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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2006年07月31日
  「湯涌わくわく体験」で夏の観光

 金沢湯涌夢二館のHPを観て、「湯涌わくわく体験」という湯涌温泉文化施設を巡る体験日帰りツアーの存在を知り、近場娯楽ということで、昨日参加してきた。
 梅雨明け宣言が出され、夏の初日という感じの観光日和。我々以外は全員子供づれで、お手軽夏休み企画として、お母さん、いいのを見つけましたねえといったところ。
 まず、私の場合、バスの集合場所にどうしていくかから悩まねばならぬ。愚妻は徒歩を主張したが、他人とご一緒の行動が終日続くので、ここでへたばっては元も子もない。タクシーで乗りつけることにする。
 バスからの景色が新鮮なことに驚く。久しぶりの湯涌街道ということもあるが、観光バスの座席が高いので、これまで、見えていなかった市内商店街の階上の家並みが目に飛び込んでくる。この手のバスの乗車自体が本当に久しぶりだと気づく。それだけで結構満足している自分に、乗り物大好きな子供みたいだとチラリと思う。
 最初は、かつて檀風苑といっていた場所。今、「湯涌創作の森」という体験工房になっている。受付棟から伝統建物を移築した各施設へシェルター型の長い通路づたいに移動する。我々が選んのは藍染めで、工房は蔵を改装したもの。
 インストラクターの若い女性の「藍染め模様には失敗はありません、それもまた味です。」という最初の説明で、私は非常に安心する。こういう押さえは初心者には大事である。
 染料は蓼藍を使用。しぼって、私は円相、愚妻はジグザグ模様を作る。瓶の染液が異臭に満ちて、同行の子供たちは臭い臭いと大騒ぎであった。こんなことも実際に体験しないと判らない。一時間半後、同じ藍色でも全然個性の違うハンカチが出来上がった。
 次の夢二館はオープンの混雑時に行って以来だったが、子供たちには不評で「早く温泉行こうよぉ。」という声が聞こえてくる。まあ、無理もない。予定時間自体も二十分しかなく、この点は残念だった。何度もこのツアーを実施して参加者の希望に沿った結果、こういう配分になったのだろう。
 そういえば、今回、「こども金沢検定」というラリークイズをやっていて、子供たちは、行く施設行く施設で一生懸命解いていた。午後の見学場所で、「杏っ子」「性に目覚める頃」を書いた金沢の文豪は誰? という四択クイズが出ていて、母親たちも判らなかったらしく、急に私に聞いてきた。この問題、地元民の常識レベルでは判らないということが判ったのがちょっと面白かった。秋の「小景異情」の授業の時、散文もしっかり紹介しなくては。それにしても、何で私に振ったら判ると思ったのでしょうかねえ? 
 お昼は温泉旅館で懐石膳を堪能する。夏の青葉を眺めながらの露天風呂、大広間でのうたた寝と続く。大人は、もちろん、こっちが主目的である。湯船では、日々何をあくせくという気持ちが陶然として湧く。毎日こんなのがいいなあ、でも、すぐに飽きるかなあ、飽きたらどうしようなんて安逸な夢想を楽しんだ。
 午後は、閉鎖中の旧江戸村より数棟再移築して前日オープンしたばかりの旧家群を見学。最後は、湯涌みどりの里で蕎麦打ち体験となる。
 これも初めての経験で、蕎麦作りは簡単そうに見えてなかなか難しいことを実感した。大きく棒で延ばしたら、端が切れたり、均等に切れず、麺の太さが違ったり。でも、これも最後には自分で作った麺がお土産になるので、単純に大満足して、無事、ツアーは終了した。
 「蕎麦は生ものですから今日明日中に食べて下さい。」ということだったので、帰宅後、即、食べたが……。
 うううーん。湯がくとブツブツに切れ、食感も滑らかさに欠ける。お手製という自己満足度をさっ引くと、ちょっと微妙な味ということになってしまいそうだが、蕎麦は奥が深い。そうそう、これで、簡単に美味しかったら、「蕎麦文化」なんていわないよねえということで話は決着した。もちろん、あっという間に完食いたしました。
  共稼ぎ、夜に家に戻るの繰り返しの日々。近場にもかかわらず、観光気分で気持ちが解放されたし、人様ペースでも腰は何とかなった。ちょっと夏休み親子企画に紛れ込んだみたいだったけど、意味のある一日だったような気がする。いい企画だった。企画担当者に感謝。

 

