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 私の「かあてんこおる」U 1999-2000 
 私の「かあてんこおる」U 2001-補録 
金沢市民劇場

□□  目  次  □□

 

一九九七年
 一月『馬かける男たち』           
  四月『キッスだけでいいわ』     
   六月『君はいま、何処に…』      
    七月『カラマーゾフの兄弟』    
     九月『越前竹人形』          
      十一月『花よりタンゴ』    

 

一九九八年

 二月『サロメの純情』                          
  四月『さぶ』                                
   六月『ニノチカ』                          
    七月『夏の盛りの蝉のように』            
     九月『根岸庵律女』                    
      十一月『橙色の嘘』                  

 

 一 九 九 七 年

 

馬の話は馬面の人が……   
                 テアトルエコー公演『馬かける男たち』 第205回例会

 いつも楽しいコメディを我々に提供してくれるテアトルエコーの舞台。
 しがない詩人のアーウィン(田村三郎)は、競馬の勝ち馬を百発百中で当てる特技がある。それを知ったパッツィ(沖恂一郎)をはじめとするギャンブラーの三人組は、大儲けを企み、彼を拉致して……。
 タイトルの直訳をすると、「一匹の馬にのった三人の男たち」となる。この場合、馬とはアーウィンのこと。あれ、ということは、主役は三人のギャンブラーの方だったのだ。そういえば、邦題も複数形だ。こう考えると、アーウィンの方は狂言まわしで、大事なのは、三人が徐々に大金に目がくらみ、うわつきはじめ、殺気だってくる様子を描くことにあるとわかる。
 人間、あれだけの大金になってくると、誰でもせっぱつまってくる。そうした人間の哀れな一面を、実に面白おかしく活写している。
 パッツィの他、フランキー(山下啓介)、チャーリー(小池浩司)の三人の、間抜けでお人好しの個性が、うまく演じ分けられていて、そのドタバタぶりが楽しい。
 私の知人の春日野星也氏は、一昔前の演藝界のトリオ漫才になぞらえて、この三人を論じていたが、なるほど、この芝居を論ずるには、それが最適。さすがである。ついでに、彼はアーウィンの特殊能力が種明かしもなくまま終わってしまうことに物足りなさを感じ、自作の結末を提案しているので、ここに紹介しよう。

   彼は実は馬頭観音であって(この際、洋の東西を問わない)、改悛したギャンブラーたち  を見届け、オードリーに別れのキスをした後で、ペガサスの如く大空へ飛翔する(感動的な  ラストだ)。義兄のクラレンスはバチが当たって馬にされてしまう。
   と、勝手にストーリーを作りながら舞台を見上げたら、クラレンス役の沢りつおの顔は最  初から馬面だった。

 うーん。うまい。でも、春日野さん。ちょっと出来過ぎです。沢りつおの顔が面長だというところから話を作っていませんか。もしかしたら……。
 それにしても、せっかくの喜劇。もっと楽しもうという気が、金沢の人間にはないのかしら。喜劇を静かに観たってつまらないのに……。いつも、このことで腹だたしい思いをする。
 昔、清水ミチコの物マネコンサートが金沢厚生年金会館であって、タダ券をもらって行って来た。熱演だったのだけれど、誰も笑わなくて、白けた雰囲気がただよい、彼女がかわいそうだった。悪いのは明らかに観客の方である。
 高名なベテラン俳優の某氏は、金沢での公演はこりごりだと言ったとか言わなかったとか。だから、金沢で笑ってもらえたら全国に通用するという話もあって、金沢人の無反応ぶりは夙に有名である。
 金沢人は楽しもうと思って席についているのではなく、プロの喜劇で「さあて、どれだけ我々を笑わせてくれますか、お手並み拝見」といった感じで観ているようなところがある。
 で、この芝居、おもしろくなかったのかと言えば、帰り道、おもしろかったねという感想を言い合う声があちこちから聞こえてきたりして、何だか、シビアにも徹し切れない県民性を感じた。
 と、観客に怒ってばかりで字数がふえた。そうそう、この芝居で絶対に誉めておこうと思ったことがひとつある。あの舞台装置、実に合理的で、よくできていますね。
 あとでパンフレットをみたら、藝術選奨文部大臣賞新人賞をとっていて、なるほどと納得。私が誉める必要もないか。                    (アーウィンはヘボ詩人)
                                                               (1997・2)


