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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2011年10月31日
  シンプル・断捨離でいいのか
 シンプルがいいと何度かこの日記で発言しているが、最近、それと反対のことも感じているので、一言。
 世の中、シンプルな生活を是とする文化になってかなりたつ。例えば服。ここ十数年、装飾の少ない単色・無地系が主流だった。我々年寄りには判りやすいので嫌な気持ちはぜず、良い傾向と思っていた。ユニクロ、無印良品などがその服飾文化の担い手で、両社が興隆したあたりの時期にこのシンプル文化は定着したように思う。住まいもゴチャゴチャを嫌い、「捨てろ捨てろ」路線。住宅雑誌は何も物のないすっきりとした室内を撮したものばかり。
 でも、それだけでいいのだろうか。シンプルは判りやすい世界だが、ある意味、袋小路的な行き止まりの世界ではないのか。多様化を拒絶する世界と言っていいかもしれない。むしろ、それ以外の加飾的世界のほうが無限の可能性が広がっているのではないか。
 例えば、金沢の伝統工藝。九谷焼にしろ輪島塗にしろ加賀友禅にしろ緻密な装飾が加えられることが多い。それらは繊細な手仕事の美しさを味わうべきもの。ところが、最近のシンプル路線で育った若者が、装飾の施された端正な手仕事ものを「趣味じゃない」の一言で片付けてしまうのを何回が続けて見聞きした。確かに趣味の問題だから四の五の言ってもはじまらないが、そう言い切って捨て去った途端、芳醇な美の世界は彼の人生の視界からははずれてしまうのではないだろうか。それでは勿体ないし、もし全体で捨て去ったら、それまで培ってきた文化自体が衰退するということでもある。
 シンプルは一つの美意識だが、それ以外に自分の嗜好がないということは、選択肢がない、世界が広がらないということでもある。日本的色使いの美しさ、文様の美など抜け落ちていくものは余りにも大きい。住まいにしても、汗牛充棟、蔵書やLPが雑然としながらも使いやすく並ぶという美しさというものもあるはず。我が実家の和洋折衷建築も、天井のモルタル細工、飾り暖炉の文様、ガラスの磨り模様、窓ガラス枠の洋風な切り方など、加飾された部分こそ見所になっている。シンプル重視思想だったらすべていらない部分である。シンプルは、複雑・雑多・多様性を許さない、沢山ある文化の中の痩せたたった一つだけの文化だという気がする。
 「捨てる技術」がだいぶ前に流行った。今は「断捨離」だという。その本はベストセラーになったらしい。この言葉が流行って、基本、未だにシンプル路線が続いているのだということを知る。
(生活面やデザイン面などをゴッチャにした曖昧な文章だが、さしあたりのメモとして掲載。)
 2011年10月30日
  買い物をしながら
 毎日スーパーで食材を購うが、今年は野菜が高い。震災の影響だろう。胡瓜が一本七十八円ではちょっと買うのを躊躇する。レタス九十八円のつられ手を伸ばしたが、「茨城県産」の表示に手が止まった。廉売なのに売れていない。
 また、いつも値札の上に「どこどこ産」と表示があるのだが、ある特売野菜には「商品に表示」とだけあって明示されていなかった。手にとってみると「栃木県産」。これも風評被害で値崩れし安売りになっていたのだろう。しかし、値札にはっきり産地を明示していないので、尚更、大丈夫かという気になってしまっているような気がした。
 原発事故以来、食べ物の安全性への心配が高まっている。新聞の放射性物質の飛散状況分布図を見ると、福島第一原発から北西へと長い帯になっている。ちょうどその先には福島市がある。あの時、水素爆発だと言い逃れたあの爆発で飛散したものが大部分で、その時の風向きが北西だったからということのようだ。あの時、アメリカはすぐに八十キロを避難区域としたが、日本は狭い範囲しか指定しなかった。外れた地域でも北西地域にはかなりの量の放射性物質が降り注いだはずで、単純にコンパスをまわしただけの区切りではマズイことくらいは素人でも判る。消費者は、のりしろを多くとってあのあたり一帯の食材には手を出さない。
  遠く離れた土地以外、どこに汚染があるのか。ニュースになった千葉県柏市の例のように雨水が溜まる溝などでは首都圏でも高いレベルの放射能が検出されているし、静岡のお茶の例のように、離れていてもホットスポット的に高濃度になっていることもある。
 すべての作物や魚を調査することなどできないので、日本全国に微量の放射能が蔓延するのは避けられない。何らかの偶然で高濃度の作物を食べ続け、内部被曝で亡くなったとしても因果関係など到底証明できず、そのまま「寿命です」でかたづけられてしまうことになる。
 何を基準に何を注意しながら買えばいいのだろう。買い物をしていても、何か見えない敵に怯えながらしているような心持ちで、これまでと違う違和感を常に感じながら品物を選んでいる。多くの消費者もそういう気持ちだろう。日々の買い物なのにこころがさわさわと動く。
 2011年10月29日
  おそらく今の日本人の心情
 先進国で一番の借金国日本。その上に震災復興、原発事故長期化に伴う補償。ただでさえ、危なっかしいのに、タイの洪水による日系企業の相次ぐ操業停止。おまけに円高のマイナス面と、ここのところ、弓張り型の国土を持つ瑞穂の国は嵐の波間に弄ばれる木の葉のように暗雲の中に漂っている。 
 今はまだ大きな余波を被っていないけれど、いずれじわじわと今年起こった負の側面が日本丸を蝕んでいくような不安が我々国民の心を覆っている。日本はうまく浮上していけるのだろうか。
 年金制度はどんどん後ろ後ろへ受給年齢を上げていきそうな気配で、六十八歳、七十歳スタートの案が出ている。皆が集まると、これではせっかく掛け金かけても元が取れないね、生きてそこまで行き着けるのだろうかとこそこそと世間話をしている。その上、我々の商売の賃金大幅ダウンも取り沙汰されている。
 皆、今は我慢我慢と思っているが、我慢の度を超えると、危ない方向に突っ走るのは、先の大戦その他で経験した日本人の悪い資質。
 経済ばかりでなく、戦後の民主主義の理念はどこに行ったのだろうと暗澹となるような社会システムの硬直化も、最近、顕著になってきている。それは最近急にという訳ではなく、長い年月をかけて進行してきたものだが、今、わっと噴出してきているようで、物言えば唇寒し、もはや、これは戦前の統制社会と変わらないのではないかというような事態も遭遇するようになった。
 よく聞く話だが、日本は国際的に見て誰が決めているのか判らない国なのだそうだ。日本の全権代表が国際会議に出ても、その人が任されている訳ではなく、他の国から見ると、誰に話を持っていったらいいのか判らないという。震災後、色々決めねばならない時期である。うやむやのまま、諸事がなし崩し的に決まっていき、それが統一のないままバラバラで走り始めると、今後「船頭多くして船山に登る」状態になりかねない。
 日本の社会の暗雲を独り嘆いていても始まらないのだが、多くの日本人は重い気持ちを心に抱えたまま、だからといってどうしょうもない、自分は自分らしく淡々とやっていくしかないと思いながら生きているはずである。
 日本人はどこへ行くのだろう。「アイデンティティー・クライシス(identity crisis自己同一性の危機)」という言葉を最近知ったが、それは個人ばかりでなく、日本人という民族自体に起こっている。
 2011年10月28日
  藤原正彦の学生向け講演会を聴く

