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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2006年07月01日
  夜の病院
 老父が退院して実家に戻った。内蔵手術自体の回復は順調だったが、年来の膝痛持ち。年を追う毎に足腰が弱っていた上に、立て続けの手術で、ベットの上が長期になって、歩行が不安定になっていた。
 病院は、術後経過こそ心配してくれるが、運動能力低下はフォローしてくれない。入院中、特にプログラムが組まれている訳でもない。「手術成功して寝たきりになって戻ってきました」なんてことにならないよう本人が頑張るしかない。
 そこで私は、見舞いに行くと、父の歩行訓練の手引きをすることになった。
 最初は病室の階をぐるぐると。最後の方は一階ロビーや外来にも足を伸ばした。
 昼間多くの人が行き来し、職員が立ち働いている一階も、夜は静まりかえり、闇の中に緑の非常灯が床を照らしてる。その落差が、ちょっと病棟とは違う雰囲気を醸し出している。
 そんな中、声の大きな二人が雑談しながらゆっくりゆっくり歩く。十分毎に待合い椅子で一休みの繰り返し。
 先日、ロビーの吹き抜けに巨大な七夕飾りが出現した。横を通った時、明かりにかざして願いごとの短冊を読んでみる。多くは患者の書いたものだが、一つ、「ノー残業デイの実施と給料アップを。それに患者さんのご快復を。」というのがあって、いずこも同じと笑った。書き手はまず看護士さんである。そんなの見つけたと父に報告。
 たわいのない一休みの会話。
 でも、こんな暗い誰もいないロビーに親子が座って、ゆっくり雑談する。ずっと覚えている光景のような気がする。
 点滴だけで栄養をとっていた要安静の頃は、会話が噛み合わなかったり要領を得なかったりして、ボケを心配したが、長時間座ることができるようになり、軟飯に戻ったころからは、理屈も整ってきて、普通になってきた。
 健常者でも、横になっているとぼんやりしてくるもの。脳は真っ直ぐにしていて、はじめて動き出す。そうした姿勢の問題と、お腹が減ると力がでないのと同様、脳も栄養が足りないと動いてくれないのだろう。
 人間の体はなんと即物的なことよ。回復の様子を観察してそう思ったと、退院間際、本人に話したら、「そうか? 最初、そんなにぼけていたっけなあ。」と、ちょっと不服そうであった。
 まあ、当人からすればそんなものなのかもしれない。もちろん、その方が幸福にちがいない。
 2006年06月28日
  花を撮る

 五月六月は花の季節。和もの洋もの色とりどりの色彩が、無機的な街に映えている。
 五月中旬、造成中の大乗寺丘陵総合公園に、初めてツツジを見に行った。今後、新名所になりそうな見事な花の絨毯だった。
 六月上旬、今度は富樫薔薇園が見頃ということで、日曜六時、カメラ持参で行ってきた。どちらもご近所。こちらのほうは毎年欠かさず訪れている。早朝にもかかわらず、散歩の人やアマチュア写真家で混雑している。花を観るなら朝の気持ちよい空気の中で……。考えることは皆一緒である。
 たっぷりシャッター押して、近くの朝開けのパン屋さんで焼きたてパンを購い、シンプルな朝餉としたが、なにかゆったりした気分の朝になった。
 先の日曜日は、卯辰山中腹の菖蒲園へ向かう。先週、愚妻と母が立ち寄って、今週が見頃と勧めてくれたのである。どうやら数日前が盛りだったようで、少し弱り気味の花が多かった。大勢の人が訪れていて、小さな駐車場は車がひっきりなしに出入りしていた。思ったよりカメラマンが少なかったが、本当にいい絵を狙っている人は、もうとっくに訪れているからだろう。  
 菖蒲は、一つの花のように見えるが、どうやら三つの花で構成されているようだ。それぞれ寝ている花弁、ピンと立っている小さな花弁があり、立っている花弁が腰砕けになっているのが盛りが過ぎたもののようだ。紫の花弁の根元にのぞく黄色の筋目が印象的なアクセントになっている。
 こうしてデジタル一眼レフを使い始めて、カメラとしての性能が良くなっていることに驚く。こっちの作図意図をしっかり読んで設定を変えてくれる。

 例えば、薄暗いお店のランプを撮ると、光源が画面にはいるので、そこだけ明るく、あとは真っ黒という絵になるのが普通なのに、店の雰囲気もちゃんと写って、いい具合に調光してくれる。
 花にレンズを向けると、さっとマクロモードに移行し、絞りを開け気味にする。それも、適度に絞ってくれて、薄くワンポイントだけピントがあって、花全体はボケボケという失敗を防いでくれる。下手に絞りを自分で決めたショットより余程出来がいいのが、ちょっと情けない。

 

 観光客とおぼしきお嬢さんたちが、八つ橋を渡りながら、「こんなに群生している中を歩くなんて生まれて初めて。なんか優雅な気分になるわね。」とはしゃいでいた。にこにこしながら、記念撮影。
 そんな感動の言葉を横で聞くのが、一番気持ちがいい。
 金沢へ来た人のブログを読んでいて、いいところだと感心してくれているのを読むとちょっと嬉しくなる。それとよく似ている。

 2006年06月27日
  難関大学補講

 実績をあげるには、能力の高いものを叩くのが一番ということで、上位者向き補講が始まった。これまでは出来ない者向け補講ばかりだったので、新たな試みである。
  京大など、入試条項からして、高校の教育課程をはみ出すレベルを出しますよと明記してあるそうだ。真面目に授業を聞いていたレベルでは太刀打ち出来ない。
 以前、古い問題を見てみたら、永井荷風についての論文が出ていた。出題は、永井荷風がどんな人物であるか、最低、「新潮文学アルバム」程度の人物知識があり、いくつかの作品を読んで、彼の文学的傾向を知っていることが前提になっている。つまり、短大国文科出身レベルの基礎知識が必要ということ。近代文学史はセンター入試にでないからと、作家名と作品名を覚えておけといった程度しかやっていない生徒達にはちんぷんかんぷん。難しいはずである。
 今のところ、標準問題をやっている。生徒に当てながら答えを聞いていくのたが、驚くほど高い正解率で、ねちっこい枝葉末節問題までよく出来ている。
 日々夢中遊泳の生徒を現(うつつ)に引き戻すのに忙しい授業に較べて、雲泥の差。
 いやあ、日頃の授業でもこうだといいんだが。

