ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」 http://hiyorigeta.exblog.jp/
今年、NHK大河ドラマ「龍馬伝」を欠かさずに観ている。初回を観たらテンポがよく、これは面白くなるかもしれないと思ったからである。今夜の回で、ようやく薩長の密約がなった。 これまでの大河ドラマは歴史を追うのに急で、伏線をはってはその回にすぐ使ってしまうような安直な脚本も多かったが、龍馬の場合、短い人生、歴史にタッチする期間も短い。このため、話を膨らますことができる要素も多く、戦国期より話を作りやすい。実際、男女の話も前半は多く、いつになくドラマ的であると感じた。その分、まるで一話で歴史的展開を一つ入れるというようなゆったりさ。武市半平太が入牢してから死ぬまでなどは、あまりに引っ張りすぎで間延びがしていた。 今年、活躍場所毎に、ブロックを切って話が進むのだが、そこで龍馬の性格がぽんと変わっていて、ちょっと安直に感じた。 最初観たとき、映像がフイルムのような風合いを出しているのに興味を持った。シーンは常に埃っぽい。後でコーンスターチなとを撒いてから撮影に入るという話を聞いた。映画調の独特の映像美を狙ったことは間違いない。 しかし、それにしても埃っぽい。 先日、あれがあんまりで汚い、違和感があると話された方がいた。確かにやりすぎの感はあるが、私は、ちょっと違う意見を述べた。 幕末・明治期、道はもちろん舗装路ではない。明治の文学者たちの回想文や社会ルポなどを読むと、東京は、人力車が通ろうものならもうもうと砂埃が舞う「塵埃の町」だった。明治も後半になると、殖産興業であちこちに工場が出来、その煤煙も加わって、かなり空気の悪い町だったようだ。ドラマは幕末の話なので、そこまでいかなくても、今より余程埃っぽかったのは間違いない。 そもそも、私たちの子供ものころでさえも、道はまだ砂利で、めったに通らない自動車が通ると、もうもうと砂煙をまいていたではないか。 だから、あのドラマのように家の中まで埃っぽいのはちょっとやりすぎだが、少なくとも外の通りはあれくらい埃っぽくてもおかしくないはずであると。 映像美へのこだわりでやっているという部分も多いのだろうが、結果的に当時の混乱した空気を、「塵埃」という実に視覚的・具体的なもので表現しているといえるのではないか。
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先のお盆中、遠出もままならないので、夕刻、街中へお出かけ。無料券を戴いたので武蔵が辻のデパートの催事「恐竜の王国 2010」展を観た。典型的夏休みお子様企画なので、どうしようかと迷ったが、観たら観たで楽しい。ただ、福井県立恐竜博物館の全面協力なので、映像などは福井そのまま、ちゃんと勉強したかったら、勝山に行くに如くなし。 デパートをひやかして後、閉まった店も多くなった近江町市場で買い物をする。既にシャッターを下ろしている店や後かたづけをしている生鮮品の店が多い中に、観光客相手の飲食店が煌々と電飾を光らしている。昔よりそんな店が多く混じるようになっていることがそれでよく判る。観光シーズンの混雑を避けた典型的地元民動きを狙ったのだが、さすがに、それでも近江町は観光客が多く見られた。 夏休み企画はもうひとつ。上越の水族館に行って「のとじま水族館」との違いにちょっと興味があったので、十年以上ぶりで能登島まで行ってきた。ジンベイザメの巨大水槽が出来てすぐだったので、子供たちで大混雑であった。 入り口も以前と違っていて、巨大水槽見学から入る。こうした巨大水槽は最近のトレンドで、七月に捕れたばかりの、話題のサメがクルクル回っていた。これでたった一歳らしい。体長五メートル。 イルカショウは五頭体制で、やはり上越より見事。ショーもまとまっていてテンポもよかった。 その他、ゴマフアザラシやカワウソ、ラッコなど魚類以外の生き物の展示が以前より充実していて、餌付けやペンギンの散歩など、各種イベントも楽しく、そのほとんどを観る。 以前より、体験展示、飼育員による説明など、東山動物園に劣らぬ積極展示で、観に来た人の満足度の高い、いい水族館になっていた。 午後はガラス美術館なども考えていたが、結局、水族館だけで一日たっぷりと観て、無理をせず帰った老夫婦(?)の夏の行楽。
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昨年末買った一眼レフ、ペンタックスK−7。中級機なので親切なシーンモード・ダイアルがある訳でもなく、オートモード以外は、ユーザーが諸々設定せねばならない。それが醍醐味でもあるが、しっかりとした写真の基礎を知っていないと、へんてこりんな色合いの写真が出来上がったりする。私も、当初は興味本位で大きく設定をいじくったが、いまでは、ほとんど標準設定に戻し、微調整のみを行っている。そのほうがまともな画になる。 使ってみて、高感度が思ったほどではなく、ジャミジャミ感がはっきり残ることに気づいた。高感度が使えないというのは結構なハンデで、このカメラをけなす人のほとんどはそこを言う。途中何度か、バージョンアップがあり、今では、そう文句を言うレベルではなくなった。