ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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彼には、『今日の芸術』(光文社文庫)という芸術論がある。一九五四年、彼四十四歳の時の作品で、芸術の先進性を判りやすく説明してある。この文章を読んだ時、テレビでの道化的パフォーマンスしか知らなかった私は、ああ、彼は覚悟の人なのだと悟った。 ほんとうの芸術は、内に激しさを秘め、批判的反時代的で だれもがそうしなかった時期に新しいものを創造する故、時代を創造するエネルギーをもっている、それに対して、モダニスト(近代主義者)は、模倣し、型として受け入れ、通俗化してその時代の雰囲気を作るという「安心されるあたらしさ」を演出しているにすぎない。芸術にはこうしたこの二面性があるという論旨。 戦後九年、この本はさぞかし新しい芸術の荒々しい宣言だったのではあるまいかと、当時を想像して感銘を受けた。彼の芸術はその実践。まさに「コップに顔があってもいいじゃないか」である。 会場には岡本かの子の洋服も展示してあった。彼女のファッションは自己顕示的で、良識ある人たちからは決して快く思われていなかったという。古いポートレート写真を見ても、戦前の保守的な風潮の中で、あの「巴里まねび」の洋装では、反感を買うだろうなという恰好である。 ところが、今、一つ一つを観ていくと、展示品解説にもあった通り、ごく趣味のいい、本場物を着ていたにすぎないことがわかる。現地で西洋的美意識を身につけた彼女、ますます保守主義に突っ込んでいった時代の方が、彼女の「普通さ」を許さなかったということなのだろう。 そして、このことと太郎の文章を重ね合わせると、彼の宣言が、そんな母のあり方を学んだ、彼にとってごく当たり前のことを表明していたにすぎないことが判る。つまり、彼の文章はおのずと母の弁護になっているように思われた。 太郎の絵には顔や目があるから子供にも理解しやすいとパンフレットにあった。縄文と同じく、何かプリミティブなわかりやすさ、無邪気さを内包しつつ、前衛手法で鑑賞者にぐいぐい迫ってくる絵。訳のよく判る訳の判らない絵たちである。 芸術家の信念は、恐ろしくシンプルである。ルオーが元ステンドグラス職人だったということで、大きく彼の芸術を規定しているように、岡本は、縄文と自己の芸術との親近性の発見と、古代人の秘儀に原初的な生命観を感じたことで、彼の芸術の正統性の信念を支えた。彼の絵からは、表面上、ほとんど気づかないが、遠くのほうで「日本」がこだましている。 一幅の絵だけを観ている限り判らないことも、こうして作品を通覧すると、その意志の中心がはっきり見えてくる。 現代詩でもそれは同じだ。この詩、判らないと思っても、それにこだわる必要はない。いい詩で判ると思った詩が一つでもあれば、その人のアンソロジーを一冊読めばよい。この詩は判る、この詩は判らないと思いながら全部読んでしまうと、なんだか、その詩人のこだわりが見えてくる、そのどことなく判った目線で、もう一度、判らないと思った詩を読んでみると、判るようになる。それと同じことが、こうした個人展にはあるようだ。
行きは能登海浜有料道路を使い、発症以来はじめて海を見た。これで、この夏、山と海を見たことになる。「七尾フラワーパークのと蘭ノ国」で花見物をしたり、帰りは国道経由で、あちこち道が新しくなっていることに驚いたりと、県内ながら腰に負担のない楽しいプチドライブとなった。
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大阪万博の「太陽の塔」の作者として強烈な印象を与え、その後もテレビCMなどに出演し、「芸術は爆発だ」の台詞も、もう諺のようになっている(?)、日本でもっとも有名な前衛芸術家、故岡本太郎。七尾美術館でその「岡本太郎展」が開催中だったので、高校野球決勝戦の日、夏行楽第二弾にしてラスト企画として出掛けた。 背景を庭園にした通路スペースに、例の「太陽の塔」の縮尺作品が置かれていた。他の作品が並んでいても、そこだけ、何か親しい感じを観るものに与える。あれだけ、昭和四十五年、来る日も来る日もニュースで見た人物を象った造形である。本来的に奇抜なはずのものが、全然奇抜に見えず、懐かしい人にお会いしたかのように見えるのが面白かった。なにせ、顔が前面に二つ、背中にも一つある多重人格者である。 大阪万博のディテールの記憶が、人々から完全に失われても、あの「太陽の塔」だけは残るだろう。ほとんど大阪万博と言う言葉と等価の象徴性を帯びている。 おそらく、今から考えると、岡本の前向きで情熱的な芸術の発想と、楽天的ともいえたあの頃の高度成長経済の時代性が一致していたからだろうねえと、夫婦の会話にしては、ちょっと高尚に話し合った。お互い、あの頃は学童で、彼女は見には行ったが、遠巻きに塔を見た程度で、裏に顔があったかまでは覚えていないという。 絵画作品では、やはり「森の掟」の本物が見られたのがよかった。彼の代表作、日本の戦後抽象絵画といえば、まず、これである。例の画面の中心がジッパーの怪物の絵。シュールで、でも、すごく判りやすい。 写真も多く展示してあった。素人はだしで、縄文土器の写真など、サイドから光が当たって、ほとんど専門物撮り写真家のようである。 以前、NHK日曜美術館で、岡本の写真にスポットを当てた特集をやっていて興味深く見た覚えがある。彼が写真を手がけていたことは、その時はじめて知った。原色の派手な絵や造型作品しか知らなかったので、彼の違う一面を教えられた。すべて白黒写真で、あのアグレッシブな絵画に較べると地味な印象だが、彼における縄文の発見と、日本の伝統の中に見られる秘儀性の発見のプロセスとして、芸術的センスを加味して撮られたものと位置づけられ、彼自身の解説文と共に読むことで完結するタイプの作品群であると思う。(つづく)