 

 2006年06月24日
  金沢のラーメン戦争

  私が子供の頃、八番ラーメンというラーメン店が片町の裏通りに出来て大人気となった。もともとは国道八号線沿いの店が発祥の、野菜たっぷりサッポロ系で、店屋物のシンプルな中華ソバしか知らなかった金沢人に受けて、まさに席巻という言葉がぴったりなくらい市内にお店を展開した。今もファミリーレストラン的形態ではびこっていて、値段も安く、子供連れの家族がラーメン屋に行くといえばまずここである。
 そんな無風地帯にも、近年、大都市圏で名を上げた店がどんどん上陸してくるようになった。しかし、数年で潰れていく店も多い。金沢の人は物見高いので、最初はどっと繰り出すのだが、後は閑散としている場合が多く、飲食業界では難しい土地柄として有名らしい。あるブログで、金沢の子供は、この店でラーメンを覚えたので、なんだかんだ言っても、この店の味に還っていくからではないかという分析をしていたが、成る程と思わないことはなかった。
 ここのところ、「外出しようプチグルメ」シリーズということで、金沢南部のラーメン屋さんに軒並み入って味見している。十軒は新規開拓した。
 そこで、感想を。
 正直、ほとんどのお店、感心しなかった。
 まず、どの店も味付けが濃すぎる。金沢の薄味文化の味覚に合わない。それに汁の風味があくどい。ここは、ぷうんとわざとらしい鰹風味、ここは、ねっとりしすぎのとんこつ。麺も、ここは無理矢理縮れさせた感じ、ここはいくら何でも異常にかたい、ここは何でこんなに細いんだ、素麺じゃないんだから……。
 特色を出そうという努力が見え見えで、これでもかという自己主張。よくいえば、「こだわり」なのだろうが、麺と汁とで出来ているだけのシンプルな食べ物にやりすぎである。つまり、B級グルメが過熱すると、手のこんだ日本料理やフランス料理と違って努力のしどころがなく、こんなことになるのだろう。
 夫婦で麺をすすりながら、どう、ここのラーメン? うん、マズくはないよね。まあ、ラーメンだよね。という意味のない会話が何度も繰り返された。
 それに、ちょっと、全体的に割高である。同じ料金出すなら美味しい定食屋さんに行ったほうがいい。
 いくら行列のできる大人気のお店の系統を引くと箔を付けても、これでは潰れるわけである。
 ただ、薄味の金沢だけの状況かと思っていたら、先日、東京の落語家さんが新聞で同じような不満を書いていた。きつい味付けでインパクトを狙っているだけだと言うのである。
 それを若者が感じているかどうか。そんなものとして受け入れてしまっているのではないか。
 結論。現代の食文化はなんだか病的である。今に、ガツンとこなければ美味しくないなどとのたまう輩が大量発生するのではないか。世の中、文字文化は確実に崩壊しつつあるけれど、大盛況の食文化も先行き怪しいものだ。

(写真は、若者に人気で、都会から出店してきたお店の叉焼ラーメン)

 2006年06月22日
   半藤一利 『昭和史 戦後編』(平凡社)を読む
 その昔、『漱石先生ぞな、もし』(文藝春秋社)で初めて名を知った。だから、私は、漱石の孫を嫁さんにした人というイメージが先で、あとから、「文藝春秋」の名うての編集長(後に取締役)で、『日本で一番長い日』(文藝春秋社)などの著書があるという認識がついてきた。   
 この本、日本の降伏から七十年代初頭までを語りおろした戦後史である。特に、降伏以降の国体護持への模索、GHQの占領政策とその後の大転換などが詳細に語られている。反面、昭和三十年代以降は、「超」がつくくらい駆け足で進む。
 終戦直後の話については、若い頃、色々、戦後秘話を読んだので、知っている事実も多かった。特にこの本では書名を明記していないが、連合軍側で活躍し、後、同志社大の教師となったオーティス・ケーリの著作などが思い出された。
 しかし、沖縄を基地にすることで安全保障の解決をはかるという案を天皇が連合軍に伝え、それがそのまま通ってしまったので、天皇の沖縄に対する思いが、単に銃撃戦の場となって迷惑をかけたということ以上のものがあったのだという話は完全に初耳で、政治に介入したかのごとき動きが意外だった。
 また、保守政治を、吉田茂・池田勇人流の「軽武装、経済第一」派と、岸信介らの「改憲、再軍備」派とに交通整理して、保守指導者層の振り子的な揺り戻し政治の状況を上手く説明してあって、すっきり判った。吉田茂から鳩山一郎へと続く保守の離散集合劇は、これまで年表で知るばかりで、あまり詳しくなかったので、勉強になった。
 逆に、昭和三十年代中盤以降の話は、同時代を経験しているためか、全然、物足りなかった。全般的に、政府・与党の動きばかりで、野党の記述があまりに簡略にすぎる。ベトナム戦争との関係も、少し触れた程度で、もっと分析してほしかった。総じて、全共闘世代、後の団塊の世代については、半藤はもっと上の世代なので、文化の差を感じ、大まかに祖述しただけで終わっているように思える。
 この本を読んで、自分の戦後史の知識が、知っている時期と知らない時期、結構、ムラがあることに気づいた。記述が「編年体」だったので、穴が埋まって知識が平準化したことが、私にとってこの読書の利点であった。
 作者は、史実を押さえた上で、その時の文学者やインテリの受け止め方を紹介したり、国民の最大公約数的な受け止め方、国全体を覆う「気分」に立ち戻る。つまり、常に大衆の感情から遊離しないように配慮した書き方がしてあるので、特定の主義主張に誘導されるのではないかという、この種の本にありがちなビクビク感を感ずる必要がなかった。文体も喋り口調で、親しみやすく、安心して読み進めることができた。
 しかし、歴史に無色透明などあり得ない。彼の立場は、敬語や言葉遣いの軽重などから推察して、現天皇制擁護派である。読み進めながら、マスコミの論調的に言えば、なんだか「文藝春秋」路線だなあと思ったけれど、よく考えれば、彼はまさに「文春」の中の人である。途中でそれに心づき、ちょっと笑ってしまった。
 彼は、最後の章で、短く、日本の「今」と「その後」に言及する。今の日本は、経済第一主義の「吉田ドクトリンの分解」がはじまっているという。今後、このまま、従来の「平和的発展路線」「国際協調的非軍事国家」を続けるべく努力するか、「平和主義の不決断と惰弱を精算し、責任ある主体」になる、すなわち、軍事力を持つことで世界に発言力を増し、その分、しっかりと国際的役割を果たす「普通の国」になるかの二者択一に迫られていると結論づけている。
  読書の最後に思う。半藤がいみじくも指摘しているように、日本は国際連盟脱退以来、まともな外交などしたことはない。イニシアティブどころか近隣国の感情お構いなしでやっている鈍感者だ。だからといって、今後もずっとアメリカにオンブにだっこも情けないだろう。そもそも、向こうも、最近は相応の負担をしろと強く言ってきている。ではと、軍事力は持ったが、国際的な駆け引きなどは下手くそのまま。だから、いつまでたっても国際的地位は上がらない。かといって、早々経済のほうもうまくはいかない。結局、どっちつかずで、方向性を失って、たまりにたまったものが、どこかで大爆発するという、いつものパターンの「第三の道」に、性懲りもなく陥る可能性だって低くはないように思う。
 半藤自身は、今の日本に必要なのは、軍事力ではなく、「努力と智恵」を発揮する「マジメさを取り戻せるか」だと言っているのだが……。
 2006年06月19日
  ジュリアード・ジャズ・オーケストラ金沢公演を聴く

