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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2010年07月31日
  夜は映画三昧
 NHKーBS夏の企画、「スターウォーズ」全六作毎夜放送。その魅力を分析する番組を事前にやっていて、それを観てしまったので、結局、全部観ることにした。
 西部劇の要素があるというのは誰でも判る。ナポレオンやナチ独裁政権の影も濃い。しかし、「イーリアス」をはじめとする西洋文学を下敷きにしているという指摘や、「父殺し」の系譜の物語でもあると解説されると、なるほどと感心した。前振り番組の威力は絶大だ。
 発表順に全てロードショウで観、旧作はリマスター版でも観、テレビでも観た身としては、一気に観ることでどんな発見があるのかという点に惹かれた。
 エピソード4以下の旧作については、いくつか新しい映像が挿入され、前三部作との整合性が配慮されていた。例えば、ラストの大団円、確か、当時、映っていたのは兜を脱いだダースベーダーだったはずだが、今回は、若いアナキン時代の俳優さんに差し替えられていた。
 そうした修正のせいもあってか、一番の印象は、当時、とってつけたかのように感じていた「ルークとレイア姫は実は双子」という設定があまり違和感のないものに感じたこと。映像も旧三作は古めかしいのではないかと危惧していたが、おそらく、かなりきつめに調整されたデジタル・マスタリングの結果によって、画像的に古さを感じないものになっていた。ただ、ちょっときつすぎて、家の安物液晶テレビでは塗り絵のような配色になってたシーンもあったにはあったが。
 六作中、ジェダイ壊滅状態の旧作に繋げる役目を負っている上に、アナキンが悪に落ちるまでを描くエピソード3は救いがなく重たい反面、監督の趣味もあるのだろうか、エピソード6は妙に軽くて重量感に欠けた印象。
 毎作、最期のエンドロールまでまじまじと観ていたが、その中に、新シリーズ、酒場で異星人が演奏する曲のクレジットに、クインシーの秘蔵っ子ジェリー・ヘイ(Jerry Hey)の名を見つけてニヤリとした。ちょっとしたところにも一流どころを使っている。
 一週間堪能したら、次にブルース・リー映画一挙放送の前振り番組をやっていて、リーの人生や禅に影響された思想を紹介していた。彼の拳法が既成流派を超えたものであったこともそれで知った。「アチョー!!」のかけ声も彼の演出らしい。だけど、さすがにと思いリーの一挙放送はパス。
 それでも、頭の中で終日、ジョン・ウイリアムスやらラロ・シフリンやら、おなじみの音楽が鳴り響いて、暑い夜、懐かしい映画にどっぷり浸かった一週間だった。
 2010年07月30日
  前進座「五重塔」を観る
 谷中の五重塔跡地は以前訪れたことがある。この幸田露伴の名作で名高い五重塔が心中火災で焼け落ちたのは昭和三十二年のこと。不可抗力ならともかく、放火の金閣寺などとともに個人のエゴによって焼失してしまうことに戦後の病を観ることは容易だ。
 脚本に仕立てたのは津上忠。前進座定番の演目。今回の再演の演出は鈴木龍男。
 融通の利かない渡り大工十兵衛が棟梁源太を差し置いて五重塔建築に名乗りを上げ、物議をかもす。棟梁はさすがに人を束ねる人格者で、自分のノウハウを渡そうとするが、それも断り、自分の耐震の細工で建てることにこだわる。大工としての腕良し、設計士的アイデア良しののっそり十兵衛に足りないものは、仕事は一人では出来ないということに気がついていないか、気がついていても、うまく人に伝えるすべをもっていないことだ。のっそりは最後にそれに気がついたと告白する。源太の協力がなければたたなかったことは明らかで、この物語は、腕はいいが「渡り」の一介の大工でしかなかった十兵衛が、この経験において一流になった一種の職人成長譚でもある。
 こじれにこじれてもしかたない状況で、千年もつ塔を建てるという職人としての気構えが二人を再度結びつけていく。他人との比較において自己を差別化するしかない現代の仕事、こじれたらそれで終わり、そうならないように、びくびくしながら気を遣って仕事をする。そんな中で、もやもやと達成感のない仕事をしている多くの勤め人にとって、合目的的でシンプルで且つ自己を発揮出来るこんな男気の世界はまったく羨ましい別世界である。
 芝居は、会話がよく練られていて無駄がない。初演以来、何百回という上演を経て彫琢されていったのだろう。嵐圭史、藤川矢之助の両優も文句なし。確かに名舞台である。
 唯一気になったのは、幕間の長さ。セットが職人の家、棟梁の家、寺などと話に合わせて変わるので、舞台転換させているのだが、これが結構待たされた。釘打ちの音が観客席までドンドンと響き、転換時の大騒ぎが察せられた。まあ、大工の話だから似合っているかもと考えてとちょっと和んだ。
 ラストの式の場面でのセットは、大きな塔が出現して、なかなかの豪華版。ただ、上人の台詞が聞こえにくかった上に、言葉が難しく、もう少し、現代語的な台詞にした方がよかったかもしれない。
 職人の一本気の物語。あるブログに、かつてのNHKの名番組「プロジェクトX」みたいだとあって、現代のほうに引きつけるとそうなるかもと、その発想に笑った。
 今、東京スカイツリーが建設中。完成したら、絶対、NHKが鳶職の職人さんにスポットを当ててテレビ番組を作りそうだ。    (2010・7・30)
 2010年07月25日
  暑い暑い
  今年は、きっぱりと梅雨が明け、猛暑となった。実にはっきりとした夏の入りだったので、妙に潔さを感じたくらい。
 ただ、あまりの暑さに、連日、熱中症で多くの人が死んでいる。
  気象庁の発表する最高気温は、ここ金沢では毎日32度前後。そんなに高温ではない。しかし、昨日、球場横の土の駐車場に駐車していた時は、車の液晶に表示されていた外気温は35度、それが、走行中には37度に上がっていた。アスファルトの上では、気象庁発表より5度程度は平気で高いということなのだろう。百葉箱と実際の気温は大きく違う。
 夜中、我が家は窓を開けて寝ているが、クーラーをかけたままの家庭も多く、室外機の熱風が混ざっているのだろう、深夜でも涼しい風が入らない。
 こちらとしては、できるだけクーラーを入れないようにしたいが、外がいつまでたっても暑いので、身を守るために入れざるをない。
 暑さの悪循環が、首都圏ばかりでなく、いよいよ地方都市でも顕著になってきた。いいことではないのは判りきっているが、では、一体どうすればいいのか。名案は浮かばない。
 現状、八月上旬頃には夏バテ必至である。
 2010年07月24日
  高校野球観戦

