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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2010年04月30日
  (つづき)
 「音」は中国由来の元々の漢字の「おと」を表し、「訓」は則ち「意味」のことで、その「意味」を「漢字の読み」として採用したというのが、日本語の画期的なところ。
 平成の大合併の際、石川県の高松町、宇ノ気町、七塚町の三町が併し、平仮名の「かほく市」になった。私はあきれ、こういう言い方で、みんなにクイズを出した。
 「私は、小松が「こまつ市」になっても、正直、嫌だが一応納得はする。金沢が「かなざわ市」になっても、これも我慢する。だけど、「かほく市」だけは我慢がならない。それはなぜか判りますか?」
 多くの人は即答が出来なかった。もちろん、「かほく」は「音」だからである。こまつと平仮名で書いても、ちいさな松であることは理解できる。それは訓なので意味が判るからである。でも、「音」は判らない。「机上」を「きじょう」と聴いただけでは何のことを言っているのか判らない。「機上」も「気丈」も「気情」「軌条」も「騎乗」も「帰城」もあるからである。常識的には「河北」「華北」あたりだろうと見当はつくが、訓読と違って、頭の中で漢字に変換し直さなければ意味が判らないから、結局、二度手間である。
 さて、先日、野々市町が市制昇格の折りの名称を「野々市市」とすると町の検討委員会で決定した。「市」が重なって、確かにちょっと変な感じになるので、どうするのだろうと地元で話題になっていた。平仮名が順当とする意見も私の周りで何人か聞いていたし、理屈では訓読なので平仮名でも仕方ないかと諦め気味だったので、この決定を聞いて個人的には安堵した。
 ちなみにこの検討委員会の座長は元社会科教師である。
 2010年04月29日
  漢字書きになった野々市市

 数年前のこと。定頼中納言が親の七光りだと小式部内侍をからかった時、「大江山いくのの道の」と即座に詠み掛けたという有名な「十訓抄」の話を授業でした。
 どのあたりにあるのか説明しようとインターネットで地図を調べた。京都から丹後地方あたりの中地域地図。「いくのの道」の「生野」は、今、福知山市の一部になっているようだ。そこまではよかったのだが、その地図の線路に「北近畿タンゴ鉄道株式会社」と書いてあったのを見つけ驚いた。「丹後」が片仮名書きである。便宜的なものかと思い、この会社のWEBサイトに行ったが、どうやら正式な名称のようだ。
 第三セクターの会社で、福知山と宮津を結ぶ「宮福線」と、舞鶴から宮津を経て兵庫県豊岡までを結ぶ「宮津線」の二線を運営している。それにしても、なぜ片仮名なのか。ダンス音楽としか思えず、激しく違和感を持った。片仮名にする意味が判らない。
 以前にも書いたが、レストランの入り口に順番待ちの記名版があって、片仮名で名前を書けというところが多い。あれを見ると、田辺や田中などという小学校低学年の字まで片仮名で書かねばならない理不尽さを感じて気分が悪くなって、「そんな漢字も読めない店員さんをお雇いですか。」と嫌みの一つも言いたくなるではないか。この「タンゴ」にもそれと同じような過剰な配慮を感ずる。(つづく)

 

 2010年04月24日
  ばあちゃんが違う

 問題集を解いていて思ったこと。
 最近の若い人の書く小説に出てくるおばあちゃんに、私はいつも違和感を持つ。「それは若いあなたから見たおばあちゃんであって、おばあちゃんはそんなノリではないですよ。」と言いたくなる。例えば、おばあちゃんが写真を撮るときピースをする。そんな軽いノリのおばあちゃんは違うと感ずる。この小説家は若いからおばあちゃんが判っていないのだ、自分のノリでおばあちゃんを描いているのだ。まだまだだなあ。だから若い人の小説は面白くないのだと思っていた。つい最近まで。
 でも、はたと思った。若い人にとって、六十歳をすぎれはおばあちゃんだろう。とすると、私のちょっと上の世代から。とすれば、こんなノリも十分あるかもしれない。平気でピース。高度成長経済どっぷりに育った世代。
 私のばあちゃんは明治生まれ。いつも和服を着ていた。夏暑くて、洋装をしていると子供心に違和感を持ったものだ。寝るときは時代劇に出てくるような高枕。木の台に小さな俵のような枕が載っている。よくあれで頭が落ちないものだと思って聞いたら、「あれでずっと寝ているから大丈夫なのだよ。」と言っていた。
 そんなおばあちゃんはもういない。
 ばあちゃんが変わったのだ。若い人が書くばあちゃんが今のばあちゃんの実態だ。そう思うと納得せざるを得ないのだが、でも、ばあちゃんは私のばあちゃんらしく出てきてほしい。今風ノリのばあちゃんが出てくる小説を私は読みたくない。