最新のバージョンアップでは、遅くて使い物にならなかったライブビュー時のAFが高速化して使える機能となり、一気にアクティビティが増した。 発売一年、少しずつバージョンアップして改良され、いいカメラに育った感があるが、おそらく、一度、悪評がついてしまうと、それで購入リストからはずす人も多いだろう。 コンピュータで動く世界だからこそ出来るバージョンアップ。このやり方、カメラではリコーあたりがやり始めた。ソフトの改善によるよりよい製品化。それで、顧客に手厚い印象をユーザーに与え、満足度をアップさせる。もちろん、これには本来なら完成された製品ではないものを売っている訳だから褒められるべきではないという批判が常に伴う。 かといって、このバージョンアップの手法、何でも使えるものでもない。以前にも書いたが、愛車スイフトはCVTのプログラミングの関係で低速時ギクシャク感があり不快感を伴う。コンピュータの書き換えなどができないのかとディーラーに聞いたところ、メーカーはその欠点をよくわかっているようだが、それを含めて型番が申請され許可されているので、途中書き換えはできないという。 確かに、色々なところでこれを認めたら、決めたものがぐずぐずになってしまう。「動かさないことにする」という部分も世の中には必要。 本日、新型スイフトが国内発表になった。フルモデルチェンジ。副変速機も付いて、ギクシャクCVTは大幅に改善していることだろう。 カメラの話に戻ると、初期のままの個体と、途中までアップ済みの個体、最新アップ済みの個体が混在していることになる。見た目はおなじだが中身が微妙に違う機械。それはしかたがないというのが今の考え方なのだろう。結局は、情報をうまく仕入れたほうが得をする。 ともあれ、使い勝手がどんどんよくなって、弱点も文句のないレベルにまで改善された愛機。あとは腕次第。まず、目指すのは、さっと状況に合わせた設定に動かして、初級機の「シーンモード」並の画を撮れることである。目標は実はそこ。(ちょっと悲しい)
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私たちが普通観ることができる戦前のスナップ写真は古ぼけたものばかり。綺麗にうつっているのは写真館で撮った直立姿勢の人物記念写真くらい。戸外のスナップでこれだけ画質のクオリティが高く、写実主義の精神で写した写真を私は知らない。まるで、それら遠い昔の事実がつい最近のことのように我々の前に提出されている。 そのため、戦時中、出征兵士を見送る不安げな家族の写真など、日本人の顔など半世紀でそう変わるはずもないので、今、どこかにいそうなご婦人や娘さんのようだ。 赤十字の看護婦の実習写真の中に、実習を終えて現場に就く若い看護婦が杯を戴く写真があった。兵士だけではなく看護婦も水杯で戦地に赴いたことが判る。女性の水杯という場面を初めて観て、これまで思い至らなかった自分の不明を恥じた。土門も知られざるそうした情景を世に伝えたいという意図だったのだろう、こちらも突きつけられた画に否応なく思いを致さざるを得なくなる。「厳然と動かぬものとしてそこにある」といった訴求力を持った写真。 有名な「筑豊の子どもたち」の女の子、るみえちゃんの投げかける目もまたそうである。焦点の定まらぬ瞳の向こうに、写真家は行く先が見えぬ炭坑家族の不安を見て取って、あるいは、そういう意味づけをして作品とする。意味づけを受け入れる力がそのコマにあるか、それが作品の選択基準なのであろう。彼の作品にはこうした写真家の意図や思想が全面的に押し出されていて、近年のスナップ思想とは対極にある。 「筑豊の子どもたち」の写真は昭和三十四年、無邪気に遊ぶ江東の子供たちの写真は昭和二十年代後半から三十年代前半終わりごろのシャッターである。我々夫婦世代か、それよりほんの少し上世代。髪のカットのしかた、普段の服装も自分の子供の頃の記憶と同じ。もう少しこざっぱりしていたかもしれないという程度の違いでしかない。遊んでいる遊びもよく似たもの。その後すぐに高度成長期が来たので、古い記憶の中に残っているだけで、足早に消え去った風景。だが、逆に言うと、そういう記憶の最初の頁の景色ゆえに、この風景が戦後日本の原風景のように感じてしまうところが我々の世代にはある。 こうして自分と引きつけて写真を観ていると、なんだかんだと若そうなことを言っていても、自分の子供時代がもはや相当の昔で、今、自分がいい歳になってきているのだなということを実感する。
戦争は、その我々の幼い頃の記憶の、そのまた前にあった。 今年、戦後六十五年。米国は昨年核廃絶主義の大統領が就任し、今年、ヒロシマの式典に大使を送ってきた。そんな小さな変化はあるものの、戦争の風化は著しい。終戦特集の番組でインタビューを受ける人たちも、本人から子供世代、孫世代へと変わってきている。あの頃を知る高齢の方のの話も、あの時、子供だったという話がほとんど。戦争に直接出向いた人の人口に占める割合は、本当にわずかになっている。 ちょうど、八月の暑い日、戦中や戦後の写真を見たものだから、彼のリアリズム・批判精神に触れて、遠ざかっていくあの頃に思いをはせた。毎年自分に課している戦争との対話を、今年は土門拳の写真が仲立ちしてくれたように感じた。
