ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」 http://hiyorigeta.exblog.jp/
金属の高騰を受けて、盗難が多発しているそうだ。電線が盗まれ電気を送れずというのはいい方で、電車のレールもなくなったという。ヘタをすると大惨事である。今朝のNHKニュースでは、それに続けて、高い塔の上の火事を知らせる鐘までも盗られたという。 私の耳は、そのフレーズでとまった。中身より、言い方が気になったのである。そのことを、普通、「火の見櫓の半鐘」というのではないか。「火の見櫓」がまず判らない。「半鐘」はもっと判らない。そこで、こういう言い方になったのだろう。両語とも死語扱いされたわけである。 土曜夕方、NHKの「週刊こどもニュース」は、難しい政治・経済の言葉を判りやすく言いかえてあって、ああ、子供にはこう説明するのだと、その言いまわしが面白くて、時々チャンネルを合わせる。なんだか、今朝のニュースを聞いて、それと同じ扱いを大人にやられたようで、ちょっとお子様気分だった。
なんでも、気象庁は「宵のうち」という言い方を廃して、「夜のはじめごろ」と言うことにしたらしい。「宵」が何時頃か判らない人が多くなったからとのこと。これも同じ話。間の抜けた言い方だなあ。
ところで、その時、疑問に思ったのは、なぜ、半分の鐘と書くのかということ。国語辞書レベルでは説明されてなくて、今も判らない。すっきりこなかったが、その下の項目に「半鐘泥棒」というのがあるのではないか。まったくもって、今のニュースの話である。へえ、昔からよく盗まれたのだと思って、説明を読むと、全然、違っていた。 「背の高い人をあざけっていう語」 なあるほど。上手い。江戸ッ子らしいユーモア。 よし、この言葉を覚えとこうと思ったけど、ちょっと待て。いったい何時使うんだ? 他人の身体的特徴を云々するのは、今、過敏なほどタブーである。おそらく、こっちは使用不適切語。 なんだ、どっちにしろ、もう死語だ。
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二月の初めに、ほんの数センチの積雪があっただけで、今年の冬は終わるのだろうか。二月も好天が多く、底冷えするほどの日はほとんどなかった。コートを着ずとも何とかなる。この前なぞ、十六度を超えて四月上旬並の気温だったという。北陸人はそれを幸運としながらも、温暖化を実感して、地球、大丈夫かねえと心配を口にする。愚妻にかかると、「この年から北陸では雪が降らなくなった、その異常気象一年目として後に歴史に刻まれることとなった」となるんじゃない? とブラックな言い方になる。 昔、人間ドッグで、花粉アレルギーと診断された。春スキーで杉花粉が粉雪のように落ちる中、平気でリフトに乗っていた私は、指摘されても実感が湧かず、「へえ?」という感じであった。 ところが、ある年を境に、やっぱり、花粉症になった。不思議なことに、毎年発症するわけでもなく、問題のない年もあって、ここのところ「当たるも八卦当たらぬも八卦」のような春を過ごしていた。 半月程前、ちょっと目がしょぼしょぼした。眼精疲労だろうと気にもとめないでいたが、プールで一緒に歩いていたオバサンが、「今年は異常に早いね、もう花粉症になっちゃった。」と言うのを聞いて、はたと気がついた。この目の痒さ、間違いなく花粉症だ。 夏の水不足、農業への影響と、春以降、色々なところで問題がおこるのではないかと心配していたが、何のことはない、そんな大所高所を心配する前に、自分の方がさっさとその影響に見舞われていたのであった。