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三月の日曜、トレーニングジムに行くと、その日に限ってガラガラだった。なぜだろうと考えて、すぐ気がついた。ワールドベースボールクラシックの対韓国戦をやっている真っ最中だった。後でニュースを見ると、視聴率は五十パーセントを超えていたそうだ。 それにしても、このところ、国をあげて熱狂することが多くなった。サッカーも人気スポーツになって、ワールドカップが大きく取り上げられるようになり、日韓共同開催以来、人気も定着した感がある。今年のドイツ大会は予選敗退だったが、それでも、国民あげて一喜一憂した。 明るい話題の少ない昨今、国民全体が盛り上がるいい話題ではないかという考え方もできる。しかし、私は、どうも斜に構えてしまうのだ。 昔、こうした場は、オリンピックくらいなものだった。しかし、サッカー、国際野球と、国威高揚の機会が増えた。若者が熱く「ニッポン」を連呼している。そこに違和感を持つ。 今読んでいる阿川弘之の随筆に、「愛国心などといふもの、持つたことも考へてみたことも無ささうな若者たちが、スポーツの試合で、日本選手日本チームの勝利に熱狂する光景」に危惧を示す文章を見つけた。阿川は、それが自虐史観による抑圧からの爆発ではないかという意味づけをするのだが、その当否は置くとしても、確かに、自分なりの確乎とした国家観や国際関係の認識がないまま、漫然と「日本勝った。バンザイ。」では、ちょっと怖い気がしないでもない。例えば、対戦相手のプレーの好悪がそのまま国際間の好悪にスライドしてしまうような「愚」が平気で起きるのではないか。それに、為政者にとって、思想のないナショナリズムほど御しやすいものはない。 今のような閉塞状況の中、人々は高揚感を求めている。時代がそうした気分の時、それに違和感を持っている「個」はどうしたらよいのだろう。世間の方向性が自分の思いと違う時、どう対応すればよいのだろう。 戦前を思う。日本が戦争にひた走る端緒は色々あっただろうし、それをひしひしと実感していた人たちも多かっただろう。だが、結局、それは個のレベルに止まって、一部の人以外は、時代の風潮に違和感を持ちつつ沈黙していた。声高に反対するわけでもなく、時代の流れだからといって、世間と折り合いをつけながら生きてきた。その結果があの敗戦である。 では、自分はどうなんだと時々自問する。理屈と優柔不断な心に引き裂かれる。そんな決断しなくてもよい一生になってくれればいいがと、淡々(あわあわ)と祈るのみという心持ちでこの思考はいつも終わる。 応援に交じれなかった被害妄想、「頑張れ! ニッポン」に水をさす偏屈ジジイの白けた意見かもしれないが、どれだけの人が、この心配をしているのだろう。 ちなみに、敗戦記念日の首相靖国参拝問題。緊急世論調査では、今回、意見を転換した人が少なからずいて、半数以上が賛成だったという。他国がとやかく言う筋合いでないというのがその理由だそうだ。
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稀に見る好試合だったらしい。二十日(日)の高校野球決勝、駒大苫小牧対早稲田実業戦。 試合が始まった頃、私は能登にいた。お昼のいしり料理を美味しくいただき、食後の珈琲もゆっくり飲んで、お土産を買って帰路へ。四時過ぎに金沢に入り、大型ショッピングセンターに立ち寄った。 中央の待合い広場が人だかりになっている。妻の買い物をそこで待つような雰囲気ではない。みんな買い物そっちのけでテレビに見入っている。それで、まだ野球が継続していることを知る。 昭和三十年代の街頭テレビのような光景。カキーンとバットの音がして、アナウンサーの叫び声が響き、場がどよめく。 私はそんな音をバックに淡々と売り場で食材を買っていた。売り場の人たちも「十五回で引き分けなら再試合らしいわ。」とコソコソ話をして仕事が手につかない様子。 どうも空いている今のうちに買い物を済ませたほうがよさそうだ。 ふと、昭和五十四年の地元星稜対簑島の大激闘を思い出した。あの日も暑い日だった。私は繁華街にいた。午後、香林坊の映画館に入る時には始まっていて、見終わって館を出ても、あちこちから実況の声が聞こえ、まだやっていることを知ったのだった。 あの日、街全体が異様な雰囲気だった。時々、ため息や歓声が通りに洩れ、多くの人が熱中している気配が感じられた。でも、町全体としては人の動きが感じられない……。 自分は、そんな町の雰囲気とは無関係に、夕食をどこにしようかと飲食店を探していた。周囲と自分が切れている関係が、なぜか不思議に思えた。 これと同じ感覚を味わった。熱狂している大勢の人と、それに入らなかった自分。 このこと自体は、一緒に盛り上がれなかったある種の「仲間はずれ感」みたいなもので、情緒的意味以外の深いものはないと思うが、これを「時代の気分」と「個」という問題に置き換えると、安穏としていられない部分もあるのではないかという思いが湧いた。(つづき)