会員架空座談会      
       秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場公演『キッスだけでいいわ』第206回例会

A 青年劇場の芝居は、以前に観た『遺産らぷそでぃ』なんかが典型的なんだけど、テーマがは っきりしているのはいいけど、時に説教くさくて、閉口することも多いっていう印象を僕は持 っているんだ。だけど、今回のはそんなにひどくなくてよかったんじゃない?
B うん。そうだね。池袋近くの食堂「風流亭」に集う登場人物の、それぞれの立場や職業から、 外国人労働者の問題が語られていて、構図がはっきりしていたからだと思うよ。
  それから、僕は、おかみさん(小竹伊津子)の、いかにも、昔、藝者をしてましたという気 働きの感じられる演技がよかったな。久しぶりに、きれいな日本語の台詞を聞いたっていう気 がしたよ。
C 気が付かなかったけど、言われてみると、そうだね。そういえば、場面場面で、季節にあわ せて小道具や衣装をかえていて、季節感が出ていたのも、同じように、細かい神経が感じられ たね。サンシャイン六〇ビルの書き割りに当てる照明によって、時間や季節を表現していたの のよかったし。
A 下町的な雰囲気のこの大衆食堂に、あの高層ビルに象徴される「現代」が流入してくる、そ の対比にもなっていたしね。
C そうそう。
D でも、私、最後に貞麻呂(板倉哲)さんが、ニュース解説調の演説をはじめて、ああ、やっ ぱり、青年劇場。やめときゃいいのにって思ったわ。ほんとに。
C まあまあ。高橋正圀脚本だからね。長年来の会員の人は、とっくに覚悟して観ていたよ。
                      (人の意見のモザイクで感想をでっちあげた男)                                               (1997・4)


作家という人種は
                       劇団民藝公演『君はいま、何処に…』 第207会例会

 今回の例会は、私の観る日が最終日だったので、何人もの人から、印象を聞かされていた。その中に「『東芝日曜劇場』の舞台版みたいだった」というのがあって、感想を聞きながら、自分の子供の頃の一場面が脳裏に浮かんできた。
 あの頃……というのは、NHK大河ドラマで『赤穂浪士』(昭三九)や『太閣記』(昭四〇)をやっていた頃のことである。
 我が家の日曜の夜は、家族全員、茶の間のあかりを暗くして、テレビにかじりついていた。当時は、暗くしたら目に悪いなんて、まだ言われてなくて、当時の娯楽の王様、映画と同じ感覚だったのだろう。大河ドラマの方でさえ、子供心につまらなかったくらいだから、『東芝日曜劇場』がおもしろいはずもなく、ブラウン管の前で、良い子はおやすみモードに入っていた。
 日曜劇場と聞くと、私はあの家族の光景が、まるで第三者が撮った古い白黒写真か何かのように思い出されるのだった。
 長じて、この時間帯は、森光子のパンツ屋の話や、池内淳子の『女と味噌汁』などの人気シリーズがあって、楽しみな番組の一つになった。
 あの頃、多くの人をひきつけたのは、原則、一話完結という短い時間枠の中で、きちんと人間が描けていたからだと思う。連続物のように、ゆったりと話を展開できない分、無駄のない構成が、いわば「短編小説」のような良さにつながっていたのだろう。
 実際、今回の芝居を観て、ああ、人間がしっかり描かれているなというのが、第一印象。大滝秀治演ずる老小説家の気持ちの動きがよく読み取れて、それが積み重なっていくうちに、親しい存在になってくる。
 観る者に、これが起こってくると、こう言えばこう反応するだろうということも察せられるようになる。大滝の大熱演もあって、後半、観客は一緒になって田嶋家の浮沈を心配していた。

