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 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

    谷崎潤一郎『鍵』に関する一考察 

  谷崎潤一郎『鍵』に関する一考察 
      ープロットの変更ー

 

 谷崎潤一郎晩年の転期となった問題作『鍵』は、作者の当初の予定を大幅に変更した作品になっている。本稿では、一、なぜ変更を余儀なくされるに至ったか、成立過程を中心に述べ、二、どう具体的に変更されたかを推察したい。三、また、その結果、作者の意図がどう変化を見せたかを考えていきたい。

 

 一 成立過程 

 

 『鍵』は、「中央公論」昭和三十一年一月、五月〜十二月号に連載された。この作品の執筆について、最初の記録があるのは、前年八月十一日付中央公論社嶋中鵬二宛書簡(1)である。

 

 今一つ腹案が浮んでをりますがこれも少くも百枚近くにはなるものなので(中略)……創作は新年号頃に願ひます。

 

 この構想は急速に明確な形を帯びてきたようである。二週間後の八月二十五日付、同じく嶋中宛書簡(2)には、

 

 新年創作の案も大体出来上りましたが少し長くなりさうなので、読み切りでなく二三回連載にさせてもらひたいのです。久しぶりに現代物を書くつもりです。

 

とあり、発案時より量が増す予定であること、内容が「現代小説」であることが示されている。晩年の谷崎は、作品発表には慎重の上にも慎重で、充分、余裕をもって執筆を開始しており(3)、この作品も、同様の心づもりであったと思われる。実際に谷崎が新年号発表の第一回分を起稿したのは、書簡から約二ケ月後であった。彼は、翌年に、「私が『鍵』の起稿を思ひ立ったのは昨年秋十月頃のことでした」(4)と書いて起稿時期を明らかにしている。これを裏付ける資料として、当の出版元中央公論嶋中鵬二の発言(5)がある。

 

 谷崎先生は、昭和二十六年から三年間、『潤一郎新訳源氏物語』の仕事にかかれたが、その途中から、『源氏』の仕事にあかれたらしく、なにか本格的な小説を書いてみたい、といっておられた。昨年夏ごろから、話が具体化して、十月の中ごろに新年用『鍵』第一回分、三十枚をいただいた。

 