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十二月に観た写真展の印象が間違いないものなのかを確かめるべく、写真史で、素人でも判りやすいものが何かないかと探し、このシリーズを一冊ずつ買い足して読んでいった。 第一部「誕生」は写真黎明期、第二部「創造」は先だっての写真展と重なる時代、第三部「再生」は戦中・戦後、第四部「混沌」で現代にいたる。 大きな流れについては、先々月書いた印象を特に訂正する必要はないようだが、日本の写真家についての解説も少し入っていたので、その点、勉強になった。 東京都写真美術館所蔵の作品のみを使っての概説というのがこの本のミソで、所蔵作品の紹介といった趣もある。ただ、なにもこの写真美術館にすべての歴史的一枚が所蔵されているわけでもないので、ライターは所蔵作品限定という縛りと公平な歴史記述との折り合いをつけねばならず、ちょっと苦しかった部分もあるのではないかと推察した。 こうした二重の目的を内包したまま纏めてある上に、歴史概説的な巻と個人作家紹介を中心とした巻があるなど、部立てが揃っておらず、統一感に欠ける。特に、第四冊目「混沌」は、歴史というより広範な現状報告である。各巻のライターの文体にも難易があり、四冊合計六千円近くを投資した割には、まとまったものを通して読んで、概観ががっちり掴めたという満足感に乏しいのが欠点といえば欠点。その分、面白そうな巻だけ読んでもまったく問題がない。
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自主参加の行事に出てもらおうと生徒を誘った。清楚で真面目な女の子。出席したそうにしていたが、都合もあり、後日、返事をもらうことになった。 しばらくして、同僚の女性に「どうだったですか?」と聞かれたので、「彼女、色気を出していました。」と答えたら、 「センセは、色気のある子がタイプなのですね。」と返された。 えええっ! 会話は成立してる?
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ここのところ読んだ藤原正彦の本、三冊目。平成十五年発行。平成十二年からの文章を載せる。『国家の品格』(新潮新書)が話題になる前の出版である。全体は大きく三つに分かれており、最初は、家族をダシにした短いエッセイ、中間部は国語教育重視論、終盤は満州再訪記という構成になっている。 爆笑エッセイを最初にし、主張文を中間にもってきたのは見識である。 エッセイは、まず、息子たちの「発見」を褒める教育方針が語られる。私はいかにも学者の家らしい知的な教育態度に感心した。そして、そうした発見をめぐって家族が提出する学説(?)の乱立を、短い中に面白可笑しく描いてみせて読み手の笑いを誘う。その力量に恐れ入った。その昔、出久根達郎のエッセイを読んで、手練れの文章に感心したものだが、それと似たうまさを感じる。タイトルは重いが、この軽さでスタートするので、読者は肩が凝らない。 満州再訪記は、藤原家の原点である『流れる星は生きている』時代の新京を、老いた母(藤原てい)と一緒に検証する中国紀行。途中、第二次世界大戦概説を入れ込むことで、歴史の中で家族史を定位させようとする。これも公私かみ合って上手い。 中間部の「祖国とは国語」論は、まったく、私たち国語教員には異論を挟む余地のない正論なのだが、楽しみで読む就寝前の読書には、ちと辛い。真面目に読むと、教育の現状に思いを馳せ、暗澹となって、全然、心が安まらず、寝られなくなるのであった。そこで、この部分だけはさっさと流し読んだ。基本認識は『国家の品格』と同じだから、読み間違えることはない。 印象的だったのは、小学校の英語教育について、導入のための委員会に籍を置く教育学者に、「国語が大幅に減ることになるが大丈夫か。」と問うたところ、待ってましたとばかりに「英語以外は日本語で教えますから心配ご無用です。」という答えが返ってきたという話。そのぐらいの言語観の人が改革の烽火をあげていた訳で、作者も呆れているが、私も呆れた。 先日、管理側の方と話す機会があって、今の教育改革は、上から下への号令ばかりで、現場の声が反映されるルートが全然ないねと、ともども長嘆息した。不定方程式論が御専門の大学教授が言ってくれるのではなく、本当は、現場の声として大きな意見になっていかなければならないのだが……。
