ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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二月のある日曜、朝早く免許センターに赴く。タッチの差で二番目組の受付にまわり、食堂に溜まった人たちにお声が掛かって列を作った時には、その後塵を拝したので、結局、最後尾になって、早く行った割には能率が悪かった。もたもたと行動が遅い人は生きていくのが下手になる。 今年より免許にチップが埋め込まれ、暗証番号が必要となった。事前に一つは考えてあったが、機械の前でもう一つ必要と言われ、ちょっとドギマギした。そんなこと、急には思い浮かばないものである。 チップ化の結果、免許の本籍地の欄が空欄になったのも変更点。欄はあるので、ちょっと不完全な書類のような見た目になった。 講習会では、免許制度が改正になり、既得者は中型免許(八トン未満限定)となった旨の説明を受けた。これも初めて知る。 どれもこれもニュースでやっていたのだろうが、私の頭に引っかからず、自分で触れてから「へえ。」と知る。もしかしたら、現代社会の、取捨選択されずに入ってくる大量の情報は、知っておいてしかるべきベーシックな情報を、逆に隠してしまっているのではと感じた。 免許なら五年に一回触れるチャンスがあるが、もっと大事なことが、そのまま通過していき、国民全体、大きな判断間違いを引き起こすということが起こるかもしれない。また、そうしたメカニズムを計算に入れた政治的策略が起こってもちっとも不思議ではない。と、ちょっと大きく考えてみた。 もちろん、自分がぼんやり屋さんなのを、屁理屈で誤魔化そうとしているだけであるが……。
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今の時代、薬局で処方箋を出すと、その薬の名前と、何に効く薬なのかの説明書きがつく。先の皮膚病以来、薬を飲み続けているが、ビタミンなどのサプリメントは、まあ健康食品だからと、一緒に飲んでいた。 先日、薬剤師の説明で、この錠剤はビタミン剤ですというのを聞いて、被っていたのを知った。体に問題はないのかと聞いたら、水溶性のものは問題がないが、油溶性のものの過剰な取りすぎはいけないという。私、一部のビタミンをとりすぎていたことが、それで判明した。 一見懇切丁寧な、薬局で打ち出される薬の説明書き。でも、それぞれの主成分が何なのかははっきりと書かれてはいない。痛みを和らげるのが、抗生物質なのかビタミン剤なのか。もし、これはビタミン剤ですと書いてあったら、もっと早く並飲をやめていたはずである。商品名と効能だけでは素人には判らない。 患者に優しいようでいて、大事なところは書いてない説明書きだなあと思ったことであった。
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昨夜、所用があり、金沢駅付近を歩く。暖かい日で日中は二十度を越え、春の夜のごとし。 今年は雪がそれなりに降ったが、ところどころ、妙に暖かい日が混じり、そのせいでいちいち溶けた。昔なら大雪の年だったかもしれないが、そのあたりに温暖化の影響があるのだろうねと同僚と話をした。 今日も、いくらなんでもというくらいに暖かい。職場との往復以外、この冬、ほとんど動かなかったので、高層ホテル前の歩道を歩きながら、タイムマシンに乗って急に春の季節にワープし、駅に着地したかのような感覚に襲われた。自分だけ書き割りの中を歩いているような軽い浮遊感。 駅コンコースでは、見慣れない学生服を着た高校生が目についた。地元国公立の前期二次試験を終えて帰る学生さんたちだとすぐに気がついた。中に茶髪を通り越して金髪、塗りたくりメイク、胸釦はずしの女高生が三人連れだってお土産を物色していて、かなり目立っていたけれど、あの子たち、テストの出来はどうだったのだろう。 時間があったので、構内の名店街でお買い物。普段スーパーでは目にしない地元食材を数点買い求める。店員さんは私を観光客として遇し、私もそれに乗っかって、作り方を質問したりした。金沢観光した人がブログでお奨めと書いてあった落雁菓子の新味も見つけ、それも購入。 なんだか、駅は人を異郷人気分にさせてしまうようだ。