 2006年07月29日
  前期補習真っ最中
   去年も、今頃は、補習話題だったような……。また、愚痴を書く季節(?)が到来した。
 夏休みに入っても補習で生徒は登校が続く。それも土曜午後三時までたっぷりと。国語科はオーソドックスに入試問題をしたが、他教科の多くは通常授業をしているため、生徒に受験のための特別な時間という自覚が生まれてこない。そろそろ目の色が変わってもいい時期のはずだが、今の子は淡々と授業を受けている。
 問題演習をして、苦手分野を知り、その部分の穴埋めをしていく絶好の機会なのに、日々進む授業の予習で生徒たちは手一杯、自ら勉強を進めていくことが出来ない。意識の低い子にはいいシステムだが、これでは、基礎を押さえる時間的余裕がない。だから、前時の復習小テストをすると、十点満点中、五、六点に集中する。上位がいない。聞いたは聞いたが、それ以上深くはつっこんでやっていないからこうなる。
 かといって、自分で勉強しろと放任しても、今時の子供は、全然、勉強しない。ALTさんの話では、日本人は勤勉であるとイメージしていたが、実際、日本の生徒を観ると、とんでもなかったというのが、彼ら業界の共通認識だそうだ。
 だからしかたないではないかと、大人主導の手取り足取り主義が大義名分を獲得し、大手を振っているというのが今の教育の現状である。
  ここから解脱する手だてはただ一つ。生徒自身の進学意識を高めること。ある程度集団化すると、後は、競うように頑張りはじめる。子供たち自身が弱点を分析し、どんどん自学力を発揮してくれる。この方がよほど能率よく成績が上がる。
 先日、成功している他県の学校を視察した同僚の報告を聞いたが、高校入学当初、大学受験をはっきり意識づけし、上昇志向をインプットし、以後も、月に一度ペースで刺激し続けるそうである。
 今や大学定員数と進学希望者数が同じになった。何もしなくても入りたいと手を挙げればどこかの大学に入ることができる。上に上にと大人が叫んでも、そっちの方が現実離れした感じを受けるような世の中である。まして、子供は、また大人が叫んでいるという程度の響き方しかしないだろう。
 だから、やらないわけではない、それなりにやって、それで入れるところにいけばいいといった妙なスマートさが最近の傾向になっている。
 もちろん、彼ら自身は当事者だからそんなことには気がつかないので、この文章読んだら、自分たちはちゃんと頑張っている、そんなの勝手な思いこみだと反論したくなるだろうけれど……。
 大人から与えられた目標を、自己の目標として引き受け再構築させるという精神的な大作業を、この時期、大人のちょっとした誘導だけを頼りに、誰もが自力でやってきたわけだが、今は、そんなことも大人が設定・説明し、刺激し続けることで常時サポートしていかないといけないのだろう。勉強の中身もしなければならい、気持ちも育ててあげねばならない。
 あっちもこっちも、なんでもかんでも。
 姫君を御養育申し上げる乳母(めのと)か女房のようである。
 補習をしていると、その年その年の特色が手にとるように判る。毎年、良いところも悪いところもある。それで、この学年の受験結果はだいたいこういう傾向になるということが、今から判る。
 以前、ベテランの先生が、受験学年の四月最初のテストで出た傾向は、どんなにその後、担任あたりが頑張って、模試など、よい方向で反映されても、結局、入試結果は当初の傾向となんら変わることがないことが多いという話をため息混じりに仰っていた。どんなに塗装しても地金が出るということなのだろう。
 よい地金を作るには「鉄は熱いうちに鍛えよ」。遡って考えていくと、高校合格して入学準備のために集まる「仮入学式」の時が勝負である。そこでもう決まる。実際、過去、入学数ヶ月の導入に失敗した学年は、以降、ほとんど浮上していない。
 やったあ、高校受かったあ、遊ぼうと思っている中学生と、ここが勝負時と思う教員。あの時の意識の逕庭は天文学的である(?)。
 2006年07月24日
   実家周辺(その二)
 先日の夜、実家に立ち寄ったら、老父が、術後の足腰鍛錬のため、散歩に出かけようとするところだった。そこで、そのまま上がらずに付き合うことにした。
 こちらも、腰を痛めて以来、実家へは車で乗りつけるだけで、ご近所を歩くということを、ここ何年もやっていなかった。おい、もっと、早く歩いても大丈夫だぞと父に促されたが、こっちは、「すんません。これより早く歩けません。」と答える。
 「そうやったな。」
 もう、ほとんど「老老介護」である。街灯と玄関灯頼りに、お互い負担のないペースで歩く。
 子供の頃、全盲の父の手引きをよくしたものだ。ご近所の出先から、そろそろ帰るから手引きに来いと電話が入り、だーっと走って迎えに行った。今から考えると、びっくりするくらい短い距離なので、必要に迫られてというより、子供に仕事を与えるという教育的配慮のほうが優先されていたのかもしれない。
 多くの住宅が建て替わっている。昔の家はほとんどなくなり、今風になったり、更地や駐車場になっている。当時名を馳せた会社社長宅の敷地も三分割され、向かいの家のご子息が二区画分を買って、また、大邸宅を新築していた。
 昔、同級生がいた家の前を通る。不況で父親の会社が潰れ、今は人手に渡っている。「方丈記」ではないが、住処はまさに人の栄枯盛衰の鏡である。
 八十歳間際の父と五十間際の息子が、息子の子供時代に記憶を止めて、同じ景色を思い出している。もう、その景色を知っている人の数もそう多くはない。
 老親がいるからこそ、あの頃はどうしたこうした、亡くなったあの人はどうしたこうしたと昔話が出る。そうした上の世代がいなくなったら、私はもうそんな話などしないだろう。
 父も懐かしいし子も懐かしい。古い重箱つっつくようなご近所話を、地声の大きい二人が、夜の空気に声を放出するかように喋りあいながら、一往復した。
 梅雨最中にもかかわらず、この日に限って湿気も低く夜気が涼やかだった。
 2006年07月23日
   実家周辺(その一)

 ホルモン屋のおっちゃんのことを思い出していたら、子供の頃の活気ある地元商店街が脳裏によみがえってきた。
 私の実家は、当時走っていた電車の終点からちょっと奥に入ったところだったので、大通りは昇降客相手のお店で繁盛していた。電車が止まると、人がまとまって降りてくる。
 鍋持って買いに行った豆腐屋さん、酔っぱらって電車に轢かれ片手のなくなった魚屋さん、小売りもしてくれた製麺所、かつて陸軍で潤った馬具屋さん、数十台しかないパチンコ屋さん、小さいながら映画館まであった。この辺りのガキん子の多くは、夏休みの怪獣映画、ここで観たはずである。
 それが、みんな無くなった。
 持ちこたえていたけれど、最近、やめたお店もある。ご主人が亡くなって店を畳んだカメラ屋さん。ご主人は本当にカメラが好きな人で、晩年、お体を悪くしていたにもかかわらず、カメラ購入の交渉をすると最新カメラ情報をちゃんとご存じだったのには感心したものだ。
 私の子供の頃に店を切り盛りしていた方で、今も現役でやっている人はほとんどおられない。亡くなったり、引っ越されたり。そういえば、この日記で紹介した珈琲豆屋さんの老夫婦も先頃引退して、もう顔を見ることもなくなった。店は親戚が継いでいる。
 代が変わっても、同じ場所で同じご商売をされているほうが珍しい。酒屋さんの息子さんが店を割烹に衣替えして盛業中というところなど、ぐんと目出度い部類である。
 店々の並びが歯抜けになって、もう商店街といった感じではない。単独の商店が点在している感じである。買い物の利便性は悪くなり、大通りは車で通り過ぎる通過路になった。
 町並みが変わるのは世の常なれど、寂れるほうに変わっていくのは、ちょっと哀しい。

