ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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私の車にリッラクマのぬいぐるみがあることを発見した女生徒が一言。 「わあ、リラックマがいらっしゃる。」 お〜い、ぬいぐるみに敬語をつけてどうする。その言い方では教員を敬ったことにはなりませんよ。残念でした。(苦笑)
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全然テレビを観ない時期もあったが、地デジ・液晶になって観る機会が増えた。BSの番組は通販ばかりで、チャンネルを巡っても見たいものがないことも多く、サブ・チャンネル的な立場を出ない感じだったが、少しは良い点もあると最近は感じている。 地上波チャンネルに較べ、ゆったりと時間をとってあることが多いので、じっくり観られる。旅行番組でも、名所旧跡を正面からばかりでなく、寄りつきや門前の町並みなど近辺の様子もカメラは映し出すので、旅行に行ったときのイメージがより具体的に把握できる。そのほうがリアルで楽しいことをよくわきまえている。映像が綺麗になったことも、こうした旅番組が多くなった一因だろう。 同様な意味で、鉄道番組も多い。BSを見続けていると、自然に「鉄ちゃん」(鉄道マニア)の気持ちになるのが面白い。 もうひとつ、写真家にスポットをあてた番組も多い。その写真家の作品を見せるというより、取材につきあって、その写真家の現場を一緒に追体験するというような内容。こうしてこのカメラマンは撮っているのかと、撮影舞台裏がよく判る。これも旅番組と同じ発想。時間をたっぷりとっているBSならでは。 ただ、いずれも長尺なので、続けて二番組くらい見ると、かなりの時間を食ってしまう。 要は「ダラダラ見ず、選んで見る」ということだが、こんなにチャンネルが多くなると、新聞の番組欄も省略形で、さっぱり内容が判らず、テレビをチャンネルをつけぐるぐる回し、偶然面白そうなものをやっていると見るという、行き当たりばったりの見方にならざるを得なくなる。ちゃんと選択しようとすると、逆に、しっかりと番組情報を収集せねばならず、そんな労力かけていない私は、BSに関して言えば、昔より大雑把でお行儀が悪い見方になっている気がする(今はテレビにその日の番組表が表示されるモードがあるが、私はあまり有効に使えていない)。 この四月からNHKのBSが二チャンネルに縮小されるそうな。その分、地上波放送ができない良質な番組を、じっくりという良い点は残しつつ、濃縮したかたち提供されることを期待したい。
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今月上旬、家族の年寄りが雪すかしで転倒し、腰を強打して入院した。個人経営の外科病院。何か買い物などの希望はないかと顔を出す。また雪が降るというニュースに、早く根雪を溶かしておこうと外に出て、滑ったという。老齢での入院は体力が落ちるので心配。この病院は、夜八時が見舞い終了時間。すべてを終えて行くには時間が足りなくて、平日は落ち着かない。愚妻は遠距離通勤なのですぐには帰れず、個人的に夜が慌ただしくなった。
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筆記具に凝りだして、普段使いのペンもそれなりによいものを使うようになって数年。胸に挿してどんどん出し入れしていると、当然、時々、落とす。樹脂製のボールペンではどうということもなかったが、いいものに限って、落とす度に傷むので、ショックが大きいこと甚だしい。 結局、いくら軸にいい素材を使っていても、どこかが樹脂だったりすると、重い分、その部分に衝撃の負担がかかり、割れたり、ヒビが入ったりすることが多いようだ。 そうして、もう何本も傷めてしまい、がっかりだが、高価な分、そういうところにも気を配った作りになっていてほしいものもの……。 と、持ち物のヒビのことを気にしていたら、某日、急に奥歯が痛くなった。