 「サザエさん」のフネさんはワカメちゃんにとってお母さん。おばあさんではない。でも、今のおばあさんはフネさんよりイマドキ風。しかたないか。

 ただ、それこれ認めるにしても、この角田光代の小説のばあちゃんはやっぱりなんだが変。自分の死が近いことを自覚しているのに、周囲が優しくなるのが気に食わない、仲が良くないならそのままの関係で終わるのが筋だと元気いっぱい生意気いっぱいに主張している。弱ってきている人の気持ちとしてどうも違和感がある。おそらく、これは元気な作者の意見そのもので、その主張を載せるため割り当てたのがこの老人といった作り方をしていったためだろう。同僚に意見を聞くと、この小説駄目だねえとバッサリ。

 2010年04月23日
   モクレン落つ

 職場の駐車場に車を止め、玄関まで歩く小道にある草木が私にとって季節を知る目印になっている。あとはスーパー特設コーナーの年中行事品(笑)。
 新入生入学の頃、白い木蓮が咲いていた。それが一つ二つと花を落としていき、先日、ついに丸坊主に。葉がすぐに出ない木のようで、冬さながらの枝ぶりとなった。
 木蓮に似た、春を告げる花にこぶしがある。詳しくない私にははっきりと区別がつかないが、調べると、こぶしもモクレン科と出ていたので、道理でわからないはずだと少し安心した。私の目にする木蓮は白い花で、何の疑問も持たなかったが、そういえば紫のもあったはずだと、これも調べてみたら、こっちが正式な木蓮で、白いのは近隣種、正確には「ハクモクレン」といわないといけないらしい。木蓮より大型で立派な木である。
 全国、春とは思えない寒さが続いている。太平洋側で暖かかった日もこちらでは寒く、つまりはずっと寒い。職場も暖房が入ったまま。
 桜はとっく散ったが、あの日、風雨に耐えた花は、長く保った。
 今、五月に咲く花々は困っているだろう。

 

 白木蓮落ちて椿の残りけり

 

 (季語重なり。こんな時はどうすればいいのやら。)