 

 2006年07月21日
  『ダーリンの頭ン中』で読書会 
  いい読書会のネタ本が思い浮かばず、せっぱ詰まって、以前読んだ漫画本『ダーリンの頭ン中』をテキストにした。国際結婚カップルの言葉についての蘊蓄が面白おかしく書いてある。取っつきやすいし、英国出身のALT(外国語指導助手)さんをゲストにお迎えし、口火を切って戴こうという寸法。あとは本にこだわらずにフリートーキング大会にすればよい。
 さて、当日が近づき、司会進行の生徒さんと打ち合わせをしていて、事はそんなに楽観できないということに気がついた。
 大人は、多少の海外旅行などもしており、文化の差を実感している場合も多い。外人さんが、文化や言葉の差について、どうぞ、なんでも聞いて下さいというシチュエーションなんて滅多にないから、ここぞとばかり聞きたいことがあるのが普通だ。おまけに英語の先生の通訳つきで、ヒアリングにドキドキすることもない。
 私は、「寿司バーが世界中で流行っているそうですが、それは、大都市に少しあるといったレベルなんですか、地方都市に何軒もあるくらいなんですか。」という質問をしてみたかった。そんなレベルならどんどん出るだろうと思っていたのである。
 ところが、生徒は、地元生まれの地元育ち、社会というものを知ってまだ十年も経っていない。外国どころか、何が地元固有の文化で、どれが日本人共通の文化なのかの区別さえついていない。況や外国をや。どうやら、全然、質問が思い浮かばないらしいのである。
 お葬式のような意見交換会。
 うーん。それだけは避けたいなあ。
 そこで、事前に、参加者に各国のイメージを書いてもらって、それを基に実際はどうなのか、ALTさんのコメントをいただくという方式にした。実際、途中で、何度も、「何でもいいですから、彼に聞きたいことないですか。」と水を向けたが、沈黙が続くだけ。この質問紙がなかったら危なかった。
 フランスはファッショナブルというイメージがあるという生徒の印象に対し、彼は、あの国はそれが国を支える基幹産業になっているから、そのイメージを維持することに最大の神経を遣っているのだと述べた。なるほど。ふり返って、日本人には、そうした国全体で国を支えるイメージを維持していこうとする発想は欠落している。今の若者に、自分は「技術立国日本」のイメージを守るために頑張ります、なんて気持ちを持っている人がいるとは思えない。
 イギリスについて、私は、あそこは四つの地域の集合体だし、長い諍いの歴史もある、今もしこりがはっきり残っているのか、もう過去の話になっているのか、どっちですかと、ちょっと意地悪な質問をした。
 彼は、サッカーワールドカップのイングランド代表を例にとり、ロンドンにいる限りイングランド=英国という意識だが、ウェールズなど他の地域の人は、イングランド戦になると、対戦相手国を応援するという。判りやすい例で、生徒は、一つの国の国民の意識が必ずしも一致するわけでもない現実を、実感レベルで理解できたのではないか。
 彼が言うには、はじめ、母国イギリスこそ一番いい国だと思っていたが、世界各国を回っているうちに、世界には色々な面でそれぞれいい国が沢山あり、故国もいい国の一つにすぎないという認識に変わったという。
 さて、話の中心は日本についてである。
 彼は、日本に来て、外国人が「外人」扱いであることに驚いたという。例えば、ロンドンで日本人が街を歩いていても、髪の黒い東洋人だと思われるだけで、その人を特に外人だとは思わないはずで、日本は区別意識が根強いと指摘していた。また、日本人はシャイすぎる。もっと積極性が必要で、世界を旅行して見聞を広めるべきだと勧めていた。
 彼の発言にインスパイアされ、私も最後のまとめの時、中国や東南アジアを旅行して感じた、かの地の若者のパワーについて話をした。彼らは、自国の行く末を念頭に置いて行動し、自分がその中で何らかの役割を果たすはずだという自負を持っている。そして、自分をしっかり全面に押し出す。それに対して、日本の若者は覇気がない。日本だけ見ていると、そんなものかなと思うけれど、他国と較べると、おとなしさぶりがよく判る。皆さんは、あまり意識していないと思うけれど、もっと国単位でものを考え、もっと積極的に自分を押し出していこう。
 こうまとめて、会は、なんとか形になって終わった。ふう〜ぅ。
 最後に書いてもらったアンケートを読んだところ、「もう少し、みんな発言すべきだと思った。」というのがあった。
 この意見を書いたあなた。そう、あなた。そう思ったのなら、あなたからどんどん発言してくださいね。
 2006年07月17日
  古いパソコンの本を読む

