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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2006年05月01日
  武蔵が辻界隈今昔

 黄金週間前半は仕事だった。それだけで終わっては悲しいので、土曜夕刻、愚妻と武蔵が辻の名鉄エムザで開かれている「第五十七回中日写真展入賞作品金沢展」を観にいった。帰り、久々に隣接する横安江町商店街を歩こうかということに。
 今から四十年ほど前、武蔵が辻界隈は金沢の一大繁華街だった。街に買い物に行く時、片町と武蔵が辻どっちに行くかということが常に話題になったものだ。前回はどっちだったから今回はこっちとしようというような決め方をしていた。どちらもデパートを核に、商圏として覇を競っていた。当時の私は、もちろん、屋上の遊具施設と食堂のお子様ランチが目当てだったから、どちらでもよかった。
 武蔵の場合は、丸越デパートを冷やかしてから、近江町市場や横安江町商店街に向かうのが定番の行動だった。横安江町は金沢で唯一のアーケードのある一般商店街。母親族は、横道にあった「いとはん」という衣料スーパーと、ファッション専門店のハシゴ。子供は、オモチャ屋と休憩で入る甘食屋の蒸し菓子が目当てであった。本当にいつもいくたびに大勢の人で賑わっていた。
 その後、丸越は名鉄デパートに吸収されて、辻向かいに移り、跡地にはダイエーが出来た。そのあたりまでは、それなりの賑わいを見せていたが、徐々に客足が遠のき、昨年、ダイエーも閉鎖。老朽化した横安江町のアーケードも立て替えを断念し撤去された。
 今は、近江町市場に生鮮品を買いにいくついでにデパートにも寄るという昔ながらの客層に支えられてなんとか商圏として面目を保っている状態である。
  薄暮、屋根がなくなってすっきりした通りを歩く。ここはもともと本願寺派東別院の門前町として栄えたところ。仏壇店、法衣店、神具店、結納用品店など金沢らしい店は今でも健在だが、一般のお店は淋しい限り。
 だが、そぞろ歩きの中程に、当時、活況を呈していた衣料品店の看板を見つけて、懐かしかった。まだ潰れずに頑張っている。母親が、ここで服を漁っているのを手持ちぶさたに眺めていた昔の自分を思い出す。そういえば、子供は親の買い物にすぐ飽きて、別院さんの門前で遊んでいたっけ。
 母親の洋服選びにつき合わされるのも、考えてみれば迷惑な話で、親は、子育てに時間をとられていると思っているかもしれないが、子供は子供で、大人に文句も言わず付き合ってくれているのである。
 あれはあれで、後年、奥さんのお出かけの準備にじっと耐えて待っている旦那族の、まず最初の大事な訓練だったのかもしれない。 
  黄金週間中というのに、人影もまばら。七時には多くの店が店じまいしていた。せっかくだから、通りで唯一やっていた食べ物店に入り、薬膳料理をいただく。八時には武蔵を後にしたが、止めてあったデパート駐車場周辺でも人影を見ることはほとんどなかった。飲食店が少なく、夜の町としても機能していない。
 四十年前の、あのワクワク感を覚えている私には、一抹の淋しさが募ったが、多くの人同様、郊外型大型店中心の行動になっていて、何年ぶりに来たのだろうと指を折っている私には、何かいう資格はない。
 山側環状線が出来て街なかの道が空いた。以前より短時間で繁華街に行けるようになったのを好材料としようではないか。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(結納店の店先。どうやら「金澤表参道」というのが、横安江町商店街の新しい名称らしい。)

 2006年04月29日
   ルンルンとバンバン

  ことほどさように中年は若い子が大好きだが、それじゃあ、私はどうかといえば、今年、職場の隣席が大学卒業したてのフレッシュウーマンになって、他室の同僚から羨ましがられている。
 一応、ご期待の通り、聞かれるたびに「若い子でルンルンです。」と答えているのだけれど、この前、女性管理職がやってきて、あなたには彼女の指導をお頼みしてあるわけですが、如何ですか。と聞かれ、いつものように、「ルンルンです。」と答えてしまった。
 あれれれ、ちょっとまずかったかも。全然、TPOを踏まえていない。
 別の日。
 その新米先生と話していて、「それはよかった。バンバンですね。」と使ったら、他の同僚から、バンバンは方言。秋田出身の彼女には判らないと思いますよと言われた。
 彼女に聞くと、やはり、判らなかったそうだ。ただ、フィーリングで判りますという答え。
 えっ、と思い、検索をかけると、なるほど、勢いよく連続するという意味の「バンバン使っていく」なんていうのはそれなりにあるけど、私の使っている「万全である」という意味で使っている人はほとんどいない。慌てて「広辞苑」を繰る。

 

ばんばん(万万)名詞@非常に多数なこと

                    Aはるかにまさっているさま。
        副詞@十分に。よく。まったく。

                    A(打ち消しを伴って)決して。万一にも。

 

 どうも「副詞@」に該当しそうである。方言とまでは言えないようだが、一部地域限定で、昔流行った若者言葉を、中年は未だに使っているといったところのようだ。あるいは、古風な言い方、「万々歳」の省略語かもしれない。後で愚妻に聞くと、あんたはよく使うし、意味もわかるけど、私は使わないという。
 金沢まれの金沢育ち、言葉について偉そうに語っている割には、どこまでが標準語で、どこまでが地域限定、あるいは年齢限定語なのか、よく判っていないところがある。
 こんな風に、時々、え、これ、全国では通じないの? と驚く。
 彼女に、「センセイの話には、何言っているのか分からない言葉が結構沢山あります。」ときっぱり言われた。
 ガーン。