 2010年04月19日
  織作峰子写真展「SWISS 光と風」を観る
 昨日、高岡のミュゼふくおか写真館に、織作峰子の写真展を観に行く。彼女がここ六年間に八度訪れたスイスの情景を切りとったもの。
 昨年、押し花の水墨画のような作品展を金沢二十一世紀美術館で観た。正直、単調で面白くなかったので、一抹の不安はあったが、バラエティ豊かな被写体で充分楽しめた。
 今回の写真は、外国風景として極めてオーソドックスなもので、万人、安心して観ることが出来、万人、ああいい写真だなと素直に思う種類のものである。撮り方も基本に忠実な印象で、大阪芸術大学教授を務めているだけあって、遠近の使い方、三角構図への配慮など教材に使用できるような写真が多い。山岳写真も多いが、自然の力強さに過度に迫る訳でもなく、素直に美しさを切りとるという方向性である。私見では、どちらかというと自然それだけの写真より、人や動物を入れた写真のほうが、静かな動感が出ていいように思った。ただ、そこでの人の生活を全面に押し出しているものは少なく、旅行者としての写真家が観た視点といったスタンスである。
 扱う題材は多種多彩。地元の子供の動き、猫、山岳鉄道やバスでの旅人の様子、観光名所で観光客をわざわざフレームに入れてあるもの、ストレートに絵葉書のような山岳風景……と、観る者を飽きさせない。
 技術的には広角レンズの使い方が巧みであった。反面、スイスの小さな花々を接写した小品群はまったく平凡。
 フロアで、撮影中の様子を描いた短いビデオが流れていたが、スイスの景色に映えてスタイル抜群の美女度が際立っていた。「美人さんスイスの美しい情景を撮す」という感じで、その取材の結果、この作品たちが生まれたのですというトータルなイメージをを我々に提供する。何とも美人さんならではの効果。
 後、館を出て前を流れる岸渡川を散策。四年前、偶然、桜祭りの日に訪れ、河岸の桜を堪能した覚えがある。既に終わりかけで、多少くすんでいたが、まだ葉を出していないものもあり、充分楽しめた。金沢は先週土曜日がピークだったので、思いがけず再度の花見が出来て幸運だった。近くのレストランでパスタのランチ。行き高速、帰り国道のプチドライブの半日。
 2010年04月18日
   堀多恵子氏死去
 堀辰雄の妻多恵子さんが亡くなったと新聞に出ていた。八十歳をすぎて矍鑠(かくしゃく)とされていることを知っていたが、それからだいぶたつ。享年は九十六歳。住所は信濃追分。追分教会で葬儀とあるので、ずっとあの家のお近くに住んでおられたのだろう。
 その昔、大学のゼミの勉強合宿が近くの民宿であって、夕刻、自由時間に旧北国街道を歩いて油屋旅館まで行った。その近くに堀さんの家の入り口があって、ここがあの堀辰雄の家だよ、今も奥さんが住んでいるという話を聞いた。
 後年、研究会のメンバーと軽井沢旅行に行き、公開されたこの家を見学して、その時のことを懐かしく思い出した。誰も訪れぬ山間の昔ながらの小道といった最初の印象と較べ、立て札などもあって観光に配慮した雰囲気に変わっていて、年月を感じた。
 後、このあたり、愚妻と再訪もしている。
 最初の、この向こうに多恵子さんが生活されているんだなと思った時、彼女はおそらく六十歳代、辰雄との日々からは三十年近くたっていたはず。若い盛りの私は、随分昔の話のように感じていたが、それからさらにだいぶたつ。
 活躍が戦前で、歴史の中にあると思っていた小説家と、今を生き、一昨日亡くなった妻。ご夫婦だけど、別の時代を生きたかのような、私の心の中で微妙に整合性がとれない印象を持ったが、無理もない、旦那が亡くなったのは昭和二十八年。それから五十七年の月日を彼女は生きてきた。
  若い弟子筋だった立原、中村、福永ももういない。ゆかり深い犀星の、その娘の朝子さんさえもうこの世の人はでない。
 戦前作家で奥様がご存命だった唯一の方だったのではないだろうか。合掌。
 2010年04月17日
   老眼鏡を買う
 近い小さな字が見えなくなり、大きなタイトルだけ見て仕事をしてきたが、当然というべきか、ミスが目立つようになった。書類の最初のほうを読み、これをすればいいと思って済ましたつもりでいたら、後ろのほうにもうひとつしなければならないことが書いてあったりする。漢文の訓点なども眼鏡を外し、顔を近づけないと見えない。
 この春、眼科に行って処方箋をもらい、眼鏡店で遠近両用眼鏡を調製した。安売りを標榜している店でも、まず、最初に歳や職業を聞きだして、それなりの額のセットを勧める。そもそも座らされた机の下のショーケースには鼈甲何十万円のフレームが並んでいて、それも作戦のひとつなのだろう。
 こちらとしては、老眼や遠近両用眼鏡で知らないことをいろいろ聞いて、スムーズ移行できるよう情報を収集した。
 数日後出来上がり、店内で試し掛けをして雑誌を読んでみたが、思ったより遠近の移行がスムーズで、大きな違和感はなかった。ただ、店の天井は蛍光灯だらけで照度が高く、そもそもくっきり見えるように作ってあり、古い眼鏡の方をかけてもくっきり見えたのには苦笑した。これも商売。
 さて、それをかけて職場に行ったら、生徒はすぐに「先生、眼鏡かえたん?」と反応した。しかし、毎日顔をつきあわせている愚妻のほうが、全然、気づかない。いつ気がつくだろうかと黙っていたら、そのまま日々が過ぎていった。気がついたのはちょうど一週間後。
 まあ、中年の夫婦関係というのはそういうもので、つまり、我々、至極真っ当であるという証拠みたいなお話(?)。
 2010年04月13日
  海流座公演「新・裸の大将放浪記」を観る
 ご存じ芦屋雁之助の当たり役。私達世代で山下清といえば小林桂樹だが、後年、テレビで人気が沸騰した。しかし、あまりに好評を博したため、役者としてイメージが固定してしまう不幸にみまわれた。その上、糖尿病にもかかわらず肥った体型を維持せざるを得ず、時に差し出されたおにぎりを客前で頬張って見せたりもして、ジレンマを抱えつつ演じていたという。そうした実情が、死亡後、世間に広まって、役者の因果な商売ぶりが改めて言われたりしたのが、もう五年前のこと(二〇〇四年没)。
 その姿を知っているだけに、弟小雁は引き継ぐのを悩んだようだ。米倉斉加年が説得し、脚本・演出を手がけることで、この役を引き受けることになった。
 主人公山下清は、田舎の駅で盲目の少女と出逢い、彼女の勤め先の軍国食堂で働くことになる。突然姿を消してしまった清を心配した八幡学園の馬宮は、清を探しあてて迎え来て……という展開。前編は、お馴染みの山下が引き起こすドタバタと、純粋だからこそ人を最終的に幸せにしてしまう彼のありようを描いて、安心して観ることができる。軽度の知的障害があるがゆえに、周りを慌てさせ、笑わせ、そして幸せにしてしまうという演技は、考えてみれば、藤山寛美の十八番であった。兄より声などが似ている小雁の演技に、寛美のイメージが重なったのは私だけだろうか。今年、小雁は七十六歳になるはずだが、動きも軽快で、「番頭はんと丁稚どん」の頃と全然変わっていないように見えた。
 戦後、放浪の天才画家として山下清の名は有名になる。彼の生活もプロの画家のそれになり、「先生」と呼ばれる存在になった。その中で、時に鬱積したものが表に出て苛つく。後半は、そうした人間的なテーマが現れ、新劇的な展開をみせる。そのあたりもしっかり描こうというのが米倉の意図であり、そこが小雁が納得したところだったのではないかと推察する。
 役者的には、米倉を久しぶりに生で見られたことが収穫(易者役 今年七十五歳)。何十年も前、役者として成功をおさめ、テレビにもよく出ていた。絵描きとしても独特の才能を持っていることは我々世代以上の人は皆知っている。最後に、小雁とともに彼も少しトークがあった。この芝居、小雁はもちろん彼も大事な看板で、二枚看板の劇。それに、フォーリーブスの一人、おりも政夫が頑張っていた。当時若かった女性観客陣はさぞ懐かしかろう。    (2010.4.12)
 2010年04月12日
  給与が出る店
 朝、新聞の折り込み広告を眺めていた。理美容店の求人チラシ。「スタッフ募集」とある見出しの下に、こう書いてあって、目がテンになった。
「給与の出せる店」
 何だこれは?? 働いても給与の出ない店が山ほどある業界なのだろうか。
  ひしひしと不況。
 2010年04月11日
  井上ひさし氏死去

