ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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クリーニング店での会話。
店員「ワイシャツは吊り下げタイプで宜しかったでしょうか。」 私、「ハイ。」 店員「ありがとうございます。」
この調子で、こちらが返事をしたことを全部、この中年女性は「ありがとうございます。」で受けていた。強く違和感を感じて、なんだろうと後でゆっくり考えた。 ありがとうは相手に何か施こされたことに感謝する言葉。寿司屋に注文を入れて、「並・中・上とありますがどれになさいますか。」と聞かれ、こちらが「上」にして下さいと返事をした時だったら「ありがとうございます」でまったく問題がない。高いほうを選んでくれたのだから、感謝されても当然である。 だから、どうも私は、クリーニングのタイプを選ぶごとに、感謝の言葉を言われて、あれ、自分はどうもすべての選択において向こうの利潤の多いほうを選んでしまったようだ、失敗したと思ってしまったようなのだ。 ここは単に了解したという程度で使っている。感謝の言葉は逆にトンチンカンである。ご丁寧に言うのなら「承りました」。でも、それでも過剰で「はい、判りました」で充分。過度なお客様配慮言葉は、時に客を疑心暗鬼にさせる。 最近、テレビのインタビューなどを聞いていると、一般人も変な敬語を喋る。「ボランティアの人がいらっしゃられて、豚汁を食べさせていただいた」的な物言い。カメラがまわって緊張しながら敬語で喋ろうと慣れぬ努力をした結果だろうから、充分同情の余地はあるが、なんだか、最近、敬語で喋るとみんな不慣れな店員さんみたいになる。 今夜、送られてきた大修館書店の「辞書のほん」第三号をめくっていたら、敬語を使おうとして変になった言い方を「空回り敬語」としていくつか紹介していた。先ほどの二重敬語の他、営業に多い敬語の重複や過剰な美化語、身内への敬語、許可の相手がいない「させていただく」など。確かに敬意が空回って逆に失礼になってしまったりしているのだから、いい命名だと感心した。 今日の店員さんなど、客に思う壺にはまったのかもと思わせてしまったのだから、確かに敬意の空回り。私にとってキャッチーな話題であった。
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幕末期、大藩故に対応が遅く、新時代の列車に乗り遅れた感の強い加賀藩。それでも、欧米を見聞し、その経験を生かして、維新期以降、活躍を見せた人物も少なくない。この本は、そうした海を渡った加賀藩ゆかりの人物を紹介した地元出版社発行の歴史本で、著者は元県歴史博物館館長で我が恩師。前著に幕末の藩主前田慶寧についての論考があり、その流れの「列伝」とでもいうべきもの。 この本を読むと、後手後手に回りながらも、留学生の派遣や西洋船購入など、それなりに遅れまいと加賀藩も必死に動いていたことが判る。 取り上げられた人物の中では、マッチの清水誠はあまりにも有名。小生も「こども石川県誌」の人物篇を読んで、子供の頃から彼のことは知っていた。この本では、彼のように名声天下に轟くといった活躍ではなかったが、留学体験を生かし、地道に中央や郷土石川でその才能を発揮した者が多くいたことを紹介している。読んでいて、今では名も知られていないこうした地味な存在の人たちが、堅実な役職を得て、それぞれの分野で日本の発展に寄与していったことに感慨があった。何も偉人ばかりが国を発展させた訳ではない。この書には、逆に時を得ず、シベリア横断でロシアに行った人物が才能を発揮させることなく零落していった様子も描かれている。 「読み物」として書いてあるので、学問的にこうではないかと推理しているところもあるが、基本的には一般人に読みやすく、彼らが外国の文物に触れて素朴に驚く様子もふんだんに紹介されており、人物伝として楽しく読むことが出来る。 有名な遣米使節団が出発したのが、万延元(一八六〇)年のこと。彼らは大きく東回りで地球一周を果して帰国する。それから四十余年。荷風も、当時珍しかった東回りで留学に出る。荷風の時代は、さすがに最初の使節団のように、見物人が出るような「日本人珍し」の時代ではなくなっていた。しかし、だからこそ、新奇なものに驚き、吸収ばかりに腐心する「出会い期」を過ぎて、次の文化の批判的受容の問題としてアメリカを見つめることが出来るようになっていたのだということが、この本を読みながらよく判った。 彼らの苦労ありて荷風あり。