 2006年04月27日
   男も女も若い子が好き

 (きっぱり。以下の話は、井戸端レベルです。そのつもりで読み流して下さい。)
 いつも行くジムはもう設備が古いので、中高年が多い。それもご婦人ばかり。ここのところ、新採のインストラクターが若いアンちゃんばかりだからではないかという噂もちらほら。では、おば様方が、彼らを可愛がっているのかといえば、女子更衣室の井戸端会議では、最近の若い男の子は愛想がないよねえとかなり手厳しいらしい。もちろん、これは愚妻からの情報。
 実は男子更衣室でもこの種の会議をしている。

 

「○○さん、全然、顔見ないね。そういえば、最近、来なくなったオヤジが何人もいるなあ。」
「若い女性のインストラクター、みんな新しい支店のほうにいっちゃたからねえ。」
「なに、それ?」
「あの人ら、若い子目当てだったからね。もう、ここへ来る気なんてないんじゃない?」
「そういうことか。それって、結構、核心ついているかも。」
「でも、アクアインストラクターの△△子ちゃんって二十代じゃなかったっけ?」
「でも、あの子は結婚しているよ。」
「ああ、そうだった。それじゃあ、ダメだね。」

 

 なにがダメなのか。どうも、二十代でも、結婚していると範疇から外れるらしい。結婚のチャンスを窺う年齢ならいざ知らず、いい歳して配偶者がいて、自分とは何の関係もないにもかかわらずである。
 これって、どういう「基準」なんだろう。やっぱり、独身だったら、あわよくばという意識から? それとも、公序良俗維持のための正しい判断?
 うーん。微妙である。

 

 2006年04月25日
  グラデーション的人間関係

 新入生が部活動に正式に入った日、大所帯のある運動部は、中庭で大きな円陣を組んでいた。一年生が外、上級生が内の輪を作って、その内の輪が一定の間隔で隣りに隣りにと動いている。まるで歯車。何か儀式のように見える。
 何をしているのだろうとよく見ると、皆の手にはケータイが。どうやら連絡網を作るために、入部生全員のメールアドレスの交換をしているのであった。
  新しい風俗。中学出たての子でも百パーセントケータイ持っていないと出来ないやり方である。名刺交換会の今時版。
 それにしても、なんと能率のいい。

 

 アドレスといえば、住所録を使ったあざとい勧誘電話や詐欺まがい電話が頻発し始めて、住所録を発行しなくなったところが多くなった。県内の高校でも、数年前から止めている。
 今年、ある高校では、事務係と騙って、電話で元生徒の親から個人情報を聞き出す事件があって、地元新聞に大きく出ていた。旧住所録を使って名簿の頭から片っ端に電話をかけまくっていたらしい。
 そういうことが起こるにつけ、発行停止は妥当な方策だと思う。
 でも、失うものもあるのではないか。
 人の関係には、親密ではないが、顔くらいは知っている。あるいは、まったく知らないが、同じ組織の中の仲間であるという、赤の他人とは違う緩い関係がある。
 今はさしあたり連絡するような相手ではない。でも、もしかしたら、連絡しなければならないことがおこるかもしれない。それで人間関係が広がるきっかけになるかも知れない。そういう可能性を秘めた淡いゾーンが、このことで切断されてしまったように感じる。
 大人の人間関係はグラデーションのようなものである。濃密な関係から袖すり合うも他生の縁くらいまでさまざまな濃さがある。その間合いの中で大人は生活している。人間関係の狭い幼児に名簿など必要ない。名簿を有効に使えるということは正常な大人への成長において必要なことだったのではないだろうか。それを大人は切ってしまった。生活が固定している大人はたいした問題ではない。問題が出てくるのは、今から大人になる子供たちのほうである。
 今の子供たち。親しい友人か、あるいは赤の他人。それで終わりというような人付き合いにならなければよいが。
 
  昔は高校入試の合格者は新聞に名前が出ていたが、これもプライバシーということで、最近は載せなくなった。
 新聞で、あの家の子はどこそこの高校に行ったんだねと判る。特にお祝いをするような相手でなくても、それで、遠くて通学に大変だとか、その家のことがだいたい判るので、その後、その方と話をしていても、そのつもりで話ができる。知らないと相手方の話から推測するしかない。
 親戚の子が今年受験だった。ところが、公に情報が出ないので、合格したのかわからない。もちろん、こちらから、わざわざどうでしたかとはちょっと聞けない。先方は先方で、吹聴することでもなしと奥ゆかしくしている。その結果、どうなったのか判らないまま三月末を迎え、もう、いくら何でも進路決まっただろう、もう聞いても失礼ではないないんじゃないかという家族の会話を経て、ようやく電話したということがあった。
 新聞見たよ、合格おめでとうという電話がかけられなくなった。歓びはその一家のみのこと。つまり、人として「歓びの共有」が出来なくなってしまったのである。
 
 プライバシー意識が高まると、失うことも多そうだ。
 ケータイメールは、こちらの主体に土足で入り込まない細い糸のようなものだ。部という同じ組織の人間になった証としてアドレスを交換する。それで、先輩後輩という緩い人間関係を構築する。親友よりはずっと疎遠だが、今後、口を交わし連絡をとりあわなければならないような人間関係の成立である。
 名簿なき時代に、あの円陣はグラデーション的人間関係構築のための正しいあり方なのかもしれない。

 

 2006年04月23日
  桜から片栗へ

 桜も終わりの方になると花弁がピンク色を濃くして散り際を知らせてくれる。火曜の朝、出勤の途中の桜を眺めながら、夜桜見るなら今日が最後かもしれない、兼六園でも行こうかと思った。
 しかし、日中、五月中旬の陽気とかで、帰宅時にはもう七割がた散ってしまっていた。それから、ぐっと冷え込みはじめ、夜、風が窓をたたいた。翌朝、冷えた空気の中で、花びら一枚も残っていない裸木を見つめながら、つい昨日、満開の桜を見ていたのが信じられない気持ちだった。
 金曜日には霰さえ降って、職場の暖房がフル稼働する寒さに。ストーブに手をかざしながら、灰色の外を眺めると、一瞬、花まだきの錯覚に陥ったくらいだった。
 こうして、寒暖の乱高下に翻弄されて、桜は一夜にして舞台から去った。
 