「井上ひさし「ふふふふ」(講談社)を読む」
 新刊のエッセイ集。「小説現代」に連載していたもの。憲法論議、政治・社会情勢への皮肉・憂いがほとんどのテーマ。それなりのご年齢となって、ご自分が思い描いた日本と違ってきている現状を、蜂の一刺しであったとしても筆でもって訴えるといった心境なのであろう。長年の読者として、彼の考えはよく判るし、共感もするのだが、エッセイ集として、時事問題ばかりでなく、昔話や蘊蓄話をもっと聞きたかった気もする。プロレスラーとなった神父の話「暴風神父」の明るい終わり方にほっとする。

 

 以上の短い感想を、今朝、アップしようとパソコンをつけたら、そのご本人死去のニュースが目に飛び込んできた。昨年十月末に肺癌が発見され、抗癌剤治療を受けていたという。七十五歳。
 高校生の頃からの愛読者で、まず軽妙なエッセイが大好きになり、「モッキンポット氏の後始末」他を読みあさった。その後、「手鎖心中」他の小説も読んだ。本業の戯曲を読んだのは少し後になってから。芝居も見始め、ト書きで書かれた戯曲を読むことに違和感を感じなくなって、観劇と並行的に読んでいった。こまつ座からのダイレクトメールも、ずっといただいていた。金沢市民劇場で井上芝居はよくかかるので、それで有名作は観ていたし、観たいと思っていた出世処女作「日本人のへそ」は、後に金沢公演があったので、遅ればせながら観た覚えがある。講演も五回は聞いている。
 記事に「三十九年からは、五年間続いた「ひょっこりひょうたん島」の台本を童話・放送作家の山元護久とともに執筆、一躍人気を集めた」とあった。これはちょっと違う。業界での地位を確立したではあろうが、その時に台本作家として一躍有名になったのではなく、作家として有名になって、彼が、我々子供の頃、夢中になって観た人形劇を書いていた人だったと知ったのであった。それを知ってから彼の言葉遊びや歌が多用されている作品を観るたび、ああ、「ひょっこり」とおんなじだとうれしくなったものだ。「井上さん、またやってますねえ。」彼の作品が好きなのも、ひょこりでの刷り込みがあるからかもしれない。
 新作を楽しみにしていた作家がまた一人いなくなった。愛読せる阿川弘之さんや丸谷才一さんはお元気だろうか。

 

 2010年04月10日
  春色人を悩まして

 今日は桜日和。その蘇東坡の詩「春夜」ではないが、「春宵一刻値千金」、今でないと見そこなってしまうと近くの二級河川へと赴いた。近年、植えられた桜が見事に成長し、ちょっとした桜の名所となっている。
 川岸に建つ小さな洋食屋さんで夕食をとりながら窓越しにライトアップされた夜桜を観賞。その後、店の前の桜をしばらく見て、帰ろうかとも思ったが、すぐ帰るのも残念な気がして、車を移しなおして、再度、流れに沿って散策した。近場であるが、ここに夜桜見物に来たのは初めて。急いで帰る意味もない。ベンチに座ってしばし時を過ごした。真っ暗な中、ブレ写真も量産。まさに「春色悩人眠不得(春色人を悩まして眠り得ず)」(王安石「夜直」)である。
 記憶に残る琵琶湖畔の桜のトンネルのような豪勢な花見も思い浮かぶし、家の前の公園の桜で済ましたこともある。今日の花見は初めての場所だったので、覚えていることだろう。
 何事も、同じ所に毎年行くというのも人生の楽しみ方の一つである。落ち着くし、毎年来ることで一年無事に生きてきた証を感ずる。しかし、違うところに行くといういのもいい。初めての経験は何と言っても印象が深い。小さな行動だったが、そんな、ずっと後になっても思い出すことが出来る花見になったかもという思いで家に帰った。