 執筆の具体化が夏というのも書簡と一致する。ただ、ここでは、十月中旬には既に出版社に手渡されたことになっているが、谷崎本人は、ある座談会の席(6)で、十一月には書いたと発言していて、資料によって多少のズレがある。が、いずれにしろ、十月から十一月には第一回分が書かれていたことに間違いはない。そして、予定通り、第一回は新年号に掲載された。しかし、第二回は三ケ月休載され、五月号に載っている。この中断は内容の変更をもたらした要因の一つである。ここで、中断の事情を検討したい。
 「中央公論」三月号には、嶋中名義の謝罪文(7)が、四月号には、谷崎の筆になる謝罪文(8)が掲載されている。これらによると、新しく発刊される「週刊新潮」への執筆依頼が十一月に入ったが、谷崎は同時に二つの作品を執筆した経験がないので、『鍵』続稿執筆を中断し『鴨東綺譚』を書いた。このため、一ケ月の『鍵』休載はやむを得なくなったが、折しも、持病の高血症が悪化して続稿発表が延びてしまったという。二つの文面に矛盾はなく、公式見解として信用できるが、実際には「週刊新潮」発刊の遅れによる気の緩みもあったようである(9)。
 『鴨東綺譚』は、十一月下旬頃までに第一回分が執筆されており(10)、『鍵』中断後一ケ月とたっていない。『鴨東綺譚』がモデル問題をおこして、後に中断の止むなきにいたるのも、この慌しい企画と執筆に原因の一端があったのではないかと思われる。
 では、『鍵』第二回分の執筆を再開したのは何時であろうか。推定できる資料は、『鴨東綺譚』中絶の理由を説明している謝罪文「鴨東綺譚著者の言葉」(「週刊新潮」昭和三十一年三月二十五日号)である。この文の日付は「三月三日」となっており、『鴨東綺譚』中絶はそれ以前、『鍵』再開はそれ以後と想像できる。五月号掲載には最早一ケ月の猶予もなく、谷崎は大童で執筆したことになる。以後、前月に執筆したものを次号に載せるという形で完結まで続いた。晩年の谷崎にしては珍しい、この慌しい発表の仕方は、書きながら作品を変更していく余地をあたえてしまったという点で重要である。
 作品の量的な構想にも大きな変化が認められる。前掲の嶋中鵬二の発言に、「二百枚ぐらいの作品になるはずである。だいたい三十枚ぐらいずつ秋ごろまで連載する予定。」とあり、前年夏の打合わせの段階では「二三回の連載」の予定だったのだから、長編化の様相を呈し始めている。作者は色々なアイデアが浮かび、話が膨れてきたのだろう、五月現在の新聞には、全編四百枚と報じているものもあり(11)、真偽は不明にしろ、この作品は構想から執筆、完結まで膨脹の過程を辿っていることがわかる。
 『鍵』がプロットの変更を余儀なくされたもう一つの大きな要因は、世論の異常な反響にある。第一回は文芸時評等に取り上げられる程度の文壇内の話題でしかなかったが、大胆な性描写を含む第二回が発表されるに及び、『鍵』は一挙にマスコミの渦中に巻き込まれることとなった。その火付け役は、「ある風俗時評 ワイセツと文学の間 谷崎潤一郎氏の『鍵』をめぐって」(「週刊朝日」昭和三十一年四月二十九日号)である。これ以後、この作品の評価は、この週刊誌が提出した「猥褻か芸術か」という不毛な二元論に陥ってしまった。折から、売春防止法審議中の第二十四回通常国会法務委員会でも取り上げられ、遂に政治問題にまで発展し、世間を騒がせたことはつとに有名である。これが内容変更の直接の引き金となった。谷崎が当初考えていたより世間のモラルは保守的だったのである。論議の経過については、稿者に別稿(「『鍵』論争覚書」(安田学園「研究紀要」第二十三号 昭五十八年二月)があり、詳細はそちらを参照されたい。

 

 二  プロットの変更

 

 この異常事態により、谷崎は苦悩して内容を変更させた。後年、この点に触れて、

 

 「ありゃあね、どうも途中でちょっと計画を変えまして、最初の思った通りに行かなかった訳なんですがね。そりゃ嶋中さんも御存知だけれども、二、三回位迄……。あれから先はチョット違う、少し最初の計画と違ってしまいましてね。議会の問題になったりしたもんだから、僕もああいう処に引ッ張り出されるの、死んでも嫌だから……。」

 

 「しかし最初に計画した通りドンドン書いていたら、やっぱり それこそ議会へ引っばり出されたかも知れないですね。そういうことがあったんで、止めたんですがね。(笑)僕も実は……。」

と証言し、二三回以降、計画を変更させたが、当初は、現作品以上の大胆な描写がある予定だった点を明らかにしている。
 では、以下、具体的にどう変更されたのかを考えたい。

 

(一)人物構成の変化

 

 この作品の主人公は教授と妻であるが、娘と弟子の木村の登場の意味は重要である。木村は夫の嫉妬をかきたて性欲を奮い立たせる「刺激剤」として夫婦に介在する役割を負っている。作品の展開上欠くべからざる人物である。しかし、娘の存在の意味は不明確である。彼女も木村と同様に夫婦の危険な関係を助長させるべく暗躍するという奇妙な設定で、父の脳溢血再発による急死にさえ手を貸した形跡があるかごとくに書かれている。小説の表面には現われないが影の黒幕である可能性が大きいように読者には映る。
 この点について、小出博氏に、『鍵』とフランスのスリラー映画との類似性を指摘した論文がある(13)。彼の指摘する影響関係を妥当なものとして見ても、やはり、娘が全ての謎を握っている中心的人物であったことは間違いないようだ。
 だが、現作品を見る限り、彼女は展開には直接関わらず、不気味な存在という程度に止まっている。これはプロットの変更によって娘の役割が変化したからだと考えられないだろうか。ここで、再度、谷崎の発言を見たい。徳川夢声との対談で、夢声が「谷崎さんはもっと書きたいところを書かずにいるんだナというような気がしました。」と感想を述べたのに対して、谷崎は、

