部顧問としてよく判る理屈。
 型から外れた射形でも、一時期、それで当たっていると、それでもいいではないかと、型を軽視する気持ちが生まれる。俺はこれで行くんだといった調子。でも、どこかで、急にまったく当たらなくなる。その時から、型と自己とのズレに悩み、型と本当の意味での対話を始めるのだよという話をする。これは、ずっと生徒の射形を見ていて、そういうスランプをよく知っているからわかる実感的で適切な例である。そんな話を交えて解説していく。
 つまり、私がやっている作業は、理論に具体をくっつけること。具体性のない(屁?)理屈に「例」をつける仕事である。時に、それは矮小化を伴うが、でも、難解な文章を読む時、全員、多かれ少なかれしている作業である。そのあたりは割り切って話す。
 だから、こっちのベクトルは常に下向き。こんなに「何とか論」を沢山読んでいるのに、全然、かっこいいこと言えないのは、引きずり下ろすことばかりやっているからである。

 

 2005年12月19日
   私鉄の駅を眺める(あのころ)
 あと半年で学生時代も終わり、東京を離れるという意識が心に巣くい始めた晩秋、何だか、これまで、東京という街のほんの一部しか見ていなかったことに気づいて、何かをしなければという焦りに似た気持ちが湧いてきた。親とは最終的に故郷に帰る約束をしていたので、この東京生活が自分にとって一人暮らしの最後の時間であるという気持ちが、だんだん強くなってきたのだろう。一眼レフカメラを金沢に置いてきていたので、慌ててコンパクトカメラを買ったのも、そんな押し迫ってからの行動である。今思うと、もっと東京での写真を撮っておけばよかった。アルバムは、人からもらった、ほんの十枚ほどで大学生活が終わっている。
  さて、どこにくり出すか。渋谷・新宿などの繁華街はほぼ分かっている。下町浅草にも行った。でも、自分には見ていない東京がある。実は、自分のいる目黒は、JR山手線の渋谷の次の次の駅で、いつも大量の乗降客がある。あまり生活の匂いがしないのである。だから、私鉄沿線、特に、学生街の江古田などにいくと、自分が知らない、こじんまりとした濃密な空気が感じられて、駅として魅力的だった。そんなところを行き来する生活は味わったことがない。
 あのころ、目蒲線は、チンチン電車然とした本当に古びた緑の車輌が走っていた。東京一古色蒼然とした路線。唯一の自慢は、田園調布を通ること。のち、この目蒲線を擬人化したコミックソング「目蒲線物語」が東京ローカルで流行って、そのいじけ具合や他線の人間関係(?)に笑ったこと笑ったこと。
 秋の夕方。なんという駅だったか、私は、目蒲線の小さな知らない駅に降り立ち、駅前の二階にある喫茶店から、はき出される人の群れを見続けていた。はじめは、奥様方が、商店街の揚げ物屋さんなどに寄って夕食の買い物をしている姿が多く目に入った。生活の匂い。五時半を過ぎると、仕事帰りのサラリーマンたちがはき出されるようになり、暮れて赤提灯の火が目立つようになる八時前くらいから、ちょっとアルコールが入った人が三々五々、降り立ってくる。そんな人種の移り変わりを飽かず眺めていた。
 私鉄の小駅で繰り広げられる日々の生活の縮図。金沢駅は北陸の玄関口。郷里では、絶対に見られない光景。
 今から考えると、サテンで、延々、三時間以上粘ったことになる。さぞ、店の人に嫌われただろう。
 新宿駅の雑踏も東京。でも、こうした私鉄の小駅の風景も大都会の風景。
 あの時、どうやら、少しセンチメンタルになってたことは間違いないけど、私は一体何を確かめたかったのだろう。どうやら、東京にいた証しを心につなぎ止めたかったようだ。その、もっとも東京らしいと思ったのが、そうした光景だったのだろう。
 2005年12月18日
  相合い傘取られた?(あのころ)
 東京の大学生時代、なにかの打ち合わせで、クラスの、ちょっと知的な美人さんと、渋谷の喫茶店で待ち合わせたことがある。用件が済んで、店を出たところで、同じクラスの親友Tと鉢合わせした。彼もインテリタイプで、優しい顔立ち。これから帰るところということで、三人で連れだって駅に向かって歩き始めたのだが、彼女は、なにやら、一所懸命、Tに向かって話をし始めた。いつの間にか、彼女とT。その後を追うようにして私というフォーメーションになる。
 途中、急に雨が降ってきた。傘をさしかけたのは彼。傘は私も持っていたのに……。私は、結局、相合い傘を後ろからずっと眺めながら、後をついていったのである。
 おまけに、駅での別れ際、彼女は、彼にだけ挨拶して改札の向こうに消えていった。彼女は完全に私の存在を忘れたようだ。
 すご〜く情けない思い出。私としては、最初、ちょっとデート気分だっただけに、その落差にかなり凹んだ。
 自分が、男女のことで、そういう役まわりの人だと気づいた決定的経験(?)がこれである。
 そんな三人とも中年になった。彼女は、風の噂で、困りごとを抱えているるという話だし、T君は、体を壊したまでは知っているが、現在は音信不通で、誰も居場所が判らない。私はといえば、この有様。三人とも洋々たる生活を送っているとは言えない状態である。。
 あれから、本当に長い時が過ぎ去った。あの頃、みんな若かった。
 こんなオッサンになった今でも、渋谷の道を情けない思いで歩いていた、この場面をよく思い出す。どうも、余程、ショックだったのだろう。
 その時その時の、どのことが一生の記憶として残っていくのかは、その時点では判然としない。こんな些細なことが、一生ものの記憶になるなんて思わなかった。
 人間というのは、なんて、気持ちを引きずる生き物なのだろう。
 2005年12月17日
  建築あれこれ
 以前、万博のトロロの家の話を書いた時、和風建築に一部だけ洋建築を継ぎ足した様式が一時期流行ったということを書いた。あれ以来、ちょっと気をつけて見ると、金沢のあちこちで見かける。散歩、バスの中、あ、これもそうだ、あれもそうだというくらい。建築史的にいつ頃流行ったのか、正確なことは判らないが、大正から昭和初期くらいなのだろう。当時の人には、ひどくモダンに映っただろうなと思うけれど、今は、なんだが、その接合ぐあいが、余りにあからさま且つ直截で、微笑ましいくらいである。どれもこれも、もうだいぶ古くなって、いつ建て替えられてもいいような状態のものが多い。
 文化財にするほどの希少性も経時性もないけれど、何もせずに滅んでいくのも惜しい、そのくらいの建物たち。
 金沢の表通りは、その昔、煉瓦造りの建物が多かった。特に銀行に赤茶色の西洋建築が多い。私の子供の頃の記憶を、今、しみじみと検討してみると、昭和三十年代くらいまでは、金沢は、そうした「大正文化」が色濃く残っていた町だったように思う。裏通りには、江戸の町並みを内蔵しつつ、表通りは、新しく模様替えを繰り返し、煉瓦という耐久建築で一応の完成をみる。で、そのまま、戦災に遭わずに、それらの建物は生き残ったのである。
 煉瓦色が乱立していた銀行街も、今や単なる長方形のビル群となった。逆に、昭和期に入って建ったちょっとモダンなコンクリート様式の銀行が、昨今の保存ブームの中で、公共施設に鞍替えして生き残ったりしている。正直、これを残すくらいなら、あそこにあった、とっくの昔に取り壊された由緒正しい煉瓦造りを残しておいた方がよかったのではないかと思うのだけれど、もう、後の祭りである。
 だからと言って、保存しないよりはしたほうがいい。何十年か先には、そんな、我々がこの程度がと思うような物件も、古風に由緒正しげに映るだろうから。
 建築にちょっとこだわるのは、祖父が建築士。私の名前にも「建」がつく。建築は、ちょっと親しいのである。この仕事していなかったら、やりたかった仕事といえなくもない(数学がからきしだったから、そもそも無理だったけど……)。
 信用ある一級建築士、全員建物の強度のプロでもあり意匠も担当するとばかり思っていたので、今回の強度偽造事件で、担当がはっきり分かれていて、強度のプロは、意匠の下請けになっている現実を知って、がっかりである。意匠のプロは、そのあたり、さっぱり判らないらしい。
 建築士がかっこいいと思っていたのは、実用と美を両立するところに自己表現がある、そんな仕事だと思っていたからなのに……。
 2005年12月16日
  チラシから
 ここ数日、十二月にしては、ちょっとまとまった雪が降った。でも、新聞のトップに「豪雪」の文字が躍っているのはちょっと行き過ぎである。北陸では、三八豪雪、五六豪雪みたいな時にいう。二階から出入りしたり、北陸本線が延々と不通になったりした時。
 そういえば、チラシで目にする「閉店セール」「店じまいセール」というのも、最近は、店内改装のため、三日間臨時休業する前に使ったりする。変だと誰でも思っているが、もう慣れっこになった。だから、「完全閉店セール」だなんて、頭に変な言葉をまたつけて言わねばならなくなる。「完全」があるのなら、「不完全閉店セール」があるはず。
 チラシといえば、朝の新聞に、ブランド物を扱っている店のものが多くなった。時節柄、ボーナスねらい商戦で、金額の桁が一つ多い。例年になく、それが目立つところを見ると、民間はちょっとは景気がよくなったのだろうか。民間では、来年の春闘は久々に賃上げ闘争だなんていう話題が出ているようだ。それに較べ、我々の給料は毎年下がり続けている。定期昇給も含めて平成十年くらいから頭打ちになり、平成十四年をピークに減少に転じた。この前、愚妻が毎年の源泉徴収票をずらっと並べてみて、わかった事態。来年も、人事院勧告レベル、県独自の手当レベルでも減額が決定されている。
 昔に較べ、私の生活のまわりで、外貨預金、信託投資、株式、金相場がどうしたといった話が、飛び交うようになった。金儲けというより、自分の財産を保全するためにはどうすればいいかというのが趣旨。
 我々の仕事、もっともお金とは縁遠い商売だったはずだが、今はそんな時代である。
 