 

 2010年04月09日
  中国語入門授業

 昨年のこと。中国籍の生徒さんに、一時間、「中国語入門」授業をしてもらった。まったくのお任せで、レジメがあるなら印刷しておくよといったレベルの関わり方しかしなかったが、実によく考えられた授業をしてくれて感心した。
  最初に、中国語の「四声」などの特色をコンパクトに説明し、クラスメイトの名前の中国発音を全員してくれたので、皆、自分の名前を中国語で言えるようになった。後半では、みんなで中国語の歌を歌いましょうと、歌詞を紹介してくれた。皆で練習し、最後にはおっかなびっくりながら、テープに合わせてその歌を歌って、それで、ちょうど五十分。実に能率的で、且つ、楽しい。
  彼女が持ってきた歌は、歌謡曲然とした曲調であったが、詞は、蘇東坡の「水調歌頭」だという。

 

    水調歌頭    蘇東坡

 

    明月幾時有                                       
    把酒問天                                       
    不知天上宮闕                                     
    今夕是何年                                       
    我欲乘風歸去                                     
    又恐瓊樓玉宇                                     
    高處不勝寒                                       
    起舞弄C影                                       
    何似在人間                                       
                                                      
     轉朱閣       
     低綺戸       
     照無眠       
     不應有恨     
     何事長向別時圓
     人有悲歡離合 
     月有陰晴圓缺 
     此事古難全   
     但願人長久   
     千里共嬋娟   

 

 テレサ・テンは、下二行目の「但願人長久」を曲のタイトルにして歌っているという。
 私はびっくりした。なるほど、道理で歌謡曲風だ。しかし、歌詞自体は、紛れもなく蘇東坡の詩だから、宋の時代。そんな古い詩が、今の曲として曲がついて歌われている。日本でいえば、紀貫之の和歌を今も歌謡曲として歌っているようなものではないか。
 もともとは遠地の弟を思って詠んだ詩のようだが、もちろん、相手を愛しい異性と読みかえることもできる。するとこの詩は、歌謡曲にぴったりの、艶やかで切ない詩に見えてくる。
 詩は、前半、月に思いをはせ、風に乗り飛翔するするイメージを語り、後半、

 

「人有悲歓離合 月有陰晴圓缺 此事古難全。」(人には悲歓離合有り、月には陰晴圓缺有り、此の事 古より全うし難し。)
(拙訳 人には離散集合の喜び悲しみがあり、月には満ち欠けがあります。この事はいにしえからどうすることもできないのです。)

 

と、人の定めを嘆じている。そして、最後に、人と月を重ねて、

 

  「但願人長久,千里共嬋娟」(但だ願はくは、人、長久にして、千里、嬋娟(せんけん)を共にせんことを。)
(拙訳 ただ、せめて願うのは、あなたと(仲秋の節会に出会うことはできないものの)健康で長生きできますように。遠く離れた所にいる私たちですが、この名月の夜だけは、月を仲立ちにして互いに心を通わせましょう。)

 

と結んでいる。愛しい人と離ればなれになっている二人の切ない思いの歌である。
 それにしても、日本のように、文語から口語へという大転換がなく、漢字だけでやってきた中国語。ダイレクトに宋時代の人の思いが現代の中国国民にすっと通じるというところが素晴らしい。中国三千年のすごさを思い知った気持ちであった。
 先日、テレビで、今、ニーチェの「超訳」や渋沢栄一の「論語と算盤」の現代語訳本など、古典を分かりやすくしたものが密かに売れていると出ていた。若い頃、渋沢栄一「論語講義」の脱線話を楽しく読破した我が身には、ある意味うれしい話だが、だからといって、たかだか明治時代の文章を、当時の社会情勢を理解するために最小限の「注釈」を施すというのならいざしらず、「現代語訳」というのはどういうことだろう? 
 どうやら、我が日本では、言語は百年もさかのぼれないようなのだ。現代日本人の言葉の乱消費は際立っている。