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昨日のこと。日本を活動拠点にして十数年、かつてフランス国立管弦楽団のコンサートマスターも務めたエジプト系フランス人、アテフ・ハリム(Atef Halim)のバイオリンリサイタルを聴いた。場所は駅東口の金沢市アートホール。三百人収容の小ホールだが、聴衆は百人程度。 曲は、モーツァルト「バイオリンソナタ・変ロ長調(K.454)」とフランク「バイオリンソナタ・イ長調」をメインにし、中間部にラフマニノフのボーカリーズや日本の「浜辺の歌」などのアンコールピースを並べる親しみやすいもの。 アテフ氏はそれなりのお歳と思われるが、頭にターバンのような布を巻くのがトレードマークらしく、堅苦しい格好はお嫌いのようだ。それは音楽にも現れていて、私の演奏を楽しんでいって下さいといった感じの演奏だった。情熱的で力強さを感じさせる弾きぶりで、特に、サンサーンスの「死の舞踏」の高速テンポでは、ボウの弦糸を切りながらの熱演だった。この曲、リズミックでジャズ好きにも楽しめる曲だ。 反面、弱音での繊細な響きというようなことには些か無頓着で、スローな曲のテンポも速め、しみじみとした情緒といった面は重視していないようだ。総じて、自分流を守る職人さんといった印象。現代の音楽業界のスマートな傾向とは違っているので、録音のオファーが次々舞い込むというタイプではないようだが、私は好ましく聴いた。伴奏の加藤徹は洗足学園の先生。達者なピアノで、息もあっていて音に存在感があった。この方もそれなりのお歳。詰め襟風衣装が似合う。オジサン二人舞台で頑張るの図。 ステージとの段差があまりない客席の三列目。演奏者とは目睫の間である。バイオリンの立った音に、後方からマイルドなピアノの音が包み込むように絡まりながら私の座席に伝わってくる。弦楽器ではチェロの音が好きだが、バイオリンの響きもなかなかいい。アンプリファイアされていない、楽器本来の音に身近に触れる楽しさは、こうした小さなホールの小さな編成ならではのことである。 実は、これも招待券での入場。行きの車の中で「私たち、ちゃんとお金払って行った方が少ないんじゃないかな。」と夫婦で指折り数えたが、どうやら間違いなくそのようである。 午後二時開演だったので、日頃あまり行かない駅西地区へむかい、初めてのお店でお昼をとり、コンサート終了後は、前回同様、駅売店で駅弁を買って、それで夕食にした。前後に食事のついた、ささやかなお楽しみの一日だった。
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若いころから溜め込むタイプだった。本・レコードはもとより、アルバイトでマルつけをした模試の試験問題さえとってあったくらいの猛者である。 結婚して2DKの小さなアパートに住んだ。十年以上いるうちに、物で部屋が溢れかえった。引っ越しすることになり、意を決して持ち物の処分をしはじめた。 まず、旅行のパンフ類。旅行中お世話になったパンフは、その旅の印象と密着しているからと、チケット半券などと一緒に保存してあって、いずれアルバムに整理しようと思っていたが、どうやら、一生そんなことはしないと踏ん切りをつけた。 次にPR誌。長年、「図書」(岩波書店)と「波」(新潮社)を講読していた。有益な文章も多く、何かに引用したりすることもあるかもしれないと大切にとっておいたが、したためしがない。尊敬する先輩から、目次だけを切り取ってファイルしているという話も聞いたが、私にはそこまでの几帳面さに欠けている。 愚妻から強く言われていた、もう着なくなった服も大量に捨てた。体型が変ったことを直視せよというのである。ハイ。わかりました。 そんなこんなで、引っ越し前の数ヶ月、ゴミの日に毎回十袋近くのゴミを出し続けた。よくこんな狭い部屋にこれだけのものが入っていたなと呆れたものだ。 少しは身軽になって今の住まいに移ったが、広さに余裕があるわけでもない。懲りて、以前ほど溜め込まないよう気をつけるようになった。 そうこうしているうちに腰を悪くした。以来、思った。一人では重いものを動かせない。重いものを後生大事にとってあったらダメだ。 マンションに住むお年寄りが、古新聞回収の日、新聞の束を地面に引きずらせているのを目撃した。