ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」 http://hiyorigeta.exblog.jp/
民主党の党首を決める候補五人による討論会を三十分ほど聞いた。事実上、次の総理を決める大事な討論会で、テレビで長々放送された。 その時、思ったこと。時々入るカタカナ語がよくわからない。そのせいで何を言っているのか、どことなくは判るがはっきりとは判らない。 例えば、「ジャパナイゼーション」。そのまま訳すと「日本化」ということだが、どうも、それでは意味が繋がらない。気になってあとで調べると、日本型長期デフレが世界中に広まることをいうらしい。経済新語なのだろうけれど、そう政治経済の新しい話題に詳しくない人には優しくない言葉である。他にも同様な、カッコつけて言っていると受けとられかねないカタカナ語が何語かあった。(横文字なので頭に残らず、他はもうさっぱり忘れました。) 政治業界ではよく使う言葉なのかもしれないが、我々国民に聞かせることを目的にしている討論でこれでは配慮がないな、どうも困った人たちだなというのがその時の感想。少なくとも、私レベルのごく普通の一般国民が判ることばで話してほしい。 ところが、翌日、野田という候補は、投票前の五分演説で、急に自分の苦労した生い立ちを縷々述べ、「自分は泥鰌で金魚ではない」と言いだしたそうだ。前日の討論とは話す内容がえらく違う。報道によると、この演説は概ね好評だったという。聞くところによると、テレビを観た細川元総理が、討論会の発言は堅苦しかったと野田氏に助言したそうだ。それで党首になれたとは思わないが、「言葉」として大幅路線変更して、情に訴える作戦に出たことは間違いない。 今回の逆転劇は、小沢憎しで下位候補が結束した結果。震災復興政策、今後の原発政策で、国民のコンセンサスを得た結果ではない。我々は、今日の新聞の野田発言一覧表で、どうも経済再建優先派・原発再稼働推進派であることを知るのみである。政策の良否ではなく、派閥の論理で政策が決まっていくのは、こんな時だからこそ、尚更、残念でならない。
ただ、今はその分析をするのが趣旨ではない。多くの国民が耳を傾けている時に、どんな言葉でしゃべればいいか、このご商売を生業としている人にとっては自明なことのはずではないかと言いたいだけである。 いや、それより、私は政治でもなんでも「言葉」を中心に物事を感じていることを今回のことでも確認したと言いたいだけかもしれない。人為には言葉が常にくっついている。
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今夏、能登にいくこと三度に及んだ。公一回私二回。三度目の今回は所属研究会の夏の懇親会。夏のこの企画に参加するのはひさしぶり。能登島のリゾート・マンションでバーベキュー。眼前が穏やかな能登の内海、腕に覚えの会員の手料理も加わり、久しぶりにメンバーと歓談した。空き室はゲストルームになっており、アメニティのサービスもあってホテル並、のんびりお大尽気分を味わった。今年、仕事を引退された教授のご好意。感謝。 某日、千葉より大学時代の友人来訪。長野までは列車で、そこからはお若い友人運転のレンタカーでドライブを楽しみながらの来沢とのこと。夜、香林坊の居酒屋で、もう一人の金沢の友人と計四人で痛飲。ごく小さな店で、カウンター数人、小上がりも三席ほど。酒肴の他、ちゃんと治部煮など金沢料理がメニューに並ぶ。海鮮丼が何種類もあるのが、如何にもこの頃の店らしい。 今やブログなどで海鮮丼は金沢名物筆頭である。居酒屋の小店までこうなのだと、ちょっと新鮮だった。給仕は片言の中国人。学生さんとおぼしき若いお嬢さんであった。都会はともかく地方都市では珍しい。 宴会は続く。全国大会出場の我が部、残念ながら一回戦で敗退した。私は引率業務ができなかったので、既に我が職場を離れた人を含め、現旧関係者計五人でささやかなご苦労さん会を企画した。片町の和風モダンな居酒屋。魚料理が全然充実していないところが魚どころ金沢では珍しい。引率した二名から大会の模様などを聞き、歓談。 ということで、ここのところ立て続けに酒宴があり、久闊を叙した。お盆すぎ、夏の終わりらしい宴会の連続であった。(要減量!!)
(以下、正字旧仮名で書いてみました)
今夏、能登にいくこと三度に及んだ。公一囘私二囘。三度目の今囘は所屬研究會の夏の懇親會。夏の此の企劃に參加するのはひさしぶり。能登島のリゾート・マンシヨンでバーベキユー。眼前が穩やかな能登の内海、腕に覺えの會員の手料理も加はり、久しぶりにメンバーと歡談した。空き室はゲストルームに成つてをり、アメニテイのサービスもあつてホテル竝、のんびりお大盡氣分を味はつた。今年、仕事を引退された教授のご好意。感謝。 某日、千葉より大學時代の友人來訪。長野までは列車で、其処からはお若い友人運轉のレンタカーでドライブを樂しみ乍らの來澤とのこと。夜、香林坊の居酒屋で、もう一人の金澤の友人と計四人で痛飮。ごく小さな店で、カウンター數人、小上がりも三席ほど。酒肴の他、ちやんと治部煮など金澤料理がメニユーに竝ぶ。海鮮丼が何種類もあるのが、如何にも此の頃の店らしい。 今やブログなどで海鮮丼は金澤名物筆頭である。居酒屋の小店までかうなのだと、一寸新鮮だつた。給仕は片言の中國人。學生さんとおぼしき若いお孃さんであつた。都會はともかく地方都市では珍しい。 宴會は續く。全國大會出場の我が部、殘念乍ら一囘戰で敗退した。私は引率業務が出來なかつたので、既に我が職場を離れた人を含め、現舊關係者計五人でささやかなご苦勞さん會を企劃した。片町の和風モダンな居酒屋。魚料理が全然充實してゐないところが魚どころ金澤では珍しい。引率した二名から大會の模樣などを聞き、歡談。 と云ふことで、此處のところ立て續けに酒宴があり、久闊を敍した。お盆すぎ、夏の終はりらしい宴會の連續であつた。(要減量!!)
