ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。
エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」 http://hiyorigeta.exblog.jp/
「スイングジャーナル」の最終刊(平成二十二年七月号)が手元にやってきた。もっと派手にさよなら特集でもするのかと思っていたが、いつもの通りの記事。終わりのほうに案内が正式に載っていることと、連載がこれでひとまず終わる旨が書かれたエッセイが目につく程度。あくまでも休刊であっていつかは……という態度を貫いたかたちになっている。これはこれでいいのかもしれない。主力雑誌を失った専門出版社がどう立て直しを図るのか素人は判らないが、魅力的な内容での復刊を淡く期待するしかない。ところで、それまで、何を読めばいいのだろう? 最近、雑誌は大きな付録で客を釣る。女性雑誌でブランド名がついたエコバッグを付録につけたものが大ヒット。そのあたりから一気に柳の下の泥鰌を狙ったものが乱立した。最近は男性誌にも及び、ペンケースをつけたところもあった。韓国では、広告を出しているところの商品を付けるので、雑誌の内容と何の関係もない洗剤などがついているという。 今月、ついに、私の守備範囲の雑誌にもその波がやってきて、さすがに驚いた。老舗オーディオ誌「ステレオ」がスピーカの組み立てセットをつけたのである。ネットでは売り切れとなっているので、もう無いものと安心していたが、郊外型大型店で平積みになっているのを見つけてしまった。買おうかどうしようか悩んだ末、エンクロージャーの工作をはたしてするのかと自問し、結局買わなかった。 その昔、ダイヤトーンのスピーカーを手に入れ、手持ちのエンクロージャーの裏を開けて、安スピーカーを交換し、グラスウールを入れたりして補強するなど、手軽オーディオ工作をしたことがある。同時期に、現在サブで使っているシスコン流れのスピーカーも裏を開きて補強をした。それだけでも、充分、工作だった。その昔、「FMファン」誌を読んでいたから、長岡鉄男の工作記事もよく読んだものだ。懐かしい想い出。 しかし、今、もし作ったとして、中途半端なお手製が狭い自宅に増えても、それを使うかというとおそらく使わない。本屋の雑誌棚の前で、逡巡の末、そう判断した。 それにしても、趣味の人には魅力的なオマケ。各誌も必死である。でも、なんだか末期的症状のような気がしないでもない。 雑誌の付録の話の結論としては無理があるかもしれないが、紙媒体の消滅が言われているこの頃、それが教養主義の凋落の次の文脈として位置している訳ではないことを祈るばかりである。
|
|
先日、そろそろレコードプレーヤーの針を換えないといけないと、事前に調べて「お気に入り」に入れておいたアナログ針屋さんのサイトに行ってみると、取り扱い中止の赤文字が……。カートリッジはpickering社EP-HiFi(MM型、針圧 0.75〜1.5g、出力電圧 3.5mV)。 調べてみると、二年ほど前に、そもそもこのピカリング社のカートリッジ自体がすべて製造中止になっていたようである。あわてて、まだどこかに針の在庫がないかとネット上で根気よく探したが、もうどこにもなかった。まさしく後の祭り。 もともとこのカートリッジはレコードプレーヤー(COSMOTECHNO DJー4500)に付属していたもの。実は、このプレーヤー、出てそんなにたっていないのに、早々にカタログから消えていたのには気付いていて、不思議に思っていた。安いカートリッジをつけた古い機種のほうが残っているので、どうしたのだろうと思っていたのである。 ということは、発売後、程経ずして部品の供給がとまって、無くなったことになる。明るく元気な音を出していたので、大変、気に入っていたのに……。結局、針の交換をされることがないまま、この針のためだけにあるカートリッジということになるようだ。ちょっとプレーヤーの会社に文句のひとつもいいたくなるが、そこもカートリッジメーカーに文句を言いたい気分かもしれない。 これ、滅びゆくテクノロジーを未だに追いかけようとすると、色々な障害がつきまとうことを覚悟せよということなのかもしれない。 さて、そこで、針が完全にすり減る前に、新しいカートリッジを買って聞き比べをした方がオーディオ的に楽しかろうと、新たにカートリッジを購入した。