ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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終電車の風景 鈴木志郎康
千葉行の終電車に乗った 踏み汚れた新聞紙が床一面に散っている 座席に坐ると 隣りの勤め帰りの婆さんが足元の汚れ新聞紙を私の足元にけった 新聞紙の山が私の足元に来たので私もけった 前の座席の人も足を動かして新聞紙を押しやった みんなで汚れ新聞紙の山をけったり押したり きたないから誰も手で拾わない それを立って見ている人もいる 車内の床一面汚れた新聞紙だ こんな眺めはいいなァと思った これは素直な光景だ そんなことを思っているうちに 電車は動き出して私は眠ってしまった 亀戸駅に着いた 目を開けた私はあわてて汚れ新聞紙を踏んで降りた (「やわらかい闇の夢」(昭和49)思潮社)
この詩の授業をされた方がいて、それで、この作品を知った。一見、車内の荒廃を嘆いた詩のように見えたが、「こんな眺めはいいなァと思った」「これは素直な光景だ」といっているのだから、モラルを嘆いた詩であるはずはない。それに、「私」自身も、最後、わざわざ「新聞紙を踏ん」で降りている。 では、一体何をいいのたいのか? 最初、よく判らなかった。 その方の解説によると、この詩は、新聞批判の詩なのだという。そういえば、話の中心は、車内での様子というより新聞紙そのものだ。短い詩のなかで、七回も「新聞紙」という言葉が出てきて、踏んだり蹴ったりされている。 今の新聞はそう扱われてしかるべき、現代人の新聞に対する気持ちなんてこんなものだよ、今や社会の木鐸たる役目などどこかに行ってしまって、ニュースの顔して実は裏に営業がくっついていたり、政府発表鵜呑み丸呑みだったり、検証不足のままの記事だったり、訳知り顔の分析で、提言のないままの優等生的結論だったりと、みんなその程度にしか新聞を見ていないよという意識が「素直な光景」という表現になった。新聞なんぞ、蹴飛ばして踏みつける程度のものでしかない。自分だけでなくて、皆、どうやらそう思っている。彼はそれを確認して、スカッとした気持ちになって下車している。 作者の、現代の新聞に対する嫌悪感がこの詩になった。率直に詩を読めば、まさにそのままの詩。ただ、「終電車の風景」というタイトルが、ちょっとモラル方向の結論へ迷わすだましの一翼を担っているので、ちょっとひっかかりやすい。 ちょっと、そうしたフェイクを隠しているが、そんなに難しい訳でもない詩が判らなかったので、「私ってセンスないなあ。」と残念な気持ちになった。忙しく立ち働き、人様に変だと思わないよう常識的行動や常識的判断を下すのに腐心し続けて、心が硬直化しているのかもしれない。 詩を読むと、いつも心に反省の気持ちが湧く。
(数年前に書きかけて放置していた文章を見つけ、手直しの上、掲載。)
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