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シェークスピアの「リア王」によく似た話である。原作のジェームス・ゴールドマンは大いに参考にしたことだろう。「ヘンリー八世」などは悪名高く有名だが、「ヘンリー二世」となるとよく知らず、観劇後、史実を調べた。領地を大幅に拡大させた彼に対し、女傑の妻は、実家の利益を代表して動く。彼女は長男を手先として使い、三男は王のほうが可愛がる。この大枠は史実通りである。 そこに、今後を決めるために全員集合させるという史実にはない一日を作り、各々の思惑を次々に観客に提示していくという形で物語は進む。言うなれば、お互いの化かし合いだから、長舌がそのまま本心とは限らない。怪しげで思惑ありげな弁舌が次から次へと続き、前のは嘘という小さなどんでん返しが繋がっていく。このお芝居の妙味はそこにあって、そこを楽しめばいいのだろうが、少々、込み入っているので、ついていくだけで精一杯。あまり、やられた、だまされたというお芝居的楽しみを享受する余裕はなかった。 史実では単純に夫婦対立の図式なのだが、芝居では、妙な連帯感のような交流があって、終盤、夫婦手を取り合うというような場面もある。なんとも、よく判らない夫婦である。 平幹二郎のシェークスピアは定評があり、これも同様。麻美れいも女傑ぶりを振りまいていて、いかにもそれらしい。 最近、会員減少の加え、高齢化が著しく敬老会のようになっているので、バタ臭いこの種の芝居をずっと精神集中してつきあっていられるか、ちょっと辛かった人も多かったのではないかと思わないでもなかった。(2010・2・24)
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オリンピック観戦は人生の楽しみ。「日本がんばれ!」と、夜はにわかテレビっ子になる。ゴール直前での駆け引きなど、スポーツの醍醐味を味わえて楽しい。ただ、夜のダイジェストだけでは、本当の楽しさが判らないのがちょっと残念ではあるが……。 ところで、日本選手は、ボード選手の服装問題に始まり、ルージュの重量オーバー失格、スケルトンの認定シールなしの失格、男子フィギュアの靴紐切れなど色々出てきて、話題に事欠かない。ちょっとだらしない話ばかりで、国民の多くは「あれあれ?」といった気持ちになっている。 靴紐は、直前練習で切れていたのを、足の感覚が違ってしまうのを嫌い、結び直して出たらしい。この選手はどうすべきかコーチに相談したのだろうか。指示か自己判断か、それで大きく意味合いが違ってくる。 最初の服装問題の会見の時、私は指導者が変な弁護をしていたのが気になった。本人も本人だが、指導者がもっとしっかり指導できなかったのかという声も当然多く上がっていた。 スケルトンの場合、シールを貼ってなくても、連盟が登録番号を把握している違反のない橇なのだから厳しすぎるのではないかと監督は抗議文を手渡したそうで、これも、恥の上塗り、逆恨みだと評判が悪い。 実は、ある競技の某選手が途中でスパートして仕掛けたことに対して、そのコーチが「彼はお祭り男だから、何かやってくるだろうとは思っていました」とコメントしたのを聞いて、私はそれが打ち合わせ済みの作戦ではなかったことを知ったのだが、その時、そんな客観的なことでいいのだろうかと思ってしまった。そして、はたと気がついた。 つまり、コーチと選手の関係が昔と変わってきているのだ。昔は、鬼の監督がいて、それに否が応でも服従した。その代わり、任せるべきところはまかせて、結果的に水はこぼれなかった。 今はおそらく、サポートする人といった役割なのだろう。選手の意志は最大限に尊重される。「上から下」ではなくて「対等」かスタッフといった立場。その分、おそらく口に出せない部分も出てくる。すべてがうまくいっている時はいいが、お互いどこかに油断があって、それが悪いタイミングで合致するとミスになる。 昔は指導者と選手、どちらのミスかがはっきりしていた。判断した人がミスをしたのだから、多くの場合、指導者である。 でも、今は、選手の判断がそれなりに通る、あるいは優先される。指導者は、どこで選手がミスをしそうになっているかさえ明確に判らない立場に置かれているのではないか。責任はお互い様。しかし、世の常識として、試合内容以外でミスは、今でも指導者が責任を問われる。指導者は一歩間違うと、言い分は山ほどあるにもかかわらず、すべてを引っ被って黙らざるを得ないという、つらい立場になる。 では、どうするか。指導者は選手に嫌がられないように留意しながら、ラインを引き、コミュニケーションを緊密にし、フォロー体制を強化するしかない。当然、何もかもご丁寧路線。 これ、今の日本社会に起こっていることと同じである。
