ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」 http://hiyorigeta.exblog.jp/
有形文化財登録申請の件で、建築学の先生が実家に検分に来られた。丸窓に半畳の床の間、その横に半畳の仏壇がある一階和室の造りを観て、「モダンですね。」と言われる。誰が見ても典型的な和の空間で、何がモダンなのか判らなかったので、なにがですかと質問すると、通常、別にしっかりした床の間のある家は、仏間は仏間として使い、こうした同居はしないものなのだという。一緒にしてしまうのは最近の住宅事情ではよくある事例だが、当時では珍しいという。 他に、一階と二階がストンと同じ間仕切りになっているのも珍しいという。通常は、茶の間は一階、各人の部屋は二階という風に各々の部屋の役割があるので、上と下では部屋の割り方が違うものらしい。言われてみれば、我が家は、玄関上がった横の洋室の上階にはまったく同じ造りの洋室がある。天井縁が左官のモルタルコテ細工で装飾されているのも一緒。同様に、一階の仏間と控えの間も、まったく同じ割り方で二階に客間と控えの間がある。 祖父は県の建築技師で、当時の公共施設の設計を専門としていた。おそらく民間住宅の設計はこの家ただ一軒である。なので、自分の家も、これまでの自分の仕事と同じ手法で建てたのだろう。見た目、洋館仕立ては外構と内部の数室のみで、基本、和風の典型的な和洋折衷建築ではあるが、基本設計に洋室的なシンプルな割り方を採用して、本来、公共施設ならそのまま上下階すべて同じ洋室にするところを、一般住宅なので多くを和室にしたつくりになっているのだ。つまり、和風建築に洋をプラスしたのではなく、洋風建築に和を大幅に取り入れた仕様。見た目完璧に和室でも洋室の匂いがするというのは、この間取りのせいである。建物の外観も、大雑把に言えば四角い箱に台所水回りセクションの出っ張りがついているというシンプルな造り。先生は「昔の役所の建物のような設計」という言い方をされていた。 もうひとつ、「昭和初期の和洋折衷建築というより、明治の洋館の匂いがしますね。」とも。祖父は明治二十年代初めに設計を学んだ。その頃の日本は辰野金吾をはじめとする日本人技師がお抱え外国人技師にかわって活躍し始め、積極的に洋館を建てだした時代。明治の青年は、そうした洋館に憧れ、積極的に吸収していったことだろう。家には、勉強のため各地の洋館を撮した写真帳が残っている。自身の仕事もこの流れを汲む洋館がほとんど。 言われてみれば、いちいち納得することばかり。素人は洋室だけがこの家のチャーム・ポイントと思っていたが、設計思想や基本設計にちゃんと自己の出自が織り込まれている。ここで長く生活している家族はそんなものと慣れきっていて全然気がつかなかったが、今回の指摘で、祖父の仕事の趣味嗜好を身近に感ずることができて、感慨深いものがあった。
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先日、コンサートの開演待ちをしていたら、係が「お体の御不自由な方はエレベーターが使えますから、申し上げて下さい。」と堂々と大声で叫んでいて、それが結構いい歳の大人だったのでガッカリした。若者ならいざ知らず、その年齢で変な敬語だと判らないのかなあ。 ひどく不遜である。使った意図と真逆。「申しつけて」が正しい言い方。 今夏泊まった民宿の広間に「旅館民宿組合」の名義で「アルコール等の持ち込みはご遠慮させていただきます」という青い張り紙があった。手書きなら諦めもつくが、印刷だったので見ているこっちが恥ずかしくなった。おそらくこの町の全宿泊施設に貼ってあるのだろう。こうなると、もう個人の言い間違いレベルではなく、係わった人全員それでいいと思っていたのだから、かなりの重症である。 放送による生徒会選挙の演説会。立候補者が「この度、△△に立候補させていただきました○○です。」と言った。大人が馬鹿丁寧言葉を乱発しているせいで、子供たちもそう言わねばならないと思い込んで使っているようで、聞いたこちらは、妙に世間擦れした大人を連想してしまう。 なり手が慢性的に不足している生徒会。