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七尾美術館にて写真家土門拳の作品展を観る。カメラ好き故に彼の作品はそれなりに知っていたが、今回、まとめて順を追って作品の変遷を展示してあり、全体像がはっきり掴めた。酒田に彼の美術館があって、いつか行ってみたいと思っていたので、近場でこうした展覧会があって嬉しかった。 以前、テレビで彼のドキュメンタリー番組を観たことがある。仏像と向き合い深く沈考、一発入魂、シャッターを押すという彼のイメージそのままで、既に車椅子、何人もの弟子を従え、如何にも功成った巨匠の仕事という感じであった。彼の印象は、そうした後半の「古寺巡礼」の時のイメージと、昭和三十年代の有名なスナップ集「筑豊の子供たち」とのふたつがあって、全然印象が違っていたのだが、今回、それが彼の人生として繋がって見えたのが私としての収穫。 最初期の白黒スナップを観ると、土門拳は最初から土門拳であることがよく判る。土門も東山同様、若くして才能があり、それを若くして発揮でき、かつ、若くして世に認められた人である。 彼もまたライカの携帯性の恩恵を受けたあの頃の写真家の一人だが、この時、まだ若造の仕事のはずなのに、とにかくスナップが上手いのに舌を巻く。スナップのお手本のような絵で、特に画面構成が文句なしである。軍事訓練を写した作品などの一連の描写から、シンメトリーや構図的なバランスへのこだわりがきわめて強いことが知られる。いわば崩れのない構図。 おそらく写真家は、こういうファインダーから見える風景だと、こういう構図が一番だと瞬時に判断し、その構図が事実の現象として完成するまで、短時間、じっと待っているのだ。スナップだから長時間という訳にはいかないが、とにかく待つ。彼のスナップからはこうした待っている姿が彷彿とされる。彼のスナップはだから厳密にいうとスナップではない。スナップがもたらす偶然の造形とはほど遠く、あくまでも隅から隅まで意志が漲っている種類のものだ。 だから、体を悪くして、外を飛び回ることが不自由になった時、そのスタイルが、一発入魂型になったは必然的な流れのように思えた。被写体を仏像や有名人の人物を選んで、被写体と会話をし、被写体が外に訴え表現しているものを見抜きそれをどう表現するかを考える。そこまでにえらく時間がかかるのだろう。我々がじっと仏像を眺めているのと最初の方はまったく変わらないと思うが、その後に、どう表現するかの熟慮がくる。その結論は彼の場合、ライティングで表現しているようだ。表情は光の当て方で大きく違う。最初、てっきりビデオのような常灯タイプの照明で写すのかと思っていたが、大型カメラ用のバルブ交換式のフラッシュでやっているらしい。点光源の魅力である。すべてが昔ながらのアナログで技量的にも難しい。 そうした彼の力量を堪能した上で、では初期のスナップと後期の作品とどちらが好きかと問われれば、やはり戦前や終戦直後のスナップ写真が素晴らしい。戦後の政治的な報道写真は彼の社会的な意図は充分感じられるのだが、あまり彼の個性を感じられないので面白くない。(つづく)
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昨日触れた島崎藤村の短編小説「食堂」は、京橋の大店を関東大震災で失い、浦和に引っ込んでいたお三輪が、震災後、昔の使用人だったお力夫婦や板前の腕を持つ廣瀬らの協力を得て、芝公園で食堂をひらいている息子の新七のところを訪れる話。 出題箇所だけでは震災でつぶれた店がどんなご商売がはっきりせず、問題集の解答・解説に「格式の高い料亭のような店だったと思われる」とあったので、そのまま鵜呑みにしていたが、よく読んでみると、「商人がかんじんの店の品物をすっかり焼いた」とあって物品販売だということが判る。そこで、全編、青空文庫で読んでみると、「香、扇子、筆墨、陶器、いろいろな種類の紙、画帖、書籍などから、加工した宝石のようなものまで、すべて支那産の品物が取りそろえてあった」とある。つまり、高級中国輸入雑貨専門店というべき店。この問題集の解説者は出題部分しか読まずに作ったということがバレバレなのであった。何年も前の版のを観てもそうなっていたので、ずっとこう書いてあるのだろう。お節介かと思ったが、出版社にメールで知らせた。 お三輪は昔気質な性格で、かつての店に未練があり、その再興を願うが 息子は何もかも変わってしまったのだから夢を見てはいけない、なりふり構わずやらないといけないと反論する。お三輪はそれを悲しく思う。店は元々お力夫婦がやっていた休茶屋に板長として廣瀬が腕をふるう形で動いており、息子新七は仮の店主のような立場でこまかいことに気を配ってる。いわば、三者平等体制で繁盛している。