昨年暮れ、治療が終了したばかりなのにと訝しく思いながらも、痛くて食事も喉を通らない始末なので、慌てて歯医者に行った。歯にヒビが入っているとのこと。昨年、初めて永久歯を抜いたのも、ヒビが原因だったので、また抜歯かとゲンナリしたが、今回は、抜かずに対応するそうで一安心であった。一度詰め物をすると、噛んだときの力が自前の歯にダイレクトに加わって、割れやすくなるのだという。骨密度が低い時期が長かったので、それの影響かと質問したが、それと直接の関係はないという。 医師の説明を聞いていて、ヒビの原因は、品物も身体も同じようなものだと思った。大事に扱わねば。物と違って身体は文句をいう相手なんていないから……ネ。
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暗いうちに起き出し、ほんのしばらくカーテンを開るだけで、帰ってきたらもう夜なので、カーテンは閉めきったまま。自宅の居間で過ごす時はほとんど照明の下である。雪降る日が続くと、危険を避け、出来るだけ出歩きもしない。まさに「冬籠もり」である。今年は一度ドカ雪があって、根雪が残り、温度が上がっても。結構、日陰では山になっている。それがまた雪国感を出して、冬の長さを感じさせている。 気がつけば、節分が過ぎ、バレンタインデイも過ぎた。さすがに最近は冬の峠は越えたようだが、ここの土地の習いで、三月下旬までは油断できない。 お鍋を多くして、暖まる。いつも、商品にならないもらい物の、すの入ったひね大根ばかりを食べていたが、先日、新鮮な大根をちゃんと買って、すぐにおでんにしたところ、味がしみて、こんなに大根は美味しかったのだと、今更ながら驚いた。まさに冬ならではの発見。 今年の冬らしい蕪村の俳句。彼らしい諧謔が微笑ましい。
冬ごもり妻にも子にもかくれん坊
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二〇〇四年十二月、この日記でOECDの学力検査の結果について触れた。三年に一回の調査結果が去年十二月に発表された。持ち直したというのが大筋の論評だったが、詳細に検討すると、あながち喜んでばかりもいられない。 問題は、他国に較べ自由記述問題で無解答率が異常に多いこと。自分なりに考えたことを表現する読解力の自由記述問題での無答率は、日本は22・5%で、平均の14・1%を大きく上回っているし、テキストと知識・経験を関連づけ判断する力を問う「熟考・評価」の問題の無解答率は21%と、平均を8%上回ったそうだ。 「新学習指導要領」改訂の折にも問題視されていた、できる問題だけやって判らない問題や面倒な問題はしないという投げやりな態度の子供が、残念ながら、ますます増えている訳で、今、大学受験で、どう「説明せよ」問題の答えをうまく書くかについて、口を酸っぱくして説明している私にとっては、いずれこちらのご商売相手になる話なので、暗い気持ちになる。 今は、入試だからと何が何でもやらせて、何とかレベルまでもっていっている。ただでさえ層に厚みがなく危なっかしい感じがしているのに、いずれ帳尻が合わなくなって、表立つ日が来るかもしれぬ。
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そういえば、最近、見かける変な言葉。二字熟語のダイレクトに「する」をつけて意味にする。例えば、「好評する」。「公表」ではなくて、あるものが好評をもって迎えられているという意味で使っている。生徒の答案にも時々混じる。 そこで試しに、色々な二字熟語に「する」を付けてみると、問題のないものと変なものとがあるようだ。その差はなんなのかは不明。単に一般に使われているかいないかだけの差のような気もするし、何でも「する」をつければそれで言葉になるという「手抜き造語」の最たるものという気もする。株式用語で「好感され」などというこの種のものがあり、そこから来ているのかもしれないが、業界用語だったはずで、一般にはまだ違和感がある。 「好評する」の場合、すでに、評価が「好い」という述部が入っているので、やはり「好評である」という言い方のほうが落ち着く。 今後も観察が必要である。他の方はお気づきか?
