ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。
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エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」 http://hiyorigeta.exblog.jp/
先日、姪っ子が第三子を出産した。夫婦で病院にお祝いに向かったが、出産の次の日ということで、まだかなり痛がっていた。保育器からはじめて出た赤ん坊を抱っこ。めんこい、めんこい。 元同僚の、赤ちゃんが生まれた女性。ちょうど今夜泣きで、一番辛い時期を迎えているのではないかと思われたので、今日、励ましのメールを打った。折り返し元気な赤ちゃんの写真とともに、順調とのメールが返ってきた。よかった。
弟のところの出産ももう間近。 携帯の住所録で彼女のアドレスを探していたところ、最近、若くして亡くなった女性の名を見つけた。もうここに電話しても主は出ない。励ましのメールを打ち終えてから、住所録に戻り、ちょっと迷ったが、彼女の名前を削除した。 さようなら○○さん。
我々は生と死の狭間を生きている
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男数人と女性一名で、昼に食事をし、男連中はアルコールが入った。女性は車ということでノンアルコール。わあわあとお一人であることをいいことにその女性のことを酒のつまみにしながらピッチはあがっていった。気がつくとそれなりの量に。 帰宅後、仮眠して夕刻起きたが、まだ酒臭い。つらつら思い返してみるに、だんだん心のストッパーが外れていいたい放題だったことに気づく。一番しまったと思ったのは、言われぱなしの彼女がシラフであったこと。 後日会った時、もしかしたらシラフで冷静に我々の片言隻句を記憶し、我々を観察していた? と恐る恐る聞いたところ、ええ、しっかり、酔っ払っていく男の生態を観察させて戴きましたというようなご返事。 あれ、つっついてこっちが遊んでいたと思っていたけど、こっちが観察されていたのね。酔っぱらいの所業、平にご容赦を。猛省。
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テレビの現代ドラマを観なくなって久しい。この前、何気なくつけたNHKの夜ドラマが気になって毎週観るようになった。過去に刑務所に入っていたことがあり、ひっそり目立たず生きていこうとしていた若い女性の逡巡と再生の物語。出演は上戸彩と飯島直子。舞台は東京谷中で、昔、散策したことのある見知った町なので、その風景も懐かしい。実は、この前入籍したばかりの上戸の演技をちゃんと観るのははじめて。一度傷んでしまった心を抱える女性を好演。 次の日、また偶然に、民放のシェアハウスの住人たちが巻き起こすコメディタッチの恋愛物語を見て、これも面白く、毎週見ることにした。主演は水川あさみ。大河ドラマ「江」で中姉ちゃんを演じた時の演技は直線的だったが、現代劇では、今時の三十歳独身女性の気持ちがよく出ていてちょっぴり見直した。どちらも若い女性の生き方の問題を扱っていて、今時のテレビドラマや映画はこの種のテーマは大得意である。 それに対して ……と思う。女性物語大繁盛の影で、現代男性の生き方の物語っていいのがあるのだろうか。推理ものは多いし、恋愛物のお相手というのならあるだろうけど、どうなんだろう。今の世に生きる男の心情を繊細に描いた物語を実感をもって観てみたいものである。 さて、先日、工作機器の大手メーカー、コマツの会長の話を聞いた。会社好調の要因は、単に機械を売るだけでなく、ソフト面インフラ面を重視して、この会社の製品を買わないとダメな状態を作ることで、「ダントツ」企業を目指したことにあるという。つまり、十何年前に日本のパソコン業界で起こったような、ハードだけを作っていてじり貧になった問題をしっかり乗り越え、アップルのような会社になったということのようである。 話は、エネルギー枯渇問題、我が国の行くべき方向、地方の活性化、女性就労の活性化と、まなざしの広さが半端でない。 最後にお歳が七十二歳というのでさらに驚く。四十歳代のバイタリティである。もともと図面屋だと言っていた。理系センスを根っこにしているからこそグローバル視野の信念が冴える。そんなイメージの人であった。 また、この前は八田與一を描いたアニメ「パッテンライ」を再視聴した。この人も自己の強固な信念に基づいて、まわりを動かし、多くの人に感謝される偉業を成し遂げた人。 さて、翻って我が身。そもそも男の生き方という気概が全然ないような生活を送っているので、立派な男性の姿に接すると、忸怩たる思いが心の中を通過する。