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もう一冊、永井永光他著『永井荷風一人暮らしの贅沢』(新潮社)はトンボの本。こちらは今年五月の新刊である。独居人としての日常生活にスポットを当て、身嗜み、食事、愛した街、花などをキーワードに、「断腸亭日乗」の記述を基に紹介しているので、読み物としてシンプルで分かりやすい。 荷風の持ち物の写真は、永井永光所蔵のものをプロの写真家がボケ味も美しく撮し、ゆったりとレイアウトしたもので、同じものは『図説』のほうにも多く掲載されているが、あちらは切り抜きで使っていたりして、写真を楽しむという感じではない。 町並みや花写真などのイメージショットも多数収録されている。資料として古い白黒写真を多く入れざるを得ない『図説』に較べ、白黒ポートレート写真を、机の木地を耳にしてゆったり接写することでカラー化するなどの手法を用い、白黒カラー混在を回避して、堅苦しさを排除している。つまり、こっちのほうがオシャレである。 話の中心は、どうしても昭和、それも市川移住以後になるが、それもわりきりがあってよい。荷風愛好家も、日乗に頻出する食べ物の実物や、行きつけの店の現在の姿などが判って興味が尽きない。 ただ、巻末の春本「ぬれずろ草紙」の抄訳と解説は余分であった。永井永光秘蔵ということで、以前公表したものを再録したようだが、本文の流れに合わない。ちょっとサービス過剰である。 荷風の文学は、今の感覚で読むと、古めしかしくて読みにくいというのが、一般的な感覚ではないか。筋に劇的な面白さはなく、人物も類型的。豊富な和漢の詞藻と情感溢れる描写に彼の文学の真髄がある。それに、彼の生きた時代を理解した上で、彼の文明批評的立場を実感して、はじめて全貌に触れ得る。だから、読者の成熟度に合わせて、何度読んでも発見があり味わいが違う。そうした意味で、人間荷風をまず理解するというのは、きわめて正当な入り方であるように思う。 だから、この本、愛好家はもちろん、文学自体はあまり読んだことはないが、荷風という個性にはちょっと興味があるといった人にうってつけである。 私は、最近、彼の作品を読む時、電子辞書を傍らに置いている。知らない表現を見つける毎に辞書を引き、その言葉の世界に遊ぶ。荷風は、本当に豊穣な日本語の使い手だといつも感心する。 今はそうした付き合い方をしているが、老境に達し、そんな勉強的態度でなくても、作品世界、隅から隅まで全部よく判る、それ以上何をかせんやの境地になったらいいなあと思いながら、今は今で、今の境地を楽しんでいる。
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ビジュアル系の永井荷風紹介本を二冊読んだ。 『図説 永井荷風』(河出書房新社)は、写真や図版をふんだんに使って永井荷風の人となりを紹介した文学アルバム。江戸東京博物館で開催された荷風展(一九九九年)をきっかけにして、六年後の昨年上梓されたもの。 同種のものでは、「新潮文学アルバム」中の一冊『永井荷風』(新潮社)がある。二十年以上前の出版ながら、今でもカタログに残るロングセラーシリーズで、コンパクトなハンディタイプの好企画。だが、ほとんど白黒写真でビュジュアル的に古くなっていたことは否めない。 それに対して、こちらはカラー刷りで判型も大きく、今ではこちらを薦めるべきだろう。説明もこちらの方が詳細で楽しめる。 川本三郎は、冒頭、序章で東京散歩の達人としての荷風を強調し、担当する後半生でも、その視点で人間荷風をわかりやすく描く。ところが、共著者で前半生を担当した江戸東京博物館学芸員湯川説子は、「日和下駄」「江戸芸術論」など、この種のビジュアル系本にしては異例なほど内容を詳細に論じていて、作品論的アプローチが目立つ。表現も論文的である。代表作を書いた時期を湯川、全盛期を過ぎた時期を川本が担当したため、それはしかたがないという面もあるが、多少の不統一感が残った。 また、湯川は、イデスとの情交を「愛欲にまみれた感傷」で「荷風の煩悶は、恋か芸術かではなく、いかにイデスと別れるか(中略)ということのみであった」と、ちょっと突き放したような評価を書き加えているが、川本の文章は終始暖かい。荷風の恋愛に対する男と女の受け取り方の相違が出ているわけだが、これも、一冊の本として、ちょっと不統一なように感じた。(つづく)
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先の出張業務の待機時間に、読むものがなくなって、同僚が持参していたコミック『ドラゴン桜』第十三・十四巻を読んだ。出来ない生徒を東大に受からせる話で、去年、テレビドラマにもなった話題本である。 各教科の受験テクニックのポイントを、重厚そうな教員が、さも大事そうに喋る。でも、どこかで聞いたことがあるようなアドバイスばかり。オレが授業でいつも言っていることばかりだと受験がらみの教員は、皆、思うそうだ。やっぱり? 私も、そう思いました。 黒板で喋る教員、座席で質問する生徒のシーンばかりで、絵に動きがない。なぜ、これを漫画にしなければならないのか判らないと洩らしたら、横に座っていた教員、「ストーリーの中で語られるから子供も読むんでしょ。活字ばかりの極意集だったら、今の子供、読みませんから。」とのお答え。どうやら、極意まで漫画にまぶして与えないといけないらしい。 正直、絵も下手だ。時々、頭身のバランスを欠く。異常に頭がでかいのが混じる。 主人公の若い実業家は偉そうな口ばかり。出てくる各科の教員も、老成した御尊顔の大家面。国語教員は、晩年の川端康成か年老いた芥川龍之介といったところである。 腫れ物に触るような昨今の生徒との関係。友達教員が基本のような考え方。そんな中で、こうした高飛車に方向性を示してくれる教師に対する憧れが、逆に人気の秘密になっているのではないだろうか。 なんと言っても、生徒にとってはその方が楽だから……。