 

「そうでしょう。あのさきのぞきがあるんですよ。そこのところは書けない。」(14)

 

と答えている。これによって、大胆描写は「覗き」という形で書かれる予定だったことが判る。そこが抜け落ちた。
 この覗きの対象は言うまでもなく夫婦の房事であろう。これができるのは娘しか考えられない。第三回までは変更なしと断定できるので(15)、まず、その中から、娘の覗きに関する記述を引用する。

 

 敏子も愛想が尽きたのであらう。深夜両親の寝室で時々煌々と電燈が点ったり、螢光燈ランプが輝いたりするのも、彼女は気がついて不思議に感じてゐるに達ひない。(二月九日妻の日記)。

 

 敏子の心理状態が私には掴めない。(中略)彼女は父母の閨房関係を誤解し、生来淫蕩な体質の持主であるのは父であつて、母ではないと思ってゐるらしい。母は生れつき繊弱なたちで、過度の房事には堪へられないのに、父が無理やりに云ふことを聴かせ、常軌を逸した、余程不思議な、アクドイ遊戯に耽るので、心にもなく母はそれに引きずられてゐるのだと思ってゐるらしい。(二月十九日妻の日記)

 

 読者はこの妻の推察によって、娘が覗きをしているのではと疑念を持つ仕掛けになっている。いわば、後の展開の伏線になっていると考えられ、これ以後も、娘は疑問を裏付けるような行動を多くとる。だが、現作品では、娘の思惑は、遂に最後まで語られず、伏線が点在しているにも関わらず、大きく展開しない。伏線だけが配置され捨てられた格好になっている。唯一、変更以後の部分で触れられている箇所は、妻の真相告白の箇所である。

 

 二月十九日に、「敏子の心理状態が私には掴めない」と書いてゐるが、実は或る程度は掴めてゐた。今述べたやうな具合で、私は彼女がわれわれ夫婦の閨房の情景を木村に洩らしたであらうことは、ほぼ推していた。彼女は木村を、心密かに愛してゐるのであり、それ故に、「内々私に敵意を抱きつゝある」ことも分ってゐた。(中略)父が妙な物好きから木村と私とを接近させ、木村も私も亦それを拒まない風があるのを見て、父を憎むと共に私をも憎んだ。私はそれを随分早くから感づいてゐた。ただ、私以上に陰険である彼女は、「自分の方が母より二十年も若いに拘はらず、容貌姿態の点に於いて自分が母に劣ってゐる」ことを知ってをり、木村の愛がより多く母に注がれてゐることを知ってゐるが故に、先づ母を取り持つておいて徐ろに策を廻らすつもりでゐたことも、私には読めてゐた。(六月十日妻の日記)

 

 ここで初めて娘が本当に覗いていた事実が読者に示され、その後も、何か策略を弄する予定であったことも明らかにされている。しかし、これは単に事後の報告だけである。その上、現作品においては、この「覗き」は末梢事でしかないように見える。谷崎は、この娘の房事の覗きを、より重要なプロットに仕立て、その上で、念入りに描写する予定だった。それは、娘の日記という新たな視点を導入して、そこに大胆描写が書かれるはずだったと考えるのが一番順当な推測であるが、そのまま、父母の日記の中での描写することも可能ではある。
 また、谷崎のいう覗きを、日記の盗み読みのことを言っているととらえることも可能である。事実、娘は房事の覗きのみで深慮遠謀をめぐらせるはずもなく、夫婦の日記は、共に故意に盗み読みしやすいように置かれたのであるから、娘も容易に読むことができた。とすると、プロット変更以前の箇所にある、夫の、