 マイナーな音楽ジャズ。その上、学生バンドなのにそれなりのお金をとる。金沢のような地方都市クラスで集客が期待できるのか、他人事ながら心配しつつ、特に行く気のなかったコンサート。しかし、前座に前任校の吹奏楽部が出演する関係で、直前に、関係者割引のチケットが手に入り、急遽、夫婦で行くことにした。
 ジュリアードの優等生ウイントン・マルサリス(tp)が「ジャズ・アット・リンカーンセンター」のシリーズを開催し始めたのは今から二十年以上前のこと。それが、正式に組織として動き出し、二〇〇四年一〇月には、マンハッタン島セントラルパーク端コロンバスサークルにジャズ専用ホール「ジャズ・アット・リンカーンセンター」(タイムワーナー・センター5、6階)も出来た。その模様は、購読している専門誌でも大きく報じられ、ジャズに詳しいDJ小川もこがオープンイベントに参加して撮ってきた写真も、HPで観て、その場の雰囲気を味わった。
 アメリカは、ここのところ自国発祥の音楽を古典藝能として尊重し、保護育成に力を入れはじめている。ちょっと皮肉っぽく言うと、これは、ジャズシーンがかつての勢いをなくして、面白くなくなったのと歩を一にしている。筋金入りのモダンジャズファンから言わせると、ウイントンらが、伝統なんぞを叫んで、古いニューオリンズジャズに回帰しているからこんなことになるんだと言いたいのではないだろうか。これ、いくらジャパニーズ演歌が好きだからといって、浪花節まで好きだとは限らないのと同じようなところがある。
 でも、自国文化の伝承を唱えている人たちに、他国人が文句をいう筋合いはない。ただ、何だか、これまで、時代と共に歩んできたアクチュアリティのある音楽として聴いていた大好きなジャンルが、急に黴の生えた古典藝能扱いになって、ちょっと情けないだけである。そうして、向こうでは着実に偉くなっているウイントンの音楽、全然、面白くないなあと、ちっちゃな声で文句言うのが関の山。
 こうした下地を経て、クラシックの名門ジュリアード音楽院が、四年制ジャズ科を加えたのも、やはり、この二〇〇四年のことだそうだ。日本で言うと、西洋音楽の総本山、東京芸大に、戦後、急遽、邦楽科が出来たようなものである。
 今回の演奏会は、そのエリート学生さんたちの海外武者修行である。
 第一部は、「ガールトーク」などお馴染みの曲で楽しませ、この路線でいくのかなと思っていたら、二部ではサド・ジョーンズ(tp)のアレンジメントなど比較的難度の高い曲やメンバーの書いた編曲が並び、先生にしごかれていますといった匂いがしてきて微笑ましかった。それをピシッと外さずキメてくるところはさすがエリートである。
 ほぼ全員ソロをとったが、皆、上手い。すぐにクラブギグに出られそうな人ばかり。あえて難癖つけるとすれば、手の内が豊富でないというか、語彙が若干不足しているようだが、それはこれからの経験次第である。
 メンバーに邦人が混じっていて、こんなところにまでと日本人の進出に驚いた。特にベーシストはパワーがあり注目株。パンフレットの惹句は「最高の教授陣に磨かれた、未来のスーパースターたち」となっている。確か、ナカムラ・ナントカさんと言っていた。覚えておこう。
 もう一人、日本人ピアニストがいた。彼女はバンドマスターの言葉を聞き取り、曲紹介をしてくれていたのだけれど、ある時、次の曲は、アントニオ・カルロス・ジョビンの「アクア・ジ・ベベ」ですと、そのまま鸚鵡返しに紹介した。聴いたことのない曲名だったので、どんな曲だろうと思っていたら、曲が始まった途端わかった。なんだ「おいしい水」ではないか。確かに水だからアクアだ。
 そこで、宿題にして、家に帰って手持ちのCDで調べると、横文字で「Agua De Beber(アクア・ジ・ベベール)」とある。アストラット・ジルベルトの有名バージョンで、歌詞をしっかり聴くと、後半のリフのところで、たしかに「アクア・ジ・ベベーッ、カマラ(Água de beber camará )」と繰り返している。
「あなたは愛の水、私は花、水が無ければ私は枯れてしまう……。」
 おそらく彼女は
、この曲、アメリカに行って譜面から入ったのだろう。当然、譜面の表題は横文字で書かれている。だから、日本で何というのか知らないのだ。そんなところに若さを感じた。これからの勉強に期待しよう。
 行く前、チケット仲介の労をとって下さった独身のF先生に、「勤務終了直後、夫婦共々職場を飛び出しさえしたら、リッチに繁華街で外食してから、コンサート聴けますね。」と言われたのだけれど、そんなこと無理である。女性が一度家に帰ったら、やれ、服を着替えるだの、化粧直しだの、トイレだのと、再び家を出るまでに最低三十分はかかる。悠長に食事などを入れられる訳がない。
  F先生。まだまだ「女修行」が足りないねえ。