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高校時代に「谷崎源氏」を読破したにはしたが、以降、原文自体は仕事で有名箇所や問題集で出てきた部分を教えているくらい。今年、久しぶりに「源氏」の冒頭を授業でして、最初のほうはさすがにそらでも覚えているが、少し後になると、「へえ、こんな文章だったんだ」状態となった。毎度毎度、新鮮に下調べ。 大学で何度も古文を読んで、だいぶ読めるようになったなあと嬉しく思った感慨だけは今でもはっきり覚えているが、その後、「源氏」に限らず、一つの作品とじっくりつき合うということもなく、校務の合間に自転車操業で出てきた箇所を調べるという人生を送ってきたので、一向に勉強が進まない。それどころか歳で単語は徐々に忘れぎみ。古文はもう死んでいる文章。英語のように語学力を磨く機会もない。 今回、下調べをしながら、その折りその折りの登場人物の年齢が非常に気になった。おそらくこの二人、こういう年齢差でこういう状況なら、おそらくこういう気持ちだったのだろうと類推して読みすすむ。自分がその年齢を通りすぎたからこそわかる登場人物たちの感情。読むたびに読みが深まるとはよく言うが、それは、登場人物は止まっているが、こっちはどんどん歳をとっていくから。 最初の妻、葵の上を亡くしたのは、源氏がまだ二十二歳の時、葵の上は二十六歳。それに対して紫の上の死は、源氏五十一歳、紫の上は四十三歳。 四歳年上、十二歳で結婚して十年ほどしか連れ添わず、そもそも最初から意中の人でもなかった葵の上の葬儀の時のことを、源氏は三十年後の紫の上の時、すうっと思い出す。 「かれはなほものの覚えけるにや(あの時はまだものを判断できたのであろうか)」(「御法」) 源氏は若かった自分をまるで別の人のように思い出す。あの時のことで思い出すのは、明け方で「月の顔の明らかに覚えし(月の様子がはっきりとわかった)」という外の景色の記憶くらい。そんな微細な状況のみが記憶の引き出しから出てくる。人はいつもこうした記憶のしまい方をする。 女児だったころから育て上げ、連れ添い、自分の方が先に死ぬものと思っていた男の、八歳年下の妻に先立たれた感慨はいかばかりか。 しかし、本文では、出家の意志にブレーキをかけていた妻の存在がなくなったことにより障害は何もなくなったが、すぐ出家したら弱い男と世間に思われてしまう、すぐには出家できないなという源氏の世間体を気にした判断もしっかり書き加えられている。まさにこの歳らしい判断。紫式部はあくまでリアリズムのようである。 この時の彼は今の私の世代。高校生の頃、上り坂の源氏を描く第一部ばかりが面白く、ベクトルが下になる第二部はあまり面白くなかった覚えがある。今、三十歳代後半以降が描かれる第二部を通しで読むとどう思うだろう。気になりつつ、授業が終わったら年度末業務に突入して、そのままになってしまうというのも、おそらくいつものパターンである。
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「全国学力・学習上京調査」の結果と業者独自の調査結果による昨今の中学生の現状について、職場で研修会があった。 現状に対する満足度が上昇する反面、夢や志を持てず、そこそこで満足する傾向が顕著だという。テストでも、最初から「捨て問」といって、問題をやらなくてもトータルで合格点があればそれでよしとするのだそうである。業者もそう指導しているそうだ。友人関係に対しても、特に男子に人に気を遣う傾向が強くなり、男子の萎縮化が見られるという。 国語についてはもっと深刻である。国語の授業で勉強したことは役に立つという答えた人が、平成十八年度、約五十パーセントだったのに対して、三年後の二十一年度には、三十五パーセントと激減している。これについては、中学で基礎的事項がしっかり押さえられないままに、古文・漢文がどんどん下りてきているからではないと私は推察している。意識が高くないまま古典を学ぶと「何でこんな古くさいものしなければならないのか」感だけが増大するはずである。 特に国語に関して我が県は深刻だ。国語の勉強が好きと答えた者は全国平均を大きく下回っている(全国約二十パーセント、石川県約十五パーセント)。これも、金沢で、小学校・中学校と国語を削り英語特区となった影響があるのではないかと推察する。