 以前、石川県社教センターで聞いて以来二度目の藤原正彦。あの時は「国家の品格」がベストセラーの真っ最中で、話の途中でも、聴衆は「我が意を得たり」と思う時には拍手をしていて、同じ信条の人達が集まった講演会という感じだった。現在はお茶の水女子大学を退官し、名誉教授の立場。読書指導のようなことをされているようだ。
 講演は、エッセイと同じく極論のような言い方をして衆目を集め、持論を展開する物言い。私自身、数冊の著書で彼の立場は知っているので、取り立てて新鮮味はなかったが、子供たちは、これまでの大人の言うこととまったく違った意見だったので興味深かったようだ。ユーモアも文章同様ところどころに発揮し、飽きさせない。スポーツについて質問した子に対して、私も学生の頃はサッカー部でして「西の釜本、東の藤原」と言われておりましたと切り出してどっと受けていた。
 「小学校で英語を教えることに国民は八〇%以上賛成しているが、とんでもない。まず国語である。週百時間あるというのなら賛成するが、週二四時間しかないのだから、英語を勉強する余地など一切無い。」とする彼の発言は、「一に国語、二に国語、三四がなくて五に算数」とする彼の立場から考えると当然の意見だが、実際に英語特区となっていてこれまで小学校から英語を学んできた金沢市内出身の子供達には、「あの時の勉強はなんだったんだ、大人は間違っていたのか。」と、結構インパクトがあったようだ。
 「美的情緒力」を強調し、すべての学問はそれが必要、日本はそうした方面は異常なほど発達した国なので、その力で日本再生どころか世界から尊敬を受けることができるというのが趣旨。
 質疑応答で、「「国家の品格」を読んだが、疑問がある。コスモポリタニズムではいけないのか。」というものがあった。しっかり読んだ上での質問で、いい質問であった。藤原は、他国のことを思いやるにはまず「家族愛・故郷愛・祖国愛」が必要で、それができて初めて世界を愛することができるのだと答えていた。
 おそらく我々世代以上には、どんなに国際的になっても、世界の単位は「国家」であるという意識がある。特に戦争を経験した世代は当然の認識。平和な時は、コスモポリタニズムでもインターナショナリズムでも問題ないし有効でもあるが、一旦緩急あれば、結局、国単位発想にさっさと戻ることを身にしみて知っているからである。以前、ライブドアのホリエモンが脚光を浴びた時、その拝金主義の背後に国家なんか重要ではないという国家軽視発想があることを感じて危惧したものだ。戦後、保守思想の増長を恐れて、国について強調しない教育をしつづけた結果、子供達は国の観念がどんどん
希薄になっていったのだろう。その結果、「国家の品格」を論ずること自体、重要ではない気がして違和感があるのだろう。そんな今の子の「常識」が背後にある質問だと思った。

 