震災後の人々の立場の違いを描いてなかなかの佳品だと思ったが、ちょっと気になったのが、最後のほうに、お三輪が若い頃、老いた僧が店に来たことを急に思い出し、あれは、死ぬ前の「暇乞い」だったのだと気づくという挿話。以後、彼女は、それと自分を重ねたかのように、お力らになけなしの小遣いを与え、別れがたく思いながら別れる。 あれだけ、息子の考え方を残念に思っていながら、老僧のことを思い出したというだけで、お別れモードに入る三輪にちょっと性急さを感じた。なにを作者は言いたいのだろうか。 この話を同僚にすると、この小説、当時の文壇状況に対する暗喩ではないかという意見。それには、なるほどと唸った。 この小説は大正十五年の作。舞台は震災一年後の話で、まさに同時代的な話である。関東大震災は、日本の文化的状況を大きく分けた大事件。元号の変更まで数年あるが、それより精神史的文化史的転換点の意味合いが深い。これを機にプロレタリアートの興隆も表立つ。そうした中で、もう全盛とは言い難い自然主義文学者である藤村。三輪にはそうした自分自身の立場が投影されているのではないか。 「下から頭を持ち上げて来るようなところがある」と息子の新七に評価されるお力夫婦らは、いわばプロレタアート。そうした力強さを観て、暇乞いをして幕引きを考える三輪には、確かに芥川龍之介が感じていた「自分の時代は終わった」感と同質なものを感じる。おそらく既成作家が多かれ少なかれ感じていた時代の空気のようなもの。 ただ、夢を見ていてはダメだ、なりふりかわまわずやろうと決心している息子が誰の謂なのかはよくわからない。 自然主義小説家の小説にしては、実に世相取材的で客観的に書かれているなと感心しているだけだったが、そうした読みを提示してくれて「いやあ、すごいです。」と感心しきり。
これには後日談がある。私が感心しているのを知った同僚、「思いつきで言っただけだから、全然、確証はないよ、俺の意見ということになって、ボロが出たら嫌だから、この意見は捨てる。」とのたまう。「なら、ゴミ箱から拾ってきて、もらっていい?」と聞くと、「どうぞ。」とのこと。 ということで、この意見は私のオリジナルになりました。 さて、これ、「思いつき」か「卓見」か?
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暑さが続き、バテ気味ながらバテバテという訳でもなく、でも、午後になると眠くなり、能率の悪い動きをしている。ここのところしていることは、後期夏期補習の問題集読解。 ニュートンは当時科学者と呼ばれなかったという評論では、彼の研究には「神が創造されたものの解明」という側面があるのだという本文の趣旨の補強説明と、ちょっと今から考えると変なこともやっているよと脱線しようと調べてみる。 夏目漱石「思い出す事など」では、「三十分の死」についての簡単なプリント作り。 島崎藤村の小説では、「狂」や「死」と近しい彼の厳しい人生を強調した略歴プリントを作った。 今日は、日本文化の雑種性について書かれた今村仁司の文章。踏まえている加藤周一の雑種文化論(1955年)を紹介すべく調べ、続けて丸山真男の「雑居」性についての言及(1961年)も読んで予習。これは加藤が日本は「雑種」と言ったことを、認めつつ、雑種ではなく、交わらない「雑居」となっている点が問題だと指摘している文章である。次の年の加藤俊秀の「雑種文化礼賛」は、それらの平易版というべきもので、今やっている今村の問題文(1998年)の部分は、まったくそれらを踏まえてのなぞりであった。そんな流れが見えてくる。 毎日毎日しっかり勉強しているようでもあり、学問の入り口をウロウロしているだけで、「ハイ、一丁上がり、次!」の予習になっているだけのようでもあり、なんだか微妙ではある。ただ、夏期補習なので、いつもより丁寧に下調べしている点がちょっとこちらに「勉強」感を生んでいるといったところ。まあ、でも、今日はニュートン、今日は藤村と、まさに「雑居性」の毎日であるには違いない……。 さて、その下調べ中、「雑種」ということばのルビに、「ハイブリッド」と書いてあった。慌てて「hybrid」を英和辞書で繰ると、たしかに「雑種」と書いてある。他に「混血児、交配種、混成物」などの訳がある。ということは、今売れ筋の半エンジン半モーターのトヨタ・プリウスは、つまり「雑種カー」といっている訳で、ちょっと面白かった。 ということで、今日、レギュラーコーヒーの粉がなくなってアイスコーヒーの粉を混ぜて誤魔化したコーヒーを作ったので、人に、「今回は、ハイブリッド・コーヒーです。」と説明した。言い方だけは実にかっこいい。 というような毎日。
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八月上旬、金沢二十一世紀美術館市民ギャラリーAにて上記展を鑑賞。 彼の影絵は、多くの大人にとって懐かしい。保育園や幼稚園で彼の影絵芝居を見た人も多いだろうし、昔、テレビの子供向け番組でもよく彼の影絵をやっていた。一部分が可動するのが紙芝居と違うところで、どこが動くのだろうとじっと見ていたものだ。大人になって勤めた学校の教材庫に彼の動く影絵教材が置いてあって、懐かしく思った覚えもある。 彼の描く人間は、黒い顔にくりぬいた大きな目が特色で、彼の名を知らない人でも、この特徴的な目を見たら、ああ知っていると思う人も多かろう。数年前、彼の仕事を紹介する番組を観たことがあり、そこで、昔ながらの裸のカミソリを使って紙を切っていく作業を紹介していた。ご高齢にも関わらず、今も精力的に創作に勤しんでいることに感銘を受けた覚えがある。 彼の作品は、スタート当初はモノクロだったが、テレビのカラー化に伴って途中からカラーとなる。