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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2006年12月31日
  一年を振り返って
 去年と同じ生活を繰り返したというのが端的にいって今年だった。プライベートでは、少しは外に出ようと努力したことが小変化。去年より遠出している(といっても隣県程度)。そのため、この日記もお出かけ報告が多くなった。
 この日記を書き始めて二年。初年はほぼ毎日書いた。去年の今日、宣言してペースダウン。それでも思っていたよりも書いた。去年も触れたが、大きく変化のない給料取りである。一年書けば後は繰り返しで、落ち穂拾いになる。来年からは、週二回程度にスローダウンしたい。
 今年のご愛読を感謝申し上げますとともに、来年のゆっくり更新にもお付き合い下さいますよう宜しくお願い申し上げます。
 今年は暖かい十二月でしたね。
  よいお年を。
 2006年12月30日
   明日は紅白

 何の拍子だったか、文化論の読解の時だったかに、昔は「NHK紅白歌合戦」を一家団欒で見るのが正しい大晦日の過ごし方だったのだという話になって、では、今、どうなのだろうと挙手してもらったところ、茶の間で家族と一緒に紅白を全部見るという子は皆無であった。別のクラスでも同じ結果。いったい何の調査しているんだと呆れられそうだが、今の子供は紅白なんぞとりたてて興味もないようだ。
 かつて「一家団欒で紅白」というのは家族の絆の象徴のようなものだった。その本丸でかくの如し。今は何で団欒を図っているのだろう。視聴率の低落を、誰も手を挙げないという現実ではっきりと実感した瞬間だった。
 この子たちが人口の大勢を占めるようになった頃、「紅白」は、ない。

 

 2006年12月29日
  (つづき)

  ブルーノートレーベルに佳盤はあったが、一時期録音が途絶えた。しかし、七三年、久しぶりに北欧のレーベルに吹き込んだ「フライ・トゥ・デンマーク」(スティープルチェイス)で、日本のジャズファンの心を掴む。上手くはないが、真摯に一音一音いとおしむように弾くピアノの音色、でしゃばらないポコポコとした太鼓のウォームな音、ピアノソロ部のバックにつける静かなシンバルワーク、若き地元ベース奏者の堅実な弦の響きなどが全体としてしっとりとした雰囲気をたたえ、真っ白な雪の森の中に彼がぽつねんと佇む北国らしいジャケットと共に印象的な作品になった。
 その後、乱発と言えるほどアルバムは制作されたが、多才の人ではない、同じ曲が何度も同工で再演されることとなり、結局、この盤を超えるものはなかったように思う。
  私の同僚が、たまにはJAZZも聴いてみたいということだったので、CD何枚かお貸しした。その中にこの盤を入れた。ちょうど死亡記事を読んだ直後だったので、「この人は死にたてです」という不謹慎なコメントを付けて……。戻ってきた時、やはりこれが一番ヨカッタという。

 そのジャンルを聴かない人が一聴いいと思うCDを創ることができた音楽家は幸せである。
 年の終わり、ここに駄文を作し、彼の冥福を祈りたい。

 

(追記 あと誰がいるのだろうと考えたが、すぐに思い浮かんだ。ハンク・ジョーンズ(p)、御歳八十八。今年、「東京JAZZ2006」で来日もした古老。現役バリバリである。)

 2006年12月28日
   エピタフ  デューク・ジョーダン(p)を偲ぶ
  今の時期、新聞に今年逝った人の一覧「墓碑銘」が載る。ああ、この人も亡くなられたのだという感慨をもって名前を見つめる。
 今年の後半、デューク・ジョーダン(p)のCDをよく聴いていた。
 九月下旬に発売されたスイングジャーナル誌で、八月に彼が死んだことを知った。その中で、晩年まで自宅に出入りし親しかった日本人が追悼文を書いている。数年前に倒れて以来、ピアノを弾くこともなくなり、自宅に籠もった毎日だったそうだ。誇りを持ち生きる証としていた仕事が出来なくなった人の気持ちを思うと胸が痛む。
 彼のプロフィールには、「若き日、モダンジャズの開祖チャーリー・パーカー(as)と共演した。」と必ず載っている。その追悼文によると、本人も人生最も輝かしい日々だったと回想していたという。また一人、モダンジャズの創世期を経験したジャズマンが逝ったことになるが、あと誰が残っているのだろう。フリー全盛期には食えなくなってタクシー運転手をしていたという話も有名で、活路を北欧に求めてコペンハーゲンに居を移し、以後、かの地を本拠地にした。
 彼は一九二二年生まれ。当時のボス、パーカーはと調べてみると一九二〇年生まれで、二歳しか違わない。若い音楽同様、若いバンドだったのである。このバンドにいた、もっと若造のマイルス・デイビス(tp)は一九二六年生まれ。マイルスは一九四七年四月から翌年十二月までバンドに在籍しているから、その間に、この四歳年上の先輩と仲が悪くなったようだ。後年、マイルスは彼のことをあしざまに貶している。北欧に移ったのは、後のJAZZ界の帝王に嫌われて、アメリカで仕事がしにくかったという事情もあったのかもしれない。
  モダンジャズ初期に吹き込まれた演奏を聞くと、サックスなどに較べ、ピアノの演奏技術が、その後、長足の進歩を遂げたことが判る。ピアノの部分だけを聞くと、今の耳には物足らないものも多い。後に流麗なピアノスタイルが全盛となると、彼の場合、テクニックで聞かせるタイプではないだけに、主流に留まることはなかった。(つづく)
 2006年12月27日
  この世界の住人