(実は、変換アプリのサイトで変換し、気づいた問題点を手直ししたもの。こんな正字旧仮名をさっさと日常的に使えるといいのだけれど……。ちょっとしたお楽しみでした。)
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今夜「小澤征爾指揮サイトウ・キネン・オーケストラ スクリーンコンサート」を、金沢市文化ホールで観た。「サイトウ・キネン・フェスティバル松本」のコンサートを、長野朝日放送主催で、金沢他四会場に生中継するもの。 最初に「サイトウ・キネン・フェスティバルの歩み」とて、これまでの歴史を概観し、小沢指揮のオペラなどの抜粋が少々。計約30分。 その後、長野県松本文化会館に切り替わり、生中継によるコンサートがそのまま放映された。指揮:ディエゴ・マテウス。若手のイケメンである。曲は、チャイコフスキー:幻想序曲「ロメオとジュリエット」、 バルトーク:「ピアノ協奏曲第3番 ホ長調 Sz.119」、 チャイコフスキー:「交響曲第4番 へ長調 作品36」。アンコールなし。 音は5.1chサラウンドで、中央スピーカー、後方両サイド・スピーカーが配された本格的なもの。会場のざわつきも後ろから聞こえる。このシステムで大会場で音楽を聴くのは初めての体験。音はプレゼンスがよく、音場もほぼ正確で、CD並。マイクセッティングなど音響裏方の努力を感じる。ただ、原音忠実かというと、やはり少し違う。ピアニッシモの弦のトレモロは本来ならもっと模糊とした音で聴衆に届くものだが、しっかりマイクが拾って、分離も明確、音圧も高く、弱音の情緒的な部分はスポイルされていた。逆に全強奏の部分は、音量的には、生音並なのだろうけれど、マイク集音集成的で音が割れないレベルに調整されているからだろうか、感覚的にはもっと音の塊感があってもよかった。ピアノ協奏曲のピアノ(ソリストは、懐かしいお爺ちゃんルドルフ・ゼルキンの息、ピーター)は若干残響過多で映像より右寄りに定位していた。 スクリーンは思ったより大きくはなかったが、それより、頻繁にライブだとか、フェスティバルのロゴだとかが画面隅に入るのが煩わしかった。せっかく現地と離れていても一体感をもって観ようとしているのに、あれが入る度に、これは、映像で、このスクリーンの奥は、ステージではなくて何もない薄っぺらな一枚の白い布だよと常に思い知らされている気分を味わい、げんなりした。 映像は、ソロの場面はしっかりソロ奏者のアップがフォローされるDVD並の配慮の行き届いたもの。感心したが、指揮者に対面してステージ側から聴衆側を撮した映像が時々入って、それを我々観客が大画面で観ているので、ふたつの会場連結したかのような違和感を感じたり、常にカメラ視点が動くので煩わしく思った聴衆も少なからずいたようだ。正面固定画面のままでもよかったのにといった感想を述べた知人がいた。おそらく、いらぬことをして欲しくないという気持ち。もうひとつ困ったのは拍手。しても向こうの人は喜ばないし……。 私は途中から目をつぶって、音に集中した。前述のようにあくまでもマイクで拾って、それをアンプリファイアしたものだから、結局、これは、昔懐かしいレコードコンサートと同じだということに気づいた。家で大音量で音楽が聞けなかった当時、時々、いいオーディオを使ってレコードを流すだけのコンサートがあったものだ。ジャズ喫茶だって考えてみれば同じ。 演奏は、まったく隙のない、臨時編成とは思えない統制のとれたもの。均整のとれた演奏の中に、若々しさを表現しようとした指揮者。緻密な音づくりと感じた人も多いだろう。実際そうなのだろうが、おそらく録音エンジニアによる音づくりも影響しているはずである。 機械好きとしては、こんないい音が、松本から生で地方都市の一ホールに中継されるシステムがどうなっているのかに興味が湧いた。長野朝日放送からテレビ朝日本社経由で各放送局に配信されているのか、松本からダイレクトなのか、北陸朝日放送の屋舎を経由しているのか、中継車がパラボラあげてダイレクトに受信しているのか。いずれにせよ、減衰なく綺麗な音で届くデジタル時代の「今」らしいイベントだった。 ただ、ひとつ文句がある。小沢指揮とパンフに大書しているのに、出てきたのはVTR部分だけ。インタビューなどを差し引いて、純粋に指揮をとるのは、ほんの十五分ほど。メインの生中継には一切絡まない。客寄せを期待したかなり過大タイトルである。ちょっとだまされた感あり。
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文筆業の人は依然としてワープロ専用機を使う人が多い。パソコンより特化しているから扱いやすいのである。「文豪」とか「書院」とか、昔は各社競って出ていたが、今は一機種も製造されていない。井上ひさしもその一人で、随筆「ふふふふ」(講談社)の一編「中古品一台につき二十万円也」に、高額出して修理する話が書いてあった。 先日、テレビで、そのワープロを直す工房が儲かっているというのを放映していた(井上さんはこの会社に頼んだのかしらんと思って見ていた)、なんでも、メーカーが製造を中止した時、こうなることを見越して残っている部品を大量買い付けしたという。なんと賢い! 井上は、製造中止したらもう直さないのが当たり前という日本のメーカーの態度を怒っている。ヨーロッパのメーカーはちゃんとしていると。私もまったくそう思う。日本の消費者も飼い慣らされて、仕方がないと諦めてしまっているところがある。 実は、最近、愚妻所有の筆記具が壊れたのだが、修理に出せず困っている。安物だと捨てればいいし、万年筆など高額な高級品は修理に出せばいい、中途半端な値段(万はいかないが何千円はするレベル)のものは、壊れると後が困る。捨てるに捨てられない。 それに、以前にも書いたが、メーカーによる温度差も大きい。 シャーペンのノック部の帽子など無くしやすい部品をリーズナブルにネットで販売していて親切なのはゼブラ。HPも判りやすいところにそのコーナーがあって安心。 パイロットはもともと万年筆など高級品を扱っているので、HPに修理受付のコーナーがひらかれている。小売店での見積もりもちゃんとしている。 