以降の色彩のカラフルさは影絵ならではで、光を透過した原色をふんだんに使った「色」の持つ力強さで我々の視覚に訴える。子供向けの素朴な童話や民話の挿入画レベルのものを想像していたので、いい意味で、そのパワーに裏切られた。 こびとや猫のモチーフが彼のトレードマーク。親しみやすく、カルピス社依頼の作品などを観ると、商業イラストレーターとしての発想力・デザイン力にも感心する。いくつかの作品に凝らされた水面の揺らぎを使った展示方法や、鏡を巡らせて広々と絵を見せる手法も効果的で、幻想的なイメージを助長させていた。 大きいとは言えない会場を、うまく区切ってディスプレーされていたし、説明プレートにある本人のことばも臨場感がたっぷりで、プレゼンテーションの巧さも感ずる。作品をうまくパッケージングして見せるブレーンの商業的手腕も褒めなければなるまい。各地で開催される毎に、その土地の景色を新作として追加するなどというのはそのひとつの例。来場者は、その配慮に感激する。 頑迷なアカデミズムからは遠いのかもしれないが、子供から大人まで理屈なくファンタジーの世界に入り込んで楽しみ、影絵が好きになる。そんな色と光と影が持つ美しさを際だたせていて、本当に楽しい時間を持つことが出来た。 各地で多くの観客を動員しているようで、後でネットで人の感想を幾つか読んだが、皆、心から満足している方ばかりだった。 私は彼の絵を観ながら、「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげるを想起した。扱う題材は大きく違うが、リアリズムとは対極の「幻想」を描くと言う点では共通しているし、ご高齢にもかかわらず精力的に仕事をされている表現者という点でも共通している。 お二人とも同じ世代。藤城は大正十三年(一九二四)生まれ、水木は大正十一年(一九二二)年生まれ。こびとが出てくるファンタジーと妖怪という違いは、東京生まれの慶応ボーイと、山陰境港出身、学歴的にも転々とし且つ戦争で辛酸をなめたというお二人の経歴の違いが大きいのではないかと思った。 いずれにしろ、羨むべき晩年である。
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この夏は美術展によく行った。これを今夏のテーマとしようと後になって理由づけした。以下、感想を書けた順に述べていく。 於金沢二十一世紀美術館市民ギャラリーB。夕刻、知人と美術館内のレストランでお茶したので、せっかくだからと鑑賞。 県表具内装協同組合に加盟している組合員の表具作品を展示する展覧会。四年に一度で第二十八回というのだから、戦前からの長い歴史がある。こんな展覧会をやっていたなんて全然知らなかった。 表具中心ということで、飾られた作品は単一的ではない。掛軸の横のプレートには、絵や書の作者の名前と表具師の名前が並列されている。二人の合作という考え方である。もちろん、衝立のように全体で一人の表具師の作品もあった。 中に京唐紙の見本紙が展示されてあった。どれを使うかは表具師と施主の美的センス。この文様の襖を入れると部屋はこういう雰囲気になると想像するのは楽しかろう。改装中の我が実家の襖を弟はどうするのだろう。 ただ、見学者としては、どういうところが他の県と違う加賀表具の特色なのか、判りやすく作品を例に解説してある展示があったら、もっとよかったのではないかと思った。 多くがプロとしての日頃の仕事の合間を利用した作品製作と思われる。日本文化を支える大事な伝統仕事である。解説によると、金沢職人大学校への参画もあり、組合として活溌に動いており、技術の伝承も怠りないようだ。素晴らしいことである。 戴いた組合員名簿によると、私が生まれ育った地区周辺に何軒も表具師さんがあるのに驚いたが、よく考えたら「寺町」というくらいで、お寺が密集しているところなので、その絡みだろうとすぐに想像できた。
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二日目早朝、いもり池散策。初めて来て以来、何度ここを巡っただろう。昨年見えなかった妙高山がくっきり見える。 宿を出て笹ヶ峰高原へ。登りは妙高杉の原スキー場の横の道なので、立ち並ぶロッジたちが懐かしかった。 この高原も久しぶり。十年ぶりくらいか。前回とは違う牧場の周囲を半周する三キロほどのミニ遊歩道コースを、写真を撮りながらゆっくり散策する。汗ばむが、流れるほどのこともない。妙高山の南面や焼山など周囲の景色を楽しむ。 この散策が今回の旅行のメイン。標高差のあまりない整備された遊歩道なので腰の負担も少なく問題なかった。本当は、もっと標高の高いところで高山植物を愛でたいところ。 遊歩道では陸上部とおぼしき団体が何周もランニングをしていた。写生中の高校生たちの姿も見かける。昨夜の音楽学生も含め、妙高は、夏、合宿を誘致して生き残りをはかっているようだ。 正午、ここを離れ、北上、最後は上越市立水族博物館を見学。伊豆の水族館から借り受けたイルカでのショーを宣伝していた。創立三十周年とかで、建物はそれなりに古かったが、大水槽を増設して今風にしてある。能登島水族館が、日本海に住む身近な魚たちというのがテーマなのに比べ、ここは熱帯アマゾンの大魚などが展示され、珍しいものを見たという気持ちにさせるオーソドックスなコンセプトであると感じた。