 2011年10月27日
  小曽根真&No Name Horses「ラプソディー・イン・ブルー」公演を聞く
  またまたまた誘われてライブ。小曽根真率いるオールスターのビッグバンドを、二十五日、「本多の森ホール(旧金沢厚生年金会館大ホール)」で聴く。会場は自宅からの足の便が悪く、バスで繁華街まで行き、そこから歩いたが、既に暗い上に雨模様で寒く陰気な気持ちで到着。誘ってくれた知人をロビーで見つけてようやく落ち着いた気分が戻ってきた。
 会場は後ろ半分が空いていて、案の定、キャパシティが大きすぎた印象。金沢市文化ホールあたりが適当ではなかったか。
 第一部冒頭二曲はサド・メルやネスティコ編の曲で、オーソドックスにスイングする。次からは複雑な編曲の自作曲も入れていくという構成。ひとりひとりが一流だけにバンド全体の許容量が大きい。ソロは上手いが寄せ集めなのでアンサンブルはどうなのだろうと思っていたが、どうしてどうしてバッチリ決まっている。特にリズム隊(中村健吾(b) 高橋信之介(ds))が実に堅実で、ボトムの整然とした動きは、その印象に大きく与っている。
 一ヶ月前、ジャズストリートで多くの大学生や社会人バンドを聞いたばかりだったので、結構耳が肥えているのではと勝手に思っていたのだが、よく考えてみたら、プロのビッグバンドは、三十年ほど前、東京ユニオン、ゲイスターズ、シャープ&フラッツなど当時の有名どころ一通りを聞いて以来かもしれない。あんまり偉そうなことは言えない……。
 第二部は「ラプソディインブルー(Rhapsody in Blue)」のビックバンド編曲版一曲のみという長尺演奏。ほとんどクラシックそっくりに始まり、このままなぞって行くのかと思っていたら途中から徐々にサックスソロなども入って原曲から離れはじめ、中間部では陽気なリズムが入ったりと展開し、最後のほうはまたそれ風に戻っていくというバラエティ豊かな曲になっていた。もともとピアノコンチェルト風の曲だけに、小曽根のピアノ奏法がオーケストラタイプであることを改めて確認できた。
 その他では、トロンボーン・フィーチャー曲での中川英二郎・片岡雄三(tb)の鉄壁のアンサンブルとソロには大いに感心。巨体で目立つエリック宮城(tp)は確かに名の知れた人だが、ちょこちょこアンサンブルを休んで吹いていなかったりして少々手抜き気味であった。ソロも最後にほんの少しあっただけ。もっと聞きたかった。
 せち辛く嫌なことが多い昨今。夕食もままならず急いで会場に向かうという慌ただしさや億劫さはあるけれど、音楽で一日ささくれだった気持ちにいいビタミン剤を打ってくれるような効果を感じ、やっぱりいいねえと隣席の知人と話しあった。
 2011年10月26日
  北杜夫死去

  昨日、帰宅後のテレビで丸谷才一の文化勲章受章を知る。八十六歳とあった。映し出された彼の顔は確かにご老人。大昔、著書サイン会でお目にかかったことがある。最近も精力的に執筆されていて、時々エッセイを買っている。昔ほどのキレがないのがちょっと残念ではあるが……。
 今日の朝、北杜夫死去のニュースを聞く。八十四歳。一時期大ブームで、遠藤周作と並んで人気者であった。狐狸庵とマンボウの対談本とかいろいろ出ていて、彼の著作のほとんどを読んだ。最初読んだのは小学校高学年、「船乗りクプクプの冒険」だったような記憶がある。高校の頃は、大人も楽しめる童話「さみしい王様」が話題になっていて、確か読書感想文の課題図書になったはずである。小説では「幽霊」の瑞々しさに感激した。実質的な処女作。出版社に持ち込んだら小説は作文ではないと断られたというエピソードがある作品で、実際の出版は名が出てからのはずである。続編の「木精」は少々落ちる。マンボウものでは「青春記」や「追想記」が好きだった。
 私は「航海記」「怪盗ジバコ」など楽しい作品を読んで興味をひかれ、「楡家の人々」「夜と霧の隅で」「白きたおやかな峰」などの真面目な作品へと読み進めたし、彼の本から辻邦生や佐藤愛子、阿川弘之を知ったりと読書が広がっていったので、狐狸庵とマンボウは私の読書の根っこのような人たちである。
 最近はほとんど作品を書いておらず、阿川弘之との対談本でも、もうダメと愚痴る北に年上の阿川のほうが叱咤激励していた。
 遠藤周作は一九九六年に七十三歳で没。もう亡くなって十五年もたつ。生きていれば今年八十八歳でる。今頃、あの世で二人楽しい対談をしていることだろう。さようなら北さん。
 あの頃活躍していた人たちがどんどんいなくなって淋しいかぎり。合掌。

 

(追記)
  27日(木)、「北陸中日新聞」の「中日春秋」に追悼文が載っていた。コラム子もまったく私と同じルートで純文学作品を読むようになったと記している。そんな子供たちは当時多かったに違いない。このコラム子は間違いなく同世代。昔、新聞の花形、コラムを書いている人はずっと大人だと思っていた。今は同世代の人が書いていることに多少の感慨があった。