 昨日、気温は平年並みに落ち着いて、春らしさが戻ってきた。片栗の群生が満開というネットでの情報を得て、平栗に向かう。
 平栗は、金沢の裏山野田山の山向こうにある。子供の頃は遠足すると通るところというイメージだった。結構歩いて、へたばったくらいでようやく辿り着く。ここでしばし休憩のことが多かった。昔はそれなりの戸数があったのだろう、我々が子供の頃には分校もあったはずだが、今は十軒に満たないくらいの小さな山の集落である。
 村の近くに遊歩道が整備され、観察コースになっていることは知っていた。だが、実際、花の季節にきたのは初めてである。

 

 

 

 地面から十センチほど、下を向き、紫の花弁が反り返る可憐な花。それが絵の具の雫を散らしたかのように辺りに広がっている。まさに群生である。
 マクロの得意なコンパクトデジカメが愚妻、買ったばかりのデジタル一眼レフにクローズアップフィルターが私。典型的カメラ親爺である。中年夫婦の落ち着いた野山散策というより、夫婦接写大会の様相を呈したのは予想された展開であった。 
 見上げるように覗くファインダー。よく観ると、花弁の根元にくっきりと紋があり、その線を全弁つなげて見ると、図案化された桜の模様のように見える。俯瞰していては決して気がつかない性質である。  

 

 

  三十分程度の道程を二時間かけて歩く。顔を上げると、桜がほんの少し残っている。五月に入ると、主役は新緑に入れ替わるだろう。
 村横の駐車場に戻る。苗代仕事のトラクターが畦道を通り過ぎる。運転の農家の方から、こっちは忙しいのに暢気にカメラ何ぞをぶら下げてといった目で、ちょっと見られてしまった。
 金沢に住み始めて数年の、金沢初心者の方のブログ(「金澤徒然日記」)に、ここ平栗のことを「山間の日本の原風景が美しく残っている場所」と評されていた。言われてみれば、その通りかもしれない。水がはられた山沿いの田、木造に漆喰の農家、敷地には二階建ての蔵が建つ。
 これまで辺鄙な山の中の集落くらいにしか思っていなかった地元もんの私は、それで、正しい風景の見方を教えられる。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

(このカット愚妻撮影)

 2006年04月21日
   金沢「山側環状」道路の開通

 二十年来の懸案だった金沢市内渋滞の緩和策、市内を山側から迂回する山手バイパスが、十五日、全通した。
 昨秋、愛称を募集していたが、開通を祝う新聞の全面記事のどこにも愛称らしい言葉がない。訝しく思い、よくよく読んでみると、あちこちに使われている「山側環状」というのが決まった愛称だという。
 こんなのを愛称というのだろうか。これは、お役所がつけた正式名「金沢環状道路山側幹線」の単なる略称である。そもそも車のための高規格道路で、人の匂いがしない道。募集者は「せせらぎ通り」みたいなのを期待していたのだろうか。(この先できる予定の反対側のバイパス、「海側環状」でなきゃ、呆れますよ。)
 開通の土日は大渋滞で、私の車も富山からの帰り巻き込まれ、これじゃあ在来の道の方がいいと思ったが、平日からは流れ始め、朝の通勤ラッシュは緩和されたという。どう動いたらどうなるか、今週、金沢中で話題だった。
 この道で感じたことを書こうと思っていたら、今日読んだブログに同じ趣旨のことが書いてあったので、引用したい。
 
「金沢に住んでいて、相応に地理も頭に入っていて、○○○へ行くにはどの道を通ってどのくらい時間がかかって……という感覚が相応に鍛えられているわけではないですか。それが、この道が出来たおかげでまずはそういう感覚が一部リセットされつつある。(中略)今まで混んでたところが空いてたり、逆に空いてたところが混雑したり、または混雑していたところが余計混雑したりと(笑)、なかなか予測の付かない事態になっているのですな。(中略)みんなが一斉に同じく困惑しながら、新しい状況に慣れようとしているわけです。その辺り、単に「便利になったなぁ」という以上のパラダイム・シフトが訪れつつあるんではないかな、と密かに思っているのでありました。」(「asd's log」asdn.exblog.jp四月一八日付より)

 

  キーワードは、「リセット」と「パラダイムシフト」といったところである。
 これに、私の感想を付け加えよう。
 真っ直ぐにのびた無機的な風景。トンネルの看板などにその土地名が書いてある。それで、今、どの辺りを走行中なのか判る。土地の感覚と遊離して、言葉によってようやく繋ぎ止められている。そうした高速道路などで時々感ずる感覚が、こともあろうに、自分がよくよく知っているはずのご近所で起こっているという違和感が私にはあった。
 その上にもう一つ。人は土地の名を聞いてその町の雰囲気をイメージする。○○町は閑静な住宅地だとかいうふうに……。ところが、新道は、これまで人の住んでいない場所を通っているので、ここは○○町と看板に書いてあっても、その町の匂いが全然しない。土地をイメージすることを拒絶しているかのような感じなのである。
 こうしたことに違和感を持つのは、地方に住んでいるからに違いない。東京で生活している人は、東京という生活圏内で、自分が行ったことがなく、知らないところがあるということは当然のことと思っている。今言ったことも、日常茶飯に感じてはいるが、慣れっこになっているというところだろう。同じ場所にあっても、首都高○○料金所は料金所、○○町が持つ町の雰囲気とは別物であると割り切って考えていると思う。この時、地名は記号でしかない。
 しかし、小さな地方都市住んでいる者にとっては、その土地で知らないところはない。全体把握していて当たり前。そうしたテリトリー意識の中で、突如、都会的な齟齬を突きつけられたという感覚なのである。
 つまり、我々田舎者は、土地と切り離す作業に慣れていない。心の中で、記号にしないでおこうと努力し始めてしまうようなのである。