そんな中、立候補しようとしたのは、自分がなんとかしようと思って決断した極めて意志的な行為である。にもかかわらず、その後に「させていただく」という右顧左眄的な妙に弱腰の物言いが同居する。ひとまとまりの言葉の中で態度が分裂しているように思えて違和感を感ずるのだ。 票を入れてもらって有権者に恩義を感じている段階ではない。堂々と「立候補した○○です。」と言えばよい。救いは一部で失笑が起こったらしいこと。違和感を感じた若者もちゃんといたらしい。 子供は大人の真似をする。その言い方が適切かどうかの判断力はまだ薄弱なのが普通である。まず、いい歳の大人がしっかりした見本を示すことから改善させていくしかない。
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前日誘いがあり、急遽、TOTO金沢公演に行った(20日夜)。興行主のWEBサイトを観て、フォープレイのネイザン・イースト(b)が参加していたのが行こうと思った決め手。 金沢歌劇座(旧金沢観光会館)までタクシーに乗ると、運転手が今夜は何があるんですかと質問する。ロックのコンサートだというと、私はエルビス・プレスリー、ポール・アンカの世代だという。ビートルズでさえ当時ついて行けないものを感じたという。日本でいうとロカビリーから橋幸夫ら御三家くらい。「私はピンキーとキラーズあたりですわ。」と話を継ぐと、その頃は片町で遊び回っていた頃だなあと懐かしそうにしていた。そんな音楽話をしながら会場へ。 いつも聞くジャズコンサートと客層が違う。TOTOは八十年代のヒット・グループ、S席九千円することもあって、いまや中年となった元若者が、少しお洒落をして列についているといった風情である。この前ディープ・パープル行ったぞとか、俺はウン十年前金沢に来たクイーンを観たぞとかなんとか、そんな話が耳に入ってくる。おお、みんな同世代だ! まさに「歌は世につれ」である。 列に見知った若い娘さんがいて話をした。「あんたはこの世代ではないでしょ?」と聞くと、お母さんのお伴できましたとのこと。「トートーって何?」って聞いて怒られたという。いや、確か、その東洋陶器からきているという説も聞いたことがあるよと、古い昔の記憶を引っ張り出して彼女に話した。(ウイキの解説によると、やはり違うらしい。) 私は肝心のTOTOに詳しい訳ではない。ボズの「シルクディグリーズ」に集まったバックバンドが独立した腕利きセッションマンの集合体で、あの頃「ロザーナ」「アフリカ」などのヒットを飛ばしたという程度の知識。 オープニングから閃光煌めく派手なライティング。一気に総立ちになって以後、一階席はずっと立ったままだった。(二階席でよかった。) AORのイメージが強かったので、もっとソフト&メロウ路線かと思っていたが、ギターのスティーヴ・ルカサーのソロなどはかなりハードロック調。それでも曲はメロディアスで、特にサビの部分などは日本人好みである。曲の構成も複雑で、ストップ&ゴーや緩急もバチバチ決まる。さすが各人各楽器で名をなす人たちの集まりである。 メインキーボード奏者のデヴィッド・ペイチは、ジャズ的にはたいしたアドリブはなく、セコンドキーボードのスティーヴ・ポーカロがこのグループらしい色彩感を演出しているようである。ただ、あんまり熱心に仕事はしていない。途中、マイケル・ジャクソンのカバー「ヒューマン・ネイチャー」をやったが、この曲の作・編曲が彼だと後で知った。 ドラムスは私も名を知るサイモン・フィリップス。確かマイケル・シェンカーグループにいたはず。中央奥に太鼓の山の中に埋もれるように鎮座する。ロック・ドラマーにありがちな雑さはなく、パワーがある中に正確なリズムを刻む。 お目当てのネイザン・イーストは、一回のみ短いソロ(ボーカル・ユニゾン)をとっただけだったが、常時、サポートメンバーとは思えぬ緻密さで細部まできっちり決めるボトムラインを形成し、ロックのノリも全然違和感なく溶け込んでいた。なんでもできる人だと改めて感心。バックコーラス二人を従え総勢八名。中年となって見た目はさすがにおっさん連中だが、音楽の鮮度とパワーはしっかり最後まで保っていた。 