 職場は、先週、午後、保護者懇談会だった。級外は、こんな時、たまった雑務に精を出す。体調がよくなかったので、自分のペースでできる仕事で助かった。
 昼休み、ニュースを見ると、数年前、金沢で起こった少年による一家殺害事件の判決、岡崎の中学生によるホームレス殺害事件続報、大阪の高校生によるリンチ殺人事件など、未成年者犯罪のニュースがずらっと並んでいて、気が滅入る。今年は未履修問題で揺れ、教育基本法改変の背中を推した。愛国教育がどんな形で現場に導入されるのか。
 廊下を通る。三年の女子が目を腫らしながらしながら通り過ぎる。三者面談で、意に反した辛い事実を突きつけられたのだろう。この時期以降、時々目にする光景である。
 和室からは、カルタの声が聞こえる。ああ、この季節らしいと心が和む。

 

 先日は研修。金沢大学から関係者が来られ、再来年度からの組織改編の説明があった。「学部から学域へ」というのがお題目。
 変える変えると話が出て十年たつ。のんびりした学校である。これまで学問別学科別に細かく定員を切っていたのを、「学類」という中領域で大きく採ることになるという。あとからゆっくり選択させ、各コースは予定定員の一倍半(人間社会学域の場合)まで増員可能とのこと。ということは、閑古鳥の鳴くコースが出てくることになる。
 入りたい学科かどうかはともかく、腹をくくって受けていたこれまでと違い、あとで選べばいいということは、実学に人気の集まる最近の傾向からして、基礎学問系の苦戦が予測される。教授側から言えば、「お茶引き」の恐怖である。十年先には人員配置数の変更、不人気コースの撤廃もあるかもしれない。説明の教授は、他校の事例などから見て問題は起こらないと、あくまでも前途洋々将来薔薇色的楽観主義だったが、聞いていて、地域の基盤総合大学として学問の均整性に問題が起こるのではないか、ひいては地域の人材や産業にまで影響するのではないかと多少の不安が残った。
 また、これを学生側から言えば、進路決定が遅延してもよいということである。ただでさえ職業意識が希薄になっている。一層の目的意識曖昧化が懸念される。
 確かに実践的な学類を新たに開設したり、AO入試の実施など、多少の真新しさはあるが、「枠組みとラベルを変えただけだねえ。「地学科」は「地球学コース」という名前になるんだ。覚えなきゃねえ。」といったレベルで我々はパンフを覗いていた。何十年も前に流行った「パラダイムの変換」とそれに伴う領域跨橋的な統合学部の新設の嵐が、とっくの昔に落ち着いた今頃になって、やおら出現した真冬の幽霊ような感じは否めないが、何分、緒についたばかり。今後の推移を見守りたい。

 

 あれこれと、大局を心配したり眼前の子供たちのことを思ったり、暗くなったかと思えば和んだり……。
 こうして、この世界に身を置きながら過ごしている。
 さて、机の上を拭いて、明日は仕事納め。

 2006年12月26日
  恒例(?)カメラ業界今年総括 あら珍し、ペンタが話題になった一年

 判らないものである。今年三月にデジ一眼を買った時は、トレンドに遅れ気味のいつもの(?)ペンタックスだったのに、夏、手ブレ補正機構付き入門機K100Dでスマッシュヒットを放ち、秋、続く中級機K10Dでは発売前から話題沸騰、発売を延期して量産しても未だにバックオーダーを大量に抱える程の大人気となった。業界WEBサイトでは「ペンタックスの逆襲」なる見出しさえ躍る始末。
 たった半年で会社の業績は劇的に変化するのだと感心していたら、先日、硝子会社HOYAとの合併が発表されて、また驚く。「財務諸表」から見ても会社規模が違うし、記事中、ペンタックスが「被合併会社」と表記されているので、事実上、吸収合併のようである。慌てて、私にしては珍しく株価や経済関連記事を調べた。
 今時珍しいオールドファッションの会社だったが、財務管理の傑出したHOYAの企業論理が導入され、少しずつ体質は変わっていくだろう。安物レンズからステップアップしようとすると、ドンと超高価レンズになるキャノンなどに較べ、手の届く価格範囲に、カメラ好きが楽しめるレンズのあるというラインナップは崩してほしくない。
 赤字になったらカメラ部門がバッサリ切られるリスクを負った反面、豊富な資金を導入して、今まで出来なかった展開をはかれるうまみもあり、一抹の不安はあるものの、ペンタ再興の一環、前向きに判断したと考えればよい(のかもしれない)。
  「生き馬の目を抜く」という言葉が浮かぶ。経済の住人にならなくてよかった。絶対見通しを誤り失敗している。
 それにしても、秋の一時期、なぜか株価が下がった時があって、あの時が買いだったのだと、株式のことなど一切知識のない私でさえもはっきり判った。うーん、ちょっと残念だったかも!?