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震災で多くの死者が出たにもかかわらず彼女の死や通夜・告別式の様子を特別に大きくニュースにするのはどうかというような意見もあるようだが、ひとつの時代を駆け抜けた人と考えれば、その扱いは不穏当なものでもあるまい。 キャンデーズのスーちゃん。享年から察するに、私とは学年で二つ上。まさに私は「年下の男の子」であったことになる。ファイナル・コンサートもテレビでしっかり観た。あらから三十三年たつという。 当時、日本短波放送の番組の中に「キャンデーズ情報局」というファン向け情報提供コーナーができた。自分が個人的にひいきにしていたお堅いマイナーなラジオ放送にメジャーなアイドルが時にやって来るコーナーが始まったことに驚いたものだが、担当していた当時人気急上昇中の局アナ大橋照子さんにとっても、取材陣がやって来て、自分に向かってあんなにフラッシュが焚かれたのは生まれてはじめてでびっくりしたという。その時の写真は、おそらく大橋さんがキャンデーズの三人とともにファイト・ポーズをとっているファンなら有名なもの(BCLカードになっている)。 ということで、純粋なファンからすればかなりの傍系末流だが、私は大橋さん繋がりでファンになった。というより、大橋さんファンはそのままキャンデーズファンでもあるというのが当時の関係であったといったほうが正しい。 特に私は「奥さんにするならスーちゃん、愛人にするならランちゃん、秘書にするならミキちゃん」の、そのスーちゃんファンだった。 こういう彼女たちにまつわる思い出話は、同世代の人なら各人にあるはず。弔問に来ていたファンが皆本当にいいおじさん・おばさんばかりだったが、過ぎ去った年月から考えれば、そんなものである。皆、あの頃の若い自分に戻って悲しんでいる。歳はとってしまったが、ドキドキしたアイドルへの気持ちを思い出して、あの頃の自分の想いを確認しているのだろう。遠く過ぎ去ったあの頃が、確かに遠く過ぎ去っている事実を目の前に差し出されてしまったようにも感じて……。 報道によると三人は当時も今もずっと仲良しだったらしい。病室で臨終も看取ることができた。ちょっと心安堵する話である。 ネットであの頃の画像を何枚か見たが、三人の姿は若々しく健康的で、その中に清楚な色気も感じられて、今もって充分に魅力的であった。 男どもはドキドキと憧れ、スーちゃん大好き、ランちゃん大好きなんて思っていた。健全な時代だったのだ、と思う。
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書店で見つけて購入。日頃、雑誌のほうは読んでいないので、「文藝春秋」巻頭随筆史上もっとも長い連載となった「葭の髄から」が終わっていたのを知らなかった。高齢が理由だが、本人としては師の志賀の齢を超えたことで、任を終えたという気持ちがあるのだろう。ここのところ数年に一度続刊が出ていたので、そろそろ次のが出る頃だがなと思っていたところだったので非常に残念である。 九十歳近いご高齢ながら、頭脳明晰、文章に緩みがないのがすばらしい。話題も世俗広範に及び、老齢による撤退感がない。未だにそういう表現が日本語にあるのか、知らなかったというような言い方をさりげなく入れて、言葉の教養も強く感ずる。こちらは、感心し、目をとめて、辞書を繰る。一編一編に藝があって、これを書くのに、かなり時間を使っているのではと推察されたが、案の定、「遅筆自慢みたいになりますがね、随筆は一晩にせいぜい1枚から1枚半。書き上げるのに1週間かかっていました。」とインタビューに答えている記事を見つけて納得した。 ここに触れられている海軍関係者はもうほとんどが鬼籍に入られていることだろう。戦争末期、欧州に武官として滞在し、欧日間で対応に奔走した人たちの話は臨場感があって、興味深く読んだ。文章にも、生きているうちに埋もれさせないで公に周知させておきたいといった気持ちが強く出ている。 それでも、月日は残酷で、そうした話を珍重し、興味深く読む人たちは徐々に少なくなってきているではないだろうか。既に定まった評価として把握しているだけで充分ではないかという「過去の歴史的事項」的に読む時代になりつつある。前にも触れたが、子供の頃、我々の世代は、結構、戦闘機などの名を知っていたし、「丸」などという雑誌も読者が多くいた。今、そうしたことを知っているのは「マニア」という分類となる。 もうギリギリの阿川さん世代がいなくなったら、実感的に戦争を語れる人はいなくなる。こうして体験は歴史となって骨だけになる。それが世の習いとは思うけれども、多少の空虚さも感じて静かに悲しい。 楽しみにしていたエッセイがひとつなくなった。こちらも、一編一編、ゆっくり読んでいった。最後のほうを読むと、健康不順で時に粗相があったりするという。また、ほぼ外出なしの生活になっているご様子。穏やかな余生を過ごされんことを。