この曲もこの人達の曲なのねといったレベルで聴いていたのだけれど、曲によってはスペーシーな「ボストン」のサウンドとの類似性を感じた。つまり、この音はあの頃の時代の音なのだろう。大昔、武道館で観たステージを思い出した。 終わっても耳がキーンとしたまま。目もチカチカした。年寄りの耳目には負担だったのだろう。ロックはど派手で大音量、日頃、見聞きしているジャズのコンサートとの逕庭をひしひし感じたが、でも、このくらいまでは大丈夫、充分ついて行けるとちょっと安心もした。(考えてみれば「懐メロ」である。当たり前か。)みんなと同様、ちゃんと手拍子ノリノリもやってみましたよ! 来々週にギリバート・サリバン、11月にはエアロスミス、それにクラプトンがウインウッドを連れてくる。このところ外タレ・ラッシュで、地方都市としてこれまで数年に一度ペースだったのに、どうしたというのだろう。
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「片倉真由子(p)トリオ+ウンサン(vo)+川嶋哲郎(ts)」を聴いた。18日夜、於赤羽ホール。 ジュリアードから帰って勢力的に活動を開始した期待の新星、片倉真由子。数年前、ジュリアードの学生バンドで来沢したのを聞いている。(2006年06月19日の日記参照)それに、ここのところ注目していた韓国の実力派女性歌手とのセットだったので、今年のジャズストリート有料コンサートでは、これを選んだ。 最初に仙台の高校の吹奏楽部の演奏。通常のブラバン編成だが、ジャズバンドを志向しているようで、演奏も「バードランド」やデープパープルなどお馴染みの曲ばかり。編成から考えて、吹奏楽コンテストもねらいジャズもやるといったスタンスか。震災で部員に死亡者が出たという。片倉はその学校の幼稚園を出ているそうで、その話に観客席にまわっていた高校生から思わず声がもれていた。 プロの部はトリオからスタート。片倉のピアノは、エバンス〜キース路線のピアニズムかと思えば、スインギーなガーランド的な奏法まで多彩に消化していて、なるほどこれは教員〜審査員受けするピアノだと感じる。フレーズに無理がなく、かといって流れるようなフレーズばかりでもなく、モーダルな部分もしっかり入って、アドリブ全体の作り方がうまい。やはり、なかなかの才女であった。ただ、無理矢理アラを探せば、リズム隊なしの長いソロに、もう少しの成熟が必要な部分はあったように思う。あと、彼女に足りないのは、ショーマンシップである。 川嶋のサックスは、多彩なテクニックと圧倒的パワーを披露して、飽きさせず、ここ数日、聞いてまわったアマチュアやセミプロの人たちとの差をはっきり見せつけた。 後半登場のウンサンは、最初、囁くような歌唱からスタートし、徐々に声を張る楽曲へと移行していくなど、うまくステージを盛り上げていた。特に「ソングフォーユー」などで実力を発揮。今日のために来日し、明日はもう帰国とのことで、ジャズ稼業は日々旅ガラスである。 大きくもない小屋で且つ満員でもない。後ろの席は招待の前座高校生たちが占める。演奏者はとんぼ返り。私が営業のことを心配するのはおかしいけれど、総勢かなりになる出演者、足代宿泊代も大変だろうし、ジャズはやっぱり儲かりそうもないなあ。
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金沢の街角あちらこちらでジャズを楽しむこのイベント、今年三回目。あいにく初日と最終日が雨にたたられ、中止や変更が多く出たが、精力的に聴きにまわった。 行った会場は「香林坊にぎわい広場」「赤羽交流ホール」「金沢駅もてなしドーム」「しいのき迎賓館後ろ広場」「香林坊109前」「柿木畠ポケットパーク」「竪町ストリートステージ」。以下、印象に残ったことなど。 今年特に感じたのは女性の活躍。同志社大「WESrhythm」は、グループ名通りギターがメイン。そのギター奏者が可愛い女の子で、ウエスの代表曲「フルハウス」をノリよく弾いて楽しかった。「あきは・みさきバンド」もサックスとドラムが女の子。サックスはパワーある吹奏で線の細さを感じない。高校出たばかりという。 