 愚妻の書棚にパソコン本が目に入ったので、なにか有益な情報でもないかと、この連休、斜め読みする。
 一冊は、かづさひろし『マンガプロ直伝ホームページづくりの奥義』(講談社)。二〇〇二年の出版。漫画でホームページの作り方を紹介しているが、その大半を、HTML形式の説明で費やしている。私のHPはお手軽ビルダーソフトで作っているので、本当のこと言えば、この形式について、よく判っていなかった。入れ子構造式の言語で、二昔前、プロラグラム言語で「ベーシック」というのがあったが、どうも、そのインターネット版であると思えばよいようだ。ただ、とっくの昔にベーシックが滅んだのと同様、ソフトがこれだけ充実している以上、もう素人には必要のない知識という気がした。
 もう一冊、野口悠紀雄『インターネット「超」活用法』(講談社)は、如何にもネット草創期に書かれたらしい利用促進啓蒙書、腰帯に書かれている通り、ある種の「知的生産の技術」本である。
 もともと、十年前に雑誌に連載した文章を書籍化したもので、とっくに古びているが故に、その「予言」が当たっているか外れているか検証しながら読むことになって、そこがちょっと面白かった。
 多くの予想が、今や当然のこととして現実化している。ネット通販会社Amazon(アマゾン)の日本での隆盛の指摘など。
 HPは公のものというイメージがあるが、いずれ個人のHPも増加するだろうというようなことが書いてある。まだ、そうしたサイトばかりだった頃のこと。そのため、ここに載っているサイトは、堅苦しい公の団体ばかりで、その後、あまり伸びなかったものも混ざる。
 今やブログ全盛の世の中、「私」の発する玉石混淆の情報をいかに取捨選択し自分の判断に取り込み、吸収していくかという、今、強く求められている部分については、だから何の言及もない。
 また、検索をいかに効率的にするかが鍵だと、初歩のノウハウにも触れられているが、これも、今や、それだけで一冊のテーマになるくらいで、実際、何冊も本が出ている。ここの部分は、その後、重要なテーマとしてどんどん膨らんでいったということなのだろう。
 検索サイトのトップ、Google(グーグル)に一言も触れられていないのも意外だった。そういえば、検索サイトで圧倒的有利を勝ち取ったのは、ごく最近のことに属する。
 本の残りの半分は、有益サイトの紹介記事。いわば、一種のリンク集である。これなど、パソコン雑誌の定番企画で、今、わざわざそのために単行本を買う人は少ないのではないだろうか。
 その他、セキュリティー概念が希薄であるということにも気づいた。個人情報をネット上でどんどん発信し、それを観てもらうことで、無駄な自己紹介をせずに済むから「超」便利だという路線である。あけすけな開示は危険であるという意識が浸透していなかったことが判る。
  この著者、野口悠紀雄は、ご存じのように「超」整理法で有名になった人。私も、この人の提唱したことで実行していることがある。例のパソコンのファイルは分類するな、日付で並べるだけでよいという考え方である。これで、整理しなければという強迫観念から解放された。あのベストセラーで覚えているのは、これひとつである。
 こうした、知的生産の技術が学問上の専門の方は、論ずるものが不易なものではなく、テクニックに比重がかかるので、常に最新テクノロジーをリサーチし、実践した上で、社会とのあり方を分析し、ノウハウとして提言していかねばならないわけで、大変である。いわば、休むことの許されない世界。
 そして、どんなに苦労して書いても、文章はどんどん古びる。自分の書いた文章がすぐにゴミになることを覚悟して書いていかねばならない。これも、なかなか辛いことである。知的生産技術のイメージリーダーを張り続ける苦労はいかばかりであろうか。
  この二冊、駄本ではない。有益だったが、使命を終えた本である。

 2006年07月15日
  金沢交響楽団の定期演奏会を聴く
 今週、ちょっと無理をしたのか、金曜夜の段階で、寝返りができないぐらいに腰痛がぶり返し、少しは復調しつつあると思っていた平静な気持ちが打ち砕かれた。久しぶりに鎮痛剤を飲むも、今度は軽い吐き気が襲い、心身ともに低調な一日となった。夜、金沢交響楽団第四十二回定期演奏会があり、どうしようかと迷いながらすごす。夕刻、横殴りの雨になって、ますます逡巡したが、早めに車で会場に乗りつければ、少台数しか止まれない駐車場といえども大丈夫だろうという算段で、予定通り出かけた。
 去年も、アンサンブル金沢とこのアマチュアオーケストラ、二回のコンサートで一年のクラシックは打ち止めになった。あっという間に一年が廻って、またこの季節になったという感覚である。
  曲目はブラームスプログラム。今年、モーツアルト流行の中、年に一度の演奏会で、あえて見送ったところが潔い。交響曲第三番がメインで、聞き慣れたマイフェイバリットチューンだったことも、パスしなかった理由である。ただ、雨の影響で客足は伸びなかったようだ。アマチュアの場合、天気は重要案件である。
 二十年ほど前、にわかクラシックファンになり、専門誌「レコード芸術」を買って勉強した。その後、すっかりご無沙汰になったので、今、手元にあるクラシックCDはその時にせっせと買ったものばかり。
  若い頃は、ラベルの多彩な編曲やストラビンスキーの野蛮主義など、派手な部分に耳がいっていたが、あの時、私が発見したのは、実に真っ当にベートーベンの偉大さであった。それから、ブラームス。有名な指揮者が、ブラームスの交響曲が四つしかないのが残念だといった気持ちがよくわかった。逆に、ドボルザークは聞きやすいが、ちょっとオーケストレーションがうまくいっていない。それこそ、この素材で、ブラームスやラベルが編曲したら、いい曲になっていたろうになんてことにも気がついた。
 個人的には、ブラームスは二番がいい。明るく軽快である。一時期、常時CDトレイに入れて聴いていた。盤はゲオルグ・ショルティ=シカゴ響。現代的で曲の構造を透かせる演奏だった。四つの中では、ベートーベンコンプレックスが感じられる一番は、重たくてあまり聞いていない。
  今回の三番は、第三楽章だけピックアップしてよく聴いた。哀しみを湛えた甘美なメロディで、ブラームスのメロディメーカーとしての面目躍如の箇所である。昔、映画音楽にアダプトされたくらいで、この楽章を嫌いな人はまずいまい。
 ブラームスがチャイコフスキー並のメロディメーカーだとは思わないが、見つけた素晴らしいメロディを、大切に且つ有効に利用し、かといって、決してそれに依存せず、がっちりした骨格のなかに埋め込んで、クラシックらしい風格を表現する名人であると思っている。緻密なオーケストレーションで時に重たく感じられる時間のあとに、ふわっと親しみやすい旋律が浮かび上がる。その瞬間こそ彼の真骨頂である。
 まとまり感があり、これだけで完結性の強い第一楽章、全強奏のあと静かに終息するのがやはり意外で、そうだった、この曲ははこういう終わり方をするんだったと思い出した第四楽章。生で聴くと、初めて聴く曲のように聞こえるのが不思議だが、おそらく、手持ちのCD(ショルティ=シカゴ、小沢=サイトウキネン)と違う演奏だから、違うところに視点(聴点?)がいくからだろう。
 高額をとるプロの演奏でないので、聴衆もなんとも庶民的。家族が出ているので手を振る、ビニール袋をガサゴソする、退屈した子供が背伸びをする、ケータイのフラッシュが焚かれる、最後、静かに終わるものだから、拍手していいのか判らず、拍手がこわごわでまばら……。
 でも、まあ、それもよし。子供が沢山交じっている。それだけで意義がある。
 途中休憩の時、いつもチケットを戴くホルンの知人と廊下でばったりお会いした。顔中、汗だくである。どうしたの? その楽器ってそんなに体力がいるの? と聞くと、それもそうだが、照明がなんともものすごいのだそうである。
 優雅な音楽奏でるその舞台裏は、なかなか火事場のようで、聴くだけの私たちには判らない「表現者が味わう世界」があるようだ。
 2006年07月14日
  形見分け