 2006年06月18日
   おうちでまったり人肉を
 週五日制になってだいぶたつが、土日とも「おうちでのんびり」ということはほとんどない。六月も、総体県予選引率、部活動の通常練習、昨日今日は北信越大会の係業務、来週は定期テスト採点業務など、全週なんらかの仕事が入っている。
 ……と、愚痴を書くのが本日の趣旨ではない。「おうちでのんびり」を何というかという話である。
 多くの人のブログに、今日は「おうちでまったりしていた」と書いてあるのだけれど、どうも、この「まったり」というのは、具体的に、どう過ごしたのだろうといつも不思議に思う。
  「まったり」は「味がまろやかでこくがあるさま」という意味しか辞書に載っていない。「こく」は「濃く」である。そこで、これは、文字通り読むと、自宅で「濃い」一日をすごしたという意味になるのだが、何が濃かったのだろう。
  もともと、この言葉、私が大人になる頃まで、ほとんど聞いたことがなかった。それが、二十年ほど昔、人肉を食って逮捕された佐川君なる御仁が、人肉の味にこの言葉を使って一躍有名になった。流行語っぽく、何かというと「まったりした味」と使って、こってり味を表現した。ちょっと声を低くしてゆっくりと「まったりしていますね」なんて使うと、不気味な猟奇的なイメージがして、格好のお茶化しになった。
 ちよっと脂肪が舌にまとわりつく感じ。おそらく、「ねっとり」「こってり」などと語感的には近いはずである。
 だから、私は、「おうちでまったり」なんて言われると、家で舌なめずりして人肉喰っているイメージが湧いてきて、おぞましさ限りなしなのである。
 そこで、「おうちでまったり」と入れてネット検索すると、約三万件もヒットした。もちろん、のんびりの意味で使っているのだろうが、どこで、いつの間に、日本中、そんな意味になったのだろう。つながりがよく判らない。
 他に、「おうちではんなり」というもあった。京言葉でやさしい感じである。「まったり」よりは余程いい。でも、これも、ちょっと疑問の使いかたかもしれない。
 「はんなり」は「華なり」からきた言葉だそうで、「落ち着いた華やかさ」「上品な明るさ」のことをいうそうだ。これも、味によく使う。「はんなりした味」。
 自宅で落ち着きながらも「華やかに」暮らしたという意味になるが、この人もお家でくつろいでいただけだろう。なにが「華やか」なのかよく判らない。ただ、これ、京都では日常使う言い方なのかもしれず、そのあたり、自信はない。
 両方とも味がらみで、何か関連があるのだろうか。「のんびり」があまりにも常套だから、味覚表現を使って、新奇な言い方をしていたものが、通常の言い方として定着したものとも考えられる……。
 だが、おそらく、そうではないだろう。現代若者文化の特質、もともとの意味を考えず、発音のフィーリングだけで理解してしまう「語感至上主義」の正統なる代表例的成果(!)なのではなかろうか。
 そういえば、先日、隣の国語の先生が『山月記』で虎になった主人公李徴をエンサン、友人の袁慘をリチョウと読む生徒が続出したと嘆いていた。漢字の音訓などお構いなし、名前として音を丸覚えしただけだから起こった倒錯で、事態は同じである。
 意味や字訓に行き着かなかったら、言葉なんてニュアンスさえ伝わればいいじゃないかという世界になる。そんなのでいいのだろうか。