ボーカルにいたっては、韓国からの「NaOMiカルテット」、「堀夏奈子&後藤洋子トリオ」「篠崎アヤ&ストリングス」「Etsuko&TheWholeTones」と女性陣のオンパレード。堀は一か月前の七尾のジャズ・フェスに続いて聞いたことになる。続く篠崎の豪華ストリング・カルテット伴奏付きは、昨年の松風閣コンサートと同じコンセプト。「あたなはしっかり私のもの」の スローなテンポと弦の動きを聞くと、すぐダイアナ・クラールのコピーと判る。歌唱後ネタを明かし、CDを聴きながらの採譜が大変だったと苦労話があった。今夏、急に地元ジャズクラブのオーナーになったそうな。ラウンジ感たっぷりの歌いぶり。 もちろん、学生ビックバンドも女性だらけ。「国立音大ニュータイド」は集客力抜群。以前よりオーソドックスな選曲だが、実力はやはりピカイチ。香林坊と金沢駅とで二回聴いたのは東工大のラテン・バンド。明るくご陽気、ティンバレス(これも女性奏者)やコンガが大活躍で、元気一杯にラテン曲を聴かせる。今年一番の注目株だった。テキーラ! 社会人ビッグバンドでは、「マンディダラー・ジャズオーケストラ」「フィールドハラー・ジャズオーケストラ」、「塩村宰&プレスティジジャズオーケストラ」「金津ジャズクラブ」「ピラミッド」を聴いた。 「マンディ〜」はサックス・セクションが十七名と肥大化していたが、きっちり揃っていた。ただ、サックスが音を出している時と休止している時の差が激しく、少々バランスが悪かった。大迫力の「マンテカ」が楽しい。「フィールド〜」は富山のバンド、お声で、リーダーは北陸のミニFM局ネットで毎週ジャズ番組をやっていた人だと気づいた。ベテランが多く、合奏にパワーはなかったが、各人のソロはさすが。反対に「プレスティジ〜」はパワー全開、トランペットはハイノート連発といったノリ。非ジャズ曲を変態アレンジで聴かせた。今年のトリを務めた「ピラミッド」は、こうして較べて聴くとよく判るが、トータルでバランスが良いバンド。アレンジ譜のデモCDに起用された理由が判る。他に、毎年登場の富山の「FLATFIVE」など数コンボを聴く。 最後に運営面での感想を箇条書きで。
1、会場毎の雨の対応は一応パンフに書いてあったが、実際にはフレキシブルに対応せざるを得なくなっていて、ある会場などは予定通り実施だが、一部バンドだけは駅前広場に移動などというように個別対応になっていた。そんな動きがHPでもよく判らず、出かける前に事務局に電話で問い合わせた(ツイッターで情報を流していたらしい。)雨対策がお粗末だったことは否めない。 2、今年すごく気になったのが、選曲のかぶり。オリジナルは控えろというお達しでもあったのだろうか、スタンダードか有名曲ばかりで、「A列車」など何度聴いたことか。同じ会場で一つ前のグループがやった曲をまたやるという事態も起こっていた。今後、毎年毎年スタンダードの羅列では飽きられてしまう。オリジナルもどんどん入れた方がよい。 3、三年連続出演のバンドが毎年同じ会場なのはいただけない。せっかく多くの街角でやっているのだから、違う場所でしたほうがよい。これもマンネリを感じた。 4、今年、何カ所かで音響マンの仕事に緻密さを欠くシーンが見られた。会場数が多く、当然、大量動員されている訳で、技量不足か人出不足か予算の関係か、なんらかの問題がありそうだ。 5、毎年数カ所の会場にあった飲食ブースが今年姿を消した。そのかわり、新規会場で飲食ができるところがあった。大人の事情ががらんでいないか。
総じて、雨に祟られ、少々盛り上がりに欠けたのは残念であったが、大いに楽しんだジャズ漬けの三日間だった。
