総計: 4369588  今日: 34  昨日: 951       Home Search SiteMap Admin Page
  日本近代文学論究
耽美派(潤一郎・荷風)
ベストセラー論
金沢・石川の文学
近現代文学
書評・同人誌評
劇評「私のかあてんこおる」
エッセイ・コラム
ものぐさ
パラサイト
<<前月 次月>>

2011年12月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

 カメラ道楽 
 アイラブJAZZ 
 オ−ディオ帰り新参 
 2004年
11月〜12月
 2005年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2006年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2007年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2008年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2009年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2010年
1月〜2月
3月〜4月
7月〜8月
5月〜6月
9月〜10月
11月〜12月
 2011年
1月〜2月
3月〜4月
5月〜6月
7月〜8月
9月〜10月
11月〜12月
 2012年
1月〜4月
5月〜8月
9月〜12月
 2013年
1月〜4月
5月〜8月
9月〜12月
 2014年
1月〜3月

ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2011年12月31日
  今年の墓碑銘

 先週から積雪となり、雪が残ったまま年越しとなりそうである。昨日、自宅の(手抜き)大掃除、今日、実家の大掃除と例年通りの動き。

 「墓碑銘2011」特集が新聞に載っている。ああ、この人もそうだったと感慨深く読む。今年は、中村富十郎、細川俊之、長門裕之、児玉清、原田芳雄、竹脇無我、杉浦直樹、中村芝翫と、昭和を彩る名優たちが多くみまかったのが印象に残る。以下、何人かについて短くコメント。

 

○児玉清。若い頃、俳優として巧くはなかった印象があるが、後年、読書家として広範な知識を持つ知識人として司会業などで自分の立ち位置を固めた。持続的努力の結果、成功した晩年という印象。常々、敬服していた。

 

○長門裕之。先日のテレビ番組で、彼の妻南田洋子への愛情が本当に深く生涯一貫していたことを改めて知り、「鴛鴦の契り」とはこんな二人のことをいうのだなあとただただ感服。

 

○前田武彦。私は、ラジオ「ヤング・ヤング・ヤング」を毎日楽しみにしていた世代。子供心に、ためになる話と新しい音楽を提供してくれる人として好きだった。芸能界を干されたりと色々あったが、最後まで我々世代には気になる人であった。生え抜きのテレビ・ラジオ業界の人の中で、永六輔などと共に「知識人」を感じさせる最初の人だったのではないか。

 

○立川談志。毒舌、いいたい放題、自由奔放の生き方が我々凡人には羨ましかった。彼の人気にはそういう側面が絶対にあると思う。

 

○ピーター・フォーク。大人気だったNHKーTV「刑事コロンボ」。風采が上がらない役で、犯人バレからスタートする展開が斬新だった。後続の「警部マクロード」(主演デニス・ウィーバー 二〇〇六年死去)と共に毎週楽しみにしていた。

 

○谷沢永一。関西大学の近代文学の教授。学生時代、彼の論文と短い書評を愛読した。厳しい批評精神、短文でもキレのある文章に感心し、模範にしようと思った。晩年、世間的に有名になったが、そのあたりからはよく知らない。

 

○中村とうよう。洋楽を本格的に聴き始めた七十年代、彼の音楽評論をよく読んだ。

 

○森田芳光。訳が判らないシーンが沢山あって、一歩間違うと自己満足の芸術趣味に陥る一歩手前にもかかわらず、逆に言うと、現代を実にうまく比喩させた「家族ゲーム」(一九八三年)の監督として強烈な個性を感じた。去年、金沢が舞台の「武士の家計簿」で久しぶりに彼の映画を観て、その成熟ぶりに感心した。あの若手の旗手だった人が、今やツボを押さえた熟練の職人になっている。地元ケーブルテレビでロングインタビューが放映され、その印象はより強まった。渋谷円山町の料亭の息子で、親に大借金して一か八かで処女作を撮った話。元々、映画志望ではなかったが、大学紛争の混乱のため仕方なく撮り始めたというエピソードなどが面白かった。ギャンブル好き、エネルギッシュで元気一杯な印象だったので、年の瀬の死の報道にはびっくり。今後、名作を連続させ、名匠となる得る人であっただけに残念。

 

 最後に、震災で突然長くあるべき人生を終わらされた人々に……合掌。
 よいお年を。

 

 2011年12月29日
  今年を振り返って(2)

 次は日常生活面。今年、ハードディスク(HD)付きブルーレイ録画機を買ったので、テレビの見方が変わった。予約録画して後で観るという今や当たり前のことが我が家でも出来るようになった。HDの容量が小さいので、ほど経て一杯となり、ディスクに焼きはじめた。画像を落とさなければ十分程度で出来上がるが、長時間を一枚にいれようとすると、画質を落とす作業をしているのだろう、一気に時間かかる。
 では、そうして作ったディスクを、後で再視聴するかといえば、正直、怪しい。何年も前にビデオテープを大量に捨てたが、あれと同じような結末が待っているだけという気がする。
  これまで、テレビをつけていて良い番組に出会った時だけ観つづけるというつきあい方をしていたが、今は、気になる番組を見つけると、番組表画面で確認し、即、録画ボタンを押し後はほったらかしにしておくので、必然的に映画やドキュメンタリーなどの長尺ものを休日に一気に観ることが増えた。その結果、今年、テレビっ子になった。これには、ラジオでテレビ音声が聞けなくなったことも大きい。

 

  十年をとうに超える軽自動車をどうするか決断がつかず、一昨年に続き、車のカタログを眺めていたのも今年の特色。エコカーがブームとなる中、もっと車本来の楽しさ・ワクワク感があるべきだという新しいトレンドも興隆し、その上、自動車関連税減免の行方も不透明なので、なんとも焦点の定まらぬ車選びとなった。その挙げ句、沙汰止みにした。二年後はもっとすっきりと決めたい。
  職場で、受験生が暗くなるまで頑張っている姿を見るにつけ、去年のことを思い出し、あっという間に一年がたったという感慨が湧くばかり。

