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ものぐさ 徒然なるままに日々の断想を綴る『徒然草』ならぬ「ものぐさ」です。

 内容は、文学・言葉・読書・ジャズ・金沢・教育・カメラ写真・弓道など。一週間に2回程度の更新ペースですが、休日に書いたものを日を散らしてアップしているので、オン・タイムではありません。以前の日記に行くには、左上の<前月>の文字をクリックして下さい。

 

・XP終了に伴い、この日誌の更新ができなくなりました。この日誌の部分は、別のブログに移動します。アドレスは下記です。

 

エキサイトブログ 「金沢日和下駄〜ものぐさ〜」
           
http://hiyorigeta.exblog.jp/

 2005年10月01日
  『志賀直哉対話集』(大和書房1969.2)を読む。

 図書室の書架にこの本を見つけた。教科書で習う以外、大正の作家を読むなんて行動をする生徒さんは、今や皆無に近くなってきたので、まあ、私が読んであげようという気分で借りてきた。
 志賀を敬して拝聴する体の後輩作家との対話より、谷崎潤一郎ら同輩作家とのやり取りのほうが断然面白い。そこで、興味のある対談相手のものだけつまみ読むことにする。

 

 谷崎と志賀は同世代。当時の二人の読書遍歴が面白い。志賀は明治十六年、谷崎は十九年生まれである。
 彼らの幼児期から青年期、いかにまともな本がなかったかということがよくわかる。時は近代文学の揺籃期である。文学史に残る有名な作品を、子供ながら同時代人として読んだことに感慨が湧くが、逆に言うと、子供が『雪中梅』や『佳人之奇遇』とかいう作品読んでいたことに、選択のバリエーションが全然なかった当時の出版界の状況が垣間見えて面白い。今では埋もれて、現代の我々が聞いたこともない作家・作品も多く話題に上がる。あの作品は全然駄目だったという話も結構あって、当時、手に入る本は、子供用であろうがなかろうが、面白かろうがなかろうが、片っ端から読んでいくしかなかった様子が彷彿とされた。
 本当に、日本文学は、小さな世界で、玉石混淆の時代だったようだ。
 戦後に生き残った大家が、明治時代の自分の読書体験をざっくばらんに語る、生き証人的発言。
 その他、興味を持ったのは、「白樺派」の内部事情の話。各学年でバラバラにやっていた回覧雑誌を統合する形で発足したので、当初、人道主義的ニュアンスはほとんどなかったらしい。それは、やはり武者小路実篤の影響が大きく、後期、そういう作品ばかりが紙面を飾るようになって、志賀自身は距離を置き始め、わざわざ紙面に馴染まぬ作品を載せたりもしたようだ。最後まで僚友武者小路との交友は続くが、倉田百三あたりは、志賀の眼鏡にはかなわなかったらしい。若い頃は、ちょっとした年齢差も人間関係に重大な影響があり、全員同等の立場で、大の仲良しだったということではなかったようだ。言われてみれば、当たり前のことである。

 

 福田蘭堂が、志賀のお宅に出入りして、その様子を語った『随筆 志賀先生の台所』(現代企画室)は、晩年の志賀の、洒脱だが好悪のはっきりした一家の長らしい人柄が生き生きと描かれていて、私の好きな本のひとつだ。この本も対話集なので、そうしたさっぱりとした一面がほの見えて、そこも楽しんだ。

 

 2005年09月30日
  修辞の話からスカートの話になりました 瀬戸賢一「日本語のレトリックー文章表現の技法ー」(岩波ジュニア新書)を読む

 私の学生時代に出始めた岩波ジュニア新書。当時は、ジュニアなんて言葉のついた本なんて読むもんか!という気分で毛嫌いしていたのだけれど、今は、専門家が、各分野を分かりやすくかみ砕いて書いてあって、岩波新書を読む前に、このシリーズでいいのなかったかなと探す有様。茨木のり子「詩のこころを読む」なんて、彼女の代表作である。
  この商売やっている割には、「レトリック」についてまとまったものを読んだことがなかったので、これにした。入門編としてちょうどよい。
 この本では、大きく分けて、

 1「意味のレトリック」。
 2「形のレトリック」。
 3「構成のレトリック」

の三つの分野、合計三十の修辞法を紹介している。名作・話題作を引用しながら、ゆったりと解説しているので、実に分かりやすい。四つほどご紹介。

 

「共感覚法(シネスシージア)」(五感間で表現をやりとりする方法。例…暖かい色)
「緩叙法(マイオーシス)」(控えめな言い回しでかえって強い意味を示す方法。例…好意をもっています))
「曲言法(ライトティーズ)」(反対の表現を否定することで強く表現する方法。例…安い買い物ではなかった)
「撞着法(オクシロモン)」(反対の意味を組み合わせる方法。例…公然の秘密)

 

難しい専門用語だが、解説・用例を読むと、「なんだ、普段、意識もせずに書いていることじゃないか。」と思うものばかりであった。ラベルだけがやたら難解である。
 もうひとつ、「くびき法(ジューグマ)」というのは、ひとつの表現を二つの意味で使う方法。
 代表例は「スカートとスピーチは短いほうがいい。」という有名なやつ。
 ウエイトのかかっているスピーチのほうは「時間」的なもので、ちょっとエッチでユーモアを添えているスカートのほうは「空間」的なもの。この、本来ずれている多義的な意味を一つにしてしまうやり方である。
 ここでも紹介されているけど、このことわざ(?)にはオチがある。
「もちろん、ない方がもっといい。」

 

 中年のおっさんは、そこで、本を措いて、スカートを穿いていない女性を想像する。パンツは肌色パンストで隠れ、上着の裾がぴらぴらしている。いかにも舞台裏という感じではしたないだけ。どっちがいいかと聞かれれば、やっぱり穿いていてもらったほうがいいなあ。そっちのほうが色気を感ずる。脱ぐ色気でなく、着衣の着こなしから漂う色気。
 ただし、やっぱりスカートは「短く」ね。
 もちろん、「スピーチ」のほうは、「短い」より「ないほう」に賛成です。

 

 2005年09月29日
  すとんと秋。

 だらだら路線で暑いと書いた数日後、すとんと秋になった。空が秋空。日中でももう暑くてたまらないことはない。職場のミニ扇風機も回収して、物置に片づける。夜、窓の開けっ放しはちょっと寒くなった。気がつくと、衣替えは明後日に迫っている。
 朝、徒歩通勤していて、日が斜めに差していることに気づく。地面の影が濃くなっている。
 今週はテストウイーク。問題用紙を抱えて、教室に行く道すがら、女性教諭に声をかけられる。

 

女「過ごしやすくなりましたね。」
私「ええ。」
女「でも、こんな気候、1年で思いのほか、短いんですよね。」
私「そうですねえ。一日一日を大事にせんといかんですね。」

 

 判で押したような典型的時候の挨拶。
  でも、ST(ショートホーム)や授業だったら、頭の中でクラスに行って言うことを考えているから、こんな悠長な会話をしている暇はない。さっさと歩く。
 これ、テスト期間ならではのこと。後から考えると、中年男女の落ち着いた会話って感じで、ちょっと雰囲気よかったかも……。

 

 2005年09月28日
   せっかく時間かけたのに……。

 デジカメで撮るようになって、町のDP店から足が遠のいた。まず、お家プリントである。プリンターも今は安価で性能がいい。お店は存亡の危機にあるのではないか。
 デジタル対応が遅れていた馴染みの写真屋さんも、大手全国チェーンのようなパソコン画面で受け付けるデジタルラボ機を設置していた。先日、久しぶりにフィルムを出しにいって知ったのである。自動なら簡単操作で五分で完了、もう二度行く必要はないのだという説明だった。
 そこで、お試しに、デジカメで撮った先日の弓道写真を出してみた。急ぐものでもなし、多少の時間がかかっても綺麗な方がいい、お店の方の手作業プリントのほうでお願いする。
 画像は、レタッチをしてシルエットを強調したイメージ写真。的に対座する射手の緊張感を、外光と影のコントラストで表現したつもり。人物はだから真っ黒だけど、勿論、撮るときからマイナス補正して影にした上で、ソフトで明るいところの彩度を上げたのである。30枚ほどを一時間かけて補正作業。
 さて、指定時間に取りに行ってプリントを確認すると、全然、シルエットになっていない。ちゃんと人物が出ている。けれど、明るいところは完全に白飛びしている白々写真ばかり。どうやら、焼いた若い女性店員さんが、気を利かせて、大幅なプラス補正をしたらしいのである。つまり、一所懸命暗くした写真を、一所懸命明るくしてくれたのであった。
 ご主人が、「どういう写真がお望みなのか、こういう時いつも悩みます。」と言い訳をしていた。おそらく客の大半は人物が綺麗に写っていれば喜んでくれる種類の人たちなのだろう。記念写真なら、それが正しいのだけれど……。
 フイルム現像でも、ご主人は、ネガ1枚1枚確認し、補正をかけている。機械任せでない丁寧な仕事である。いつも感謝されていたことだろう。露出を失敗したら、もう撮影者自身ではどうにもならない、見よい写真にするには、あとは彼の仕事にまかされていたからである。しかし、今は、こちらが画像に手を入れることができる。そうしてメディアを持ってきた人には、いらぬお世話になってしまう。
 今度から、手作業のゆっくり仕上げで頼むときは、しっかり撮影意図とレタッチの有無を伝えよう。口でかくかくしかじかのイメージだと説明する。
 どんなに世の中、デジタルで機械任せになっても、どこかがちゃんとアナログのままである。