重いものを持つ壮年の者がいないのだろう。手伝ってあげたかったが、私もできない。新聞の束でさえ難渋する。今のうちに捨てるものは捨てておかないと、老いてから、捨てようにも捨てられず、すべて放置されたまま、古ぼけた物が溢れかえった中で小汚く死んでいくことになる。今まで考えもしなかった現実をまざまざと想像して、ちょっと恐怖感が湧いた。 よく考えて、愛読していた「スイングジャーナル」を処分した。あの分厚い月刊誌を三十年間分とってあって、バックナンバーを読むのを老いの楽しみにしようと思っていたのだが、そのささやかな夢を諦めることにした。一年分一括り、三十括りを集積場所に出すだけで大変だった。 ものを捨てると言うことは、過去の自分を切り捨てることである。生き方を変えることでもある。また、将来こうしようと思っていたことを止めることでもある。身を削ぐ思いである。しかし、死ぬ時は手ぶら、畳一枚のスペースがあればいいという宗教的真理の前には、すべてが色褪せる。 と、偉そうなことを言ってはみたものの、我が家のトランクルームには、ブームの時買っただけでほとんど使っていないアウトドア用品一式が放置されている。さすがにこれはポンとゴミに出す決心がつかない。 やっぱり、全然、悟り切れていない。どうしよう。
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聴いていて思うのは、演奏が電気楽器のものはアナログである必然性を感じないが、アコーステック楽器の演奏は、アナログのよさが出るということである。特に、ブルーノートレーベル、録音技師ルディ・バン・ゲルダー録音の瑞々しいサックスやツンツンしたベースなど、これはやっぱりアナログで聴かなきゃという音がする。 但し、七十年代以降の録音は、アコースティクでも電気楽器的なフラットな録音をしているようで、響きがなく、このあたりの時代でアナログのよさが出なくなることも、今回、色々聞いてみて気がついた。録音技術自体は格段に向上しているのだろうが、楽器の音の伸びやかさが全面に出てくる感じがなくなって、音としてはつまらない。 購入後、他の人はどうなのだろうと、ネットで「レコードプレーヤー」と入れて検索してみた。私と同じようにアナログが気になりはじめた人が相当数いる。壊れて放置していたのだが、意を決して買ったとか、押入から何十年ぶりに出してきたが完動していて嬉しかったとか。 今年から、団塊の世代の大量退職が始まる。自分を大事にする気持ちになった彼らの、実によく判る行動である。私は、世代的にはちょっと後だが、その驥尾に付して(?)仲間入りした恰好。 授業中、評論文の内容に絡んでいたので、それに引っ掛けて雑談をし、どのくらいのお宅で、レコードプレーヤーが活躍しているか聞いてみたら、クラスで一名だけ手を挙げた。そんなものかもしれない。 冬の夜。こんな時はアルトサックスがいい。冷酒のグラスをかたむけながら、大きなアナログディスクがくるんくるんと廻っているのに目をやる。ターンテーブルの端のギザギサに赤いストロボの光が当たって、一点だけ止まってみえる。 古くて新しい楽しみが出来た。棚から引っ張り出してきたこのLP、聴くのは二十年ぶりくらいだ。さあて、どんな演奏だったか。
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先日、CDショップで、若い店員が、紙ジャケットCDについて質問した客に説明しているのを耳にした。 「中身は同じで、LPに似せてあるのです。私はCDしか知らないので、全然、愛着はありませんが、古い方は、未だにこだわっていらしゃるようです。」 私は、その「古い方」の部類だが、だからといってアナログに過度の思い入れがあるわけでもない。CD時代になるとCD一辺倒になったし、紙ジャケット仕様のCDもそれなりに多くたまってきたが、それは、その形で発売されていたからにすぎない。 だが、最近、時折、アナログレコードも聴くようになった。ひさしぶりにLPを聴いて、有名曲以外、曲を覚えていないことに気づいて愕然とした。