 

 思フニ彼女ハ、世間ノ多クノ父親卜違ヒ、僕ガ彼女ヨリモ彼女ノ母ヲ熱狂的ニ愛シテヰルラシイノニ憤懣ヲ感ジテヰルノデハナイカ。若シサウナラバソレハ誤リデ、僕ハ彼女等ヲ同等ニ愛シテヰルノデアル。タゞ愛シカタガ全然達フダケナノデアル。イカナル父親モ、自分ノ娘ヲフアナチツクニ愛スル奴ハヰナイ。(二月二十七日夫の日記)

 

という記述は、妻に向けたというよりも、あたかも娘に対しての父親としての釈明のように読みとれる。娘も盗み読みをしていることを知った父の、娘向けの文章である。これも後半流れてしまった伏線の一つであったのではないか。こう考えた場合、覗かれている父母がそれを知りつつ閨房事をなし、その状況をこれまで以上に激しく日記に報告して娘を挑発するというような形で進行し、自分の覗きを両親は感づいていると知った娘は……といった泥沼的家族関係に発展させる予定だったと考えることも可能だろう。少々深読みにすぎるかもしれぬが、あながち無謀な推論とも言えまい。
 いずれにせよ、現行、娘の役割の不明確なのは、大胆な性描写の場面をカットせざるを得なかったために、「覗き」という展開ができなくなり、彼女を明確に位置付けることができなくなったためと考えられる。現作品が後半展開不足になった原因は、まさにここにある。騒ぎがあって、大胆描写を控えたことだけが原因なのではでなく、この娘の役割の低下こそ変更の中心であったと言うべきだろう。

 

(二)結末部分の変化

 

 娘の役割の変化は形態的にいかに変化をもたらしたのであろうか。この作品で、しばしば指摘されるのは結末部分の不備である。一例を掲げると、完結直後、中村光夫は、

 終りに妻は(中略)真相を一挙に曝露します。しかしその明快な説明も、自分の嘘を自分でばらしてゐるだけですから、劇的発見の興味はまつたく湧かず、ただこの不自然な小説に一応の結末をつけようとする作者の努力を不承不承に納得するだけです。(16)

と裁断している。近年の研究者も同様である。文体の上でも、亀井勝一郎は、この結末に谷崎の独壇場である粘液性を帯びた女性の文章を創造しえなかったのは不思議であると欠点を指摘している(17)。日記という体裁にも関わらず引用を多用する等、確かに不自然である。この不備な結末こそ、娘の役割の変化によって変更された続けた結果の無残な姿であると言える。『鍵』第八回掲載の「中央公論」十一月号の編集後記に次の案内記事が載っている。

 連載中の『鍵』は来号完結の予定でしたが、或いは新年号にわたって掲載されるようになるかもしれません(鴫中)