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ここのところ、卒業していった生徒が、たくさん職場へ遊びにきて近況を報告してくれる。数ヶ月ぶりだが、懐かしい。女子はみんな茶髪になっている。異口同音に大学は楽しいという。今年は、震災の影響で入学が遅れたところもあり、色々とイレギュラーな部分もあるようだが、みんな学生生活を楽しんでいるようで、旧担任としてはその明るい顔を見るだけでうれしくなる。 都会に出て行った子には、せっかくの都会なのだから、都会生活でないと味わえない部分をしっかり吸収してくるように言う。学校と下宿の行き帰りだけになるなと。 それは、自分が当時そう心がけていたから。まだ数ヶ月なので、実際には忙しくて出来ていない子が多いようだったが、今後、いろいろなことに顔をつっこんで世界を広げるよう来る子来る子に強く言った。 西武新宿線上に居住し、高田馬場乗り換え、東西線を利用している子は、昔、短期間だが私もまったく同じルートを通学していたので、彼女の動きがすごく判って、雑談に花が咲いた。高田馬場の線路横の飲み屋街で飲んでいるだろとか、ビッグボックスの前にはリサイクルマーケットとかが出ていて、馬場でちょっと時間潰すのに便利だろとか。全然、三十五年前と変わらない。もう少し行くと古本屋街もあって、学生さんの街だから、そんなに変わらない部分も多いのだろう。 この子たちも、今は真面目に帰省しているが、来年にもなれば、帰るのがめんどくさくなり、向こうで休みを過ごすことが多くなる。私達に顔を出してくれるのも今の時期だけ。もちろん、それは正しい成長。次に会うときはどんな大人になっているだろうと思いながら、サヨナラをする。
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勤務先では文化祭で職員による芝居を毎年かけている。三つほどの出し物を順繰り上演していて、今年は岡本綺堂の「修善寺物語」。 短い期間で台詞を入れ、何とか形にする。文語調の台詞も文法的に間違いなくバッチリはいっていた上に、声もよく通り、大熱演。衣装も本格的。 台詞を聞くにつけ、生徒にはちょうどいいレベルの文語である。「やがて」は、「そのまま、すぐに」の意味でちゃんと使われていて、生きた教材だと感心していたけど、後から聞くと、何言っているのか「訳判らん」ところが結構あったらしい。 戦後も昭和三十年代くらいまでは、もっと芝居が生活の中にあった。大昔には壮士芝居なんていうのがあったし、旧制高校でもよく芝居をしたそうだ。私の子供時代ころまでは、田舎で村祭りに村人による素人芝居をするのが恒例になっているところも多かったようだ。私もたしかに観た覚えがある。所謂ドサ回りも田舎を巡っていた。金沢の人は、卯辰山のヘルスセンター大広間で、チャンバラ人情芝居を観た記憶がある人も多い。つまり、庶民のお楽しみとして芝居が大きな位置を占めていた。 子供の頃、両親が、盲目の夫と妻の役で録音劇を録っていたのを覚えている。父は本当に盲人だったから、実にぴったりの劇だった。最後に目が開く。役の名前は「お里・沢市」。大人になって、この話は有名な「壺坂霊験記」であることを知る。 今回の「修善寺物語」も、歌舞伎の大当たり芝居。定番である。面作りで世に名高い夜叉王と娘かつら、悲劇の将軍頼家の物語。芸術至上主義的なテーマを持つ。 今の職場は旧制からの学校。こんなところに伝統が残っているのだろう。芝居を観ながら、子供の頃に観た素人芝居を次々と思い出してノスタルジックな気分になった。 それにしても、私は文系の五十歳代、芝居のサークルにも入っているので、こうした出し物も少しは知っているが、素人芝居が衰退した今、安倍晴明人気で急に彼の物語に脚光が当たるというような突発的ブーム(安部人気に限っては、歴史上、何度もブームがあったそうだが)でもないかぎり、昔、大人が知っていて当たり前だった定番物語は、どんどん忘れ去られていくに違いない。
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徒然草に「九月二十日のころ」という貴人の優雅な暮らしぶりを垣間見る話があります。来客のためわざわざ焚いたとも思えないのに、お香の香りが庭に漂っているのが素晴らしいと兼好法師は感心しきり。昔の貴人は、本当に日々美的に生きていたようです。 今回は、その生活ぶりの話ではなく、「香り」という言葉の話。本文では「しめやかにうちかをり」という部分。「香り」は、歴史的仮名遣いでは「かをり」。 先日、生徒から、「かほり」と書いてあるものをかつて観たことがあるけど、どっちが正しいのですかという質問がありました。 なんていい質問。よく気がつきました。勉強としては「かをり」で覚えてね。