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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2009年04月29日
  教員殺すにゃ刃物はいらぬ
(これは何年間も放置していた文章。在庫処分その2)
 某日。朝立ち番(登校指導)、2コマ会議、4コマ授業、放課後、居残り補習。八時過ぎから五時半までずっと座席に座るまもなく出動。へろへろで戻り、最小限の残務整理をして帰宅する。
 教員は、これを毎日やられるとパンクする。生徒の前に立つのが仕事、立たせておけば教員はぺらぺら話しはじめるなんてことは、絶対ない。最低限、予習や授業準備、それに、雑務をこなすバックヤードの時間がそれなりに必要だ。しなければならないことをこなして、一息つくのは暗くなってから。それから、明日の授業の準備に入る。もう帰宅したい気持ちが湧いているので、その作業は必然的にミニマムにならざるを得ない。一番のしわ寄せはこれになる。
 ある休みの日、明日一限目にある授業の予習をしていなかったことに気づいた。ところが、解くべき問題集を持って帰っていない。
 その日の夕方、すごすご職場まで取りに行き、夜、家の飯台で生徒の宿題よろしくせっせと問題を解く。こんな時、結構へこむ。
 2009年04月26日
   (つづき)

  別の方の講話では、東京都の教育の流れを説明した部分が印象深かった。
 昭和四十年代、都に学校群制度ができて、名門校が凋落したのは有名だが、その際、都立に「進学指導禁止」の通達が出されたのだという。当時、つめこみ教育の緩和、学校格差の是正が錦の御旗だった。教育現場では、表だって進学指導をすること自体が憚られる雰囲気となり、職場の志気が上がらなくなって、進学指導は「業者の仕事」ということになったらしい。
 今考えると噴飯ものの通達であるが、これが長く現場を支配したという。私の在京時代、勉強が出来る子は私学へ、出来ない子は都立へ、都立が無理なら受け皿になっている私学へ、と言われていたが、それを思い出した。
  平成八年ごろより改革がはじまり、平成十三年、日比谷高校など進学重点校制度が発足、十五年に学区制が廃止になって、ようやく自主再生の活力が生まれてきたという。三十五年もの間、都立の教育は澱んでいたというわけである。
 今回、都の流れを知るにつけ、戦後の教育の進みがグネグネとしたものになって、それが決していい結果となって現れていなかったことを改めて実感した。その時その時、声高に言われていた課題にレスポンスよく対応していた結果の連続がこの「揺らぎ」を生んでしまったのは間違いないことである。
 この講師は、目先の目標や制度を押しつけられそうになっても、校風を守り、保護者・生徒の満足と進学実績を残すことで、荒波を乗り越えることが出来た、つまり、学校の伝統として変わらない部分をしっかり堅持することが重要だと強く訴えた。
 今、紹介した二つの話は、どちらも正論で納得できる内容であった。しかし、講演聞きながら、あの時、暑くて動かぬ頭は、変えろ変えろと言われて、すぐ後に、今度は変えるな変えるなと言われたような気がして、ぱたっと思考が止まったのであった。ある時は「即応」せよ、ある時は「遅応」(?)がよい。なかなか案配が難しい……。
 (こんな結論では、表題を「講話を聞いても、なんにも考えなかった」に変更したほうがよさそうだ。)

 

 2009年04月25日
  講話を聞きながら考えた

 (在庫処分その1 えらく旧聞に属するが、昨年の夏、二つの講話を聞いた。以下、その感想を載せる。捨て置かれていたのは、自分で読んでも、全然、面白くなかったため。)

 

 まず、一つ目は「活用力」に関する講話。
 「活力」という言葉だったら、「生きる力」に絡んで聞き馴染んでいるのだが……。この言葉の言わんとするところが判然としないまま話を聞く。どうやら普通の言葉で言うと「応用力」のことらしい。
 平行四辺形の公式は小学生のほとんどが知っているが、図で示した長方形の公園と平行四辺形の公園のどちらが大きいかと聞くと、十八%しか答えられないのだという。公式を丸覚えしただけで、実際に使えないというのである。(使えないのではなく、解くのが面倒なので、白紙でオシマイ、ということにしてしまった子もいたらしい。)
 こうした応用力がぐっと落ちていて、受身で授業を聞いているだけになっているという点は実感しているところであり、その実態が上にあげられ、何とかしなければと明文化すると、こういう言葉になって我々に下賜されるという流れ。こちらは、ああ、そのことか、そんなタイトルになったのか、といった感慨となる。確かに活用できなけれは意味がない。このラベル自体、全然間違ってはいない。
 ネット情報を安易に使って問題としない意識も変えなければならず、引用の仕方を学ばせるのも、この言葉の含意らしい。つまりはメディア・リテラシーのこと。どうやら、活用力とは、バリバリ情報を取り込んで、自分のものとして使える「情報実践力」のこともいうようだ。
 以前、パワーポイントなどのソフトを使ってプレゼンテーションするビジネスマンあたりをイメージして、IT・ITと叫んでいた一時期があったが、その流れにも一脈通じるものがあるような気がした。
 講師は、改善が急務で、実践に、即、反映しないと意味がないと力説していた。(つづく)