 この舞台の主人公田嶋征一郎のモデルとなった小島政二郎は、芥川龍之介を慕って文壇に入った活動歴の長い作家だ。日本近代文学の世界ではそれなりに有名な人だが、大ヒット作はなかった。一般に膾炙しているという程でもない。
 作家とのつき合いも広く、作家を描いた作品も多い。例えば、『聖体拝受』(昭四四)などがそれで、この作品は、文豪谷崎潤一郎をモデルにしている。ずっと文壇の長老扱いをうけていたが、個人的には、どうも一流の下、二流の上の人というイメージがある。
 この前、丸谷才一の文章を読んでいたら、同様の発言があって、どうもそのあたりの人と思って問違いあるまい。
 「昭和三七年、妻みつ子の死にあい、三九年鎌倉市二階堂荏柄一二に転居、ここで一人娘美籠の死に哭いたが、新夫人視英子を迎え、第二の人生へ新しく踏みだした」(「日本近代文学大事典」講談社)というあたりがこの芝居で描かれている訳だが、芝居の主人公が、どれだけ小島の実像を伝えているのかは、よくわからない。しかし、あのわがまま勝手ぶり、身のまわりのことができない子供っぽさなど、いかにも昔の文士なら、さもありなんというイメージを我々にまき散らしていた。
 あの年齢で、外に女を作り、喜んで電話をとっている様子は、いくつになっても男は困ったものだという感を抱かせる。私も同じ男として、死ぬまで、ああいうスケベっ気は抜けないんだろうなと、余計な心配をしてしまった。

 先日、『失楽園』(講談社)で今年大ブレークの中の渡辺淳一の講演会を聞いた。
 会場は、やはりと言うべきか、女性客ばかり。ソフトな物腰で、いい年齢なのに女性があこがれる種類(?)のスケベっぶりをふりまいていた。
 このベストセラー小説は、性描写ばかりで話題になっているが、やはり、普段より、ずっと体力とエネルギーがいったという。講演内容も愛欲の話に終始していた。普通の人なら恥ずかしくて、酒でも飲まないと面とむかって人に言えないようなことを、スマートに聴衆に語る。作家って、一日中、ああいうことを考えているんだなあと思うと、何やらおかしくもあり、大変だなとも思った。好きでなきゃ嫌になります、きっと。
 旦那が、毎日、午前様というのは、離婚の原因として当たり前で、小説にならないが、真面目な夫が、いつも判で押したように夕方定刻に帰ってくる、それが嫌で離婚となる。その、理屈では割り切れないところを、小説は追求しているのだという。
 そういえば、田嶋と愛人ささ(水原英子)との関係も何やら妙なものだ。この舞台は父娘の関係を描いているのだけれど、私はこっちの関係ばかり気になった。ささは、別に男がいる喰わせ者のようにも思えたが、一人娘のみこ(奈良岡朋子)を気遣っているようでもあり、もしかしたら、老作家にもう一花咲かせてあげたいと考えて、強くでているだけで、実は、大変な恩人なのではないかとも思えたり……。
 ただ、みこが死んでから、今後、あなたの心の中でみこはどんどん大きな存在になって、私の入るスキはないという彼女の台詞は心に残った。肉体の不在は、時に反作用を起こすというのは、人の心の真理である。
 最後の場面、みこの口の悪さは、外部との防波堤であり、心のバランスをとるためだという理屈を、老作家は叫びの中で語るが、その外部の圧迫が、どうもはっきりせず、そのあたりは解説口調となっていて残念だった。ラストは些か冗長だったようだ。
 友人は日曜劇場と言ったけれど、私はNHKラジオで三十年以上続いている森繁久弥の『ラジオ名作座』にぴったりだと思った。
 いや、もうとっくの昔にやっているかもしれない。            (ジョン・ミルトン)
                                                                  (1997.6)