 

(追記……その後、この合意は撤回され、話を進めた社長は、内紛の末、解任。HOYAは敵対的TOBに転換かというニュースが流れている。今後どうなるか、先行き不透明なまま。その時その時の判断が正しかったかは結果次第。生き抜いていくのは本当に大変だ。

 時事話題を書くと、フォローが必要になる場合が多い。なかなか難しい。2007.4.22)

 2006年12月25日
  夜書いたラブレターは出すな
 今ひとつの体調なので、今日も小話。
 「夜書いたラブレターは出すな」ということわざ(?)があるそうな。愚妻がひょいと使った言葉。蓋し名言かもしれない。
 彼女、どこからも残業手当なんぞ出ないのに、よく深夜にテストづくりをする。彼女が言うには、いい問題できたと思っても、翌日読み直すと「木を見て森を見ず」的な問題ばかりで作り直すことが多いという。夜はじっくり取り組める反面、意識が先鋭化して全体が見えなくなる。
 夜の思いは恐い。
 今時、夜中に思い溢れて恋文をしたためる人など極少数派だろう。今なら「夜中のメールは出すな。」といったところか。
 2006年12月23日
  紙のほう
 ある生徒さんが図書室にやってきて言った。
「紙の辞書、貸し出し出来ますか。」
「それって、本のほうという意味?」
 ついに「紙の」と、こっちに限定がつく時代になった。この分では、電子辞書の「電子」という言葉が落ちるのは時間の問題かもしれない。
 2006年12月20日
  ちょっとお休み
 駅前に大量発生していた異星人の異次元光線にやられ、翌日から体調不良でダウン寸前。ちょっと更新はお休み。
 2006年12月16日
  町は師走の賑わい
 四方君の祝賀会が駅前のホテルであった。昼間にホテルに入るのは久しぶりで、館内はクリスマスの装いに溢れていた。
 一階ロビーの一部がいつの間にか改装されてチャペルもどきになっている。これは隣のホテルもそうなっていたから、ちょっとしたブームなのだろう。近時乱立した郊外独立型教会風結婚式場に対する巻き返し策のように見える。式の開始を待っている新婦のウエディングドレスの裾が床に末広がって美しい。宴会フロアに到着すると、おめかしした式出席の女性たちも行きかう。
 祝賀会終了後、せっかく駅まできたのだからと、出来たばかりの金沢フォーラスというテナントビルを覗く。流行りの寒そうな薄物ファッションに身を包んだカップルがひしめいている中、背広にネクタイ、ドブネズミ色の外套を着てヨタヨタ一人で歩いている私の場違いさ加減にすぐ気づいた。
 目映い光りを放つアクセサリー店、二十歳代限定の洋服店……。
 私が若かった頃に較べて、若い男性は本当に自分を飾るようになった。時間をかけた髪型、大抵、何かしらの装身具を身につけている。化粧をしている男も何人か行き交った。
 そんな若者から見ると、何でこんなオッサンがこのビルを歩いているのだというふうに映ったかもしれない。若い頃、オッサンだなあと思った人種に自分が確実になってる。そんなこと重々判っているのだが、こうした場に入ると、それを突きつけられているような気がして気が重くなり、エスカレーターで上階まで上がって、そのまま踵を返して下りに乗った。
  地味な背広姿の仕事場、生徒たちは制服という単一恰好。思い思いにジャラジャラ着飾った人々を大量に見ることに慣れていない。別の惑星に迷い込んだかのような気持ちだった。
 年寄りの気持ちって、こんなだったのだ。
 2006年12月15日
   太宰治『富嶽百景』を読む
 高校時代以来だから三十年ぶりに再読した。あの頃、見事にかぶれて新潮文庫で殆どの作品を読んだ。大学時代に、筑摩書房の何度目かの全集刊行があったので、それを買っていたところ、途中で版元が倒産し、完結しないのではないかとハラハラした覚えがある。
 教科書では『津軽』が採られていて、久方ぶりに読んで準備しかかったら、今年は『富嶽百景』でいきましょうということになって、慌ててそっちの予習を始めた。
 教科書を読んでみると、四箇所省略してある。冒頭部、旅にいたるいきさつの部分が省略されているのは、太宰の糜爛した実生活に深入りさせない配慮からだろうが、それがないので、唐突に出てきた「思いを新たにする覚悟」という言葉のニュアンスがちょっとぼけてしまっている。
 その他では、僧が俗だったいう話、遊女がやってきたという話、花嫁が欠伸したという話などが省略されている。つまりは聖俗対比の部分を省略した訳で、モチーフを一つオミットした恰好になっているが、そのせいでテーマがすっきりし、これはこれでうまい処置のように感じた。
 やはり、語り口が絶妙である。基本的には長くなりそうな文体なのに、長くなっていない。一カ所だけ一センテンスが長いところがあっただけで、その他は体言止めも時々入り、テンポよく切るコツも心得ている。現代の文章だったら助詞を入れるはずのところで入れていないものが結構あって、最初は多少違和感をもったが、なにもご丁寧に全部入れる必要もないのだと逆に新鮮な感じがした。
 温かい素直な人々に触れて気持ちが再生していくさまが、その時々に富士に対する感想という形で表白されている。なるほどそれで「百景」というのだ、うまく出来ていると、今更ながら感心する。当時の私がどういう感想を抱いたのか、ちょっと思い出そうとしたが、今となっては霞の彼方である。
 主人公は作者と等身大なので、おそらく生徒は「これが小説?」と思うだろう。私も当時そう思ったような気がする。今読めば、見事にうまく「こしらえ」てあって、作り物然としているのがわかるが、そう突き放して見て、この作者と「私」の密着具合にポーズ臭さを感じてしまうか、そうと判りつつ受け入れるかで評価は分かれるのだろうということも、昔のようにどっぷりと浸かっていないだけによく判る。
 沢山読んだら鼻につくかもしれないが、今は感心しきりの予習の日々である。
 2006年12月14日
  (つづき)

