ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。
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2005年10月23日 :: 久しぶりのキース・ヘリング ホイットニー美術館展を観る |
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今日は、金沢21世紀美術館市民ギャラリーにて、「素顔のアメリカ ホイットニー美術館展」(主催北陸中日新聞他)を観る。ニューヨークにある十九世紀以降の米国美術を展示する現代美術館だそうである。先週のは「ベルガー展」と言い間違え、今回のは「ヒューストン」を余分につけて言ってしまいそうになるのが、いかにも私の通俗的教養レベルを表していて、御愛嬌。 チケットやポスターに描かれた作品が、シルクスクリーンを使ったようなポップな女性の半身絵(ロイ・リキテンスタイン「窓辺の少女」1963)だったので、そうした戦後ポップアートばかりが展示されているのかと思っていたが、そうではなかった。広大な大地と粗末な家を描いた20世紀初頭の素朴な作品から、平面構成中心のシンプルなアブストラクト作品、それにアンディ・ウォーホルらポップアート派まで、バラエティに富んだコレクションであった。どれも過去の伝統という重石がないので、スタイルに軽やかな自由さがあるのが特徴である。 アメリカが生んだ音楽ジャズでは、よく自分のスタイルを持てと言われる。誰々風ではダメ、その人だけの個性ができているか。一生、ファーストコール(すぐにお呼びがかかる)プレーヤーとしてやっていくにはそれが絶対必要である。もちろん、どの芸術でも、どこの国でも、持っているは当たり前なのだが、そんな自己のスタイルの確立とそれを強烈に押し出すアピール力を、特に強く芸術家に要求されているのが、アメリカ現代芸術の世界であるように感じた。 自己の信じたスタイルを追求する中で、作品一つ一つに自由なアドリブ精神の発露があって作品が成立する。そんなジャズスピリットと共通したものを感ずる。 よかったのは、キース・へリング。工事用のブルーシートに描いたものなど即興だろう。一見、子供の悪戯書きのようで、その中に、原始社会の象形文字的な意味性やシャーマニズムを感ずる。実は、この夏、ハワイ土産で愚妻が買ってきたTシャツが、原住民の古い絵をデザインしたもので、それが、キース・へリングに似ていて、斬新な彼の絵に内包する古代性を見つけたばかりだったので、尚更そう思うのかもしれない。 私たちが若い頃に、彼の大ブームがあって、みんなTシャツの柄にしていたものだ。ナウなヤング(!)が集う東京のブテックの建物側面にデカデカと描かれていたのも覚えている。「誰でも描けるキースの絵。」とかなんとか言って、私も一筆書きのようなもどき絵を描いてお茶化したこともある。ちょっと、露出過多になっているなあと思った頃、さっさと三十すぎでこの世を去った人である。今、こうして時間を置いて観ると、1枚1枚、ちゃんとメーセージが込められていたことが判る。特に「祭壇衝立」は、下に例の手をくねくねした人間を置いて歓喜を表し、中央には基督・マリアを描いて、ポップな中に伝統的宗教性を打ち出していて興味深かった。
天候は今日もすっきりしない。出遅れて、最近時々利用する美術館近くのレストランで昼食を済ませてからの入場となった。帰りは横なぐりの雨も混じる。ほぼ先週と同じ運動量なのに、疲労が大きかったのは、やはり気温の変動のせいだろうか。
(途中寄ったエルフプラザに展示中の近江町市場のにぎわい人形)
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