私の教養が音をたてて……。
                      俳優座公演『カラマーゾフの兄弟』第208回例会

 あのドストエフスキーの長編小説を、三時間で観せてしまうのだから、脚本の八木柊一郎はさぞ苦労したろう。芝居は、休憩もあれば、場面転換のための暗転もある。実質的には二時間ほどで、ともかく、原作者が言わんとしたことを表現せねばならない。映画の三時間とは較べものにならないほど制約はきつい。
 今回、金沢市民劇場事務局の方から、俳優座上演台本をいただいたので、観劇後、思い出しながら読み返してみた。キリスト教的精神基盤のない我々日本人に、何とかドストエフスキーの問題意識を理解して貰おうという配慮がひしひし伝わる台本であった。
 無神論者の次男イワン(武正忠明)と、神に仕える三男アレクセイ(森一)との思想上の対立は、いかにも「神は死んだ」の時代らしい構図だし、イワンの影響を受けた私生児スメルジャコフ(中寛三)が犯した殺人の理屈は、無神論の矮小版としてなかなか面白い。
 また、父の気性を受け継ぐ人間臭い長男ドミトリィ(中野誠也)を好きになろうと努力し続けた令嬢カテリーナ(川口敦子)が、最後には、弟イワンを弁護して、彼を裏切る姿の中に、キリスト教の「汝の敵を愛せよ」という博愛精神が、時に、偽善に陥り、自分の真実の心をも覆い隠してしまう愚に陥ることを揶揄しているということは、私にも理解できた。この芝居では、その辺りは、実にはっきり切り取って使ってあった。
 しかし、例えば、アレクセイが常に民衆に目を向け行動する、アンチ書斎派の僧侶であることは充分わかっても、最後に、皇帝暗殺の指導者となる過程の説明は、あれだけではあまりに不十分である。芝居では、大事な額縁(プロローグとエピローグ)として使われた部分でもあり、労働者の息子イリューシャ(寺岡潤)を登場させたりして、時間をとっている割には、うまく練り込まれず、観客は、彼に思い入れできないままラストを迎えてしまい、感動を減じさせてしまっている。
 おそらく、原作に込められたメッセージは、まだまだ多かったはずだ。原作を劇化する際に落とした部分は置くとしても、今回の芝居から読み取るべき大事な部分を、私自身、本当に気づいているかどうか、正直、心もとない。その辺りが、国際理解していない日本人の、自分も典型的な一人として自覚されて、情けない。
  演技面では、松野健一扮する父親フョードルが実にそれらしい怪物ぶりで達者。鶉野樹理の酒場女グルーシェンカも魅惑的で、宝塚みたいだった。ただ、川口敦子の令嬢カテリーナは、いくらなんでも、あれで令嬢と思えというのは無理である。
 役者さんは華の有無が命。華があれは、そのオーラで、どうとでも観客を引っ張ることが出来る。しかし、川口さんは堅実な演技で、我々の仲間内でもファンの多い方だが、いかんせん、地味な俳優さんである。オーラがなければ、素の年齢が前面に出てしまう。今回は、正直、適役とは言い難かった。俳優座の中で、年功序列などの適材適所の基本原理以外の力学が働いてしまった結果なのだろうか。もちろん、これは下司の勘ぐり以外の何ものでもないが……。

  ところで、正直に告白すると、私は原作を読んでいない。
 今回、知ったかぶりをしたって、どうせバレると思い、それに、他の人も、どうせ読んでいないだろうとたかをくくって、「私に訊いても、どんな話なのか、さっぱりわからないよ〜。」と言いながら、チケットを仲間に配ったのであった。
 ところが、券を受け取りながら彼らは、何をか況や「大学時代に読んだ」とか、「途中までなら挑戦した」とか言うではないか。登場人物の人物論までされてしまった。うーん、皆さん教養人なんですね。おそらく、そんな人は、私よりもっとこの話の深いところまでわかって観ていたのではないかと考えてしまって、自分は少なくとも標準的な教養は持っているのではないかという自惚れが吹っ飛んでしまった。
 なんて怖い芝居だ。                      (どうせ読んだことのない男)
                                                            (1997.7)