 

 この文章を書いてから、愚妻に、あなたの今年の総括は何かと問うたところ、父親死去や大震災を見るにつけ親戚の大事さを痛感した年だったと答えた。愚妻は納骨や墓参りで郷里宮崎や親戚のいる大阪へ行ったりと色々と付き合いを深めた。私も父を亡くして以来、親戚づきあいが深まっている。今日も従兄弟のお子さんを自宅に招き小さな雑談会をした。前にも書いたが、今年の漢字「絆」は、我が家にもまったくあてはまる。

 

 2011年12月27日
  今年を振り返って(1)
 個人的には、四月に義父を亡くしたことが我が家の大きな出来事であった。ちょうど母親の入院と重なって、二つの病院掛け持ちで慌ただしかった。時期的に仕事のピークを外していたのでなんとかなったが、忙しい盛りだったら混乱していたかもしれない。今でも、病棟待合室で東日本大震災の津波の映像に驚きながら、覚悟を決めないとねと話し合っていたことが、客観的な映像のように浮かんできて脳裏から離れない。
  社会的には、なんといっても放射能汚染に心痛めた。原子炉の密閉性が失われている以上、国土や近海を汚染し続ける危険性が残っている。「冷温停止状態」達成というのも、核燃料が外に出たまま、単に沸騰していないというに過ぎず、中がどうなっているか確認できていない状態。本当の終息は何十年先になるのだろう。
 基準超えの米も発見されている。スーパーでは原発周辺県の野菜が売れ残っていると先に書いた。この前は、同じ野菜で原発近県産と地元産が並んで売っていて値段が倍違っているのを見つけた。こちらの売り方のほうが選択できていい。
 近頃、料理店に行くと、今日の料理に使用している野菜がどこの産であるか、看板に明記してあるところも珍しくない。地元焼肉店の事故を含め、食の安全性が大きく揺らいでいるのが日々実感された年だった。
 不況に伴い収入も漸減。年金も改革がうまくいくのか、安心して老後をすごせるのか、皆、不安である。
 心痛めるニュースばかりが続く日本。後年の歴史家から「震災は弱り目に祟り目だった」と総括されるのではなく、「逆境にめげず粘り腰を見せた」と評価されたいものである。
 2011年12月26日
  今年の漢字と文章
 先だっての新聞に、東京電力は「老朽化」を「高経年化」、「事故」を「事象」、溜まった「高濃度汚染水」を「滞留水」に言い換えて、事故を軽微なものに印象づけようとしているようだが、それはかつての「大本営発表」と同じであるという批判記事が載っていた。
 以来、注意してテレビを聞いていると、政府高官も「事象」という言い方を連発している。しかし、「事象」と「事故」とでは言い換えにさえなっていない。
 今年の漢字は「絆」。こんな年だからこそ、暗い漢字は選ばないほうがよいと思っていたので、素敵な漢字でうれしかった。私的にも不幸があったので、私個人の今年の漢字も同じにしたい。
  老眼が進み、読書量は大幅に減ってきたが、今年読んだ文章の中で一番感心したのは、高田康成「ジョージ・スタイナー氏訪問記」(「図書」十月号)。翻訳の序文を乞うため自宅を訪問し、小インタビューを試みた模様を記す。この高名な老評論家が考える現在の世界観をコンパクトに紹介し、評価も附す。その上で、自己の問題として思索も展開する。訪問記という随筆スタイルの小文の中に本一冊分にも匹敵する内容を凝縮させていて出色。今年後半、この文章を時期をずらして何度も読んだ。スタイナーのグローバルな歴史観や現状認識は、職場の往復で人生をすごしていて、大きな視点に考えが広がらない私に反省を迫る。
 2011年12月25日
  ここのところの生活
 先週の土曜は弓道大会の運営補助で終日武道館で仕事。寒い。
 木曜は職場忘年会、夜、繁華街へ。金曜(祝日)は一家でクリスマス会(つまりは食事会)。この連休は悪天候のため、自宅で撮り溜めた録画を観てすごす。
 ようやく観た映画「レッドクリフ(後編)」。赤壁の戦いはまるで先に観た旅順攻略と変わらない。矢か銃弾かの違いのみ。間に何年の差があるんだと思ったが、それが戦争の真実。
 マイルス・デイビスのデビュー当時に絞ったNHKのドキュメンタリー「巨匠たちの青の時代」は、画像不足でイメージ映像の繰り返しが気になったのと、ジャズファンには有名な話で新鮮味はなかったが、一般向けとして、まあ、うまく纏められていたほう。スタンリー・キューブリックの回も観る。
 十一月に「日経大人のOFF」(特集 第九入門)を買った。完全歌詞ブックの綴じ込み付き。一通り読み、予習。先週の「題名のない音楽会」で佐渡裕の指導を受け(笑)、今週の放送で、その第四楽章の合唱を口ずさみながら聞いた。夜は、TBSーBS「サントリー 一万人の第九」(これも佐渡裕指揮)で再復習。ちょっとした年の瀬のお楽しみになった。
 ギフトで地元珈琲専門店の豆を戴いた。粉がなくなると、場つなぎにスーパーで出来合い粉を買ってきて、後悔することを繰り返していたので、その美味しさにニンマリ。今日はちょっと飲み過ぎ。
 2011年12月24日
  同じ感覚