 2006年06月16日
  父の再入院
 今年三月の手術の時、別の病巣が見つかって、父は引き続き手術をすることになった。私は、仕事の帰り、病院に顔を出す生活がまた始まった。前回は寒い日もあったので、同じ行動をしていても、月日の流れを感ずる。
 仕事が遅くなって、面会時間ギリギリに顔を出し、愚妻が所用でいない時など、近くの外食屋の閉まり間際に駆け込み、一人遅い夕餉をとって帰ると、相応な時間となる。
 酒宴があって帰宅が深更に及んでも、それはそういうもの、なんとも感じないのだが、中途半端な時間帯、素面で商店の灯が消えた通りを、仕事鞄を担いで、とぼとぼ帰路を歩む時の気持ちは、結構、うら淋しい。
 月日が流れ、上の世代が逝き、もし、愚妻に先立たれるというようなことになると、日々、こうした情けない気持ちで生きていかねばならないことになる。ちょっと、淡い恐怖心のような気持ちが湧く。元気で前向きに晩年を過ごせるか、正直、心許ない。どうも、愚妻に言わせると、私は落ち込みやすい性格のようなので、薬のお世話になっているかもしれない。あんまり深く考えないようにしているが、現実、私が先立ち、愚妻が元気に長生きしているという可能性の方が圧倒的に高いので、自分自身、少しは楽観しているような気もする。何事にもくよくよせず、どこでも短時間でも、ぐうぐう寝てしまう性格の人に短命はいないはずだから。
 今日、去年亡くなった友人宅へ、一周忌のお供え物ということで、地酒を贈った。結構いける口の子だったからということもあるが、連れ合いに先立たれ、父娘家庭だったのに、その娘も先に逝き、今は父親一人で生活されているはずである。私としては、そのお父さんに、美味しい酒を飲んでもらいたかったのである。
 2006年06月14日
  小松伸六さんの死
 図書室に届いた地元新聞社発行の季刊誌「北国文華」(二〇〇六夏号)の記事で、小松伸六さんが三月に死去されていたことを知る。九十一歳。
 昭和二十一年、金沢大学に赴任され、地元文化の発信基地になった「文華」(昭和二十年〜二十八年。後「北国文化」と改称)の編集主幹的な仕事をされ、金沢の文学を牽引していった方である。
 その後、東大系の文学誌「赤門文学」を主宰されたり、「文学界」で二十年にわたり「同人誌評」を手がけらるなどの活躍をされた。
 地道なお仕事が多く、単行本もほとんどない。特に、「同人誌評」は、労のみ多い仕事で、まとめると大変な字数になると思うが、ほとんど人目につかない文学作品を読んで書かれた批評文を、どの出版社も出してくれなかったのではあるまいか。  
 糊口をしのぐ途を何で得ていらしゃったのか。もしや清貧の生活をおくられているのではと勝手に想像していたのだが、記事の中で、立教大学で長らく教鞭をとっていらっしゃったことを知り、これも勝手に安心した。
 面白い本を紹介するブックレビューワーなら、今の世の中、大勢いるが、平野謙に代表されるような、批評という行為を信じ、文学を育てていこうという文芸批評家らしい文芸批評家はいなくなったような気がする。小松はそうした人たちの最後の一人だったのかもしない。
 いつも社会面の死亡記事には目を通しているはずなのに見落としていた。御長命で、ここのところお名前を見かけることもなくなっていたので、過去の人扱いになって、小さな記事だったのだろう。
 小松さん、私は四十歳以上年下の若輩者ではありますが、小松さんの「私」を滅した地道なお仕事を、ずっと尊敬しておりました。
 金沢空の下、そんな文弱の徒が一名おりますことをご報告いたしまして、ここにご冥福をお祈りします。合掌。
 2006年06月12日
  行きつけの店が潰れている

 百万石まつりの帰路、通称、六斗林の通りを通った。旧鶴来往還の一部である。
 結婚して、自宅から一キロ弱離れたところに住まいするようになった。たかだか一キロであるが、生活圏が小学校校区でいうと一つ分ほどずれて、繁華街に歩いて行くときなど、この江戸時代から続く旧街道をよく通るようになった。結婚当初は、町並み再発見という感じで、小路に分け入り、路上観察をしたものである。
 二十年前にはあった個人営業のお店が、少しずつ潰れていっているのがわかる。六斗広見の銭湯がなくなった。お婆ちゃんが切り盛りしていた小さな小さな八百屋さんも店を閉めた。学生さん相手の万屋さんは駐車場に。
 そんなことを夫婦で言い合いながら久しぶりにこの通りを歩いた。
 腰を傷める前、よく行っていた一膳飯屋さんの灯が見えない。土曜日なのにどうしたんだろうねえと言いながら、店の前までくると、張り紙があり閉店していたことを知る。
 このお店、近くに金沢大学男子寮があり、学生さんで繁盛していたのだが、大学が角間に移って、寮に入居している人が減った。その上、大学周辺に飲食店が沢山出来て、わざわざこちらまで戻って夕食を食べる必要がなくなった。お世辞にも小綺麗な店とは言えなかったので、今時の若者に受けなくなっていたこともあるかもしれない。近年は、年配の常連さんばかりになっていた。
 若者相手の名残りか、量がちょっと多く、そのせいで、病気以来行かなくなっていた。最後に行ってからもう二年半くらいか。
 カーテンの隙間から店をのぞき込む。什器のなくなった閑散とした店。カウンターの板の茶色ばかりが目立って見えた。気さくな旦那さんと奥さんが切り盛りしていて、よくテレビのスポーツ放送などを肴に、マスターや常連さんと雑談しながら楽しく夕食をとったものだ。レバニラ炒め定食が我々夫婦の定番注文だった。
 あのご夫婦は、今、どこにいるのだろう。お子さんは大人になっていたので、二人生きていくことくらいなんとかなるだろう。
 常連の白髪交じりの配達が仕事のおっちゃんは、今、何処で飲んでいるのだろう。あそこで、知人と、や、お久しぶりなんてことも、もうないことになった。
 結婚してからずっと続けていた生活の一部が、途中の中断のせいで、出来なくなっていた。そして、気がつくといつの間にか終わっていた。そんな感覚がすっと胸を駆けぬける。
 淋しいけれど、仕方がない。それだけ歳をとってきたのだから。
 みなさんお元気で。さようなら。
 もう腰が限界で、休みながら歩いていたところだったので、そこを立ち止まりのひとつとして一息ついて、また、だましだましの歩行を続けた……。