あの頃、昼メロ観てました
                          地人会公演『越前竹人形』第209回例会
 
 多くの人にとって、この『越前竹人形』は、映画の印象が強いのではないだろうか。しかし、私は、何と言っても、今から三十年程前の司葉子主演のTVドラマのほうだ。今は、お昼は、お笑いかワイドショーばやりで、あまりメロドラマをしていないが、あの頃は、どのチャンネルをまわしても、美人の奥様が、かっこいい男性に言い寄られていた。
 思春期に観た印象は強烈で、一生、そのイメージでその作品を見てしまうということを、今回、実感した。今でも、司が雪の中に消えていくテレビのシーンをはっきり覚えているところをみると、よほど感動しながら観ていたんだろう。「よろめきドラマ」(なんと懐かしい言葉!)の時間帯で、確かに、あの昼ドラだけは、「藝術」していたように思う。
(ところで、急に湧いた疑問。何でそんな昼に、テレビが見られたのだろう?)
 私の印象では、女主人公の玉枝は、人間臭のない、べールがかかったようなイメージがある。妊娠騒動が不思議な感じなのだ。作者は、おそらく彼女を竹の精として描きたかったのだろう。というより、繰り返し繰り返し、テレビではそういう描かれ方をしていたのだろう。その影響か、私は、この物語は、喜助を主人公にした母性思慕の話だと思っていた。
 今回、久しぶりにこの話に触れることになった訳だが、大人になってしまった私は、いらぬ教養から、このモチーフが『源氏物語』以来の日本文学の伝統を受けついでいることを知ってしまっており、そうした面を確認しながら観るという純粋ではない視点で観ていた。

 この物語が話題になると、私はいつも、作者水上勉と谷崎潤一郎とのエピソードを思い出す。
 老齢となって、人の作品をほとんど読まなかった大谷崎が、唯一、自ら筆を執って批評文を書いたのがこの作品なのだ。これで、水上の文壇的評価は決定的となった。彼は編集者として、以前、谷崎と会ったことがあり、推賞してもらったお礼にと京都を訪ねたが、この文豪は、以前会ったことなど覚えておらず、純粋に作品を気に入って批評してくれていたことを知る。水上が、以後、谷崎を大恩人として慕ったことは、水上文学ファンには夙に有名な話である。彼は後年、『谷崎先生の書簡ーある出版社社長への手紙を読む』(中央公論社)という本も上梓している。
 谷崎は、推奨文の中で、自分ならこう書くという技術批評の他に、モチーフが自分と似ていると指摘している。特に晩年の作『夢の浮橋』(昭三五)との類似は明らかで、「父の女性を息子が譲り受けるという非倫理的な関係」ー近代合理主義では割り切れないあやしい情緒が、ふわっと立ちのぼってくる共通点がある。
 ところが、この芝居では、男側のそうした心情よりも、主演女優を中心にした華に期待した作りになってしまっている。「母恋い」という、ある種インモラルなテーマは、波瀾万丈な女の人生にすりかわってしまっているのだ。
 きつい言い方をすれば、有名女優を使った芝居の悪弊が、この芝居にはっきり出ているといえる。水上の小説を虚心に読む限り、女の生涯ものだと言う人はおそらくいまい。有名女優で集客を確保し、彼女中心に話を仕立て直す、まさに演劇の大衆性を表している訳で、商業演劇としては正道なのだが、作品の側から言うと、似て非なるものとなっている。
 もちろん、私はそれを非難しているのではない。脚本家の苦労はよくわかっているつもりだ。もし、作品に忠実にすると、そもそも有馬稲子の出番と台詞がぐっと少なくなって、それこそ、観客からブーイングを喰らってしまうだろう。充分わかっているつもりなのだが、それでも演劇という表現手段に感じる限界をまた感じてしまった次第。
 それにしても、有馬稲子の演技は、少々キップがよすぎだ。鉄火肌の姉御というと言いすぎかもしれないが、あれでは、同じ竹でも、竹の精霊ではなく、「竹を割ったような」の方の竹だ。もうすこし、とらえどころのないあやうさというか……。
 回転舞台を使った演出などの創意工夫、金井大、犬塚弘ら脇を固める演技陣の達者ぶりなど、まず文句はない。商業演劇らしい華やかさは確かにあった。
 だけど、最後まで、ああ、司葉子で観たかったな。彼女だったらどんな雰囲気になっていたかなと、有馬が出てくるたびに、心で変換して観ていたことを、私はここに正直に告白します。
 最後に、くだらぬ付け足し。
 以前、福井武生市の竹人形の里にいったのだが、あそこで売っていた竹人形は、ひどく高価な上に、藝術ぶっていて好きになれなかった。
 「伝統産業工藝展」などに出品される、何の変哲もない形ではあるが、実用に裏打ちされた、緻密に織り上げられた籠の美しさなどに較べて、単におみやげものの巨大版といった感じで、違いが判らなかった。正直な話、この小説の悪影響を感じないでもなかった。
 しかし、この小説がなければ、そもそも竹人形が武生の特産品にもならなかった訳だから、何ともいえないのだが………。    
         (葉を司るのだから、竹の精はやっぱり司さんでしょう……まだ言ってる男より)                                               (1997・9)