 高校時代の友人がブログを書いているので時々読んでいる。ご商売屋さんと教員、仕事は大きく違えど、そこに書かれている日々の感想が、私自身日頃抱いていることと同じなので、いつも驚く。
 先日、彼のキャノン・プリンターが壊れ、部品が作られていないという理由で、買い置き補充インクを残したまま、買い換えを余儀なくされたそうだ。今年六月の私とほぼ同じである。
 毎年のようにモデルチェンジし、さっさと部品補充を終了する。インクカートリッジの形も次から次へと変えていく。つまり「計画的陳腐化」プロダクト。世の中が完全に反対の方向に向かっている時に、この業界の旧態然とした姿勢に疑問を抱くのは、しごく当然と思いながら読んだ。

 

  最近、個人商店がどんどん廃業していく。その代わりに使うはめになったのはチェーン店や従業員の多くいる店。マニュアル会話でなんとも味気ない。残念に思っていたら、彼も回転寿司の話の中で、タッチパネル注文は会話がなく「あれは便利なシステムではなく、変なシステムだ」と嘆いていて、ああ、同じ感じ方だと思った。
 生きている言葉のやりとりができるお店がどんどんなくなっている。この点を同年代の同僚に尋ねてみると、彼も淋しく思っていたという。話はその流れで飲み屋の話に……。
 私が若造の頃、職場のベテラン達は、繁華街の高そうな夜の店に連れて行ってくれた。一軒目が一杯だと二軒目に顔を出し、そこもダメだと三軒目に行った。馴染み店を沢山もっていた。あの人たちは、あの頃、どれだけスナックやクラブに投資していたのだろうか。
 月日流れ、私たち世代がベテランの年齢になった。では、そうした行きつけのお店を今私が持っているかといえば、まったくもってノーである。同僚も「行きつけ」とはっきり言えるような店は皆無だという。おごってもらってばかりで次の世代に返していないのを、ちょっぴり引け目に感じていると告白すると、彼は即座に、「昔と収入が違っていて、男の懐に余裕なんかないんだから仕方がないよ。」と言ってのけた。なるほど、明快な解答である。彼も同じことを常々思っていたのだろう。

 

 最近、自販機の操作がよく判らず、まごつくことが多くなった。困ったなあと思っていたら、某日の彼のブログでも、駐車場支払機のパネル操作が判らず「目がチョロチョロ」になったとあった。「昔は説明書を読まなくても、感覚で使えてしまった家電製品。最近は、説明書を読まないと使えないけれど、その前に細かい文字を読む気にならない。読んでも直ぐには理解出来ない。」とお嘆き。「これが、年齢を重ねるということなのか?と、感じることが多いこのごろです。」

 

 ホントにまったく同感。ブログがあるから判ったり、近くに親しい者がいて、ストレートに訊いたから判ったけれど、普通は思っていてもいちいち声高に言うべきことでもないと黙っているだけのことなのだろう。自販機の話など、あんまり大声で強調すると情けない感じに聞こえるからねえ。
 それにしても、同じ年齢、同じ土地での生活。思うことの違いの無さは一体何なんだというくらい……。

 

 2011年12月23日
  気になった言葉

 作文や答案を読んだりしていると、怪しい日本語にどんどん突きあたる。時にそれらを記録しておいた。

 

1 「相互し合う」。おそらく「お互いに関係しあう」という意味で使っているらしい。同例。「外壁を強力する」。これは「外壁を強化する」の意味と思われる。同じく「間隔する」。これも「間を開ける」という意味らしい。名詞にサ変をつけて動詞化するのは安易な言葉。これ、「勉強する」のように全く普通な言い方になっているものもあれば、「科学する心」のように当時新奇な言い方だったものが、どこどなく耳慣れてきたものもあり、今回のように、流通しておらず違和感がある個人造語レベルのものもある。国語的には、動きの意味が含まれる名詞に付く場合は問題ないということらしい。

 

2 「相手の言葉は自分の意をつく」。これは「意表を突く」ではなく「我が意を得たり」の意のようだ。この間違いは一人だけではなかったので、どこかに元があり、そこから拾ってきて覚えたのかもしれない。

 

3 「運慶はひと思いに彫っている」。「ひと思い」という言葉は「きっぱり〜する、思い切って〜する」の意。「ひと思いに殺して」などというのが正しい。おそらく書いた生徒は「一心に」の意味で使っている。字面のフィーリングだけで言葉を使った例。

 

4 「書きてつく」の「つく」は「言付く」、つまり「ことづける」と訳せばいいと説明したが、教室がざわざわする、あれと思って「ことづける」という言葉を知らない人と挙手させたら半数であった。これでは、現代語訳の現代語訳がいる。同様に「師の説にたがひても、なはばかりそ」とあった。「な〜そ」を聞いている問題で、そっちは知っていても、「たがふ」が判らないし「はばかる」が判らない。「人の目を憚って」とか「はばかりながら」というでしょと助け船を出したが、その言葉も聞いたことがなさそうだった。このレベルのちょっと古めかしい現代語は彼らは苦手である。

 

5 「人家」が読めず、止まってしまった子に「音読だよ」と言ったら「ひといえ」。「山陰線」は「やまかげせん」。漢文の読み、「生マレテ」は「ショウまれて」、「遠シ」は「エンし」。送り仮名があるのにわざわざ音読するかなあ。これは音訓の区別意識の低下が元である。「万戸(ばんこ)の侯(こう)に封ぜらる」を「マンコのソウロウ」と読んだ子がいた。聞きようによっては下ネタである(勿論、指摘しなかったが……)。

 