 

(オマケ。愚妻に、今、山側環状論を書いたから、変な箇所がないか読んでくれないかと頼んだら、カンジョウ論でものを書いてはいけないと注意された。)

 2006年04月19日
  やっぱり

 とはいうものの、ここ数日、飲まなかったら、やっぱり、かなり痛いです(汗)。
 休日、遊びの時だけ飲んで元気に動きまわり、平日、仕事の時は飲まずに痛がって、そろそろ歩きというのも、社会人としてはちょっと問題?
 よたよたしている姿を知っている人が、この日記読んだら、おいおい、あちこち出歩いて、なんだ元気じゃないかと思われること必定。

 

 2006年04月18日
  (つづき)「白籏史朗の世界展 日本と世界の名峰を讃う」を観る

 ミュゼふくおかカメラ館は、安藤忠雄設計の、そう大きくはないコンクリート打ちっ放しの建物である。二階から階下へスロープ状に降りていくところがメインの展示場所になっていて、そこが設計上ユニークなところ。岸渡川の日本的な景色とモダンな建物とが対照的で、ちょっとミスマッチ的にいい雰囲気である。すぐ近くには旧北国街道の古い町並みも残っていて、そこの散策も気分が落ち着く。
  開館時、荒木経惟の顔写「富山の女性101人」展に行って以来、年に数度訪れるお気に入りの美術館である。ここで、木村伊兵衛の主要作、竹内敏信の桜、岩合光昭の動物など、有名どころの作品を多数観てきた。
 春の企画展は、山岳写真で著名な白籏史朗の世界展。
 一巡、峻険な山々の雄姿が圧倒的であった。彼の写真は雑誌などでよく見かけるが、小さな印刷物では味わえない全判印画紙の大画面の迫力は筆舌に尽くしがたい。外国ではヨーロッパアルプスとアジアのヒマラヤ、日本では北と南アルプスが中心だったが、やはり外国の写真のほうに、彼の個性とアドバンテージを感じる。日本のほうは、他の人でも代わりがいるような絵柄が多かったように感じた。
 一、八千メートル級の山々を渡り歩く登山家としての資質と、二、大判の機材を運ぶ屈強な体力、三、失敗が許されない一発写真での計算された芸術的センス、四、経験と知識に裏打ちされた高度な撮影知識。これらがすべて備わっていないと優れた山の写真は成立しない。
 写真を見ると、常にその写真がどんな努力の末になった一枚かに思いがいく。誰の眼にも、彼の写真は努力の賜物であることがわかる。
 私はもう山歩きは無理だろう。下界では絶対味わえない景色を、彼が天上から切り取って持ってきてくれた、そんな感じに私の目には映った。
 ここ二年間、仕事場と家との往復が精一杯だった。しかし、ようやく少しは生活に彩りが戻ってきた。今日、こうして他県にも出かけることも出来た。

 「貴方の方から舟に乗ろうと言い出すなんて驚いたわ。」と愚妻。そう。ただ、痛み止めのお陰というところがある。次回の遠出では、薬を飲まずに動いてみようというのが当面の目標になった。

 2006年04月16日
   県外へ〜岸渡川の桜を堪能する

 どんどん行動範囲を広げようという目標を立てて、まず行こうと思ったのが、隣の富山県福岡町。ここには「ミュゼふくおかカメラ館」がある。館前の小川に桜の木が植わっていたように記憶していたので、行くのならこの時期がいいと、不安定な天気ながら出かけた。
 県を越えたのは二年半ぶりである。痛み止めを飲んで、行きは運転、帰りは助手席。横になりたくなった時のためにブランケットも持参。難儀な体になってしまったものである。高速道路の運転にいたっては三年ぶりで、最初、慣れなくて、時速八十キロでもおっかなびっくりであった。
 到着すると、「さくらまつり」の横断幕が眼に入る。今日、偶然に町内のお祭りをしていて、色々なイベントをしていた。その上、桜は満開。思っていた以上の本数が、岸渡川を覆うように咲き誇り、見事の一言だった。後で調べると、ここは、「桜の名所七〇〇」にも選ばれている桜の名所だという。何も知らず訪れた私にとっては嬉しい誤算だった。写真を撮ったり、休憩の白テントで軽くアルコールを嗜んだり、小舟に乗ってしばし桜の下の川下りをしたりして楽しんだ。今年はもうダメかもしれないと思っていただけに、小さな幸せを感じる。
 ただ、残念だったのは、めったに見ることができないお神楽が、突然の雨で中断してしまったこと。せっかく準備して踊り始めたばかりだったので、お気の毒としかいいようがなかった。
 この町は、近年、カメラ館を核に、写真による町おこしをやっていた。鯉の養殖は夙に有名で、桜も見事。しかし、昨年、高岡市に併入されてしまった。
 行く前に、美味しい食事処でもないかと「福岡町」でネット検索したのだが、町役場の観光案内サイトは閉鎖されていた。合併して、もう町として単独で情報発信ができなくなったということだろう。ではと、高岡市のサイトを見たが、福岡町のことはほとんど触れられていない……。情報が減って、ちょっと中途半端な状態になっていた。
 こうして、小さな町ならではの文化に触れるにつけ、この地域の独自性がなし崩し的に埋もれていくのではないかと、他県のことながら、ちょっと心配になった。(つづく)

 