頑張れ、金太郎!
                         こまつ座公演『花よりタンゴ』第210回例会

 もう十年前の、一九八七年二月一日、井上ひさしの講演会とサイン会が「香林坊アトリオ」であった。その時、この戯曲『花よりタンゴー銀座ラッキーダンスホール物語ー』(集英社)にサインをしてもらったこともあって、この芝居は、それ以来、気になる存在だった。
 彼は、私の名前を間違って書き、私が指摘すると、「一字訂正。申し訳ありません。井上」と、あの丸っこい律儀な字で書いた上に、正しい字を書き足してくれたので、その頁一面、彼の字だらけになって、逆に得した気分になったことを思い出す。
 確か、講演の中味は、例の離婚騒動直後だっただけに、一人身のわびしさを微に入り細に入り語っていた。自らを捨てられた側に規定して、逃げた妻に多少の皮肉は言うが、悪口にはなっていなかったところはさすがだった。
(私なら、そうなった時はボロクソ言うだろうな。男としての矜持と腹立ち、天秤にかければ、無論、腹立ちの勝利となる。)
 彼が言うには、机の上に、うっすらホコリがつもっていて、それが日の光でキラキラ輝いているのを見て、ああ、俺は離婚したんだなと実感したという。(うーん。いかにも小説家らしい描写だ。さもありなん。)

 今回の芝居、出演者全員、藝達者な人ばかりで、アンサンブルもおちる部分がなかった。金太郎の小林勝也しかり。桃子役の土居裕子の唄もそう。大いに楽しんで、次の日、久しぶりにサイン本を再読した。
 今回、手なおしがあったということなので、そのあたりに興味があったのだが、結論からいうと、戯曲の根幹に何の変化もなかった。演出上の違いで、主に笑わせる部分を強化した程度のようだ。
 初演を観ていないので、何ともはっきりしたことは言えないが、これは大事なことだったのかもしれない。初演は井上ひさし本人の演出だった。エッセイの中で、自分でやってみて、演出の才はないと痛感したと書いてあるのを読んだことがある。作者にしてみれば、プロに演出しなおしてもらうことで、作品のボルテージはきっとあがるという読みがあったのだろう。
 作品の構造はゆるぎもない。金太郎の変節した生き方を、日本人として当然のことをしただけと規定して、また、忘れて新しい人生を歩もうとするのに対して、藤子(三浦リカ)が、「私は忘れない。(中略)忘れないという所から出直します。」と反論し、暗転になる場面に、作者の思いはあきらかである。 
 私はそんなに違和感もなく、「ああ、出た出た。井上さんの主張。」といった感じで観ていたのだが、人によっては、作者が前面に出てきた上に、後の筋に明確にからんでいないという理由から、あの場面、好きではないという人もいた。月岡家の彼女たち自身が最大の姉妹ゲンカをして、そして、また、まとまっていく様子に、彼女たちなりの「忘れないという所から出直す」が表現されているのだと、おそらく作者は反論するだろうけど……。
 戯曲を読むと、例えば、桃子がオーディションを前にして、ビビって言う台詞、「並木路子や渡辺はま子よりうまいわけないじゃない。」などは、目で読む限りは、面白くも何ともない箇所である。が、しかし、途中までは自信たっぷりに、最後にヘナヘナと、「わけないじゃない」と、一度切って続ければ、笑いの場面となる。役者と演出家で、そのあたりをつめていく小さな作業のつみ重ねがあってこそ、我々に観る楽しさをあたえてくれるのだろう。
 最後に言わずもがなの注文。
 せっかくのダンスホール。お客さんが大勢入って営業中の場面があったらもっと華やかになったろうに………。
 予算の関係でしょうね。きっと。                 (シャル・ウィ・ダンス)
                                           (1997・11)