 以上、気になった間違いをランダムに並べた。今年の生徒にはこうした間違いがえらく目につく。浮かび上がってくるのは、ちゃんとした文章を読んだり改まって文章を書くことの経験不足である。特に、ネット言葉がどんどん崩した言い方をしているので、その文章がその人の基準となって、言葉自体をいい加減に扱ってしまっている。つまり、「正しく使う意識の低下」である。これが何十年と続くと、日本語は、同じ情報を共有する特定サークル内しか通じ合わない一種の専門言語の集積のごときものになっているかもしれない。
 使い方が怪しいなと思った言葉は、辞書をしっかり引いてほしい。
 以上、今回はちょっとお説教風。

 2011年12月21日
  青年座公演「妻と社長と九ちゃん」を観る
  古くからある文具会社、昭和文具は、頑固な社長の「昭和」的な経営でやってきたが、後継に息子がつくことになり、時代にマッチした合理主義経営を目指し始める。多くの社員は如才なく新社長の方針に靡いていくが、旧社長お気に入りの主人公九ちゃんは馴染めずに苦悩する。つまり、モチーフのひとつはトップ世代交代の際のサラリーマンの生き方模様。
 もうひとつは、現代の企業経営において、合理主義こそ金科玉条、鉄則なのかというモチーフ。顧客や地域住民を大切にし、本社グランドで運動会などの季節の行事を開催するような、一見無駄とも思える人との交流の中で会社を存続させる昭和的な経営方針はもう時代遅れなのか。実は、今こそそれが正しい在り方なのではないか。
 三つ目は、九ちゃんが頑固社長の葬儀で言う「いいものは残してもいいじゃないか。何もかも壊して新しくすることないじゃないか。」という台詞に代表されるような、変化こそ前進だとする進歩主義に対するアンチテーゼ。
 話は「昭和は良かった」という後ろ向きのノスタルジー色もあって、昭和生まれの私自身にしてからが、そんなに昭和って良かったかしらん? と多少の疑問も沸く。何か年寄りに媚びているような……。
 九ちゃんは、当初、オバQのようにツルツル坊主というところ付いた渾名だと説明されていたが、同じく最後の葬儀のシーンで、憲法第九条の「九」だということが明かされる。つまり、「いいもの」だから「残してもいいじゃないか」と言うのである。ここに来て、珍妙なタイトルの訳が判ったが、それを言いたくて、昭和の人情経営を持ち上げていたのだとしたら、これまでの流れが台無しである。作った人の勝手な思い込みのせいで、せっかくのお話の完成度を自ら壊してしまう、ありがちな陥穽である。
 財産目当てと批難された社長の後妻が、実は籍を入れていないと最後に明かす。昔の女の心意気が表出する決めの場面である。しかし、旦那の社長は頑固ばかりで彼女と心を通わすシーンが事前に振られていないので、本当に好き合っていたのかしらと、ちょっとついていきかねた。
 同様に、新社長はあまりに杓子定規な人物造型でクールすぎ。後半、ちらっと人情を見せるのだが、これもそのため効いていない。
 ちょっとの手直しでいい話になったのに……。惜しい。
 それで、もし、直すのなら、せっかく我々に身近な文具のメーカーなのだから、もうちょっと製品の幾つかがお話に絡んでもよかったのではなかったですかね。(2011/12/19)
 2011年12月18日
  急に頭が乃木大将モードになる

 NHK「坂の上の雲」の第十一回「二百三高地」を録画で観た後、テレビで映画「二百三高地」(舛田利雄監督 一九八〇年)をやっていたので、引き続き観てしまった。途中休憩が入る長尺映画で、終了は十二時を超えていた。二本で延々五時間近く、我が家の居間は鮮血飛び散る凄惨な旅順の高台と化した。
 映画は指導者層ばかりでなく兵卒たちの視点からも描いているのが特色で、前半終了前にさだまさしの歌の歌詞が延々字幕で流れるなど、演出は今観ると泥臭い。
 NHKドラマは、当然、司馬遼太郎の小説の通りに語られる。しかし、映画のほうもクレジットがないにもかかわらず、彼を下敷きにしているのは明白で、人物の描き方や性格付けなどが準拠しているテレビと類似していた。例えば、児玉への指揮権委譲や第三軍参謀伊地知幸介の体調不良の設定など。
 反対に、最新のテレビのほうが三十年前のこの映画を参考にしているのも、誰の目にも明らかで、例えば、乃木と児玉が馬上で再会し、密室において二人だけで相談する場面の流れなどは、そっくりそのままリメイクされているかのようであった。つまり、二つを較べての感想は、似すぎているということ。パクリではないかと気になった。
 司馬は乃木を愚将として描いている。このため、テレビドラマでは、知略に欠け、「させる能もおはさぬ」人物として描いているし(俳優・榎本明)、映画ではテレビよりは決めるところは決めて、愚の中に俊を隠しているといった描き方はするものの、全体として茫洋たる人物という印象は変わりない(俳優・仲代達矢)。


 漱石・鴎外を持ち出すまでもなく、彼の殉死は近代思想史上でも大問題。当時から彼のこの行動は毀誉褒貶相半ばしていた。乃木はどんな人物だったのだろう。見終わった後、興味が出て、深更にもかかわらず少々調べた。

 

 乃木希典。維新混乱期より実地で闘った忠義の武人。若い頃は多少直情径行型で、軽率なミスも多く犯し、放蕩もしたが、昇進するにつれ人に落ち着いた印象を与える人物に変化した。生活は清貧に甘んじ、人格は高潔。当時としては長身で髭を蓄えた軍装の姿は、観る者をして如何にもゼネラルと感じせしめる魅力があった。明治帝の寵愛頗る厚く、国民の人気も高かった。例の皇軍旗奪取事件以降、彼は武人として死に場所を探しており、旅順での大量死で自己を責めるの念は益々強くなったが、その一方、自分の意志と無関係に国民注視の的となり、世界的にも日本陸軍のシンボル的存在に置かれてしまったこともまた十二分に承知していた。中年時には独逸に留学し近代的軍事を学んだが、軍略的に近代戦の本義を体得していた人物とは言い難く、漢詩に優れる等、仕事的にも教養的にも旧来の武人の精神を残す前近代的な要素の強い人物である、といったところが大まとめか。
 褒むる人は彼の日本的美点に注目し、貶す人はその非近代性を追求する。武士道精神を推奨する人は擁護し、桐生悠々や芥川、志賀など若い世代は批判する。