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(去年の秋に行った美術展の感想。書きかけで放置していた文章を今日手直しし、今頃ようやくアップ。)
仕事で休日が潰れる合間、体の空いた時間に入れ込むようにして、上記展覧会を観てきた。最終日ということもあって、県立美術館は大混雑。駐車できるまでかなり待った。こんな時、館内にある洋菓子店の繁盛ぶりは恨めしい。 何十年も前から観に行っている秋の定番展覧会である。昔は休日に行ってもガラガラで、展示室一室に見学者は我々夫婦だけというようなこともあった。派手さがある訳でもなく、あくまで「工藝品」の枠の中での造型。我々も、今日は天気もいいから秋の空気を吸いに行こうといった散策目的のひとつとしてこの展覧会行きがあったようなところがあって、この展覧会と兼六園周辺のぶらぶら散歩がパックになって記憶の底にたまっている。 しかし、最近、伝統工藝への興味関心が大幅に高まってきているような気がする。地場産業振興という側面のほか、金沢市の観光への明確なシフトということもある。九谷焼き・輪島塗などのメジャー工藝以外の、これまでスポットの当たってこなかったマイナーな工藝分野も、この頃は多く地元民の知るところとなり、県民はかつてないほど自県の伝統工藝のことを熟知するようになってきた。美術大学や卯辰山の工房、輪島の漆藝技術技術研修所など、作家育成も功を奏し、地元の町々に若い作家が多く居住するようになって、そうした職業の人が身の回りにいることがそんなに不思議なことではなくなった。二十一世紀美術館の影響を含め、金沢はここ十数年でアートの街に衣替えしつつある。そうした流れがこの日の混雑を作ったのではないだろうか。 しかしながら、先般、輪島塗販売の最大手稲忠漆藝堂が会社再建にも失敗し、解散となったというニュースも聞こえてきた。現実はなかなか厳しいことに変わりはない。 ちょうど行った時間帯に人間国宝の方の解説があって、冒頭部分だけ聞いた。この展覧会は、文化庁の主催、古めかしい言い方でいうなら「官展」で、現在、官展と言えるものはこれだけであるという話だった。なるほど、伝統工藝の振興・伝承は確かに国の文化の受け伝えである。 いつもより熱心に観たので、高価な値がつくだろうこれらの品々を自分が買うとしたらどうなんだろうという観点で見て、ちょっと、以下の注文をつけたくなった。
「使い手にもっと寄り添った複合化した製品を」 まず、箱は何のための箱なのか。漆塗りの意匠のみ目立って、その箱がどう使われるかの配慮があまりない。小物入れなら中に格子状の仕切り板があってもいいのではないかと思うが、それは付属していない。単なる中途半端な大きさの、寸法的に入れるものを想定していないかような箱。もちろん、出品する作品なので実用は二の次なのだろうけれど、これでは飾り物としての用途以外、売れるはずがない。使い手のことをもっと考えてほしい。 次に、九谷焼にガラスの脚をつけたワイングラスがヒットしたが、ああした方向性は正しいと思う。漆なら漆一つの藝だけで自己主張していても展開がない。 使用する側から言えば、筐体全部が漆である必要はない。以前にも例として出したことがあるので、同じ話をもう一度することになるが、万年筆入れなら万年筆を入れる箱として使いやすく美しければいいのであって、木工品として優秀で、一部に使われる漆も美しく、金具は金工として丈夫で且つ洒落た意匠を持ち、一部には例えば竹細工など他の技巧もワンポイント的に入っている。蓋を開けると、中にはベルベット地かなにかで万年筆を保護するしっかりした内装があって、特定の物を入れる入れ物として実用性に富む。この説明ではゴテゴテしている感じだが、そういった各藝がクロスオーバーしていて美しく、それでいて、便利でぴったり感がある実用品は、残念ながら、現在の土壌ではまだまだできないのではないだろうか。作家制作然、漆漆然としていなければならないことはさらさらない。 金沢市街にあるクラフト店をよく冷やかすが、一般の消費者・観光客がこれならとお金を落とすことができる美と実用性を兼ね備えた製品はまだまだ少ないというのが正直なところ。高価でも、これが自分の用途にぴったりだと思うものは、ちゃんと買ってくれるはず。