 

 最近、もうひとつ、プリント話題があった。
 愚妻と一緒にハワイに行った方から、その時の画像ファイルをCDにして頂いた。容量を確認したところ、200枚以上画像があるにもかかわらず、13MBしかない。1枚60KB程度。私は時に1枚2MBくらいで撮すので、私の約6枚分の情報量である。これではプリントには適さない。
 彼女に問い合わせたところ、やはり最低画素で撮ったという。職場の行事記録やHP用にしかデジカメは使っておらず、焼くことを意識したことがなかったとのこと。確かにモニターで見る限りは、そのくらいでも充分なのだが……。だから、これは、うっかりミスではなく、知らなかったことによる。

 

 どちらの話も、「フィルム」という固定されたものがあったら起こらなかった小事件。デジタルは、まだまだ、人間に優しくない技術のようである。

 

 2005年09月26日
   昆弟妻嫂(こんていさいそう)

  生徒は、時々、こちらの予想もしない答えを言う。現代文の授業などは、そんなとっちらかった意見をとりまとめて進行しなければならず、こっちもうまくいくか出たとこ勝負みたいな進行になる。その点、古文・漢文は、答えがはっきりしているので、そんなに困ることはない。
 この前の漢文でのこと。「昆弟妻嫂」(嫂は兄嫁のこと)という単語の「昆」を説明していた。
 昆は、@兄のこと。そこから派生して、A跡継ぎのこと。でも、日本人で、この漢字で思い出す二字熟語といえば、あれしかないよね。ハイ、○○さん。答えて。
「昆布〜。」
 ありゃあ、そんなのもあった。もう百パーセント「昆虫」と答えるものだとばかり思っていた。一瞬でこれからする説明と合致するか考える。……問題はなさそうだ。
 そうだね、この昆には、B「仲間である。仲間が多いこと」というのがあるんだ。昆虫は、だから虫の仲間という意味、昆布は、海藻類の総称。布という字があるのは、その形状からの連想だろうね。
 とは言ったものの、「布」という字がつく意味なんて、当然、知っている訳がない。誰が考えても、そうだろうからそう言っただけ。こんな時は、生徒の納得の方が大事である。
 こんな微妙な口から出任せ(?)は、もう四六時中である。

 

 2005年09月25日
  いいラジオがない。

 子供の頃、BCLラジオを買ってもらったのが大の自慢だったと、先月16日に書いた。当時、ラジオは子供の持ち物としては、もっとも高価なものの一つ。大事な「お宝」である。買ってもらった当初は本当に撫でんばかりだったことをよく覚えている。
 そのラジオの正式な名称は、ソニー「スカイセンサーICF-5500」(1972年発売 定価16800円)という。
 この機種、ラジオとしては珍しい縦型で、男っぽいアウトドアデザイン。スイッチが沢山あって、いかにもメカを触っているんだという気持ちにさせる。
 トランシーバー機能までついていて、実際には、もう一台、相手がいることだから実用で使ったことはなかったけれど、誰かが返事をしてくれるのではないかと、時々、こっそり電波を出していた。今から考えると、微弱出力で通話可能距離は家の中が関の山だったはずである。いかにも三十歳近くになってハムの免許を喜んで取ったオッさんの子供の頃のエピソードである。
 壊れて、だいぶ前に廃棄したが、今では、秋葉原あたりで、中古品が高額で取引されているそうだ。
 実家では、ナショナル「ワールドボーイGX RF−858」(1971年頃発売 定価15500円)が健在である。もう、かれこれ35年選手。傷んではいるが、ラジオとしての機能に問題はない。すっきりしたデザインで、これは今でも食卓ラジオになっている。
 どちらも、しっかりした作り。重厚感があり、スピーカーも大きくて聞きやすい。
 それに較べ、我が家の食卓ラジオは、ハンディタイプの安物。鉄筋の奥なので、隣町のコミュニティーFM局の電波さえ拾えない。

 今、どんなラジオが売られているのだろうと、家電メーカーの製品情報サイトを見てまわった。各メーカーお寒い限りだった。多少、充実しているのは、ソニーと松下くらい。えらく高価なシンセサイザーチューニングの多バンドラジオが一機種あったけれど、ちょっと高価すぎな上に、完全にBCLマニア向けで食指が動かなかった。卓上ラジオとしても、たっぷりとした音声で聞きやすく、日常生活でフルに使えるような機種でないと、家の山の神をだまくらかして買うことは出来ない。

 あの頃のBCL少年たちは、今や中年となり、マイナーチェンジ情報まで微細に語るマニアックなサイトを立てていたりする。最近、密かにBCLが復活しているという記事も読んだことがある。事実、私もこうして帰り新参のラジオ好きとなって、結構、聞くようになった。音楽番組のエアチェックなんていう、中年にあるまじき恥ずかしいこと(?)もしていて、どんどんMDがたまってきている。

 

 家電メーカーさん。デジタルカメラの反動で、クラシックカメラの大ブームが起こったように、また、中年が、あの頃欲しくても買えなかったギブソンのギター、今、こっそり買って家族の居ない時、爪弾いているように、おもちゃメーカーが懐かし玩具の復刻版を出して好調な売り上げをみせているように、多バンドラジオの復権が、必ずこの先あると、私は読みました。今、「スカイセンサー」「ワールドボーイ」「クーガ」みたいな、昔のBCL少年を狂喜乱舞させる機種を出したら、絶対、売れると思います。
 ただ、どうでしょう。山の神連中には、「今頃、ラジオって何よ。」と、まず、相手にされない。出してもらっても、もう一つの大ハードル越えが待っています。そこで、そこをどう納得させるかも、商品コンセプト会議の重要案件になるのではないでしょうか。
 つまり、こっちに振らずに、そっちで考えてということです。
(画像は「BCLラジオ展示室」より転載)

 2005年09月24日
   徳岡孝夫「妻の肖像」(文藝春秋社)を読む

 勤務先近くの書店の新刊書コーナーで見つけて、この連休に読んだ。発行(8月30日)から一ヶ月とたっていないほやほや本を買ったのは久しぶりのことである。今年になって初めてかもしれない。
 私は彼を尊敬している。翻訳家として著名な人で、米国の政治家・実業家の回顧録などを手がけているが、彼の手にかかるとすべて一級の読み物になる。
 私は「ライシャワー自伝」(文藝春秋社)や、ドナルド・キーン「日本文学史」(中央公論社)などで堪能した。原著自体、日米の架け橋的な仕事であり、日本語・日本文学の素養と英語の素養、その両者を兼ね備えていないと正確で魅力的な訳業は出来ない。
 彼の文章の魅力を一言で言うと、格調の高い日本語だということ。表現が的確で、元の文章が外国語であることを忘れるくらいに美しい日本語に消化されている。今の時代、英語の翻訳が出来る人は格段に多くなっているが、彼ほど日本語に精通したプロを私は知らない。
 この本は、自分を看取ってくれるはずと信じていた妻に先立たれるまでを描いた「喪妻記」を前半に、夫人との思い出を綴ったエッセイが後半に置かれている
 文中にも触れられているが、江藤淳の「妻と私」と重なる部分が多い。妻に癌が発見され、告知をし、自宅で死を看取る。始動を始めたばかりの介護保険制度を利用した在宅看護であったこと、自身が障害者で「要支援」認定を受けての介護であったこと、子息や孫がいることが江藤との違いである。しかし、長年連れ添った恋女房を失う感情に何の違いがあるというのだろう。「文藝春秋」に発表されたこの「喪妻記」一編は、抑制された情感に溢れていて、集中の白眉である。
 後半は、妻と歩んだ家族の生活記となる。彼が定年まで新聞記者を勤め上げた生粋の新聞人であることを今回初めて知った。そういえば、自分自身のことを語った文章を読んだことはなかった。
 大学卒業前に見習いで赴任した支局で、デスクの目の前に座っていた彼女を見そめたこと、ベトナム戦争末期の決死の取材、住宅に窮した団地時代と、抽選に当選して一戸建てを建てるまでの苦労、マイカーを持って家族ドライブができた歓び。
 十五歳で終戦を迎えたこの世代の人生は、ちょうど、戦後日本が無から出発した戦後史と重なる。慎ましやかに真面目に人生を生きてきた人である。
 文章は相変わらず手堅い。例えば、「鴛鴦(えんおう)の眠りが破られた」とある。鴛は雄、鴦は雌のオシドリ。つまり、夫婦仲良く寝ていたら事件だと急に起こされたというのである。私の詞藻にはなかった優雅な言葉。よく練られて読みやすい文章の要所要所に、こういう表現がぴたっと嵌っているから効いている。
 稀代の文章家が、今や老齢となり、妻を失い、片眼全盲・片眼弱視の障害者となって、不自由な生活を余儀なくされている。この文章も、大半は公にする気持ちはなく、児孫が読めばそれでよしとの思いで書き出したとある(「あとがき」)。確かに、何の変哲もない二人だけの温泉滞在の様子を事細かに描写している一編などを読むと、残された孫たちのために、爺ちゃん婆ちゃんが過ごした楽しかったあの時を書きとどめておこうという意図をはっきり感ずる。
 「人生は邯鄲一炊の夢」「薤露のよう」と無常をかこつ作者の口吻から、これが最後の創作と思っているようにも思えるが、日頃、文章自体に味のある名文家がいなくなりつつあるのを嘆いている私は、彼の続く限りの健筆を祈るばかりであった。