 2006年06月10日
  第五十五回金沢百万石まつりを観る

 金沢駅鼓門夕方出発になり、行列の見直しをしたリニューアル初年の今年、十年ぶりに見物に行く。曇天で暑くもなく寒くもない、ちょうどよい日和だった。二時間前に駅に着いたが、既に予想以上の人出で混み合っていた。場所を求めて武蔵が辻方面に流れ歩き、複合ビル、リファーレ前の沿道で行列を待つことにする。
 後で、金沢情報発信系のブログにアップされた写真を見ると、多くの写真好きが駅周辺でシャッターを切っていたことが判る。初めてのコースで鼓門がバック。絵になると踏んだわけで、考えることは皆一緒である。
 日頃、通り過ぎるだけの歩道に、多くの見物客が陣取る。マナー違反の敷物ガムテープ止めでの確保組あり、空きを見つけ、がっぱになって(金沢弁…真剣且つ性急に)駆け寄る幼児連れあり。
 ちょっと羽目が外れ気味の人々にも警察は、極力ソフトに対応している。
 我々が座った縁石の隣では、オバチャンがちゃべちゃべと(金沢弁…あれこれお節介に)喋りまくり、酔っぱらいの観光客は、行列がつかえて立ち止まった火消しに、纒(まとい)を振ってくれと大声で所望したり。
 様々な人間の、ちょっとしたアクのようなものが表立つ。何をするところまでは問題がないのか、マナーや常識のラインが微妙に人それぞれ違う。
 押しくら饅頭のように身を寄せ合って見るお祭り。でも、どことなく、収まるところに収まって、皆、楽しんでいた。
 終了後、歩行者天国状態になった大通りや尾山神社前通りを歩いて帰る。お城方面の小路から、普段着に戻ってはいるが、髪の結い方でバトンガールだとすぐに判る女の子たちや、纒を今度は肩に引っ担いでブラブラ戻っていく半纏姿の消防団員が行き過ぎる。
 交通規制の中、今年から、ど真ん中の金沢城址で解散するので、出演者の多くが、三々五々、東西南北に帰宅道を模索しながら歩いて帰っていく。そんな様子が新鮮に映った。
 屋台店が連なる中央公園横では、高校生たちが大勢たむろして楽しんでいる。勤務校の制服を着た生徒も多数発見。制服で祭りに来ているような子は問題のない子ばかりだが、向こうは、こんな時に「センセー」の顔を見ただけでげっそりだろう。こっちも見たくない光景を見てしまう可能性も高い。帽子を深々と被って、伏し目がちに通り過ぎる。
 こんな時、全然楽しめないのが、この仕事の嫌なところである。 

 

  四キロの道のり。腰痛以来最長の歩行距離をこなして、目出度いのだが、最後の一キロくらいで、はっきり辛くなって、五十メートルおきに立ち止まりつつ、ようよう家に辿り着く。その話を老父にすると、お前はまだ若いから、だましだましが効くけれど、もう少し歳になると、その段階であとは身動きとれず、寝込むことになるよと脅かされる。
 現状認識。どんなに頑張っても四キロが限界、その範囲で人生を動かすこと。それが判った一日。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(終了直後。押し合いへし合いした観客がさっとはける)

 2006年06月08日
   千里の目を極めんと欲して
 放課後、四階の教室にいく。背広の上着を教卓の中に忘れたのである。教室では、もう、そのクラスの生徒はおらず、吹奏楽部員が各パートに分かれて個人練習をしている。肺活量が必要なトランペットセクションも今や全員女性である。
 さあてと、上着を肩に、ぶらぶら階段を下りながら、ふと外を見遣ると、今まで曇っていた灰色の空が切れて、遠くのほうが、そこだけ光って見える。
 目を凝らすと、それは、ビル群の切れ目にある地平線の横長の光の帯。あ、海である。ほんのわずかではあるが、山を背にした山懐のここから海が見える。
 十五年も勤めていて初めて知った事実に驚く。普段は、町中のどんよりした空気の中で気がつかなかったものが、サーチライトのような光線の海面反射によって存在を自己主張していた。
 慌ただしく授業の合間に行き来している時だったら、わからなかった。色々な条件が揃って、今日、気づかせてくれた。
  下るの止め、四階の上にあるベランダに駈け上がって眺める。光のビームは、やがて消え、海の存在は、地平線の霞に紛れた。
  ちょっと、「更上一層楼(更に上る一層の楼)」(王之渙『登鸛鵲楼』結句)の気分を味わったひととき。
  脳裏に、王が見た黄河の景色を浮かばせながら、しばらく、欄(おばしま)に頬を寄せて佇んでいた。
 
    白日依山盡    白日山に依って尽き
    黄河入海流    黄河海に入りて流る
    欲窮千里目    千里の目を窮めんと欲し
    更上一層楼    更に上る一層の楼
 2006年06月06日
  (番外編)ペンタックスデジタル一眼レフ*istDL2使用レポート

 

(「カメラ道楽」の項に載せるために書いた文章です。「番外編」として、臨時にここにも載せ、時期を見て削除します。カメラに興味ある人向けの文章です。)

 

 平成18年春期、全メーカー通じて最安値のデジタル一眼レフカメラゆえ、多少の省略はあるが、同社銀塩から乗り換えてみて、デジタルだからという不満は一切ない完成度の高いモデルである。コストパフォーマンスはきわめて高い。
 お任せモードも、オートピクチャー、各種シーンモードと豊富で、初心者に優しいだけでなく、ベテランが操作したい部分も、すぐに設定変更できるようになっている。初級者から中級者まで対応は万全である。


 操作は、ペンタックス愛用者には、MZ-3シリーズではなく、おおよそ、MZ-7シリーズのフィーリングであると言えば分かり易いと思う。
 測距点は5点と、最新の10以上あるものと較べて少ないが、中央で合わせて、カメラを振る、昔のやり方が身に染みついている者からすると、充分なくらいである。花の撮影などでは、多点が邪魔をして、手前の花びらに合ってしまうことも多く、本気撮影の時は中央1点にして撮っているので、多いほどよいにはちがいないが、実用上、これで充分である。
 ピントの合ったところを赤で知らせてくれるスーパーインポーズ機能は、便利で安心感があるので、省いたのは、初心者向けということを考えると、残念な部分ではあるが、昔のAFには、そもそも、そんな機能はなかったし、ファインダーは、デジタルにしては見やすいほうで、問題は少ない。

 それより残念なのは、ストロボがP-TTLしか対応していない点で、一つ古い世代のTTLを制御してくれないことである。一眼を初めて買う者をターゲットにしている関係で省略した部分だが、このせいで、私は購入をかなり躊躇した。外部ストロボを使いたくなったら、最新式を買えということで、覚悟がいる。