こんどはオルトフォン社製の「2M RED」。オルトフォンと言えばMC型の高級品のイメージがあるが、これはMM型で扱いやすい。シリーズの中でも一番お安いもので、先任と同価格帯だが、ピカリング同様、元気なサウンドであった。高出力(5.5mV)なのが特にその印象を強くしている。欠点はスクラッチノイズを正直に拾うところ。 先日、若い頃買ったアナログレコードと、高音質を謳うBlu-spec CDで同じアルバムを聞き比べてみたが、音質の遜色はまったく無かった。音源が古いとCDでもサーというヒスが絶えず聞こえていて、ノイズレスということはない。肝心の楽器の音はアナログのほうが自然な感じがして好ましく、音的には今も昔も大して変わっていないのだと実感する。新しいメディアのほうが優れているのは当たり前という固定観念にこれまで囚われていただけだと、アナログを聞き直して痛感している。
|
|
先日、若くして亡くなった男性の通夜に列席した。読経、僧侶の法話といつものように進んだが、親族挨拶の前に、故人を偲ぶということで、故人の生い立ちを赤ちゃんの時から並べた映像が流された。これまでも、会場外のロビーなどに、思い出の写真や映像が流れていたことはあったが、式典の一部として長尺な映像が流れたのは初めてだった。思い出のスナップは中学・高校・大学と進み、奥さんとの仲睦まじいショットや結婚式の場面になると、喪主の奥さんが堪えきれなくなって号泣する声が会場に響いた。私は第二会場でモニターで様子を見ていたので、マイクが彼女の慟哭の声を拾い、ことさら大きく響き渡り、満座の涙を誘った。ご結婚されてそう年月もたっていない、つい最近の幸せ絶頂写真である。それをこの場で見せられたのだから彼女の思いは察するにあまりある。 故人が映像関係のお仕事だったので、お仲間が善意で家族のアルバムを使って作ったのだろう。あるいは、葬儀業者のオプションか。どちらにしても、家族の許可の上で行われたのだがら、端からどうという問題ではないのだけれど、私は正直あまり好ましいものと思えなかった。結婚式なら泣かすこともめでたさのうちだから色々な演出があってしかるべきだが、今回は「逆縁」ということもあって、結果的に家族の悲しみを煽るようなことになっていた。式であるからには多少の演出も必要なのかもしれないが、悲しみを印象づけさせることが葬儀本来の目的ではないはずである。ちょっと映像がもつ怖さを感じた。 家族の死の悲しみは、死亡直後に最大となるが、一連の葬儀関係のことで一端先送りされて、対応に忙殺される。その慌ただしさは一か月ほど続き、ようやく一段落したと思える頃、本当にいなくなったのだと再度悲しみが訪れる。しかし、その時は、「月日」のお陰で、激情のピークは過ぎ去り、静かに受け入れていく。葬儀はそうした「やりすごしの時間」でもある。これは、よく言われていることで、私も先年実にそうだと実感した。式は淡々と終わるに如くなしの感想を持った。 (最近、身内を送った身として、人のご葬儀が気になって書いた感想。難癖つけているみたいに読めるとしたら不徳の致すところ。)
|
|
四月の公式の歓送迎会から始まって、年度当初の諸々のはじまりの会が、五月末で一段落した。 大小さまざまな宴会があった。公式のものは歓送総勢六十人が壇上に立つという大がかりなもの。同じ組織とはいえ、知らぬ人も多い。まさに「儀式」。 対極にあるのが、焼き肉屋さんでの会。それも、無煙ローターではなく、昔ながらの煙もうもう、壁も油ぎっている、ビールを手にしたビキニの美女ポスターが似合いそうな焼き肉屋さん。昔、よく父と行った近所の焼き肉屋さんと雰囲気が似ていて、無性に懐かしかった。 また、先日の会は、以前の職場でよく行ったところ。久しぶりの場所で、これも懐かしかった。場所が一緒で、そこに集うメンバーだけが総入れ替わりになっているかのような変な感覚。 宴会好きで、ある会ある会全て出席というほど飲み助でもなく、出なければならない宴会だけ出ている身だが、それでも、公式な宴会は仕事をしているからこそ出かけて行く訳で、仕事を辞めたら、ない種類のものだと考えると、それなりに意味があるし、プライベート感漂う少人数での宴会も、これはこれで個人的にゆっくり話ができて楽しい。 いつから人は、家族での食事と、外での宴会をうまく使い分けて、夜の時間をすごすようになったのだろう。そして、いったい、これまで私は何回、宴会に出席したのだろう。 そして、そもそも人というものは、だいたい、何回、宴会をこなすと人生を終えることになるのだろう。