 

 2009年04月20日
  近江町いちば館グランドオープン
 四方君の会の帰り、十六日にグランドオープンした近江町市場いちば館を見物した。オープン最初の休みということで入り口ではイベントをやっていて、大勢の人出で賑わっていた。一階はプレオープン時にすでに見ていたので、今回新しく見物したのは、三階の市の交流広場、二階の飲食店街、地下売り場である。
 野々市町にある人気のパン屋さんがこちらに進出してきたり、ドラックストアがあったりと、新しい面があって楽しく見て回った。当然とはいえ、二階の飲食店は新鮮な魚を売りにしている店ばかり。気になったのは、こんな賑わいの中でも流行っている店とそうでもない店がはっきりあること。早いうちに閉店する店も出てくるのではないかと予想された。
 四方君の会が始まる前に、若者に人気の大型ショッピングビルに行き、中の店舗がほんの数ヶ月でそこここ変わっていることに気づき、転変の速さに驚いたばかりだったので、常連客と何十年も信頼の中でやってきた古き良き市民の台所も、今回のリニューアルによって、そうした今の経済原理に否応なく取り込まれていく部分もでてくるのではないかということを感じた。
 いつ行ってもいつもの場所にいつもの店がある市場であってほしいと思わずにいられなかった。
 2009年04月19日
  「四方健二 朗読交流会〜詩とゴスペル心の声」を聞きに行く
 昨日、音楽堂交流ホールでひらかれた四方健二君の詩の朗読会を聴きに行った。今回は地元ゴスペルとのグループとのコラボレーション。詩の朗読と歌が交互に披露されたが、よく考えられた構成で、あっという間の楽しい一時間半だった。コラボは大成功。運営もスムーズでスマート。ゴスペルメンバー、金子奈美アナウンサー、運営ボランティアスタッフ、皆、手弁当の暖かい協力に支えられた会であった。
 病棟が新しくなり、少し高台に移ったことが大きいのだろう、彼の新作は、自然を見つめ、自然の息吹を広く大きく見つめる視点が中心で、新しい展開を予感させた。そうした印象をもったのは、冒頭、スライドで日々の生活を紹介していたことも関係しているかもしれない。彼の日常が想像できて効果的だった。
 ただ、詩については、言葉が過剰で長くなり、色々なイメージを詰め込みすぎているという気がした。私が彼に出来ることは詩についてのコメント。それをどう表現して書き送ろうかと考えていたところ、偶然、その夜のNHKテレビで作詞家吉岡治が語っていた話にヒントを得ることができた。
 彼はヒットに恵まれず、売れない時代が続いたそうだが、都はるみ「大阪しぐれ」で大ヒットを飛ばす。しかし、彼は最初その理由が判らなかった。隙間だらけの詞だったからである。
 言われてみれば、確かにこの歌、一行一行にはイメージがあるが、バラバラで、全体として何か一つの説明になっているわけではない。しかし、その隙間だらけがよかったのだということに後で気づいたそうである。大川栄作の「さざんかの宿」もしかり。次の行との関わりが薄く、状況が確定された話ではない。でも、全体として人妻を愛した男の切なさが滲み出る。この「隙間だらけに作る」というのは、吉岡一生の極意のようだ。
 曲という足枷があって長さが決まっている歌詞の場合、言葉ですべてを言い尽くすことなど不可能なのだろう。後は聞き手にお任せする潔さが必要なのだ。私は彼の話にひどく納得した。そこで、私は四方君に以下の内容を書き綴り、メールで送った。
 「せっかく見つけた言葉でも、時には捨て去る勇気も必要。詩というは、我々聞き手(読者)のイメージを飛翔させる空白の部分がいる。言葉をどんどん捨てて、言葉少なに語る中に一つのイメージがこちらに浮かび上がってくるというのがよい。今度は、是非、短い詩にチャレンジしてほしい。」
 まったくもって吉岡の尻馬に乗った格好だが、これは間違いなく詩の本質そのものである。
 2009年04月17日
  読書短評