 操作感では、露出補正が面倒である。シャッター手前のボタンを押しつつ、ダイヤルをまわさねばならない。撮影途中に急に変更した時など、右手の指二本を同時に動かさねばならいので、これは独立したものがあればよかった。また、ファインダー内の情報では、露出補正の値が、撮影枚数表示と兼用なのがちょっと困った。軍艦部の液晶で枚数は確認できるので、さしあたりは問題ないが、目を一度ファインダーから離すことになる。
 このカメラには、プレビューを液晶で確認できるデジタルプレビューというユニークな機能があるが、これも、いちいちファインダーから目を離さねばならないという理由で、従来型の光学プレビューのほうが、断然、使い勝手がいい。私はそちらに設定している。
 一眼にも、最近は、手ブレ防止機能付きのものが出てきているが、この機種は、感度200が標準なので、銀塩よりシャッター速度が稼げるくらいである。望遠中心の人にはあると便利な機能だろうが、標準ズーム域で撮影している人には、なくてもあまり困らない。趣味なのだから、せっかくの一眼レフ、ちゃんと構える練習をすべきなのではとチラリと思うくらいである。
 それより、CCDゴミ付着対策が何もなされていないほうが恐ろしい。野外でのレンズ交換はしないようにしているが、一眼の楽しいところに水をさしている恰好なので、多少、コストが上がっても、対策が必要ではないかと思う。

 600万画素というスペックが物足りない人もいるだろうし、詳しくない人が見ると、それだけで購入対象からはずされそうだが、コンデジとCCDの大きさが全然違う。別物である。現状、中級までなら、これで充分。というか、むしろ扱いやすい情報量で、変に背伸びをしていない、好感のもてる選択であると思う。
 AFの駆動に関しては、おそらく従来の部品そのままなのではないだろうか。十年以上前と、動きがほどんど変わっていない。ペンタックス愛用者には親しい動作だが、キャノンの、すっと合う速さなどと較べると、明らかに劣っている。


 いくら鮮やかモードでも赤色だけが突出して鮮やかすぎるのではないか、液晶の視野角がちょっと狭い、記録サイズにWEB用の極小サイズがない、ボディの厚みをもう少し薄くしてほしいなどの細かい不満はあるが、電池は単三型、メディアは、今、もっともコンパクトデジカメに使用されているSDカードと、一眼レフとして、とびきり敷居が低く、コンデジからのランクアップには最適である。ネット上の購入者レビューを見ても、高評価。満足度は高い。


 最近のレンズ製作予定のロードマップなどを見ると、魅力的な単焦点薄型レンズがラインナップされており、ペンタックスとしては、軽いお散歩一眼を狙っていることが窺われる。今や、ペンタックスの一眼市場のシェアは10パーセントしかない。正攻法より、ニッチで生き残ろうというのだろう。パワー重視のお仕事用、万能タイプでは、キャノン・ニコンに勝てないが、趣味の人に愛されて、お金を落としていただく製品を作っていこうという戦略である。


 それにしても、こんなに安くて使いやすい一眼レフはない。コスト的に大丈夫かと思うくらいに頑張っているのに、爆発的に売れないのが不思議なくらいである。
 新聞の一面広告を平気で連発する会社の規模、宣伝上手。それに、消費者の寄らば大樹の陰的発想など、一度、上手くまわりはじめると、多少の欠点があっても、ブランド力で売れてしまう。それを、ペンタックスのような小さな企業が崩すのは至難の業である。
 7月には手ブレ防止機能付き入門機が、秋には、オーバー1000万画素の中級機が出る。デジタル移行でもたもたしていて、大丈夫かと思っていた時期もあったが、ちょっと、最近、元気になっている。
 ミノルタの一眼レフ資産を大会社ソニーが買って、ソニーブランドの一眼レフが攻勢をかけはじめる直前のこの時期。嵐の前の静けさで、見通しは決して明るくないが、判官贔屓の私は、(というよりKマウントの交換レンズがあるので、否が応でもといったほうがよいが)、がんばれペンタックス気分である。(2006.6.3)