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時々、覗きに行く有名なブログ「実録鬼嫁日記」。旦那のカズマさんが、いかに奥さんから虐げられているかを切々と語る人気サイトである。 先日、両手がふさがって、奥さんにデジカメを預けたところ、カメラを落下させたらしい。 パソコン画面を見ながら愚妻に話しかける。
小生「おい、カズマさんのところもカメラ落としたらしいぞ。」 愚妻「ふうん。あなたと同じね。」 小生「いや、落としたのは奥さんのほうだ。ちょっと持っててもらったら、落っことしたらしい。」
鬼嫁は、その時、こっそりバックに戻し、何事もなかったかのような顔をした。それに気づいた旦那が文句を言ったら、 「そんなに大事な物なら、何で私に持たせるのよ!( ゚Д゚)」 と逆ギレしたらしい。
小生「買って、たった三か月だそうだ。旦那はショックだろうなあ。」 愚妻「なに言っているの。そもそも、そんな大事なものを人に持たせた旦那のほうが悪いのよ。」 小生「え?!」
ワーイ。一緒だ、一緒。発想が一緒。 本人は頑として否定していますが、あなたは我が家の立派な「鬼嫁」さんです。
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カメラマニアはレンズマウントに縛られる。一度、一眼レフボディを買ったら、以後もその会社の製品を買い続ける公算が強い。 カメラ会社と顧客とは、そうした長いお付き合いの歴史があり、父から譲り受けて何十年来の御贔屓という話もざらである。これまで、カメラ専門会社の多くが、古いボディをイヤと言わずに修理してくれて、お客は、それに応えて、新しいレンズを買い足してくれる。電気製品売りっぱなしではない、先祖伝来の宝刀みたいなことが、カメラという工業製品では起こる。「カメラは文化だ」と言われるのはそのためである。 私は、銀塩時代からペンタックスだった。最初は深い考えなどない。安売りしていたから買っただけのことである。後で、自分は大企業のでなくてよかった、判官贔屓、スバル乗りの私にはうってつけの企業だと理屈をつけて、進んで仲間内で言うところのペンタ党員になった。 この会社、誰でも知っている一眼レフの老舗なのだが、キャノ・ニコ(キャノン、ニコン)の圧倒的体力差に負けて、尻つぼみ状態になっていた。海外の投資関係の大株主からは、デジタルは利益率が低いという理由で撤退を要求される始末。もちろん、そんなことしたら、即、潰れるだけである。 キャノンはレンズ内駆動モーターでオートフォーカスの早さを誇り、短期間でシェアを急速に拡大した。その伝で、手ぶれ補正機構もレンズのほうにつけた。レンズに何にも付かないペンタに動きはなく、ペンタ党員は淋しかった。完全に遅れている感が漂った。 それが、最近、ちょっと風向きが変わった。ボディはもともと小型軽量の伝統がある。そのボディに手ブレ防止機構をつけた機種(K100D)を出したのである。いちいちレンズにモーターや手ブレ機構を載せる会社は、レンズが重くてかさばり、値段も高い。それに対して、レンズに何もないペンタは、超薄型パンケーキタイプのレンズを揃えて、スナップ派を羨ましがらせる作戦に出た。他社の一眼レフ持っている人も、カメラファンだったら気になること必定の、厚みのない軽くて明るい単焦点レンズ群。 AF全盛時代になっても頑なにマウントを変えなかった融通のなさも幸いした。Kマウント全種ばかりでなく、安価なアダプターを装着すると、M42規格の古いねじ込み式レンズもすべて装着でき、すべて手ブレ防止の恩恵がつく。オールドレンズで遊べるぞとマニアックな連中は大喜びである。 また、企業体力がない分、同じボディを熟成しながら製品を新しくしているので、操作上の欠点が少なく、初心者にも優しい。今までは、カメラ買うならキャノンかニコンが一番と、心引き裂かれつつ、人に購入のアドバイスしていたが、今はちょっと違う。「ペンタもいいよ。」 なんだか、以前、この会社の駄目な点だと思っていたことが、裏返って、いつの間にか美点になっているのが面白い。 これを、お散歩カメラとして特化することで、メジャーとの競合を避け、ニッチとして生き残る場所を見つけたと解説すると身も蓋もないが、方向性が素人目にもはっきりわかり、俄に力強さが出てきた。 これで、元気を回復するのではないかと、今まで鬱屈していたペンタファンのネット掲示板の住人たちは、顔文字でバンザイをしている。 それにしても、なにが延命の綱になるか判らない。 「災い転じて福となす」 「禍福はあざなえる縄の如し」 「人間万事塞翁が馬」 「人生、楽ありゃ苦もあるさ」(水戸黄門)。 あれ、ちょっと違うか。
(画像は、手ブレ防止機構の説明図 PENTAX「美写華写ブログ」より転載)