 先週、暑い中、久しぶりに高校野球を観戦した。初めて行った金沢市民野球場。一回戦だが、休日とて生徒や一般客もそれなりの入り。
 日焼け止め、帽子、タオル、水筒など暑さ対策グッズを忘れずに覚悟の観戦だったが、うまくナイター照明の日陰に入り、思ったよりなんとかなった。女生徒に日焼け止めローションを勧めたが、大丈夫、少し黒くなったって平気だよといっていた。まだシミの心配がいらぬ若さならではの特権。元気一杯で羨ましい限り。
 両校一二回は互角のように見えたし、部分的には互角の部分をあったが、負けた方には、やはりどこか弱いところがあり、それを見破ると、強者はたたみかけてくる。それで押せ押せになる。それは、まるでオセロゲームの盤面が最終的に真っ白になったりするのに似ていた。
 対して、的が相手の「弓道」は、あくまでも己との勝負。覆いかぶさって敵を潰しにくるスポーツではない。対戦スポーツの残酷さを目の当たりにして、選手が悔しさや惨めさを感ずるのは弓道の比ではないだろうなと推察された。

 だが、逆に言うと、自分にちょっと甘くても、つぶされることもなく、それに気づきもしないということになりかねない。弓道指導上、注意を喚起せねばならないところだと思った。
 応援していた学校は、二回戦を接戦で勝ち上がり、三回戦に進出した。今日、再度、観に行ったが、今度は自力に勝る相手がこちらのミスや弱点をテコに大量得点を挙げて突き放された。今度はこっちが押しつぶされたのである。
 この試合では、さすがに観客席も多く埋まり、ブラスや応援団、チアガールも出て華やかだった。点を取っている時のイケイケのノリはそこに座っていなければ判らない臨場感である。野球部保護者会のお母さん方も、冷たい物を配ったりして側面から応援体制。試合終了後も、お互いの応援団がエールの交換をして、健闘をたたえ合った。恒例の行動のようだが、負けてさわやか、暖かいものを感じた。