 

 一 九 九 八 年

 

サロメになれなかった女 
              地人会公演『サロメの純情〜浅草オペラ事始め』第211回例会

 大正期の浅草オペラのスターで、二十八歳で早逝した高木徳子(前田美波里)を主人公にした「女の半生記」もの。
 彼女は、明治二十四年(一八九一年)、神田の生まれ。十五歳で結婚し、渡米。古典バレエと歌を、わずか数年でマスター、米国中を巡業公演した。当時のアメリカでは、和服での踊りが大変珍しがられたという。第一次世界大戦のため、帰国。日本のショウビジネス界において、タイツ姿の爪先立ちダンスで一世を風靡する。
 ただ、人気とは対照的に、舞台裏では、夫の高木陳平(中山仁)とは離婚状態、演出脚本の伊庭孝(壌晴彦)とは意見が対立、興行ヤクザの嘉納健治(福原一臣)も絡んでくる。こうした状況悪化の中で、地方巡業中に倒れ、大正八年(一九一九年)、死亡するまでを描く。
 我が国初のミュージカルスターの割に、日本での活躍がたった四年ということもあり、世間的には有名ではない。少なくとも私の周囲で、彼女を知っている人はいなかった。芝居として取り上げられたのも、今回の脚本(斎藤憐)が初めてという。(参考になる本としては、吉武輝子『舞踏に死すーミュージカルの女王・高木徳子』があるそうだが、未見。)
 斎藤は、彼女が生きた大正時代を「大きな戦争の間でつかの間の『自分のため』の時代」と位置づけ、「大正デモクラシーの女性」として描きたかったという。悲惨な状況下でも、健気に、且つ奔放に生きていく彼女の人物造型は、まさに「作者自解」の通りだ。
 芝居は、ギリシャの神々が、彼女の人生を眺め、操っていくという枠組みの中で進行する。劇中劇もうまく使い、直線的で単調な一代記にならないように配慮されている。「単純化を防ぎ、娯楽性を高める効果を発揮し(中略)お終いまで観客の興味を繋いだ」(「赤旗」劇評・公演パンフ)とは、確かに言えるのだが、どうも私は、その枠組み自体に引っかかるものを感じた。
 おそらく、今から述べる私の理解はゆがんでいるかもしれない。
 ここに出てくるアポロンは、宝塚よろしく「清く正しく美しく」がモットーで、人類の進歩を信じる正義派である。世俗では、片山潜(千三)と名乗り、左翼思想の持主となって現れる。酒と劇の神バッカスは、享楽の神であり、人類は退屈しのぎを求めているのだと考えている。世俗では、しがない劇団のマネージャー内山惣十郎(鈴木慎平)となって現れる。
 なんとも奇妙な取り合わせ。
 この芝居、高木徳子の半生記にはちがいないが、人間として深みのある人物とも思われないので、こうした枠組みを作り、思想の対立で時間をもたせているといった感じに映る。その結果、前田美波里の頑張りだけに頼る必要がなくなり、アンサンブル重視の芝居になった。この点は評価できるが、この二元論を観客が納得したかは、すこぶるあやしい。アポロンと社会主義者とが一体なのは、真面目に人類の幸福を考えているという程度のくくりでしかなく、ひどく安直だ。
 その上、彼女を殺したのは、藝術に無理解な、それこそ退屈しのぎを求めた一般大衆のはず。つまり、バッカス的発想の方なのに、男が女を喰いものにしたというありふれた結論にすり変わり、最後は、人間に演劇は必要だという演劇礼讃で終わる。まさにバッカスの大勝利である。これは大矛盾。
 演劇を創っている脚本家として、演劇礼讃はしごく当然な結論なのかもしれないが、これでは「演劇は退屈しのぎに最適なメディアです」とPRしているようなもので、贔屓の引き倒しもいいところ。志が低い気がしてならなかった。
 こうした振り分けの意味が今一つ釈然としなかったので、徳子が体調不調となり、踊りができなくなっていく過程でも、悲しみが湧いてこない。(もちろん、この印象には、ただただ元気一杯の前田の演技も充分に寄与している。)
 白けた駄洒落も、人物に関係なく連発されるので、作者は、この種の小手先で笑いがとれると思っているのかと情けなくなった。うまく使えば、登場人物の人格に昇華されるのだが……。 
 ところで、帰りの車の中で「あれ、今日の芝居のタイトル何だっけ」と思ってしまった。しばらく考えたが、思い出せない。それだけ、芝居の印象が薄かったのだろう。
 タイトルの『サロメ』は、確かに劇中劇で演じられる。預言者ヨハネへの愛憎の果て、ヘロデ王に彼の首を要求する有名な場面だ。『サロメの純情』と言うからには、徳子にサロメを重ねているのは明らかなのだが、彼女の一体どこがサロメなのだろう。想いを遂げるためには相手を殺すしかなく、その首に接吻する激情の女サロメは、男に女の性(さが)の深さをまざまざと見せつける。
 確かに、徳子も誘蛾灯のように三人の男をひきつけ、マネージャーを誘う悪女かもしれないが、男に喰いものにされて死んでいく哀れな女性でもある。これも単に強烈な生き方をした女という程度のくくりだと思えばいいのだろうか。
 結局、私は、この芝居に一本筋の通ったものを感じることができなくて、焦点が合わぬままであった。
 後日、他の人の感想の中に、「何を観せたいのか伝わってくるものがありませんでした。はっきり言ってB級だと思います。出演者が豪華でも脚本がとても悪いと思います。なにかすべてが甘い感じで、とてもちゃちな感じがしました。」というのがあって、私がこれまで長々書いてきたことは、この数行で充分言い尽くされているように思う。
 何年か後、私がこの芝居で覚えているのは、年齢のわりに(失礼!)よく上がる大根足だけのような気がする。(大、大、大失礼!)                  (私はヘロデ王)
                                       (1998・2)