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夏の昼は、外に食べに行くことが多い。今日はどこにしようかと迷っていて、思い出したことがある。 もう何年も前に潰れてしまったが、職場近くに店屋物屋さんがあった。丼や麺類など主力商品が美味しいからではなく、配達してくれて、サイドメニューの野菜餃子が美味しいというところが美点だったのに、お客に唆されて、ラーメン専門店に衣替えした。 新築なって食べに行ったが、出前電話がかかってきても、ご主人、配達は当分しないつもりですと断っていて、ちょっと不安になった。案の定、長続きせず、住宅ごと売家になっていた。あのご家族、どうしたのやら。ビルの間借り店舗のころから知っていて、ゆっくり右肩上がりのご商売を続けてこられていたのに……。 同じような話を、数珠繋ぎに思い出した。 市北部の、とあるガソリンスタンド。二級国道沿いにある何の変哲もない店だったが、ある日、南部の我々のところにもチラシを打って、大改装オープンを謳っていた。給油機が何基も立ち並び、大量に処理できる造り。そんなに客がくるのかなあと、寄ってみたが、何と、狭い敷地に給油機を並べすぎて、切り返しをしないと通りに戻れない。微妙に不便だった。これも案の定、何年か後には潰れていた。 あるお風呂屋さん。多くの銭湯が潰れたので、逆に、それなりに商売が成り立っていた。ある日、久しぶりに行ったら、洗い場の中央に小屋根の別室がどんと立っている。なにやら最新式の美容効能を謳ったもので、それを目玉に改装したらしいのだが、家の中に家が建っていて、その外で体洗っているような感覚になり、甚だしく違和感が残った。これも、暫くして売地になった。 この三つ、これまで通り地道に続けていた方がよかったのに、改装で大失敗されたなと思ったので今でも覚えている事例。 マーケットリサーチなどという今風の言葉とは無縁なご商売、ご主人の経験と勘でやってきた。それが、実入りが倍増しますよ、繁盛しますよと、専門業者に唆され、吟味不足のまま、繁盛の夢を見て、多額の借金をして改装してみたものの、どこかお客に違和感を与え、固定客さえ逃してしまう。ご主人は、みんなついてきてくれるものだと思い込んでいるから意外に思うが、もう手遅れ。前の店よりどんと売り上げを落とし、借金が返済できなくなって、夜逃げ。勝手な想像だけど、大体、そんな図式なのではあるまいか。 ご商売は大変である。だからこそ面白いのだろうが、私には到底出来ない。もし私が大店のぼんぼんで、店を継いだら、「売家と唐様で書く三代目」となるのは確実である。 そういえば、最近、あちこちで見かける閉店の張り紙。多くが素っ気なくて金釘流だ。常連としては色々事情を説明してほしいし、もう少し綺麗に書いてもいいのではないかと思うのだけれど、短くて下手な書きなぐりのほうが切迫感が出て、債権者に同情を買うので、それでいいのだという説を、丸谷才一あたりが唱えていたことを思い出した。あれはあれで深慮熟考した書きぶりなのかもしれない。 失敗は失敗してから失敗だよと周りが教えてくれる。事前に気づかなかったのかというと、当事者は、やはり、気がつかなかったのだろう。 客は、その店の、ということは、その店の主人の人柄を含んで、美点と欠点によく気づいている。常に周りと対話して情報を収集し、自己認識に努める。いいころを伸ばし、欠点を潰した上で、ジャンプアップする時には、いいところを生かすことを最大限に考える。長続きするにはこれしかない。 この態度、何も商売ばかりのことではないなと思った途端、これ、部の訓話に使えるかも? と思ってしまった。 イヤハヤ、お説教好きな教員稼業の哀しい性であります。
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我が家のリビングは真西を向いており、午後の日差しは耐え難い。冷房の機械は、以前の狭いアパートの六畳用をそのまま持ってきたので、真夏の日中にフル稼働させても部屋は冷え切らない。そこで、昼間、いかにここから逃げるかを考えねばならない。 今年も、どこに遠出することもなく盆を過ごした。去年と違うところはジムが営業していることで、これ幸いと避暑目的で日参した。 もう一つは美術館。無料券で石川県立歴史博物館夏季特別展「伊勢神宮の神宝展」へ。 先日の「ルオー展」もそのニュアンスがあったが、今回はそれが第一の目的。これが、「立て! 万国の労働者展」でも行ってたはずである。(?) 二十年に一度の遷宮の際、千五百点に及ぶ神宝も作り直されて奉納されるという説明にまず驚かされた。それも、明治までは、民に撒下するのは憚られると、土に埋めたり火に投じて処分していたという。何とも不経済な話だが、技術の伝承には大いに有益とのこと。展示の多くは、だから、明治以降の作物。まったく同じ調度品の新しいのが今の神宮にも納められていることになる。 太刀・装束など儀典用のものは予想されたが、神道の成立に根ざした養蚕機織りの道具が高級伝統工芸の技法でいくつか並んでいたのにはなるほどと思った。 カセ(峠の偏が木偏の字)は、糸を巻き取る工字型の器具、タタリ(喘の偏が木偏の字)は、カセ(糸の束)を掛ける器具。 その中で、御高機(おんたかはた 機織り機)だけは、実機ではなく三十センチほどのミニチュアだった。もう室町時代には小さいものが納められているので実用性は皆無。神道における絹帛の手業の象徴性を垣間見る思いであった。 実は、タタリなど、見学中、簡単な説明プレートだけでは、なんの道具か判らなくて、会場入り口に置いてあった目録の説明でようやく理解出来た。 他に、例えば、太刀には精緻な刺繍の平緒(長い厚みのある布)と紐の付いた鮒形(紐の先に鮒の細工物)がセットになっていたが、それぞれの役目はよく判らなかった。 また、文様の入った親指の股のない足袋が陳列してあって、解題に「襪」とある。後で辞書を調べて、この字が間違いなく足袋のことをいうと知る。各神宝の名称にJIS第二水準以外の漢字や見慣れぬ国字が多く、現代の読解一辺倒非常識国語教師レベルでは歯が立たないものも多い。 今の世の中、私レベルの人は多いのではないか。見学者全員、学のある方ばかりとも限るまい。もう少し、丁寧な解説があったらと思ったことだった。 類なき伝統工芸の伝承を目の当たりにし、漢字の勉強もちょっと出来た。逃暑目的で入場だなんて、神様や職人さんに対して失礼千万な言い草であったとちょっぴり反省しながらの見学巡行となった。 とはいうものの、観終わって外に出たら、まだ、むっとした夏の熱気が……。あ、もう少し涼んでいた方がよかったかなと、厳粛さが吹っ飛んで、すぐ第一目的に立ち返ってしまうのが、何とも我ながら判りやすい。 今日でお盆休みも終了。今年の夏は、体温超えのような猛暑がないので助かっているが、毎年、残暑が終わる頃には夏バテで熱を出していた紅顔の少年の成れの果てには、辛い季節が続く。