 2011年10月25日
  村上春樹「おおきなかぶ、むずかしいアボガド」(マガジンハウス)を読む
 副題に「村上ラヂオ2」とあるように、二十歳代女性向け雑誌「アンアン」に十年ぶりに連載されたエッセイの単行本化。テイストは前作と変わらず。前のが好印象だったので、新刊で購入。あまり多作ではない彼の肩の凝らないエッセイは好みである。
 この人の文章は一言でいうと「のんしゃらん」。読みやすい文章だが、反面、批判されかねない部分は神経質なほどそうならないよう配慮した「韜晦」の態度で書いている。その点、如何にも現代的。態度を極力はっきりさせないようにして、ここぞというところだけは自分はこう思うと書いてある。現代で万人向けに書こうとするとこうなっていくのだろう。ポーズとしては気楽に書いている風だが、配慮感をひしひしと感じる文章である。
 ひとつのことを書いて、最後に「ま、いっか」とか、言わずもがなの余分な一言がくっついていて、そこでユーモアを醸し出す。そもそも三十年以上前の出世作「風の歌を聴け」(河出書房新社)からしてノンシャラン。彼の持ち味ですね。
 前回と同じように挿絵は大橋歩。しおりも専用(装丁葛西薫)のがつく。大橋の個人誌「アルネ」(一〇号)の村上春樹訪問記も久しぶりに再読。彼の家の階段には大橋の前作の挿絵が段々上がりで飾ってあった。今もそうなのだろうか?
 2011年10月24日
  文具本を読む
 土橋正「文具の流儀」(東京書籍)を読む。副題に「ロングセラーとなりえた哲学」とある。「マッキー」とか「ユニ鉛筆」とか誰でも知っている定番文房具はどうしてロングセラーとなったのかを、社長や開発者にインタビューしてまとめたもの。有名で聞いたことがある話も混じる(「ポスト・イット」など)。読み進めると、時々読んでいる文具ブログを運営している人であるとことに気づく。取り上げられた製品の中には、定番ロングセラー製品かと首をひねる選択も少々ある。腰帯などでは「ものづくり哲学」の視点を強調しているが、むしろ開発秘話的な部分が読んでいて楽しい。
 ここのところ、文具ムックが次々に発売されていて、静かなブームというより目立ったブームになってきている。買ったのはいつもの「趣味の文具箱」二十号の他、「大人の文房具」(晋遊舎)、「すごい文具リターンズ」(KKベストセラーズ)。「すごい〜」はコンビニ雑誌コーナーに置いてあって如何にもブームらしい。いずれも楽しく見た。
 文具趣味の方のブログによると、中には知っている情報ばかりで出来上がっている本も多いそうで、文具に関して素人の編集者が、急遽ネットで情報を蒐集して寄せ集め記事にしたものらしい。ネットで蒐集できるレベルのものは、さっさとこちらで蒐集できてしまう。書籍がネットに頼って後塵を拝しているようでは、書籍を買わなくなるのは必然的帰結である。
 ハードルは年々高くなっているが、生き残るのは、ネットに頼らない情報や企画を載せている本のほうに決まっている。どうやら雑誌編集も今や大学生の手抜きレポートのようになっているみたいで、それが何とも今の世らしくて「なあるほど」という感じであった。
 2011年10月23日
   DVD「パッテンライ〜南の島の水ものがたり」を観る
  北国新聞社が主導して二〇〇八年製作された八田與一のアニメ。タイトルは「八田が来た」の現地発音。以前、二〇〇七年に劇団昴公演「台湾の大地を潤した男ー八田與一の生涯ー」(松田章一脚本)を金沢厚生年金会館で観ている(2007年07月03日日記参照)。
 彼が台湾の土を嘗めるところからスタート。最初から土木を任されたリーダーシップのある強い指導者として描かれている。物語の中心は日本と台湾の男の子二人。想定視聴者の年齢を考慮しての筋書きである。隣に住む沖縄血筋の女の子を絡めての友情と成長の物語である。
 松田の芝居に較べ、現地人の反発や彼の公平な人種観がしっかり描かれて自然な流れ。最後に実際の墓前祭などの映像が流れる。
 地元金沢が生んだ偉人の業績を勉強できてお話としても飽きさせないように工夫された、よく出来た学習アニメであった。もちろん、子供向け。虫プロの作画。DVDには「夢をあきらめるな」というガイドブックがつくが、これはなかなか為になる。
 2011年10月22日
  「改めさせていただきます」
  留守電に営業トークが入っていた。「お留守のようですので、改めさせていただきます。」なんだか家のあら探しでもするのではないかとびっくりした。車掌さんが「切符を改めさせていただきます」といったら「確認する・調べる」ということ。留守中にアンタの家を調査するぞと脅かされているようなものである。或いは会社側で何か「改善」したのかもしれない。
 おそらく今風の営業言葉だったら「改めてお電話させていただきます」というところ。それをはっしょった上に、それでも敬語を使おうとした結果こんな訳のわからない言葉になった。普通の言い方は「改めてお電話いたします」。「いたします」で充分。れっきとした丁寧語である。
 今の世、丁寧語「です・ます・ございます」が敬語として弱く感じられるようになって、どんどん「させていただく」がのさばった。それでももの足りなくなると、人々は既成の言葉から新しい敬意をあらわす言葉を発明しはじめた。それが、この言い方になったのではないか。何千回も電話しないといけないので、敬意を残しつつ手抜き・短縮があるのが、今回の特色。
 以前、飲食店で経験して取り上げた「御新規様ご来店です。」の「御新規様」も、そうした発明敬語ではないか。これなど、「今までと違って新しいこと」(「広辞苑」)という意味ではなく、「今まさにお店に入店なさった」という意味の敬語として、新たに意味を付与された「最上のつもり敬語」と考えれば合点がいく。
 2011年10月18日
  弓道写真
 部の合宿練習の際は大抵一眼レフを持っていく。大会の時には悠長に写真などは撮っておられない。合宿の時に各々写真を撮って、良い感じに写っているものは焼いて本人に渡す。望遠でぐっと寄って撮すからかなり大きく写り、皆、なかなか精悍でいい感じになる。ピース写真はあっても自分が真剣に打ち込んでいる様子を自分が主役で写っている写真はそうないもの。部員からも大好評(のはず)。それと集合記念写真。これも欠かさず撮る。全員で撮る写真は年数回。1年たつとメンバーが交替り、並べて観ると月日の早さを実感する。
 問題は、切り取る画がマンネリなこと。終日道場にいて、写真になりそうなシーンは取り尽くした感がある。被写体は変わるからそれでも毎回撮るが、芸術的には行き詰まっている。何かいい打開手段はないかしらん?
 2011年10月17日
  負ける練習