 

 2005年09月23日
  障子紙の貼り替えに悪戦苦闘。

 障子は大切なもの。日本人の大発明だと信じている。
 勝手に考えている理由は、以下の通りである。

 1、日差しは遮るが、シャットアウトはしない。ほどよい光を入れる。調度が日焼けしない。日本の陰影文化の心臓部である。詳しくは谷崎潤一郎の『陰影礼讃』参照のこと。
 2、窓を開けて寝ると夜風が入る。窓を開け障子だけを締めて寝る。適度な冷気が入り心地よい。温度や空気の調節機能がある。
 3、乾いたり湿気ったりして、部屋の湿度を調節してくれる。紙の特性。
 4、適度に音を遮ってくれる。空間は締め切っているのだが、淡い外との交感ができる。

 昔、マンションではなく、一戸建てでの住み替えを検討した時、ある住宅メーカーの商品シリーズに、和室に障子がつかない仕様のがあった。リーズナブルな価格で魅力的だったのだけれど、候補から外した覚えがある。サッシにカーテンの畳部屋は、和室として不完全である。
 障子あっての和室。

 西日が入る窓の障子が変色して破れてきたので、先の休みに貼り替えた。畳の出っ張りが邪魔をして障子が外れない。いかにも今時の建物にありがちないい加減さである。前回は、結局、家具を退かして、畳をまくって、ようやく外した。今回はもうこりごりである。そこで、立てたまま障子紙をベランダ側から貼るという暴挙(!)に出た。年末には寒くて不可能な仕事。
 ちょうどの大きさに切るだけでも大騒動、せっかく貼っても、風でぺらぺらめくれ上がる。曲げ皺はつく、糊が紙に付着し、黄色いシミになる。なんともはや、夫婦二人で悪戦苦闘。
 でも、最後に霧吹きをたっぷりかけてそのままにしておくと、ピンと張ってさまになる。化繊百パーセントの紙ではこうはならないらしい。
 和紙は偉大である。
 
 ところで、紙などが破れることを、祖母は「やれた」と言っていた。私もそれが今の日本語だと何の疑問もなく思っていたのだが、長ずるに及び、全然、世間で通じないことを発見した。金沢の人でも通じない。あれは何だったのだろうと、この言葉を隠匿していたのだが、『土佐日記』の末尾に「疾く破(や)りてむ。」(現代語訳(この日記を)はやく破ってしまおう。)と出てきたのを読んだ瞬間、疑問は氷解した。
 つまり、由緒正しい古語だったのである。祖母は、明治初期の山口県の山村生まれ、江戸の教育を受けた親から言葉を聞き覚えた。田舎には、例の言語の波紋状伝播(言葉は都を中心に波紋のように広がる。このため、田舎に古い言葉が残り、また、遠く離れた地域で同じ言葉が話されていたりすること)で、多くの古語が生き残っていたであろう。それを、婆ちゃん子の私が隔世で受け継いだのである。みんな知らない筈である。言うなれば、私の方が特殊事情。
 時々、この言葉の今の認識率を、年代別に全国調査すると面白いのになあと思う。
 結果、今でも思わず使いたくなるの、私一人だけだったりして……。

 2005年09月22日
   光刺激

 八月の熱帯夜は、エアコンにタイマーかけて睡眠、途中、室温が上がってきて目が覚めたら、窓を開けて、風通しを確保して、また寝るという睡眠のとりかたをしていた。他の人はどうしているのだろう。その時間帯にもなると、熱気も落ち着いてくるし車の騒音もやむ。
 早い年には、九月上旬に、ぐっと温度が下がるのが北陸の気候だが、今年は、残暑が続いている。東京生活で、何が一番違うと思ったかというと、それは冬の気候ではなく、秋までずっと暑いということ。冬が全然違うのは予想済みである。
 すとんと秋になる北陸と、だらだらと下降線を辿る首都圏。秋にこんなに違いがあるとは思わなかった。それが、今年はだらだら路線で推移している。
 今は、まだベランダの窓を開けて寝ている。いつの間にか、蝉の声から虫の音に交代している。この辺りは市街地だが、庭のある家も多く、緑豊かで虫も多い。
 ベランダの眼下にコンビニが出来て半年たつ。深夜、店の駐車場にたむろする若者の無遠慮な声で、窓を開け放つ夏はうるさくなるのではないかと心配していたが、そうでもなかった。早朝、配送車が日配品を納めにくるが、ご近所に配慮してか静かに作業している。
 でも、予想外のことが一つ。
 深夜、バリバリ騒音をたて、市民何十万人を叩き起こして楽しんでいる暴走族が、コンビニの前で、目立って空ぶかしをするようになったのである。
 街灯の消えた暗い道なら通過していくだけだったが、そこだけ皎々とした明かりが洩れている。ただ走っているだけでは面白くないアンちゃんは、そこで、ここぞとばかり吹かすのである。店にお客がいてもいなくても……。
 光刺激に反応する生命体……。
 ただでさえ、私は常時腰が痛い人である。夜、目を覚ましても、「ああ、何もせず横になっていても腰が痛いなあ。」と、意識が覚醒してくる。だから、できれば朝まで目を覚ましたくない。それを、この爆音によって起こされるので、ちょっと気が滅入る。
 眠れずに耳を澄ます。虫の音を聞いている。

 

 2005年09月21日
  (つづき)
 旧暦は、月の満ち欠けを最も上位の概念として出来ている。月を見れば今日は何日だか判る。上記のような多少の移動はあるが、月の真ん中が満月の日、古代の人類たちは、月の欠け具合を見て、一日のズレもなく、今日は何日が当てたはずである。今日は三日月よりほんの少し厚みがあるから4日だというふうに……。そうした、人間としての直感的把握を重要視していたのである。
 そのかわり、「季節」面では無理があった。暑さ寒さは太陽の運行で決まるから、新暦では、各年の同月同日を較べることに意味はあるが、旧暦では、厳密には意味がない。なぜなら、時に閏月なんていう調整をいれているくらいで、近代的時間感覚で言うと、全然、固定されていないからである。
 ぱっと見でわかるという「感覚」的理解こそ、前近代の人々が大事にしていたこと。よく言われることだが、これは江戸切り絵図の思想でもある。武家地・町人町を色分けし、辻に大木があれば、本当に木が書いてある。階段だと段々の線が本当に書いてある。縮尺的には歪んでいるのかもしれないが、地図としては現代より余程使いやすい。
 昔の人は、正確さということにファジーだったのではない。幕府は、天文方を置いて、暦を管理していた。暦を司るものこそ為政者であるとは有名な話である。
 月を見たらすぐにわかるというシンプルな思想を守るために、月の運行、太陽や星の動きを勘案しながら天文学者が決めていく。いわば、ファジーを守るために大変な努力をしてきたのである。そして、それは、今日は仲秋、お団子供えなきゃねとするような「文化」を守ってきたことでもある。
 それにしても、この旧暦、調べれば調べるほど、実にややこしいことをしていたのだということが解る。授業では、月に思いを添えて和歌を詠んだりしている場面を喋るので、無責任に、旧暦の方が風情があっていいねえなどと言っているが、もう十二単衣の時代ではない。ちょっと教養を披瀝して、「今日は旧暦の○○の日でして、この日の来歴は〜。」などと蘊蓄たれているくらいが適当なのかもしれない。
 2005年09月20日
   立って、座って、寝て。

 一昨日18日は、旧暦の8月15日、仲秋の名月だった。別名、芋名月。写真展帰りの道すがら、ほろ酔い気分で眺めたのだが、雲に隠れて下の方しか見えず、翌日、十六夜の月を、ジムに行く途中に眺めた。たった一日だけど、ちゃんと右上が欠けて見える。円相の完璧さを逆に思い知る。
  子供の頃、満月と言われた月をじっと見ても、何だか、ちょっと欠けているような気がして、それが不思議だった。自分の目が歪んでいるのではないかと人知れず恐れていたが、今思うと、実際、欠けていたのであろう。完全に望月となるのはほんの一瞬。その一瞬を含む日を満月の日と言っていたに過ぎない。完璧な月を見ることなど、ほとんど稀である。

 