聴きながら細かいことに色々気づいて、新しく買ったかのような新鮮な気持ちを味わうこととなった。 しかし、我が家のレコードプレーヤーは、四半世紀前の安物。古びてターンテーブルの回転があがらない。聴く人が聴けば、微妙な遅さが気になるはず。もう買い直しても罰はあたるまい。 CDプレーヤーと違って、メインとなる機械ではない。もう手持ちのソフトも増えることはないので、何十万円もする高級輸入品はいらない。かといって、ソノシートがお似合いの安物でも困る。その基準で、知る人ぞ知るメーカーの手頃な価格のものを選んだ(コスモテクノDJ-4500)。数年前からの懸案だったので、ようやく決心したといった気持ちだ。 針圧などの初期調整なんぞ、説明書き見なくともさっさとできて、我ながら「古い方」であることを実感する。この機械、高級プレーヤーではないので、豊饒な音というよりも、すっきりとした音がする。その分、カートリッジやインシュレーターの交換で音が素直に変化しそうなタイプで、ちょっと、アナログに凝ってみようかなという色気が出る。懐かしい感覚である。(つづく)
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ぜんぜん当たらないお年玉年賀状の当選確認をしながら思い出した。 一時期、出す懸賞出す懸賞、どんどん当たった時期があった。宅配便がやってきて、本人も何に応募したのかわからない賞品を手渡される。特に、一等の商品を狙ったにもかかわらず三等がやって来た時など、自分とその賞品との無関係さにいささか面喰らった。 そこまで当たるならと、調子に乗っておふざけをした。人が懸賞出そうとしているを見つけると、しゃしゃり出ていって、奇術師Mr.マリックのハンドパワーよろしく、その応募葉書に手をかざして、「これで、あたりますよ。」とおまじないをしていたのである。新興宗教の教主様みたいに……。 それも徐々に当たらなくなった。私はもしかしたら、あの時、人生の幸運を使い果たしてしまったのかもしれない。今思うと、懸賞なんぞではなく、もっと他のことで幸運の神様が微笑んでくれているとよかった。 そんな経験があったので、私は、人間、人生のどこかに必ず強運の季節が訪れるという運命論のような気持ちを持つようになった。この考え、賛同いただけるだろうか。 そんな私が、先頃、何の気なしに雑誌の懸賞に応募したら、秋田の地酒「太平山」が送られてきた。本当に久々ぶりの「ご当選」である。 ビンの封を切って、麹の香りに、どこかに強運時代の余香でもついていないかと鼻で探りながら、グイッと杯をかたむける。 それで、お前、運命について、どんなゴタクの続きを並べるつもりかって? いやいや、違う。この文章は、お酒が当たって大バンザイといいたいだけである。
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以下は観劇感想文「かあてんこおる」のために書いたものです。そちらにもアップしてあります
盛りだくさんすぎるような…… こまつ座公演「紙屋町さくらホテル」第264回例会
井上ひさしの戦争ものの集大成といった趣の芝居だった。その上、演劇の裏を見せるバックステージものという側面もある。会話の端々に簡単な日本演劇史や演劇論を散りばめて、劇が出来上がるまでを観客にお見せしようと言う趣向。一種の演劇讃歌である。初演が新国立劇場こけら落とし公演ということで、TPOはバッチリだったろう。 昭和二十年、広島。登場するのは、いずれ原爆で壊滅することになる移動演劇さくら隊の丸山定夫(木場勝己)・園井恵子(森奈みはる)ら。そこに、これまた実在の長谷川清海軍大将(辻萬長)が絡む。この人、太平洋戦争末期、天皇に現状を正直に報告した人物として歴史に名が残る。昨年読んだ半藤一利『昭和史』でも触れられていた。こうした戦争史の別々の挿話をうまく絡ませるところなど、さすがの手口である。その他、「マンザナ、わが町」を思わせる、帰国日系二世が両国から敵性人とされた話や、N音には否定的なニュアンスがあるという論文を書いた優秀な弟子の特攻死を語る言語学者の話なども絡んで、何とも盛りだくさん。途中、井上得意の言語論が続くことになる。 