 弓道合宿で一泊二日した次の日、柔道の授業を見学した。同じ武道なので、その類似・相違などを興味深く観察。
  どうやら柔道教育とは、美しく安全に「負ける」ことを教えるものらしい。受け身を含め、やられた時の身の処し方を時間をかけて練習する。この「負けるため」というところが大事なポイントであるように思った。投げも「相手に痛くないようにかけること」と指導している。これは相手のことを思った技であるべきだということである。
 技のかけ合いというのは、かけるほうもかけられるほうも、一定の型の枠組みの中で整然と行われるもの、つまり、共通の経験の組み合わせによる暗黙の了解事項による決まった動き、或いは、お作法の集成とでもいうべきものらしい。こっちの弓道は、お作法の権化みたいなもので、それは相手が人ではなく動かない的だからだが、相手が動いて常に突発的に状況が変わる柔道も、結局は広義の「お作法」の集成なのだというところが面白い発見であった。
 大昔、私は格技として剣道を選択した。冬稽古というのがあって、真冬の早朝、体育館で剣道部部員に混じって、授業として選んだだけの我々素人メンバーも竹刀を振った。小柄な女性部員と対戦し、上から手を伸ばせば面が簡単に打てそうだと竹刀を振り下ろした途端、コテをやられた。以後、ポンポンとコテをあてられ、コテを狙うと今度は面を取られて、もうボロボロだった。体格に勝っても隙だらけではお話にならない。
 技をしかける時にはしっかり相手を引きつけろと柔道教師は指導していたが、何かそんなコツがあったのだろう。しかし、当時は全然判らずじまいで一年間が終わった。きっと格技の単位は下の方でもらったのだと思う。今の目で剣道を見たらどう思うだろう。柔道同様、何か新しい発見があるだろうか。
 白い道着を着て、畳の上で飛んだりはねたりしている目の前の子供たちを一時間近く見ながら、私にはもうできない動きばかりだと思って、少しうらやましくなった。弓道を見ている時には全然感じない感覚である。

 

 2011年10月16日
  食の世代論

 弓道合宿一泊二日。一日目の練習が終わり、宿舎に向かう途中、バスはコンビニに寄った。そこで買ったお菓子を食べている部員がいたので、夕食前にお菓子を食べるなんて、私らの世代は怒られたものだが、親に怒られないのかと尋ねたところ、一部の子は、「夕方はお腹すくので、六時半には夕飯を食べたいのだけど、出来上がるのが八時になるので、つなぎに間食をしたらいいと親の方が勧める。」ということだった。
  おそらく共稼ぎなのだろう。仕事をしていればさっさとは帰れない。職場を出、買い物をし、料理を作る。それで六時半一家団欒という訳にはどう考えたっていかない。現代の「食」事情がほの見えて興味深かった。
 今春、久米宏司会の食の崩壊を特集する番組を見た。若者のひどい食生活の話かと思ったら、焦点があたっていたのは今老年となっている世代。一種の世代論だった。
 今世間を引退して余生を送っている世代は、戦中、子供で食不足に直面し、まともな料理を味わっていない。だから本当の「お袋の味」を知らない世代、お袋の味が断絶してしまっている世代なのだという。彼女らは女性の社会進出第一号であり、若い頃はオフィス・ガールなど働く女性として過ごした経験を持つ。日本の経済状況が良くなるにつれ、冷凍が出て、レトルトが出て、という食革命の中、自分でそうした食材をアレンジして自分の料理、自分の味を決めていった。この世代は、だから料理は自分が編み出すもので、子供に自分の味を押しつけるのは間違っていると思っている。その結果、子供世代は母親の料理を伝承しておらず、かといって自分の味も確立していない。今五十代のいい歳の女性たちは、本来ならベテランになっていなければならないのだが、未だに料理に関しては母親のパラサイトのままである。その結果、当然、自分の子世代にも伝えるべきお袋の味をもっておらず、未だに自分の親、つまり祖母の手料理に依存しているという分析であった。今の食崩壊の遠因はあの戦争による断絶にあるという趣旨。
 こうした次の世代に「教えることの喪失」の上に、男女同権による家庭生活維持主体の曖昧化、冒頭の物理的時間確保の難しさが加わって、食を取り巻く環境は、もう誰の目にも安定を著しく欠いているのは明らかである。
 漱石は明治の文明摂取の早急さを懸念しつつも、どうしようもないこととして、無理して病気にならないようにやっていくしかないと曖昧な結論を下すしかなかったが、この話も、各家庭ごとに、病気にならないよう、あんじょう考え、上手にやっていくしか方法はないのかもしれない。

(あまりに納得できる世代論だったので、ほとんどその紹介となりました。ご容赦。)

 2011年10月10日
  秋の生活
 今日は晴れの特異日。やはり好天。
 今年はお盆過ぎに暑さが一旦おさまったかと思ったが、九月をかなり過ぎても暑い日があって、すんなりと秋にならなかった。九月の連休には、真夏日並の暑さの次の日に十数度も下がった日もあり、いつもは秋と言えばすごしやすいはずなのに、何だか、今年は体調管理に苦心するような秋になっている。それでも、さすがに今は秋の真っ直中という感じである。
 一週間ほど前、仕事場まで金木犀の香りが漂っていたが、今はもうパタリとしなくなって、職場のどこにあの木があって、あの小さな粒々の花をつけているのか確かめたいと思っていたことなども後になってちらりと思い出すといった塩梅で、職場と家を往復している我が身、何も変わらぬこちらの生活とは無関係に、季節のほうが自分のすることをしてさっさと足早に通り過ぎようとしているといった感じを受ける。
 芝居、音楽会と鑑賞ものが若干生活に変化をつけているが、若い頃と違って、一日仕事をすると、もう疲れが出て、最低限しなければならないことをして眠る毎日。そうした生活は書かずもがな。書くのは何らかのイベント感想というような日記が続いている。
 「便りの無いのはよい便り」。ご容赦のほどを。
 2011年10月09日
  一瞬、迷子
 九月の三連休中、近江町市場を通った。地下のトイレに入ったので、その横の階段から上に出たが、東西南北が判らなくなって、一瞬、ラビリンス感覚を味わうこととなった。新しく建った区画のところだったということも関係がある。見知った四つ辻を見つけて、ようやく頭の地図と照らし合わせ、方向が定まった。ほんのしばらくのことだったけれど、眼前の風景が見知らぬもののように映り、ちょっと焦った。
 市場のアーケードを抜け、パーキング横で愚妻運転の迎えの車を待っていると、観光バスの団体が、配られた市場の地図片手にぞくぞくと下りてくる。「○時○○分バス集合です。迷子にならないように。」と添乗員さんが大声で指示している。実際、迷大人(?)も多いのだろう。確かにここでは地図がいる。自分が迷ったばかりだったので断言できる(笑)。
 そういえば、子供の頃、ここに連れられて来る毎に、しっかり付いてくるよう、親に口酸っぱく言われたことを思い出した。幼い私の方も、ここで迷子になったら大変だと思って必死についていったものだ。ちょっと見失ってプチ迷子になったことがあったような、いや無いような……。
 小さい時、親を見失なったり、置いてきぼりを喰わされたりして、一人ぼっちだと感じた時の、あのわっと膨れあがる不安の感情の記憶が、大人になっても残っている人も多いのではないか。
 当時、近江町市場は丸越デパートに買い物に行った帰りに寄ることが多かった。生ものだから買い物の最後にまわる。子供はデパートのお子様ランチだけを楽しみにしていたから、ここは正直そんなに面白くなかった。それはそうだ、子供は日々の食材調達に興味はない。もう目的は済んだ、早く帰りたいなあと思いながら、手を引かれ人の波をかき分けながら通路を進んでいたのだろう。最後に、バス停のある呉服店横の出口(今の名鉄エムザ口?)から出て、バスで帰った。なかなかバスが来なくて結構待ったことも覚えている。 
 あれから五十年近く。市場の店並みはそう変わっていない。そんな中、私だけが大人になって同じ場所を歩いているかのような感覚がふと湧いた。迷子になりかかったからこその感覚。時々そんな周りが止まっていてこちらだけが年をとるかのような錯覚を覚える。私は高齢になっても、何も変わらずここを歩き、いずれ私だけがふっと消えてなくなる。そんな空想。
 それにしても迷子だなんて、いい歳をしてあの頃とあんまり変わっていないなあ。
 2011年10月08日
   角偉三郎を知る