 

阿川弘之『我が青春の記憶』(文藝春秋社)を聴く
 郷里広島の放送局のために十三回にわたって語ったインタビュー番組を、CD二枚に抜粋・編集し、年譜的な小冊子を添付して出版されたCDブック。阿川ファンには既知の話ばかりだが、肉声で語られるところが新鮮。「青春の記憶」と銘打っているが「高松宮日記」の編纂など近年の仕事まで語られている。うまく編集してあるせいもあり、楽しそうにお話されていて聞き入った。付帯の年譜冊子をめくりながら、休日の昼、寝床で二枚続けて聴いて、あっという間に終わってしまった。これで五〇〇〇円は高いかもしれない。抜粋・編集しなおす前の放送番組すべてを聴きたい気がした。

 

阿川弘之『言葉と礼節』(文藝春秋社)を読む
 阿川の坐談を集めた座談集。二〇〇四年から二〇〇八年のもの。作家仲間の三浦朱門や編集者の大久保房夫とは文壇話題を、主義を同じゅうする藤原正彦とは国の行くべき道を、半藤一利とは歴史話題を、原武史とは鉄道話題をと、阿川が話しても負担のないような相手が選ばれていて、実にうまい人選。世代がかなり下の村上龍の場合には、パイプ役として娘の佐和子がちゃんとついていて、話が合わないことがないよう配慮されている。

 佐和子が電話で何気なく使った「とんでもございません」という言葉に父親が噛みついて「とんでもございませんという日本語はございません」と怒鳴られた話など、この本を読んですぐに、彼女がテレビでまったく同じ話をしていたので面白かった。
 堅苦しさはなく、楽しい座談の割にはタイトルが重い。もう少し工夫できなかったか。

 

城山三郎『そうか君はもういないのか』(新潮社)を読む
 一昨年亡くなった城山三郎の愛妻記。あっけないほど淡々と出会いから妻の死までを語っている。テレビドラマにもなったそうだが未見。
 そもそも量が少ない上に文章もそっけなく、もともとスケッチのようなものだったのだろう。徳岡孝夫や江藤淳の愛妻記に較べると数段劣る。昨年の話題本だったので期待して買ったのだが、少々宣伝倒れ。