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六日、午前八時十五分、部の合宿で鶴来弓道場の開館を待ちつつ、カーラジオから聞こえる広島からの黙祷の声を聞く。 翌七日、NHKの特集番組「硫黄島玉砕戦」を宿舎のベッドで観る。硫黄島戦の全貌が判る好番組。吸い込まれるように観たので、大浴場の終い湯に入り損ねた。 グアム島・テニアン島が陥落し、本土への飛行航路上にある硫黄島が戦略上重要な意味を占めたこと、壕が全長十八キロに及び島全体が要塞化していたこと、上層部は本土決戦を決めていて援軍がこない捨て石だったこと、司令部が潰滅して以降の敗残兵の壕生活が生き地獄となったこと……。 つい六十数年前のこととは思えぬ凄惨な現実に粛然として見入った。殺してまで投降を阻止するかと思えば、反面、総攻撃という名の愚かしい口減らし。 玉砕の美名が喧伝された戦中から、戦後もかなり長い間、地獄を生き抜いた生還兵は、おそらく卑怯者呼ばわりされたのではないだろうか。
本人たちも、美名に散った多くの同僚たちをおもんばかって、現実はこうだったと声高に語ることを潔しとせず、黙して語らずの後半生を過ごし、齢八十、今語らねばという思いで証言しているのだということがよく判った。確かに今彼らが語らないと、あったことを知るものがいなくなる。 語りつつ慟哭する姿に、その人が一生背負わされたものの重さを感じて、こちらも辛くなった。語るお人柄は真面目そのもので、おそらく、愚直に生きることを自己の後半生に課した生き方をしてきたのではないだろうか。 今、硫黄島は自衛隊の基地になって民間人の立入が禁止されている。一万人の遺骨は放置されたままだという。今日、ニュースなどでも、硫黄島という地名が出てくることは稀である。口に上ることがなくなって久しく、記憶からこぼれつつある。誰も行けないから誰も知らない。上手い風化策である。 硫黄島は戦争の時の島、今ある島ではないかのように感じていた自分に、あっと声を上げて気づいた。 もしかしたら、我々は何者かに飼い慣らされているのかもしれない。
(弓道部夏合宿にて)
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年に一冊は、戦争について書かれた本を読もうと思って、数ヶ月前に購入していたもの。八月に入り、ニュースなどで戦争の話題が出て、モチベーションが上がり、一気に読んだ。もともと、二〇〇二年、NHK人間講座のテキストを単行本化したもので、分量は多くない。二〇〇五年六月の「あとがき」がつく。去年、戦後六十年として出版された本である。 有名無名の戦中戦後日記を紹介しながら、歴史的事実と子供だった自分の動きを交え感想を記していく形をとっている。 長年、多くの日記を収集し通覧したという。一般の人の日記は、日常の記録なので、日々の生活には詳しいが、戦争についての切実な文字を見つけることは難しく、やはり、文化人や直接政治にタッチした有名どころの、既に活字化されているものに意味のあるものが多いという。 野坂は、そこから、開戦以来、国民は何も考えないでおこうとする「思考停止状態」に陥っていたのではないかと気づく。 空襲・疎開の激動の時、彼自身は十四歳。見知らぬ福井で妹を死なせまいと精一杯だった。情報が入る状況ではないし、そもそも判断を下せる年齢でもない。 多くの日記を読むことは、彼にとって、あの時、まだ子供でよく判らなかったあの時代の意味を考えるということ、そして、その時代に生きた自分を見つめ、確定させる作業ということなのであろう。私は、全然、よい読者ではないが、彼の原点は、この短い文章からもよく判った。 彼の文体は、思いが先走るタイプで、文頭・文末が捻れている場合が多い。書いていて、次の思いが湧いてきて、それをそのまま終止しないで繋げるといったもの。慣れるまでは読みにくい文章であった。途中からはスムーズに読めたが、最後まで慣れなかったは、体言止めが多用されていることで、省略した文末をこちらが考えねばならず、時に単純でない場合もあって、これはちょっと不親切に思った。そのたび毎に立ち止まらねばならない。自分も注意が必要だと自戒しきり。