 2010年07月17日
  「国文学」が終わっていた
 学燈社が年ごとに出している問題集を注文しようと電話をかけたら、その本は当社では出さなくなり、別の会社が引き継いだという話だった。
 そこで、確認をとHPに行ってみると、国文学界では定番の専門誌「國文学 解釈と教材の研究」が昨年休刊になったと載っていて、そちらのも驚いた。道理で、最近、本屋で見ないはずである。昨年、ニュースになっていたそうだが、知らないまま一年以上が過ぎた。
 休刊の理由は、小説離れによる「文学」自体の低落、また、実学傾向の昨今の流れの中で、国文学という学問が魅力のある学問ではなくなってきているということが上げられる。大学の国文科が、お嬢さんの受け皿のようになっていた時期も長かったが、今や国文学科に進む学生自体が少なくなった。
 そこで、多くの大学では、国文学科を改組し、外国人向け日本語教育コースを併設し総合的な日本語教育の学科という形などに変化させて生き残りをはかっている。そうした流れの中で、作家論、作品論中心の昔ながらの国文学を研究する学生が抜本的に少なくなったのだろう。私が二十年ほど前から危惧していたことが、今、現実になりつつある。おそらく事情は英文学も同様のはずである。実学としての英語には殺到するけれど、英文学の人気は凋落しているのではなかろうか。
 大学受験の生徒さんも、今や純粋に「文学」をやりたいという人は、一つの学校で一人二人。早晩、この学問が先細りになるのは見えていた。自分が勉強した学問が冷えていくのを見るのは悲しいことだ。
 一つの大学で、上代から現代まで教授をそろえることは、お客さんと人件費の兼ね合いで難しいらしい。いずれ、純粋な国文学科は、特定の大学に、特定の得意分野を押し立てるといった具合にして生き残りを模索することになるのではないだろうか。
 先日、授業で近代文学者の手稿の復刻を見せた。興味をもって見ていたが、ゆっくり見たいのなら、一週間ほど持って帰らないから見においでと誘った。しかしながら、見に来た者は皆無。誰が来るのだろう、その生徒は間違いなく文学好きにちがいないと、多少楽しみにしていたので、残念に思った。しかし、そもそも小説を読んでいないから小説家自身に興味がないのだろう。今の教育でそうしたことを望むのは無理なことなのかもしれない。
 2010年07月15日
  お盆の行事

 ここ金沢のお盆は新盆。便宜的に法要は土日にすることも多く、今年はこの土日のところが多かった。
 我が家は新盆の次の年、二回目の盆である。肝心のお墓の前での法要は仕事の都合でいけず、亡父の友人の僧侶で、父を祀っていただいているお寺の法要のほうに参加した。同じ真宗さんながら、北陸はお東さんが圧倒的なので、本願寺派のお経を聞くのは珍しかった。後で調べると、全国的には本願寺派のほうが大きいようだ。今年そのお寺ゆかりの方で物故された方の紹介が住職からあった。昨年は亡父が紹介されおり、そうした紹介が盆の習いなのだろう。
  我が職場は墓地に近い。ちゃんと日付を守っている方も多く、ここ数日、夕刻にもかかわらず、墓地に向かう道は混んでいた。平日とて、おそらく仕事や学校からの帰りを待って集合の上、お墓参りに行かれる家族が多いのだろう。車にお墓参りグッズを載せての移動。
 微妙に今のライフスタイルに合わせた昔ながらの行事。
 これまで、我が家はお盆とほぼ無縁の生活をしていたので、死の当初のあわだたしさが終わり、こうして二年目のお盆が終わって、「なんだか、行事として執り行うお盆が私の生活に入り込んできたなあ。」という感想を持った。当たり前のことなのだけれど、それが不思議なような感覚で、一度完全に宗教行事から縁が切れていた我が家は、こうしてようやく昔ながらの普通の家に戻ったような気がした。
 それにしても、先祖にお参りし、物故者の紹介や月命日のお経も含め沢山のお経を聞いて、人生順番の気持ちを徐々に醸成させていくのがこうした宗教行事の役目なのだろう。沢山お経を聞いていたら苦しまず穏やかに終わりを迎えられるかなあという思いで聞いているのが若い頃と違うところ。

 