こうした細かいエピソードがモザイク状に散りばめられて進むので、芝居が長いこと長いこと。休憩を入れて三時間半に及ぶ。そのため、正直、途中でダレを感じた。 話の根幹の天皇論で、彼は何を言いたいのだろうと意識して聞いていたが、どうやら、「天皇は与えられた中で努力されていたが、でも、もう半年早く決断されていたら、あんなに多くの犠牲者はでなくてもすんだはずだ。その点で、彼にはやはり戦争責任がある。」といっているようだ。 物語は、戦後、長谷川大将がGHQに乗り込み、「私には戦争責任がある。掴まえてA級戦犯にしてくれ。」と頼み、断られるシーンから始まる。エピローグで同じシーンに戻っていくが、そこで長谷川は、私は、天皇の意を汲んで内偵していたのだ、つまり、私は天皇そのものなのだという意味の言葉を吐く。天皇を崇拝している御仁が、自分を天皇に擬する、そんな不遜な台詞を言うはずはないので、違和感を持つところだが、もちろん、観客は判っている。井上がそう言わせたかったのだ。それは、この物語おいて、現状を探り今後の日本を考えているこの長谷川という人物が、イコール天皇として造型されているからである。作者は、GHQ側が天皇責任を回避したことを、この額縁で暗示しているのだと種明かしをしたつもりなのだろう。しかし、そんなこと言われなくても判っている。台詞として言ってしまっては台無しではないか。総じて、登場人物は喋りすぎである。台詞も作者の影が濃すぎて解説臭い。 全般的に、あの話この話とモチーフを載せすぎて凝縮性に欠けた嫌いがある。芝居讃歌と天皇責任論で充分である。マンザナもどきと言語論はカット、解説調の台詞も刈り込み、芝居を短縮すべし。 出演者は、初演時(平十三)、大滝秀治・宮本信子ら超豪華俳優陣だったようだ。今公演では、なんと言っても、初演にも出ていたこまつ座常連、辻萬長の存在感が光る。陸軍密偵役河野洋一郎も力演だった。長丁場お疲れ様。 惜しい、傑作一歩手前。そんな印象の芝居だった。
(さくら散る) (2007.2.5)
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5日朝、K君よりメールを受け取る。大学の恩師のお一人、論文主査をして頂いた剣持武彦先生の死(2日逝去)を告げていた。よく同窓会通信などでお元気なご様子が載っていたので、急なことのように感じ、驚いた。そういえば、今年、賀状を出したがご返事がなかった。一回りお歳の別の恩師の方々がご存命なので、お早い死という感を持った。慌てて読んだ全国紙によると七十八歳という。肩書きは「元島崎藤村学会会長」となっている。その記事で、私が習った時は五十歳代前半の働き盛りだったことを知る。 私たちは先生から比較文学の方法を学んだ。先生は、日本文学を読んでいて、外国文学の影を見つけ、それを論証していく経過を、種明かしのように語って下さった。事実としてこうだと成果だけを提示するよりも、判りやすく比較文学を理解してもらえると思われたからだろう。単なる「似たもの探し」ではないというお話も、よく力説しておられた。 受講した当初、外国文学との比較ということで、外国語にご堪能な方なのだろうと想像していたが、先生が仰るには、イタリア語の原典をすらすらと読むほどの語学力はない。原文と翻訳を横に置いて、二つを照らして論文を書いているとのことだった。そんな舞台裏も気どりなく話され、一層、親しみがわいた。華麗な語学力で二つをくっつけているのなら、凡人の及びもつかないことで、さっさと諦めるほかないが、先生はあくまでも我々と同じ国漢の基礎に立ち、その上で語学のご努力をされて、ご自分の方法論を身につけられているのだとわかって、この学問が縁遠い存在ではないという気持ちがしたものだ。 日頃、冗談を仰るような方ではない。その先生が、授業中、ご自分の名前の話になり、「まあ、私の名前は珍しいですが、イタリア風に言えば「ケンモビッチ」となりましょうかね。」とぽろりと言われ、生徒一同、どう反応したらいいかわからず、ひきつった笑いが起こったことを覚えている。二十七年前に発した、おそらく、考えに考えた挙げ句の先生の軽口である。そんな些細なことばかりよく覚えている。 もう数年で、私はあの頃の先生の歳になる。世代が一つ廻って、習った先生がこの世から退場していく。 さようなら先生。先生のゼミはいつも大人気で、毎年、大勢の生徒を抱えていました。女の子が多かった。その多くの教え子が、訃報を聞いて、今、先生のことを、あの頃の思い出とともに懐かしく思い出していることでしょう。葬儀には行けませんでしたが、田舎にてご冥福をお祈り致します。