 2009年04月14日
  (つづき)
 担当者が、発表中、変なことをいうと、蛙を踏みつぶしたような声で「グェ」と発せられるので、それで、聴いている者はその部分がおかしいことを知るのだった。そこで、我々が先生に献呈したあだ名は「始祖鳥」。この鳥がどんな鳴き声で啼いていたのかはしらないが、如何にもそんな感じなのであった。別に「蝦蟇の親分」でも仲間内では通じた。
  たくさん伺った酒席でのお話の中で、軍隊時代、小利口に立ち回るようなことはしないでおこうと心に誓っていたが、自分配下の者たちが最前線に送られそうになった時だけは、意識的に立ち回って回避したという話が印象深い。
 地道で緻密きわまりない調査に裏付けされた実証的研究の方法論も含め、今風の、難しい単語を並べて煙に巻いている評論家風国文学者とは対極の、まさに地に足がついた大先生だった。
 謹んで哀悼の意を表します。
 2009年04月13日
  小林一郎先生御逝去
 十一日、小林一郎先生が逝去されたことをインターネットのお悔やみ欄で知る。九十二歳という。すぐに友人にメールで知らせる。ご病気をされて、かれこれ二十年近く療養生活を続けておられたはずで、後半生、穏やかにお過ごしになられていたのか、毎年、賀状をいただく度に気になっていた。
 先生は田山花袋研究の第一人者。私が教えを受けていた時は、大著「田山花袋研究」シリーズを鋭意執筆中で、今から考えると、先生一番のご活躍の時期だった。
 面倒見のよい先生で、ゼミの後、教え子を近くの喫茶店に連れ出し、授業の続きの語らいの場を作ってくださった。コーヒー代は先生のおごり。飲み会にもいつも夜遅くまで付き合って戴き、ご自宅が遠い上に、日々、大学教員としての仕事もあるし、一体、いつ、あれだけの執筆活動が出来るのだろう、スーパーマンのようだと、我々若造はいつも舌を巻いていた。
 早春、ゼミ旅行で鎌倉に行って東慶寺などを案内・解説して下さったもいい思い出である。
 とはいうものの、実は、最初は概論的な授業でお習いしただけだったので、深い印象はなかった。ゼミでも、最後まで一言も発せずじっと個人発表を聴いておられ、最後の五分で短いコメントを仰るだけだったし、よく目をつむっておられたので、もしかしたら寝ているのではと疑ったくらい。コメントも、最初のうちは、常識的なことを言っているにすぎないような気がして物足りなく思っていたのだが、すぐに、不要なことには触れず、もっとも本質的なことをズバリと突いていることが判ってきて、結局、一人一人が半年間近くかけて一所懸命調べたことも、先生の短いコメントの「掌の上」にさまよっているにすぎないと悟り、先生の偉大さをしみじみ感じたのだった。(つづく)
 2009年04月11日
  ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」(中央公論新社)を読む
 読売新聞に連載され単行本となったキーンの自叙伝。時間に沿いながらも一回ごとにテーマを決めて書かれているので、話がすっきりとして判りやすい。前半は「『青い眼の太郎冠者』(中央公論)などで既知の話だろうと、戦後、文学者との交友のあたりから読み始め、終わってから、はじめに戻って前半を読んだ。
 ここのところの彼の本は、『明治天皇(上下)』(新潮社)の上梓(二〇〇一年)以外は知らなかったので、その後、あまり有名にならなかったものの、心血を注いだ二著があることを知った。
 前半でも、収容所時代、持ち前の能力の分担で、小樽育ちで会話が堪能なオーティス・ケーリが直接の尋問を担当し、キーンのほうは主に書類担当だったことなどが明かされていて、成る程と思った。ケーリの日本語の上手さは、あの頃のことについて書かれてある本によく出てくる。
 キーンにとって、角田柳作の学恩深く、ケンブリッジ大のセルゲイ・エリセーエフ(漱石の門弟として有名)に対しては、はっきり失望したと書いてる。そのあたり、八十才をとうに越え、多くの関係者が鬼籍の入られた人らしく、忌憚なく評価を語っている。現存の人でも、大江健三郎とは、途中から理由不明で仲良くしそこねたと、これもはっきり書いてある。
 彼の講演は何度も聞いた。それでも、十年ほど前、埼玉であった「不易と流行」を論じた国語の大会の記念講演が最後。「不易」も大事だが「流行」も大事、その両方の要素があってはじめて作品が残るという趣旨だった。まったくその通りで、判りやすい解説だと納得しながら聞いていたことを覚えている。
 連載は 二〇〇六年のときのもの。今を語った部分で、健康であると記されている。キーン一九二二年生まれ、今年八十七歳。
(この文章を書くに際して、戦後日本の再建に尽力した同志社のオーティス・ケーリが、二〇〇六年亡くなっていたことを知る。合掌。)
 2009年04月04日
  「星野富弘 花の詩画展」を観る
 町行きはデパート催事場で開催されている星野富弘展を観るため。
 星野さんのことは「愛、深き淵より」(立風書房)や初期の数冊の画集でよく知っていて、二十年ほと前は盛んに詩の授業の導入に使っていた。ところが、小中の教科書に載るようになって、こちらが紹介しなくても、既に皆知るところとなり、触れるのを止めた。止めてから、もうだいぶたつ。
 彼の故郷に個人美術館が出来たのも知っていて、十年ほど前、関東出張の折りに寄れないかと調べてみたが、桐生から足尾方面へ入らねばならず、交通の大動脈から外れていて、仕事の合間に行き着けるところではなかった。