 だが、実際には予定通り十一月号で完結している。これは、終息部が現作品と違ったものになる可能性があったことを意味している。本来ならば、この最終局面あたりに覗きについての何らかの描写や展開があったのではないだろうか。しかし、作品は既に三回以降、徐々に変更をきたしており、予定通り描くことは最早不可能な状態になっている。無理は結末部分に重くのしかかってきて、谷崎は収拾に苦慮し、当初予定していた覗きがらみの展開を一切カットすることにし、その代わり、一種、当事者による種明かしめいた結末を発想することで、話を完結させたと考えるのが妥当であろう。新年号に延びるといって延びなかったのも、このカットの故であると考えると辻褄が合う。
 谷崎は、過去において、結末部分を思い浮ばぬままに筆を進めて、最後になって名案が浮び、物語を一挙に終結させた作品がある。それは『蘆刈』である(18)。『鍵』も事情は同じであるが、ただ『鍵』の方は苦肉の策としてであるから、結末の優劣は較ぶべくもない。谷崎自身も、この作品については「私の『鍵』はあまり自信がありません」(19)と書簡で述べているように、上首尾とは考えていなかったようである。
 なぜ、谷崎は敢てこの結末を採用せねばならなかったのであろうか。この結末は夫婦の日記を引用しそれにコメントをつける形になっている。だが、これは妻のコメントといえるだろうか。伊藤整が、「女の文体は少しぎこちなく主人公より作者その人が乗り出して書いてゐる感がぢかに出すぎたやうに思ふ」(20)と評しているように、これは、他ならぬ谷崎自身のコメントであると考えられる。つまり、彼は作品中で、自ら注釈を行なっているのではないだろうか。
 この点について、森常治氏は、これこそ当時なされた俗物批評から身を守る為の防衛手段だったのではないかと仮説を立てているが(21)、私も全面的に賛同したい。本来、作者が自作に解説を必要とすれば地の文でいくらでもつけることができる。しかし、『鍵』に地の文はない。作者の出る幕はないのである。日記体の方法は、作者が隠れ、絶対的に信用できる文章がないという画期的なものであるが、同時にそれは欠点ともなり得る。異常な世間の反響で弁明せねばならなくなった時、地の文がないのは決定的に不利である。作者は、急遽、絶対的記述を捻出せねばならなくなった。その絶対的記述が、この夫の死後真相が自由に書ける状況となった妻の日記という形となって発想されと考えることができる。谷崎は、折角の絶対的記述がないという設定を自ら破壊し、つまり、作品の完成美を犠牲にしてまで、自己を守らざるを得なかったものと思われる。
 であるとするなら、当初は、徹頭徹尾、はっきりしたことが判らない真相不明のままの結末が予定されていたのではないかという予想も十分成立可能である。もし、それが、娘の日記をも念頭に置いたものだったとしたらならば、芥川龍之介『藪の中』のようなものとなったかもしれない。

 

(三)その他の変化

 

 この他にも、この作品には、一旦提出されておきながら物語に絡んで展開しなかったモチーフが多い。
 まず、作品冒頭に、夫は妻を「多クノ女性ノ中デモ極メテ稀ニシカナイ器具ノ所有者デアル」と規定しているが、この観点はその後まったく触れられていない。自覚させられた妻は、当然、何らかの心理的影響を受けたはずであるが、そのことは最後の告白部分にさえ触れられていない。極めて露骨な話題なので、真っ先に捨てたモチーフだと考えられる。ただ、谷沢永一氏は「連載第一回の客寄せ用の惹句として、全体の構想とはさはどの関係なく書き込まれた営業政策上の措置」(22)ではないかとも述べている。確証はなく、指摘するにとどめたい。
 次に、プロットに直接関わらないために全体から浮離しているモチーフとして、「夫==木村(間男)」同一化のイメージがある。具体的には次の箇所である。

 

 僕ガ僕デアルカ木村デアルカサヘモ分ラナクナッタ。(三月十九日夫の日記)。

 

 ソレカラ何時間後デアツタカ、又違ツタ夢ヲ見テヰタ。最初ハ木村ガ裸体ノママデ立ツテヰルヤウニ思へタガ、胴カラ生へテヰル首ガ、木村ニナツタリ僕ニナツタリ、木村ノ首ト僕ノ首トガ一ツ胴カラ生へタリシテ、ソノ全体ガ又二重ニ見エタ。……(三月廿四日夫の日記)。

 

 でも木村さんはかう云ふ風に考へることは出来ないでせうか、私の夫と木村さんとは一身同体で、あの人の中にあなたもある、二人は二にして一であると。……(三月廿六日妻の日記)

 