 どうやら二十世紀は、写真という表現媒体を表現者に引きつけて考える方向から、撮した対象に表現者が入っていくという方向に変化していった世紀のようだ。リアリズムの方向性といってもよいのかもしれない。このため、技法面から言えば、「軟調」から「硬調」への変化が顕著となっている。
 写真が一枚の平面的な絵画としての認識されている限り、そこに与えられた数々の技法は、ある種、薬品的な不自由さを持った、たどたどしい絵筆と変わらない。そうした発想から離れた時、写真は写真として独立したと言えるのだろう。
 ただ、今度は、「写真が表現するものは何か。」という混沌のラビリンスに迷い込んだとも言える訳で、そうした意味で、昔の写真家は、写真とは自己のイマジネーションを表現する手段だとかたく信ずることができた幸福な人たちだったのではないかと感じた。ニュース性・記録性と地続きの現代は、ある意味、難しい時代である。
 大きく見るとこうした歴史的展開を形成してはいたが、個々の作品一まとまりで観ると、写真家独自の違いもはっきり感ずる。
 一枚の写真は、おそらく「写真は何を表現するのか」「対象と表現者との関係」「技法と表現との不可分」、そうした様々な要素を確定した上で定位された存在なのだ。それがトータルされて、「個性」という言葉に行き着く。そう思うと、シャッターを押すという単純な行為は、実は限りなく奥深いもののようである。
 今回の展覧会、百年前の写真なんぞ古いアメリカ田舎風俗の記録写真程度のものだろうと高をくくっていたので、一八三九年に発明された新しい表現であった写真が、時をそう隔てることなく、芸術的芳香をたっぷりと放っていたことにまず驚いた。現代の写真家が新たに開拓することなどほとんどないのではないかと思えるほど表現の領域が広い。
 普通、小説を「読む」といえば、戦後書かれた現代の小説を読むことである。それと同じように、写真も、「観た」といえば、現代の作品か、遡っても「マグナムフォト」くらいまでだ。百七十年ほどの、長くもない写真の歴史の中で、こんな多彩な展開があった、その新鮮さに驚き通しの逍遙であった。

  この日、横にある「チューリップ四季彩館」にも入った。クリスマスデコレーションの赤と緑の色合いが美しく、持参カメラのシャッターを切った。実習と研修を同時に受けたような写真三昧の一日だった。

