昨年のこと。中国籍の生徒さんに、一時間、「中国語入門」授業をしてもらった。まったくのお任せで、レジメがあるなら印刷しておくよといったレベルの関わり方しかしなかったが、実によく考えられた授業をしてくれて感心した。 最初に、中国語の「四声」などの特色をコンパクトに説明し、クラスメイトの名前の中国発音を全員してくれたので、皆、自分の名前を中国語で言えるようになった。後半では、みんなで中国語の歌を歌いましょうと、歌詞を紹介してくれた。皆で練習し、最後にはおっかなびっくりながら、テープに合わせてその歌を歌って、それで、ちょうど五十分。実に能率的で、且つ、楽しい。 彼女が持ってきた歌は、歌謡曲然とした曲調であったが、詞は、蘇東坡の「水調歌頭」だという。
水調歌頭 蘇東坡
明月幾時有 把酒問天 不知天上宮闕 今夕是何年 我欲乘風歸去 又恐瓊樓玉宇 高處不勝寒 起舞弄C影 何似在人間 轉朱閣 低綺戸 照無眠 不應有恨 何事長向別時圓 人有悲歡離合 月有陰晴圓缺 此事古難全 但願人長久 千里共嬋娟
テレサ・テンは、下二行目の「但願人長久」を曲のタイトルにして歌っているという。 私はびっくりした。なるほど、道理で歌謡曲風だ。しかし、歌詞自体は、紛れもなく蘇東坡の詩だから、宋の時代。そんな古い詩が、今の曲として曲がついて歌われている。日本でいえば、紀貫之の和歌を今も歌謡曲として歌っているようなものではないか。 もともとは遠地の弟を思って詠んだ詩のようだが、もちろん、相手を愛しい異性と読みかえることもできる。するとこの詩は、歌謡曲にぴったりの、艶やかで切ない詩に見えてくる。 詩は、前半、月に思いをはせ、風に乗り飛翔するするイメージを語り、後半、
「人有悲歓離合 月有陰晴圓缺 此事古難全。」(人には悲歓離合有り、月には陰晴圓缺有り、此の事 古より全うし難し。) (拙訳 人には離散集合の喜び悲しみがあり、月には満ち欠けがあります。この事はいにしえからどうすることもできないのです。)
と、人の定めを嘆じている。そして、最後に、人と月を重ねて、
「但願人長久,千里共嬋娟」(但だ願はくは、人、長久にして、千里、嬋娟(せんけん)を共にせんことを。) (拙訳 ただ、せめて願うのは、あなたと(仲秋の節会に出会うことはできないものの)健康で長生きできますように。遠く離れた所にいる私たちですが、この名月の夜だけは、月を仲立ちにして互いに心を通わせましょう。)
と結んでいる。愛しい人と離ればなれになっている二人の切ない思いの歌である。 それにしても、日本のように、文語から口語へという大転換がなく、漢字だけでやってきた中国語。ダイレクトに宋時代の人の思いが現代の中国国民にすっと通じるというところが素晴らしい。中国三千年のすごさを思い知った気持ちであった。 先日、テレビで、今、ニーチェの「超訳」や渋沢栄一の「論語と算盤」の現代語訳本など、古典を分かりやすくしたものが密かに売れていると出ていた。若い頃、渋沢栄一「論語講義」の脱線話を楽しく読破した我が身には、ある意味うれしい話だが、だからといって、たかだか明治時代の文章を、当時の社会情勢を理解するために最小限の「注釈」を施すというのならいざしらず、「現代語訳」というのはどういうことだろう? どうやら、我が日本では、言語は百年もさかのぼれないようなのだ。現代日本人の言葉の乱消費は際立っている。
|