ダメなのは三◇鉛筆。ちょっとした部品を抜き差しするだけでも修理扱い、お預かりになってしまう。私がそれで右往左往した顛末は以前書いた(二〇一〇年七月十日、ピュアモルト・シャープペンシル定価五千円)。あの時、私が聞いた店の方も、この会社の修理はねえ……と言葉を濁していたし、最近読んだ文具販売がご職業の方のブログにも、法外な修理費になるから注意しなさいとはっきり書いてあった。こちらとしては、「やっぱり」といった気持ちだった。誰が考えたって不評。改善してほしいのだ。 さて、今回壊れたのもこの会社の同シリーズ。多機能ペンのシャープペンシル部(三千円)。落下させてしまい、虫眼鏡でみてようやく判る程度に微妙に先が潰れ、芯がでなくなった。多機能ペンだからメカ部はすっと抜けるので、その部品だけこちらにまわしてくれるといいだけなのだが、修理扱いになって、新しいのを買う方がよくなってしまう。結局、捨てるか、シャープ部がない二色ボールペンとして使うかしかない。クルトガやジェットストリームなどヒットを連発している会社だが、考えてみれば、壊れたら修理をして使うような高級筆記具を作っていない。もともとは削って無くなる鉛筆屋さん。自社製品は消費財意識なのだろう。それなら、中途半端な高級品など作ってはいけないと文句のひとつも言いたくなるというものだ。 井上が嘆いているように、日本の「物づくり」(メンテナンス体制もこの言葉に含まれるはず)は、本当に成熟していない。 (文中でも触れたが、昨年七月十日の記事の内容とかなり重複しています。)
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お漬け物は出来合いを買ってくることが多い。家で漬けることがあっても、本格的なものでなく、浅漬けの素で野菜を浸す程度。 昔、実家では、しっかり糠床で漬け物を漬けていた。父は茄子漬けが大好きで、夏は毎日「茄子はないか」とリクエストしていた。かき混ぜが足りなかったりして、蛆が湧いたなんていう話を子供心に聞くとおぞましく、私はお漬け物は全然好きではなかった。美味しいお漬け物は本当に美味しいと気がついたのは大人になってから。 今夏、思い立って、胡瓜に素の液をかけた上に、茗荷・紫蘇のみじん切り、生姜を一擂(す)り載せた。それを冷蔵庫で寝かせて冷たくしていただくと美味なこと、この上なかった。夏らしい一品。 すべてスーパーで購入したが、茗荷は一つ五十円、紫蘇も葉っぱ一枚十円する。昔、家の庭にそれらがなっていて、ご飯の前に、よく摘んでこいと命令されたものだ。子供だったので、香味が強く、どちらも食べるのは好きではなかったが、摘むのは好きだった。そんな、なっているが当たり前、摘んでくるだけだった野菜に、今、それなりのお金を出して買ってきて食べているのだから、この世は皮肉なものである。こんな美味しい味が嫌いだったなんて、子供の味覚なんていうものは、なんて情けないものか。しかし、その頃の大人は、そうした自家製野菜を毎日のように食べていたのだから、なんて贅沢だったのだろうと、今になって思わずにはいられない。 他に、家でなっていた薬味に山椒があった。これはすまし汁によく入れていた。前庭にはお茶の木。その世話係は祖母。新葉を摘み取り、よく揉んで天日干し、埋もれ火の火鉢の上に段ボールを載せて、焦げないように揉み転がして乾かした。ちょっとは子供もお手伝いしたものだ。 果物は、柿、無花果、茱萸(ぐみ)があった。時期になると有り余る程の収穫となり、それだから、尚更、熱心に食べなかった記憶がある。 夏には、食べ残しのスイカの皮を処理して、スイカの浅漬けを漬けていた。よく食卓の真ん中にどんと置かれていたが、これも、私は残飯処理みたいで、全然、好きではなかった。本当に子供はお大尽で我が儘である。 最近は、そんなヘタ利用の漬け物が麗々しくエコロジー料理として雑誌の記事に出てくる。白いところも食べられることを知らない世代のほうが多くなってきたからだろう。 それなら、私は、もう一品、よく祖母が作ってくれたエコお菓子を紹介したい。それは、蜜柑の皮を使った砂糖菓子。 皮の内側のスジなどを丹念に取り、細切りにし、甘く煮詰めて、ザラメ砂糖にまぶす。細長い砂糖付きゼリーのような形、味はマーマレードのようなもの。これも生活の知恵から出た皮利用のエコ食べ物だが、もう何十年と食べたことがない。確か、皮なのでちょっと苦みが残って、甘い御菓子だけど、これも大好きという訳ではなかった。大人の今なら、その苦みを楽しめただろうに……。 捨てるもの利用のお菜やお菓子はおそらく他にも色々あったろう。しかし、どれも時間と手間がかかるので、徐々に消えていった。核家族で家に手間暇をかけ得る人自体が消えていったことも大きな理由に違いない。 今年だからこそ思い出した懐かしい思い出。
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もうだいぶ前。車を換えるかどうするか悩んでいる女性と話をしていた。ちょうど私も悩んで、車種選びまでしていたところだったので、得々としゃべってたら、なんだかえらく楽しそうですねと言われた。 「いやあ、文系の男の子って、意外に機械モンが好きなものなのです。」 と答えたら、誰も合いの手を打ってくれず、間があって、 「誰のことだと思ったら、ご自分のことなんですね。」 と別の女性から突っ込みが……。 それはそうだ。五十歳をとっくに超えたおっさんを、どう考えたって「男の子」とは言わない。 そういえば、つい最近、年嵩の女性が「私たち女の子の気持ちとしては……」と言ったのを聞いて、「何言うとんねん。」と突っ込みたくなったというような話がブログに載っていた。それと同じになっちゃったなあと気がついて、慌てて、「「男の子」っていうのはさすがにないですよねえ。」と訂正した。 けれど、女性は、いつまでも女の子でいたいもの。男だって、まあ、少しは同じ(かも……)。 自分も言っちゃったことだし、今後、中年が自分を「〜子」と規定しても、「気持ちがお若いからこそ」と温かく見守ることにせねば……というのが今日の結論です。 さて、以下はおまけ。 この前、「銀河鉄道999」のメーテルの台詞に「女というものは一番美しい時の自分を心の支えとして生きていくものなのよ。」というのがあるのを知って、女性の気持ちがよく出ているなあと感心していたら、 「全然。すっごい後ろ向き発想。」 と愚妻は一蹴した。 はて、どっちなのやら。男はさっぱり判らぬ。 (今回は、お休みならでは雑談風。実にしょうもない話ですみません(笑)。)