 2006年04月14日
  思わぬ余波
 金沢では桜が満開となった。ところが、ここのところ、風の強く肌寒い真冬のような日に逆戻り。オマケに明日明後日の休日もぐずつきぎみの予報とあって、ゆっくりお花見は出来そうもない。
 立派な故障中年になって、あと桜何回見られるのだろう、二十回くらいかとカウントダウンモードに入っている身としては、何だか一回損した感じである。
 今日、愚妻は職場の歓迎会。駅前まで送るため、犀川河畔を通ったが、案の定、花見の宴を催しているグループはほとんどいなかった。そのかわり、おそらく繁華街での飲み会に変更したのだろう、中心部の混雑は大変なものだった。
 戻る途中、遠回りをし、どこか入ったことのない店で外食をと思っていたのだが、大渋滞でそれどころではなくなり、いつものルートで自宅付近まで戻ってきてしまった。そこで、いつもの回転寿司屋に行くことに。
 ところが、人気店にもかかわらず、客が一組しかいない。ほどなく、私一人だけに……。
 年度当初のウィークエンド、桜も満開。どうも、今日は宴会だらけで、郊外のこうしたお店は閑古鳥が鳴いているのであった。
 ちょっと水を向けると、板さんは、「こんなことは前代未聞です。」と洩らしていた。従業員五人、全員、手持ちぶさたにしている。どんどん注文して下さい、握りますからとさかんに勧めるのだが、どうも、こっちの間が持たなくて、廻っているのを食べて、新しい客が入ってきたのを潮時に、さっさと出てきた。
 そういえば、例年なら夜桜客で賑わう兼六園の緋毛氈の休憩所も当てが外れてがっかりしているだろう。商売は本当に時候次第。
 この天気、私は余生の感慨として恨めしかったのだが、経営者にとっては、もっと、直裁的に死活問題として恨めしいだろう。
 「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」とは、現代では、市場経済論理についての真理であるようだ。
 2006年04月13日
   「よみがえる源氏物語絵巻展ー平成復元絵巻のすべてー」を観る

 話は後先になったが、園遊会を観に行った前日、現存する源氏物語絵巻十九図を当時のままの色彩に復元した模写絵の展覧会(主催NHK金沢放送局他)を観に行った。所謂、デパートの客寄せ催事である。
 この復元プロジェクトは、NHKがシリーズ番組化しており、私も幾つかは観た覚えがある。そうした宣伝宜しきを得て、ごった返していた。
 完成した模写が退色激しい現状の絵図(写真複製)と並べて展示してあるので、比較する楽しみがある。特に群青色だったところがシルバーに退色して、色味の印象を大きく変えていることがわかる。
 模写絵は、墨の線描に赤青緑の原色が眼に飛び込んできて派手派手しい印象。やはり、新しいというだけで浅薄に見えてしまう宿命があって、原図の古びて褐色に変じた色合いも、経年の深みのようなものが感じられて好ましい。
 しかし、「蓬生」のように、傷みが激しく、構図の真ん中に何が描かれていたのかよくわからないくらいになっているものは、緑青色に草々が描き込まれることで、初めてその全貌がわかり、復元の意義をはっきり感ずる。
 帖の順番に並んでいるので、物語後半、世代交代後ばかりで、「須磨」「明石」以前が残っていないことを改めて知る。光源氏の華麗な女遍歴に名を残す姫君たちはどのように描かれていたのだろうか。ちょっと想像するだけで楽しい。例えば、夕顔との一夜、どう描いてあったのだろう?
 私は、四半世紀前に、上野毛の五島美術館で本物を観ている。確か、あの時も大変な混雑で、頭の間に私の頭をねじ入れて観た覚えがあるので、改めてこの作品の人気ぶりを感じる。
 客の様子を窺うと、描かれている登場人物たちがどんな関係なのか、大書された人物関係図で確認している人が多い。勉強熱心だなと最初は感心していたのだが、途中から、ちょっと、あれれと思い直した。
 例えば、親が子供に熱心に解説しているのはいいのだけれど、絵横の解説に書いてある「牛車(ぎっしゃ)」(御所車のこと)を「ぎゅうしゃ」といったり、「簀(す)の子」(寝殿造りの縁側のこと)が読めなかったり、「五島(ごとう)美術館」を「ごしま」と読んだり、端から聞いていると、間違い知識があちこで飛び交っている。これには、ちょっと困った。いかにも教養ありげな老婦人まで平然と「ぎゅうしゃ」と言っている……。そのたびに、私は田圃で牛を荷車に繋いで働かしている農村風景が目に浮かぶ。
 ちょっと、古典教育の怠慢である。もっと国語の先生に頑張ってもらわないと困る。(と力んだところで、天に唾しているだけだが……)
 ところで、私はと言えば、「閼伽棚(あかだな)」が描かれているのを見つけて、ちょっと嬉しかった。教科書に出てきて、縁の外に立っている仏具などを置く棚のことだと教えはするのだが、絵の中で、女房がその前で何か用をしようとしている場面があり、それで、生活の中で、よく使われている様子が実感的に理解できた。こっちの心のもちようだが、以後、自信を持って生徒に話すことが出来る。
 ただ、あれが、なぜ、あんな外みたいなところに設置されているのかは、未だにちょっと理解出来ていない……。なぜだろう。
 もうひとつ、我々の商売道具「国語便覧」に小さく写真が出ていた、四季を模した源氏の大邸宅、六条院の復元模型(中部大学池研究室)が出展されていたのも儲けものだった。田型で、北(冬)の町(明石の上)だけ曲水のない破格の造りになっていることを発見し、興味深かった。