古語辞典ではそっちになっていて「かほり」は載っていません。ただ、古くは「かほり」の用法もあって、完全に間違いとも言えないようですが……と答えました。 実は、今の人の多くは「かほり」が正しいと思っているはずです。それは、昔、「シクラメンのかほり」という曲が大ヒットしたから。小椋佳作詞作曲。布施明の歌でレコード大賞を受賞したので、当時の日本人誰でも知ってる超有名曲です。これのタイトルが「かほり」になっているから、みんな、こっちのほうが親しいのです。 でも、仮名遣いが間違っているというのは当時から一部の間では有名でした。それに、シクラメンというと紅系の色を思い浮かべる人が多く、品種によって白もあるといった、どちらかと言えばマイナーな色でした。そして、一番の問題は、そもそもシクラメンは匂いのない花であるということ。色々、謎の多い曲でした。 この中で、色の件は、取り立ててその色を特定してイメージしたのだろうから間違いでありません。常識的でないというだけのこと。それに対して、匂いの謎は特に解決したという話も聞いたことがないまま、後から、白色の品種が売れたとか、匂いをつける品種改良がされたとかなんとか歌の影響による後日談のほうが有名になってしまいました。 今回、生徒にどう説明しようかと、ネットで探したところ、実にすっきり判る話が書いてありました。要約しようかとも思いましたが、素敵な文章だったので、そのまま引用することにしました。
謎が一気に解けたのは、ネット上で小椋桂の奥さんの名前を偶然に知った時だった。何と、佳穂里さんというではないか。佳穂里なら、発音は「かおり」でも表記上では「かほり」だ。その瞬間、旧かなの間違いを指摘されても小椋桂は「極めて意図的に」これを直さないのだ、ということが分かった。 そう思って、再度「シクラメンのかほり」の歌詞を読み返してみて驚いた。名詞で「シクラメンのかほり」とは言っても、動詞で「シクラメンが香る」とはどこにも言っていないのである。1番に「真綿色したシクラメンほど清しいものはない」2番に「うす紅色のシクラメンほどまぶしいものはない」そして3番に「うす紫のシクラメンほど淋しいものはない」とあるだけだ。しかもこれらの後にはそれぞれ「出逢いの時の君のようです」「恋する時の君のようです」「後ろ姿の君のようです」とあって、シクラメンに「君」が見立てられている。つまり、この曲は自分の妻に捧げた愛の讃歌だったのだ。小椋桂にとっては妻の佳穂里さんは「シクラメンの君」であり、それならばこそ題名は「シクラメンのかほり(=佳穂里)」でなくてはいけなかった。(中略) 何で「かほり」なんだろう、シクラメンは匂わないのに、と我々はこれまで首を傾げてきた。妻と2人だけの小さな秘密を分け合って、小椋桂は背中で笑っているに違いない。愛とは秘密を共有することだから。成程、これでは題名は直らない。作者が直すはずがない。香らないシクラメンをわざわざ持って来たのが謎解きのヒントだったというわけか。(金谷武洋の『日本語に主語はいらない』第31回謎解き「シクラメンのかほり」(2004年6月)より)(注…小椋桂は小椋佳の間違い)
以上、他人の褌で文章ひとつ作ったかのようなことになりましたが、つまり、「シクラメンのかほり」は、間違っているように見えて間違っていないという話でした。彼の解釈でいくと、この「の」は、単に「の」と訳すのではなく、「〜のような」と訳すべき連体修飾格の格助詞ということになりますね。 さて、この話を生徒にする時、大きな問題があります。そもそも、生徒はこの歌を知らない。知らない歌を一所懸命語っても、どうしようもない。感心するのはおそらくパパママ世代。 ということで、口で説明するのはやめました。 (急に話が飛びますが、)タレントの「眞鍋かをり」さんは、姓は旧字の「眞」だし、名も正しい歴史的仮名遣いだし、実に古風で由緒ありげなお名前です。