 先日、NHK「日曜美術館」の角偉三郎特集が「石川アーカイブス」としてローカルで再放送された。浜美枝と県立美術館島崎館長の後解説入り。
 今夏、パテシエ辻口氏の店の二階にある彼の美術館を見学したばかり。展示だけでは「ワイルドな作風」くらいしか判らなかったので、この特集とお二人の解説で彼の全貌を知ることができて有益だった。
 雑器として低く見られていた合鹿椀を輪島塗の古い形として再認識し、手で直接塗るなど独自の手法で、艶やかで美しいだけの塗り物から脱却、独自の世界を構築した作家。従来の塗りの世界から見たら真逆の発想で、古い体質の輪島塗りの世界では異端児であったろうことは容易に想像できた。
 芸術家としての考え方は番組でよく理解できたが、われわれ(受容者・購入者・使用者・鑑賞者)側から見ても、彼の芸術がいずれ受け入れられる素地は整っていたように思ったので、そちらの方面で少し感想を書く。
 人工樹脂の発達により、漆器の芯材にプラスチックなど人工樹脂が用いられるようになって久しい。叩くとほぼ判るものの、素人には判断のつかないものもある。あまりに形が正確で艶やかだとなおさら判らなくなる。角は木地師に依頼し、わざわざ粗目をかけて、表面に木らしい風合いを残す。そのことにより、我々は直接目に触れてその芯材の木質と対話することが出来る。現代人にはこれがいいと感じる。また、漆液の垂れなど恐れもせず、大胆に漆をかけることで、我々はダイナミズム溢れる芸術性をも感ずることができる。
 その上、合鹿椀とは、大胆に言うなれば、立派な高台を持つ中ぐらいの丼のことである。昔はご飯椀はご飯椀、汁椀は汁椀、丼飯のようにご飯の上に具材を載せるような食事は下賤なものと蔑まれた。また、汁物椀としては大きすぎて、膳のセットからは外れる。田舎の野趣溢れる煮込みものなどを入れる入れ物としてはちょうどよい大きさだが、こうしたお行儀意識からすると人前で公式に戴く種類の器ではない。合鹿椀が長く雑器扱いされたのも当時の食事の考え方を考えれば当然のことのように思われる。
 しかし、今や丼飯をはしたない食べ方として否定する人はほとんどいないし、そういう考えがあったことさえ今の若者は知らない。中型の椀は、丼物や豚汁などをざっくり戴くのにちょうどいい大きさ、といった感覚だろう。実際、我が家は陶磁の小型の丼を重宝してよく使っている。今はそんな食生活の時代である。
 こうして、我々は、角の求めていた椀を、図らずも求めていたのではなかったか。身も蓋もない分析だが、私はそう思えてならなかった。
 いずれにしろ、角偉三郎美術館の壁の穴に椀が並んでいるような今の展示は、芸術作品の展示方法としてあまりいい結果を生んでいないように思われる。説明が不足していて彼の特色や変遷がさっぱり判らないし(事実、私はふーんとただ一巡しただけだった)、中央に営業然とした一画があって作品を押しのけているかのように見えるのも印象を悪くしている。テレビの方が良かったでは館自体の存在意義がない。

 

 2011年10月04日
  「アローン・アゲイン」を生で聴く

 TOTOに続き、誘われてギルバート・オサリバン金沢公演を聴く。於金沢市文化ホール。他の日本公演はクラブ・ギグで、ホール会場は金沢のみ。埋まるか怪しいと思っていたが、案の定、席は六分の入り。ここのところの外タレ・ラッシュの中、この料金では仕方がない。