 一人でこのデパートにきたのは何年ぶりだろう。高級服飾には興味がなく、「デパ地下」ならと下りたが、惣菜を選ぶ気力が湧かなかった。立ちっぱなしで辛くなり、無駄な労力使うより早く帰ろうという気ばかりが先に立つ。昔なら、なにか美味しいものを買って帰ろうと楽しくうろついていたから、やっぱり、まだまだである。
 翌日は元気にうごいたのだから、一人がいけなかったのかもしれない。

 

 2006年04月11日
   浅の川園遊会を見に行く

 春のイベントとして市民に定着してきた浅の川園遊会。もう二十年目を迎えるという。私の学生時代にはなかった行事で、新年度の忙しい最中にあることもあり、ニュースで見知っている程度。じっくり見てまわったのは、四年前が初めてだった。その時は、銀塩カメラが片手にあった。
 金沢は、犀川文化と浅野川文化と大きく二つに分かれる。犀川より南に住まいする我々にとっては、地元のお祭りという感じはしない。出し物のアナウンスを聞いても浅野川界隈の校下がほとんど。だから、逆にお出かけ感が出てよいとも言える。
 先に書いた通り、今年はどんどん外に出ようというということで、被写体狙いで、デジタル一眼レフを買った時から行くつもりでいた。九日日曜日。お天気も上々。
  大通りの方は歩行者天国になっており、色々なパフォーマンスが繰り広げられている。子供梯子登りの育成をしているという話は、ずっと前にテレビでやっていて知っていたが、見るのは今回が初めて。命綱の差し方を忘れて、あっちの踏み木、こっちの踏み木と差しなおしている様子が、微笑ましい。みんな、じっと待っていてくれている。
 その観客の横を、茶屋のお姉さん方とおぼしき粋筋の女性たちが通っていく。夫婦共々、その美しさに見とれる。全然、世界が違う。
 一通り冷やかしてから、見物客で鈴なりの河川敷に移動する。川の中央にしつらえられた浮き舞台を右岸後方から見る。東や主計町の芸妓による日舞が艶やかである。これまで、興味をもって見たことはなかったが、踊り手の和服の色まで寒色暖色案配されていて、日本の伝統美を感ずる。表情にも無駄がない。望遠レンズで眺めているからこそ判る美しさ。私も、こうしたもののよさがわかる年齢になってきたのかもしれない。
 例年通り、滝の白糸の水藝がクライマックスである。横から見ているので、最初、黒子が女太夫にビニールチューブを取り付けているのが見える。昔はどうしていたのだろう。
 もちろん、これは、泉鏡花『義血侠血』に因んでいる。小説では、当時の様子を、以下のように描いている。

 

 金沢なる浅野川の磧(かわら)は、宵々ごとに納涼の人出のために熱了せられぬ。この節を機として、諸国より入り込みたる野師らは、磧も狭しと見世物小屋を掛け聯ねて、猿芝居、娘軽業、山雀(やまがら)の芸当、剣の刃渡り、活き人形、名所の覗き機関(からくり)、電気手品、盲人相撲、評判の大蛇、天狗の骸骨、手なし娘、子供の玉乗りなどいちいち数うるに遑(いとま)あらず。
 なかんずく大評判、大当たりは、滝の白糸が水芸なり。太夫滝の白糸は妙齢一八、九の別品にて、その技芸は容色と相称(あいかな)いて、市中の人気山のごとし。されば他はみな晩景の開場なるにかかわらず、これのみひとり昼夜二回の興行ともに、その大入りは永当(えいとう)たり。

 

 「野師」は、普通、香具師と書く。てきやのこと。「永当」は、人気が衰えないさま。怪しげな出し物が河原に軒を連ね、大繁盛していた様子が窺われる。
 昔、この辺りが金沢一の栄えたところだったという話は、子供の頃、よく祖母に聞かされていた。今、マンションが林立している左岸には、芝居小屋が立ち並んでいたそうで、私の高校生の頃まで、そこは映画館となってわずかに命脈を保っていた。その映画館が潰れた段階で、あの辺りは完全に市民の遊興の場ではなくなっていた。
 この園遊会という優雅な名前のイベント、だから、地域の復活をかけた、一種の賑わい創出事業なのである。
 野々市に椿があるように、ここにも、京都を模した金沢東山文化がある。今回、武蔵が辻交差点から歩いて行ったのだが、尾張町から橋場町、東山の大通り一帯は、今でも古風な店構えの専門店がご商売を続けている。観光地区の茶屋街だけでなく、それを取り巻くそうした古いお店の佇まいの総体が、金沢の町の落ち着きを作り出していることに気づく。郭だけ古くて周囲はビル乱立では、白けるだけである。
  金沢を旅して、よかった、落ち着いたいい町だと言って下さるのは、そうした保護や助成を受けているわけでもない周囲の地域住民の意識の高さにあるように思う。そうした気持ちを高める上でも、このイベントは意味のあるものだと思った。

 

 お花見散らし弁当を購い、夫婦でコップ酒一杯を分け合って飲みながら、河川敷で華の舞台を眺める。コンクリに直座りで腰が痛いのは如何ともしがたいが、例年よりちょっと遅い三分咲きの桜を愛でながら、春を満喫した一日だった。
 今年、満開あたりで、もう一度、花見がしたいものだ。ウイークエンドまで保つか、気温の推移が気になる今週である。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2006年04月09日
  浅の川園遊会

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

   (pentax*ist-dl2 tamuron28-200mm)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 2006年04月08日
   部の顧問を続けることに