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西向きに居間のある我がマンションは、日中の暑さ耐え難いまでの温度となるが、平生は職場におり、被害はない。しかし、盆休みは困る。現代の建築はクーラーで部屋を冷やすのが当然の作りとなっているので、どれだけ窓を開けても、風は弱々しく、それも熱風が入ってくるだけ。先の寺院の涼しい道を思い出すにつけ、昔の人は知恵で自然の涼しさを手に入れていたことを痛感する。 案の定、八月の男性雑誌に納涼の知恵の特集をするものがあり、買ってみた(「サライ」八月号)。「通販生活」の男性版といった趣きの物欲雑誌で、籐で編んだ午睡枕など、見るからに涼しそうだが、今や職人技のその種のものは結構な値段である。 日頃、仕事で冷房部屋と暑い部屋を出たり入ったりする身には、先進的な機能性下着は便利で有用だが、今日のようなただただ暑い部屋では、昔ながらのクレープのシャツ、ステテコ姿が一番涼しい。これで毛糸の腹巻きでもすれば、もう本当に波平さんである(加藤茶のぐるぐる眼鏡のオヤジでもいいけど)。 今の大量の熱を発するエネルギー喰いのクーラー依存から脱却するとしたら、昔のやり方に戻るのが賢明ということになる。人は油や電気の力を使って自然を折伏しようとした。そうした西洋自然観に、我々日本人はこのところずっと馴らされてきた。しかし、日本人は、震災以後、それでよかったのか、このまま、この道でいいのかと逡巡している。 かといって、急に「住まいは夏を旨とすべし」(「徒然草」)を実践すべく、緑陰の日本家屋に転居することもできそうにない。節電で少し我慢しながら、日本人の知恵をもう一度取り入れて、いいとこ取りをしようというあたりが関の山。ただ、それで何とかなるとは到底思えない。もし高価な籐枕を買ったとしても、ガラス温室のようなハコではその効果は期待できない。全体がすべて変わらないかぎり……。 ある人は、昔ながらの生活を色濃く残しつつ、冷蔵庫などの最小限の電化が入りつつあった昭和三十年代あたりが、自然に負担をかけず、一番バランスがよかった時代だったのではないかと分析していた。ラジオのその説は説得力があったが、その辺りの時代を「原風景」としている私には客観的な判断ができかねた。 逡巡しているといえば、原発の世論調査でも、可否の態度をはっきり示してしてる人は二〇%に満たず、「わからない」が六〇%を占めている。先日の広島・長崎の平和宣言も、原発問題をどう入れるか、各市で大きな課題になっていたという。今後の行き先を、迷って困って判断停止しているのが今の日本人なのであろう。 今日は敗戦記念日。今年は、戦争犠牲者とともに、大震災の犠牲者への追悼、それに原発の最良の事態収拾を祈って黙祷した。そうした日本人は多かろう。しっかり過去・現在・未来をつなげて見通さなければならないという意識の下での祈りとなった。
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七尾市小丸山公園北西部に寺院が集まっているところがあって、前から気になっていた。今回、「山の寺寺院群と瞑想の道」という一枚パンフレットを入手したので、それを片手に一眼レフを肩にして散策を試みた。 専用の駐車場は七尾美術館を過ぎたあたり。小さな高低差のある小径に点在する寺々を覗きながら歩く。地図の散策ルートは、時に寺の敷地や墓地をつっきる。炎天下といえども、緑陰の小径は風が涼しく、車行き交う舗装路より数度の温度差がある。竹林、雑木林、横には田んぼも見える。そこには懐かしい案山子も……。日中もこのくらいなら、クーラー無しで充分である。 子供の頃、毎夏、能登の田舎で過ごしたが、あの頃の田舎の道もこういう道であった。何も変わっていない。暑くて大人は誰も歩いていない中、登校日だったらしい小学校低学年の男の子が横を通った。一瞬、五十年近く前の私の姿と重なった。この子は五十年後、どんな気持ちでこの風景を見るだろうか。 山の寺とて門に到る階段も多く、そうそう全ては回れない。全十六寺のうち三分の二ほどを回った。寺は各々年経り古色を加えているものの、どれもお墓や石塔などに新しいものが混じる。それは、その寺が生きている証拠で、好ましい。古い墳墓ばかりのところは縁者を弔う人とてなく、朽ちていくばかり。依然としてここを菩提寺としている七尾市民も多いのだろう。 前田家の梅鉢紋を御堂に配した寺、高山右近ゆかりで隠れキリシタンの信仰も司った寺、門にマスコミに出た紹介記事を張るなど営業活動がほの見える寺、同じような小さな寺々ながら、少しずつ違っていて飽きない。途中で、浄土宗、日蓮宗が多いことにちょっと違和感を持った。後でパンフレットをよく読むと、真宗以外の寺を築城の際、北からの攻撃に備え防御の陣地として一箇所に集めたものという。 真向かいに見える小丸山城(址)は前田利家がはじめて国持ちとなって築いた城。その後、加賀を加増されて金沢に移った訳だから、ここ金沢でいう南の寺町寺院群、北の東山寺院群と同じ城下町作りの手法であったことがわかる。規模は小さいながら金沢と似ていると感じたが、まったくその通りなのであった。おそらく紅葉の季節など、もっと風情が増して好ましかろう。 最後に、気づいたことを。 通りに駐車場こっちの標識はあるが、曲がったすぐの左にあるのにその案内はない。また、駐車場トイレの後ろが出発口で見落としやすい。道々に案内板はあるが、これでいいのか判らなくなったところがあったりして、全体として、少々不親切のような気がした。パンフレットがあったからよかったが、ないと迷う。せっかく「瞑想の道」として整備したのに、ちょっと画竜点睛を欠くお役所仕事的整備具合。きょろきょろして瞑想できず?