 今回の星野展は、だから、本当に久しぶりに彼の詩画との再会となった。観ると、やはり、一九八〇年すぎまでの詩は知っているものが多かったが、それ以降のものは初めて観るものばかり。画業が進展し、絵が多彩になり、色々な技法を身につけていることを知った。
 障害と向き合ったもの、宗教的な精神が感じられるもの、ユーモアで成り立っているものなど、不運を受け入れて生を前向きに見つめる彼の世界は、観る人を素直な気持ちにさせ、自分の生の自己点検を迫ってくる。
 首の骨を折ったのは一九七〇年のことという。モニターで当時の苦しさを訥々と語る本人が映されていたが、白髪交じりの初老の男性で、八一年に結婚して彼の画業を日々手伝っている夫人もまた御髪が白かった。事故後、四十年の歳月が経っていることに深い感慨を覚えた。
 詩作と画業が、当初、彼の魂再生の原動力となった。おそらくその時の字句は、心の叫びとして溢れるように流れ出てきたものだろう。
 しかし、心が安定し、人に温かい気持ちを向ける境地に至った後、彼はどうやって詩の精神を鼓舞し続けているのだろうか。絵は修練を重ねることでうまくなるが、詩の言葉はそうはいかない。その辺りの苦労を直接本人に聞きたいものだと思いながら、最近の作を眺めた。
 2009年04月03日
  金沢新名物、ハントンライス
 先の土曜日、繁華街に出た折り、香林坊旧映画館街近くの洋食屋に入った。この辺り、既に映画館は一軒もなく、広々とした駐車場となって、景色が一変している。路地の角のイメージだったこの店も、見通しで看板が見えた。
 久しぶりに入った店内は、昭和の香りのする古びた内装が年季を感じさせ、部屋の間取りは昔の記憶と変わらない。
 ここは、この辺りに勤めているサラリーマンの人の大事なランチ場所で、近年はハントンライスを出す店としてマスコミやネットで紹介され、見事に生き残っている。
 この料理、ケチャップライスに半熟卵を被せ、白身のフライを載せたオムライス風のB級グルメである。学生さんあたりでは影で有名だったのかもしれないが、少なくとも地元民みんなが認知したのは、そう古いことではない。ネットでの説明によると、片町にあったジャーマン・ベーカリーのグリル部門のメニューが発祥という。食材からして金沢でなければならない理由のまったくない不可思議な新名物である。
 折角なので、これを注文する。私もあちこちの店でこの新名物を食べてみたが、この店のものは、ボリュームもありソースも美味しく、お気軽ランチとして上等の部類だった。
 この店、金沢で最も早く洋食のフルコースを出したお店の一つで、私の子供の頃、何かお祝い事でもあったのか、奮発して家族揃って食べにきた覚えがある。家族でフルコースなんて生まれて初めての経験だったから、どことなく緊張して食べた記憶がある。
 私が強烈に覚えているのは、鰤のステーキ。下手なお肉より断然美味しく、子供心に、料理の仕方でお魚がこんなに美味しくなるなんてと大感激した。もう四十年以上前の田舎の少年の記憶。
 会計の時、お店の方に話を伺うと、オープンして五十一年目とのこと。子供の頃フルコースを食べに来たと言うと、確かに先代の頃はコースでやってましたとの話。
 お店も古びて、メニューは大衆路線に変わっているが、ちゃんと人気メニューを持って繁盛している。最近、潰れるお店ばかりで悲しい思いをしていたので、そうそう、この店があったと、ちょっとホッとしたような気持ちになって、暖かい春の日差しの外へ出た。
 2009年04月01日
   イパネマの少年 
 買ってきたダイアナ・クラール(vo)の新譜に「イパネマの少年(Boy from Ipanema)」という曲があった。もちろん、「イパネマの娘(Girl from Ipanema)」の女性歌手バージョンである。
 英語の歌詞では、SheとHeを変えるだけで男の歌が女の歌になったり、その逆があったりと、便利に入れ替えて唄われている。女言葉、男言葉の区別が日本語ほど強くない英語ならではの歌い替え。
 聴くと、歌いはじめ、「handsome」という言葉が聞こえてくる。あれ、「Boy」や「He」だけの変更ではないのかもしれないと、慌てて「娘」の方の歌詞を引っぱり出して比べてみた。
 結論。ここだけだった。元々は「lovely」=「愛らしい」。
 この歌は、イパネマ海岸のカフェの前を通り過ぎた可愛い女の子をジョビンがため息まじりに眺めたところからできたというのは有名な話。そこだけ直してうまくイカした男の子が通り過ぎる歌に衣替えできるのだろうかと、再度、歌詞を見ると、冒頭の歌の文句は「Tall and tan and young」。つまり、背が高く日焼けしていて若い。それに「ハンサム(handsome)」が続く。まったくもって格好いい男の子のイメージができあがる。
 さすがブラジル。元々の彼女、男の子みたいにスラっとしていて日焼けで真っ黒けタイプの美人さんだったのですね。とってつけた感じで違和感があると感じるのは、どうやら日本人だけのようです。
[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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