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文具趣味だということが知られているからだろうか。「これ知っている?」と、革製のロールペンケースを見せに来た同僚があった。よく知っている、パイロットの「ペンサンブル」シリーズの革物で、ネット値段は○○円と即答したら、驚かれた。もらい物だけど使わないから使ってくれと、なんと頂戴することに。高価なものなので恐縮し、いくらかで買い取りたいと申し出たが、固辞されたので、お酒好きのその方のために我が家の有りもののお酒を差し上げた。一度はクラシックなロールペンケースを使ってみたいと思っていたので、思わぬ幸福を棚ぼた式に享受することになった。 ロールケースは、紐をほどき、上部の蓋になっている部分を持ち上げて取らねばならず、実用上はかなり面倒なものだと、どのブログにも書いてある。使うとまったくその通りで、かさばる割りには量も入らない。あくまでも大事にしている高級筆記具を入れる特殊な用途の筆入れであるが、趣味人は鷹揚に革紐をほどく動作に憧れるものである。 革カバーの手帳と一緒にバンドで結束し、革鞄に入れて使い始めた。以前に較べたら、革物が増えて、身の回りはちょっと高級に、大人っぽくなったが、考えてみれば、まあ、私はもうとっくに大人(→のかなりくたびれ版)である。(?)
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仕事で使った川上弘美の小説の中で、困った行動ばかりする妻にと離婚した夫が、しみじみと自分は「とじ蓋」になれなかったのではないかと回想するシーンがあった。この時の夫の心情を問うた問題のマルつけをつけていると、「自分が彼女の変な行動へのフォローが完璧にできなかったことへの後悔」というような答えが大多数であった。フォローとかカバーとかいう言葉がよく出てくる。ニュアンスが違うので、ちょっと違うなあと困惑していたら、「閉じ蓋」と書いてある答案があって、それでようやく気がついた。自分が蓋として鍋に蓋をして彼女の失行をバックアップするという意味にとっていたのである。 「割れ鍋にとじ蓋」ということわざは「ヒビの入った鍋にもそれに相当するつくろった蓋があるように、どんな人でもそれ相応の配偶者がいる」(「広辞苑」)という意味。「とじ蓋」は「閉じた蓋」ではなく「綴じ蓋」、繕った蓋のことである。だから、妻は人に迷惑をかける困った人ではあったが、では、自分が彼女にとってそれ相応なパートナーであったのかというと、そうでもなかったなと、夫として苦い思いを感じているというのが答えである。 このことわざ、もしかしたら、大人でも多くの人が間違っているのではないかと思ったが、どうだろう。 お似合いの夫婦であるということは言っているけど、勿論、褒め言葉ではありません。陰で揶揄する時か、自分たち夫婦のことをへりくだっていう時の言葉でしょう。でも、なんといっても肝心なことは、まず、割れ鍋でない人をパートナーに選ばないとねえというのがこの雑文の結論です。選んじゃうと大変。