 2005年12月15日
  (つづき)

  もう一つ、この前のこと。質問に来た評論の問題用紙を見ると、分からない言葉を辞書で引いていた。例えば、「形而上学」という語の横に意味を書き加えてある。エライ、エライ。そんな態度、大事だよねと褒める。でも、「かくて」の横に「このようにして」と書いてあるのを見ると、ちょっと問題だと感じる。この言葉、辞書を引かなきゃわからなかったのかな? 県内有数の受験校の生徒さんで。
 言葉が乱れるわけである。そもそも日本語がよく分かっていない。
 今の子供達は、「常識」のレベルからの判断ができない。おそらく家庭で、こまごまとした「当たり前」を教えていないからである。学校教育もそうなっている。
 今教えている生徒さん、反実仮想の助動詞「まし」に、「ためらいの意志(しようかしら?)」というマイナーな用法があることを実によく知っている。統一小テストで出たから覚えたのである。でも、肝心の反実仮想の方が怪しい。丸覚えしたから起こった本末転倒状態。
 おそらく、今の生徒さんに、「いろは」を最後まで正確に書けという問題出したら、全滅に近いはずである。そもそも、「いろはにほへと」で終わりかと思っていたと、何年が前の生徒が言っていたが、今、そう思っている人の割合はもっと大きくなっているのではないか。
 もう何十年前もに死んだ、私のばあちゃんが聞いたら、驚くだろうなと思う。人生経験豊富な、ばあちゃんやじいちゃんが当たり前だと思っている言葉の常識のレベルを教えるのが国語の使命ではないか。
 何だか、何を教えるかという、勉強の強弱が変になっていきている気がしてならない。
 ……などと、愚痴をこぼしても仕方がない。最後は、和み話題で終わりましょう。
 今回の答案の「爆笑大賞」は、これに決定しました!
「みぜん、れんよう、しゅうし連休。」
 毎日、お休みでいいなあ。この子。

 