 2006年12月13日
  「京都国立近代美術館コレクション写真展 アメリカンフォトグラファーズ 19人の写真家の眼」を観る
 「写真の眼」を養うには、自己流でもがいていてもダメだ。これまでカメラ雑誌ではボディやレンズのレビューばかり見ていた。もっと、多くのプロの作品を観る如くなしということで、先の休日、砺波市美術館にて開催中の「アメリカンフォトグラファーズ」展を観に行った。自宅から高速道路使用で一時間弱。山側環状利用で以前より近くなった。初めての場所。国会議事堂風の堂々たる建物で、町の規模から考えて力が入っている感じである。
 アメリカ近代写真の父アルフレッド・スティーグリッツを劈頭に十九人の著名米国写真家の作品が十点程度ずつ並んでいる。古くは十九世紀終盤から、私にとっては同時代の一九七〇年代まで。順に観ていくと、それがそのまま写真思想の展開を示していて、芸術史を実作で検証するかの如き配置であった。下手な横好きとして、これほど写真を歴史的視点で見たことはなく、色々な表現思想を実感を持って理解できた。「カメラの眼」の涵養を意識している最中だったので、うってつけの展覧会だった。
  発明から数十年、当初、芸術の一ジャンルとしての位置を獲得するため、過度の絵画的表現に走った。しかし、二十世紀初頭、スティーグリッツらフォト・セセッション(写真分離)派は、その偏向を排し社会の現実そのままを捉えようとしたと解説されていたが、今の我々から見ると、そのスティーグリッツの作品でさえ絵画的手法の残滓が色濃く感じられるところが面白かった。白黒の画面に街路樹を縦長に撮す写真など、軟調の焼き具合と相まって、さながら水墨画のような趣きであった。
 二十世紀前半は各々の個性が多彩な技法を用いて表現を広げていった試行錯誤の時代だったようである。エッチング銅版画や細密なペン書きと見紛うもの、カリカリの硬調仕上げで細密画の画調を引き出しているものなど、技法の展開そのものに芸術の可能性を見い出しているものが多い。
 カメラの眼は、その後、即時記録性やドキュメント性に目覚め、社会性や人間の感情の表現に向かう。その契機が残虐な戦争であったという指摘も興味深かった。戦争写真や水俣病告発で有名なユージン・スミスの仕事など、明らかに今活躍中の写真家たちの直接の先輩といった思想である。(つづく)
 2006年12月10日
  もっと考えておくれ
 また愚痴である。「今時の子供」話題がお嫌な方はパスして戴きたい。
 先週はテスト週間だった。「世界史」に訂正があったので、開始早々、口頭で伝えた。「選択肢中、フビライと書いてあるところを消して、ジンギスカンにしてください。」急に笑いが起こった。訂正紙をよく見ると「チンギス=ハーン」とある。今はそう表記されるのだろう。
 でも、笑わなくてもいいじゃないか?  この先生、羊焼肉料理と勘違いしたとでも思ったのだろう。同じだと知らないらしい。忙わしく通りすぎていく授業。音的によく似ているということくらいは感じただろうが、それから先にはいかなかった。
 あの料理、蒙古族が羊を常食にしていることに因み、誰でも知ってる英雄の名前をつけた日本人しか通用しない「いい加減タイトル」料理。この分では、あと何十年後か先、「ビール園でチンギス=ハーン料理食べた」と言うのかと思ったけれど、大抵、そうはならない。こうして知識はばらばらにちぎれていく。
 さて、今度は自分のテストの採点である。石垣りん「崖」。この詩は戦争のことを書いてあるようだけど、真意は「戦後になっても真の男女平等は実現されていない。」ということなのだよと力説したにもかかわらず、「戦争反対」という答えが混じるようになった。ただ、それより問題だと思ったのは「女性の社会進出」というのが結構あったこと。つまりは女性問題なのだというレベルでしか理解していなかった証拠。漠然と把握し、テスト中、この詩について深く考えることもなく、漠然とした記憶で書いただけなのであろう。
 「襟」という漢字テストでも、示偏で間違うのは昔からありがちだが、今回は木偏が多かった。漢字の形のイメージだけで書いたから。そもそも、襟が木で出来ていたら痛いではないか。
 受験学年、私は文学史をしっかりとやる。定期試験の範囲にしたにもかかわらず、次の実力模試に出た文学史が出来ていない。そこで、再々度、今回の定期試験でも同傾向の問題を出した。それでも出来ていない。この時期ともなれば、習ったことはさすがに積み上がっていくものなのに……。
 この近々三件の体験から、どうやら近頃の学生の頭の中は、1、肉付けして自分の頭に知識を定着させるということを意識せず、ただただ丸覚えしてなんとかしようとする。2 そのため、思考や把握は漠然として曖昧なまま。3 結果、さっさと忘れて積み上がらない。という一連の流れになっていることが判る。
 愚妻の聞きかじりをそのまま受け売ると、脳というのは怠け者で、自分の生死に関わることから優先的に動くのだそうである。最近の子が見事なまでに考えなくなったのは、何したって生きていけるという生存危機意識のなさが原因なのではないかということだった。財政破綻国家にでもならない限り、直らないのだろうか。
 2006年12月09日
  無料チケット様様