 従兄弟が亡くなって、形見分けということで、去年、綺麗にクリーニングされたネクタイやカジュアルウエアを戴いた。今時古風なと思ったが、バーバリーなどブランドものも多く、捨てるに忍びないと思うのも無理はないと、すぐに合点した。
 今年、季節がきて、そのシャツ類を着はじめた。ちょうど体に合う。自分では買わない柄だが、年上だったので、落ち着いた柄で、まったく問題はない。袖を通すたびに、彼の顔がさっと脳裏をよぎる。  
 先日、亡くなった大学時代の友人の父親から電話があった。一周忌の供物を受け取ったとひとしきり礼を述べられた後、ついては、亡き娘が書道展に出品した書を形見分けに貰ってほしいという話だった。お返しなど、もとより無用だが、それならばと喜んで戴くことにした。
 「形見分け」という言葉は、今まで私の生活にない言葉だった。それが、今、続けざまにやってきた。これも、人生、後半戦に入ってきたから。腰痛をはじめ、四十肩にもなったし、老眼も進行中。歯もそろそろ怪しく、どんどん彼らがいる世界と親しくなっている。
 中年になってやっと気がついた。どうやら、人間、死ぬまでに通る人生のコースというものは、きっちり決まっていて、この年齢の頃にはこんなことが起こるという雛型があるのだ。人間、人生は一度しか歩んでいないから、いつも初めての経験だけど、神様の視点から見ると、本当にみんな決まった一直線上を歩んでいる。それが、何十億本と刷毛ではいたように同じ方向に筋になっている。
 その一本を自分もちゃんと歩んでいる。もう、まったく省略なく、なる病気、悩み、全部きっちり体験中である。
 ちょっと貴方は、今回、これを省略してあげましょうなんていう天からの特典はないものだろうか。そんな虫のいいことを考えてしまうこと自体、人間がが出来ていない証拠みたいなものかもしれないけれど……。

 

 今日、その書が届いた。五言律詩「山中月」(真山民)。手紙によれば、平成二年、書展に初出品した時の作品という。書き慣れてはいないが、真面目にきっちりと取り組んだ様子が伝わってくる楷書体である。あの頃はやっていなかったから、社会人になってから積み重ねた教養。私の知らない彼女の世界である。

 うちのマンションにも、お愛想に半間だけのミニ床の間がある。そこに掛けようと思っていたのだが、実物は軸ではなく横扁額に入った大きなものだった。今、鴨居か長押に掛けるべく考慮中である。

 

        山中月       真山民

   我愛山中月      我は愛す、山中の月。             
   炯然掛疎林      炯然(けいぜん)として疎林に掛る。
   爲憐幽獨人      幽独の人を憐れむが為に、         
   流光散衣襟      流光、衣襟(いきん)に散ず。     
   我心本如月      我が心、本、月の如く、           
   月亦如我心      月も亦、我が心の如し。           
   心月兩相照      心と月と両(ふたつ)ながら相照らし、
   清夜長相尋      清夜、長(とこし)へに相尋ぬ。    

                         
 なお、二句目、「掛かるを。」とし、前句を包含する読みとするもの。八句目を「とこなしへ」と古風に読むもの、ラストを「尋ねん」とすることで、意志を表すととる読み方もある。拙訳を試みよう。

 

 私は山中の月をこよなく愛している。月は光り輝いて、葉が落ちて枝の透いた林に掛かっている。隠者の私をまるで憐れむかのように、月光は流れ注ぎ、光は服の襟にあたって砕け散っている。私の心は、もともと月のように澄んでおり、月もまた私の心のようである。その心と月は、お互いを照らし合い、この夜気清く澄み切った夜に、いつまでも通じ合っている。

 

  作者は宋の遺民。すなわち、月に対峙する隠者の心境を詠った詩である。
 初出展作品として、なぜ、この詩を選んだのか、知りたく思ったが、最早、尋ぬるあてはない。

 2006年07月10日
  あの頃の焼き肉屋さん

 私担当の仕事が、今日、一段落したので、自分にご苦労さんということで、夕食は、いつもと違う焼き肉屋へ行った。
 最近、こうしたレストランタイプの焼き肉屋さんが増えた。しばらく前までは、中央に無煙ロースターのある据え付け卓が主流だったが、今は、注文すると、炭火コンロを持ってくる。従業員も若く、店内も明るい。なんと言っても店内が清潔。お客さんもファミリー層が多い。
 私たち夫婦の行きつけの店は、ロースタータイプの庶民派、最近、お店を手直ししたけれど、やっぱりどことなく昔風が抜けない。先日、そこで弟夫婦とばったり会ったが、後で、「気に入らなかった、もう二度と行かない。」と言っていた。おそらく、若い二人には、レストラン路線のほうがいいのだろう。
 でも、私たち夫婦は、妙に小綺麗な炭火焼きのお店はどうも落ち着かない。それに、その分、なんだか、ちょっと割高のように感じる。
 昔、焼き肉屋さんなんて言わなかった。とんちゃん屋とかホルモン焼き屋とかいっていた。カウンターにガスのコンロが置かれ、モウモウとした煙の中で肉を焼く。壁一面、脂でべっとり。換気扇には、黒々とした脂埃がおどろ髪の如く風になびいている(ちょっとオーバーか)。壁には何年も前の生ビールを持ったビキニのお姉ちゃんのポスター。
 実家の近所に、親爺連中が一杯ひっかけるのに最適な、そんなお店があった。小さい頃、母親が外出で不在の時など、父に連れられ、ここで酔ったオッサンたちと一緒に夕飯を食べたものだ。お客はみんなご近所さん。そこで色々な情報を大人たちはワーワーと交換していたような気がする。
 ご主人はつるっパゲのおっちゃんで、夫婦二人だけで切り盛りしていた。お茶を頼むと、燗用のアルミ計量カップが突っ込まれている薬缶のお湯で作ってくれる。お燗の温度を調べるのにちょくちょく手を入れるので子供心にちょっと不潔だなあと思ったけれど、昔はそんなこと誰も気にとめなかったのだろう。
 あれから、三十年以上がたつ。おっちゃん、体を壊して店を止めたというところまでは知っているけれど、その後どうなさったのか。もう店自体を知る人が少なくなった。おっちゃんも生きてはいまい。
 この店、愚妻も子供の頃一度行ったことがあるという。お隣校下(校区)育ちならではのご近所話である。
 小綺麗な焼き肉レストランで、お上品(?)に豚足をいただきながら、小汚いのが懐かしいねえなんて話をしている。今もそんな個人営業のお店で盛業のところもあるのだろうが、世の中、弟世代になった頃には、潰滅する運命にあるようだ。
  もちろん、わたくしは、汚いのが美味しいといっているわけではありませんよ。念のため。