 2005年12月14日
   ばあちゃんが基準
  去年から今年にかけて日本語ブームだった。辞書や教科書の出版で堅い商売を続けていた大修館書店は、『問題な日本語』(北原保雄編著)がベストセーとなって、会社始まって以来の好景気になっているのではないだろうか。先日、販促品として、国語教員向けに「源氏物語絵葉書セット」を貰ったし、「今時言葉」をサンプリングするための「みんなで作ろう国語辞典」キャンペーンを開始したりと、なかなか元気がいい。
 そんな中、柳の下、『続弾 問題な日本語』が出たので、早速、購った。この両書、説明と結論がわけて書いてあるので、分かりやすい。問題だと感ずる言葉は、これで、ほぼ網羅されているような気がする。私が気になって、この日記で触れた接客言葉なども、全部出ている。
 それにしても、日本語ブームなのは、それだけ、言葉が乱れてきているからで、それのブレーキ現象だと思えば、素直に喜べないが、それでも、怒っているのは国語教員ばかりなりという状況よりは余程いい。乱れてきた理由は、言葉の基礎が定着していないから。小さいときから、丸覚えでこなしてきただけだからである。
 先週はテストの丸つけ週間、その時つけた生徒の答案から。
「願(ねがはくは)」を何と読むか。「現代仮名遣いでもよい」と書いたら、何枚も「ねがわくわ」というのがあった。最後が助詞であることが分からないようだ。「せざるをえない」を「せざるおえない」と書く若者が多いと聞くが、それと同等の間違いである。
 「庶(こいねがはくは)」では、「こいがねわくは」と字が入れ替わっているものが一クラス二枚ほどあった。そそっかしくて間違えたのではなく、もともと「乞い願はくは」の意であるという頭の中の漢字変換が出来ていないからである。単に丸覚えしただけ。
 「侍る」「候ふ」が敬語三種類のどれかも問うた。見事にバラバラ。「お仕えする」という意味が出ていたら謙譲、「です。ます。ございます」だったら丁寧、それだけの区別なのに、結構、尊敬と書く輩が多い。
 1、そもそも、「王様が美女をはべらせて」というではないか。
 2、「侍(さむらい)」というのは、昔、宮中警護の北面の武士が成り上がったからで、原義は、貴族に「さぶらふ(お仕えする)」ではないか。
 3、昔、手紙は「〜にござ候。」という文末ばっかりで、「候文」といったではないか。
 このくらいの常識で、少なくとも尊敬でないことは、明々白々。私が高校の時でさえ、それぐらいは知っていた。でも、おそらく、今の高校生は、この三つとも知らない。「美女をはべらす」なんて確実に死語である。(つづく)
 2005年12月13日
  雪の一日

 気象庁的には、初雪は初旬にあったそうだが、朝起きて、あ、雪が降っていると肉眼で確認したのは、日曜日。その日は、弓道の納射会で、結構寒い思いをした。今日は、本格的積雪。車の雪を落としてから出勤した。二十日を過ぎればいつ積雪があっても仕方がないと覚悟するのが例年だから、ちょっと早めの雪本番である。
 男子生徒が晴れ間に外に出て、雪合戦をしていた。そんなことをするのは、このくらいの年齢が上限。女子はとっくにしなくなっている。同い年でも精神的には全然お姉さんである?
 ただ、そんな生徒はごく一部で、休み時間も廊下に誰も出ておらず、教室で暖をとっている姿は、年寄りくさい。
 最近、子供たちは行き帰りにコートを着なくなった。横殴りでも制服のまま。ところが可笑しいことに、マフラーだけはしっかりしている。東京文化の影響らしい。大人の感覚からいうと、まず、コート。それでも寒い場合は、首筋パッキンの役目でマフラーの順である。ある女の先生が、韓流ヨンさまブームの影響ではないかと分析していたが、なるほどと納得。
 日中も降り続き、雪の厚みを増した。去年は二階の小部屋だったので、降る雪しか見えなかったが、今年は一階。机から振り返ると、窓から白い世界が目に入る。
 部屋を閉める時、カーテンを下ろしながら、なんだかいつもより外が明るいなと思ったのだが、雪明かりのせいだった。「夜の底が白くなった。」(川端康成)という例の有名なフレーズが思い出される。
 この職場、建物の構造上、一階は、半分外に出たようなところを通らないとトイレや事務部門に行き着かないので、余計、寒さが身にしみる。コートを着て別部屋に行くこともしばしば。
 帰り、スーパーに立ち寄り、安手の牛肉を購い、冷蔵庫や乾物入れにある食材を使って、すき焼きもどきをした。単なるおつゆ麩など、ちょっと普通では入れないようなものも混ざっているが、まあいい。晩酌は新潟の「菊水ふなぐち」。超甘口で好き嫌いがはっきりあるタイプだが、ほんの一口の時には無類の旨さである。

 

 

 

 

 

 

 

(18日、県産業展示館前) 

 

 2005年12月12日
   (つづき)

 講演後、生徒の一人が、先生は、自分の興味関心を追求しろというが、それで社会的寄与になるのかという質問をしていた。センセは、「それを私は確信しています。」と語っていたが、その根拠は何も示さなかった。実に鋭い論理の空白の追求をしたわけで、その生徒の知的能力の高さのほうに唸った。今、上野センセの興味関心は「介護」に移っている。それは、独身である自身の老後がはっきり見えてきたからである。でも、それじゃ、その学問選択の恣意性はどう説明するんですかと、私自身がチラリと思ったことを、この生徒さんは、悪意なく上品に質問したのである。
 上野は一九四八年生まれ。フェミニズムが、あの当時、団塊の世代女性のトレンド、今は、介護がトレンドというような移り変わりを感じる。フェミニズムは、上野先生に捨てられつつあるのではないだろうかと脳裏をかすめたが、考えすぎかもしれない。
 だだ、世の中、辛辣な人もいる。

 

 戦闘的な「中ピ連」を抹殺したことにより、フェミニズムは市民権を獲得し、大学のなかに橋頭堡を築いた。しかし、数少ない女性が、マスコミで有名人化するのに反比例して、フェミニズムはその勢いを失った。女性関係の書籍を大量に売りまくり、女性運動を足場に出世した女性たちは、身の処し方が上手かったのだろう。大学フェミニズムの女性たちは、結果として男性支配に迎合するかたちで、自分の保身をはかったのではないだろうか。
             「匠研究室 本を読む」匠雅音(たくみまさね)

 

 結局、私がちらりと感じたことは、どうも、そういうことである。

 さて、これには後日談がある。
 彼女は、用語を正確に喋っていた。リストラは、「リストラクチャリング」。「モラトリアム」にいたっては、意味を解説した上で使った。そのあたり、さすが学者である。
 後日、三年生の評論用語の小テストがあったので、「ベンチャー」など、何種類か彼女が使った言葉の意味を訊いた。その時、これらはみんな上野さんが使った言葉だよといったら、「誰それ?」と、ある女生徒が素っ頓狂な声を上げた。
 誰って、先週聞いたばかり。今年、我が校に来た最も有名な人ではないか。
 この生徒、講演会があるから講堂に集合しただけ。壇上で誰か喋っているといった感覚だったのだろう。せっかく、女性論の闘士がやってきて一席ぶっていったのに、女の子たちは、どれぼど琴線に触れ得たものやら。
 彼女、講演後、一部の生徒さんとワークショップをおこなった。それで大いに触発された生徒がいる反面、こんな有様の生徒もいる。
 これが、正真正銘「女性の現在」である。

 