 2010年07月13日
  やっとショパン

 所属共済の福利事業としてやっているクラシックコンサートに今年も行ってきた。日は4日(日)。オケはOEK、指揮鈴木織衛。場所は県立音楽堂。
 一曲目はショパンのピアノ協奏曲第一番。ピアノ高田匡隆。今年はショパンイヤーだが、ラフォルジュルネをパスした私は今年初のショパンである。音楽には全く門外漢の愚妻が「ピアノ曲に伴奏が付いたような曲ね。」と聞き終えて言った。実に真っ当な感想である。彼女なりにちゃんと聴く耳がついてきた証拠で、長年、私に付き合って一緒に音楽会に行っていた成果であるとちょっとうれしく思った。確かに、途中、管楽器のソロもあるが、全体的にオケはピアノの引き立て役。オケのメンバーはあまり面白くはなかろう。アンコールは有名な「英雄ポロネーズ」。大柄で且つ情緒的。ショパンというのは、ピアノの総本山みたいな人だな、ピアノ好きなら誰でも好きになる部類の人だなと再確認。
 次は地元、西沢和恵(vln)のクライスラーの小品三曲。彼女の演奏はもう何度も聴いているが、早く弾きべきところが遅く、そのため緩急がつかずに単調な演奏になっていた。右の肘が上がって脇が甘くなっているのが原因ではないかと思われる。弦の響きもやせている。
 ラストはビゼーの交響曲。オケはここで俄然生き生きとした。初めて生で聴く曲。後年発掘されたものだそうで、基本に忠実、明るく元気な曲調だが、深みには欠ける印象の曲だった。
 会員が無料で楽しめるこのコンサート。普通、自分でお金を払って行く演奏会は、自分の趣味に合ったものに限られる。このような企画によって、生で聴いたことがない曲を聴くことができる。その楽しみで毎年通っている。

 

 2010年07月12日
  ハイボールを飲む

 いつも行くスーパーで、商品入れ替えとかで割引の値札がついた酒類がいくつも売られていた。いつもは焼酎・日本酒の類しか買わないので、今回はウイスキーを買ってきた。
 サントリー「山崎」。ウイスキーをちゃんとお金を出して買ったのは本当に久しぶり。
 若い頃は、それなりにウイスキー全盛期で、飲み屋に行くと、若者の店はホワイト、通常レベルはダルマ、ちょっと気取った店はリザーブと相場が決まっていた。友達とよく飲んだ学生時代は、だからホワイトばかり。それも判で押したように水割り。下宿ではウイスキーは飲まなかったので、ウイスキーは飲み屋さんで水割りで飲むものというのがこのアルコールのイメージだった。
 私たちの前の世代はハイボールが流行っていたらしいが、私たちの世代には馴染みがない。
 今年、メーカーのプッシュが奏功して、ハイボールがブームだという。特に角瓶。出荷調整しないといけない情勢だという。「角でハイボールなんて何て大昔な。」というのが、正直なところだが、そう思うのはオジサン以上の世代のはず。おそらく若者は新しい飲み方として流行っているのだ。一回りして昔を知る人が少数派となったことを見計らって新しいイメージで売る。ご商売としてうまい戦略である。
 さて、それではと、久しぶりにウイスキーを炭酸で割ってハイボールを飲んでみた。さすがそれなりの値のウイスキー、割っても芳醇な香りがちゃんと残っている。じっとりとした蒸し暑い梅雨の今夜、炭酸の喉越しとモルトの香り。おお、結構いけるというのが素朴な感想。
 そのハイボールを飲みながらの軽い酔っぱらいの感想文でありました マル。

 