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いつも行く地元最大のラーメンチェーン店の支店。変な接待用語を使うので以前、取り上げたことがある。今でも、注文を取ったら厨房に「餃子頂きました。」と大声で報告する。それではラーメン屋にわざわざ餃子を持ってきて店員にあげたお客がいることになって変だと書いたお店である。その声を聞いた従業員は、全員大声で「ありがとうございます」とレスポンスする。状況を考えずに言葉だけ聞いたら、絶対、餃子もらってありがとうと言っているとしか思えないのだが、もう、それでずっと通しているから、どうしようもない。気にしないことにした。 さて、今回、行ったら、入り口係の女性が、大声で「ご新規様ご来店で〜す。」とのたまう。私は決してはじめの客ではありませんと言おうかと思ったが、いきなりも変なので、様子を見ることにした。 以後、入ってくる人毎に「ご新規様」と言っている。どうやら、「今、将に入店した」という意味で使っているらしい。でも、常連さんが「新規」と言われると、少々悲しいではないか。 さて、どうしたものかと考える。これまで、言葉に意見してクレーマーもどきに扱われたこと数知れず。冷やし中華食べながら、気もそぞろ。全然、美味しくなかった。 で、結局、会計の時に言いました。 さて、今度行った時、どうなっているのやら?
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愚妻と義母が亡き義父のお骨を郷里宮崎へ運び、初盆と納骨を済ませてきた。旅程の後半は南九州観光。 真夏の南国である。高齢の母の体調と一人でレンタカーを運転する愚妻の交通安全を心配していたが、今夜、無事、帰宅した。結婚以来、これだけ長期に実母と一緒に旅をすることなどなかったので、喧嘩のひとつやふたつ、みっつやよっつ、いやもっとしたらしい(?)。つまりは、いい親孝行になったようだ。 その間、こちらは、能登方面への出張、市内某所での一日研修、部活の監督など夏らしい仕事を淡々とこなしていた。愚妻がいないので自宅の掃除も進む。ここ数年サボってメモだけ書いて放置していた観劇の感想文をこの夏にまとめて清書しようと悪戦苦闘しているが、やはり、メモのない劇は、何を感じたのかあやふやで断念。メモがあるかないかで大きく違う。 明日午後より盆休みに入る。職員余藝展の作品を出すべく、ファイルのフォルダを覗いていい写真ピックアップをする予定。
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今年になって、お世話になったお店などで、また、やめたところが多い。 前の職場でお世話になったガソリンスタンドが更地になっていた。文化祭の模擬店のガスボンベのことでおつきあいがあったのは十年以上前のこと。三年ほど前に再度依頼したら、もうガスの仕事はやめたとのことだった。近年、ガソリンスタンドの廃業が目につく。あのおやじさんは、今はどうされているだろう。 以前、何かあるとよく行っていた医院、これもビルを解体しているのを発見し、程なく更地になった。私の子供の頃から開業されていたので、ご年齢から考えるにご商売自体をお辞めになったのだろう。今そこは幾つかに区切られ、住宅分譲地になった。 長年お世話になっていた新聞販売店、今度ご商売をやめて、別の販売店の販売区域にかわるという。新聞社主催のチケットなどで便宜をはかっていただいた。 そして、結構ショックだったのは、スキーの定宿だった妙高高原のペンションさん。スキーが出来なくなっても、夏の行楽で使っていた。もう二十年以上のお付き合い。暑中見舞いの葉書が来て、既に三月で閉めたという。今後もずっと長くお付き合いできるものと思っていたので、楽しみにしていた行き場がひとつなくなった感じで淋しい。 お世話になった方々が仕事をやめていかれる。有為転変は世の習いとはいうが、それでも一抹の淋しさを感ずる。「縁」の離れていく淋しさとでも言うべきものかもしれない。 先日、英語の先生がALTにお盆休みの説明をしていて、「なんでお盆っていうのだろう?」と言ったので、「それはね。」と説明してあげた。「盂蘭盆会の略でね、釈迦の弟子が、自分の母親が地獄で苦しんでいるのを観て悲しみ、お釈迦様に相談したらね……。」云々。 その方に博識と誉められたが、なあに、タネを明かせば、父の死後、お坊さんの御法話を聞くことが多く、パンフまで頂いているので、自然に知識として授かったのである。習ったばかりの知識を横流し。 でも、文章書いていて「縁」なんて言葉がふと思い浮かぶところを見ると、日本人は、本人が気がつかないところで、色濃く仏教的世界観で生きているのだなという気がする。