 その翌日は立待月のはずだが、残念ながら曇って見えない。ご存じのように、この風流な呼び名は、居待月、寝待月と続く。古文の授業の定番知識である。
 月の出が遅くなるからこういう言い方になったのだよと、いつも解説はする。だけど、実際のところ、毎日、どれだけ遅くなっていくのか、そこはそれ、文系の悲しさ、よくは知らなかった。
 今日、テレビで知ってちょっと吃驚。今日は夜6時55分、明日は7時半近く、明後日は8時を回るという。つまり、毎日30分は遅くなっていくのである。十五夜からたった4日で2時間。確かに、これでは横になって待ちたくなる気分になる。

 今年は、十五夜の日と実際の満月が一致した年だが、来年は1日後、再来年は2日ずれる。十五夜の平均月齢は14.8くらいで、時に一致せず、後ろにずれるのだそうである。
 そもそも、十五夜がいつなのかでさえ、新暦人には判りづらい。ここ前後五年を見ると、9月11日(2003年)のこともあれば、10月6日(2006年)の時もあって、一ヶ月近く違っている。(つづく)

 

 2005年09月19日
   アート気分

 昨日、本多町の「エルフ金沢」ギャラリーに「第二回デジタルフォト研究会北陸写真展」を観に行く。知った方から案内状を頂いたので、ちょっと暑い初秋の連休、散歩とリハビリ気分で出かける。
 三十枚ほどの小展。受付の本人さんにまずご挨拶。
 作品の下のデータ紙に、「Print」という項目があって、ショップ焼きの場合は店名が、お家プリントの場合はプリンター機種名が書いてあるところがデジタルらしい。
 絵は、これだけ大伸ばしにしても、以前のようなデジタル臭がなくなって、銀塩と見分けがつかない。お家プリントでさえさっぱり判らない。たいした経費をかけられない趣味レベルでさえ、ここまで来た。最早、銀塩とデジタルとを区別をする必要は何もなくなったようである。
 とすると、これまで培われてきた銀塩の絵作りの方法論を、そのままなぞっているだけでいいのかという疑問にぶつかる。
 画像芸術としての立場は不変なのだから、機材が替わっただけ、シャッターチャンスに強くなり、処理が迅速かつ容易になったという撮影レベルの恩恵として受け止めればそれでいいという考え方がある一方、表現自体に何らかの展開があるべきだとする考え方もある。
 まずは遜色ないレベルまで来た。変わっても、がらっと変わるのもでもないのだろう。どう変わるのかは未来の楽しみである。

 

 今日も芸術鑑賞。ちょっとアート気分である。
 「第四十四回北陸中日美術展ーアート・ナウ・KANAZAWAー」を県立美術館にて鑑賞。地元若手作家中心の現代美術展である。幻想的具象画が多いが、アニメの影響を感じさせるものも混ざる。CGが得意そうなモチーフのものもあって、それらの模倣になっている現代アートの難しさを感じた。
 それに対して、「立体」の方は屈託がない。紙、鉄、プラスチック、廃材、電気仕掛けなど素材の選択からして自由であるというアドバンテージをクリエーター自身楽しんでいる感じが伝わってきて、こっちも楽しんだ。
 併設で「北陸中日写真展」があり、これも目当てであった。被写体は地元の景物が多く、撮影現場を想像できるので、それで尚更、その苦労とうまさが判る。


 三つとも、地元であること、プロでないことがキィワード。「地元からの発信」「創造心」に刺激を受けた二日間。

 帰り、久しぶりに片町を経由し、洋食屋さんに寄り、単品料理を注文して夫婦で乾杯した。繁華街の店で愚妻とアルコールだなんて、数年ぶりである。
 出てきた料理をデジカメマクロモードで撮りまくる。
 うーん、いくら刺激を受けたからって、なんだか、やっていることが小さいなあ。

(「トマトとナスのはさみ焼きチーズがけ」)

 

 2005年09月17日
   生死のベクトル

 どうも、何事にも「生」のベクトルと「死」のベクトルというものがあるらしい。

 

 午前中、白山市立となった鶴来武道館弓道場に引率。手入れの行き届いた矢道の芝生の緑が眩しかった。的場は、獅子吼高原の山肌を背景にしているので、森の壁に向かって射る感じ。ゴルフ練習場のような閉塞感のある学校の射場に対して、開いている感覚。紅葉の時は気持ちがいいだろう。
 背後に金名線の二両編成の電車が30分に1本ゴトゴト通る。何とも長閑。
 青空に大きく背伸び。

 

 午後、引率を正顧問にお任せして、前から予約してあった歯科医に行く。とれた詰め物を埋めにいったのだが、歯が欠けていて、そのまま嵌めるだけではダメらしい。もう少し手間のかかる治療となった。
 レントゲンの結果、別の歯が1本割れていますと言われる。
「割れる?」
 確かに、その部分の画像を見ると、茎肉に深く刺さっている左下奥歯の足の一本が見事にぱっかりと縦割れている。
「痛みはありませんか?」と医者。
「いいえ」と私。
「しかし、少しそこの歯茎を押さえると膿汁がでますね。いずれ治療が必要です。」
早く措置するのが鉄則の歯科治療。あれっと思って聞いた。
「治療って、つまり、抜くってことでしょうか。」
「そうです。」
「もう生えてこない大人の歯で、最初にサヨナラしなければならないのが、この奥歯であると決定したと思っていいのですか。」
「そういうことです。」
「………。」

 

 オマケに、歯がだいぶあちこちすり減っていますねとも言われ、情けない気分で医院を出る。同じカルシウム組織、骨を傷めたことと関係あるのかなあ。


 今日一日、ちょっと大げさに言えば、午前が「生」を感じるベクトルなら、午後は「死」を感じるベクトル。
 生活の全てをこの二元論で考えることができる。それは、一種の「世界観」にもなると思ったけれど、色々当てはめるのはよそうとすぐに思った。歳をとれば、ちょっとずつ後者の割合が多くなるのが当たり前。「ネガティブ・シンキング」の一種だと気づいたからである。

 

 2005年09月16日
  (おまけ)

 それにしても、GR−Dの第一印象は、ずいぶん真っ黒けの筐体だということ。
 リコーのデジカメは宣伝費全然かけないことで有名ですが、思ったほど絶賛の嵐にはならなかったようなので、この際、イメージキャラクターを採用して、PRに乗り出しましょう。
 この漆黒に似合うお方は、そう、あの人しかいません。自身もブラックな方。
  ダースベーダー卿。
 もちろん、ポスターは、カメラを手にとって、小首を傾げて頬擦りするようなポーズでニッコリ。背景は「エピソードV」にあわせて、どろどろマグマの赤。ファイヤーなイメージで(なんのことやら?)
 あ、でも、あのマスクでは、ニッコリは、やっぱり無理?

 

 2005年09月15日
  (つづき)

 ファンは、ハイテンションになった状態のまま、きわめて現実的にチョイスされたスペックを目の当たりにして、落胆し、2chは幻滅の声ばかりとなった。その声は、すぐに怒りへと変わり、ちょっとでも褒める人が現れると、「お前は社員だろ」などと徹底的に叩かれた。遂に、誰も肯定的な発言をしなくなり、待望スレッドは、一転、罵倒の板になった。
 これまで、時々、悪意のある「荒らし」に閉口しつつも、2ch掲示板は、公式では得られない生の声の入手先として重宝していたのだが、今回の騒動を見ると、匿名性の欠点が出て、板内は、否定意見でなくば排除という「ファッショ」の論理に支配されている気がした。その場の雰囲気や流れが最優先され、統一化される危険な意見集約の論理。
 少なくとも、他のサイトを見ると、賛否両論があるというくらいが客観的な見解だと思うが、ここだけ別世界。リコーは、どんなへっぽこ製品を出したのかと勘違いしてしまわんばかりの暴力的言語状況である。
 こうしたネット上の意見だけをもって、大衆のメジャーな意見だと集約するのはきわめて危険だということを、今回、痛感した。

 それにしても、これは、「いじめの構造」と似ていないか。子供は、ちょっと雰囲気の違っている子を、大人が驚くほどの残酷な手段で排除する。そんな行動をして、何が最終目的なのかと問うても、目的などないのである。そこまで考えていたら、そもそも、そんな行動はしない。
 多数派による少数派排除の論理。
 先般の総選挙の「刺客」騒動、どこかの国のテロの報復戦争……。
 「報復攻撃」が当たり前の論理になっていないか。「右の頬撲たれたら左の頬を出せ」というのは、なかなかできないことだけど、それは理想として大事にしていきたい。そう私たちは教えられてきたはずである。
 倫理の「基準」が違ってきたのだと思う。報復攻撃は、人間としての当然の「権利」であるというモラルになった。世の中、総「いじめ」の構造である。

 