 以上が書いてあった文章。どうでしょう。下品でしょうか?
 講演の次の日、男性教員連中は、やっぱり、あんまり好かんかったという感想で終わっていたようですが、同じ国語の女性教員と軽く話をした時、上野さん、もうフェミニズムなんかに興味ないんじゃないでしょうかと言っていて、あ、感じましたか? 私も感じましたという会話を交わした。どうやら同じ印象のようである。

 

(翌日の地元新聞に載った記事より)

 2005年12月11日
   上野千鶴子の印象

 二ヶ月前、職場で東京大学大学院教授上野千鶴子氏の講演を聞いた。アップが遅れたのは、ちょっと、ひねくれた感想を書いてしまったからである。愚妻はこの文章を読んで、もう盛りの過ぎた人に悪態ついているみたいで、上品でない文章だと悪評だった。せっかく書いたので、年末の駆け込みでアップはしますが、ちょっと、そのつもりでお読み頂きたい。

 

 (前文省略)彼女の講演、「勉強」とは答えが決まっているものを答えているだけ。本当の「学問」とは、オリジナルな「問い」を見つけることであるという趣旨はきわめて真っ当で、高校生向けの啓蒙論としてよく出来た素晴らしいものであった。
 そこで、ここでは、この高名な閨秀学者のご尊顔を拝しての断片的な印象を幾つか書き連ねたい。
 「昔、女性学など学問ではないと言われた。それを、せっせと種蒔いて、私たちが学問にした。私は本が売れて、東大教授となって女性学の講座ができた。東大が学問として認知したのだ。」と、断片的な物言いをつなげるとそう説明していたが、これには、ちょっと違和感を持った。あれだけ権威に噛みつき喧嘩を売った八〇年代のフェミニズムの旗手である。現状肯定的というか、権威に認められることが行き着く先であるかのような印象を我々に与えた。
 何度も強調していた「学問にもベンチャーが大切」というのは、「前例のない問いこそ学問」という本旨に合致してそのとおりだが、昔の女性下着はどうだったのだろうという疑問から『スカートの下の劇場』(河出書房新社)が生まれた。あれは、私なりのパンツ研究なのだといい、お弟子に自慰の研究で大学の先生になったものもいるという自慢話を聞きながら思ったことは、おそらく、昔なら「サブカルチャー」と分類されていたはずのものが、今や最高学府で教授されているのだなといういうことである。つまりは、彼女が自慢していることそのものへの懐疑とでも言えばいいか。我が子を一所懸命東大に入れて、なに研究しているのと聞いたら「パンツ」と答えた時の、親の情けなさはいかばかりであろう。まあ、これは、生徒に判りやすく説明したために起こった卑小化という面も多分にあるのかもしれないが。
 近年、保守主義の攻勢で、ジェンダーフリー派は退潮を余儀なくされている。両性には各々特質があり、まったくフリーで考えるのは行き過ぎだというのである。
 例えば、最近、小学生に性教育の話をした大学の先生が、行き過ぎということで問題になり、謝罪したという記事を読んだ時の、我々教員夫婦の感想は、ここのところ、このくらいのことは、はっきりと教えていたはずで、世の中のほうが、かなり保守に動いているねというものであった。 
 それに、現代娘に、フェミニズム意識が定着していない。むしろ意識が低くなってる。でも、まあ、これも男女平等化が進んで、尖鋭的になる必要がなくなってきたということがあるのかもしれない。
 講演前、私は授業で古典をやっていて、「来ない相手を夜通し待って」という意味の記述があったので、「身を焦がして待っているのは、男性のほうですか、女性ですか?」と女生徒に問うたら、「男!」と元気な答えが返ってきた。女が男を選んで、好きな男が待っているところに行く。男は、その女を今か今かとイジイジ待っている構図である。それが頓珍漢な想像だとは気がつかない。彼女、今の恋愛がそういう構図だと感じているから、そう答えたにすぎないわけで、恋愛が女性のものであることをまったく疑っていないのである。(つづく)

 2005年12月10日
   赤瀬川原平『ブータン目撃』(淡交社)を読む

  一九八一年春、私は上京し、都会生活を始めた。新宿の紀伊国屋書店は、受験で初めて上京した時、人との待ち合わせに使った。地方の高校生でも知っている待ち合わせ場所の定番である。約束時間まで、ここが有名な紀伊国屋書店か、予想していたほど大きくないなあと思いながら店を巡った。当時、地下に小さなカレーショップがあって、その匂いが階上にも漂って食欲をそそったことを覚えている。
 何度目かの時、店内放送で、尾辻克彦のサイン会がある旨のアナウンスが入った。その年、『父が消えた』(文藝春秋社)で芥川賞をとった、その記念のサイン会だそうである。さすが東京、サイン会なんて経験したことがなかった好奇心いっぱいの田舎者は、よほど、本を買ってサインを貰おうかと思ったのだが、いかんせん、新生活当初で、お金が湯水のように消えている最中だったので、我慢した。それで、よく覚えているのである。その尾辻克彦こそ、赤瀬川原平その人で、この時は、遠目で見ただけ、ニアミスといった感じだった。
 赤瀬川原平なる名を知ったのは、東京の地図と文学作品とをくっつけて何とか言えることがないかと悪戦苦闘していた大学時代である。その時、建築史家の藤森照信の専門のほうの著作を読んで、その流れで、同じ路上観察学会仲間ということで、彼の本も読み始め、この人が尾辻と同一人物であることを知ったのだった。
 金沢に帰ってから、もう今から十年以上前のことになるが、「フードピア金沢」という市企画の冬の食談祭に、赤瀬川、藤森両氏がいらして、ご一緒のテーブルで鍋を囲んだことがある。お近くでお話ししたのは、その時が最初で最後。飄々とした話しぶりが印象的な人であった。
 それから、新解さん、老人力などの大ヒットがあって、彼の知名度は全国区になった。その後も、藤森氏が、実地の建築に乗り出し、屋根に草を生やした赤瀬川氏の奇妙な家を作った顛末など、両氏の著作を楽しく読んだ。
 数年前に、彼が県社会教育センターに講演にいらして、これも楽しく聞いた。気張らない、用意できた範囲で用意してきましたというような、柳に腰折れなしといった講演で、普通の人なら、もう少し気張って、何か情報を持って帰ってもらおうとするものだが、そうした気負いが何も感じられないのであった。スライドを訥々と解説しながらコメントを入れていく。彼の写真文集をそのまま見る思いの話であった。
 今回のこの本、『正体不明』シリーズと同様の造り。写真に紀行文がつく。前半は、経時的に入国以前から順に書いてあるが、途中から、印象に残ったものをトピック的に書くかたちに変えている。その方が面白いと思ったからだろう。
 最初、モンゴルの子供たちを見て、彼は自分の子供の頃の日本人を想起している。袷の着物のような服装は、実に物のなかった頃の日本の洟垂れ坊主そっくりである。こうした日本との類似性が彼の第一印象だったようだ。それが、途中から、違いのほうに目がいくようになるところが面白い。
 私は、以前、中国チベットのラサに行っているので、同じ山々のこっち側とあっち側、建物や風俗が非常に似通っていることに興味を抱いた。同じ文化圏だなあというのが写真を見ながらの素朴な印象。ラサは、今、漢民族が支配して、避暑地として観光地化しようと大発展中だが、ブータンは、俗化が見られず純朴である。
 トマソン、新解さん、老人力など、対象は刻々変われど、他の人と、ちょっと違った視点でものを観ると見えてくるものがあるというのが彼のユニークさの根元である。何の変哲もないものを撮していても、それに解説が入ると、確かに彼の言うように見えてくる。そのあたりの感受性のサイドスローぶりが持ち味。ジャズにスタイルがあるように、彼には彼らしい写真や文章の匂いがある。何度か直接お見受けし、その人柄を存じ上げているので、そうした意味で、芸術家の作品は、人そのものを表すという大原則が本当に納得できると思わせる方であった。

