増田れい子『看護』(岩波新書) この本、看護の現場へ出向いていって入念に取材した「ルポルタージュ」といえばいいか。出版がもう十年前なので、細かいところでは現状と違うところが出てきているようだが、根本的な状況は変わっていない。 患者の看護に対する誤解 看護の立場と実際の仕事、労働条件の厳しさなど、具体的かつ丹念に描いてある。 読み始めてすぐに、新聞の社会部記者のような文体・構成だなと感じた。小説家を母を持ち、自身も文筆人として有名なこの著者が、かつて新聞社で長く働いていたことを知り、やはりと思った。三つ子の魂百までも。時に本人談として独白文を長く挿入して臨場感を出すなど、先輩記者にみっちり鍛えられただろう書き方がしてある。
倉本智明『だれか、ふつうを教えてくれ』(理論社)を読む この本、視覚障害者の著者が、ヤングアダルト向けに書いたもので、著者は「障害学」を考えている方。若い頃は弱視、現在は全盲に近いそうである。 同じ障害の父ももうオールドエイジである。働き盛り世代の意見はどうなのだろうという気持ちで手にとった。 友だちが草野球で彼のために特別ルールを作ってくれたが、あまり楽しくなかったというところから筆を起こし、参加しているということと「共生」とは違うということを印象的に語る。 社会が「ふつう」としていることも、不利になったり努力しても無理なことを押しつけていることがある。その「ふつう」が出来る限りの考慮をしたものであるどうかを検討すべきであるという主張がなされている。そして、このことは身体障害者だけでなく、すべての人間とのつきあいにいえることだと広げていく。 ホームに落ちてしまう話や、障害と一口に言ってもさまざま、弱視と全盲では視覚障害といっても配慮が違うなど、視覚障害者の家族としてよく見知っている体験談も多く書かれてあって、判りやすい。 ふつうとは、本当の意味で、ふつうではないことが多いというのがタイトルの意味であるが、このタイトル、障害者のことについて書かれた本という感じがしない。ちょっと損なタイトルのような気がする。
村瀬孝生『おばあちゃんが、ぼけた』(理論社) 特養老人ホームで働いた後、宅老所なる私設老人ケアの家で働いている方が、認知症の老人とのつきあいを語るヤングアダルト向けに書かれた本。倉本智明『だれか、ふつうを教えてくれ』と同じ「よりみちパンセ」シリーズの一冊。 自分の娘が判らなくなるというより、一生懸命子どもを育てていた時代の記憶が濃く残っているので、大人になった娘を見ても、イメージと違っていて誰なのか判断できなくなるだとか、現状そうなっていることに、なんとか今現在の意識で理屈をつけようとするので、出てくる話は事実と違ってしまってくることが多いなど、ぼけ特有の症状を体験から判りやすく紹介している。 大きな施設での仕事は時間との戦いで、効率が優先される。その忙しさは増田の『看護』に描かれる病院のそれと同じ種類のもの。ぼけの及ぼす問題はそうした能率を優先する社会の対応との軋轢の中で生まれてくる。社会の時間に合わせるのではなく、ゆったりした時間のなかですごせば、多くの問題は解決する。ぼけが素晴らしいなんて思わないが、たとえ、ぼけても人は一生懸命生きているのだというのがこの本の主旨である。
香山リカ『老後がこわい』(講談社現代新書) 著者はテレビのコメンテーターなどで顔が売れている精神科医。シングル女性によるシングル女性の老後を考える本。 友人の死から自分の孤独死を考えるところから筆を起こし、いつまでも「娘」の立場のままであることの精神的な影響、親の死、ペットの死、住居の問題、葬儀や墓の問題まで、起こり得るだろうことを大きく網羅して話題にしている。 自分の問題として、実に率直に揺れる心境を語っているという印象で、同世代の女性にとって敷居が低い書き方がしてある。 考えないようにしようという「心理抵抗」はダメだが、先行きは流動的で、「なるようにしかならない」から、自分なりに出来る限りのことをしつつ、悲観せずに生きていこうというのがこの本のメッセージ。 平成十八年という今現在で、且つ著者四十六歳の時点での感慨という風にうつる。増田れい子の『看護』を読んだ直後だったせいか、「病・老・死」に直面してどうのこうのといった深刻さはなく、今後、加齢に従って考えが変わっていくかもしれないとも思われた。
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