 2010年07月11日
  (つづき)
 実は昨日の話には「その後」がある。
  お願いして二日後、いくらいくらだが宜しいかという電話がきた。こちらはそれでいいと返事をしてから一ヶ月、何の音沙汰もない。あんまりなので電話をした。伝票番号、メーカー名、日付など必要事項をきっちり述べて話をしたのに、なぜか要領を得ない対応。お待ち下さいと言われ、しばらく待っていると、今度はパーカーのですねとトンチンカン。どうも伝票の帳面が見あたらないらしい。同じことをまた言わされたあげく、「二日後に到着しており、連絡済みになっています。」とのこと。
 どうやら、あの時の電話は、向こうにとって「もう来ています。」と言ったつもりだったらしい。一言もそうとは言わなかったけれど……。
 さて、実際に取りに行ったら、店の人に謝られるでもなく、どちらかというと、今回はお宅さんに配慮しましたが、今回だけですよと釘を押されたような言い方で品物を渡された。なんと、先っぽだけでなく、金属のキャップ全体が変わっていたのである。
 それで、どうやら私はクレーマー扱いされ、イレギュラー扱いで処理されていたのだということに気づいた。鈍感であった。所謂、嫌な客。
 おそらく、これが個人商店のフェイス・ツウ・フェイスならは、コミュニケーションをとりつつだから、こんなに話がこじれなかっただろう。一回一回違う従業員がマニュアル通り対応した結果が、今回の流れで、現代の商売のシステムは、どんな人でも、ちょっとしたトラブルで、さっさとクレーマー扱いになってしまうのだということを知った。ちょっと自分がそんな人になってしまって悲しかった。
 ということで、話がうまく動かなかったら最後の最後までこうなる見本のような「すったもんだ劇」でありました。
(以上はちょっと前の話。あんまり麗しくない話なので、書いたけれど寝かしておいた。今回、再度読んでみて問題ないと判断して載せた。)
 
 2010年07月10日
  シャープペンのノック部をなくすと


 高級舶来ものではないが、安くはないシャープペンシルのノック部、消しゴムにかぶせるキャップ(帽子)が紛失した。見た目にも悪いし、ボディから顔を出した程度の消しゴムを押すことになり、押しにくい。製造元「M鉛筆(株)」のWEBカタログには替えゴムは型番がついて載っていたが、この帽子のことは書いてない。二、三百円くらいかとお客様相談係に電話をすると、個別の部品については販売しない、修理扱いになる、販売店にペン本体を持っていって、預かって直しますとのこと。「いやいや、単にキャップですから、はめるだけなんですよ。」と言ったが、それ以外のやり方はないという。地域の事業所にも電話を入れてみたが、同じ答え。効率化のために部品での対応はしないことになったのだという。販売店で修理の見積もりを依頼し、その上でご判断くださいとのこと。たかだかキャップをはめるだけの作業が「修理」というのは言葉として不適当。ちょっと不満が残ったが、仕方がない。某日、近くの小売店に行った。
 すると、そこの店員、見積もり料がかかるという。おいくらかと尋ねると、「メーカーの言い値なので判らない。なにしろ、こちらに儲けがある訳ではない。」とのこと。
 修理してもらうと、本体をいったりきたりするために基本料金がかかるのが常。技術料もかかるかもしれない。いったいいくらになるのか。定価並みの値段がかかるかもしれない。もし、見積もりをとってあまりの高さにやめたとしても見積もり料は払わなくてはならない。結局、なにも起こらないのにお金だけが取られることになる。それさえいくらかも判らないとは……。
 あんまりではないか、店員さんも、このやり方はおかしいと思わないのかと、じんわりと文句を言った。これでは門前払いしていることと同じで、今時のエコ思想とは反対の、使い捨て発想ではないか。
 納得いかないまま本体を返してもらい、そのまま店をぶらついていたら、再度、店の人に呼び止められた。さきほどの人の上司らしい。
 「お客様のご怒りはもっともです。見積もりについては、お客様からのご負担はいただかないでできるようにいたします。」とのこと。「もし、見積もりが高かったら断ることもありますがいいのですね。」と釘を刺してから、見積もりを依頼した。
 その方の話によると、どのメーカーも、最近は、部品発注ではなく修理扱いになっているとのこと。なぜかと言えば、以前、ボールペンのバネだけを大量に注文した輩がおり、いったい何に使うのか、用途が怪しく、そうした部品注文には応じなくなったのだそうだ。まだP社などは、修理の見積もり概算表がこちらにきているので、おおよそのことがいえるが、この会社はそうしたものがなく、小売店段階ではなんとも言えないという。P社は万年筆も主力の会社なので、修理のシステムがそれなりにできているのだろう。後に他社も調べてみたが、筆記具大手のZ社は、高級品の紛失しやすい部品は通販で対応する旨、はっきり明記されていた。
 今回のように、新しく買えと言わんばかりのシステムになっているのは電気製品をはじめとして、現代では時々経験するが、こんな、いかにも紛失しやすい、かぶせてあるだけの小物でこれなので、さすがにこれはという気がした。バブル期ならいざ知らず、物作りの歯車が合っていない現代の好例のような気がする。 
 以前、モンブランのボールペンのクリップを折って修理に出したら五千円だったという話を聞いた。お高い。それでも、こんなことがあると、値段は張っても、余程、そうしたところの方がアフターサービスはしっかりしているのではないかという気がしてくる。(つづく)