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先日、実家に文化庁の方と市の文化財保護課の方が見えられて、実家の「登録有形文化財」の実地見聞と、祖父が残した県公共施設の設計図などを大学のライブラリーに複写保管できないかというお話があった。 祖父は県の設計技手、戦前、県の建物をほぼ一手に引き受けて、公共の施設の設計にあたった。その図面の一部が実家には残っている。そのすべてが今はもう現存しない。金沢は江戸時代の町家などは保存をしたが、大通りの煉瓦作りの銀行や我が家のような大正・昭和浪漫溢れる建築は保存活動が遅れ、ほとんど取り壊してしまっている。お若い市の職員の方も、今残っていればと、残念がっておられたが、まったく私もそう思う。話によると、金沢が写った古写真に、この設計図通りの建物や門が見られるという。もう一度、整理をして、あるものは全部お貸しすると約束する。夏に探索作業をせねばならない。 家の申請のほうは、建築当初の姿の設計図を添付せねばならないようで、リフォームの設計士さんが工事中にわかった痕跡などを元に引いた図面の確認作業をしなけれなならなくなった。 しかし、私の知っている家は昭和三十年代後半から。昭和二年の家だから既に手が色々と入っている。兄弟の中で一番年下の叔母に長距離長電話をかけ、色々聞いて、それに私の記憶を足してほぼこうだろうと脳裏に描いてから、今度は最年長の伯父にも長距離電話をかけて間違いないか確認したら、そのいくつかは、あとからの改築だという。特に台所など水場近辺は、一番時代の変化が激しいところで、何度もリフォームされ、特定し難く、もう頭の中が混乱して判らなくなってきた。 それでもデザイン的に平凡だと思っていた二階の四角い窓が、実は部屋の中では丸窓になって和風モダンなデザインになっていたと判って感心した。他に何カ所か同様の処理がなされた箇所があるので、それでデザイン上の統一がとれている。そんな新発見がいくつかあった。 国宝級の建物の復元などは、これのもっと厳密版なのであろう。なかなか大変である。 昔話が混じる伯父叔母の話を聴きながら、私が生まれるずっと以前、伯父叔母の家だったころのことが、まったくの想像ながら脳裏に浮かんだ。四十代だった祖父は、自分の家を自分で設計して一家を構えた。子供たちはそこで育った。玄関で当時の家族が集合している写真も残っているが、長女(故人)がお下げ髪。父などまだ本当に小童である。それから一家の期待を一身に集めていた長兄が若死にし、戦争があり、戦後まもなくして祖父が亡くなって収入が途絶え、兄弟たちは苦労した。 今は八十歳を越えた伯父叔母も、私の想像の中では青年や少女で、私はなんだがその子たちが可愛らしくて仕方がない感情に襲われた。 今考えると、建物も我ら一族自体も、人生に喩えるなら「青春時代そのもの」だったのである。
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夏の夕刻、帰宅時間。職場の若い女性が自転車に乗って古教師の我々の前を通り過ぎていった。夏らしい半袖ブラウスにフレアスカート、こぎ方もガシガシと力まかせではなく女性らしい。大石先生みたいだなあと思ったら、隣を歩いていた同年代の教員も「二十四の瞳」みたいですねと一言。どうやら同じことを思っていたようだ。 以前にも触れたことがあるが、昔は女性が自転車に乗ること自体、お転婆だと思われていた。そんな中、大石先生は十二人の子供達にさぞ爽やかな都会的な香りを振りまいていたことだろう。 若い女性の自転車姿を見て、すぐに大石先生を思い出す世代も、我々くらいが末端かもしれない。私は「こども名作館」の全集を持っていたので、それで読んだ。今の子供たちは忙しくて、ほどんと名作を読んでいない。 中年のおっさんたちは、若い女性の自転車姿を見て、そんなことを思っているなんて、若い子達は全然知らないことだろう。
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旅行二日目は、午前中、和倉温泉の辻口博啓「ル・ミュゼ・ドゥ・アッシュ」のケーキセットでくつろぐところからスタート。この場所は昔もレストランだったところである。それから館内の美術館見学。彼の美術館とはいうが、飴細工作品展示スペースといった程度の広さ。二階の角偉三郎美術館にも上がった。角偉三郎は漆の作家。喫茶店同様、オーシャンビューの景色は素晴らしいが、中央部は販売コーナーで、そっちのほうが目立っている。作品自体は大胆且つ繊細。 車を早めにジャズ・フェス会場の能登食祭市場横に置いて、市内の一本杉通りを散策。ここは二度目の来訪。高澤ろうそく店などいくつかの老舗を回ってお買い物。 開場直前に雨脚の強い通り雨があり、以降、終演まで降ったりやんだりの天候で、濡れながらの鑑賞となった。途中、主催者からは、これまで雨に降られたことがなかったのに残念、今回はお詫びにワンドリンク無料にしますという振る舞いがあって、心遣いを感じる。大ベテランのジャズ評論家瀬川昌久さんが進行役。お歳を召したがお元気なご様子。 昼の学生吹奏楽部の演奏には被災地からの招待された二校が参加。最後は、守屋純子指揮、子供たち全員で今年出来て五十周年の「スキヤキ(上を向いて歩こう)」を大合奏。 プロの部での先発は堀夏奈子(vo)。去年、ジャズ・ストリートでも聴いた地元歌手。終わりの一曲に大石学(p)が参加し、「ふるさと」を日本語英語とり混ぜて歌ったのが、何とも今年的な選曲で印象的であった。 二番手は村井秀清(p)Merged Imagesなるカルテット。宮崎隆睦(sax)のワンフォーンで、音的にはTスクエアあたりの爽やか疾走サウンド。 次はMAYA(vo)+松尾明(ds)トリオ。ボーカルは暗い歌が得意のようで、「圭子の夢は夜ひらく」まで披露した。 お待ちかねは寺井尚子(vln)カルテット。最初から全力疾走で、早いパッセージを連発する。あれでは疲れるだろうという力の入った演奏。「ラ・フェスタ」や、弦の艶やかさを生かしたカッチーニの「アヴェ・マリア」などで万雷の拍手を受ける。