 聴衆の年齢層はTOTOの時より更に高い。それは、ヒットした年が十年近く早く、出世作「ヒムセルフ(Himself)〜ギルバート・オサリバンの肖像』(LP)は一九七一年の発売だから当然。私は前日に貸してもらった彼の赤い色のベスト盤(CD)で予習して臨んだ。
 バックバンドは、ギター・ドラム・ドラム・キーボードの他に管・打楽器担当を加えた五人編成とシンプル。顔ぶれは白髪・禿頭のオジサンたち。もともと、同じような曲調の多い彼だけに、サウンド的にも単調になるのではないかと危惧したが、このベテラン・メンバーが要所要所にコーラスを入れたり、楽器を持ち替えたりして飽きさせないように工夫されていた。曲も、ブルーグラス・マリアッチ調あり、矢沢永吉ばりの泥臭いロック調ありと変化をもたせていて、それは一定の成果を上げていた。
 ただ、やはりギルバートのキーボードがリズムを提示し、単一のリフに乗ってメロディが展開するパターンばかりで、「アローン・アゲイン」のリズムパターンのバリエーションように思えた曲が何曲もあって、やはり単調になりがちだったのは否めない。
 しかし、彼の書くメロディは判りやすく、一番を聴いたら二番以下がすぐに口ずさめるものばかり。アドリブの要素がまったくないので、ジャズ耳の私にはスリリングさに欠けて退屈するのではと危惧していたが、この美しく愛らしいメロディを連続して聴いていると、曲のよさ自体がじんわりと伝わってきて、ジャズと違った音楽の楽しさを味わうことができた。
 ただ、英語の歌詞の世界が全然判らないので、歌詞が提出するイメージはどんなだろうと歯がゆさを感じた。おそらく彼の音楽を聴く楽しみは半分になっていると思う。シンガー・ソングライターだけに尚更である。帰宅後、「アローン・アゲイン」の訳詞を読んでみたが、タイトル通り暗い歌だった。
 おしゃべりがほとんどなく、曲を次から次へと演奏していくだけなので、その点、聴衆とのコミュニケーション不足を感じて物足りないと思った知人もいたようだが、もともとシャイな人である。最後の、ロックばりに椅子の上に乗ってマイクスタンドを振り上げる派手なパフォーマンスなどの方が、彼精一杯のサービスの部類であったろう。カントリー調の曲も多かったので、全体的に、古いあちらの流行歌の歌い手が、バンド引き連れ田舎巡業しているといったイメージがあった。キーボードの調子が悪いのか、時々、キーボードをぶっ叩いていたのもそんな感じを助長させていた。
 彼がヒットを連発したのは七〇年代半ばころまで。「アローン・アゲイン」は七二、三年。あれからすでに四十年近くの歳月が経過している。声も多少ざらついてしまっているが、これも仕方がない。もう彼は六十五歳なのだから。
 あの頃を共有していない人はあまり面白くなかったと言っていたが、同時代人にとっては、あちらこちらに七〇年代の匂いを感じて懐かしく、特に前列に陣取っていた人達は大いに楽しんでいたようだった。
 誘われなかったらおそらく行かなかったコンサート。でも、行ったら行ったで楽しかった。あの頃、毎週毎週洋楽ベストテンの順位当てをしていた友人連中の顔を思い出しながら「クレア」や「ゲットダウン」などお馴染みの曲を聴いていた。 

 2011年10月03日
  イッツフォーリーズ公演「天切り松ー人情闇がたりー」(第292回例会)を観る

 イッツフォーリーズがベテランのコメディアン左とん平をメインに迎えてミュージカル仕立てにした人情芝居。天井を切って押し入るのが得意技の泥棒松蔵が留置場で昔を語る形の四話オムニバス。老いた松蔵を演ずるのがとん平で狂言回し役。若い小僧時代を演じるのはボーイッシュな女優さん(金村瞳)であった。一話ごとにスポットがあたる役者が違っていて、御年七十四歳の左は、主役には違いないが、出ずっぱりにならないよう配慮されている(脚本・水谷龍二、演出・鵜山仁)。
 清水の小政が大正時代に現れて旧弊な仁義を切り、仁義を知らぬ成り上がりヤクザを叩き斬る第一話、下宿屋の危機を救おうと貴人を装い大銀行から現金を巻き上げる第二話、夫が戦没した貧乏暮らしの母子家庭を救うため、陸軍大臣宅に押し入る説教強盗の第三話、自分が売った形になり今は網走に留置中の大親分の元に謝罪に行く松蔵の親分の話、第四話。二話終了時に休憩の、結構、長尺の芝居であった。
 ここに出てくる人たちは、全員、世には日陰のやくざ者ながら、強きを挫き弱きを助ける「義」をつき通して清々しい。久しぶりに任侠の精神を見たような思いであった。原作者は浅田次郎、得意の人情話である。ただ、一緒にこれを観た愚妻は、どんなに恰好をつけても結局はヤクザ者の集まりで、私は全然思いいれが出来なかったとバッサリ否定。
 芝居は「俺たちは天使じゃない」のフォーリーズらしい舞台転換、役者の立ち位置、歌いぶり。それまで仁義を切っていた股旅者が急に西洋風に歌い出す違和感は、この場合、我慢しないといけない。
 カーテンコール、左らしい毒舌を交えた楽しい役者紹介があった。今日は百六十九回目の公演という。もう二十年はやりたいとのこと。
 今回、運営サークルとなっていて、ステージ解体作業を手伝った。十年ぶりくらいである。といっても、腰痛持ちではあまり役に立たない。会員のほとんどが高齢なので、当然、他の集まった人たちもお年寄りの方ばかり。解体の裏方さんは実にそのあたり心得ていて、無理をさせないよう、事故が起こらないよう、注意深く指示を出していた。一人で持てそうな角材も二人で。みんな並んで幕をロール巻き。
 それでも重たいものも多い。「男性四人来てください」と言われて、動かすものを見ると、結構重量級で、私には持てそうもなく、パス。次のお声がけを待っていると、今度は「女性の方」と言われる。仕事はモップ掛け。私でも出来るのに、「女性」と限定されるとノコノコ出て行きにくく、どうしようか迷った。
 うーん、性別で言われると困るなあ。これでは、重たい物持てなくなると男性でなくなるようで、少しめげたかも……。
 最後に、作業していた役者数人より自己紹介と謝辞、出演芝居の宣伝があり、お人柄に触れて解散となる。そうしたちょっとした心遣いで、(全然、私は役に立たなかったけれど)気持ちよく仕事を終わることが出来た。(2011・9・30)
 