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この秋、本居宣長の「もののあはれ」論の本文を授業でしたら、冬、模試の問題で和辻哲郎の本居宣長論が出ていて、断片とはいえ、本文を習ったうちの生徒は何を踏まえているか判ってラッキーと思っただろう。本番もこうした偶然があるとよいのだがと願いながら、確か、職場の自分のロッカーに小林秀雄の「本居宣長」があったはずだと、出してきて机の前に置き、パラパラ読んでいたら、次の入試問題演習は小林秀雄の「批評」の態度を述べたエッセイだった。何だか、しりとりのようなつながり具合で、不思議な感じだった。 最近、吉田秀和のジョージ・セル論の問題を解説した。ジョージ・セルのレコードは何枚か持っていて、お気に入りである。彼の音楽は、磨き上げられた厳格さを信条とする。音は芳醇とは反対の方向だが、痩せている訳ではなく、透明感もある。厳格な古めかしさと現代性が同居するところが、彼の特色だと私は思っているので、吉田の論は興味深く読み、生徒に熱弁を振るった。一九七〇年、彼は手勢のクリーブランド管弦楽団を率いて大坂万博に来て、名演を聴かせたのは、今や日本音楽界の歴史的事項になっている。 そんな折り、テレビをつけたらNHKのアーカイブスの番組で、カール・ベーム〜ウイーンフィルの来日公演をやっていて興味深く観た。一九七〇年代後半、ベームが来るということは日本クラシック界で大きな話題となった。まだ高校生だった私も、夜遅くテレビで観て大感激したことを今でもよく覚えている。高齢のベームが指揮を終えた後、ほっとため息をつく表情やその後にくる観客の怒濤のような熱狂の嵐が懐かしい。映像から感じられるのは、ベームがオケのメンバーから先生として尊敬されているということ。その敬意を以てベームはオケを彫琢していったのだろう。昨今のスター指揮者が入れ替わり立ち替わり振るというのとは違う教師的側面を強く感じた。おそらくセルとクリーブランドとの関係もそういう風だったに違いない。 おそらく七〇年代は、空の交通も整備され、これまでレコードでしか聴くことが出来なかった一流オーケストラが来日できるようになり、日本の音楽ファンは生音が聴けて大感激を続けていた幸福な時代だったのだ。あの頃、私のまわりはカラヤン派が多かったが、私はベーム派。それと、バーンスタインのニューヨークフィルをはじめとする米国オケが好きだった。 そんなこんな、あの頃の自分を懐かしみながら聴いたが、それにしても、江戸の国学のことや七〇年代の音楽界のことなど、今生きているこの時と何の脈絡もないまま、昔の話がぽっと自分の目の前に出てくる。そして、まったく世間や他人とは関係ない個人的な心の流れが起こる。いちいち人様に説明しても面白くも何ともない小さなことだけど、私としては意味がある。端から見ると浮世離れしてぼんやりているように見えるかもしれないが、そんな心の動きを大事にしたいと思う。
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イージー・リスニング・ジャズと揶揄られることの多いCTIレーベルが好きで、レコード時代から買い集めてきた。気に入っている理由として、フェンダー・ローズ・ピアノの暖かい音がある。当時は、この電気音だけで軟弱だと嫌った正統派ジャズ好きも多かったが、今や、ローズ・サウンドのファンは多く、ロック・ジャズを問わず当時の音源を買いあさってるコアなファンも少なからずいる。CTIもこの音が大事なレーベルの個性になっている部分がある。 時がたってさかのぼると、なんであの時ああいう反応だったのだろうということはよくある。「鉄腕アトム」が子供の教育に悪いなんて、あの時の教育ママはいったい何を観ていたのだろう。あの時、おそらくアニメだというだけで批判されたように、エレピは、電気だというだけで当時毛嫌いされたのだろう。 めぼしいCTI作品は持っているので、最近は、買い忘れやを落ち穂拾い的に買ったり、少しマイナーな作品を買おうかどうしようか悩むパターン。 最近買ったジョージベンソン(g)「バッド・ベンソン」、エレピはケニー・バロン、ボーナス・トラックにエイトビートで延々エレピソロとベンソンのソロが入る曲がある。録音は一九七四年で、前年の大ヒット、デオダートの「ツアラツゥストラ」の柳の下的な匂いがハッキリ漂っていて興味深かった。ケニーというメインストリーム系のピアニストでさえ、このレーベルではエレピである。