 今回、例の旗は自分の手で持っていたのではないこと、妻を横に立たせ新聞を読んでいる有名な写真は、殉死直前、自ら写真師に依頼したもので、彼の死には自己演出的な要素が強いとする指摘もあること、また、妻の死についても、円満な心中とは言えない要素があることなどを知った。
 

 戦後の軍国主義排除、その後の左翼思想全盛の風潮の中で、戦前あれだけもてはやされ崇められた偉い軍人達の評価は地に落ちた。というより、無視するようになった。若い頃勤務していた伝統校でのこと。用事で倉庫部屋に入ったら、巨大な東郷平八郎の扁額が飾ってあった。おそらく戦前は麗々しく講堂に掲げられていたのだろう。しかし、今や捨てるに捨てられず人目につかない場所に放置されたまま。日本海海戦の英雄でさえこうした扱いである。それに、正直に言えば、恐ろしく下手糞で人前に出すような字ではなかった。

 今回思ったのは、こうした軍人情報空白状態の現代人に、ベストセラー小説、大作映画、お金のかかったNHKスペシャルドラマと、ネタは司馬一つながら、こうも「愚将」解釈の情報が続くと、これが彼のイメージとなり、人物評価として定着していくやもしれないということ。情けなさを印象づける、友人児玉の助力でようやっと勝ったというストーリーの根幹自体、司馬の創作・誇張の可能性もあるという。たかが小説家の解釈では済まされぬ、なかなか怖いものがあるというのが今回の一番の感想である。
 我が家のルーツは長州。私も乃木神社や生誕地近辺を散策したことがある。父にいたっては、彼の地に長期滞在したことさえあり、なんといっても戦前教育を受けているので、乃木大将は疑いを入れない大偉人だったろう。司馬の愛読者で「坂の上の雲」を何度も読み返してもいた彼は、どういう気持ちでこの部分を読んでいたのだろう。
 最後に、で、アンタ自身の評価はどうなんだという声が聞こえてきそうだ。今回、ちらっと調べただけでの妄断としては、まさに立派な部分と駄目な部分が同居する、変な言い回しだが「毀誉褒貶相半ばするに足る」人物という印象であった。

 2011年12月17日
  滋籐の弓

 今はグラスファイバーの弓、アルミシャフトの矢を使う弓道ですが、武士の時代は、どうだったのでしょうか。「平家物語」の「木曽殿の最期」の中で、義仲の武具の説明が出てきます。

 

石打の矢の、その日にいくさに射て少々残つたるを頭高に負ひなし、滋籐の弓持つて

 

 「平家物語」ではいちいち煌びやかな武具甲冑の説明をして、その勇姿をイメージづけるのが常套手段です。
  この文章中の「滋籐(しげとう)の弓」とは、木材と竹を組みあわせて膠(にかわ)で接着し藤で補強した弓の名称です。大昔は、「伊勢物語」に「梓弓・真弓・槻弓」とあるので、単一の木材を使って撓(しな)らせて作っていたと思われます。竹弓も多かったはず。勿論、一つ一つ癖があって精度が悪く、その癖を掴んだ上で射らねばなりませんでした。それが、少しずつ改良され、異なった素材を使うことで捻れに強い精度のいい弓を開発したのだと思われます。当時最高の「リーサル・ウエポン(致命的な武器)」です。束(つか)を黒漆塗りにし、その上を籐で強く巻く。この籐は当初貼り合わせた部材が分解しないようにするための実用的なものだったと思われますが、どんどん技術がよくなって、もしもの用心のためといったレベルになり、後年は飾り的な意味が強くなったのではないかと思います。大変、手間暇かかったものですので、大将クラスが持つ高級品で、籐の巻き方などによって多くの種類があるようです。「重籐」とも表記しますが、おそらく、籐でくるくると巻くからと思われます。

  「石打の矢」とは、最高級の矢のことです。矢に取り付けられている羽根は、戦(いくさ)につかうことから鷲や鷹などの猛禽類の羽が珍重されました。鳥は飛んでいる時に尾羽を扇形に広げますが、その一番外側の羽根が最も強いので、それを使いました。この羽根を「石打」といいます。左右一本だけしかないので希少価値が高く、これもリーダークラスが使う高価なものです。つまり、昔は飛んできた矢で、射た相手の身分の高低がだいたい判ってしまう訳です。
 猛禽類の羽根は今や動物保護の観点から採取が困難になり、現存の矢があるだけになっています。先日、山中(加賀市)の弓道場で、八段の方(故人)が使われていた鷹羽根の矢がショーケースに飾ってあったので、まじまじと観察しましたが、軸も端正こらした節の処理が見事な竹製で、惚れ惚れとしました。いかにも「本物」といった質感でした。
 その昔、東京に昔ながらの矢を専門に作っていた小さなお店がありましたが、先年、上京した折りに前を通りかかると、もうそのお店はありませんでした。今はターキー(七面鳥)を使っているようです。


 ついでに、具足のうち弓にからむパーツを解説しておきます。戦で武士は左右違う手袋をしています。左手は籠手(こて)。これは剣道でご存じのものです。手先だけでなく長いのは、腕を広く守るため。右手は弽(ゆがけ)といいます。これは弓をひく時に今でも使うもので、タイミング良く放つのに絶対必要なもの。長年かけて革に癖を覚えさせ、自分のものにしていきます。ですから、貸し借りするなどということは絶対にありませんし、人のものを使うと、名人クラスでも発射さえおぼつかないことになります。 