 

 2011年10月02日
  お彼岸の法要
 先だっての三連休はお彼岸だった。亡父の縁で、市内真宗本願寺派寺院の法要に出席する。ここは巣鴨プリズンの教誨師花山信勝師ゆかりの寺で、聖堂地下にはA級戦犯関連の資料がいくつか保存されている。何度か拝見したことがあるが、死刑の直前七名が名を連署した絶筆や、死に酒として振る舞われたワインのボトルもまだ少し液が残ったままの状態で陳列されている。
 連署を見ると、手錠をはめられたままで書いたため、多生筆跡に乱れがあるのが興味深い。中で板垣征四郎のはしっかりした筆致で普段の署名と変わりないように見受けられ、広田弘毅のは少々間延びした筆致のように見受けられる。
 死に酒は、特に準備されていたものではなく、急遽振る舞われたそうで、ワインのラベルをじっくり読むとカリフォルニア産とあった。収容所の米兵の手持ちを提供したものと推察される。残量を見るに、本当に一人ずつガブリとやったくらいの減り具合であった。
  今年はその信勝師の十七回忌。そのお経が終わった後、寺ゆかりの物故者の供養も引き続き行われた。その名簿の中に父の名もある。
 物故者を呼び上げる冒頭「東条英機殿御始め巣鴨プリズンA級B級C級戦争責任者各位」とあった。A級戦犯に「殿」「各位」と敬称がつき、敬って追善供養されることに、最初、多少の驚きを覚えたが、考えて見れば、ここは真宗。「況んや悪人をや」である。死して仏になり給ふレベルで戦犯も一緒に供養されるのに何の不思議もない。阿弥陀の慈悲は人が勝手に意味づけした「善悪」を問わない。それでも、東条英機と父が同列に追悼物故者芳名簿に並んでいるのは、やはり何だか面白かった。
  翌日、テレビをつけたら、偶然、広田弘毅を描いた「落日燃ゆ」をやっていた。その一部を見ながら、昔、作者の城山三郎が金沢で講演して、広田や信勝について触れていたことを思い出した。城山は信勝を評価していない口ぶりであった。広田弘毅は周知のようには文官唯一のA級。A級戦犯の処刑は昭和二十三年の皇太子(現天皇)の誕生日。父はこの時二十歳であった。
 父に繋がってあの時代に思いをはせた数日。お彼岸は過去をたぐり寄せる。
 2011年10月01日
  お役所のような家
 有形文化財登録申請の件で、建築学の先生が実家に検分に来られた。丸窓に半畳の床の間、その横に半畳の仏壇がある一階和室の造りを観て、「モダンですね。」と言われる。誰が見ても典型的な和の空間で、何がモダンなのか判らなかったので、なにがですかと質問すると、通常、別にしっかりした床の間のある家は、仏間は仏間として使い、こうした同居はしないものなのだという。一緒にしてしまうのは最近の住宅事情ではよくある事例だが、当時では珍しいという。
 他に、一階と二階がストンと同じ間仕切りになっているのも珍しいという。通常は、茶の間は一階、各人の部屋は二階という風に各々の部屋の役割があるので、上と下では部屋の割り方が違うものらしい。言われてみれば、我が家は、玄関上がった横の洋室の上階にはまったく同じ造りの洋室がある。天井縁が左官のモルタルコテ細工で装飾されているのも一緒。同様に、一階の仏間と控えの間も、まったく同じ割り方で二階に客間と控えの間がある。
 祖父は県の建築技師で、当時の公共施設の設計を専門としていた。おそらく民間住宅の設計はこの家ただ一軒である。なので、自分の家も、これまでの自分の仕事と同じ手法で建てたのだろう。見た目、洋館仕立ては外構と内部の数室のみで、基本、和風の典型的な和洋折衷建築ではあるが、基本設計に洋室的なシンプルな割り方を採用して、本来、公共施設ならそのまま上下階すべて同じ洋室にするところを、一般住宅なので多くを和室にしたつくりになっているのだ。つまり、和風建築に洋をプラスしたのではなく、洋風建築に和を大幅に取り入れた仕様。見た目完璧に和室でも洋室の匂いがするというのは、この間取りのせいである。建物の外観も、大雑把に言えば四角い箱に台所水回りセクションの出っ張りがついているというシンプルな造り。先生は「昔の役所の建物のような設計」という言い方をされていた。
 もうひとつ、「昭和初期の和洋折衷建築というより、明治の洋館の匂いがしますね。」とも。祖父は明治二十年代初めに設計を学んだ。その頃の日本は辰野金吾をはじめとする日本人技師がお抱え外国人技師にかわって活躍し始め、積極的に洋館を建てだした時代。明治の青年は、そうした洋館に憧れ、積極的に吸収していったことだろう。家には、勉強のため各地の洋館を撮した写真帳が残っている。自身の仕事もこの流れを汲む洋館がほとんど。
 言われてみれば、いちいち納得することばかり。素人は洋室だけがこの家のチャーム・ポイントと思っていたが、設計思想や基本設計にちゃんと自己の出自が織り込まれている。ここで長く生活している家族はそんなものと慣れきっていて全然気がつかなかったが、今回の指摘で、祖父の仕事の趣味嗜好を身近に感ずることができて、感慨深いものがあった。
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お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

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