 

 2006年07月09日
  研究会に復帰する

 昨日、所属している研究会の月例会に復帰した。二年半ぶりのことである。午前の仕事が長引いて遅刻し、進行の邪魔にならないよう地味に話し合いに加わる。今月は、会発行の文学誌の合評会である。
 先日、原稿の依頼があり、この「ものぐさ日記」から一部を抜粋して、エッセイとして掲載したので、作者贅言を縷々述べ、同人の批評を受ける。私の気づかない問題点がいくつもあった。
 会のHPを運営されていた会員が、名古屋に転勤されて、頁が削除されていたので、こちらが引き継ぎ、五月、私のHPに一部を掲載、暫定公式HPとした。私が、最近、この会でお手伝いしたのは、このくらいである。
 あ、あと、二年先まで会費を納入している超優良会員という面もある(笑)。
  私の文章も含め、雑誌全般に誤字が多く、誤字誤植指摘大会になったのは御愛嬌であった。
 日記があるなら、毎号これで連載ができますねと会員から促されたが、せっかくの勉強の場、本当は論文を載せたい。でも、そんな新作、影も形もない。ちょっと忸怩たる思いが募って、はあ、まあ、と生返事をした。

 

 2006年07月08日
   愚妻の言語生活を暴露(?)する
  言い間違えが大得意な愚妻。職場でまた披露したらしい。
  北朝鮮が発射した長距離弾道ミサイル「テポドン」は、日本海側の人にとって脅威だという話題で、彼女、「ぽてどん」と連発し、同僚から「なんか、可愛いね。」と言われたという。確かに、殺傷兵器がぷっくり太った愛らしい九州男児になった感じである。
 この人と、長年、同じ屋根の下で暮らしているが、そんなベテラン(?)でも、未だに何言っているのかよく判らないことがある。
 よくやる間違いは、Aのことを喋っていて、途中、Bのことが混じると、内容はAに戻っても、口では「Bは」と言い続けること。聞いている人は、辻褄が合わなくて混乱する。
 ただ、さすがにこっちは慣れたもので、途中、「それ、Aの話ね。」と相づちをうって修正にかかる
 彼女、目的を持ってある場所に行っても、サブの目的を果たすと満足して、主目的を忘れてとっとと帰ってくる人である。それの言葉版であると思えば、すっきり理解できる。
 原因は性格である。治りません。
 一番困るのは、何についての話かを一切言わずに話し出すことで、何の話か推理するとっかかりがないので、まったく意味不明の話を聞かされることになる。全然、判らないと言うと、今度は、判りきっていることを、ずっと手前から懇切丁寧に話しはじめる。そこで、それぐらいは知っているよと遮ると、「貴方が判らんというから最初から話しているんじゃないの。」と急に怒り出す。おそらく、自分の話に何の情報が足りてないのか、瞬時に判らないのである。もう、ホントに困る。
 彼女、車の運転中に、唐突に「変だったわね。」と相づちを求める。何が変なのかちんぷんかんぷんである。どうやら対向車が変な恰好していたということらしいのだが、そんな一瞬で通り過ぎることを、助手席ならともかく、後席のこっちが観ていた保証は何もないではないか。会話としては、「今の車、見た?」からスタートでしょう。といった類の話である。
 まあ、しょっちゅうですから、私、慣れています。馬耳東風。
 そんな彼女が、実家から帰るとよくこぼす。
 「母ちゃんの話、よくわからん。」
 それ、何の話や? とよく聞き返すらしい。
 ほらほら、会話って、頭の部分がないと、以後、何聞かされてもさっぱり判らないでしょう。
 で、人のふり見て我がふり直せ。反省するのかと思ったら、彼女、「この母にしてこの子あり。仕方ないと思ったわ。」と宣う。
 そっちの方向で解決ですか。それじゃあ、これもやっぱり治りませんねえ、一生。
 2006年07月05日
  劇団コーロ公演「聖の青春」を観る

 今朝、うっとうしい梅雨の中、てくてく歩いて、嫁坂経由で金沢厚生年金会館大ホールへ向かった。勤務校の高文連文化教室で、劇団コーロ公演「聖の青春」を観るためである。

 