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未だに寒い日ばかりだが、それでも、少しずつ日が長くなり、夜ばかりが長い暗い季節はようやく終わった。仕事が一段落して外を眺めてもまだ明るいのは、何とも言えず気分が晴れる。 花も次々と咲き始め、ようやく鉛の重しがとれた気分。そのまま、ここ一ヶ月、東北地方をはじめとして日本全体に覆いかかった重たい気分も、季節がさっとどこかに持って行ってくれないかしらと思ったことだった。 先に書いた白木蓮は、木の下の方は少し遅れて咲くようで、朝は花弁を閉じていたが、夕まぐれ、横を通ると開花していて、逆に上部は枯色が混ざっていた。それでも思ったより開花の期間が長く、純白にほんの少しクリーム色をまぜたかのような色合いが美しい。もしかしたら、桜を堪能できなかった分、いっそう美しく見えるのかもしれない。 来週、春の遠足もあって、歩く予定をしているが、正直、少々不安である。昨年などより距離が長い上に、小生、以前のメタボに舞い戻りつつある。入学式と通夜が一緒にあった日など、人前で畏まってずっと椅子に座っていなければならず、ちょっと大変だった。 行事がある度に大丈夫か考えながら「よっこらしょ」とハードルを乗り越えていることは今も変わりなく、そういうことで、いちいち困っている人がいるということを、元気な人は気づかない。そのレベルで低回せざるを得ないというのは、やはり情けない。でも、まあ仕方がない、気にしないでいようとやり過ごす。 今日は、前回と同様、小松の道場で他校との練習試合だった。終日雨、真冬の格好でも寒い。二十日近くたって黄金週間間近なのにどうしたことだろう、寒い春である。
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導入の最初の数日を忌引きして、仕事が溜まったまま新学期の一週間をすごした。各種行事が続き、それをこなすだけで一日が過ぎてしまい、全然、追いつけない。仕方なく土曜日午後も居残って溜まった仕事をこなした。 先週、桜は満開となり、これでは花見もできぬまま過ぎ去ってしまうと、急遽、昨年も見物した近くの高橋川河畔の洋食店で愚妻と落ち合って、夜桜を楽しもうとした。しかし、車で行ってみると、何だか辺りが暗い。店の人に聞いてみたところ、震災の影響で川沿いのライトアップは中止になったという。店の窓からの光で一本だけは美しかったが、昨年のようにちらほらと見物客もくり出し、宴会の声も聞こえてくる、ほんわりとした春の夜の雰囲気はまったくなく、少々淋しい今年の夜桜見物となった。同じ春の季節なのに、そして、桜は変わらず咲いているのに、世は震災や放射能で騒然とし、義父はもうこの世にいない。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」(劉廷芝)なる送別会などでお馴染みの詩句が自然と思い出されたりした。 翌日、雨風で花は一気に色褪せた。 今朝、職場に行くと、毎年楽しみにしている白木蓮が満開を迎えていた。花が全て上を向いていて、それがこぶしとの大きな違いである。例年、確か桜の前に咲くのではなかったか。 いつもより遅い春の巡り。平栗のかたくりの可憐な花も今年はいつごろが見頃だろうか。
白木蓮花弁を合わせ祈るごと
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義父の容態が更に悪化し、自力呼吸が出来なくなった。以降、徐々に各種数値も低下して、六日深夜三時半死去した。早朝、遺体が家に戻る。家族一同、睡眠が不足しているので、午前中は仮眠し、夕方、葬儀社と日取りなど基本的なことを決める。その際、営業員の誘導があって、当初心づもりしていたルートを通すことをやめることとなり、トラブルとなる。葬儀は水物商売。クレジット会社を通すことを、口ではこちらが決めることとしながらも、向こうのセット商品ではこちらの風習に合わないなどと、止めさせよう止めさせようとし、その結果、窓口として利用したクレジット会社から葬儀社にクレームがくる事態となった。葬儀社はあくまでお宅さんが決めたのだから、こういう風に言ってくれとクレジット会社への言い訳を我々にレクチャーし出す始末。些か不快な思いをした。 葬儀は、契約が後回しにもかかわらず、遺体運搬など実際の仕事は動いており、もう断り切れない。