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車話題が続く。愚妻の軽自動車スバルのプレオが、エンジン内部の部品の故障でおシャカになった。帰宅中、アクセルを踏んだら急にスピードが落ち、よろよろと車屋さんに辿り着いたという。このところ、あちこち壊れていて、小さな修理を何度もして、今年の冬を乗りきったら買い替えようと思っていたので、その修理代がまったく無駄になったが、こればかりはしかたがない。約十四年の寿命であった。 次の車どうしようねえという話はよく出ていたが、片道二十五キロの足が急になくなって、大慌てでデーラーに試乗に行って、行きつけの車屋さんで愚妻が契約をしてきた。あんなに色々カタログを見ていたけれど、夫婦で話し合って決めたのは、試乗の朝の二言三言。まあ、決める時というのはそんなものである。 注文したのは、簡易四駆のホンダの軽、NーONE。重い分、ターボ付きにした。一応省燃費も謳っている。来年搭載が義務づけられている横滑り防止装置も付いて、この頃のトレンドをうまく取り入れている。出たばかりの新型で、来るのは冬の終わり。愚妻は当分代車で。我が家は一瞬、二台とも代車という事態であった。
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前記温泉行きは代車のインプレッサで。能登有料などさすがに快適そのもの。次の日、親戚をフル乗車で観光地をあちこち巡ったが、挙動も一人乗車とそうも変わらず、さすがの余裕を感じた。辻口さんのお店でお土産、能登島ガラス美術館、七尾の能登食彩市場と定番中の定番を巡る。それでも首都圏から来た若い親戚の娘さんは、海浜の松並木の横を走る有料道路など都会では観たことがないそうで、能登の風景が珍しそうであった。 上の代がどんどん鬼籍に入り、こうして我々世代が今、年寄り組になっている。小さかった子ども世代も今や大人。我々もいい歳になったが、あの時のあの世代と較べて恥ずかしくないことができているかと言えば心許ない。いい歳をしてこの程度かと上の世代から怒られそうだという話が夜の宴で出た。おそらく人間という動物は、いい歳になると誰でもそう思いながら生きているに違いない。 「あなたはその頃赤ん坊で……」なんて話も出た。禿げたオジサンも年上の親戚にかかるとかたなしである。 愛車は異常なし、以後、様子見するということで今日返ってきた。たった二日の三ナンバーオーナーであった。
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昨日今日、叔母の十三回忌があり、懇親の温泉行きに招待された。場所は能登半島和倉温泉。厳冬の能登有料道路(今年四月より無料)が心配だったが、なんと言っても四駆の二〇〇〇CCインプレッサ。好天に恵まれ、快適なドライブだった。 宿泊は初めて聞く旅館であったが、長い美術ギャラリーのようなエントランスを通って、行き着いたフロントは、カウンターではなく、コンセルジェスタイルの机が二つという斬新さ。浴衣のかわりの作務衣はその場で渡され、案内の仲居はそもそもいない。部屋のお湯もビジネスホテルのような自分で湧かす電気ポットが置かれるなど、徹底的な省力化がなされた都市型ホテルのような温泉宿であった。夕飯もオードブルくらいは最初並ぶが、後はビュッフェスタイル。中央でコックが肉や天ぷらを目の前で料理して饗するのがちょっとリッチな感じを演出するものの、それ以外は食べ放題のレストランと変わらない。これまでの仲居が並んでお酌をする人海戦術スタイルとは大きく違うスタイルで、だからといって激安が売りの全国チェーン旅館のような貧相さはなく、すべてにおいてお洒落にしつらえてある。 客層も、手厚いサービスで高額を取るところは手が出ないし、かといって、せっかくだからちょっとリッチに楽しみたいという、小さな子どもがいる若いファミリー層の家族サービスといった趣であった。今、人気の宿だそうである。もともとは従来型の旅館のリニューアルのようで、お風呂などは立派な大浴場。そのあたりは従来型を踏襲している。 仲居の世話や女将の挨拶回りなどは煩わしい、それでお金がつり上がっているのは理不尽だと考える層が今拡大しているので、それにうまく対応した宿といった感じであった。 ただ、ここが大人気とすると、至れり尽くせりのおもてなしが売りの石川県の温泉郷の向かう先はどういう方向になるのだろう。 例えば、ネットでは、女将の挨拶を煩わしいと受けとる意見のほうが多数派だった。女将の挨拶があって、招待した者として大いに面目を施したという意見があるにはあったが、おそらく、そう書きこんだ人はかなりの年配者。せっかくの温泉、女将の挨拶があり、仲居さんがお酒を注いでくれ、ご飯も上げ膳据え膳、家で味わえない関白ぶりを味わえるというのも我々世代ではもちろん「あり」なのだが、長引く不況下、そういうことも一部の旅館でやっているという程度になるかもしれない。