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出光コレクションによる「ルオー展」を石川県立美術館で観る。いくつかの作品を各地の美術館で観たことがあるが、小さな額縁にキリストの顔を描く画家というくらいの知識しかなかったので、今回、楽しみにしていた。もちろん、暑さを避けるお出かけ企画としての意味も重々ある……。 最初に掲げられていた年表で、戦後まで生きた比較的最近の人であることを知る。それと、おそらく画風からだろうが、当初、彼を評価しない人々がおり、中年以降、広く名声を得た人のようである。 若い頃、ステンドグラス職人であったという記述を見て、彼の創作の根の部分に気づく。黒くて太い枠線の中に原色系の色を置く。特に、順路冒頭の「受難」(一九三五)の連作など、深い青色に枠が切ってあって、その一部にだけ絵が描かれて、古びた青銅に嵌め込まれたステンドグラスの趣そのものであった。 厚く塗り固めて立体感を出し、それを削ぐ手法で、地肌に陰影を加える。その絵の具の肌具合がいい。写真製版では絶対判らなかった質感である。 白黒の版画的な作品も、多くの技法が施されているそうで、近づいて眼鏡を外し、細部を点検すると、確かに単純な刷りものではない。ぺったりとしてしまいがちな単純な版画にはない白の輝きとグレーの深みを感じるのはそのためだ。 彼の作品は、太い墨でさくさくと書いたシンプルに見える絵が多いのだけれど、そこに多様な技法を使って塗りの陰影をのせる。だからこそ、対比的に深みの世界に到達する。笑っているかのようなキリストの顔の絵を観ながら、彼が新しいタイプの、まさに現代に生きた宗教画家であることを実感した。ただ、晩年は黄色が使われるようになってカラフルになり、多少、作風が違ってきたように感じた。ちょっと見る者の好き嫌いが出る。 茨木のり子の詩の一節に、「だから決めた できれば長生きすることに/年取ってから凄く美しい絵を描いた/フランスのルオー爺さんのように/ね」(「私が一番きれいだったとき」)というのがある。青春時代を戦争で奪われ、長生きを誓う有名な詩の末尾である。茨木さんは、こんなにたくさんあるルオーの、どんな絵を念頭にこの詩を書いたのだろう、聖書に材を採ったもの、あるいはサーカスの人々のほう? などと思いながら観て廻った。 帰宅後、この詩が載った詩集『見えない配達夫』が一九五八年の刊行であることを知る。まさにルオーの死んだ年である。この詩の正確な制作年月日は不明だが、この詩を彼女が書いた時、画家は存命中で、旺盛に「凄く美しい絵」を描いていたのかもしれないし、あるいは、ちょうど流れた死のニュースにインスパイアされてこの末尾が出来たのかもしれないということが判る。 いずれにしろ、単に歴史上の好きな画家だとか、長生きした芸術家の例としてルオーを持ってきたのではなく、同じ時代を生きたうらやむべき晩年を過ごしている人生の直接の先輩として、つまり、自分の身近な人として彼女は彼を想起していたということだけは間違いないことのようである。 一九五八年、二人の人生が私の脳裏で交錯した。 今年、茨木さんが七十九歳で亡くなっている。ルオー爺さんは八十六歳だ。若い頃の決心よりちょっと短い人生だった。
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入院中に「週刊現代」で連載していることを知ったエッセイの単行本が出ていたので、新刊平置きで購入する。以前読んだ犀星の校歌の話はまだ載っていなかった。あれは続刊に載るのだろう。 彼の出世作、金沢から発信した名エッセイ「風に吹かれて」の新シリーズ。イラスト・題字は「深夜草紙」などで古いコンビの村上豊画伯。 何もかも昔と同じ装いだが、果たして中身はどうかという気分で繙く。 以前読んだ『みみずくの夜メール』(朝日新聞社)より文章がしっかりしている。各編、玉石混淆の感は否めないが、ちょっといいものも多い。 御年七十歳すぎの方の文章として読むと、その若さに驚く。貶言ではない。老死に対する感慨など年相応の話題もあるが、車の蘊蓄、元マスコミ人間として現代の撮影技術との比較など、扱う話題自体が若いのである。戦前で言えば、老作家と言われるような年齢、思いつく文豪の七十歳すぎの随筆と較べると瞭然の感がある。結構、年下の中年男性が読んでも、隔て感がない。自分たちが日常囲まれている文明の中で息をしてきた人、その先輩格といったスタンスで我々は受け取ることができる。そこがこの人の個性である。ダンディな、まだまだ現役バリバリで感心することしきりのマスコミ会社の大先輩といったあたり。 週刊誌連載なので、ターゲットはビジネスマン。もちろん、そのあたりは意識的な仮構でもある。 腰帯に、一泊二日、金沢文藝館で氏の講演を聴く「金沢文藝の旅」プレゼントとある。私は応募すべきか迷った。 全員、金沢人を当選させたら、安上がりますね。企画担当者さん。
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一年前に買い、常に携帯していたコンパクトデジカメ(リコーGX8)を落下させた。修理見積は二万円を超える。カメラの心臓部のユニット交換だそうで、中は新品、外殻だけが以前のカメラ状態となる。現行機といえども底値になっているので、一万円足すと新品が買えてしまう。常識的判断では、諦めたほうがいいのだろうが、ワイコン、充電池、充電器など、買い足した別売品が死んでしまうので迷いは尽きない。 ライフサイクルの短いデジカメの世界。後継機がすぐに出るというのなら、絶対そっちだが、今のところ何の情報もない。もう後継機は出ないという話もあり、そうしたら、高くても直した方がいいのかもしれない。 どうすればいいのやら、返事をしなければならならず、ネット掲示板に質問してみた。いつも読むばかりで、自分から書き込むことはほとんどないのだが、いくつか返事が返ってきた。 オプションはネットオークションで売ればよいなど、修理無用の意見ばかりだ。ただ、「愛着がなければの話ですが」という但し書きがついている。 確かに、これが一番問題である。はっきりと愛着があるのなら結論は決まっている。だが、一生ものの半手製クラシックカメラと違って、デジカメは大量生産の工業製品である。よく使ったという意味なら、それなりに使ったが、それ以上の「思い入れ」を強烈におこさせるジャンルではない。 迷いに迷った挙げ句、修理に出すことにした。しかし、ウエットに「愛着心」が出て修理したのか、二万円で同一環境に復帰させるのが一番安上がりだとドライに判断したのか、あるいは別の気持ちのせいか、自分でも判然としない。 ゴーサインを出しにいったカメラ屋さんでは、ご主人がちょっと意外そうな顔をしていた。修理直後に改良機発表なんてことになったら悲しいなとこぼしたら、でも、その覚悟で出して下さいと言われた。 常識はずれの結論だったのだろうか。今でも全然自信がない。 なお、この案件については、今年、ブランド時計落下の前科がある愚妻は、それ見たことか、あれだけボロクソ言いやがって攻撃を展開しており、我軍は、現在、黙して敵の舌鋒を鋭意回避中である。