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先のお休み、徳田秋声記念館にて開催中の、金沢市高岡町出身、桐生悠々の小展「徳田秋声と桐生悠々ー反骨の人」を観た。 明治二十五年(1892)、徳田秋声とともに上京、尾崎紅葉に会おうとするも門前払いをくった上、自作もコテンパンにやられるところから彼の文筆人生がスタートするところが面白い。秋声と違い法科を学び直し、後、ジャーナリストとして名を成す。 この当時の石川の言論界では、明治二十六年八月、赤羽萬次郎が「北国新聞」を創刊し、同年十一月に石橋忍月が主筆として着任、意気揚々と船出をしたことが特筆される。その忍月に認められ、彼の作品はしばしばその「北国新聞」に掲載されたという。 (ちなみに、忍月は明治三十年九月まで金沢で健筆を振う。萬次郎が病を得て亡くなったのは明治三十一年九月のこと(三十六歳の若さ)。だから、忍月が去った折は存命中だったことになる。いかなる経緯があったのか。) 桐生は後に、「新愛知」なる現在の「中日新聞」の前進の主筆もしており、金沢を二分する北国・中日両紙に深い関係を持つというのは、なかなか興味深い。もちろん、彼は「信濃毎日」での活躍が有名で、彼の真価は、特に中部地方で発揮されたことになる。 彼の反骨ぶりは、例の「関東防空大演習を嗤ふ」でとみに有名である。今回、その「信濃毎日」の紙面が展示してあったのでじっくり観たが、新聞二面目右上隅の「評論」欄にリードなしの一段タイトルで掲載されていて、思ったより地味な扱いだった。もっとセンセーショナルなのかと思っていた。おそらく桐生自身はいつものように時節評論を書いただけのつもりだったのに、軍部の逆鱗に触れて、話が大きくなっていったということなのだろう。内容はまさに正論。実際、ほとんど予言通り東京大空襲が起きている。 今回初めて知った死亡予告通知(「他山の石廃刊の辞」)も実に的確。彼の言うとおり、「戦後の一大軍粛」は確かに行われた。 世情の熱狂にもぶれることなく、世界情勢を見通していた先見性は何ともすばらしい。彼は日米開戦前に逝去しているが、生きていれば、どんな展開をみせただろう。当時、将来を見通せ得た知識人たちは彼以外にも存在した。しかし、彼らは皆、寸断され、ついに集合して力を持つことがなかった。桐生の晩年の活躍の場が個人誌というもの、断ち切られたままの孤独な戦いであったことを端的に示している。 世間が間違った方向に向かった時、反骨を貫くのは大変な覚悟と労力がいる。時勢に合わせたり黙ってやり過ごすのを処世の術と心得ている似非知識人の多かった中で、その直截な拒否ぶりは清々しく、彼は真の意味でインテリであった。 彼が死んで七十年(ということは日米開戦七十周年)。命日は奇しくも今日九月十日である。
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この商売、八月末からは、恒例、読書感想文三昧。百二十人分。対象を名作に限定したら、太宰・芥川のオンパレード。教科書に載っていたり短編だったり。いかに読む労力省いて書くかが至上命題の文章。 さて、今年気がついたことは以下の如し。 「ハブられる」という表現があって、意味が判らない。ネット検索でこの言葉を入れてみると「村八分にされること」とある。「葬(はぶ)る」から来た言葉らしい(一説に「省く」)。由緒正しい古語から来ている言葉ではないか。でも、それなら、平仮名で書かないと判らない。沖縄のハブのことかと思いましたよ。 作者に敬語を用いたものがあった。まだそれならいいが、主人公に敬語を使うものも現れた。過剰敬語が常態になって、ちょっと改まった口語で書かねばならないから、敬語を使わなきゃということになったのだろう。つまり「読書感想文を書く=改まって書かねばならない=敬語をつけよう」の流れ。 他に、WEBサイト「青空文庫」で読んで書いたというのが出てきた。これは違反ではない。時代である。 総じて、手抜きで書いたもののレベルが悲惨なことになってきた。あらすじのみなど。手抜きでも、もう少しなんとかならないかなあ。イヤイヤでも、どこかでちょこっと「藝」があるものは救われるんだけど。 ここから受験レベルまで引き上げるのは容易なことではありませぬ。