 特に、後二者は連続して日記に現われており異様である。この箇所を唐突なものとして最初に指摘したのは、管見によると、大江健三郎であった。彼の、「小説の技術としての不備を指摘されるに十分な、あからさまに人為的であることをかえりみないで、老練の作家がこうした相似のふたつの部分を、連続した両者の日記に配置したことは、この木村=夫の同一化のイメージが、作家にとってきわめて重要な因子であったことを示すであろう。」(23)という指摘は 『残虐記』と関係づけて見ると実に的を射たものだと言わざるを得ない。『残虐記』は『鍵』に続く長編であるが、中絶作で、テーマは知る由もない。しかし、明らかに、モチーフはこの同一化のイメージである。中絶する終り近くで、次のような記述が散見される。(むら子・増吉・鶴二は、各々、『鍵』の妻・夫・木村にあたる)。

 

 むら子に依ると、夫と鶴二とは普通の意味で似た顔の持ち主であるとは云へないが、顔の何処かしらに共通の感じがあつたと云へなくはない。それは例へば、或る従兄弟同士の顔が、他人から見ると一向似てゐないやうに見えるけれども、当人同士が見ると、相手の造作の何処かしらに自分と共通してゐる或るもの、ーつまり自分の一族に共通してゐる鼻の特長とか、額の生え際の特長とか云ったやうなもの、ーのあることを感じないではゐられない、と云つたやうな似かたである。では増寺と鶴二の場合は何処がそんな風に似てゐたかと云はれると、それもむら子には明瞭には指摘しにくい……。

 

 それでは増吉白身はどう感じてゐたか、彼は自分と鶴二との顔の相似点を何処に発見してゐたか、と云ふことになるが、それはむら子に尋ねて見てもよく分らない。ただ増吉は鶴二と云ふ人間の上に、自分の姿が投影してゐたやうに感じてゐたらしい、……

 

 ところで、鶴二に云はせると、自分と増吉とは顔が似てゐるとは思はない。増吉は自分(鶴二)の顔をどう云ふ風に感じてゐるか知らないが、自分は増吉について何の感じも抱いたことはない、が、むら子と云ふものを両者の間に介在させると、自分と増吉とは何かのつながりがあるやうに感じる、云って見れば、むら子と云ふ鏡に映して見ると、二人の顔が似てゐるやうに見える、むら子から来る反射の中に、鶴二は自分の顔を見出すと共に増吉のそれを見出す、と云ふことらしい……

 

 それぞれの立場からの述懐である。『鍵』の夫の死を、ある種の自殺と考えると、この二作品は極めて類似している。所謂三角関係で対立しなければならない夫と間男が、逆に、相手に自分の影を見い出して性機能の代償を求め、自己の存在価値を放棄してしまうのである。マゾヒストの「犠牲死願望」(24)であり、谷崎文学の新しい展開と言える。
 谷崎が、この同一化のイメージに固執したのは、現実の生活の苦悩が投影されていたからと考えられる。『鍵』は、言わば、初老男性から若者への妻譲り譚であり『残虐記』は、性不能着から健常者へのそれである。両者共、性不如意となった(なりかかった)状況が前提となっている。これは現実の谷崎本人にとっても切実な問題だったようである。谷崎は松子夫人より二まわり近く年長で、どうやら、『少将滋幹の母』(昭二四)執筆の頃より性不能に陥っていたようである。夫人の回想によると「或は他の女性の場合なら、と本心で浮気をすすめてみた」のだが、却って谷崎の方が涙を流しながら思い決したように「浮気をしても構わないよ」(25)と勧めたという。自らが妻を満足させ得なくなったので他人に代償行為をしてもらおうというのである。この、他人という役割を、彼は豊鏡な幻想の中で、自己と同一の若い男性、或いは、若がえった自分自身にあたえていたのであろう。妻の新しい相手が再び自分でなければならないという屈折した願望こそが『鍵』や『残虐記』の同一化のイメージとなったのは間違いないことと思われる。としても、これが、どう作品に生かされる予定であったのかは『鍵』が変更を余儀なくされ、『残虐記』が中断されている以上、不明である。以後の作には、このモチーフは現われておらず、発酵不足で放棄されたものかと思われる。

 

 三  作品の評価      

 