夏休み中とて大変な数の子供たちで大混雑。ただ、お目当てのイルカショーは水槽が小さく、大したことはなかった。 旅行中、愛車のスイフトは、軽量ホイールの影響か、エンジンがこなれてきたのか、はたまた、タイヤ空気調整、各種添加剤を入れて万全を期したのが奏功したのか、百キロ前後の走行が去年よりスムーズで運転が楽しかった。小さいFF車だけに、前車に比べ、高速はスピードが出せないなと思っていたので、元気に動いてくれて助かった。風がなかったのも軽量車には大きな好要素。 今回の旅行。お寺参りで年相応の観光をし、美術展で目を楽しませ、音楽会で耳を楽しませ、高原散策で体を楽しませ、水族館で子供心に戻るなど、お楽しみのバラエティがあってバランスの取れた旅行だったのではないかなと後で理屈をつけてみた。どうだろう。
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今夏は愚妻との休みがうまく合わず、一泊のみの行楽となった。妙高池の平の定宿をとったので、国道十八号線ラインで行き先を考える。 一日目、天候が思わしくないので、急遽、山の散策を翌日まわしにし、「道の駅あらい」でナビ検索をし直し、長野善光寺行きに変更。ところが、ナビはかなり手前の信濃ICで下道に下り、あとは山道らしき県道を行けとの指示。どうなんだろうと不安なままそのコースをとったが、実にうまく寺の裏の駐車場にアプローチできて、大正解であった。下手に長野ICまで行くと長野市街を通らなくてはならず、倍近くかかったかもしれない。変な案内もよくするので、毎回、ナビの言うことを聞くか聞かぬか、一か八かの博打となる。 善光寺は二十数年ぶり三回目。裏から入ったので、本殿の奥行きの深いことに今回初めて気づいた。間口も大きいが、この大きさは奥行きに由来する。行楽シーズンとて大変な人出。堂内では、今年来日したダライラマの曼陀羅の展示が目を引く。真っ暗な戒壇巡りもしなければならぬ。 参拝の後、門前通りを下り、途中で本堂に引き返すかたちで巡る。土産物も物色、これも定番の七味唐辛子屋さんでお買い物。 今回、本堂左奥の史料館も見学した。ぐっと人が少なくなる。高村光雲の像などの展示がある。古い絵馬を観ていた若い女の子が、あまりにも日本文化を知らない頓珍漢な話をしているのが聞こえてきて、夫婦そろって微苦笑する。こんな地味なところを見学に来るだけでも立派な若者たちなんだけど、日本、大丈夫だろうかね。 後、お隣の信濃美術館で美術展(後述)を二つ観て、妙高へ戻る。 夜、「池の平森の音楽祭2010」を楽しむ。そんな大仰しいものではなく、池の平の広場で宿泊客が集まって楽しむミニ音楽会。 七、八年前に一度聞いたことがあり、今回が二度目。三日間のうち、この夜は室内楽のプログラム。若いメンバーが中心で、組み合わせを替えながら色々な時代の曲を聴かせた。こんなクラシックの室内楽を生演奏で聴くのも久しぶりである。間近で聴くので、音数が少なくても大きく響いて、生楽器の迫力を味わう。彼らはおそらく音楽科の大学生たちで、そこに先生が混じる編成。それに他のグループがいくつか出ているのだろう。同じ宿のお客はこのコンサートの出演者であった。 ハイドン、ブラームスはいかにもクラシックらしい音の動きで、メロディを聴かせる曲の作りだが、時代が下るにつれて伝統的形式が崩れていく様子が判った。特にラベルの「バイオリンとチェロのためのソナタ」は、えらくパーカッシブで驚く。指弾きも多用され、二者対決的であった。私的にはジャズに近しく感じられ、こんな方が面白かった。演奏も先生の演奏(花崎淳生・花崎薫)で、今夜の白眉。終了後、林間の暗闇の中をぷらぷらと定宿に戻った。
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同級生がお盆で帰ってくるらしく、数日前、飲み会のお誘いがあった。その日は県内ながら出張で帰りがはっきりしなかったので、残念ながらと断った。 当夜、帰宅して晩酌をしていたら、電話。同級生からで、ああそう言えば今日だったんだと思い出した。 出た電話は、それがもうベロベロで、完全に出来上がっている。会話になっているんだかいないんだか、それでも次から次から相手が変わってお互い近況報告なんどをして、次回再会を約して、怒濤の電話は終わった。 いやあ、楽しかったんだろうな。まだ宵の口なのに……。こんなぐちゃぐちゃ電話は同級生ならでは。ちょっと暖かかった。