遠目でもはっきり判るジャズ界屈指の美人サンで、アルコールの入った会場のオッサン達は尚子ちゃんコール。 ラストはオルケスタ・デ・ラ・ルス。大ブレークした時とはメンバーがボーカルのNORA以外入れ替わっているようだが、今もって日本で最も有名なサルサ・バンドとして活躍中。年寄りも知っているラテンの名曲ペレス・プラード楽団の「セレソローサ」やグループのヒットメドレー、アンコール、ビールCMで有名なジプシー・キングスの「ヴォラーレ」まで。 強烈な打楽器のリズムとブラスセクションとのコンビネーションもよく、その上に、達者なスペイン語のボーカルがのっかって、何とも賑やかしく進行する。元々、ブラス・ロックあたりからポピュラー音楽を聞き始めたくちなので、ブラス入りの曲は大好きだし、サンタナが好きだったので、ラテンリズムも大好き。これまで、あまりラテン音楽と縁がなかったのは、アドリブの要素が少ないのでジャズ・ファンには物足りなかったからだが、ライブとなると別。ティンバレスやコンガ、ペットの派手なソロがあるなどジャズ的な見所も沢山あって大いに楽しめた。NORAのトークは年増の下世話一歩手前で、まさにラテンか関西ノリ(でも東京中野区出身。なぜ?)。濡れ鼠の観客は、大いに盛り上がり、トリにふさわしいお祭り騒ぎとなって終わった。 最後はオールスター・ジャム・セッションで幕。終演は夜十時近くとなった。合計八時間近くの長尺コンサートだったが、小一時間ほどでユニットが変わっていくので、全然、飽きなかった。 能登有料道路経由で日付が変わる前に帰宅。天候がよかったらもっと楽しめたとは思うが、海ホタルが見られたり、久しぶりのジャズ・フェスを堪能したり、楽しい夏のバカンスとなった。
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二十三回を数える「モントルー・ジャズ・フェステバル・イン能登」。仕事とかぶって、これまで行きたくても行ったことがなかったが、今年、夫婦共々なんとかなりそうだったので、特休をそこにまわして、能登観光かたがた一泊でフェス初日を聴きに行くことにした。七月二十九日、三十日のこと。 まず行ったことがなかった能登空港へ。時間に合わせて、着陸〜給油などの整備作業を見学フロアから見学。パンフをもらい、まるで県外から飛行機でやって来たかのように旅行をスタート。次に能登ワインのワイナリーを見学。五年前に出来た新しい蔵だそうで、貯蔵タンクや樽を案内して下さる。 南下、能登島に渡り、ガラス美術館へ。昨夏、ガラス工房へ寄っただけで美術館は見損ねていたので、今回はじっくりと鑑賞。今回で五,六回目の訪問となる。いつの間にか新館が増設されていた。 特別展「鏡のアート」は、万華鏡や鏡のマジックの展示が面白く、子供も充分楽しめる内容である。万華鏡といっても、作家が造ったオリジナル芸術作品としてのそれで、外観を楽しみ、覗いても楽しむという趣向。触れてもOKなので、ぐるぐる動かして百花繚乱、幻想の視覚を楽しむ。 また、新館に展示されていた富山の本郷仁なるガラス作家の作品は、ギミックに溢れていて仕掛けが楽しい。自分の顔が蜂の巣状に山ほど現れ驚くパラボラ状の鏡や、鏡を貼った閉空間の中央に立つことで、無限の空間を観ることができる作品など、参加型の作品が印象的であった。ゆっくり巡る鏡のオブジェによって反射が四方に散らばる作品では、移りゆく光の景色が美しく、しばしソファに座って見とれる。 泊りはそのまま能登島向田の民宿。隣の神社では島の男達がキリコを作っている真っ最中。火祭りの前日だったことを知る。向田の火祭りは、十数年前、写真部の顧問研修に参加させてもらった折り、撮影した覚えがあり、懐かしい。 夜、主人が真っ暗な海に光る海ホタルを見に連れて行ってくれる。海中に蛍のようにぽっと点滅する光が美しい。はじめて見る美しい漆黒の闇の中の景色。まったくいきあたりばったりで予約したために経験することができた想定外のお楽しみであった。(つづく)
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一日、盛岡の全国大会に部員は旅立っていった。腰痛持ちの小生はお留守番。今年は総体も高文祭も東北が会場。先日の集中豪雨のため新潟で列車が運休しており、交通手段を変更せざるを得なくなった出発組もある中、全行程バスの我が部隊は順調に予定を消化している模様。日に一本、メールでその日の様子を連絡してくれるようお若い引率顧問に頼んだので、律儀に連絡が入る。 高文祭も開催されることとなったが、原発事故のため、参加予定者は参加するか微妙な判断を迫られることになった。教員側で強制するものでもなく、保護者や本人との相談の上決めたところが多かったと聞く。私の知ってる予定者は行かないことにしたという。この問題は、先日、新聞でも取り上げられていた。また、職場で、この夏、復興ボランティアに行く予定をしている方がいて、場所や交通路などを確認していた。 前回の原発日記の中で、汚染がなし崩し的に拡散する心配をしていたら、案の定、餌の稲藁による汚染牛肉が全国で消費されたことが発覚した。市内のスーパーや肉加工業者でも扱っていて、ここ金沢でも他人事ではなくなった。八月二日現在、事故近辺四県で牛の出荷停止処置という。 となれば、路地ものの代表である米にもセシュウム汚染が起こっているはず、なぜそれを言わないのだろう、収穫前に防止しないといけないのではないかと思っていたら、ようやく数日前からニュースで言い始めた。収穫された米の数値が心配である。思ったほどでなければいいが……。生産者に対し同情措く能わずの感。 話によると去年の米が売れているという。ということは、おそらく新米の値は崩れる。基準値内であったとしても、消費者が進んで事故地区の米を買おうとは思わないのは人の情である。安値の米は外食産業に流れる。結果、我々は知らず知らずのうちに弱いながら体内被曝する可能性がある。まさに拡散。 汚染を心配し、被災地の復興を祈り、そこで行われる若者の競い合いに思いを馳せる。この夏、気持ちは東北へ東北へと動く。