 鎧の「弦走(つるばしり)」とは、胸や腹を守る「胴」の前に貼る革や布のことで、放つ時、弦が胴に引っかからないようにするためのものです。今の弓道で女子が「胸あて」をしているのと同じ役目です。和弓はぐっと体に引きつけて放つので、胸前を弦がハイスピードで通過します。そこで、つるっとしたものが胸にないとひっかかって「胴」が踊って大変なことになります。その防止用です。
 末弭(うらはず)本弭(もとはず)というのは、それぞれ弓の上下の先端のことです。矢で弦にひっかけるところも弭(はず)といい、今は樹脂製です。これらは今も弓道部でよく使う言葉です。反面、矢の「袖摺節(そですりのふし)」とか「射付節(いづけのふし)」などの名前は、アルミシャフトになっている今、もう使われていません。(2011・12・7)

 

(以上は「平家物語」の補助プリントとして作成した文章。テキストには当時の武具甲冑のイラストが載っており、その弓道関係の部分を解説したもの)

 

 2011年12月14日
  文学者の命

 高校時代の同級生で大学時代も同じ下宿で寝起きした地元の友人から喪中葉書が。ご母堂が十二月になって逝去とのこと。享年八十六、亡父より三つほど上。
 葬儀があって一週間ほどしかたっていない。慌てて、夜、自宅にお参りに伺う。電話では時々連絡をとっていたが、会うのは久しぶり。彼は両親の介護でほとんど自由な時間がとれない状態が続いていた。雑談では、こちらも二度の葬儀を経験しているので、葬儀の模様などを語り合う。
 それでという訳でもないのだろうが、今日、「国語便覧」を眺めていると、なんだか、文学者の誕生・死亡の年が気になった。誰が今どのくらいの歳で存命なのか、パラパラとめくってみた。父親と同年生まれでご存命な方に、小説の田辺聖子、詩の長谷川龍生、短歌の岡井隆、馬場あき子などがいた。昭和三年生まれ。
 翌四年生まれには竹西寛子、五年には林京子などが健在。竹西と飛行機事故の向田邦子は同じ年生まれなのだが、向田死して三十年たつので、二人が同世代とはにわかに信じがたい気がする。
 昭和二年生まれの小川国夫、北杜夫など、すでに物故者も多いが、反面、大正生まれで健在な方もまだまだ多いことにも気づく。吉田秀和、安岡章太郎、吉本隆明、金子兜太など。
 次に気になったのは、自分世代。ああ、この人は私と同世代の人なのだと今回気がついた人に山田詠美、辻仁成、川上弘美、宮部みゆき。みんなもっとお若い人だと思っていた。私が逆立ちしても彼らのような清新な文章は書けない。
 石川啄木二十六歳。土屋文明百歳。夭逝と長寿。同じ「生」なのに、その長さの差は平気で七十年を超える。
 だからなんなのだと言われても何にもないのだけれど、「二百三高地」みたいな、ああもばったばったと人があっけなく死んでいく映画をテレビで観たばかりだったので、人に与えられた命の長さの融通無碍さ加減に、なんとも摩訶不思議な気持ちになった。

 

 2011年12月13日
  牡蠣の解剖
 今年度後半は三年ぶりに理科授業の手伝い的な仕事をしているので、実験や理系業種の社会見学に立ち会うことが多い。
 十一月には、生徒みずからラットの解剖をするのに立ち会い、一緒に臓器を観察した。実施後のレポートでは、勉強のためにメスを入れて殺すことに抵抗があったと多くの感想にあった。命の大切さを思い、よい体験をしたとしなければならないという心が伝わってきた暖かい作文が多かった。
 先日は牡蠣貝の心臓の観察。アドレナリンなどを点滴することで、心臓の鼓動の変化を観る実験。私は牡蠣の開け方を知らない生徒に開け方のコツを教えた。
 大昔、能登に一泊し、牡蠣食べ放題を経験して以来、そんなに牡蠣の殻を開ける経験が多いとも言えないが、持つのもはじめての生徒に較べると、次から次へと開けまくった経験がものをいう。あの時は、殻がバケツに一杯になった。準備段階での試し開けも一発合格で、本番の指導も恙なく出来た。授業最初の紹介で、殻開けのベテランみたいなことを言われ、ちょっと苦笑い。どんな経験が教育活動に活きてくるのか判らないものである。
 殻を開け、心臓を包む嚢を切開し、薬品をかけて心臓の心拍数を測る。心拍数は人間に較べ、かなりゆっくりである。どれもこれも能登産の見事な牡蠣で、それが沢山使われた。
 私が指導教官なら、生徒に、ハイ、次は酢をかけてみましょうと指示する。ハイ、次は柚を摺ってパラパラとかけましょう。
 ハイ、これで美味しい「牡蠣酢」の出来上がりです。
 2011年12月12日
   泡盛を飲みながら
 沖縄から戻った愚妻の土産話を聞く。私が沖縄に最後に行ってからもう二十年がたつ。だいぶ様変わりもしているようだ。昔行った東南植物楽園はすでに休園しているという。
 一九七五年、沖縄振興の目的で鳴り物入りで行われた沖縄国際海洋博覧会跡地の海洋公園も、水族館のほうは人気らしいが、未来の海上都市をイメージして建造された半潜水型浮遊式海洋構造物「アクアポリス」は撤去されてもうない。
 私が訪れた時、既に錆のひどい老朽施設の感じが強く、うら淋しい雰囲気が漂っていた。閉館のニュースは知っていたが、今調べると、それは一九九三年(平成五年)のことで、維持管理に莫大な費用がかかり、結局、スクラップにされたとのこと。あの時、博覧会がアピールしたバラ色の海洋未来の夢は、塩水に弱い鉄の錆という実に当然の現実の前に二十年も保たず萎んだことになる。
 反面、那覇の庶民の台所、牧志公設市場は今も変わらず元気一杯のようで、愚妻はその二階で沖縄の庶民料理を一品ずつ注文して食べてきたという。
 先だってのコンクリートと木造の話ではないが、残るものと滅び去るもの。その時その時には判然としないが、思った以上にさっさと勝敗がつくもののようだ。
 