読書が好きと答えた者も同様にほぼ平均の五ポイント下である。何十年かそのままでいくと、他府県に比べ学力が低い県民性が形成されることになりかねない。 石川県の中学生は、しっかり朝食を食べ、学校の宿題もちゃんとこなし、ゲームもそこそこしかしない、都会の悪風に染まっていない真面目さがある反面、将来の夢や目標は著しく低く、「自分にはいいところがある」という自信の項目も下のほうで、覇気がない実像が浮かび上がっていた。 話を聞きながら暗澹としてきたが、生徒のこうした気質は、「加賀百万石のお膝元」感たっぷりの大人もそんなに変わらないのではと気づいた。「越中強盗、加賀乞食、越前詐欺」と言われている、それである。
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休日出勤が多かったが、ようやく休みがとれたので、「全国丼サミットいしかわ2010」なる食祭イベントに出掛けた。ここのところ、雪で降り込められることが多かったので、久々の晴れで、車を出す。 会場に入ると、既に丼は完売状態。まだお昼の真っ最中というのに、食べるものがなく、道場六三郎の舞台イベントを軽く見て、会場を出るしかなかった。盛況なのはいいが、食のイベントで昼の対応が出来なかったというのは、はっきり言って失敗である。 仕方なく、隣でやっていたハーレー・ダビットソンのイベントを覗く。ハーレーのアメリカン・バイクがずらっと並ぶ。跨ることも出来、ハンドルについている値札を見ると、下手な乗用車が二台買える値段で、ため息がでる。 バイクの中型免許を持っていて、昔、二五〇CCのアメリカンに乗っていた身としては、本当に久しぶりにバイクに触ることが出来て懐かしかった。腰が悪くならなかったら、今もスクーターくらいは乗っていたと思う。 今の子供は、車にあまり興味を示さないという。実用品という範疇らしい。今年、実際、ある生徒から「バイクは不完全な乗り物で危ない」という感想を聞いた。 何時までも格好いい車やバイクに興味があるオッサンは、もしかしたら、全然、大人になっていないのかもしれないという気もしてきたが、でも、いいじゃないか。そのほうが若々しいし、もしかしたら、文化はこっちの方が作っているのかもしれないぞ。
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十一月某日、大会で行った武道館。帰り、傘立てに立てておいた傘がなくなっていた。細身のわりに長さがあり、杖の代わりにもなってお気に入りだったのに……。途中から雨が降ったので誰かが持っていったのであろう。 翌月の大会も雨。かわりの傘をまた傘立てに……。今度はあったにはあったが、骨が大きく曲がっていた。私の傘の中に自分の傘を突っ込んだ人がいたようだ。武道をする人が出入りする建物での出来事なだけに、ちょっと残念な気がした。 ここ数年、傘立てはそういっぱいでもないのに、玄関の壁にずらっと傘が並ぶことが多くなった。今回驚いたのは、出入り口の扉の取っ手に何本も引っかけてあったこと。開け閉め毎に揺れる。まったく自分勝手な置き方である。下駄箱も最近はいっぱいにならない。ほとんどタタキに脱ぎっぱなし。 こうした教育が落ちてきているような気がする。しかし、彼らは「武道をする者としてこういうところにも注意しよう」と指導できる。問題はそれ以外の子。そのまま大人になる子も出てくる。 冬季五輪話題。二十一歳のスノボの某選手の服装が乱れていると注意を受け、その謝罪会見の態度もあんまりなので国民皆から顰蹙をかった。つまり、ああなる。
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今夕、久しぶりに近くの銭湯に行った。古いアパートに住んでいた時は、沸くのに時間がかかる風呂釜だったので、よく通った。しかし、引っ越して以来、時にスーパー銭湯に行くくらいでご無沙汰を続けていた。今回、用事のついでに新しくできたスーパー銭湯に行くつもりで用意だけはしていったのだが、雪のしんしんと積もる中、それならお近くの方がいいと、十年ぶりくらいに訪れた。 銭湯のご主人は亡父の小学校の同級生。私を覚えていてくれて、ちょっと話をする。父が亡くなったことも告げる。 街の小さな銭湯。小さな脱衣場に小さな洗い場。思った以上に混雑していた。子供と仲良く体を洗っているお父さんや常連客で蛇口はかなり埋まっている。未だにご近所の社交場になっている様子で嬉しい気持ちになる。多くの銭湯が潰れていく今の世の中、ご商売も順調のようで、なにより。 ここの六畳ほどの待合室で、風呂上がり、他のお客さんらと小さなテレビで長野オリンピックの優勝したジャンプ競技を見ていたのをはっきり覚えている。あれが通った最後の方。 時あたかもバンクーバー五輪直前。間に二つ冬季オリンピックが挟まっている。歳月のたつのは早い。