 弓道の専門家でもない者が、高校弓道にかかわって二十年になる。しかし、腰を悪くして、県外引率業務などに支障が出ていた。正顧問のサポートができていない。その上、今年、熱心にやってくれたOBのコーチが就職で去り、正顧問は受験学年担当で忙しくなる。
 新年度の人事で、担当セクションから、こういうことは次に受け渡していくことが大事だ、そろそろ籍を譲ってはどうかという話があった。貴方のためには閑職が用意されている。副顧問は、今年度来られた顧問経験者に託すという。
 前任校に異動した際、空きの補充で弓道部を引き受けて以来、長年にわたり顧問として生徒たちの色々なドラマを見つづけてきた。専門でなくても、人間、費やした時間に比例して思いは深くなるものである。
 今の今まで、異動でこの部とお別れするものだとばかり思っていた。不意をつかれた格好で、私はかなり動揺した。
 だが、状況的には、それが正しい判断である。
 私は気持ちを整理し、翌日からはすっきりとそのつもりでいたのだが、その後、色々な動きがあって、結局、今年、三人目として続けることになった。
 おそらく、私がみっともない様子を見せてしまったこともあると思う。最後の方は、私が翻意するのが妥当というような流れになった。なんだが私の処遇のことで、各方面にご迷惑をかけ、申し訳なく恥ずかしい限りである。そもそも、今年、指導に問題が出ることは前から判っていたのだから、私が居残った段階で、どうしたらよいか言い出すべきであった。本当にあんぽんたんである。
 先の日記に、この時期は「個人的な思いがふあっと表に出て」と書いたばかりだったのだけれど、そんな他人事ではなく、思いがどっと出て、ぐらぐらしたのは当の私自身ということだった……。

(ペンタックス*istDL2 タムロン28〜200mm)

 2006年04月07日
  「操体法」初経験

 先日、振替休日で平日が休みになった。この仕事でめったにないことである。
  いつもいくジムでは、プールと機械ばかりで、夜のスタジオプログラムは、エアロビやジャズダンスなど私には無理なものばかりだった。
 この日、午前中に、体のバランスを整える痛みのある人向きの「操体法」というプログラムがあって、以前から気になっていたので、初参加した。実は、スタジオデビューである。
 予約が必要なほどの人気メニューで、参加者は高齢のご婦人ばかり。男性は六十がらみの方がもう一人いるだけだった。ご婦人方に隅を陣取られ、中央最前列、インストラクターの真ん前に座って、目の前の全面鏡を見た段階で、もう異様に浮いていることに気づいた。このご主人、まだお若いのに、なんでこんな真っ昼間、ここにいるのかしら?という視線。
 無理して曲げるのではなく、左右どちらかやりやすい方だけすればよい、違和感のあるほうはしなくていいのですというのが基本的なスタンス。人間の基本的な動きを、ゆっくり体の左右を意識しながらしているだけで、エキササイズの中でもっとも運動量のない部類である。でも、それなりに腰は使っていて、腰に優しく、且つ有効そうだ。ちょっといいかもしれない。
 眠くなった人は寝てもかまいませんといっていたが、本当に、うつ伏せになって足を腰のほうにあげるイモリのような姿勢などをこなしていると眠たくなってきて、「体を起こして。」という指示に従うのが面倒くさくなってくる。間合いも異常に長い。本当にゆっくりとしている。
 とろんとしながら終わり、誰もいない風呂に入る。ちょっとぬるいが、昼なので、お湯がきれいなのがいい。ちゃぽちゃぽという水の音だけが聞こえ、かすかに幼児プールプログラムの黄色い声が聞こえてくる。
 長々湯船につかっていると、毒素が抜けていくような気がする。ああ、こんな感じ、一週間に一度くらい実感できたら、体に優しいなあ、ストレスなくなるだろうなあとぼんやり思う。
 なんだか、このまま、毎日、昼風呂に入っていたいという欲望に駆られたが、もし本当に実行したら、間違いなく馘首である。

 

 2006年04月06日
  (つづき) 金沢文藝館訪問記

 橋場町交差点の角地、古い銀行の建物を改装して先秋オープンした地元文学愛好家のサロンを目的にした文藝のための交流館である(金沢市尾張町一ー七ー一〇)。市街の主要交差点なので、車ではよく前を通るが、ここも駐車場がなく素通りが続いていた。よし行くぞと思っても、公共交通機関に頼らないと行けないのが致命的。典型的車社会の金沢で、ふらっと立ち寄れないというのは、地元民向けの施設として、ちょっともったいない。
 建物は昭和初期の浪漫溢れるレトロな造り。一階は喫茶店風にしつらえてあり、交流の場。二階は五木寛之文庫、三階は、鏡花賞と地元出版物関連の図書室からなっている。
 旧知の館長さんのお話によれば、入場料百円、別注文のコーヒー百円で、ゆったり本が読めるので、本当に喫茶店がわりに使ってほしいとのこと。
 五木文庫の展示の説明をサポートスタッフから受ける。週刊誌連載のエッセイのゲラを拡大したものに、ぎっしり書き込みが入っている。かなり大幅な手直しを編集者との間で繰り返している。小説や単行本収録の際ならともかく、日々の週刊誌掲載レベルで、こうした緻密なやりとりをしているとは思わなかった。書きなぐって、あとはお任せくらいに思っていた。彼の疾走感あるエッセイの秘密は、こんなところにあるのかもしれない。
 読みやすい文章を書くのに、どれだけ時間と労力がかかるかは、私自身よく判っているつもりだったが、なんだか、ベテランは別だと思っていたのである。展示のレイアウトにも、五木自身の意見がかなり入ってるそうだ。
 金沢は、中心部に玉川図書館、県立図書館。南部に泉野図書館があるが、北部に大きな施設はない。そうした北部地区の身近な文芸図書館として利用されるようになるとよいと思う。ただ、今はまだ本がなくて、一階書棚はダミーの箱だけが飾ってあるんだよと、こっそり館長さんが教えてくれた。ほんとだ。映画のセットみたいである。
 これまで、ちょっとした文学の催し物をするにしても、会場探しからせねばならなかった。それが、これからはここを根城にできる。作品を通じてお名前を存じ上げているだけの方(業界の有名人?)と直接交流できるチャンスも広がるだろう。
  コーヒーを戴きながら、私も、考えていた隆盛のためのアイデアを提案した。ホームページやブログも先日立ち上がったし、今、サポートスタッフさんたちがいろいろ知恵を絞っているとのことであった。
 市南部の人間には使いにくいというのが、正直なところだが、今後の地元文藝の発信地になるよう祈りたい。
 館長さんから名刺タイプの図書カードをもらったし、しっかりお先棒担いでPRしておきます。
 皆様、多数のご来場をお待ちしております。m(_ _)m(←千円分)