 この劇、ネフローゼ(腎臓病)と闘いながら、A級棋士八段となった村山聖(さとし)の二十九才の人生を描く作品。
 将棋という「静」の世界を、演劇という「動」の世界でどう描くのだろう、対局シーンの扱いなど難しそうだがというのが、観る前の危惧だった。
 実際、舞台を見ると、原作(大崎善生「聖の青春」講談社)に詳しく書かれている対局経過はほとんど省略するやり方を脚本家はとったことがわかる。その分、原作にない同病の女の子みきちゃん(服部桃子)を出して、彼女の死後も霊として現れ、主人公(大村倬也)と対話させるという、演劇ではよくある手法を用いて心の内面を描こうとする。
 休憩無し、一時間四十五分の比較的短い芝居だったが、大きな舞台転換もなく少々単調に映った。場つなぎ役が用語解説を始めたり、面白いとも言えぬギャグを飛ばしたり。また、師匠役(石井満)が、台詞を言った後に、すぐにこっちを向いて状況説明しはじめたり。お芝居の作法としては安易な進行が目立った。ラストの死も、あっさり師匠に語らせたのが我々が受け取った最初の情報で、その「溜め」のなさがあっけなかった。確か原作では死の床がしっかり描かれていたはずである。
 大道具も素っ気なく、何ともお金のかかっていない舞台である。
 かくほどかように、お芝居の完成度としては、もの足らない点が目立ったが、それでも、最後まで飽きさせず高校生を引っ張ることができたのは、芝居ではなく、村山聖という個性が残した生き方そのもののせいだ。
 私は将棋を知らないので、こういう人がいたことすら知らなかった。純粋で、頑固で、かわいらしい。
 パンフレットを読み直し、印象的な彼の言葉にラインを引いた。
「なぜこんな病気になってしまったのだろうか、自分は運が悪いといった感情は体にも心にもよくない。」
「病気になったことで自分が得をしたという考えになりました。」
「たくさんの体験をこの病気はくれたように思います。」
 こう言えるのは、深く悩んだ末の到達点だからである。
 立派な人である。

 

 昼、芝居がはねた。午後から授業。
 前にも書いたが、帰り道、勤務校へ最短距離の嫁坂は私以外誰も使わず、生徒全員、遠回りの大通り経由で学校に戻っていった。そのため、ノタノタ歩きでいつも遅れぎみの私が、今日に限って生徒より早く学校へ着いてしまった。
 肉体的ハンデキャップは、どう先を読むかという「頭脳」でカバーということかも?
 何十手も先を読む村山さんと、爪の垢ほどは似ていた?

 2006年07月04日
  あの頃の少年たちは   関西藝術座公演『少年H』を観る

(観劇感想文の頁(「私のかあてんこおる」)に新規アップしたものと同じ文章です。臨時にここにも掲載し、時期を見て削除します。)

 

あの頃の少年たちは 
              関西藝術座公演『少年H』第二六一回例会

 

 神戸に住む何の変哲もない普通の家族。父(門田裕)が洋服仕立て業で、外人との付き合いが多いことと、キリスト教信者であることが、ちょっと他の家庭と違うだけなのに、世の中の右傾化に伴って、どんどん大きな振幅となって少年H(樫山文哉)の身に降りかかってくる。
 物語前半は、夏休み、広島の祖父母の元に行き、農作業を手伝って、いい思い出になった話や、子供だけで船を漕ぎ出して漂流し、大人からこっぴどく怒られた話など、多くの子供が、程度の差こそあれ経験する武勇伝をいくつか紹介している。
 中盤に入ると、話は少しずつ戦時色が濃厚になってくる。父が特高警察に捕まる、学校では、耶蘇教信者、絵画好きというだけで教練の教官にいたぶられる、戦争末期には学童疎開で妹と離ればなれになる……。そんな中、徐々に深まっていく少年の鬱屈した心情が親との言い争いなどの中で語られていく。
 それにしても、どれもこれも昔からよく聞いた話だ。妹尾河童は昭和五年生まれ、我が老父は昭和三年の生まれで、ほとんど同世代。父も、やはり子供の頃、べったりと田舎で過ごして、その時のことを大事な思い出にしている。当時、夏休みは、そうした体験こそ大事だと親たちは考えていたのだろう。もちろん、忙しくて、じいちゃんばあちゃんに子育てを任せしまえというニュアンスもたっぷりあっただろうけれど……。考えてみると、補習補習の今の子供と違って、いい夏休みを過ごした世代である。
 舞台は、昭和二十年三月十七日の神戸大空襲に始まり、五年前に遡ってから、また空襲に戻っていく額縁構造になっており、最後に、家族全員生き残って希望を未来に託すシーンが追加されている。そこでは、自分を信じて生きようというメッセージが強調されるが、空襲のシーンで、すでに物語の円環は閉じられており、この主張はとってつけた感がして、素直に心に入ってこなかった。
 原作者が言う「少年の目の高さで自分が見たもの、耳で聞いたこと、感じたこと」を、「生活のディテール」、つまり、実感レベルで描いていくという趣旨は、描かれた内容からよく判ったが、個々のエピソードが寄せ集めで、且つ、新鮮味に欠けるように感じられた。
 その上、いちいち、「特高」は何か、「学童疎開」とは何かということを説明したりして、年嵩の者には煩わしかった。最後のメッセージから勘案しても、どうやら若い人向けの作り方をしているようである。
 終了後、隣席の友人に「このお芝居、明らかに教育現場の団体鑑賞あたりを狙っているわね。」と話しかけられたが、さすが同業者、アンテナは一緒、チラッとこっちも感じたことを、この人はズバッと口にする。
  演出面では、ストーリーの説明と道具の捌け、時に「その他大勢」を担当する役者たちを大活躍させて、楽しいお芝居に仕立ててあったし、役者も全員バイタリティあふれた熱演であった。また、焼夷弾の大音響も迫力ものであった。
 でも、なにか足りない。高校生向きと限定するなら合格点だが、大人向けだとしたら、物語の展開に、もう少し独自性がほしかったような気がする。           (昼は楽団、夜は劇団)
                            (2006・7・2)