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お盆休みになると、少しは気分的に余裕が出るらしく、車を綺麗にしなきゃと思うらしい。かといって日中は熱中症が危ない。まだ薄暗い中、ふらふらとバケツ片手に二台の車を簡単洗車。ボディもホイールも不織布タイプの製品でお手軽に済ます。それでも汗だく。 この春、ホイールを買ったので、人の車の車輪をちょっと気にして眺めることが多かったような気がする。車はどうしたってそう種類のあるものでないし、昔に較べOEM車も多く、結局、同じ車ばかり。タイヤ回りは絶好の個性の出しどころ、お洒落のしどころである。高いもの、安いけどセンスのいいもの、ただアルミホイールであるというだけのものなど様々。 今回、自分のをしみじみ観る。純正と同じ十五インチにしたけれど、もう少しインチアップしたほうが横から見てバランスがよかったかもしれないと思ったりした。もちろん、もう後の祭り。 それにしても、最近は扁平率が高く、大きなホイールにベルト状の黒いゴムが巻かれているような車が目に付く。乗り心地は最悪だろうが横剛性はよかろう。もちろん、本人はそれが格好いいからそれにしている。 しかし、オジサンの私には、全然、格好いいとは思えない。軽の高扁平率タイヤなど、まるでオモチャのワッカのようだ。 そんな車輪を見ていて、もしかしたら、格好わるいと感じてしまう私の感覚のほうが古くさいのだろうかと、なんだか、そっちのほうが心配になってきた。 見る者の育ちや文化で格好よさの基準は違うということは判っているが、誰が見ても「カッコいい!!」と思うものも世の中には多く存在する。「カッコ良さ」とは一体なんなのだろう。そう考えていくと、それだけで本が一冊書けそうな大命題であることに気づく。 まあ、お腹が出て薄毛を坊主で誤魔化しているオッサンがカッコ悪いということは重々承知しております。
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放置していた歯の具合がよくないので行きつけの歯科医院に行ったところ、奥歯と親知らずの抜歯を言い渡された。親知らずのほうは神経が癒着しているので市西部の大きな病院で施術するよう言われ、夏期休暇を取っていた日があったので、その日に紹介状を持って行ってきた。当日はレントゲンと打ち合わせで終わり。最近はインフォームドコンセントで後遺症の説明が詳しくある。それを聞いていると、抜歯程度でもちょっと気が重くなる。九月に施術、その後、医院に戻り、経過を見ながら他の歯の治療となる計画。どうやら長期戦の様相である。放置していた罰。 帰り、近江町に立ち寄り旬の夏野菜を購入。平日とて地元民ばかりの混雑していない市場を久しぶりに味わう。駐車場満車の心配もなし。 帰宅後再度外出。暑い日がつづいていたので、制汗化粧水と爽やかさを求めてメントール系のボディソープを購入。暑くてシャワーでばかりですませていた入浴を今日はしっかり行う。バリカン片手にいつもより短くセルフ散髪もする。 ハッカ系の化粧品を体にぶっかけ、ビール片手に一息つきながら、結局、今日の休みは何だったんだろうと自答した。有意義に使えたのかと言えば、そうでもない。かといってダラダラすごした訳でもない。 一応、理屈はつけた。今日は「身繕い」の日である。 忙しくていつもいい加減にやっていたり、後回しにしていた「体のこと」を、ちゃんとやった日。もちろん、しないよりましだが、なんだか後手に回したことの辻褄合わせのようでもあり、微かな反省の心も湧いた。
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いしかわ動物園のデカばあちゃんが昨日死亡した。五十八歳。日本では一番、世界でも二番目に長生きのカバだった。人間でいうと百十歳くらい。ここのところ、毎年、長寿祝いの行事があって、県内ニュースになっていた。 金沢で生まれ育った人で彼女を見たことがない人は少ないのではないか。それくらい金沢ゆかりの人気者。若年にカバヤ食品のキャンペーンガール(?)として全国各地を回ったのち、一九六二年、卯辰山のヘルスセンターにやってきた。 あのころの金沢ヘルスセンターは、金沢人の娯楽のメッカで、沢山の人が訪れ栄えていた。舞台では巡業芝居がかかってたし、遊園地や動物園、後にはプールもできて、家族や町内会でよく繰り出したものだ。隣には水族館も付設されていた。だから、私が子供の頃生まれてはじめて見たカバはこのデカだった。同所がサニーランドと名を変え、後、県に経営が移ってからも、動物たちはそのままそこに居続けた。 確か、二十年ほど前、金沢動物園となってから行ったことがあるが、そこにいる動物の長寿組はほとんど私の子供の頃見た個体と同じだと知って、感慨ぶかいものあった。 大人になってマジマジと見ると、狭い敷地に可哀想なくらいのスペースしか与えられておらず、哀れに思った覚えがある。昭和三、四十年代には、動物愛護的な考え方がなく、見せ物的な発想だったのだろう。 動物園が現在の辰口町に移って、いしかわ動物園となってからは、立派なカバ舎が与えられ、もう、動物園随一のご長寿スターとして、私たち石川県民にほっこりした暖かい話題を提供してくれた。 昨日は三五度、今年最高のうだるような暑さだった。ばあちゃんはこの暑い夏を越えられなかったようだ。人間の年寄りも夏を越せるかが一大事、変な言い方かもしれないが、長く人間とともに暮らした生き物らしい、人間らしい死に方をしたような気がした。 我々にとって、カバといえばデカしかいない。子供の頃、自分をかわいがってくれたばあちゃんが死んだような気がして、ちょっと悲しかった。そんな思いでこのニュースを聞いた、昔ガキん子だったオッサン・オバサンも多いはず。