 いつもお世話になっている新聞販売所のご主人は、我々夫婦がちゃんと足を運んでくれていると判っているからだろう、新聞社がらみの無料チケットをよく融通してくれる。
 先日は、その券で「スキー&スノボファンのつどい」に参加した。もうウインタースポーツなど出来そうもないが、以前は、このお楽しみ抽選会を楽しみにしていたので、「できるだけ昔と同じ生活を。」という発想で行くことにした。多少、できないことの惹句を聞く虚しさを感じないでもなかったが、それは判っていること。気にしないようにした。
 以前は超満員だった。ブームは去り、さみしいことになっているのではないかと思って会場に入ったが、爺婆、子供連れと、以前と客層が若干違ってはいたものの、それなりの人出だった。スキーブーム世代の若者が父母になり、中年スキーヤーが老いたのだろう。
 スキー場のパンフレットにリフト運転中止のお知らせが目立つ。稼働率の悪いものを止めているようだ。パンフ自体にも変化が。イメージ写真が減って、行事予定、各種割引サービス告知など実利情報のスペースが大きくなった。料金も昔を考えれば驚くほど安い。
 アトラクションがあって抽選会に進む。以前と全く変わらない風景。何も当たらずに手ぶらで帰るのも一緒。
 でも、やっぱり、少しずつ変わっている。
 「アート・ナウKANAZAWA第四十五回北陸中日美術展」も戴いた招待券で最終日に鑑賞。中部ゆかりの現代作家による彫刻・絵画・電気仕掛けなど各種表現の総合アート展で、これまで何回も観に行っている。
 具象はほとんどないが、抽象といっても解りやすいものばかりで「訳わからん」感がない。無数の蟻がたかっている作品など毎回観ているような気がする。作家さんはこのモチーフを追求している常連さんなのだろう。
 こうした美術展を観るたび、一体、世の中でどれだけの人が美術を生活や人生の糧にして生きているのだろうと思わずにはいられないが、同じモチーフに出会うと、そうでもなくて、毎年紡がれた品々を、これまた毎年新鮮な気持ちで鑑賞するというクルクル回る二つのサイクルのようなものになっているのではないかと感じた。
 今年は金沢二十一世紀美術館地下「市民ギャラリーB」にての開催。集客には賢明な措置だが、県立美術館よりせせこましくなって窮屈感があり、ゴチャゴチャした印象となった。得失相半ばといったところ。
 昨日は昨日で、愚妻が別の出所で二十一世紀美術館冬季特別展のほうの招待券を得てきた。タダ券で結構楽しめる。距離もそう遠くはない。東京だったらその場所まで行く時間と労力を考えなくてはならない。狭くもなければ大規模でもない、地方都市ならではの楽しみである。

 

 2006年12月08日
  甘える美しさ      

以下は観劇感想文「かあてんこおる」のために書いたものです。そちらにもアップしてあります

 

甘える美しさ       俳優座公演「きょうの雨あしたの風」第263回例会
 藤沢周平の短編小説を組み合わせて一つにした吉永仁郎脚色の舞台。弟(関口晴雄)がイカサマ博打にひっかかり姉(清水直子)が売られようとしている姉弟の話、素性の判らない老婆(阿部百合子)を泊め続けることになった夫婦(島英臣 岩瀬晃)の話、転がり込んできた若者(内田夕夜)と関係を持ってしまった寡婦(川口敦子)の話の三つが平行して描かれる。長屋の木戸の内という閉ざされた空間を設定し、どこにでもいそうな噂好きの長屋の女(青山眉子)がパイプ役として話を繋げている。各話は細切れに進行するが、回転舞台を何度も回してスピーディに進行するのでバラバラな印象にはならない。巧い演出である。
 元悪人で今は堅気の老人作十(可知靖之)が、姉弟のために地回りとやり合って深手を負う。その彼が「極悪人のオイラがこんなに幸せな死に方ができるとは思わなかった。」と再度飛び出していくシーンは圧巻で、人の幸福のために死ぬ男気に涙が出た。昔の日本人は、こうした考え方こそ人が目指すべき道だと信じていたのだろう。
 芝居は続いて、刃物を持って一緒に戦おうとする弟を姉が引き止める。作十さんは死ぬ気なのよ。今アナタがそうしたら彼の思いが無駄になるでしょうと説得するのである。感謝してその好意をありがたく受け取り、自分たちが幸福になることこそ御恩に報いる道と考える。相手の気持ちに素直に甘える美しさというものを感じて、ここもジーンときた。甘える側も相手の義の心を理解し、それを全うさせることに心を砕くという言い方もできるかもしれない。一緒になって義を守ろうとする。現代ではもうなくなった日本人の美徳である。
 では、今の時代の生き方のトップにくる思想はなんだろうと考えたが、すぐに思い浮かんだ。「勝ち馬に乗る」である。郵政民営化の時のドタバタなど典型的なものだ。今年一番のベストセラー、藤原正彦『国家の品格』(新潮新書)は、日本人が忘れてしまった、崇高なものにむかう心の復権を呼びかけている。この本が売れたということは、日本人の多くが今の現実状況判断路線ではマズイと感じているのだ。
 舞台の音楽は、津軽三味線を現代風の曲にアレンジしたものだったが、ちょっと合わなかったし、それが時代劇のテーマソング宜しく流れてから始まるなどテレビ番組からの影響を感じないでもなかった。
 また、人情話以外の軽妙な部分が、台本・演技ともちょっとコミカルすぎることも気になった。笑いもスパイス程度なら効果的だが、せっかくの人情芝居、じっくり見せたほうがよかったのではなかろうか。細部に感じる、飽きっぽい今のお客に最後まで満足して観てもらおうという創意工夫が、逆に観客におもねっているようになって底を浅くしていたような気がしてならない。いい芝居だっただけにそこだけは残念だった。             (あさっての雪)
                   (2006・12・3)