 

 2005年12月09日
  澤野工房のCDを見つけた
 澤野工房のCDを見つけた。昨日ふれた書店の二階は、メディア売り場になっていて、そこのクラシック・ジャスコーナーだけが他から囲ってあって、落ち着いた雰囲気に演出してある。その一画に澤野工房のジャズCDが陳列してあったのである。
 ああ、これが話題の澤野工房かと、ちょっとした邂逅の喜びを感ずる。地方資本の店では思いもつかない商品展開のコンセプトで、そのあたりに競合店との差異性を図っているのだろう。隣の家電店のメディアコーナーでは、ジャズのDVDは一枚しか置いていなくて、今後、そこを覗かなくてもいいということが分かったし、この書店でも、中古コーナーでは、まともなジャズCDは十枚程度しかなく、今後、チェックは不要である。そんな中で、新譜で澤野工房が置いてあること自体、かなりはっきりとした戦略であることは間違いない。
 大阪通天閣近くの履物屋さんがやり始めたジャズのマイナーレーベルがメジャーレーベルに飽きたらぬ層を開拓し、結構な売り上げを上げているというニュースは、マスコミにも取り上げられ、ジャズファン以外の人も知るところとなった。
 テレビで観ると、お店は商店街の角、本当に履き物とCDとが並んで売られている。ネットで訪問記を書いている人によると、在庫は、家庭用のプラスチックの抽出し収納箱。ここが世界の音楽市場と繋がっているのかと思ってびっくりしたという。
 先日、GYAO(ギャオ 有線放送が配信するインターネットテレビ)で、澤野氏自ら語りながら魅力を紹介する番組を視聴した。自分のいいと思ったものだけCD化するポリシーと、手作り感溢れる制作が、メジャーにはない魅力である。録音セッティングを音楽家自らにさせていたり、待望のグランドピアノでの録音と言っていたので、それじゃ、これまではアップライト録音なの?とびっくりしたり。
 ジャズ界は、戦後、モダンジャズを牽引してきた巨人がほぼ死に絶え、今はお洒落なジャズが流行っている。工房の作品は、フランス、ロシア、オーストラリアなど米国市場から抜け落ちている国の、優秀だが無名のピアニストの紹介が中心で、エバンスの語法を完全にマスターした上で、ちょっとお洒落にした感じの人が多い。しっかり聴いてもよし。BGMにもよし。
 澤野さん、ジャズ好きがこうじてこんな稼業に足突っ込んでしまいましたという感じの人で、それを知っているファンは、澤野工房のCDだから、アーティスト知らないけれど買ったという人も多いらしい。
 狙ったわけではなく、彼の、自分が好きなジャズが業界から漏れているという、自分の感覚を対する自信が素晴らしい。
 最近、一九六〇年代のコルトレーン(ts)あたりを通過した古株のファンは、大物のどっしりした新譜がなくなって、寂しい想いをしているのではないか。七〇年代からの私でさえ強く感じることである。昔に比べ、ジャズという音楽が、聴きやすくなり軽くなった。十五年ほど前から、大手でもヨーロッパの若手ピアノトリオに有名曲を弾かせて、お洒落なジャケットで売る商売が盛んだ。ジャズ専門誌も、それに合わせてか、尚古趣味的な名盤の詳細解説と、ヨーロッパの若手ジャズメンの紹介に紙面を費やすことが多くなった。
 澤野さんの音楽、ネットで全枚視聴できる。そこで、いくつも聴いてみた。聞きやすく、ちょっと軽いけれど、スタンダード並べるばかりのお洒落系よりは、随分オリジナリティーがあり、ガッツのある演奏。それに無名を育てるインディーズ的立場、手作り感もいっぱいで、売らんかなの商業主義の匂いがしない。そのあたりが居所である。
 熱心なファンになる気はないが、せっかく近所で売っている。話の種に一枚買おうと、今、さらに研究中である。
 2005年12月08日
   書店の戦略
 大桑地区が電気量販店を核にパワーステーション化しつつあると、一か月前書いた。あの時は、その電気店とスーパーを覗いたのだが、今回は、大型書店を覗く。
 書店は、専門書コーナーのある本格的なもの。これまでの実用書中心の郊外型とは一線を画する、豊富な品揃えと知的空間を演出するアイデアがあちこちに見られ、戦略を感ずる。
 スーパーマーケットも、安いのだけれど、商品が乱雑で、倉庫みたいな感じが漂って、買っていて面白くないところと、高級というわけでもないのだけれど、ちょっとリッチ感があって、買い物していても楽しいところがある。この手のフィーリングは、男より女性のほうが敏感で、愚妻は、あるスーパーなど、できれば行きたくないと言う。そこでは、仕方なく買っている感じがするのだそうである。
 以前、テレビで、あるスーパーの戦略が紹介されていた。高級食材は、月に数個しか売れないのだが、目立たせて並べているという。それを買うお金持ちのお客さんが落とすお金が、実は、売り上げのかなりの部分を占めているのだそうである。その客をつなぎ止め、かつ、一般客にリッチ感を与える効果。こうした循環ができ始めると商売として強い。できなければ、安売りでいくしかない。
 ここの書店も、こうしたリッチ感を持たせる工夫がいっぱいである。例えば、書籍は壁一面に並べ、豊富感をアピール。実際、写真のコーナーは天井までの三棚あって、荒木経惟だけで、三十冊以上ある。しかし、迷路にならないように、空間の中央に置く棚は段々状に低くしてあって、視認性を確保している。雑誌棚も並列ではなく、ジグザグ状に配置。なぜかは判らないが面白いレイアウトである。店員はインカムで、連動して客を誘導する。インフォメーションらしきコーナーさえある。入り口には図書館よろしくパソコン検索が……。いろいろ楽しめて便利そう。本当にこれまでの郊外店の貧乏臭さがない。
 先日は、全国規格の、土地柄との不一致ぶりを指摘したのだが、今日、この書店を見ていて、全国展開店の強力な統一的ノウハウを感ずる。売るのは同じ本。楽しい、便利と思ったところに客は流れる。中途半端に大きい地元の書店は、今後、大変だろう。
 車を一旦止めると、ドラッグ、本、音楽、電気、食品、散髪、衣料全部揃う。すぐそこというわけでもないので、行くのは日曜日ということになるが、いつも行くと朝から大混雑である。
 でも、スーパーで買ってきたチェーン店特製キムチがちょっと熟れていた。愚妻は、平日は、奥様方が三々五々買いに来るだけで、店はガラガラなんじゃないかねえという。古くなりかかっても、日曜、大量買い付けに来た父子付きに売って辻褄を合わせる。週末二日間だけの賑わいではないかとの分析だった。
 こんなのが出来ては、既存店はちょっと大変だと思ったのだが、そのあたりに生き残る道はありそうだ。
 と、商売と全然関係のない私が分析して、どうなる?
 2005年12月07日
   永六輔さんの話を聞く
 日曜日、「平成十七年度 いしかわ特別文化講座」を受講してきた。といっても、中身は永六輔のおしゃべりを聞く会である。
 会場は、石川県立生涯学習センター。金沢の中心部、広坂の旧県庁新館。県庁が鞍月地区に移転して残った建物の有効利用。昨年末、研修を受けた「ジョグカフェ」もここにある。
 往復はがきで申し込んだら、愚妻は落ちて私だけ当選。絶対行きたかったわけでもないし、会場を知ってパイプ椅子と予想でき、躊躇したこともあって、行く前はちょっと億劫だったのだが、結論から言うと、行ってよかった、大爆笑につぐ大爆笑の楽しい講演会だった。 
  定刻十分前に着いたのに、もう喋っている。亡くなった芸人さんたちのちょっと艶っぽい話でウォーミングアップ。すでに会場は彼のペースである。それから、定刻。永さんが本日の司会者を紹介して、これで、また爆笑。そんなノリで、老後について、医療について、死について語った。いい医者十箇条、いい患者十箇条というのが話の骨子。
 奇跡はめったに起きないから奇跡なのであって、患者は期待していけないといいつつ、でも、奇跡は時に起きることがあると、脳梗塞で話せなくなった老女が、火事を出して、第一通報者を調べたら彼女自身だったという逸話を紹介して、どうも脳梗塞には火事が効くようですねと結ぶ。それでどっと受ける。そんな調子である。
 同世代仲間で、毎年積み立をてしていて、最後に生き残った人が全額受け取る会をやっているそうだ。これで、仲間の友人が死ぬと、甲子園で勝ち上がっているような気になって嬉しくなるというのが最後の話題だった。つまり、暗くなってはいけない、物忘れったって、もともと子供の頃から忘れ物をよくしたクチでしょう、老化のせいなんかにせず、最後まで楽しく生きましょうというメッセージ。瀬戸内寂聴さんの御法話ではないが、笑いの中に生きる力を与えてくれる。もう、ホントに話芸である。
 話の冒頭、「私は黒柳徹子さんと結婚しません。」と大宣言。なんとなれば、最近、夜、黒柳さんと手をつないでいるところをスクープされたそうで、永さんは、転ばないようにしただけ。いわば「老老介護」ですと答えたそうだが、ホントに再婚しないんですかと迫った記者に、黒柳さんのほうは、ムッとしてこう答えたそうだ。
 「私は初婚です。」
 女の人は、七十歳をとうに過ぎても、そんなところにこだわるんですねえと、これは永さんのコメント。
 講演最後に、今度は、「私は外でこんなに喋っているのです。家に帰ったら、あの人が待ちかまえていて、あの調子で喋り始められたら疲れるでしょう。」と、だめ押し。
 ハハハハハ。みんなウンウンと頷いている。
 それにしても、いい友達、いいお医者さん、たくさん持っている人である。
 2005年12月06日
   マウンテン・パーカーが最高!