 2006年07月02日
   岩城宏之氏を偲んで聴くオーケストラアンサンブル金沢

 先頃、音楽監督岩城宏之を失ったばかりのオーケストラアンサンブル金沢(OEK)の演奏を、県立音楽堂に聴きにいく。一年ぶりのクラシック演奏会である。
 発足時、県が室内級といえども大所帯の管弦楽団を持つことに、金喰い虫だと賛否両論があった(形態は財団法人、現在も年間支出の半分を公的支援で賄っている)。しかし、県民のクラシック音楽啓蒙にどれほどの成果があったか計り知れない。
 設立当初の実力は、正直、これからといった印象だったが、岩城氏の薫陶宜しきを得、みるみる上手くなった。五年ほど前には、拠点となるホールも駅前に出来、安定・成熟にむけて着実に年輪を刻んでいたところ。
 地方の楽団の旗揚げに一肌脱いで戴けたのは、その昔、彼が金沢に疎開していたというご縁もあるが、当時の岩城氏にしてみれば、ご自身のアイデンティティーでもある現代音楽の新作発表の場を作りたいという希望を叶える「器」だったという面も大きかったように思う。
 たびたび来沢されて、この大きくもない街で練習しているので、彼の仕事ぶりが漏れ聞こえてくる。新作を委嘱した老作曲家が病気で、演奏会に穴が空くと踏むと、個人的且つ秘密裡に若手に代作を依頼して事なきを得たり、演奏会二日前に上がってきた譜面があまりにも難しく、しどろもどろのリハーサルをした奏者に、どうせ間違うのなら、わからないように堂々と滅茶苦茶やれとアドバイスし、逆に、そんな難曲をギリギリで渡す作曲家の方を叱責したという。
 こうした融通はマエストロならではのことで、そうした氏の熱意に支えられていた部分が大きかったことは間違いない。
 その彼を失った。
 楽団といえど地方公共団体べったりの組織である。今後、求心力を失って、お役所仕事が全面に出てくる可能性がないとも言えない。将来、そのあたりが心配である。
 このオケのお陰で、私たち金沢人は、彼の演奏を何度も聴く機会があった。時に、一打楽器奏者として、ティンパニーを叩くというめったに見られない演奏も聴くことが出来た。場所はホテルの大宴会場で、全員、無料ご招待。彼が色々説明しながら叩いてくれて、アットホームな雰囲気が素敵だった。「今度はちゃんとお金払って、オーケストラのほうも聴きに来てくださいよ。」とちゃっかりPRも忘れてはいなかった。世界の岩城さんを宴会場の余興感覚で聴くなんて、田舎ならではの光景だったのではなかろうか。
 また、彼は、軽妙という言い方がぴったりの文章を書くエッセイの達人でもあった。偉ぶらないお人柄が彷彿とされる自在の文章で、音楽業界の人間模様が楽しく、闇雲音楽好きには、恰好の書き手でもあった。
 九十年代以降、次々重篤なご病気に罹ったにもかかわらず、最後まで馬力を落とさず走ってこられた。飄々としつつ率直。こと音楽に対しては厳しかったそうだが、自我を全面に主張するという「個性」ではなく、もっと日本的な意味の「お人柄」で人々を惹きつけた人だったような気がする。

 

 さて、今回の演奏は、姉妹都市バッファロー響女流音楽監督の指揮で、生誕二百五十年を記念したモーツアルト中心のプログラム。「トルコ風」は、我が勤務校出身のバイオリン奏者西澤和江。このあたりの人選が如何にも地元地元している。
 一曲目、ハーバー「アダージョ」は葬送曲としてよく使われる。彼の霊に捧げると、指揮者がたどたどしい日本語でアナウンスした上で始まったのだが、プログラムは前から決まっていたはず。偶然の一致なのだろうが、ちょっと不気味なくらいであった。
 バス時間の間が悪くて駆け込みで入場したので、三階横の断崖絶壁座席となって、舞台がほとんど見えなかった。片隅のコントラバス奏者二人が見えるだけ。
 まあ、しかたがない。ここのところ、梅雨の鬱陶しい暑さが続いていた。快適な冷房と心地よいモーツアルト。無理に覗き込むのも億劫である。寝るでもなく集中するでもなく、耳だけ働かせるという態度で弦の響きを楽しんだ。
 実は、このコンサート、教育弘済会の福利厚生企画で、こちらの身銭はない。OEKの生演奏を心地よいBGMがわりに聞く。ある意味、最高に贅沢な時間を過ごしたのかもしれない。

 

 2006年07月01日
  夜の病院
 老父が退院して実家に戻った。内蔵手術自体の回復は順調だったが、年来の膝痛持ち。年を追う毎に足腰が弱っていた上に、立て続けの手術で、ベットの上が長期になって、歩行が不安定になっていた。
 病院は、術後経過こそ心配してくれるが、運動能力低下はフォローしてくれない。入院中、特にプログラムが組まれている訳でもない。「手術成功して寝たきりになって戻ってきました」なんてことにならないよう本人が頑張るしかない。
 そこで私は、見舞いに行くと、父の歩行訓練の手引きをすることになった。
 最初は病室の階をぐるぐると。最後の方は一階ロビーや外来にも足を伸ばした。
 昼間多くの人が行き来し、職員が立ち働いている一階も、夜は静まりかえり、闇の中に緑の非常灯が床を照らしてる。その落差が、ちょっと病棟とは違う雰囲気を醸し出している。
 そんな中、声の大きな二人が雑談しながらゆっくりゆっくり歩く。十分毎に待合い椅子で一休みの繰り返し。
 先日、ロビーの吹き抜けに巨大な七夕飾りが出現した。横を通った時、明かりにかざして願いごとの短冊を読んでみる。多くは患者の書いたものだが、一つ、「ノー残業デイの実施と給料アップを。それに患者さんのご快復を。」というのがあって、いずこも同じと笑った。書き手はまず看護士さんである。そんなの見つけたと父に報告。
 たわいのない一休みの会話。
 でも、こんな暗い誰もいないロビーに親子が座って、ゆっくり雑談する。ずっと覚えている光景のような気がする。
 点滴だけで栄養をとっていた要安静の頃は、会話が噛み合わなかったり要領を得なかったりして、ボケを心配したが、長時間座ることができるようになり、軟飯に戻ったころからは、理屈も整ってきて、普通になってきた。
 健常者でも、横になっているとぼんやりしてくるもの。脳は真っ直ぐにしていて、はじめて動き出す。そうした姿勢の問題と、お腹が減ると力がでないのと同様、脳も栄養が足りないと動いてくれないのだろう。
 人間の体はなんと即物的なことよ。回復の様子を観察してそう思ったと、退院間際、本人に話したら、「そうか? 最初、そんなにぼけていたっけなあ。」と、ちょっと不服そうであった。
 まあ、当人からすればそんなものなのかもしれない。もちろん、その方が幸福にちがいない。
[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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