同じことは、ミルト・ジャクソン(Vib)「オリンガ」(74年)の中の曲にも言える。あの時代の匂いがして、懐かしい。私の一番好きなサウンドである。このエレピはシダー・ウォルトン。アルバムのパーソネルを見ると、こんな音が出てくるとは、思えないメンバーである。 このところずっと聴いているのは、レーベルの代表的アーティストだったデオダート(p)がこの秋出した新作「クロッシング」(日本発売は三月)。数年前にトリオのライブ盤が出たが、正規スタジオ録音盤は三〇年近くぶりのはず。エレピの音が懐かしく、リズミックなパターンを重ねるソロはブラジル人の彼ならでは。フレーズも昔のまま、全然、変わっていない。曲によっては、わざわざ当時の曲を思い出させるかのようなメロディやアレンジが施されていて、古いファンは喜ぶ。 新味は、イタリアの人気ユニットとのコラボの部分でボーカル曲が多い。特に一曲目のアル・ジャロウのボーカル曲は、ヒットを狙ったポップな作りで営業的にも抜かりがない。一部の曲には、かつての僚友ジョン・トロピア(g)や、一時期CTIのハウスドラマー的に起用されていたビリー・コブハム(ds)も参加して、アルバムに花を添えている。これもオールドファンはうれしい。古い友達に久しぶりに会った気分である。 先日は、まだ買ってなかったジョー・ファレルの代表作二作品「Upon this rock」「Canned funk」(これも74年)が輸入盤で入っているとショップからのメールがあったので、これは間違いない作だと購入。聴くと、力作ながらジョー・ベック(el-g)中心の、結構ゴリゴリなジャズロック・サウンド。CTIの中では重い部類の音であった。ピアノレス編成。 などなど、こんなCDを聴きながら、冬の夜長を過ごしている。
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文学史の質問をしにきた女生徒に近松作品の説明を試みた。「彼の作品は人形浄瑠璃で演じられたのだよ。この当時、若い好き合っている男女が、社会的な縛りでこの世では結ばれないと判った時、どうすると思うかね?」とこちらから質問したところ、彼女は、キッパリと一言。 「別れる!」 「えっ………。」 私は作品を説明する気力を失いかけました。
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「国語」は他の教科と違って選択式のマークでは、本当の実力は判らない。字を書く学問なのに何も書かず、マークを塗りつぶすだけでは、ごく一部分の能力を聞いているだけである。 現代文の、特に「小説」では、その答えの根拠となるべき箇所が本文のどこかにある場合は説明がつきやすいが、当然、簡単になるので、そうしたものがない場合も多く、そういう時は全体の流れから類推することになる。本番で、気持ちがうわずっていると、どれだけ本文を探してもないのであせってしまい、とんでもない方向に読みをすすめてしまい五〇点分をごっそり落としてしまうというような大ミスを犯してしまう。今年のセンター、それで落とした生徒が多かった。どれだけ動転していても他の教科では何点かの失点ですむが、「国語」は何とも恐ろしい。 漢文の白文問題、助字の下に漢字一字があったので、てっきり補語と思い、「ヨリ」を当てはめ、比較の構文と思った生徒が多かった。次問の訳の選択肢にも比較の意味の訳文があったので、見事に引っかかる。どうも、全体の流れから考えるとうまく意味がつながらない、「ヲ」をつけて目的語であると考える、というのが正解。ちょっとイレギュラーな設問である。 センター・レベルでは、あくまで基本を聞くか、知っておくべき大事な「例外」のみを聞くべきで、原則から逸脱し、あまり教科書に出てこないような例外は聞くべきではない。今回、正直、実力があると思えない生徒がただただ話の流れ重視で解いて高得点を上げた反面、これまで真面目に取り組んでいた生徒が、習ったこととの帳尻に悩んで失敗をしているのを目の当たりにして、可哀想だった。国語では、五〇点近く差が出ても、それは実力を反映しているとはいえない。センターの国語問題自体の曖昧さを強く感じた。 国語は、全問で何十問もあるが、結局は、評論、小説、古文、漢文の四つの文章がちゃんと何書いてあるか読めたのかを聞いているので、ある意味、たった四問しかないとも言える。こまかい問は中間配点みたいなもの。そう考えると、大雑把すぎてこわい教科である。 