  昨日は終日霰や霙まじりの風雨だった。天気予報は今週ずっと傘マーク。いよいよ冬本番である。
 さて、今日は外套の話。昨日の派生話題である。
 東京の人が、金沢の人の冬の恰好を見ると、地味に見えるのだそうである。悪く言うと、貧乏臭い。
 なぜかはよく判ってる。こちらの人は「弁当忘れても傘忘れるな」の土地柄、濡れ対策をしているからである。化学繊維のアノラックに、帽子付き、黒のズボンに、長靴。女性だったら、上から下までオバチャン一丁上がりである。
 東京人に多いウールの高級コートなんて、こちらじゃ何の役にも立たない。あれは、風のない地域の防寒用、こっちは防風雨用。横殴りの暴風雨の時、いかに役に立つかが基準である。傘がさせなくても短時間大丈夫くらいの防水性をもっていること。いざの時のために、両手は確保しておきたいので、ポケットは大きく多めにあること。フードがあること。だからといって、肌触りはよいほうがいいに決まっている。ビーニール合羽もどきはバツ。この要件を満たしているのは?と行き着いたのが、アウトドアの定番マウンテンパーカーである。
 背中一面に大ポケットがあり、いざとなれば、リュック並の収納が確保されていて、裏地取り外し可、ウエストのインナー部に締める紐もあって、余程の時はそれで温度が逃げるのを押さえる。本当に良くできているつくり。私は、ここのところずっと、登山ショップで買ったアウトドアブランドの黄土色のを愛用している。一時期のアウトドアブームも過ぎ去って、日常着ている人はぐっと減って、ちょっと流行遅れの感は否めないが、でも、これこそ実用の美ではないか。もし傷んでも、次もこの形を買うつもりである。
 ただ、最近、ちょっと薄汚れてきた。それを目ざとく見つけた愚妻が、洗濯機OKということを確認して、先日、洗濯して陰干し
そのあと、私がスプレーをかけた。こざっぱりした印象になったこのコートを見て、今冬もお願いしますよ、貴方が私を守る主役なのですからねと、ちょっと、アミニズム的にお願いと感謝の意を捧げた。

 2005年12月05日
   冬なのに除湿機?