 閑話休題。
 こうも煽らなければ、もっと地味に静かに出してくれれば、こんなに叩かれなかったかもしれないという意見もあった。確かにそういう面がある。ブログの怖いところである。
 ただ、決して、銀塩GRも当初から評判の機械ではなかった。今後、出てくる画像サンプルの出来がよければ、この嵐が過ぎ去ったのち、評価派が徐々に声をあげていくことも予想される。
 リコーでの、彼らの生声、つまり「私」の部分を読まされていたこっちは、このカメラへの熱い思いを語って、発表会に向けて頑張っていた社員の「えみっふぃー」ちゃんたちが、この評判聞いて、がっくり肩を落としているのではないかと、ちょっと気の毒に思った。
 そんな心配していたら、次に2ch掲示板で立ったGR−D話題のスレッドのタイトルが「えみっふぃーチャンを責めないで【GR-D】PART2 」だと。これには、ちょっと笑った。
 発表会会場にいた、どの女性が「えみっふぃー」ちゃんだったのだろうかなんて話題まで出ていて、まあ、どんなに大荒れに荒れていても、カメラ1台の話である。彼女探しのネタと、話題の「質」レベルで大差はない。

 

(付記)

  翌日、彼女の文章がアップされていた。

 「メジャーな掲示板など、様々なところで拝見しています。いろいろな感想・意見があり、”GR”がいかにみなさんに愛されているかがとても伝わってきています(*^^*)」

  なんて健気な。

 2005年09月14日
  ドキュメント デジカメ狂騒曲 

 

 

 リコーGR−D発表になった。広角単焦点というデジカメ史上初の高級コンパクト機。明るいF2.4、MTF曲線も優秀な自慢のレンズ。マニュアル可能。ホットシューもついて、外付けファインダーやストロボをつけたりして遊べる。マニアの要望もよく取り入れていて操作性も良さそう。デザインはスパルタンな通好み。
  内蔵ファインダーを省略し、常識的なCCDサイズになっているけれど、コンパクトを至上命令とするからには、現実的な選択である。
 現状、デジカメ界でオンリーワンの存在に躍り出たことに間違いはない。

 

 デジタルが中心になる前、普段使いの銀塩カメラとしてリコーのGR1を使っていた。単焦点のしっかりした写り、薄型軽量。当初、28mmの画角に手こずったが、コツが判ってくると、広角の楽しさが判るようになった。
 「高級コンパクト」の範疇に属するカメラだが、床の間に飾っておかねばならないような自己主張はなく、スナップとして、どんどん使い込んでいけばいいと思わせる気軽さが身上。
 所有者は、このカメラを偏愛している人が多く、デジタル版を渇望していた。それが、去年のフォトキナで、2005年中に発売と予告があり、8月30日には、「リコー公式GRブログ」が立ち上がった。その中で、ファンの発表会御招待企画まで予告され、期待感はいやが上にも盛り上がった。
  このブログ、まだ発売もされていない一機種だけのための「製品宣伝用」なのだが、5、6名の社員が、趣味の個人サイト宜しく、気軽に交代で文章を書いていて、かつて、自社で出していた一眼レフのシャッター音は好きじゃないというような、普通、公式サイトでは書いてはいけないようなことまで平気で書いて、親近感を持たせ、ファンを惹きつけた。
 この、開発の裏を少しずつ見せながら、期待感を煽るやり方は、当初、なかなかうまいプレゼンテーションだと思った。「公」の情報は、堅いものしか出せず、面白みに欠ける。本当の部分が見えてこない。それを、社内の個々の「人」を、ちょっぴり露出させる、つまり、「情」の部分を上乗せことで、「私」の意見として発信する。そして、それに「公式」という冠を被せることで、「私」と「公」が綯い交ぜにされた、中間レベルの情報として発信したのである。
 しかし、企業として、これは危険な賭けとも言える。社内でのおそらく検閲があるとはいえ、社員に、かなり自由に書かせたものが表に出ることは、宣伝効果は期待できても、勇み足があった場合、誰が責任とるんだというような社内インフラ整備的な問題が山積していそうだ。どこも怖くてできなかったというのが本音だろう。
 
 このブログのために、ここ二週間、ファンは煽りに煽られて、期待は大きく膨らんでいった。自分の理想とするカメラを思い描き、そんなカメラ、いったいどれだけの大きさになって、そもそも幾らするんだというような過大な要求を、トラックバックや2ch掲示板、あるいは、自分のHPに書き綴っていた。
 そのあたりから、現実の工業製品として、現有技術でできること、客層をリサーチして売れるということを念頭に置いた「商品」であるという常識的イメージから逸脱していって、単なる「妄想」に陥っている危険性を感じないでもなかった。
 待ちに待った発表当日、スウェーデンのサイトからリークがあって、それで、事前に、ほぼ全容がわかり、2ch掲示版は、そのあたりから蜂の巣を突いたような大騒ぎになった。午後3時のプレス解禁の頃には、1秒に1件の書き込みがあるような状態を呈していた。読むのが追いつかない。
 掲示板は、みんなで会議しているようなもの。いったい、この会議場、何人のメンバーによって構成されているのか、おそらく「スターウォーズ」の共和国議会ドーム並の大会議場になっていたのではないか。(つづく)

 2005年09月13日
   (つづき)

 アナキンの寝返りは、急に皇帝の僕(しもべ)口調になるので違和感があったけれど、比較的うまく説明されていた。また、「W」とのつなぎのため、パドメが生まれたばかりの双子に「ルーク、レイア。」と呼びかけて、この二人が後の彼らなのですよと、観客向けに念を押したり、通訳ロボットの記憶が消されることになったりと、ラストは大慌てで辻褄をあわせていた。赤子がこの二人なのは、余りに明らかなことで、生まれたすぐに名を呼ぶ不自然さのほうがかえって気になった。ちょっと説明のしすぎである。
  問題の、どう観客の興味をつないだか。端的に言えば、「チャンバラ映画」に仕立てたのである。冒頭の宇宙戦闘シーンがなければ、もっとそれが目立って、批判も出たのではないだろうかと思われた。一応、お約束の宇宙船のバトルも入れておきましたよというのが冒頭シーンの意味合いである。後はチャンチャンバラバラでどんどんつないでいく。日本映画をよく観た監督らしい思いつき。だから、シリーズの中で最も脇道のない直線路線の話になった。それはそれで、活劇の王道で、楽しい。
 当然、主人公が悪の道に堕ちていき、正義の味方ジェダイ騎士団が崩壊する話のなので、シリーズ中、最も暗いストーリー展開。希望がない。しかし、変に恋愛入れた「U」に比べたら、シンプルでテーマがはっきりしている。
 同様に、実際、画面もかなり暗い。クライマックス、燃えさかるマグマの火の中で繰り広げられる戦いが、この映画の色調を象徴している。黒と赤。ポスターも、火をバックのダースベーダーが描かれている。勿論、彼は、もともと上から下まで真っ黒け。どろどろの火の中での戦闘なんて、ここ数十年のSFやアクション映画で何度観たことだろう。常套手段。

 

 それにしても、「W」の冒頭シーンに帰っていくラストシーンを観ながら、四半世紀前、同じシーンをワクワクしながら観ていた「ヤングスカイウォーカー」ならぬ「ヤングタナベトシタツ」が、あの時、スクリーンの前に座っていたのだなと、自分のことを思った。前三部作ではヨボヨボ老人のヨーダが、この新作では、元気一杯飛び跳ねていたのと反対に、こっちは、一瞬のうちに、よたよた歩きの中年に変身して、続けて映画を観ているような気になった。物語は繋がっているのに、こちらの肉体は寸断されている感覚といったらいいだろうか、そうした時間の齟齬の感覚が、私の体をふわふわと包んだのだった。
 映画の感想より、こうした感慨が先だって湧いてくるのも、四半世紀ぶりにつながった変則公開順ならではのことである。

 2005年09月12日
   全部観終わって  映画「スターウォーズ」完結。

 遅ればせながら、代休を利用し、平日に「スターウォーズ エピソードV シスの復讐」を観た。もはやガラガラ。勿論、座布団持参である。シネコンの座席は、ちょっと、ふかふかタイプで、腰痛持ちには不適だった。
 2002年夏に前作「エピソードU クローンの攻撃」を観た。その時、最終作の2005年公開が予告されていた。まだまだ先の話だと思っていたが、その2005年があっという間にきた。間に発病・手術などが入り、人生が止まっていたので、映画館に足を運んだのは、三年ぶりのことになる。結局、この四半世紀で、六作、それに「リマスター版」にも足を運んで、すべてロードショーで観たことになる。

 

  「スターウォーズ」(後「エピソードW 新たなる希望」と命名)の日本公開は1978年夏のこと。「謎の円盤UFO」「宇宙大作戦(スタートレック)」「宇宙戦艦ヤマト」「銀河鉄道999」も大好きな、どこにでもいる青年だった私も、当然、観に行った。ラストの戦闘シーンが血湧き肉躍る大活劇で、昂奮したことを覚えている。1980年公開「エピソードX 帝国の逆襲」も、うまく話をつないで、次回作を期待させた。
 それから3年、心待ちにして「エピソードY ジェダイの復讐(帰還)」(1983)を観に行った。しかし、シリーズ全体の壮大な展開の中で、どうもチマチマとしたエピソードで話が進んでいき、最後は、あざといまでの大団円。かなり、がっかりした覚えがある。
 当初、十数作作るとアナウンスがあり、壮大な計画だと感心した覚えがあったので、こんなに話をまとめては次につながらない、腹づもりを変更して、さっさと終わってしまったのだと思っていた。そこで、「T」〜「V」の製作話が聞こえてきた時、それじゃあ、「Y」の終わり方は、後で禍根をのこすのではないかと思った。
(註…今色々調べると、巨編映画はもう作らないが、他の手法で「Z」以下をつくる可能性はあるらしい。)