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暑い日が続く。一週間、毎日一個カップコーヒー無料の懸賞に当たったので、せっせとコンビニに日参する。それだけ貰う訳にもいかず、毎日何か他の物も買う。今朝はスポーツドリンクのペットを抱き合わせで購入。それを冷蔵庫に入れ、冷水ポットに水出し麦茶を作り、コーヒーをドリップして、アイスコーヒーを作る。水筒に氷を詰め、今日一日持ち出し用の飲み物を準備する。 一通りのことを終えて、麦茶片手に新聞を読みながら、朝起きてから今まで、ずっと水の準備しかしていないことに気付く。 朝、飲み物の準備があって夏の一日が動く。 今日の弓道の大会、控室も扇風機一台が回っているだけ。外仕事はうだるような暑さ、風も熱風。 すぐに持参の水筒の水はなくなり、以後、サーバーの水を水筒に継ぎ足し継ぎ足ししてしのいだ。 一日、冷房がないところにいただけで体力の消耗が激しかった。なんとかなったのは飲み継いだ水のおかげ。 水の有り難さ実感の一日だった。
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六月、富山に所用で行った折り、県西部の大型ショッピングモールに立ち寄った。全国大手レコード店が入っているのが目当て。平日にもかかわらず、多くの人が買い物に来ていた。同系列のショッピングセンターは石川県にもあるが、平日でこれだけ人を集めているかといえば疑問。 富山は工業の県、道を走っていると有名メーカーの大きな工場をよく見かける。生産が動いていて、経済が回っている印象を持った。 振り返って我が石川県。主要産業は「伝統工芸品」。不要不急で、不況をもろに受けて苦しんでいる。倒産や失業率なども厳しいものがある。 久しぶりに転身赴任で金沢に来られた方が、町並みの変化に驚いていた。地域の商店街の空洞化がひどいという。 確かに、人通りが多く賑わっているのは、最近のトレンドである駅周辺や近江町市場のある武蔵が辻界隈くらい。五月の記事にも書いたが、片町界隈も昼の賑わいに欠けている。例えば、片町バス停前、旧大和デパートだったビル「ラブロ」で、テナントが入っているのは二階くらいまで。残りは幽霊ビルのような歯抜け具合になっている。片町大通りもかつては高級店が連なっていたが、今はファーストフード店レベルの店が軒を連ねる。 繁華街でさえ、そうした有様。中心部をはずした一般市街地の地盤沈下はもっとひどい。地域の商店街が崩壊してしまったところも目立ち、単なる車の通過道路になってしまっている。 久しぶりの人がはっきり感じた金沢の変化。彼は再び住んだ地で見知った店が多く閉店していたのを残念がっていた。 結局、ここ石川県が頼りにするのは、現状「観光」がらみしかない。広坂の旧県庁周辺はビルを取り払い、広々とさせてお城を強調している。昔埋めてテニスコートにしたところも、最近またお堀に戻した。夜は石垣のライトアップ。街の中心部が広々ゆったりとしていて、観光客にいい町だなあと思わせる作戦を現在鋭意推進中といったところである。 もっとも、その観光で潤っているのが地元資本とは限らない。いかにも昔からありそうな店で実は他県資本というところも結構ある。 工業に弱い石川県の生き残り。よい悪いではなく、否応なしの流れになっている訳だが、観光観光した町はいずれ旅行者に飽きられて凋落する。 昔に比べて本当に小綺麗になったお客さん訪問地区と、生活の臭いをなくして活気のない住民居住地区。変わりゆく金沢の町並を見るにつけ、観光と生活がうまく混ざり合ったバランスのいい発展をしてほしいと願うばかり。
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郷土の偉人高峰譲吉の一生を映画化した「さくら さくら」を、職場のDVD上映会で観た。夏木陽介、松方弘樹、萩尾みどりなど中央の有名俳優を使ってはいるが、映画自体は地元の新聞社の資本で作られている。県下各教育機関に、これを観るよう要請が来たと聞いている。 冒頭を見損ね、途中、譲吉が万博に行った頃から観た。偉人の伝記映画としては長尺。ただ、よく出来ていて飽きるということはなかった。基本的に真面目な研究者生活の人なので、人間的な魅力を発散させている訳ではない。人物が人物だけに、楽しい作品になるのか最初から危惧していたが、金沢の母をはじめとして周囲の人たちが魅力的に描けていて、主人公の堅苦しさを十分解消させている。 途中、ナレーションで話をさっと進めたり、死ぬ場面がなく墓を撮してナレーションで解説して終わったりと、「伝記映画」然とした部分も仄見えて、そのあたりはちょっと中途半端に感じた。充分、ナレーション不要の作り方が出来たはずである。 とはいっても、地元ゆかりの偉人ということは知っていても、人生まで知っている人は少ない。この映画で概略を知ることが出来たという「伝記」としての功績は大きく、ためになった。 明治の殖産の意欲の中、研究と実業との狭間で苦労しながら、ほとんどを外国で過ごした日本の偉人。戦争で揺れる日本と米国の国際関係の中、苦悩しながらも、日本の発展を願い、両国の橋渡しをしようとする彼の辛い立場もうまく描かれていた。もっとこのテーマで深めていってもよかったかもしれないとは思ったが、一生を過不足無く紹介する伝記というスタンスから離れられない以上、これが精一杯だったと思う。
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