私が観なかった理由   
                                     前進座公演『さぶ』第212回例会

 前略 今回、私は、「会員手帳」を母に譲り、この芝居を観ませんでした。以下、その理由を説明したいと思います。
 私は、以前、前進座のこの芝居を観ています。その時、前進座は高校生対象の「文化教室」で県内を巡演していました。正直なところ、演技が下手くそで、間延びしていて、つまらない芝居だと思ったことを今でも覚えています。高校生相手ということで、修行中の役者を揃えたからかもしれません。私が名を知っている役者さんは一人もいませんでした。
 実は、もう一度見ています。二回目も高校生がらみでした。ある高校の演劇部が、二幕目の人足寄せ場の場面をカットして、一、三幕をダイジェストにして上演したのを観ました。こちらの方がよほど感動的でした。でも、前進座の物マネでした。(このことは、以前、「私の「かあてんこおる」」で触れました。)
 今回観た母親はよかったと言っていますし、サークル仲間の評判もよいようなので、サークル代表として安心しました。どうも、観そこなったせいで、私だけが、山本周五郎の名小説を舞台化したこの芝居に、未だ好印象を持てないでいるようです。
 おそらく、私にはこんな想いがあるのです。確かに、前進座の三幕仕立ては、うまく筋のツボが押さえられている。しかし、もっと他の方法はないのだろうか。私の心の中で『さぶ』の芝居といえば、この舞台が思い浮かび、そのせいで、何だか原作で読んだ時のイメージが飛んでしまい、『さぶ』が固定化しているのが嫌でたまらない……。で、結局、私は、その夜、体があいていたにもかかわらず、そもそも行く気がしなかったのです。
 ついでに言えば、四月上旬という観劇日も悪かったように思います。年度始めで忙しく、疲れ切って帰ったので、しみじみとした人情話を観る気にならなかったのです。
 以上は、全く個人的な、この作品との不幸な出会いを記したもので、決して作品の出来を云々言っているのではありません。八百回を超える公演回数を数える代表作に、ちょっと、めぐりあわせが悪かった人間がここにいると報告したかっただけなのです.
 お気を悪くされぬように………。草々。                    (薔薇族)
                                               (1998・4)


困った上司です            
                         NLT公演『ニノチカ』第213回例会

 亡命貴族が持ち去った名画を接収するため派遣

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