 

 今回の「V」。ヤングスカイウォーカー、アナキンが、ダークサイドに堕ちていくまでを描くのがストーリーの中心だということ、共和国議長が、実は敵側の皇帝であることも見えていたので、それだけでは、サプライズがなく、観客を満足させない。それに、四半世紀前公開の「W」に話をつなげるという大事な役目もある。そうした意味で、前も後も固定されているブリッジのような役目を負った作品で、こんな形の映画は史上初ではないだろうかと思ったが、どうだろう。かつて、「ゴッドファーザー」が、本編の大成功の後、そこに到るまでの前日談(?)を作ったことがあるが、今回は前後とも固定なのだから大変である。
 そうした制作上の制限を、どうクリアしたかという興味で観たのだが、結論から言うと、なかなか気を遣って、うまく出来ていると感じた。(つづく)

 

 2005年09月11日
   アラーキーの放談本を読む。

 せっせと日常生活をデジタルカメラに収めるようになって、「どうして」撮るのか、「何を」撮るのかという疑問にぶつかる。
 せっかくだから、1冊くらい写真の本を読もうかと、物色したのだが、かたや、えらく高尚な映像論があるかと思うと、かたや大量の撮り方テクニック本。
 カメラの本も、ライカがどうのハッセルブラッドがどうのというマニア本が横行する一方、最新カメラ事情的な、数年で古びるような紹介本が陸続と発刊されているようだ。
 入門よりは奥深く、哲学的な思惟よりは分かりやすい、できれば、著名な写真家の理念や方法のようなものが、分かりやすく解説されている新書クラスのお手軽な本はないのだろうかと探したが、これといったものは見つからなかった。これなら、毎月読んでいる月刊誌「アサヒカメラ」(朝日新聞社)「日本カメラ」(日本カメラ社)の方が、硬軟取りそろえた論調で、余程楽しいかもしれない。
 そこで、長年のファンである荒木経惟の新書二冊に落ち着く。1980年代の雑誌「写真時代」あたりからのファンで、地元図書館にあった写真集や文章本はほどんど読んでいる。

 

  「天才アラーキー 写真ノ方法」(集英社新書)は、酔っぱらいながら放談したことを、そのブロークンな話法そのままに書いてある。その分、ドキュメント性は増すが、本としての濃密さはあまりない。面白いととるか、文章としてやりすぎととるか難しいところ。
 彼は、芸術写真に「日付」を積極的に入れた人としても有名だが、あの日付が嘘っぱちであるという話には唸った。確かに、大昔の日付にして、白黒写真にすれば、レトロ写真が出来上がる。日付という虚構を、作品に添付して意味づけるという手のこんだ手法。

 

 「天才になる」(講談社現代新書)は、飯沢耕太郎が聞き手の、インタビュー形式の自叙伝、これまで、吉原の隣町に生まれ、親父が写真好きの下駄屋さんであったことなど、断片的に知っていたことが、統一的にわかって、入門編としてはこちらの方が余程出来がいい。
 電通勤務時代、若造ながら、すでに一目置かれていて、電通の写真消耗品使って、自分の芸術写真撮りまくっていた話が楽しい。型破りを承知で、そんな人物も会社には必要と、平気で採用し、養っていた古き良き時代である。高度成長期は、のちバブル経済も生むように問題点も多かったが、こんなところは、余裕があったからこそできた人事。今から考えると、健全な時代だった。
 飯沢の質問が、よく荒木を知った上でのものなので鋭く、各々の時期の荒木の感慨を実にうまく引き出している。この本、インタビュアーの功績大である。

 

 2005年09月10日
   こんな問題を出したら

 問題集の範囲がある試験では、七割は同じ問題、三割程度をオリジナルに差し替える。
 表現問題として、本文にラインを引き、「歯に(  )ずに言えば」の括弧の中に適切な文字を入れよというのを作った。こっちとしては、点あげ問題のつもりである。
 結果。1クラス平均2名の正解者。全滅状態。衣で(!)目を覆いたくなる惨状。
  バツ解答例

 「歯に(かけ)ず」(「歯牙にもかけない」との混用。これは、まだいい方。
 「歯に(かま)ず」(かまずにスラスラ言うということらしい。)
 「歯に(逆らわ)ず」(歯は、体の中での抵抗勢力?)

 さて、今回の優秀作発表!!
 「歯に(親知ら)ず」、
 何だか、新作のことわざのよう。山田く〜ん。座布団一枚。

 2005年09月09日
   菊より芋。

  今日は、重陽の節句(菊の節句)。陽数(奇数)の一番上の数である九が重なるから「重陽」という。五節句(人日・上巳・端午・七夕・重陽)の一つである。他の節句は健在だが、この節句だけは、明治時代以降、急激に廃れてしまったので、多くの人は、知識として知っているという程度。大人にアンケートとったら何割の人が知っているだろう?
 私は高校時代、漢詩の時間に、こんな節句があることを知った。どの詩で習ったか、誰に習ったか、今では忘却の彼方だが、万年成績最後尾の生徒が、その後、生徒の前に立って、あの時と同じように、次の世代に話をつないでいる。この節句のことを教えるたびに、なんだか不思議な気がする。

  今から思うと、おそらく私が習った詩は、この二つのどちらかだったハズ。初唐の王勃か、盛唐の杜甫。

 

 蜀中九日 王勃
九月九日望郷台   九月九日、望郷の台。
他席他郷送客杯   他席他郷、客を送るの杯。
人情已厭南中苦   人情、已に厭ふ南中の苦。
鴻雁那従北地来   鴻雁、那(なん)ぞ北地より来たる。

 

 登高  杜甫
風急天高猿嘯哀  風急に、天高くして猿嘯哀し、
渚清沙白鳥飛廻  渚清く、沙白くして鳥飛廻る。
無辺落木蕭蕭下  無辺の落木、蕭々として下り
不尽長江滾滾来  不尽の長江、滾々として来る。
万里悲秋常作客  万里の悲秋、常に客と作り、
百年多病独登台  百年の多病、独り台に登る。
艱難苦恨繁霜鬢  艱難苦だ恨む、繁霜の鬢。
潦倒新停濁酒杯  潦倒新たに停む、濁酒の杯。

 

 タイトルだけ記そうと思ったけど、一応全文掲載。高校で習う詩だから、「超」が付くくらい有名。どちらも、孤独な中、異郷で重陽の節句を迎えた心境を詠っている。個人的には、杜甫の方が、律詩の分、情景描写が細やかで切々たる思いが伝わる気がして好きである。杜甫の詩の特色が余すところなく出ている。
 中国では、九九は久久と同音で、恒久の意味となり目出度い言葉なのだそうだ。他の節句と同様、日本に伝来し、平安時代には宮中行事として定着した。旧暦九月だから、秋も深まりつつある時期。菊も真っ盛り。今も盛んな菊花コンクールなども、元々重陽由来だそうで、また、庶民の生活では、ちょうど収穫を終えた時期と重なり、収穫祭的な意味合いもあったそうだ。綿を入れた冬着への衣替えの日でもあったようで、江戸時代までは、それなりに盛んだったらしい。
 廃れた理由は、新暦になったこと。
 他の節句は、無理矢理、新暦でしても問題はなかったが、この菊の節句だけは、菊は咲いていないは、収穫はまだだは、寒さどころか、まだ残暑真っ盛りで暑いは、と、行事の内実をそのまま前倒しすることができなかったからである。だからといって、九重なりという日付は動かせない。こうして、ラベルと中身が乖離して、崩壊していったのである。

 

 今日、三年のあるクラスで、重陽の節句は、別名、なんと呼ばれているか聞いた。ヒント。桃の節句みたいに、秋らしい植物だよ、と助け船を出して……。
 その女の子の答え。
 「いも〜。」
 うーん、確かに秋らしい。ちゃんと考えて答えてくれたし、色気より食い気。お化粧が気になって仕方がない色気ねーちゃんではない健全な発想。おそらくいい子である。


 ネットで検索して「九月九日は菊の節句」と題されたサイトに行き着いた。分かりやすく説明されていると感心しながら読んでいくと、最後のセンテンスで、あやや、やられた、そんなとこに着地するんだと思いました。
 私と同じ気分を味わっていただくために、後半の文章をそのまま掲げます。

 

 「(前略)菊酒とは、盃に菊花を浮かべて飲む酒のことで、その芳香な気高さは邪気を払い、不老長寿を保つといい伝えられています。わが国でも宮中で取り入れられ、(中略)平安時代になると、”菊酒の儀”が恒例化されました。江戸時代には、幕府が五節句を制定し式日としたので、庶民も祝うところとなりました。
 旧暦の9月9日は、現在の10月中旬にあたり、各地で菊花展や菊人形など、菊の行事が盛んに催される季節です。菊本番のシーズンであり、日本酒のおいしい時候でもあります。
 今宵一献、菊正宗で”菊花の宴”を。」