 2010年04月08日
  (つづき)
 実は、日本における万年筆のことを調べていると、丸善の歴史に触れざるを得ず、その流れで、梶井の「檸檬」が出てきて、それでこの店の閉店を知ったのである。インターネットの横ズレ芋蔓式検索の結果。
  あの時、長くもない道のりを歩いて丸善京都河原町店に行き着いた。これも果物店同様、コンクリで出来た何の変哲もないちょっと大きな書籍文具店といったたたずまい(当時と場所が少し違っているという)。この京都店が閉店したのは二〇〇五年一〇月。たしか経営が苦しい丸善の店舗集約の一つとして閉店したはずで、この時は全国ニュースに取り上げられ、私も感慨を持って聞いた覚えがある。八百卯の閉店を知らなかったのは、こちらの情報収集能力が低下してきたからだろうか。
  ご存じのように、丸善は日本で本格的に万年筆を輸入して定着させた老舗輸入洋品店。「平常あんなに避けていた」とあるので、主人公「私」と等身大の作者は、当時の丸善のお高い舶来ものや洋書が並ぶ威高い雰囲気が苦手だったのだろう。周知のように、この小説では、「憂鬱が立て罩(こ)めて来る」場所、「気詰まりな」この場所が「粉葉みじん」になる想像をすることで、陰鬱な気分をはねのけようとする。
 かといって、梶井は丸善が本当に嫌いだった訳ではない。この日も、香水の壜が並んだコーナーや煙管コーナーを巡っているし、アングルの橙色の重い本を手に取ったのは「日頃から大好きだった」からだ。「以前にはあんなに私をひきつけた画本」ともあるので、彼はここでしか手に入らない画集や洋書の立ち読みをするために、結構、ここに通っていたことが判る。
 手元にある「檸檬」の原型となった詩稿「密やかな楽しみ」の複製(「複製近代文学手稿100選」(二玄社))で筆跡を見ると、横罫ノート断片に万年筆で書かれている。これは大正十一年の書き物だから、三高の学生時代には既に万年筆を使っていたことになる。
 梶井の万年筆は、この丸善で買ったのだろうか。
 2010年04月07日
  梶井基次郎「檸檬」をめぐる横流れ的断想

  今頃になって、京都中京区寺町二条角の「八百卯」なる果物屋さんが昨年の一月に閉店したことを知る。「見すぼらしくはないまでもただあたりまえの八百屋に過ぎなかった」この店を有名にしたのは、梶井基次郎の「檸檬」で印象的に語られるからだ。
 「その果物屋は私の知っていた範囲で最も好きな店であった」という印象的なセンテンスからこの店の紹介が始まる。なぜか。それは「果物屋固有の美しさが最も露骨に感ぜられた」からだという。それがはっきり判るのは夜の景色。

 

 周囲が真暗なため、店頭に点けられた幾つもの電燈が驟雨のように浴びせかける絢爛は、周囲の何者にも奪われることなく、ほしいままにも美しい眺めが照らし出されているのだ。裸の電燈が細長い螺旋棒をきりきり眼の中へ刺し込んでくる往来に立って、また近所にある鎰屋(かぎや)の二階の硝子窓をすかして眺めたこの果物店の眺めほど、その時どきの私を興がらせたものは寺町の中でも稀だった。

 

  そんなスポット的に明るい店で、「単純な色」で「紡錘形の恰好」が気に入っている「私」は檸檬を一個買う。「えたいの知れない不吉な塊」で「心を始終圧えつけ」られ、「見すぼらしくて美しいものに強くひきつけられ」ていたその頃の「私」の 心情に見あう行動である。
 だいぶ以前、文藝研究会のお仲間と京都を文学散歩した時、この店から丸善まで歩いて追体験してみたことがあった。すでにコンクリート風の建物となっていて、小説当時の建物ではなかったが、店前に梶井の檸檬の店であることをディスプレーにして紹介していた。二階はフルーツパーラーで、我々はそこでレモンがらみの飲み物を注文したことを覚えている。ミーハーだけど、あの時はみんな、せっかくだから徹しようという気分だったはずである。
 創業は明治十二年(一八七九)というから百三十年の歴史があった。四代目の当主が癌で急逝され、ここのところ親族で運営していたが、閉店となったそうだ。(つづく)

 