 

 2010年07月04日
  我が儘なコピー機
  職場のコピー機が最新鋭に変わった。大変賢い。色々なことを判別して自動でやってくれる。ところが、あまりに賢すぎて、ロートルの私には使いにくい。私だけそう思っているのかと黙っていたが、どうやら多くの人がそう思っていることが判明。
 例えば、せっかくこちらが縮小に倍率を指定しても、出力側の用紙サイズを決定するとその設定はキャンセルされ、原版対比で逆に拡大されたりする。通常はそれでいいのだが、そうしたいからしている時などは困る。同様に他のことでも、ちょっと変わったことをすると、こちらが設定したにもかかわらず無視して自分の判断に従う。プライドの高い我が儘者みたいである。
 どうしたらいいのやら、色々やってみても勝手に動いてゴミの量産。これなら全手動の古い機械の方が余程馴染む。
 わかったことは、用紙サイズを決定してから倍率指定すると、素直にこちらの言うことを聞くということ。どうやら機械の性格をおつきあいしながら覚えていかないといけないらしい。
 こんな目に遭うと、いつも私はエアバスの墜落事故を思い出す。確か自動設定のまま、緊急回避のため操縦桿をぐっと引くと、機械が異常行動と判断して、逆に下へ下へと飛行機を導く。その結果、回避できずに墜落したという事故である。自動設定を解除した後にそうした操作をしないといけなかったらしいが、パニックになっている時にそれを忘れるなというのは酷である。確か、以後、改善があったはずである。 
  このコピー機は賢いのだろうかという話になった。中途半端な賢さは人に優しくない。もちろん、これは人間の話である。
 2010年07月03日
  金沢ジャズスクエア2010を楽しむ。

  早いもので、あっと言う間に一年たって、今年も、先週、この催し物に行って来た。駅西口からコンコースを通ったところ、「駅コン金沢」(駅構内のコンサート)ということで、駅の通路でコンボ演奏をしているのに遭遇。今年はこの催し物と共催しているようで、金沢大学モダンジャズ・ソサエティさんは大忙しであった。いつもの音楽堂前広場での演奏もあったが、途中で雨が降り、後はまた駅コンコースでしますと早めに終わり、駅内で引き続き演奏した。全体としてちょっと慌ただしかったが、その分、長めに演奏を聴くことができた。毎年聴いていると年によって上手さに波があるのが判るが、今年はまずまず。フェイクの段階でアドリブとしてはまだまだの子や、アーシーでいいフレーズを作っているけど女の子なので肺活量が足りず、低音の強奏に力がなかったりと、やはりアドリブはなかなか難しい。
 有料のほうは守屋純子(p)さんのジャズ入門講座を受講した。ジャズのアドリブの成り立ちを判りやすく解説する講義で、後半、三曲、ソロで演奏した。ビッグバンドの指導をされる人らしく、構成的で破綻のない事前によく考えられたソロであった。ショパン風「虹の彼方に」なんて曲にこの編曲家兼奏者の個性がよく発揮されていた。
 講義で強調されていたのは、名人芸のCDより素人芸でいいから生を聴くことの重要性。ジャズは自由な表現、人がはっきり出る。だから演奏が下手でも人の心を打つ。それが許される音楽だという。ソロの自己表現とアンサンブルの協調性の二面性をもつ故に教育に最適とも述べていた。アドリブは、それなりのかたちになるまではそんなに難しいことではない、英語を喋るのは難しく思うが慣れると簡単な会話くらいはできるのと同じで、語学習得に似ているという。直前に学生バンドの演奏を聴いたばかりだったので、当てはめてみて、いちいち納得した。
 「私はちゃんと沢山のアマチュアも聴いていますよ。」
 今年はメインのコンサートまではおらず、駅前ファッションビル内に出来た大手のCDショップでCDを買って帰った。ジャズの品揃えは寂しいが、今や金沢では販売店があること自体が貴重である。

 

[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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