 先日、テレビをぼんやり聞いていたら「冬なのに○○」というクイズをやっていた。当然、○○の中には意外性のあるものが入る。そのひとつに、「富山県では、冬なのに○○が売れる」という出題があった。答えは「除湿機」。
 そこで、えっ、と絶句。それが意外なことだなんて……。
 太平洋側の月別降水量は六月をピークとする山型になるが、日本海側は、十一月〜二月をピークとする擂り鉢型になる。小学校の社会のテストでお馴染みの表を思い出して頂きたい。
 マンションの我が家は、Lの字の蝶番の部分にあるので、日当たりのよくない部屋が一室あって、そこの湿度は、冬、つねに八〇パーセントを超えている。引っ越して初年度、皮革製品が見事に一センチ以上の黴だらけになって、以来、懲りて、除湿機を稼働させている。洗面所には、洗濯乾燥用がもう一台、これはほぼ毎日活躍中。北陸はそんな土地柄である。
 だから、テレビを見ていて、番組制作サイドの、関東の常識が日本の常識だと思い込んでいるかのような発想にちょっと呆れたのである。
 冬になると、静電気話題や乾燥肌対策の番組をよくやっているが、これらも、こちらは全然関係がない。
 以前、北関東系の有名大型家電量販店がこちらに進出してきた秋、たまたま店に入ると、入り口の一番目立つところに暖房機と一緒に加湿器がずらっと展示されていて、冬の準備はお済みですかと大書してあった。そんなもの、この時期に買う人がいるわけがない。
 そもそも展示の準備をしている時に、誰かがその愚を指摘すべきである。店員がみんな北関東からの出稼ぎ組だったのだろうか。それとも、分かっていても、マニュアルに従わざるをえなかったのか。いずれにしろ、ホントに唖然とした出来事だった。
 こうした、土地柄を無視した画一的な発想は、色々なところで感じる。例えば、建築。通路に見苦しくスタッドレスタイヤを置いているアパートをよく見かけるが、地方は東京と違って車は下駄がわり。貧乏学生さんも車を持っている土地である。ところが、物置がない。そこで、通路違法占拠になる。
 規格住宅やマンションの玄関もそう。玄関から先、濡れものを持ち込むわけにいかない。長靴や傘、雪をはたき、濡れたコートを掛ける広い場所が必要である。細い通路の延長のような玄関では困る。でも、新築マンションのチラシを見ていて、そうした配慮のある物件に出会ったことはない。膝下まであるマリン(ヨッテイング)ブーツなども規格下駄箱に入らない。だから、北陸に住んでいるマンション住まいの人の玄関の上がり框(がまち)は、大抵、ムタムタ(乱雑な状態を表す金沢弁)である。
 規格やマニュアルの網が全国にぱっと広くかかって、そんな中で、先祖が営々として積み重ねてきた「生活の知恵」や「土地柄」など、その土地で人が生きるのに大事ではないかと思われる部分が、欠落しつつあるような気がしてならない。

 暖かい秋だったが、それでも、ちゃんと、今、季節は「鰤おこし」である。休みには、思い出したかのように冬の準備をしている。関東の人より、それが倍ほど手間である。
 暖房はもうとっくに稼働中。タイヤ交換は、もう自分で出来なくなったので、業者に委託して済ました。職場で一番乗りの部類である。雪すかし棒とスコップも積んだ。雪用長靴も玄関に配備。一昨日は、外套や靴に防水スプレーを噴霧した。咋日は鞄類にシュワッと。秋口に入れ替えはしたものの、いい加減に突っ込んでいた冬用衣類も、しっかり整理して出しやすくした。買い物も、乾物のストックを多めにして、積雪に封じ込められても当分大丈夫にした。
 さあて、もうこれくらいで完了かな、という冬の夜。

 2005年12月04日
  (つづき)

 彼女は、コンサートをソロから始めたが、そのためか、左手が強力にドライブするのに驚いた。トリオになった時も、ピアノがリズムを刻んでいるので、リズム隊はピアノを支えるというより、彩りを添えたり、ソロをとったりする役目が中心となっていた。
 彼女のタッチは明瞭で、メリハリが利いて力強い。その分、強弱のニュアンスやビル・エバンス的な叙情は少なく、三者が絡みつくような展開は希薄であった。それにしても、七十六歳という年齢を感じさせないパワフルな演奏で、鍵盤に体重かけて叩きつけるようなフォルテシモでは、足で空を蹴っ飛ばす癖があるのが印象的であった。
 バド・パウエル派だった痕跡は、大勢でパップ曲をやった時のソロに見られた程度で、今もバドそっくりなのだろうと勝手に思いこんでいたこちらの予想とは大きく違った、個性的でピアニステックなスタイルであった。
 このコンサート、地元のアマチュア楽団、ムーンライト・ジャズオーケストラの定例演奏会という側面もある。今年は、秋吉の代表作「ロングイエローロード」など二曲を、彼女の指揮で演奏したのがハイライトになった。司会者が、彼女のスコアは難しくて、うちの楽団では、一年に二曲が限界ですと言って、笑いをとっていたが、確かに、ピリッと音が締まった緊張感溢れる力演だった。
 開演前、ロビーで地元金沢大学の女性コンボのミニコンサートがあったり、ゲストに女性ボーカルも入るし、最後には、ジャズオーケストラを指揮する秋吉の勇姿も拝見できたし、四時間になんなんとする長丁場だったが、、バラエティ豊かなメニューで、楽しい時を過ごせた、ジャズに疎い愚妻も大満足のコンサートであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(ロビーでの女子大生バンド演奏)