もちろん各社見積もりをとってから決めるという悠長なこともやっていられない。向こうのペースで決まっていく。今回も愚妻は多少の文句を言ったが、深く追求すると肝心の式に悪く跳ね返ってくると困るので、その話題はその日限りにして矛を収めた。実父の葬儀の時も感じたが、通常の商取引から見ると色々イレギュラーな古い体質の業界である。 小生の仕事の絡みと友引にかかることもあり、通夜八日、本葬九日となった。このため、通夜は愚妻の職場の歓迎会の日と重なり、肝心の妻の職場関係の方がお参りできない変則的な事態となったが、どうにも致し方なかった。反対に通常より一日遅くなった関係で、親類が都合をつけて出席できるようになった面もあり、今回の日程は妻には可哀想なことをしたが、よかったところもあったとしておきたい。 喪主は義母だが、妻が八面六臂の活躍でよく裏を支えて頑張った。私は妻の補助と式後の遺族挨拶を担当した。母が、生前父の退職時にいただいた感謝状を見せてくれて、それで父の仕事の詳細を知り、挨拶にうまく織り込むことが出来た。父の仕事関係で列席された方は満足されたようで、挨拶をした者としてほっとした。 母は親戚が参集したので「よう遠方から来なさった」モードとなり、ニコニコと愛想をふりまいて、端から見ていてちょっと困った。年端のいかぬ曾孫五人もじゃれまわって愛らしく、悲しさの中に何とも笑いの絶えない葬儀であった。二年前に実父の葬儀を経験したばかりだったので、宗派や業者は違えど、同じ金沢の風習、似たようなもので、夫婦ともどもあまりまごつくことがなかったのは幸いというべきか。 今日、一足早くお役ご免となった私は、午前中、職場に行き、明日からの仕事に支障のないように最低限の処理をして、午後、買い物に行ったり風呂に入ったり台所で夕食を作ったりして通常生活に戻った。
戦時、少年兵として従軍し、
戦後は災害救援などに尽力した義父に
西行の願いの如く花の下国を守りしますらおの逝く
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後の記録として、引き続き原発のことを記す。この間、原発は原子炉の密閉容器が傷んで、毒性の強いプルトニウムが漏洩してることがはっきりしてきた。プルトニウムの半減期は約二万四千年という。何ともクラクラする数値である。 配管などを通すクラッチなる外の通路には汚染された水が溜まって高濃度の汚染水が海に流出する危険あり、と言っていたのは数日前。今は、排水溝から実際に海に洩れているのが確認され、それをどうするか、試行錯誤中という。だからといって冷却には水を注入せねばならず、まさにジレンマの最中にある。 それにしても原発事故は止まらない暴走列車の如し。この水の汚染はその波及のひとつに過ぎない。色々と波及して色々と大騒ぎし、その結果、人々はそうした情報に麻痺して、肝心の列車が延々突っ走っていることのほうを等閑視しはじめる、こうした負の心のメカニズムが作用しないようにしていかねばならないと感ずる。 前回指摘した地震の名称問題のほうは、持ち回り閣議で「東日本地震」に統一して、一件落着したようだ。てっきり自然に定着していくという形になるのかと思っていたが、こういう決着のつけかたも確かにあった。ただ、現状は未だに雑多に使っている。
さて、一昨日は年度初め。部署が変わったので部屋を移動をした。机まわりのものを持って何度も行ったり来たりしたが、こういう仕事が腰痛持ちには一番こたえる。色々せねばならない仕事満載のまま一日が終わり。週末に突入した。 二日午前中は、デパート催事の「親鸞展」を鑑賞した。新聞社の招待券を利用。案の定、来場者はお年寄りばかり。よく言えば判りやすいが、悪く言うと学校で習ったレベルで、ビジュアル中心に見せてはいるが、肝心の本物の展示品は貧弱。階下の売り場でモンブランショップを発見し、一年お世話になった方への進物としてインクを買う。 今日は小松にある弓道場で練習試合。くどくど言った成果か、昨年より押手のふらつきが少なく、いい感じに仕上がりつつある。副顧問で且つそう熱心でもないが、今年のインターハイ県予選は期待できるのではないかと少し嬉しく、これは明るい話題であった。 母親は少しずつ恢復し退院間近。義父の容態は安定しない。この春は本当に慌ただしく進む。
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お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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