従兄弟が亡くなって、形見分けということで、去年、綺麗にクリーニングされたネクタイやカジュアルウエアを戴いた。今時古風なと思ったが、バーバリーなどブランドものも多く、捨てるに忍びないと思うのも無理はないと、すぐに合点した。 今年、季節がきて、そのシャツ類を着はじめた。ちょうど体に合う。自分では買わない柄だが、年上だったので、落ち着いた柄で、まったく問題はない。袖を通すたびに、彼の顔がさっと脳裏をよぎる。 先日、亡くなった大学時代の友人の父親から電話があった。一周忌の供物を受け取ったとひとしきり礼を述べられた後、ついては、亡き娘が書道展に出品した書を形見分けに貰ってほしいという話だった。お返しなど、もとより無用だが、それならばと喜んで戴くことにした。 「形見分け」という言葉は、今まで私の生活にない言葉だった。それが、今、続けざまにやってきた。これも、人生、後半戦に入ってきたから。腰痛をはじめ、四十肩にもなったし、老眼も進行中。歯もそろそろ怪しく、どんどん彼らがいる世界と親しくなっている。 中年になってやっと気がついた。どうやら、人間、死ぬまでに通る人生のコースというものは、きっちり決まっていて、この年齢の頃にはこんなことが起こるという雛型があるのだ。人間、人生は一度しか歩んでいないから、いつも初めての経験だけど、神様の視点から見ると、本当にみんな決まった一直線上を歩んでいる。それが、何十億本と刷毛ではいたように同じ方向に筋になっている。 その一本を自分もちゃんと歩んでいる。もう、まったく省略なく、なる病気、悩み、全部きっちり体験中である。 ちょっと貴方は、今回、これを省略してあげましょうなんていう天からの特典はないものだろうか。そんな虫のいいことを考えてしまうこと自体、人間がが出来ていない証拠みたいなものかもしれないけれど……。
今日、その書が届いた。五言律詩「山中月」(真山民)。手紙によれば、平成二年、書展に初出品した時の作品という。書き慣れてはいないが、真面目にきっちりと取り組んだ様子が伝わってくる楷書体である。あの頃はやっていなかったから、社会人になってから積み重ねた教養。私の知らない彼女の世界である。
うちのマンションにも、お愛想に半間だけのミニ床の間がある。そこに掛けようと思っていたのだが、実物は軸ではなく横扁額に入った大きなものだった。今、鴨居か長押に掛けるべく考慮中である。
山中月 真山民
我愛山中月 我は愛す、山中の月。 炯然掛疎林 炯然(けいぜん)として疎林に掛る。 爲憐幽獨人 幽独の人を憐れむが為に、 流光散衣襟 流光、衣襟(いきん)に散ず。 我心本如月 我が心、本、月の如く、 月亦如我心 月も亦、我が心の如し。 心月兩相照 心と月と両(ふたつ)ながら相照らし、 清夜長相尋 清夜、長(とこし)へに相尋ぬ。
なお、二句目、「掛かるを。」とし、前句を包含する読みとするもの。八句目を「とこなしへ」と古風に読むもの、ラストを「尋ねん」とすることで、意志を表すととる読み方もある。拙訳を試みよう。
私は山中の月をこよなく愛している。月は光り輝いて、葉が落ちて枝の透いた林に掛かっている。隠者の私をまるで憐れむかのように、月光は流れ注ぎ、光は服の襟にあたって砕け散っている。私の心は、もともと月のように澄んでおり、月もまた私の心のようである。その心と月は、お互いを照らし合い、この夜気清く澄み切った夜に、いつまでも通じ合っている。
作者は宋の遺民。すなわち、月に対峙する隠者の心境を詠った詩である。 初出展作品として、なぜ、この詩を選んだのか、知りたく思ったが、最早、尋ぬるあてはない。
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