話は少々ずれていくが、最近、YAHOOの質問コーナー(ヤフー知恵袋)を読み、多く寄せられているアドバイスを読むと、私ならこう判断するという意見のほうが少数派で、それはいい意見ではないなと思うほうの意見が圧倒的であったりする。ベストアンサーに質問者が選んでいるのもそちらのほうという事態も珍しくない。おそらくそれは私が変な人だからではなく、世代世代の常識が違っているからである。意見の違いは、文章の書きぶりから判断して若い回答者と年寄りの回答者の違いである。例えば、彼氏が毎日風呂やシャワーに入らないのはなんて不潔と苦情を書いてあって、同意者が沢山いたが、私らの世代、家に風呂がなかったので、銭湯にいったが、当然、毎日入るなんて贅沢はできなかった。一日おき、冬場は中二日で、そのかわり入ったときにはじっくり入った。たしか肌的にも毎日石鹸は負担が大きいと聞いたことがある。一日置きにそのかわりじっくり洗うのだったら何の問題もないように思うのだが、今や、やむを得ない場合を除いて、毎日入るのが「常識」になっているようである。こんなたわいのないことでさえかくの如し。嫁姑の関係など人間関係の、心情の大きく混ざった「当たり前」の違いなどは、もっと複雑で、私には納得のいかない助言だらけなのであった。総じて、若い世代の助言は、結果的に人間関係を、希薄な方向、当たり障りのない方向、孤立化の方向に向かわせるドライなものが多く、この流れが日本の人間関係の「常識」になると、ちょっと冷たい社会になるのではないかと心配になる。 ネットを読むと、自分の常識・価値観が古い部類になっていることを痛感する。身についた常識、そう時代に合わせて変えられる訳もない。そういう価値観で死ぬまで身を律していくしかない。せいぜいできることは、若い世代はどう考えるかということの情報をしっかり仕入れて、こちらの価値観の表明が押しつけにならないよう留意することである。
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仕事が終わり、雪の夜、車のエンジンをかけると、メーターに見慣れぬ警告灯が。車内ランプの下、取り扱い説明書を開くとCVT警告灯(AT警告灯)だという。慌てて自動車屋さんに電話して翌日にアポを取った。翌朝もやはりつきっぱなし。ところが、午後、車屋さんに行こうとしてエンジンをかけると、ランプが消えているではないか。車の調子自体はまったく問題なし。しかし、今年三月、コンピュータ暴走のトラブルもあり、検査することになった。 代車は新型インプレッサ。例のアイサイト(スバルご自慢の衝突防止装置)こそ搭載されていないが、ナビ、バックモニターも完備の最新上級グレード。初めての三ナンバー車なので、車幅感覚がつかめず、乗り始めはおっかなびっくり。ただ、それより驚いたのが、車が至れり尽くせりのおもてなしをしてくれること。ドアキーはタッチするだけ。ボタンを押し込むことさえいらない。照明もしっかりディレイしてくれて、車を離れるまで照らし勝手に消える。メーターまわりも、燃料の残量でどれだけ走れるかなど盛りだくさんの情報。朝はナビ様が今日の日付まで言ってくれるし、ルート案内も私の安価なポータブルタイプより丁寧。機械というより電気じかけの製品と言ってよいほどの依存度合いである。電子制御で便利になっていればいるほど、暴走を知っている私は、おかしくなったときにどうなるのかと思うと、ちょっと不安さえ感じたのであった。 今、軽量化など国産の技術が多数つかわれているボーイングの新型機が各種トラブルを起こして問題になっている。燃料洩れなどの話が先行したが、今回はバッテリーの焼け焦げ。どうやら過充電が原因らしく制御系に問題があるらしい。テレビで専門家は、今の飛行機は「電気の塊」という言い方をしていた。 ちょうど車の件があったので、このニュースを聞きながら同じだと思ったことだった。電子制御は人間にとってブラックボックス。問題が起こると、どんな動きをするのか判らない。生理的に不気味である。
