ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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漢文で、神への贄(にえ)として「羊豕(ようし)を割きて」とあった。「豕」は、いのしし、家畜の豚の意、ニクヅキをつけた豚と一緒だねと解説をして、小ネタで脱線。 豚の切り身に衣をつけた揚げ物を普通「とんかつ」とか「トンカツ」とか仮名で書くことが多いけれど、本当はどう表記するのが日本語として正しいのか知っているかと質問した。理系のある生徒は「豚に、勝利の『勝』」と答えて、見事にこちらの思うツボにはまり、笑いが起こった。 もちろん、答えは「豚カツ」。 「かつ」はカツレット(cutlet)の略。だから片仮名書きが正しく、「とん」はもちろん漢字。カツレットは子牛や羊の切り身やフライをいうと辞書にある。豚を使ったからわざわざ豚と断っているのであろう。 ついでに、「カツ丼」の正式名称を述べよと、別のクラスで小ネタ第二弾。 文系のこのクラス、さすがに「どん」が省略語であることを察知し、「カツどんぶり」と答えた。正解。丼(どんぶり)は深い器のことだけなので、正式には「丼飯(どんぶりめし)」か「丼ご飯」というべきで、だから誰も使わないけど、完全版は「豚カツレットのせ丼飯」である。 「どん」が省略語だという意識は、今の日本人には、ドンドンなくなっていっているような気がする。わざわざ「カツどんぶり」という人自体、ほとんどいない(ただ、親子丼は、「親子どんぶり」という人がそれなりにいる)。作文で「いまいち納得がいかない」と平気で書く子が時々いて、そんな子に聞くと「いまいち」という言葉が俗語であるという認識自体がないので、無理からぬことなのであった。漢和辞典をひいても「丼」に「どん」の読み方はまだ書かれていない。しかし、数十年もしたらつけ加わることは必至である。 ところで、ばあちゃん育ちの私は明治のしつけを受けたので、丼飯は下級の食べ物という意識がある。あれは、店屋物のメニューで、おかもちで運ぶ利便性を考えて器を少なくしたもの。家の食卓で丼が出されることはまずなかった。そもそも、ご飯の上におかずをいったん置いて、ご飯椀の中の白米を汚してから口へかき込むだけでも怒られた。今、そういうことに目くじらをたてる人はかなり少数派である。 金沢に来る若者の多くは、大抵、近江町市場で海鮮丼を食べるのを楽しみとしている。画一的といえるほど同じ行動。店によってはかなりの高額のメニューも並んでいるが、あれは、私たち世代から見ると、ラーメンに伊勢エビを載せているようなもので、正直、感心しない。一つ碗にする意味が希薄である。 昨日、ワシントン条約の国際会議でクロマグロ取引の禁止案が否決され、世界の消費の八割を占めている日本は一安心となった。ニュース解説によると、日本のマグロの消費量は、七十年代あたりから急増し、輸出国から輸入国へ転落したという。今や、まるで寿司ネタの代表のように言われているが、マグロ至上主義文化は、私たちの子供の頃にはあまり広まっていなかったよう記憶している。グルメの世の中になるにつれて、クローズアップされてきた感がある。資源管理の徹底が急務になるなど日本政府の責任ある行動が求められているが、まず国民の過剰な「有り難がり意識」が沈静化するだけでもバランスはぐっとよくなるのではないか。 いずれにしろ、半世紀ほど生きてきて想うのは、食文化は、本当に五年単位くらいの短い間合いで変化しつづけ、昨日の常識が今日の常識にはならないということ。今後もどうなっていくのだろうか。
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