 以上述べたごとく、この作品は変更の爪跡生々しい作品となっている。では、『鍵』は無惨な失敗作なのか。この章では、プロットの変更によって、作者の意図がどう変化したかを考察したい。
 『鍵』が、一見、従来の悪魔主義的作品群と類似した構図であるからと言って、同一の主題性を持つと考えるのは早計である。同じマゾヒズム的な主人公であるといっても『鍵』の主人公は『刺青』等に比して極めて深刻である。彼の従来の作品は、全て男性側から見た憧憬の対象として美化された女性を描写すればよかった。男性の堕落の構図を強調することこそ重要で、女性側の性情や思考を明確にする必要はなかったのである。しかし、『鍵』は違っている。求める女性は憧懐の対象などではなく、現実の妻であり陰険な性格があたえられている。ここに従来の作品にはなかった女性側の視点が加味されており、作品に幅をもたらし、且つ『刺青』の如き観念的図式的に終らず、リアリティを持った新しい作品となった原因があると思われる。
 この視点が加わった理由は、彼の実生活の変化が考えられよう。彼は、実生活の上でも『春琴抄』のごとき関係を保つことで創造力をかきたてていたことが『倚松庵の夢』などで知られるが、これが健康を害したために大きく崩れることとなった。今までのように主従関係の力学で夫婦をとらえようとする時、彼は何ら女性側に配慮する必要がなく想像をかきたてればよかった。しかし、病気のため仮想できなくなり、夫が妻と対等の地平に降り立った時、そこには否応なく妻のエゴイズムを身に受けざるを得なくなったと思われる。『鍵』で打ち出した女性側のエゴイズムは、こうした実生活上の影響下に生み出されたものと推察される。
 また、ここに、しばしば指摘される「老い」の問題も加わってくるだろう。執筆当時、谷崎は七十一才で、『鍵』の主人公より十五才年長なのである。谷崎は自分が老人になって起った夫婦の力学の変化を、中年の未だ直接「性」に関わっている世代の問題として設定を移行させることで、作品の上で追求したと考えられはしまいか。
 だが、これらの意図は、充分生かされているとは言い難い。この挫折は谷崎文学の限界を示す格好の見本となる。女性側のエゴイズムを導入したことで憧憬の美は存在し得なくなり、彼の美的世界は一挙に崩壊したのである。いみじくも中村光夫が、

 『鍵』の妻も、泥酔した裸身を螢光燈のもとで、夫の子供くさい悪戯の対象にされてゐるときが一番美しいので、そのとき云った譫言がどこまで意識的だつたかなどと、あとから喋りちらすべきではないのです。(26)

と評しているのも、この事情を指摘しているものと思われる。確かに、女性側のエゴイズムは、谷崎にとって新機軸であったのかもしれないが、逆に、彼の文学の欠点をさらけ出した形になっている。
 『鍵』を読みとる上で重要なポイントは、夫の死をどう理解するかという点にある。当時の批評を調査してみると、この受け止め方の相違によって解釈が大きく違っている。そこには読者の倫理観とも兼ね合って多岐の解釈が存在している。例えば、夫の死は、妻又は娘の殺人か、過度の房事による自殺か。これとてどちらに解釈するかで大きな差となっている。受け止め方を大きく分類すると、

 

 (一)死は無意味で、従来の痴人思想の繰り返しである。
 (二)構造的には同じだが、死という要素が加味されており、痴人思想は徹底化した。
 (三)痴人思想の行き着いた結論がこの死で、谷崎は警鐘を発しており、倫理的意義を読みとれる。

 