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冬真っ最中。短い通勤のために、ニット帽、手袋、マフラーを巻く。それに鞄に傘。凍った朝は、フロントガラスの融氷にお湯の入ったペットボトル。ゴミ出し日にはゴミの袋も。朝の玄関は、あれを持ったか、あれを忘れていないかで持ち物点検状態である。OKだと出て行っても、職場について、今度は鞄の中の大事なものを忘れたりする。時計などは日常茶飯である。 置き忘れても、職場ならどうということもないが、外食の食堂だと面倒である。席を立つとき、忘れ物がないか神経をつかって確認する。そんな、日常の行動が心配なのは、歳だからしかたがないとはいうものの、少々情けない。 先日は車の上にお湯の入ったペットボトルを置いてそのまま発車してしまい、気づかないまま次の日の朝、また、お湯を用意しようと思ってはじめてペットがないことに気づいた。
それにしても、冬は持ち出すパーツがちょっとたくさんありすぎる。
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そんな中で、私自身はといえば、なんだか、まわりの「生死」の動きを漫然と眺めているだけの存在のように感じられて、少々淋しい気持ちに陥っていた。我が家は四半世紀大きな生活の変化がないので、尚更、そう感じるのかもしれない。人は動いているが、自分は止まっているかのような感覚。 生老病死はプライベート、通常、公的には表立たず進行する。噂や口コミでふわっと表立つ時があるだけ。そんな時は大抵、死など既に結果となって現れる場合がほとんど。私は、何も動いていないように見える表面だけを眺めて、色々なことに気づかないまま過ごしている「ぼんやりさん」だったのではないだろうかという気持ちが湧いて困った。もっと陰ながらの応援やお祝いがしてあげられたのではないか、もっと生きている時に何かしてあげられたのではないかなど、自分がコミットできなかった悔いの気持ちも湧いた。そんなのが上手くないなあと今更ながら自分の性格の至らなさも悲しかった。 もちろん、そうはいっても、自分が実際に止まっている訳ではない。私自身、大きな流れの一員で、当事者であることもまた当たり前のこと。今、夫婦ともども老いの影がさす。ぼんやり色々なことを先送りしていてはいけない。無理はしないが、したいことはして悔いを残さない、そんな気持ちでいなければ……。
長年、終末期ケアに携わってきたあるオーストラリアの看護師の出した本(『The Top Five Regrets of the Dying』)によれば、死を覚悟した患者さんの多くが悔恨の言葉を残すそうだ(YAHOOによる)。
「あんなに一所懸命働かなくてもよかった」 「自分自身に忠実に生きればよかった」 「もっと素直に気持ちを表す勇気を持てばよかった」 「友人といい関係を続けていられればよかった」 「自分をもっと幸せにしてあげればよかった」
これらの言葉を読んだ時、こうした気持ちで死んでいく人は確かに多いのだろうなと思った。仕事一筋で生きてきて、死を迎える時、もっと自分自身の生を活かす努力をしておけばよかったと悔いる。仕事をしている人なら誰でも理解出来るいのち末期の心情である。いい人生だっと満足して終えるのは理想だが、そんな人は稀。「悔いがないと言えば嘘になるけど、おおむね悪くない人生だった。」と振り返ることが出来たなら上々。少なくとも、上記のような悔恨だけが膨れあがったまま亡くなるようなことだけは避けたい。 大車輪で動けはしないが、それでも、今の狭い生活環境の中で、最後に「悪くなかった」と総括できるように、少しは潤いのある生活、心に余裕のある生活、みすぼらしくない生活を心がけたい。今年の目標の設定は如上の心境による。
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愚妻からあなたの今年の目標は何かと聞かれて、即答できなかった。いかんなあと反省心が湧いた途端、 「確か一眼レフの買い換えだったわね。」 おいおい、それは目標とは言わない。買い物の予定という。なんだか、大晦日にも同じような会話をしたような……。そこで、この土日じっくり考え、今年の目標を「生活の質の向上」にした。