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一昨日の節分は、休日と重なった上に晴天に恵まれたので、それならばと、東山、宇多須神社の節分祭に出かけた。バスで橋場町に降り立つと、車で通る見慣れた浅野川大橋詰めの景色が、妙に観光地めいて見えるのが面白い。 今や大観光地である東の茶屋街を突っ切り、左に折れたところに、この神社はある。東山寺院群散策の小径沿い。以前、この辺りを金沢再発見と称してうろついたことがあるので、迷うこともない。 開始まで間があったので、裏通りの、東の茶屋街の行灯を出している小さな和風バーもどきの店にランチの案内を見つけて、そこで腹ごしらえをすることにした。 掘り炬燵式のカウンターに座って、出されるのを待っていると、ちょっと伝法に話す女将が、馴染みの客と話をしている。 「あんた、踊りを習うといい人ができるかもしれないじゃないの。うちの娘をどう?なんてさ。」 どうやら、独り身をからかっているようである。時々、日舞を映し出しているテレビ画面に目をやりながら、「この人下手だねえ。」と踊りの批評も忘れない。男のほうは、今から、祭に呼ばれているので、清酒持参で駆けつけなければならないらしい。 そんな、いかにもお茶屋界隈らしいやりとりを聞きながら、一見(いちげん)さんである私ら夫婦は、出されたお麩の煮物のお昼を静かにいただいた。 戻ってみると、境内は立錐の余地もない人出。成田山の様子をよくニュースで観るけれど、自分が参加したのは初めて。お目当ては、芸妓さんによる奉納踊りと豆まきである。 芸妓衆の踊りは一糸乱れぬ色っぽいもので、踊りとは仕草による色気の集大成のようなものなのだという思いを新たにする。艶やかで美しい。 続く豆まきは、芸妓さんたち、踊りの時のおすまし顔と違って、一転、終始笑顔だったのが印象的だった。 撒きはじめると、群衆は我先にと豆袋を奪い合い、押し合いへし合いの大騒ぎに。みんな「福」を求めて手を差し出す。その中で、こっちも一所懸命手をかざす。福よ来い。 ようよう二袋を手に入れる。愚妻はなし。終わると群衆はさっと捌けていなくなる。あれ、しっかり愚妻はカメラの部品をなくしている。祭りの後の地面を捜したが、後の祭り。 帰りは茶屋のメイン通りを通った。軒を連ねている紅殻格子の建物の多くは、いつの間にかお土産物店になって、観光客で繁盛している。私たちも金箔専門店に入ってちょっと観光気分を味わった。四十年ほど前は、旦那衆以外訪れる者もなく、古い建物が並んでいるだけの、うち捨てられた空間だったことを知っているので、隔世の感である。 翌日、今度は従兄弟の三回忌法要があり、市内の料亭で会食をした。手入れの行き届いた日本庭園を見下ろす二階の和室。以前来た時には、座卓だったが、今は絨毯を敷きテーブルを持ち込んでイス席に仕立ててあった。和洋折衷となって「明治」の香りがする。地元の老舗だが、東京赤坂のように、庶民と隔絶した場所でもない。それなりに我々庶民も利用する。 この二日間が終わった後、愚妻は「金沢は文化レベルが高い都市だと言われても、全然、ピンと来なかったけど、なんだか、そうかもしれないと思ったわ。」とのたまった。 私も、実はそう感じた。しかし、大学の数年間以外、ずっと地元民でやってきた悲しさ、その通りなのか、古い城下町レベルではどこにでもあるようなことで、単なるお国自慢レベルのことなのか、そのあたりの判断がつかないところがちょっと残念。