 2005年12月03日
   秋吉敏子(p)を聞く
  先月二十七日、野々市町肝煎りの「第十一回 ビッグアップル・イン・野々市二〇〇五」(於野々市文化会館フォルテ)に行ってきた。会場には洋酒バーや軽食の店も出て、ちょっとしたお祭り気分の演出が楽しい。私はこれで三回目、愚妻は二回目である。充実した演奏を毎年継続させているので、客の中には、私たちのようにレピーターも多いのだろう。先月の富士通コンコードの半分のチケット代で、たっぷりジャズを楽しめるというも大きな魅力だ。小さな町だからこそできる手作り感覚溢れるコンサートである。
 今年度は、秋吉敏子(p)グループ。リズム隊がケニー・ワシントン(ds)ピーター・ワシントン(b)と超強力である。彼女の生演奏を聴くのは初めて。オーケストラのほうは、もう二年前に解散していて、ついに生を聞くことなく終わってしまった。ピアノに専念するという話だったが、最近の彼女のCDを聴いたことがなかったので、今、どんなスタイルで弾くのか興味があった。
 秋吉と言えば、九年前に出た彼女の自伝『ジャズと生きる』(岩波新書)が印象深い。当初、東洋からきたパド・パウエル(p)そっくりのかわい子ちゃんとして、米国市場に売り出すべく尽力し、後に冷たくなった大物ジャズプロデューサーに対する屈折した心情や、一時期、仕事がなくなって、毎日、練習しているだけの生活が長かったことなどが赤裸々に書かれてあって、結構、驚いたことを覚えている。私がジャズを聞き始めたころは、「孤軍」(現BMGファンハウス)などのオーケストラ作品を発表し評価されはじめたころで、以後の活躍しか知らない私は、本場で名を知られた数少ない日本人ミュージシャンというイメージしかなかったので、尚更、その現実に驚いたのだった。
 オーケストラ曲は、ジャス番組でよくかかるので知っている。彼女の編曲は、複雑で芸術的な反面、曲によってはリラクゼーションに欠ける印象がある。聴衆を楽しませることのみを追求するのではなく、あくまでも、自分の音楽の表現としてオーケストラがあるという発想が強力に感じられるタイプの曲である。日本人としてのアイデンティティー、そして、もともとピアニストであること、その彼女の二つの個性が、そのまま曲となっている、そんな印象を私は持っている。
 だから、曲に日本的メロディがちらりと顔を出したり、一部の曲に、ピアノの両手の動きがオーケストラに拡大したかのようなところがあって、それが、彼女のオーケストラの個性でもあったし、逆に言えば、限界でもあるように思った。我々同胞が聴くと、異国情緒を殊更標榜しているかのように感じられたり、低音楽器の楽団員から、「オレは、お前の左手じゃないぞ!」と啖呵を切られたという話も伝わってきて、いかにもピアニストの編曲者が陥りやすい問題点だと思ったりもしたことであった。
 ただ、これも、日本人リスナーの勝手な屁理屈である。今日のコンサートで、ビッグクバンドの作編曲を始めた時、どうしてもこれまでの有名バンドの手法をなぞるようなものになってしまって、これではいけない、どう自分らしさを出すか、かなり悩んだ結果が、今の編曲なのだということを述懐していたが、そのあたりに彼女の苦闘を垣間見た気がした。確かに、こっちの勝手な指摘を真に受けていたら、女カウントベイシー楽団になってしまうだけである。(つづく)
 2005年12月02日
  あっ、フードが……(今年総括2)

  今度は、カメラ界総括といったニュアンスで……。
 まず、四月に書いたまま捨てられていた拙文をここに掲載します。

 

 「昨年暮れあたりで、ようやくデジタル一眼レフカメラの価格が庶民の手の届くものになり、デジカメ市場全体では頭打ちだが、一眼市場は活況を呈している。これから新規に一眼レフを買う人は、間違いなくデジタルの方であろう。
 時代の流れで、銀塩の方は、各社で大幅機種整理がおこなわれた。我が愛機の会社、ペンタックスも、フラッグシップ機MZ−Sが製造停止。ペンタックスの銀塩高級機はこれが最後の可能性が高く、一時期欲しかった時期もあって、大阪までカメラフェアを見に行ったくらいで、ちょっと名残惜しい気もする。
 高級コンパクトカメラも、私が持っているコンタックスT3をはじめ、各社軒並み製造中止に追い込まれている。そのため、デジカメ攻勢で値崩れをおこしていたこれらの機種は、駆け込み需要で値段が数万円単位で上昇して、販売店は強気に転じているようである。中古値も急上昇。
 反面、ニコンは、もう、出ないのではないかと言われた銀塩フラッグシップ機F6を出してきた。プロはデジタル一眼に移行しているので、そちらにまかせ、前機F5より省略するところは省略(ファインダー交換など)して、銀塩マニア向けの高級機という扱いでだしてきたのである。さすがニコン、銀塩を見捨てていないと、ファンは感謝感謝の気持ちになり、信頼度をぐっと増したようである。会社の方針として、そのあたりうまいものだ。」(以下略)

 

 どうやら、この頃、銀塩から撤退するメーカーが続出して、最後の銀塩一眼レフを買いためておこうかと、私は色気を出していたようである。そんなに何台も銀塩カメラあってどうするんだ、もう出番が少なくなることがわかっているのにと言われたら返す言葉もないので、思いとどまった。でも、そこがそれ、マニアの心理なのである。
 でも、買わなくてよかった(……かもしれない)。今の心境は、どうせ大枚はたくなら、やはりデジタル一眼レフである。個人的な心境の変化というより、この半年で時代がはっきり変わってきたということなのだろう。各社からのデジ一眼エントリー機も出揃い、代替わりした機種もあり、価格も急低下、完成度は高まっている。
 今読むと、半年前のこの自分の文章が、微妙に古びて見えたことにちょっと驚いたので、あえて引用した次第。世の動きのなんと早いことか。
 その上、銀塩どころか、京セラなどデジカメ市場から撤退したメーカーもあり、デジタルでも勝ち組・負け組が取り沙汰されている。キャノン・ニコン以外の老舗カメラメーカーは、軒並み大赤字で、一部の家電メーカーだけが利益を上げている。カメラは、もう精密機械ではなく、純然たる電気製品なのである。なんだか、昔のミシンメーカーの凋落を思い出させる事態だと思うのは私だけだろうか。
 さて、あれだけ賛否喧しかった単焦点デジカメGR−Dが「カメラ・オブ・ジ・イヤー(コンパクトカメラ部門)」(「日本カメラ」主催)に選ばれた。
 ただ、それを知らせる「日本カメラ」の表紙を飾ったこのカメラ、フードの短辺長辺九十度逆につけてあって、2ch掲示板あたりで、「これ、ハーフカメラだったっけ?」と物笑いの種になっていた。確かに、カメラの専門誌で、付属品の取り付け方が間違っているなんて……。これって、えらく恥ずかしい事態ではあるまいか。担当者は、おそらく始末書である?
 ま、カメラ好きはそんなことまで、あげつらって楽しんでいるのである。つまりは、典型的な「男の趣味」。
 来年、デジ一眼を買う気満々なので、今後も、カメラの話題が出てくると思うけれど、呆れずにおつきあいを願いたい。

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お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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