 2006年06月05日
   顧問控室にて 
 また一年がたった。総体県予選、年に一度の区切りの大会である。現三年生はこれが最後の出番。これまで、公式試合で、あまり中(あた)りのなかった女子が、見事、予選通過を果たし、笑顔がはじけたのが、今年、一番印象的な出来事だった。
 我々顧問は、先週の個人予選を入れると丸四日間、武道館につきっきりになって、的前審判(看的)などの業務にあたる。能登から加賀から、年に数回、大会のため顧問が全員あつまる。時々しかお会いしないから、微妙な変化がすぐに判る。あの方は中年太りになった、あの方は老眼鏡になった。あの方は白髪がふえた、あの方は……。みんなちょっとずづ歳をとっている。
  二十年も、同じ建物の中で同じ仕事をしているので、世の中順繰りに廻っていることを実感する。当時若手の専門家は、中堅となって大会を動かしている。あのころ中堅だった方々は、今や重鎮に。色々教えて下さったベテラン先生は御退職で、多くの方がいなくなった。
 その競技をしたことがなく、何年やっていても部外者の立場だからこそ感じる、一つの組織のゆったりした変化。専門家は流れの直中にいるので、気にもとめないのかもしれないが、私のような傍観者には、実にそれがよく判る。
 下働きをして、年相応になったら、年相応に立場が上がり、年相応に偉そうにしている。それが人生。それが当たり前のように……。
 ここのところ、自分のことで精一杯、外の世界に目を向けていなかったので、若手だと思っていたある方が、突然、中年顔になったかのように見えた。一瞬、そういう感覚に襲われて、この順繰り感を強烈に感じた。
 人生が飛んだ感覚。浦島太郎ではないのだから、あり得ない可笑しいことといえばそうなのだけれど、老羸(ろうるい)の境地にいたると、これが仕事や定年区切りでなく、人生区切りで感じてしまうのだろう。
 そういえば、六月二十三日に同級生が亡くなって、そろそろ一年になる。
 「黄梁一炊の夢」と嘆ずるには、まだ若造だが、今は夢の途中、目覚めもそう遠くはないことも、どことなく判りつつ、それでも無為に生きている。
 2006年06月03日
  最新式ストロボを買う
 旧式で遊んでいるとか言っておいて、舌の根も乾かぬうちに、発売されたばかりの最新式大光量PーTTLストロボ(ペンタックスAFー540FZ)を買った。ボディは安いのを買ったので、最初から予定の行動である。つまり、旧式で遊んでいたのは、単に前哨戦的気分盛り上げ行動だったのである(笑)。
 従来のTTL方式と何がどう違うのかと問われても、正直、よく判らない。何でも、カメラの露光面の光を感知して、その情報をストロボに送る従来のTTLばかりでなく、積極的にストロボ本体からも光の情報を収集し、コンピューター的に演算して決めるらしい。まあ、賢くなったということである。我ながら大雑把な認識……。
 触れ込み通り、調光が自然で、いかにもストロボ光りましたといったテカリが少ない。上下左右の首振りが自在。スレーブ機能もあって、カメラから外しても光る。
 だが、なんと言っても、カメラ側をシャッター優先モード(TV)にすると、シャッタースピードの制限がなくなることが、下手な横好きには画期的である。
 これは少し説明がいるかもしれない。ストロボが同調するシャッタースピードは、MFカメラは六十分の一だった、正直、手ブレギリギリである。それが少しずつ上がってきて、最近まで愛用していたAFカメラは百二十五分の一、今度のデジタル一眼は百八十分の一になった。三十年かけて少しずつあがってきたのである。素人にはよく判らないが、以前、シャッター幕の改良で二十分の一上がりましたなどと宣伝していたから、この牛歩の歩みは、しかし、技術屋さんの努力の賜物なのである。
 カメラお任せモードでは、依然として上限があるが、日中、絞りを開けてボケを効かし、でも補助光が必要でストロボ光らせたい時などに威力を発揮する。
 そんな凝った撮影、アンタ、実際にするのかい? という問題は、この際、棚上げにします。こういうのは、やろうと思えば出来る機械を持っているということが大事なのです……(ほとんど言い訳)。
 説明書によると、もう一台あるとワイヤレスで多灯撮影ができるらしい。
プロの写真は、この多灯をしているのである。光を横からあてることで陰影をつける。シックな雰囲気になり、お金払って撮ってもらいました感がぐっと出る。
 カメラ好きの友人が、著名な写真家、竹内敏信の写真講座に行って極意を聴いてきたそうだ。その冒頭の言葉は、「趣味なんだから、機材にお金かけてください。どんなに努力しても、写真は機材で決まります。」だったという。
 「弘法、まず筆を選ぶ」といったところか。
 でも、最新式もう一台買ったら、今度は、反射アンブレラがいるとか言い出して、もう、そこまでくると、毎年、卒業アルバム用の顔写真を撮ってもらっている写真館さんそのものになる。
 やめとこ。やめとこ。
 2006年06月01日
   慣用句が慣用されない

 調査によると、勤務校の生徒の半数は、読書どころか新聞もろくに読まないのだそうだ。吸収盛りなのに……。理由としては「忙しくて暇がない」がダントツトップになっている。
 その結果、書き言葉を驚くほど知らない。口であまり言わない言葉は、もう、そんな言葉、初耳ですとすぐ言う。そのあたりを察知したのだろう。地元国立大学では、今年、慣用句の意味を問う問題を出した。これまで漢字と説明問題しか出してこなかったから、これは大変化である。おそらく、意外に点差がついて、今後、定番化するのではないだろうか。
 実際、この種の問題は、これまで「点あげ問題」だったが、今や、間違うこと、間違うこと。
  この前した問題、「子供は(親に対して)スポンサー泣かせのことを言ってくれる」とあるのを、本当に、悲しんでいると受け取っていた生徒がいた。
 「舌の根も乾かないうちに」は、聞いた生徒全員ハズレ。前と違うことをいうという選択肢にマルをつけている。もちろん、これは、「喋ったすぐに」の意で、多くの場合、行動が相反する時に使うから、間違うのも無理はないが、字面で考えれば判りそうなもの。これは、出題者の勝利なのかもしれない。
 「手を替え( )を替え」。これの生徒の答えは、「足」。もう一つのクラスでは「口」。こっちは「口八丁手八丁」が脳裏にあったのだろう。足よりちょっとはマシ。
 こらこら、「手品」ってことでしょ。「奇術」という意味が有名だけど、「@手なみ、A手つき」が元々。そこから派生した言葉である。
 文章読解を一所懸命に教えている受験校教師としては、この辺は、すっといってもらわないと困るところである。
 あれれれれ。大丈夫か。
 でも、人のことは言えない。昨日、それはあの課長の腹一つで決まることだと言おうとして、「胸……。」で止まってしまった。あれ、腹だっけ?
 胸板三枚? 腹三寸? 腹八分目? と低回した挙げ句、「胸先三寸」だろうと思ったのだが、どうも何だか落ち着かない。辞書を引いて、「胸三寸」と「先」はつかないことをを確認し、一件落着となった。おそらく「舌先三寸」と混用しかかったのだろう。生徒の前で立ち往生しなくてよかった。
 一度間違えて覚えると、後が大変である。私は「間尺に合わない」という慣用句を、尺という漢字の連想で、身の丈にあわないという意味で理解してしまった。これは、割に合わない、つまり、損になるという意味である。
 そこで、この言葉が出てくると、私にとって要注意語だぞ、確か、思っているのと違うはずだったと、脳内の抽斗をひっくり返し、一テンポ遅れてようやく理解するのである。
 この歳でも知らない言い回しが沢山ある。辞書を繰るたび、感心の声をあげる。でも、こっちは商売だと思って、出てくる毎に、せっせと調べているからいいようなものの、生徒たちは、そもそも、本を読まないのだから、そうした言葉と出会うことさえない。
 生徒さんたち、相応の年齢になっても、言葉の「いかず後家」(死語且つ失礼語。これは覚える必要がない?)になりそうである。

 

[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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