 2011年12月11日
  夜のお伴に
 円高の影響で輸入CDが安くなっている。八百円台からかつての名盤が揃うので、ネットでまとめ買いを何度かした。
 今秋、ポピュラー系のコンサートに足を運んだので、そういう気分になり、CD選びのジャンルを広げてみた。その中で、今、夜のお伴によく聴いているのはシャーデー(Sade)のベスト盤。「スムーズ・オペレーター」がいい曲だと思っていて、それで買ったのだが、ライナーを読んで、流行ったのが一九八四年であることに驚いた。気になってからもう二十七年たっている。私にしては最近の人のCDを買ったつもりになっていたのに、三十年近く前とは! 
 無理もない。七〇年代後半からはジャズ・フュージョン中心に聴いてきたから、そのあたりでヒットチャートがさっぱり判らなくなっている。栄枯盛衰激しいこの世界で、もう二昔前のヒット・グループであったことを、CDを買ってはじめて知った(そもそも、彼女の名を冠したユニット名であることさえ知らなかった。)。シャーデー・アデュ(Sade Adu)がお幾つなのか調べると、今、五十歳代の中年、私とまったくの同世代であった。昨年、新作が十年ぶりに出たらしい。
 何も知らないまま、トンチンカン気味に買ったのだが、あの紗がかかったようなミステリアスなボーカルにアダルト・コンテンポラリー色の濃いバックサウンドが何とも心地よい。よく聴くと声の質自体は細く、シャウトに不適なひ弱さを感じるものの、何も声量とテクニックで聴かせるばかりが能ではない。夜、ボサノバを小音量で聴くのと同じ感じで彼女の声を流している。
 ある程度の歳になったら、ガンガン行くのよりこんなのがいいですね。
 2011年12月10日
  喪中葉書から
  今春、義父を亡くしたので、十一月中旬に喪中葉書を出した。人より早い部類で、その後、何枚も喪中欠礼の葉書が届く。多くは友人知人の親世代が亡くなったという知らせ。その中に、私と面識のあるご本人の死を知らせる喪中葉書があった。差出人は子息。
 事業主の方だったので、ウェブサイトで情報を検索したところ、脳溢血で急死し、急遽、息子が跡を継いだと息子自身のブログに書いてあり、少し事態を知った。
 十数年前に仕事で親しくさせていただいたが、職場も変わったので、ここのところご無沙汰であった。古くからある街道筋の商店街のご主人で、地域の振興に尽力され、執筆活動も盛んだった。数年前にちらりとお会いし挨拶を交わしたのが最後となった。享年六十三歳。おつきあいのあった頃は五十歳くらいだったようだ。
 その時、一緒に仕事をしていた先輩教員も二年ほど前に他界している。十年一昔とはいうが、ついこの前ご一緒していたように思うお二方がすでにこの世にいないとはにわかに信じがたい。
 長く仕事をしていると、あそこではこんな苦労があった、あんな嫌なことがあったと、当事者の自分はよくよく覚えているが、年経り人散り、あげく知っている者さえ亡くなってしまえば、懐かしみ合う相手とてなく、そんなことがあったことさえこの世から消えていく。あとに残るのは人にも告げず自分だけ覚えていて、そのままあの世にもっていくつもりのあやふやな記憶の山ばかり。
 ご子息はまだかなりお若いはず。差出人の名前を見ながら、末永いご商売のご繁栄を端ながら祈った。
 2011年12月08日
  古新聞
 愚妻が仕事で沖縄に行き、数日、「衣かたしきひとりかも寝む」状態。昨日、お土産の宅急便が本人より先に到着した。海をこえる荷物も早くなったものである。段ボールを開けると詰めものに地元の新聞が出てきた。「沖縄タイムス」とある。「琉球新報」のほうは、先般、オフレコを大々的に取り上げて沖縄防衛局長を辞任に追い込むなど遠く離れた私でも知っている名だが、この新聞のことは知らなかった。調べると、沖縄県の二大紙のひとつらしい。一週間前の、ちょうどその局長問題真っ最中の日付で、大きくトップを飾っている。沖縄は政治的に難問を抱える。うっすらではあるが地元でのもろもろの受け止め方のニュアンスが判り、興味深かった。
 他にも、人名に与那嶺や玉城などの名が見られ、彼の地らしく思った。下段、舞踊の公演広告に「会場 国立劇場おきなわ」とある。沖縄には国立の劇場があるようだ。地元特産品の他県での名前使用差し止め裁判に勝訴という地域に密着したニュースもあり、知らないことばかり。
 詰めものに古里の新聞をみつけ懐かしむというのは短歌などにはよくあるテーマ。古里ではないにしろ、地方色を感じて、時間をかけ隅々まで読んだ。
 箱の中から泡盛が……。過去何度か行ってこのお酒の美味しさはよく知っている。この冬、楽しみに飲んでいこう。
 2011年12月07日
  さようなら、九段下ビル
 大学時代は九段から神保町あたりをウロウロしていたので、あのあたりは懐かしい。九段坂を下り、首都高の橋桁をくぐったすぐ左に、その古ぼけたモダンな建物はあった。当時からかなり古ぼけてはいたが、簿記学校などが入居していて、まだ現役で使われていた。なにも知らなかったが、倉庫が連なったような洋風建築の姿に、なにかいわれがあるのだろうくらいには思っていた。
 数ヶ月前、ネットのニュースで取り壊しのことを知り、検索してみると、ビル内探索記があった。写真を見ると、上の階など老朽化というより廃墟一歩手前であることを知る。関東大震災を教訓に、頑丈な鉄筋コンクリートの集合住宅を作ったのがこの建物なのだという。かつての原宿表参道・同潤会アパートなどと同じ成り立ちのようだ。
 今日、購読している地方紙にもこの記事が出ていた。いよいよ取り壊しが始まるらしい。昨年九月、九段下のホテルグランドパレスに宿泊したので、目と鼻の先まで行っていた。見納めをしておけばよかったと残念な気持ちが湧いたが、その時はもちろん知るよしもない。
 記事によると、この建物、完成は昭和二年だという。同潤会アパートもまったく同時期の竣工。大正十二年に大震災があって、耐震の建物が企画され、設計、建築と数年かかって、ちょうどこの時期前後に続々と完成をみたのだろう。
 実はこの年、我が生家も完成している。同潤会はすでに一足早く取り壊され、平成十八年に表参道ヒルズに生まれ変わっている。九段下ビルも御年八十数歳で命を閉じる。それに対して、同年生まれの木造洋館仕立ての家は、昨年、復刻リフォームされ、再度、命を全うすることとなった。願わくは、あと半世紀は生きながらえんことを。学校や病院などもそうだが、鉄筋コンクリートは思いの外、寿命が短い。九段のビルが同年生まれと知って、尚更いとおしくなったが、あの傷みかたでは致し方あるまい。
 東京を去って三十年近い。懐かしい風景がまたひとつ消える。
 2011年12月03日
  冬はテレビっ子
 夜が長くなった。例年通り窓に遮光カーテンを追加したので,カーテンを開けないと外の光の様子がわからない。寒いので出不精。
 という訳で、どうしても冬はテレビっ子になる。NHKーBSでスペースシャトルの歴史を総括したBBC製作のドキュメンタリーを見た。実に明快に宇宙開発の光と影を伝えていて為になった。二回の爆発事故、ミッションを見失い存在意義が危ぶまれた時期があるなど、観ていてバラバラに知っていた宇宙開発の知識がすっきり整理された感じであった。先日聞いた元宇宙航空研究開発機構関係者の講演が、いかに青少年向きの明るい面のみを強調したものであったかということを感じた。コロンビア号事故はかすかに覚えていても、チャレンジャー号事故(一九七六年)は教えないと知らない昔の歴史。私はファインマンの事故報告のエッセイを思い出した。
 大河ドラマ「江(ごう)」は最終回を迎えた。最後まで台本の立ち位置が定まらぬ筋立てと台詞であった。最終回は子孫を将軍及び天皇につかせた女の栄華の極みのようなニュアンスがあったが、それを目指した女性でもなし、主人公の人物造型が最後まで中途半端であった。「女の生き方」を強調するあまり、その場その場「女性」括りで都合のよい事象にすり寄って作っていった感が強い。秀吉の矮小化もひどかった。
 NHKーBS「ビビアン・リーを探して」は名ドキュメンタリーであった。てっきり海外製作だと思っていたらラストの字幕でNHK製作と知り感心した。向上心が強く人を惹きつける大女優の三つの愛が、如何にもそれぞれの年齢らしい心の在り方であらわれるので、彼女の気持ちがよく判った。当時を知る老いた関係者のインタビューが生々しくその使い方も巧い。彼女もローレンス・オリビエも互いに最後まで好きだったこと、晩年の相手ジャックの献身的な愛も素敵な話であった。
 NHK大宣伝中の「坂の上の雲」は今冬で第三部。始まった時、足かけ三年とは悠長なものだと思ったが、もう三年経つ。今は再放送で過去回を復習中。お金のかかったドラマである。
 2011年12月01日
  ポール・モチアン死去 