 2006年12月06日
  写真の眼
 「写真の眼」というフレーズを昨日書いて思い出したことがある。
 もう数ヶ月前のこと。職場の文化祭を大口径望遠ズームで撮った。一所懸命ダンスをしている様子など、バックがぼけて雰囲気のいい写真が多く撮れたのでCDに焼いた。それをある同僚に見せたところ、返し際に「あなたの物を見る目線を感じました。」と評されてドキリとした。日常この世界を、アナタはどんな風に見ているかということが、スライドショーで連続して大量に見ていると、どことなく判ってきたというのである。
 なるほど、レンズはその人の眼である。視線は自分の頭脳といつも一緒にある。それだけが切り離されて裸出するということは肉体上ではありえない。
 私は頭の中を見られたような気がして恥ずかしくなった。写真を人様に見せるのはなかなか恐いものがあるとその時初めて思った。
 2006年12月05日
   マニアのレール
 デジタルカメラに移行して一年半になる。パシャパシャ撮れて、失敗は消去すればよく、大失敗は如何ともし難いが、多少の瑕疵はレタッチソフトでそれなりになる。
 その結果、銀塩の時に較べ撮り方が一変した。一言で言うといい加減になった。あとで何とかすればいい、それより情報がなければどうしようもない。まず量だけは撮っておくという発想になった。これは多くの人が指摘していて、私もご多分に漏れずそうなった。
 途端に、大容量を買ったと思っていた一ギガバイトのSDカードがすぐに一杯になり、ガラガラだったパソコン内蔵のハードディスクもあっという間に一杯になった。お腹一杯でパソコンは動作が不安定になり、仕方なく、先日、もう一台外付けを買って、そちらに画像ファイルを移した。今となっては、前からあったバックアップ用外付けHDも、もっと容量の大きいものを買っておけばよかったと後悔しきり。
 パソコン自体も、画像処理を何枚もすると動作が緩慢になり、今まで感じたことがなかった非力感を急に感じるようになった。六百万画素でかくの如し。主流になりつつある一千万画素だったらどうなっていたことやら。
 次から次へと対策に追われて終わることがない。何だか「衆生、三界六道に輪廻して留まるところなし」の心境である。
  それにしても、デジタル化によって、大したカメラの知識がなくても、簡単にいい写真が撮せるようになった。昔は技術的なことが大きく立ちはだかっていたが、その敷居が低くなって、今やダイレクトにその人のセンスの問題に行き着く。そのため、以前は露出の失敗などに気をとられてあまり意識していなかった自分自身の芸術的視点の貧弱さに気がついてしまった。簡単に言うと、自分の視線がワンパターンなのを発見して、今、我ながらガックリ中なのである。
 具体的には、写欲を感ずる被写体が限られ、似たような絵柄の写真が量産されてしまっている。例えば、神社で参道横の御手洗(みたらし)の柄杓を撮る。後日、今度は寺院にいっても、性懲りもなく、また、柄杓を撮ってしまう。画像を見ても、どこの社寺かさえ区別がつかない。
 また、切り取り方にもパターンがあることに気づいた。枠を入れて、ブラックアウトし、その中に映ったものを強調するもの。何気ないものをぐっと寄って撮し、その質感を表現しようとするもの。斜めの光で雰囲気を出すもの。数種類だけのパターンで撮っている。絵柄は変われど方法は同じ。
 その上、肝心の撮った写真が、絵葉書・カレンダーの類と大差ない。単なる「美しい風景写真」の模倣。それが貴方の写真の目標ですかと言われると黙ってしまわざるを得ない。愚妻からもよく突っ込まれる。
「アンタの写真、美しいですねで終わり。つまらない。見る気もしない。」
ボロクソ・こてんぱん・ここぞとばかり。口の悪い妻を持った男の悲劇である。
 では、そういう愚妻の写真はと見ると、バンザイしてモニター見ないで撮るとか、地べたに這いつくばって撮るとかをよくしている。ヘンテコなゴミ写真を量産しているが、数百枚に一枚、私が絶対撮らないような「面白い」写真が混じる。
 旦那の影響で写真を始めた奥さんは、あっという間に旦那さんより腕があがるとは写真好きの間ではよく言われる話である。このままじゃ、その轍を踏む。マズイぞと、今、カメラ雑誌を買ってきて芸術的な眼を養うにはどうしたらいいか研究中(?)である。
  今日の話、写真好きのオッサンが辿るレールの上を、私も見事にそのまんま歩いていることを確認しましたというご報告みたいなものです。
 2006年12月03日
  (つづき)
 私はいつも西欧だったらどうなのだろうと考える。必ずや対立意見が出て、それが一勢力になり、うまく落ち着くところに落ち着くのではなかろうか。常に大政翼賛的流れになってしまいがちな日本人は、その時その時は、それで一応、形としては動くのだが、内部に蓄積される軋轢やゆがみは、他国に較べて驚くほど急速に蓄積される。それが、膨れに膨れ固まりに固まって最後に爆発するのがいつものパターンである。
 「日本人は潜在的に危険な国民」。その自己認識の上に立って、為政者、マスコミ、国民の三者が、慎重に相互監視しながら日本丸を動かす。それを百年二百年続けて、他国に少しはスマートにやれるようになりましたねと認めて貰うしか手は無さそうだ。 
  半藤のこの本、読みにくい生の資料をそのまま放置することなく、「つまりはこう要求しているのですね。」というふうに噛み砕いて説明してくれるし、妙な公平観を発揮させず、国を誤らせる決断や行動をした人に対しては、はっきり「とんでもない人ですね。」と言ってくれる。ばっさりと明快なので、隅から隅までよく判る。
 半藤さんの得意分野でもあり、今の時点での歴史的評価がはっきりしている分、諸々の思想信条に関係なく万人が納得できるという点、非常時を描いていることにもよるが、日本人の民族性を実によく理解できる点で、圧倒的にこの戦前編のほうが出来がよい。
 ただ、この断言、戦後篇は、後半その時代を知っているし、歴史解釈のイデオロギー的振幅も多少は判っているのに対して、戦前編は、実体験がない分、全面的に受け入れているだけだからかもしれない。
 いずれにせよ、両方良書である。ご自分で判断いただきたい。
 2006年12月01日
  半藤一利 『昭和史』(平凡社)を読む