 2010年04月06日
  微妙に満開未満
 今日、金沢の桜が満開だと気象台から発表になった。ところが、私の目にする桜はすべて微妙に満開ではない。一二日早い感じ。
 金沢の気象台は長く金沢市の繁華街からほど遠からぬ野町にあって、我々旧市街地住人の感覚とズレを感じたことはなかったが、駅西地区に移転して以来、常にちょっと「暖かめ」の数値で発表となっている。 例えば、積雪も「十数センチ」くらいかなと思っていると「数センチ」という発表で、どう見てもそんなに少なくない。場所が海に近いのでそういうことになった。金沢の桜と言えば兼六園なのだが、「金沢の桜」と「兼六園の桜」が微妙に違っている。近代化のために移転は仕方がないことだったのだろうが、旧市街人としては、ぴったり感がなくなって少々残念である。
 最近の地元ニュース。明治二十九年開所という由緒ある輪島測候所が、今年限りで無人化され、人手がかかる草花観測などは終止符を打つこととなった。これもハイテク集約の流れで、全国の測候所が消滅している一環。
  今の世、何事もそうなっているが、ハイテク社会は、人間の「実感」からどんどん離れてしまう結果になっているようだ。
 最後に小ネタを。
 輪島出身で学生時代に東京で嫁さんを見つけた人が、その折、女性の両親から反対されたという。娘をそんな寒いところへ行かせるわけに行かないというのである。よく話を聞くと、気象予報で「輪島の上空○○キロには、マイナス四十度の寒波が居座って〜」などというのを聞き続けて、余程寒いところだと思ったらしい。もちろん、娘さんが嫁するところは「上空」ではありません。これ、愚妻から聞いた話。実話だという。実によく出来ている。
 2010年04月05日
  (つづき)
  他の資料としては、津田青楓「漱石山房と其の弟子達」なる弟子参集図がある。あれは書斎ではなくて、この客間のほうである。絵では広々としていて、弟子十人がゆったりと座っているが、おそらく客間は六畳間。本当に十人揃って座っていたとしたら、ギュウギュウ詰めだったろうと想像される。
 もう一つ、有名なのは岡本一平描く垂れ目顔で火鉢を横にした「漱石先生之像」なる漫画。後ろに本の山が見えるので、客間から書斎を斜め外方面を望む形で描いている。絵の右側、外の廊下奥に実際に漱石がよく一休みした休憩椅子が小さく見えている。かなりゆがんでいる構図なので断定できないが、後の奥に本の山が見えるので、彼のいるのはおそらく客間。来客の折りなどにはそちらに移って、火鉢に手をあぶりながら歓談したのだろう。
  こうして、間接的に想像していたら、番町書房出版「夏目漱石自筆全原稿 坊ちゃん」の別冊に、早稲田の家の外観写真や山積みの本が置かれた書斎写真などが載っており、詳しく山房の様子がわかることを知った(WEB上に掲載されており、それで眺めることが出来る)。
 私は、模型と絵画、それに写真をあれこれ組み合わせて、ためつすがめつ、愉しく小一時間を過ごした。万年筆から机上、机上から書斎、客間、そして家の外観や庭の様子。
 そうこうしていると、親しく行き来した家のような気分になっていき、一時(いっとき)、私は漱石山脈の一員のような気分であった。
 2010年04月04日
  漱石の机の上

 では、そのオノト万年筆が机に置かれた彼の机の上はどのようだったか。ちょっと探ってみよう。芥川龍之介は以下のように描写している。

 

 まん中には小さい紫檀の机があつて、その又机の向うには座蒲団が二枚重ねてある。銅印が一つ、石印が二つ三つ、ペン皿に代へた竹の茶箕(ちやき)、その中の万年筆、それから玉の文鎮を置いた一綴りの原稿用紙――机の上にはこの外に老眼鏡が載せてある事も珍しくない。その真上には電灯が煌々と光を放つてゐる。傍には瀬戸火鉢の鉄瓶が虫の啼くやうに沸つてゐる。もし夜寒が甚しければ、少し離れた瓦斯煖炉にも赤々と火が動いてゐる。さうしてその机の後、二枚重ねた座蒲団の上には、何処か獅子を想はせる、脊の低い半白の老人が、或は手紙の筆を走らせたり、或は唐本の詩集を飜したりしながら、端然と独り坐つてゐる。……
 漱石山房の秋の夜は、かう云ふ蕭條たるものであつた。
                 (「漱石山房の秋」大阪毎日新聞」1920(大正9)年1月)

 

 まだ五十歳前の漱石をつかまえて「老人」とは、今の感覚ではちょっとあんまりな気もしないでもないが、それはさておいて、ここでは、粛として文机に独り坐す様子が晩年の弟子によって鮮やかに描かれている。
 本文中、茶箕(ちゃき)とは、茶筒の中に入れて使う茶葉をすくう道具。といっても、茶杓ではなく、多く葉っぱ型であったり、籠状のミニチュア型の、それなりの大型の持ち手なしのスプーンのようなものである。漱石はそれを万年筆の受け皿に代用していたらしい。
 では、その机が置いてあった漱石の仕事場はどんなところだったのか。
 新宿区歴史民族博物館には漱石山房の間取りを再現した復元模型がある。これは、よく高校の副教材「国語便覧」や漱石文学アルバムなどに載っていることが多い。なかなかよくできていて、私は漱石の家の話になると、この模型の写真を見ながら、この人はこのあたりに座っていて、漱石はここに座っていて……と想像しながら読む。
 彼は、書斎の奥の方に本を山積みし、その前に机を置いて、後ろに手を伸ばせば、本が取り出せるような配置にして仕事をしていた。その目の前には居間兼客間。そこに弟子達がたむろしていた。(つづく)