 愛聴せるビル・エバンス・トリオ「ワルツ・フォー・デビイ」のドラマー、ポール・モチアンが、十一月二十二日、死去したという。享年八十歳。これでスコット・ラファロ(b)を擁したあのトリオも名実ともに歴史になった。お皿カチャカチャ周辺音一杯のあの日の録音のことを語った彼のインタビューを読んだことがあるし、チック・コリア、エディ・ゴメスとのトリオ「ファーザー・エクスプロレイションズ〜ビル・エヴァンスに捧ぐ」を今年購ったばかり。口数が少ない個性的なドラムを叩く人で、ECMレーベル的とでも言えばいいか。今年、レイ・ ブライアントも七十九歳で鬼籍に入っている。
 ここ十年、生で聞いたジャズマンの中で年寄りといえばと、ジェームズ・ムーディー(SAX)のことを思い出し、検索してみると、昨年十二月に八十五歳で死去していた。知らなかった。いつの野々市ビッグアップルに来ているのだろうと先日のコンサートのパンフレットを見ると、二〇〇三年とある。もう八年前のこと。
 ジャズ全盛期の名人がどんどんいなくなり、最近はCDを買う度に、生きている人確認をしている自分に気づく。合掌。

 

[1] 

お願い

 この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。

  感想をお寄せください。この「ものぐさ」のフォームは、コメントやトラックバックがあるブログ形式を採っておりません。ご面倒でも、左の運営者紹介BOXにあるアドレスを利用下さい。

 

(マイノートパソコンと今は無き時計 2005.6 リコー キャプリオGX8)

 

 

 

 

Yahoo! JAPAN
Toshitatsu Tanabe Copyright(C)2004
EasyMagic Copyright (C) 2003 LantechSoftware Co.,Ltd.
All rights reserved.