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数年前、三回に分けて書いた童謡について書いた雑文を一纏めにして、先日、五分間読書として生徒に読んでもらった。後で感想を聞いたら、ここで触れられている「夏は来ぬ」「カナリヤ」「赤い靴」「春の小川」のうち、「春の小川」以外の歌は、そもそも知らないという。一クラスに数名知っている程度。それでは何を言っているのかよく判らないままこちらにつき合っただけの全然面白くない文章だったということになる。まさに、歌が世代によって分断されているというあの本の指摘そのもの。「夏は来ぬ」はともかく「赤い靴」も知らないのか……。横浜の山下公園に銅像があってね、何年が前にやっていたテレビのこの曲を追跡した番組によるとね……と、話そうとしたが、そんな悠長なことをしゃべっている暇はないと気がついてやめた。 今私の目の前にいる生徒たち世代は「トトロ」。だから歳をとって老人ホームに入って合唱するのも、おそらくトトロ。今の幼児たちは「ポニョ」である。
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かなり以前、接客業の現場責任者の方とお話ししたことがあった。その方は、大学出の新採のことを「鉄は熱いうちに打て」にしては遅すぎで、常識や熱意がない育てがいのない駄目人間ばかりだと嘆いていた。まるで大学は人間をダメにすると言わんばかりの言いようで、実際そうした人を多く見てきた結果の発言なのだろうが、人を使う立場の人がそうした考え方ではと、正直、情けなかった。 それからしばらくして、ある自営業の方と話をした。彼によると、最近の生徒も先生も、「実社会」と遊離している。子供たちはあまりに過保護に守られ、実社会の厳しさを知らない。だから、卒業すると世間の荒波に翻弄されてしまう。これは教育として本末転倒で、学校教育はたくましく生き抜く「智恵」の習得こそ大事なのだという論調であった。 ここまでは、もっともだと思ったが、彼が、勉強のできる人にはしっかり勉強してもらい、各界の専門技術者になればいい、しかし、彼らの技術を使って大きなことをするのは、勉強してきた人ではなくて「智恵」のある人のほうで、専門知識のあるなしは大きなことをするのには何の関係もないと言い切るところに至ると私はかすかに違和感を覚えた。「智恵」と「勉強」を完全に分離して考え、勉強した人を技術専門職に限定して下位に位置づけて見ているような気がしたのである。 お二人とも、勉強を最上位だと思っていない点が似ている。勉強をしても知恵は育たず、それどころか、勉強によって逆に何かが疎外されてしまういうイメージが根底にある。 そして、今、そうした考えは世間の常識としても徐々に形成されつつある。大人の意識における勉強の地位の急降下である。勉強はそこそこで充分というのが最近の大人の最大公約数ではないか。 でも、ちょっと待てと思う。「そこそこ」人間ばかりで日本は大丈夫なのだろうか。 愚妻は、よくテレビなどで「理数は難しい」という何気ない意見が吐かれるたびに、そんな大人の決めつけ発言の繰り返しが、結局、「理数嫌い」をつくっているんだと嘆いているが、確かにそんな面があるかも知れない。大人全員が理数は面白いと繰り返し子供に語れば事態は変わる可能性がある。同様に、まず、大人全員が「勉強は楽しいねえ。」「勉強は人を創る。」と繰り返し語れば、何か変わるかもしれない。 勉強を教えている立場の人間として、何か違うなあと思った二つの会話。教育関係者でない人と教育について話すと違和感を感ずることが多い。こっちの感覚が変なのかしら?と不安になる。
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お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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