 2010年04月03日
  (つづき)
 そのペリカン万年筆は、インクをかえても洗いもせず、乱雑に扱って手こずっている。その様子は、擬人法などを使って自虐的に説明され、この文章で最も微笑ましい箇所となっている。反面、「ブリュー・ブラックが性来嫌い」で「わざわざセピヤ色の墨を買って」と、インクの趣味は、なかなかこだわっている。
 「彼岸過迄」をつけペンで書いて、面倒くささに辟易し、「離別した第一の細君を後から懐かしく思う如く」、いったん見捨てた万年筆に「未練の残っている事を発見した」漱石は、その後、オノト万年筆を勧められ、「大変心持よくすらすら書けて愉快」な心持ちがし、ようやく万年筆を愛用するようになる。文章は、これをもって「万年筆に対して幾分か罪亡ぼしをした積(つもり)なのである」という終わり方をしている。「ものエッセイ」らしい定番の結び方である。
 その後の作品「行人」「こころ」などはこのオノト万年筆で書かれた。最晩年、国産物も購ったようだが、最後まで数本のオノトを所持していたという。
 ちなみに、扱い方を知らず相性が悪かったペリカンは、今のペリカン万年筆とは無関係。また、今もオノトを名乗っている万年筆があるが、これは伝統のブランドを引き継いだだけで、会社が今も存続している訳ではない。
 2010年04月02日
  漱石の万年筆

 夏目漱石の筆記具遍歴は「余と万年筆」に詳しく書かれている。明治四十五年、丸善では、日に百本も万年筆が売れているという話題からこの文章は始まる。どうやら、この当時、万年筆は最新式の筆記具として、急速に日本に普及しつつあったらしい。そんなブームの中で、著述を生業にしている者として、自分と筆記具の関わりを披瀝したのがこの随筆ということになる。つまり、「流行もの」に対するコメントで、文豪の文章というとちょっと身構えでしまうが、ごくごく普通の「文具エッセイ」である。
  万年筆の歴史を繙くと、ウォーターマンによって万年筆が発明されたのが明治十六年のこと。日本には翌十七年に入ってきた。しかし、一般的になるのは、やはり、輸入用品店丸善の功績のようで、明治末期、そのウォーターマンやオノトを大きく宣伝して売り上げを伸ばしたらしい。
 漱石は留学に行く時に餞別として親戚から一本もらったとある。彼の洋行は明治三十三年のことだから、本格的普及以前の段階で、かなり貴重な餞別だったのではなかったかと思われる。それなのに、彼はそれで器械体操の真似をして、イギリスに着く前に壊してしまったという。このため、現地で本格的に万年筆で字を書くということにはならなかった。もし、この時、壊さずに使い続けていたら、その後の展開は違ってきただろう。
 彼が再度、万年筆を使いはじめたのは「三四年前」とあるから、明治四十一、二年頃のこと。教職を辞して、朝日新聞に入社したのが、明治四十年のことだから、筆一本の生活に入ってほど遠からぬ頃である。必要に迫られてというところだろう。とすると、「三四郎」、「それから」あたりは万年筆での執筆であったろうか。(つづく)

 

 2010年04月01日
  リフォームすることに
 愚妻がこの四月から遠距離勤務にかわった。片道二十五キロ超で、五十歳を越えた女性には荷が重い。軽自動車運転ではきついかもと、急遽、買い換えを検討し、コンパクトカーを試乗したりしたが、今のところ、近場に通っている私と、時折、車を交換することで対応することになりそうだ。
 私はと言えば、職場の部屋がかわり、抽出の荷物を持ってプチ引っ越しとなった。新年度の布陣が決まるのが年毎に早くなって、年度末の締めの仕事が終わった途端に次が動きはじめ、達成感がないまま新しい忙しさに突入するといった感じになってきている。
 プライベートでは、祖父が設計し築八十年をこえる実家をリフォームすることとなり、図面を観ながら打ち合わせをすることが続いている。
 祖父は、自分が住む家を自分で図面を引いて建てたので、手抜きがなく、傷みは当然あちこちあるものの、これまで大きな難もなく保ってきた。昭和初期のモダンな洋風建築で、私の小さい頃まで、近くに公民館があって、そこの二階ホールからよく見えたので、ある年齢以上の人には、「昔あった公民館の近くにある洋館風の建物」といっただけで思い出してくれる人も多かった。
「子供の頃、あの洋館にどんな人が住んでいるのだろうかと不思議に思ったよ。その住人があんたやったんか。」
と、「なあんだ。」といったニュアンスをたっぷり滲ませて言われたことも一度や二度ではない。
 そのちょっと目立つ一軒家を、出来るだけ昔のイメージ通り直そうとしたので予想以上に費用がかさみ、下手な新築以上の費用が必要になった。どこをどう削るか。そうした議論も、そろそろ終盤。
 わが商売の繁忙期。ゆっくり日記を書く暇もない。書きためていた雑文を何回かに分けて掲載しようと思う。
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お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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