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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2006年03月24日
  学校、この不思議な場所

 今日は、終業式。全ての行事が終わり、掃除をし終えた生徒たちにご苦労様と声をかける。生徒が去って静寂が訪れる。一年終わったという軽い脱力感に似たものを感じる。窓の外を眺めてコーヒーを飲む。

 

 学校とは不思議なところである。学校ってなんだろうと考えると、タマネギの皮むきのような気分を味わう。どんどん剥いていったら、なんにもなくなる。
 学校の中心は生徒である。それは間違いない。でも、たった三年間しかいない。一年で三分の一がいなくなる。新陳代謝が激しく、四年前のことはもう誰も分からない。去年、先輩がしたことは、今年もせねばなりません、それが伝統だと思っている。いいや、それは去年特別にしたことだよというと、怪訝な顔をする。同じ制服着ている同じ人数の集団というだけで、「今」のことしか分かっていない。
 では、教員だろうか。常に方向を決めているという意味では、いかにもそれらしいが、それでも、長くいて十年。勤続何十年という人はいない。企業だって、最近は横から入った人も多くなってきたご時世だが、未だに入社以来いる人のほうが圧倒的に多いはずである。
 管理職にいたっては、数年で全員交代。その都度、あっちを指し示したりこっちを指し示したりする。それには「社会の要請」という名分がつくので、我々はそれに従って右往左往。結局、大人も、前のことなど何も知らずに、自分が在籍している「今」の感覚で仕事をしているだけのことである。
 結果、十年前に否定された方向性が、新しい顔をして、麗々しくまた出てきたりする。まさに歴史は繰り返す。理屈など、百八十度中身が違っても、どうとでもつくもの。
 それでは、校舎が中心なのかと思った時期もあった。誰でも自分が学んだ校舎への思い入れは強い。でも、この職場で校舎の建て替えを体験して思うのは、どんなに臨時の建物でも、この学校はこの学校であったということである。
 こうして、学校を解体していくと、今ある「もの」「人」ではないという結論になって、なんにもなくなる。 
 どうやら、学校を学校たらしめているのは、「校風」「カラー」などというような実体のないもののようだ。この学校はこういうところだという大枠のイメージである。ランクの輪切りで振り分けられてくるにせよ、一応、生徒はこれに共感して集まってくるのだから、そうした要素は、現職教員陣の目先の教育方針より余程確かなものであるように思える。
 そもそも、世間のその学校のイメージも、ぬきさしならぬほど強固で変わりにくい。受験にシフトして、ここのところ部活動を重視してこなかった学校が、たまたま、ある競技で全国出場を勝ち取った折り、マスコミが「文武両道の伝統」と紹介していたのを聞いて、一層その感を強くした。
 私たちは、こうしたイメージに左右されながら仕事をしているようなのだが、でも、それが一番間違いないのではないかという気もしている。世間もそう思い、卒業生もそう思い、親も、在籍している子供たちもそうであれかしと思っている。そこに向かって仕事していくのが本来の我々の仕事ではないか。
 はっきりとしない世間のイメージを重視して何になるのかという意見があることは知っているし、時代遅れの看板にすがってどうするという意見があることも知っている。
 でも、私は、時流を受け入れつつ、時には疑問も呈そう。どこの職場であれ、その学校の伝統に最大の敬意をはらって仕事をして、それでおかしいのだったら、そっちのほうがおかしいのである。

 

 少々、愚痴っぽくなってしまったか。
 話を、「今の中の人」に戻そう。
 教員は、学校のもろもろのなかで、意味の薄い存在だと思ってはいるものの、それでも、学校という場所に一番長くいる人間は、やはり教員である。生徒のいない時でも日々出勤する。現在、生徒の実質出席日は年々減少を続け、二百日を切っている。一年の三分の一は学校に来なくてよい。補習などで縛って登校させるようにして、在校時間を確保してはいるが、実は思ったほど学校に来ていない。
 それに、いても、その大半は教室で座っている。一時間のうち十分だけ、わっと廊下に散って騒がしくなるが、それも一時。基本的には、この大きな建物で千人規模の人間が本当にいるのかなと思うぐらい、いつも静寂に包まれている。
 生徒が知っている教室以外の学校とは、だから、放課後のほんの短時間や休日の部活など、限られた時間、限られた場所での景色でしかない。
 教員は、大勢の気配は感ずるが、でも、かすかな声しか聞こえない日中の静寂な時間に、雑務をこなしに校舎を横断したりする。屋根のある中庭に斜めの光が差し、甃(いしだたみ)に自分の影が映る。跫音が驚くほど空間に響く。
 「学校、この不思議な場所」と思うのはそんな時である。

 

[1] 

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