 

 清酒「菊正宗」(菊正宗酒造(株))のサイトだったのである。いかにも、そこにありそうなページだ。

 2005年09月08日
   「付け足し言葉」を勉強する

 8月13日の日記で、啖呵売について触れた。寅さんみたいな香具師が、口上で客を乗せまくり、しょうもない品物を売る啖呵売。例の「たいしたもんだよ蛙のションベン、見上げたもんだよ屋根屋のふんどし。〜」というやつである。
 「広辞苑」には「タンカウリ」で出ている、愚妻は「タンカバイ」だという。ネットでは「タンカバイ」の方で幾つかヒットした。私は、どちらの言い方も知らなかった。国語教師をしていても知らないことばかり。電子辞書は、だから必携である。

 もうひとつ勉強。「結構毛だらけ猫灰だらけ」のような、勢い余って余分な言葉をつけたような言い方を、国語的には「付け足し言葉」というらしい。
 そこで、調べたが、なかなか面白い。個人的に四つに分類すると、以下のようになる。

 

1、よく知っているし、実際、使わなくもない言葉。
 「おっと合点承知之助」
 「その手は桑名の焼蛤」
 「恐れ入谷の鬼子母神」
 「驚き桃の木山椒の木」
 「あたりき車力よ車引き」
 でも「車引き」までは知らなかった。

 

2、聞いたことあるけど、ボキャブラリーにはなかった。咄嗟にはでてこない。
 「何か用か九日十日」
 「会いに北野の天満宮」
 「何だ神田の大明神」
 そういえば、「何だ神田の明神下で〜」という銭形平次の歌があったなあ、これを踏まえているんだと、今頃、気づいた。

 

3、知らなかったけど、うん、いいんじゃない。
 「嘘を築地の御門跡」
 「とんだ目に太田道灌」
 「そうで有馬の水天宮」
 「蟻が鯛なら芋虫や鯨」
 「何がなんきん唐茄子かぼちゃ」
 南京も唐茄子も南瓜の別名。同じことを三回言っていることになる。そういえば、祖母は唐茄子と言っていた。 

 

4、知らなかった。今ではあまり使わないかも。
 「とんだ所へ北村大膳」
 「びっくり下谷の広徳寺」
 「腹が空いて北山時雨」
 北山時雨は人名ではない。京都北山からの時雨のことだそうだ。

 

 皆さんの分類はどうでしょうか。ネットで検索しつつ、何だか、斎藤孝あたりが、絡んでいそうだと思ったら、案の定、彼のベストセラー本の中で、紹介されているようだ。

 

 2005年09月07日
  夏を乗り切る

 今日は、文化祭代休明けの実力試験。テスト監督していると、疲れが残っている生徒は生欠伸をしている。こんな時は、体力次第で、テストの点が大きく開くだろうなと思う。
 そういえば、と、すぐに自分の高校時代を思い出す。
 商売柄、よく自分の高校時代と比較するので、一般の人に較べ、反芻する機会が多くなり、あれは1年生の時、あれは、2年生の時と、細に入り微に入りイメージが出来上がっているのである。
 私は、毎年、夏バテした。どうも、体力のある子供ではなかったようだ。二学期に入り、終日授業に耐えられず、9月下旬になって、疲れがピークに達し、高熱を発して寝込んだ。遅い夏バテ。1、2年ともそうだった。ぼけっとして、こりゃ全然頭に入らんなと思いながら、景色のように黒板を眺めていたことを覚えている。数学がわからなくなるはずである。体調が回復したと実感したのは、十月も入ってから。

 

 祖母が倒れたのも、暑い夏の日だった。小学校から帰ってみると、祖母の様子がおかしい。しゃべろうとしているが、モゴモゴしているだけ。失禁のあとのような水跡もある。慌てて、父の勤務先に電話した。自分から父に電話をしたのは、この時がはじめてだった。飛んで帰った父は、すぐに医者を呼び、祖母は、脳卒中と診断された。自分で医者を呼ぼうとまでは気が回らなかった、そんな年齢の時である。
 数日が山でしょうと言われ、下手に動かすことは危険だと、家で寝かされていた。連日、暑い夜だった。病気特有の高鼾が部屋に響いていたことを覚えている。一週間後、落ち着いたころを見計らって、日赤に入院した。

 今も、年寄りは夏に亡くなることが多い。完全温度管理の病院の中でも、それは変わらない。
 人間、夏を乗り切るというのが、いかに大変なことか、あのとき、子供心に思い知った。成長盛りの頃でも、私は駄目だったし、今も苦手である。熱を出さなくなったのは、毎年の繰り返しで慣れてきたことと、冷房の普及の賜物。夏、高熱出すなんて、ちょっと、はしゃぎ疲れたガキん子みたいで恥ずかしい、絶対避けたい。そんな意地で、なんとかなっているというのが実情かもしれない。
 夏を乗り切るのが歳とともに辛くなって、そして、ある夏、乗り切れなくなって死んでいく。医療の発達していない古典の時代、そうやって、今より短いサイクルで、代が変わっていったのだろう。
 四十歳代も後半、体を傷めて、人生の階段を一段下った感じがあるので、猛暑の熱風の中、あと何時間たったら日が落ちて、気温が下がるのだろうと、じりじりしながら時間を過ごすあの感覚に対する恐怖感は、以前に増して強くなっている。

 

 今日は、台風が来て、小学校はお休みになった。これも、今は、レーダーで観測、ネットで状況が逐一わかる。外出を控えたりして、心の準備ができる。フェーン現象で36度にもなるとニュースで知って、そのつもりの服装で職場に行く。
 でも、古典の時代、急に風が出てきたなと思ったら、暴風雨。その時、偶然に外にいて避難することができなかったら、それで終わりである。さぞや、自然や気象に畏怖をもったことだろうと思う。
 昔、四季の移ろいは、人間生活の「彩り」などという生やさしいものではなく、生き死にと同義だった。
 言葉遊びではないが、「四季」は「死期」に通じているように思う。

 2005年09月06日
   A(まるに)
 缶ビールを1缶だけ買ってきた。大量に買うと飲んでしまうので、欲しいとき1缶ずつ買う。
 「さあて、ビール飲もう。」と言うと、ビールじゃないでしょと、愚妻が突っ込む。その通り。120円だったので、酒税法上のビールではない。慌てて缶の下に書いてある種別を確認して、こう言い直した。
 「さあて、その他の雑種A飲もう。」
 そのたのざっしゅまるに。
 「その他」というのも、「雑」というのも、ちょっと嫌だが、「まるに」という言葉が、何ともはや、悲しい響き。
 これでもかといわんばかりに中心から外れている。
 2005年09月05日
  ダンス、ダンス、ダンス。

 文化祭があった。昔は秋のイメージだったが。今は夏休みに準備させて、9月すぐに実施のところばかり。
 文化祭は、その年の学校の実態が反映される。
 ステージ発表。過去、獅子舞、伝統太鼓、和楽器、フラメンコ、大道芸、ステージ即興アートなど、お客さんを飽きさせない、楽しく充実したものも多かった。
 今年は、ダンス・ダンス・ダンス。それも、ジンギスカンやら、ピンクレディやら、懐かしの八十年代ソングで踊る。全員、どっとこどっとこ踊る。お客さんはちょっと飽きる。
 聞くところによると、振り付けDVDというのがあって、それでやっているパートもあるらしい。だから、他校でも同じ曲をやっていたそうだ。ちょっとオリジナリティに欠ける。

 文化祭なんだから、覚えても仕方ないことせずに、何か文化に触れるものやろうというのが、合い言葉だったのだけれど、その「文化」の部分が消失してしまったようだ。前段階がなくなって、はじめにパフォーマンスありきで進んでいった感じである。
 獅子舞や和太鼓は、大人の指導者を呼んできて本格的に練習していたし、フラメンコは、まず、スペイン文化勉強するところからスタートしたというような話を、当時聞いた。習っている子がクラスにいて、その生徒の紹介で踊りの先生から基本を習い、彼女が要所要所でソロをとって、ばっちり決める。にわか仕込みの他の子は、多人数のパフォーマンスを繰り広げる。本当に感心したステージだった。
 そんな前段階の努力をしっかりした子たちには、日本の祭りの伝統や、異文化が記憶の底に残る。
 今頃、親世代のなつかしソングに振りをつけて、何が残るのだろう。
 ストレス発散? ガス抜き?