 2006年04月05日
   徳田秋聲記念館訪問記

 徳田秋聲記念館(金沢市東山一ー一九ー一)は、浅野川梅の橋たもと、料亭焼失の跡地に、昨年春、新しく開館した市の施設。
 招待券を入手したので、それを縁に、先日、バスで赴く。市街地の施設にありがちだが、駐車場がないのが不便である。

 徳田秋聲は、同郷の泉鏡花の縁で紅葉門下となるが、鏡花と較べて師の影響は少なく、後、独歩ほかの初期自然主義の影響を受けて、自然主義作家として大成する。当時は文壇の重鎮扱いされ、重きをなしたが、作風が地味で、現在、読者はそう多くはない。市が、犀星・鏡花と同様、独立して一館を造ると聞いた時、その集客力に一抹の不安がよぎった。
 実際、行った日は、春の祭日だったにもかかわらず、ほとんど誰もいなかった。近くの東の郭界隈があれだけ観光客を集めているので、その一部でも、どう誘導するかが大きな課題となるだろう。
 一階は、自伝的小説『光を追うて』(新潮社 昭一四)を紹介する形で、作家の生涯を紹介している。奥に、人形と映像による作品の女主人公の紹介、現存する本郷の住居の書斎の再現。二階は、原稿や書籍の展示するオーソドックスなコーナー。
 おそらく、入館者のほとんどが作品を読んだことがない人のはずである。まず、作品より、その人の人生を紹介するこの方法は正しいように思う。(ただ、身内の死、三十歳年下の後妻との短い結婚以外、波瀾万丈でもなく、そうした意味で、下世話な興味を惹きつけるということはあまりなさそうだ。)
 自動人形を使っての作品紹介が一番ビジュアルな展示で、よくできていた。それでレクチャーを受け後、二階の展示室を見て回ったが、どこかに個々の代表作を紹介する展示コーナーがあってもよかったような気がした。おそらく、それは企画展のテーマとして、小出しにしていく心算なのだろう。そうしないと、こうした一人の作家にスポットをあてた館の企画は、早晩、行き詰まる。しかし、県外客が何度も足を運ぶといった施設でもないので、簡単でよいからそうした紹介スペースがあればよかった。この点、ご考慮願いたい。
 ナレーションの中に、「蛇のようにうねっている川面の光」というような秋聲の表現を引用していた。一聴、巧い比喩だと感心した。しっかり彼の文章読むと、そうした発見が沢山あるのではないか。地元民として、よい読者でないことを恥じるばかりである。
 この記念館、二階から見える浅野川梅の橋の景観が素晴らしい。それを眺めるだけでも来館の価値はある。
 この日、続けて、金沢文藝館にも行った。(つづく)

 

(追記 駐車場がないということだったが、現地に行くと2台の駐車スペースが確保されていた。後になって、その旨、記念館のWEBサイトにも朱書きで案内された。)
 

 

(梅の橋から下流を臨む)

 

 2006年04月03日
  父の手術

 八十歳に手の届く老父が先月末に入院手術をした。口腔から管を入れ病巣を切除する一時間ほどの手術と聞かされていたが、三時間近くかかった。術部の下に血管があり、その処理に時間がかかったという。
 病室に戻ってしばらくして、患者は吐瀉し、母が慌ててナースを呼び、医師、看護師三人が大騒ぎで処置をするという場面が目の前で展開された。すぐに小康を得たが、この日、職場の送別会があり、時間が迫っていたので、キャンセルしようかと迷う。ここ二年欠席しているので、人並みをアピールするには出てておいたほうがよいに違いない。
 結局、出席し、父のその後の経過も良好で、何の問題も起きなかったが、もしもという事態になっていたら、後悔することになった行動である。その時々の判断が正しかったかは結果次第ということころがあり、難しいものである。
 職場から鼻先の病院なので、昼休みを利用して見舞いに行くことができる。異動がなかった利点である。日頃は、思い出したようにしか実家にいかず、こんな時だけ、とってつけたように親孝行である。

(手術室前の椅子で3時間待っていた。)

 2006年04月01日
  人の気持ち

 三月末、異動の騒ぎが一段落すると、内部人事の話題が風のように駆け抜ける。それも、月末には知れ渡り、ああ、もう来年まで楽しみがなくなったなんて漏らす不謹慎な輩も出る始末。今日、年度初日には、何事もなかったかのように、新しい人員を迎え入れる。毎年繰り返される組織の風景である。
 一年間の仕事分担が話し合われるので、日頃、親しく接している同僚同士でも、時にちょっとした駆け引きがある。ちょっと重苦しい気持ちになる日である。でも、それも一時。次の日からは、何事もなかったかのように、スタートの準備に忙しく立ち働くこととなる。
 離任式、全体送別会、科内歓送会。
 泣いたり、不満だったり、内心喜んだり。
 ビジネスライクな組織の中で、個人的な思いがふあっと表に出て、また消えていく……。そんな一週間である。
 私は、今年度も図書室の片隅に配置されることとなった。去年と似た話題が繰り返されると思うが、宜しくお付き合い願いたい。

 

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お願い

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