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信太妻伝説は、歌舞伎など日本の伝統藝能に少しでも触れると大抵出会うことになる有名な話である。陰陽師安倍晴明は昔からスーパースター級で、十年ほど前、大ブームがあって映画も作られたし、近年のパワースポットブームで、晴明神社も大賑わいと聞く。つまり、彼は今の世においても知らぬ人なき霊能者で、その誕生譚として母は信太の森の狐という話も大抵ついてまわって語られていてる。 ブームになるずっと昔、学生時代、勉強のつもりで時々通った国立劇場で観た『玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)』が古典藝能で陰陽師を観た最初であった(昭和五十五年十二月公演。玉藻の前ー中村歌衛門、戸部銀作補訂・演出で三段目以降の通し狂言)。そこに出てきた九尾の狐をやっつける格好いいヒーローこそ安倍晴明六代の孫、安倍泰成(松本幸四郎)。出番こそ少なかったが、魑魅魍魎跋扈するお話の世界で霊力を発揮して退治する正義の味方で、印象は強烈であった(あの時、歌舞伎の宙乗りをはじめて観たので尚更興奮)。 今回、その大本となる晴明誕生の物語を、歌舞伎ではなく「しのだづま考」という新劇の一人舞台で観ることになった。 この芝居、「考」とタイトルについているように、解説仕立てに上演することで、古典藝能に疎い現代の観客にも判りやすく提示してくれる。いわば、「入門講座」風に語るスタイル。途中、軽口などを入れて観客を沸かせながら、すっと登場人物に早変わりして進行する。説教節や歌舞伎をそのままやられても困る現代人にとってなかなか考えたやり方である。中西和久は二十役以上をこなすが、どれも違和感のない変身ぶりで、名人小沢昭一の一人舞台藝を彷彿とされた。 もうひとつの特色は、講談、浄瑠璃、瞽女(ごぜ)唄とこの伝説を語る多くの藝能スタイルを、次から次と採用して、その語り口の雰囲気を我々に紹介するバラエティの趣向である。これも、中西はそつなくこなして藝達者ぶりを示した。悪役、悪右衞門は、如何にも歌舞伎の荒事然とした所作、狐の動きも『玉藻の前』で観たのと同じ歌舞伎の所作。肝心の竹田出雲『蘆屋道満大内鑑(あしやどうまんおおうちかがみ)』を観ていないので、はっきりしたことは言えないが、研究の上、かなりなぞっているのだろうと思われる。それも、また趣向として楽しい。 (こんなに有名なものも観ていないなんて、まったくもって不勉強で情けないが、地方にほとんど来ないので生の歌舞伎はさっぱりご無沙汰。致し方ないと言い訳くらいはここでしておこう。) 基になった資料によると、と引用される文章は文語そのままの語り。難しいところだけは、こういう意味だと訳がつく。特に疑問・反語の部分はややこしいのでつけていたようだ。また、晴明の幼少時、「常に似ぬ」みめかたちであるというところでは、普通と違うということは世にまたとない見目麗しい容貌という意味だといった説明がついた。それを聞くと、なるほど、普通と違うということは、現代では悪い場合に使うことも多いから説明が必要だったのだと、逆に古典の時代と言葉のニュアンスが違うことを実感したりした。 昨秋の「エノケン」に続いての中西の一人舞台、前回はあまり評価が高くなかった模様だが、今回は、彼の多藝のよいところが出て、軽妙な中に落ち着いた芝居になっていたように思う。ためになるという側面も見逃せない。 今、古典の文法を生徒に教えている真っ最中。「けむ」は「だっただろう。」と訳すといったレベルなら、雰囲気で判るが、ちょっと高度な、今の「は」は係助詞「は」ではなく接続助詞の「ば」。形容詞と形容動詞の未然形についた場合は清音化するので、仮定条件で訳させねばならぬといったあたりになると、ちょっと怪しいのではないかと思った。「〜たべ。」になるとほとんど全滅ではないかしらん。これは補助動詞「給ふ」の已然形。「たまふ」よりくだけた近世あたりの言い方。 私は、ほら出た、ここにも文法ポイントと楽しく文語を聞いていたが、観客の理解度は人それぞれであろう。今の市民劇場の会員は老齢の方ばかりだから問題はないし、敷居も高くなかったろうが、若者ばかりだと難しい話と思うやもしれない。 さて、最後に、台本ではなく、おそらく役者の言い間違いをひとつ指摘して終わりにしたい。まったくの揚げ足取り。 彼は「〜にけり。」が多く出てきていた勢いで、「こそ〜にけり。」といってしまっていた。これは例の「係り結びの法則」。勿論、「けれ」が正解。このくらいはかなりの人が判っただだろうなあ。だって、高校一年四月に習うのだから。というより、私の立場として必ず判ってほしいものです。 (2011・7・31)
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