 なぜ、こうなったのか。
 尻叩きで忙しくなって、生徒に、文化祭の理念の説明や方向付け、ちょっとした仲介をしなかったから。文化祭の伝統藝能に燃えていた、異動されたK先生が観たらどう思うだろう。

 

 ……と、ちょっと思ったけど、毎年、何らかの問題点はあるもの。生徒が燃えずに、お客さんになってしまっているところこそ悲惨である。みんな大車輪で頑張って、若さを炸裂させるパワーはしっかり維持した素晴らしい文化祭であった。

 

 

 

 

 

 

 

(文化祭の第三文明ショップで売っていたアイピロー GX8)

 

 2005年09月04日
  今時の読書感想文。

 ようやくノルマの読書感想文を読み終わった。
 まず、5クラス分を読んだ。原稿用紙5枚×40人×5クラス=計1000枚。その中から、いいものを選び、各人持ち寄って、校外コンクールに出すものを選び直す。予選・本選方式。これが、5枚×60編=300枚。合計1300枚の大長編を読んだことになる。ただし、誤字、意味不明など読みにくいこと甚だしく、楽しく3000枚クラスの大河小説読んだ以上の労力。
 この時期、当分、へたくそな字読みたくない病に罹る。

 さて、最近の傾向を思いつくままに……。

 

○小説より実録もの中心である。
 不況になった途端、顕著になって、もうだいぶたつ。この傾向の問題点は、私はあちこちで訴えているので省略。そもそも、感想文、書きにくいと思うのだが……。
  いじめもの、障害もの、カンボジア・アフガンなどの発展途上ものが定番。
 今回、先のイラクでのジャーナリスト死傷事件や福知山線脱線事故などの速報社会派ものが混ざる。今年起きた事故の本の感想文なんて、昔は考えられなかった。出版も早くなったし、旬の話題を求めているのが今の学生さんなのだろう。でも、私に言わせると、「現実」ばかりの読書は、人間を育てない。

 

○定番には、ゆっくり流行廃りがある。
 一時期の「アルジャーノンに花束を」「五体不満足」などはさすがに下火になってきた。ここのところは「夏の庭」あたりが定番。まあ、こうした消長は、いつの時代もあること。

 

○名作主義は廃れる
 とっくに廃れているはずと思うかもしれないが、そうでもない。一時期、「名作を読まねばならぬ必要はない。」と、事前に指導したくらい、彼らの日頃の読書傾向とはかけ離れた、名作主義が横行していた時期があった。せっかく読むのだから、日頃、読まない名作をということらしい。「車輪の下」がその最たるもので、本当に面白かったのやら、いつも疑問に思いながら読んでいた。それが、さすがに完全に廃れた。20年くらい前まで大量にあった「人間失格」なども、今では1編くらい。
 今年、倉田百三「出家とその弟子」があって、ちょっと驚いた。親の推薦らしい。

 

 ○その結果、ほとんど知らない作品ばかりになった。

 恩田陸、梨木香歩あたりが大人気だが、彼女らの作品は、だいたいどんなのか、まだ、わかるほう。まったく作者もタイトルも知らない感想文を読むので、いい感想文なのか判断がしづらいこと、しづらいこと。 本が大量発行大量消費のメカニズムに組み込まれているので、各自、選択がバラバラ、傾向もつかみにくくなった。そうした意味で、妙にバラエティ豊かになった。

 

○読書経験が不足しているので、程度の低い「ライトノベルス」クラスで、妙に感激したかのような作文が多い。

  高校生が、本当にこんなので満足しているのだろうかと心配になる。わかっていて、面倒だから、楽そうなのを選んだだけ。いい本だなんてさらさら思っていない。褒めまくっているのは、世渡り、嘘も方便というものです、というのなら、まだいいけど。

 

 最後に、ああ、またかとゲッソリする感想文を紹介します。
 まず、なぜ、この本を選んだかについて、私的な出会いの講釈が1枚弱も。ようやく本の話題になったかと思ったら、本の腰巻きクラスの紹介文が続く。これで、2枚目。
 それから、冒頭からの部分的な粗筋を紹介して、短い感想がつく。これを数回繰り返す。文末に「私は本当によい本を読んだと思いました。」と手放しで褒めちぎって終わり。4枚目に数行いったところでチョン。一応、5枚という要件は満たしているが、実質は4枚。
 その、いらぬところを排除すると、本自体の感想は、たった数行ということになる。
 文末が「敬体」のものも多く、読書感想文は、こういう書き方をしないといけないかのごとくである。「〜と思いました。」では、子供っぽく映る。小学校から、作文というのはこういうもんだと思いこんでいるのだろう。おそらく念頭に置いている文章の程度が低い。これも本に触れていないから。
 ここから、大学受験の小論文までには限りなく逕庭がある。
 引き上げる目標ラインは昔も今も変わらない。だが、高校1年のエントリーラインが年々下がっているので、その間は広くなった。そこをつなげるのが我々の仕事。

 つまり、何が言いたいか。
 教える方は、結構、大変ということです。

 2005年09月03日
   微妙な違い。

 毎日、出勤はしていたものの、8月は朝から暑さが厳しい。また、外に出向くことも多かったので、徒歩通勤をサボっていた。もちろん、言い訳。
 ずるずるとマイカー通勤にならないように、9月という区切りを理由にして、1日より徒歩再開。
 初日は、夏休みの自由研究の工作を手に持った小学生たちと沢山すれちがった。久しぶりの学校。昔と変わらぬ光景である。大きな箱のようなものを持っている男の子がいた。巨大貯金箱といったところだろうか。
 夏の日差しにやられて、街路の草葉が弱っている。反面、しっかり水遣りをしているお宅の植物は元気そうで、緑にも差があることを知る。それは、まるで野良猫と家猫の違いのようだ。君たちはいいご主人様の下で生きているねと葉っぱに声をかけてあげたいくらい。
 朝顔を発見。
 そういえば、昔はあちこちの家庭で育てていたが、最近は、あまり見かけなくなった。子供の蔓マキの勉強から外れたのだろうか。
 気になっていた、壊れて放置されていた車も撤去されている。
 1ヶ月見なかった道々の景色が微妙に違っている。それを楽しんで通勤。

 2005年09月02日
   防災の日のニュース

 昨日は、関東大震災由来の「防災の日」。
 テレビのニュースで、子供たちに、何を持って逃げるか考えさせる取り組みを紹介していた。子供があげたものは、「ボール」「ゲームの本」「ヘアバンド」など。大人が驚くようなものがかなり混ざる。どれが必要かみんなで話し合って決めていたが、ある男の子は必死にゲーム本の必要性を訴えてた。彼にとっては大事なものなのだろう。指導者は、子供の発想を否定するのではなく、考えることが大事とコメントしていた。
 「懐中電灯」なんていうオーソドックスなものも混ざってはいたが、それも含め、どことなく、お楽しみ合宿に持っていく荷物のようだった。本当にサバイバルに必要なものは、大人が当然用意すべきもの。自分が用意して持っていくものは、自分が避難所で「必要」と感じたものだけという<限定>を感じる。子供だから微笑ましいともいえるが、ちょっと想像力が欠如している。大人が何でもお膳立てをして育てた結果。

 

 女優の岸恵子さんの子供の頃の体験が、かなり前、「天声人語」に紹介されていた。昭和二十年五月二十九日の横浜大空襲で、彼女は九死に一生を得たのだが、その時、多くの子供たちは、大人に勧められるまま、粗末な防空壕に入って、全員亡くなったという。
 焦げた死臭漂う中、彼女はこう思ったそうだ。
「もう、子供やめよう。」
 なんと、壮絶で凛とした決意。

 

 この二つの話、同じ年頃の子供とは思えない。

 

 2005年09月01日
  見事、落選。

 全然、心の区切り感はないが、今日から、昔でいうなら二学期開始。ただ、今は多くの高校で二学期制をとっているので、学期の頭ではなくなっている。始業式もない。

 今日は、私的なメモリアルでもある。スポーツクラブ入会丸一年の記念日。去年8月中に、おためしで何度か通ってはいたが、正式には9月1日付の入会。
 一年間で、百回ちょっと通った。3日に1回のペース。毎回、個人用カルテに血圧を記入していて、担当トレーナーが、区切りの回数になると、マーカーで「祝100回」などと書いてくれる。それで、正確な数値が知れるのである。古株では、祝1200回なんて人もいる。
 当初は、一日置き以上のペースで行っていた。それで、後半、アクティビティがぐっと落ちても、それなりの回数になったのである。来年の今日、何回と書くのやら。ちょっと、自戒ぎみ。

 

 もうひとつジム話題。
 七月に書いた、七夕月の企画、「俳句・川柳を作って、短冊を笹にかけよう」の当選者の作品が貼り出されていた。掲示を見落としていて、確認が遅くなった。
 私は、見事、落選。
 優秀者のは、みんな巧い。ストレートな伸びやかさ。こじんまりと職業的スキルで纏めたような我が句は、やっぱりダメである。
 ところが、八月の小企画に「年代別握力検査」というのがあって、私は男性四十歳代の部3位に入ったとかで、ジムのレストコーナーで使えるプロテイン飲料の試飲券をもらった。
  文学でハズレて、もっとも苦手としている体力でご褒美をもらえるなんて……。だいたい、愚妻より二の腕細いのに……。
 ホント、わからんものである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

(通っているジム。2005.6 GX8) 

 

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(マイノートパソコンと今は無き時計 2005.6 リコー キャプリオGX8)

 

 

 

 

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