|
|
危ない危ないと思っていた据え置き型パソコンのハードディスクがついに動かなくなくなった。そこで、これまでネットに繋げずにサブ機として使っていたノートパソコンにネット設定して、メイン機器に昇格させた。部活の大会などがありバタバタしていたので、先の日曜日、ようやくその作業をすることができた。 このノート、五年前に購入したウインドウズXP搭載機で、スペック的にはもはや古いが、XPまででしか動かないソフトを使っている関係もあり、当分はこの機種でいくしかない。モデムの設定が心配だったが、一人で開通させることができて、うれしかった。 それにしても、よく使うアプリケーションソフトをインストールしたり、更新プログラムのダウンロードも大量にあったりと、一日がかりの作業となった。それでも八割がた。以後、毎夜、あれこれ載せて、更新チェックをしたりと、コンピューターのお守り状態となった。まるで、子供の促成栽培、あるいは、子供との空白を一気に取り戻そうとしている単身赴任のお父さんのごとくである。 ファイルの多くは、念のためにバックアップをとっていたので助かったが、ここ最近のファイルがいくつか吹っ飛んだ。特に今週研究会で発表予定のレジメを一から作り直さねばならぬことになったのが、ちょっと辛い。 としても、思ったより軽傷で移行できたことを喜ぶべきかもしれない。二十年以上パソコンとつきあっていると、パソコンってそんなものと、我ながら実に淡々としたものである。
|
|
エイコーン公演「令嬢ジュリー」を観る
1888年、ストリンドベリ作の古典的作品。私は1991年、無名塾の仲代達矢で観ているので、二十年ぶりの再会。あの時は仲代の個性が表立っていて、男性のほうのジャン中心の印象が強かったが、エイコーン主宰の今回の芝居は栗原小巻主演で、こっちは芝居のタイトル通り女性中心の印象。その意味で、こちらの方が正統なのかもしれない。 彼女がこの役をしはじめてからも結構長い。彼女の芝居は、どうしても彼女一人がしゃかりきとなって、逆に全体が沈んでしまう印象のものばかりであったが、今回は、判りやすい筋立てなので、それが悪い方向に出ることはなかった。 しかし、それでもやはり彼女中心主義であることには変わりなく、演出もそうなっている。おそらく台本を真摯に読めば、ジャンの貴族に対する屈折した心情もかなり対等に扱われているはずで、そうした意味で、やはりこの芝居も「まず栗原小巻ありき」の芝居であることには変わりない。 仕方がないことなのかもしれないのだが、全部そういう印象では、金太郎飴的な単調さが感じられてしまい、「ああ、いつもの栗原の芝居ね。」といった感じで、飽きられてしまうのではないかと思う。 それでも、無名塾に較べれば、今回のほうが、令嬢の奔放な性格やプライド。母親は低い身分だったことへの屈折した心情など、シンプルに理解できて、よかったのではないかとは思う。ジャン役の清水紘治も熱演。 クラシックな芝居。こうした身分の差がもたらす悲劇は、今の若い人には今一歩実感的に理解できないかもしれない。我々世代だって、もうそんな時代ではないが、人生経験上、読書や勉強によって、昔の雰囲気を架空実感的に身につけているのでなんとかなるといった程度である。 最後に話は脱線。今回、この文章を書くのに、無名塾公演がいつだったか市民劇場のHPで調べた。そのあたりに観た芝居は皆はっきり覚えていて、もう二十年が経過していることに驚いた。逆に最近のがおもいだせなかったりする。 入会して、ということは、自分のお金で芝居を見始めて、もう四半世紀をゆうに超える。上演演目表をみながら、ちょっとくらくらした。いったい自分はこれまでいくつの芝居を観てきたのだろう。熱心な芝居ファンという訳でもないのに、「観客のベテラン」(変な言葉!)になっている自分を発見する。 (2010・6・6)
|
|
5月末以来、パソコンが故障してアップ出来なくなっています。もうしばらくで復旧の予定です。
|
|
お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
感想をお寄せください。この「ものぐさ」のフォームは、コメントやトラックバックがあるブログ形式を採っておりません。ご面倒でも、左の運営者紹介BOXにあるアドレスを利用下さい。
(マイノートパソコンと今は無き時計 2005.6 リコー キャプリオGX8)
|