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立て続けの泊仕事がようやく一段落し、十一日ぶりに職場に戻った。出張中、思ったことをメモした中から、二つ載せる。
草いきれ 某日、ぎらぎらした日差しの午前、白山麓の白峰村(白山市)に向かって車を走らせた。 山々の緑が眩しい。ここ数年、行動範囲が町中だけだったので、フロントガラスの視界全面が緑という景色を見たことがなかった。信号も少なく相応のスピードも出る。緑が後ろへ後ろへ流れていく。新しい山並みが次々開ける。一度人生が止まっていた私は、それを見ているだけで心が動く。 高原の公共施設での業務。標高は千メートルくらい。温度は下界より数度低く、すごしやすい。 寝場所はロッジだった。夕方、そこに荷物を置いて、緑の芝の中を、一人、本館に戻る歩みを進めていると、薄暗く朱に染まった空の彼方からカナカナの甲高い声が聞こえた。ああ、久しぶりの声と思った瞬間、今度は、草いきれがふわっと私を包みこんだ。 急に涙が出る。初めて街を出て山懐に包まれたかのような気持ちの揺れ……。 珍しくもない山間の光景なのだけれど、視覚とか嗅覚とか、感覚器にダイレクトに刺激を受けると、どうも滅法軟弱な心持ちになる。 悲しいとかうれしいとかいうのとはちょっと違う。まだまだ体は痛いけど、少しはよくなっている半病人特有の感傷的な気持ちを心に引きずっている。 本館に着くまでに目の雫は乾いた。ロビーには同僚や生徒がたむろしている。 「さあさあ、飯だぞ飯。今日のメニューはなんだろうねえ。」 いつもの雑談好きのオッサンに戻る。
朝刊の記事から 忙中閑、新聞を開く。死亡欄を読む。 ここ数年、愛読者になって、エッセイを何本も読んだ小説家吉村昭が、膵臓癌で亡くなった。七十九歳。数年前、講演会で謦咳に接し、その時はお元気だっただけに意外の感あり。 あの人らしいストイックな筆致の随筆は魅力的だった。若い頃、肺結核で生死を彷徨った話を彼は何度も書いている。誼のあった人の葬儀には必ず参列する日常の態度なども含め、あの人の文学のまなざしには、それを乗り越えた人ならではの人生観が反映されている。対象にべったりはしない。距離を置きつつ、しかし、相手への慈しみは忘れない。大人の接し方である。 彼を有名にした記録文学も、そうした彼の人生態度を反映した「義理堅さの文学」ではなかったかと思われる。 青年劇場の森三平太も同世代の七十八歳。私は何度も彼の演技を観た。軽妙な役柄に実力を発揮するタイプで、存在感があった。 「思想の科学」の鶴見和子の名も。八十八歳。祖父は後藤新平とあって、単純に驚く。自宅は京都の有料老人ホームという。晩年は住民票もそちらにして生活されていたのだろう。 立派なキャリアを積んでこられた方々。業績がかいつままれて短い死亡記事になる。 同じ紙面には、野球の王監督が胃全摘出手術より退院したという記事もあった。今年春、日本は、国際野球大会(ワールドベースボールクラシック)優勝で盛り上がった。プロ野球球団の監督をしながら、全日本の監督兼任で長期外国滞在。正直、無理をなさったのだろう。 我々は「巨人大鵬卵焼き」世代である。あの頃の子供はみんなON(王・長嶋)がヒーローだった。印刷ものでも、サイン入りボールを持っている子がいると羨ましかった。現役成績、その後の監督としての業績、申し分ない。漏れ聞くところ御人格も高潔という。 優勝で、王さん、やったあ、と思い、入院で心配する。昔の憧れの人が今も現役で頑張っている。我々卵焼き世代は、急に昔の子供の気持ちに戻って、王さん、ガンバレガンバレと思う。 六十六歳。今日のお三人よりぐっとお若い。いろいろ制限も出てくるだろうけれど、まだまだ我々に夢を与えてほしいものだ。 幼子がプールの吸水口に吸い込まれて死亡し、大見出しになっている社会面で見つけた四つの記事から。
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ようやく前期補習が終わり、日帰りレジャーを楽しんだかと思う暇もなく、仕事で怒濤の連泊。合羽ならぬ腰痛座布団絡げた旅烏状態となります。
このため、この日記はしばらく中断します。 「ガッコの先生は羨ましいですね、夏休みがあって。」と、また言われました。
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お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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(マイノートパソコンと今は無き時計 2005.6 リコー キャプリオGX8)
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