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撮影が終わっても、そこからまた待たされて、深更にずれ込んでようやく始まったミニコンサート。 長々カンヅメになっていたので、帰りたかったのですが、ほとんどの人は残っていました。そこにいた男の子たちは、色々命令されて苦労している知世ちゃんが可哀想でならず、ガラガラだと彼女がショックを受けるだろうと、彼女のために残ったのです。その頃には、ファンの心理を利用され、タダでいいように使われたことにみんな気がついていました。 コンサートとは名ばかりの、短いトークと数曲が終わりました。疲れた気持ちで無料エキストラたちは黙々と会場を後にしました。今から思うと、本当にみんな純真で可愛い男の子たちだったのです。 その映画、「愛情物語」と言います。招待券ひとつくれなかったので、ちゃんとお金払ってロードショウで観ました。問題のコンサートシーンは冒頭。観客がさっと立って拍手を贈る、別角度でパッパッと何カットか。それで終わりでした。前列の私が写っていたかどうかさえも速すぎて判らずじまい。 確かダンサーを目指す孤児の話でしたが、ヒット映画「フラッシュダンス」の二匹目の泥鰌なのか、ミステリーなのか、シリアスものなのか、何とも芯の定まらぬ駄作でした。場数を踏んでいない素人監督の責任です。 せめていい映画だったらと一縷の望みを託しての鑑賞だっただけに、完全に願いは打ち砕かれました。今では、私の心に隠匿作用が起こっているようで、映画のタイトルさえ思い出さず、この文章を書くためにネットで調べてようやく判ったくらいです。後の角川春樹作品「天と地と」も、お金をかけただけのスペクタクル映画で、大味でした。 日本映画に対し、まず眉に唾を塗って、よほど評判のいい映画しか観なくなったのは、これ以来のことです。
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大林宣彦監督の「転校生」をいたく気に入っていた私は、一九八三年の大林作品「時をかける少女」も観て、これもお気に入りの映画になりました。 翌年のある日、何気なく開いた新聞に、原田知世の二作目を角川春樹監督で撮るに際し、舞台を観ている観客役の無償エキストラを募集するという小さい広告を見つけました。撮影終了後、彼女のミニコンサートもあるということです。大学生は暇なもの、万障繰り合わさなくても全然OKで、いそいそと出かけました。映画の試写会券のように、往復葉書で申し込み、採否を知らせてくるやり方だったはずです。こっちは映画に出られて、コンサートも聞ける美味しい話に受かったかのように思っていました。 広いコンサートホールを埋め尽くす観客役の一人ですから、隅っこでは意味がありません。そこで、一計を案じ、学生にしては気張った大人の恰好で行きました。 その思惑は当たり、入り口で首実検があり、ラフなスタイルの連中は、二階席に案内されていました。私は前十列目中央あたり、完全にレンズが舐める位置です。 朝集合にもかかわらず、皆を座らせるのに手間取り、昼前頃ようやく撮影開始です。何度も何度も、角川春樹の号令下、スタンデングオベーションで立ったり座ったりさせられました。ようやく終わったかと思ったら、別角度から撮るからと、撮影機移動用レールの撤収から敷設にかかる時間、延々待たされ、まったく同じ行動をやらされました。それをまた別角度から。こうして、粗末な軽食を与えられただけで、延々、夜まで立ったり座ったり拍手したり。 みんな、内心げっそりしていましたが、知世ちゃんの映画が成功するならと文句も言わず監督の命令に従っていました。角度で人が変わっていてはいけないということで、途中退場も絶対禁止でした。 それにしても、映画監督というのは、全員あんなに偉そうなのでしょうか。 「知世!」と呼び捨て。スタッフにも平気で声を荒らげていました。(つづく)
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この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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