聞くところによると、理科ではひっかけ問題が何問も出たそうで、例えば、ある表は通常と縦軸横軸を逆にして表されていたそうだ。それを、あせらずに見抜くことを要求されているそうだが、わざわざイレギュラーにしてまで聞く意味はあったのだろうかと思う。 そんなひっかけに、引っかかったか引っかからないかで大きく点が違い、志望校を変えなければならなくなる。実力が歴然と判るという問題で差がついたのなら納得もするが、ひっかかった失敗感だけが残るのはどうかと思う。 某氏はセンター国語はクイズみたいなものと喝破していた。他の教科ではあまり言わないようだが、国語教員はその感じがよく判る。国語教員は、ただただ失敗しないようにハラハラドキドキするしかないというのが、なんとも歯がゆい。
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登場人物は老齢女性がほとんど。「三婆」などと同じく「婆物」である。女優専用の老人ホーム「ウイングス」へ、かつての大女優ロッタ・ベインブリッジ(三田和代)が入所してくる。ホームには犬猿の仲で三十年以上言葉を交わしたことのない女優がおり、どうなることやら周りが心配するところから話は始まる。当初は剣呑な関係が続いたが、痴呆の女が放火して小火騒ぎとなったのをきっかけに、心が通じ合うようになる。ここにマスコミの女が記事目当てに闖入してたり、昔のファンが寝たきり老女優のもとに通ってきたり、疎遠になっていた息子が尋ねてきて一緒に住もうと申し出たりと、人の出入りがあるが、根っこの部分でいい人ばかりなので、事件やちょっとしたいがみ合いがあっても、暖かいものが通底していて、安心して見ていられる。 西洋ではこうした職能別老人ホームというのが古くから充実していたのであろうか。原作は一九六〇年の作と聞く。組合あたりがよほどしっかりしていないと、実現できないそうもない制度で、この芝居では決定は委員会なる上部組織が執り行っているようだ。組合組織の一機関といったところだろうか。日本に、こうした職能ホームがあるという話は寡聞にして聞かない。 観る観客もまさに同世代の女性ばかり。我が身につまされながら見ていたのではないか。私は、父存命中のホーム探しを思い出していた。 父の入院中、症状が安定すると、すぐに退院を促された。今の医療制度では、症状が止まった人はそのまま入院を継続することはできない。ホームや老人病院をあたったが、町中の便利なホームは二〇〇人待ちの盛況で無理、郊外の老人ホームでは、色々な老化レベルのお年寄りがわさわさと共同生活をしており、プライバシーはほとんどなさそうだった。老人病院にいたっては、手厚い看護とはほど遠く、定期的におむつ替えする程度のケアしかできていなかった。そもそも看護師の絶対数が少ない。どこも自分に引き寄せて考えて、入りたくないところばかりで、これが現代の終末医療かと居心地の悪さに暗澹とした。 「寝ている間にころっあの世行き」が多くの人の理想だろうが、少なくとも、老人病院より普通の病院で死んだほうがどう考えてもいい。幸いというべきか不幸にもというべきか、父はその後、症状が悪化し、そのまま継続入院となり、そこで亡くなった。 そうした現実に較べ、この話には運命共同体的な暖かさがある。突然死があったり、惚けがあったり、ホームに違和感を感ずる人がいたりと、事態はそんなに手放しのものでもないが、作者ノエル・カワードは、あくまで前向きに描いて、ここが作者の理想像であるかのようである。それと、主役たちを女優にしたのは、このホームという場でも演技ができるから。演技を最期まで全うできるから、共同体は円満なのだといいたいのではないか。仲良くやるには、演技が必要だと。穿ちすぎか。 原題は「舞台袖で待機する」の意。人生をリタイヤした訳ではなく、天国に召される出番を待っているののでもなく、ここ「ウイングス」の彼女たちは、いつまでも女優として現役なのだ、そういいたいのであろう。 また新たな入居者が入ってきた。住人たちは、彼女のトレードマークの歌を歌いながら、彼女を明るく出迎えるところでこの話は終わる。(2011・1・30)
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お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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