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録画機を買って以来、まとめ視聴生活となった。 「キューポラの街」。NHK-BSでやっていた映画。録画したままになっていたのを、ようやくお盆に視聴。文章化に手間取り今頃ご報告。 当時の絶対的アイドル、吉永小百合が主演とて、団塊の世代の男性、ほとんどが観ているはず。吉永の話になると目がキラキラする六十歳代男性を私は知っている。 鋳物の溶鉱炉の街、川口市が舞台ということだから、ちょっと社会性を加えた青春映画かしらんと思っていたら、ちょっとどころか、まったくもって硬派な社会派映画であった。脚本に今村昌平が名を連ねる。 監督はこの映画に、貧困層の生活と当時の社会の雰囲気を封じ込めようとあれやこれや努力している。時あたかも高度成長経済にのろうとしていた時期で、現実の日本はもっと明るく前途洋々で、右肩上がり成長を信じていた時代。そうした外の明るさは、背景としてちらちら出てくる。例えば、ラストに植木等の唄がかすかに流れるのが象徴的。 にもかかわらず、そうした恩恵を大きく受けることなく、旧来の技術と職人気質で生きようとする家長の下、苦労する家族を描いていく。日本はここに描かれるような世界から脱却しつつあると思い込んではいけないと監督は楔を打ちたかったのだろう。 修学旅行に行かないなど自分の置かれた状況に悩む主人公と北朝鮮に帰る女生徒は、別れの時、もっと話をしたかったとお互い親近感を表明する。将来が見えないという点で二人は似ていると感じていたのである。この北朝鮮帰国の挿話も当時の世間が思い込んでいた通り、当然のこととして描かれる。確かに、あの頃、あの国は新しい希望の国として映っていたのだった。映画中、最も時代を感じさせるところ。同様に労働組合が救世主のごとく好意的に描かれているのもこの時代らしい。今観ると、日本も世界も、当時の原作者・脚本・監督が思い描いていた未来とは全然かけ離れた事態になっているのを実感する。 ここに出てくる直接的な貧困は、今は改善され、よくなった部分もたくさんあるが、別の形の貧困が不景気とともに進入して新たな貧困層が形成されつつあり、潜在的になっている分、事態はこの映画より複雑で深刻だともいえる。 「アイドル主演の映画がこんなに社会告発的なんだから、あのころ青春だった世代が、あの世代になったのはよく判る。」と愚妻は感想を述べていた。団塊の世代を形作った人たちのベーシックな社会観は、まさにこういうものだったはずである(もちろん、以後の彼ら個々の変節の有無は、この際、問わない。)下の世代の我々は、多少の勉強感覚でこれを観、結果、多少の共感と多少の違和感を覚えたといったところ。 最後になったが、もちろん、純粋にアイドル映画としてもよく出来ている。吉永は実にチャーミング。途中、自宅でスカートを脱いで着替えをするシーンと、不良に襲われそうになり下着で押さえつけられるシーンは、今で言う「サービス・カット」の部類で、当時のウブな男の子たちはさぞドキドキしたことだろう。そう思えて微笑ましかった。 端役だが、利発そうな女の子が出ていた。顔立ちからすぐに判った。岡田可愛である。あの「サインはV」の主役。水戸黄門のイメージの強い東野さんはじめ、懐かしいメンバーが沢山出ていて、この時代があって、次の我々テレビ全盛世代があるのだとも感じた。 もう一つの溜め撮り、NHK-BS「スターウォーズ・クローンウォーズ」(シーズン3)をまとめて視聴(二十二話)。映画のエピソード2と3の間のサイドストーリーといった位置づけで、最初、独特のアニメのタッチがなじめなかったが、途中から、違和感がなくなった。少しずつダークサイドに引きつけられるアナキン・スカイウォーカーがうまく描かれる。このアニメだけの女性キャラクター、ジェダイ見習いパダワンのアソーカも大活躍。すでに映画で豊かな背景やキャラクターがあるので、それらを自由自在に使って話を膨らませていて、実によくできた三十分一話のアニメシリーズに仕上がっている。
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お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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