 半年前に読んだ『昭和史』の戦前篇。もちろん、こちらのほうが先に出ている。
 まず、冒頭、昭和に到る大正の流れを、「統帥権干犯」と「天皇口出しせずの態度」の確立の二点で押さえることで、以後の動きを判りやすく説明している。このため、一つ一つ「点」でしか知らなかった事件・事変の背景が流れとなってつながって、よく理解できた。
 読んでいて、時局が切迫するにつれ、暗澹とした気持ちになっていく。軍部が陰謀につぐ陰謀によって政治を掌握していくさまは、今で言うとテロそのもので、日本が見事なまでにテロリズム支配国家化していったことが判る。
 しかし、半藤は軍部の独走だけにその責をかぶせてはいない。軍部と結託して、好戦思想を煽りまくった日本の新聞界にも言及しているし、それを喜んで受け入れていった国民にも言及している。確かに、指導者、マスコミ、国民、
この三者のいずれかに冷静な視線があったならは、どこかでブレーキがかかったはずである。国際情勢の無知、西洋の手練手管に較べて無垢の赤子の如き外交オンチ、上層部の長期的展望のなさ、責任の所在をはっきりさせないナアナア主義、場当たり的対処療法的政策、集団熱狂好き。読んでいて、結局、あの戦争は日本人全体の責任であり、日本民族が生来持っている弱点の発露だったのだという感を強くする。
 日本人の海外侵略に対する楽天的肯定論は、島国住民の大陸願望とでもいうべきもので、血として潜在的に太古の昔から受け継いでいる。近代社会の中で許されざるこの志向を、皇国の発展を大義名分として国民に示すことで、その血を刺激させ、且つ、長年続いた「お上には逆らえぬ」的発想が染みついている日本人気質がそれを後押しする。おそらくそんな精神構造だったのではないだろうか。
 現代日本人稼業(?)を長くやっていると、ああ、この動きは、見事なまでに日本的だと思う時がある。明らかに恣意的な方向性作りが行われ、多くの者がそれに内心疑問を感じているにかかわらず、「世の中の流れ」だからと、唯々諾々として従うばかりか、一部には積極的にそれに乗ろうとする輩も出てくる。この構図は現代の組織の中でもそんなに珍しいことではない。
 そうした日本人の陥穽が、戦後、そんなに問題にならなかったのは、ただただ平和で、戦争という大事が眼前にぶら下がっていなかったからで、一旦緩急あらばどうなるかは火を見るよりも明らかである。日本人は戦前と何も変わっていない。(つづく)

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