若いころからバタバタと仕事をし続け、四十代半ばで身体を壊し、いったん人生が切れたような感覚を味わった。以後、生活の質は徐々に回復してきたけれど、今も常時痛みは続いて、大きく活動するのに不安がつきまい、どうしても色々なことに消極的になった。 気がついたらもう定年も遠くない。体力も若い頃に較べると落ちてきて、ひとつのことをすると、その日のうちに次のことをするパワーはなくなって休養していることが多くなった。仕事の忙しさは相変わらずなので、その分、自分自身のための生活がどんどん薄くなっているのを感じている。そこで、日々の当たり前の生活の中で、ひとつひとつを潤いのあるものにするように心がけようと思った。こなすのではなく楽しむ、我慢するのではなく心の贅沢をする時はする余裕を持つ、そんな生活にしていきたい。
年の瀬、同僚の尊父の不幸があり、家の掃除を終えてから通夜に参列した。今年も多くの親世代の不幸があって通夜や本葬に参列した。ここ何年か賀状欠礼の葉書も多い。葬儀に行けず香典を郵送した方、数日後知って連絡をしたが、喪主の遠慮により香典を送るのをとりやめた方、ずっと後になって知ったので間が悪く弔意を伝えられなかった方もあった。十二月の賀状欠礼葉書で初めてご不幸を知った方もいる。特に、前の職場の同僚が逝去されたのを知らずにお参りに行けなかったのは、悔いが残った。最近、お顔を見ないな程度に思っていたので、入院していてここのところ急速に悪化していたと聞くと、何も知らなかったことを恥じた。よく話などをした方だったので、せめて焼香くらいはしたかった。知った日はさすがに気持ちが沈み、行けなかったことが申し訳なく罪悪感を感じた。人間、焼香ひとつすることで気が落ち着くものだということをその時知った。彼女はまだ三十代の若さで、まだまだしたいことが沢山あったろうにと思うと不憫でしかたがない。 反面、職場で結婚や出産があったり、弟の嫁が現在妊娠中だったり、また、五年ほど前、大学出たてのフレッシュウーマンで、私の隣の机にいて親しかった方が結婚し、年末に出産のメールがあったりと、身近に新しい生命の息吹がいくつもあった一年でもあった。 私の回りでは、人それぞれの人生があって、自分で人生を切り開いていったり、うれしいことやどうにもならない悲しみがあったりと、一年一年それなりに慌ただしく動いている。そして、そうした総体が「私の世間」として、そうも表立ってはいないが、見えないところで大河のように流れている。そんな当たり前のことをしみじみと感じた一年であった。(つづく)
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元旦はいつもの通り実家でお節料理。昼に亡父の墓参。二日は義母と一緒に白山さんに初詣。去年同様、朝、混雑前にお参りを済ます。昼には初売りにくり出し、冬物衣料や福袋を購入する。三日は悪天候もあって、終日、家でメンテナンスの続き。レザー関係には前述のようにシダーオイル、防寒着には防水スプレー、木製品には亜麻仁油。樹脂にはクレポリメイト、金属には銀磨き紙など。 今日は、仕事始めで射初め会。土曜日曜が入って、月曜日からはフル稼働の予定。ゆっくりした分、来週はきつそうである。 初売りの量販店で冬服の買い物をしながら、ふと自分の恰好を見て思いついた川柳。
我が姿ユニクロ・イオンで出来ている
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新年明けましておめでとうございます。最近はまとめてアップ作業することが多く、アクティビティがよくありませんが、今年も拙い文章をアップしたいと思います。宜しくおつきあいの程、お願い申します。
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お願い
この日記には教育についてのコメントが出てきます。時に辛口のことも多いのですが、これは、あくまでも個人的な感想であり、よりよい教育への提言でもあります。守秘義務や中傷にならないよう配慮しているつもりです。 もし、問題になりそうな部分がありましたら、メールにてお知らせください。
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