の三種類あり、各々、どれでも解釈しうる余地を残した書き方しかされておらず、作品自体に強い主張が読みとれない。このあたりのことを、もっとはっきりとさせたほうが、こうした種類の作品の場合、成功するのではないだろうか。この点で、この作品には弱さがある。
 結局、現作品に意義を見い出すとすれば、作品の大部分を占める夫婦の腹のさぐり合いの部分が中心と考え、「心理小説」と認識するのが一番オーソドックスな見解ということになろう。或いは、最後の告白部分を重視して、一種の「推理小説」とも受け取れる。いずれにしろ、夫婦における性の有り様を探るという問題の核心は、いささか装飾的にしか扱われなかったと言わざるを得ない。谷崎の作家としての老練さによって、見るも無残な失敗作とはならなかったものの、当初の意図を大きく離れ、後半は心理小説として繋ぎ、種明かしで話を終えるという別のおもしろさによって辛うじて小説を完結させ、読者の興味を保たせたというのが実情であろう。到底、完成された傑作とは言えないが、この綱渡りの経験が『瘋癲老人日記』につながっていったという意味で、意味のある作品となったことは間違いない。(完)

 

 註

(1)全集二一十四巻書簡番号五三四
(2)全集二十四巻書簡番号五三六
(3)例えば、この年(昭和三十年)の主要作品であった『幼少時代』は、四月連載開始、翌年三月完結しているが、実際には、既に九月には脱稿している。
(4)「嶋中鵬二氏に送る手紙」(「中央公論」昭和三一年四月号)
(5)「中央公論嶋中編集長との一問一答」(「週刊朝日」昭和三十一年四月二十九月号)
(6)座談会「谷崎文学の神髄」谷崎潤一郎 伊藤整 武田泰淳 三島由紀夫 十返肇(「文芸」臨時増刊「谷崎潤一郎読本」昭和三十一年三月)
(7)「『鍵』休載についてのお詫び」
(8)注(4)に同じ
(9)注(6)と同じ座談会の席で「「週刊新潮」がだんだん遅れたわけでしよう。遅れたもんだから、ぼくもそう急ぐことはないと思って、つい、ゆつくりしたんですよ。」と発言している。
(10)注(6)と同じ座談会の席で、十返肇が「第一回はいつごろお書きになったんですか。「週刊新潮」は。」と質問したのに対し、「あれはよほど前に書いたんです。十一月下旬ごろ、書いちゃったんです。」と答えている。
(11)朝日新聞「天声人語」欄(昭和三十一年五月十七日)
(12)「文壇よもやま話(谷崎潤一郎の巻)」谷崎潤一郎 池島信平 嶋中鵬二(昭和三十五年九月二十九日NHK放送) 後に『文壇よもやま話(下巻)』青蛙房刊(昭和三十六年十二月)に収録。
(13)「『鍵』とフランス映画」早稲田大学「国文学研究」第三十集(昭和三十九年四月) 氏は『鍵』が映画『悪魔のような女』の影響を受けて成立していると指摘している。映画と対照させても、やはり、娘が黒幕的な存在となる。
(14)「問答有用(第三九九回)」(「週刊朝日」昭和三十三年十二月七日) 注(12)と共に千葉俊二氏の御教示による。
(15)谷崎は二三回以降変更したと発言しているが、国会で問題となったのは五月十日であり、この時期「中央公論」は毎月十日発売であることを考え合せると、第三回までは変更なしと知られる。
(16)「『鍵』を論ず 文学のあり方Y」(「文芸」昭和三十二年二月号)
(17)「痴人の死」(「中央公論」昭和三十二年一月号)
(18)谷崎自身『雪後庵夜話』等でこの点について触れている。
(19)全集二十四巻書簡番号五五八 昭和三十二年一月ドナルド・キーン宛
(20)「ゆすぶられる「良識」」(「中央公論」昭和三十二年一月号)
(21)「コミュニケーションとしての性『鍵』」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十一年十月号)
(22)「『鍵』私注」(「谷崎潤一郎研究」荒正人編 八木書店刊)
(23)「谷崎潤一郎『鍵』エロティシズムの実験小説」(「朝日ジャーナル」昭和四十一年七月十日号)
(24)笠原伸夫『谷崎潤一郎 宿命のエロス』(冬樹社刊)の中での命名。拙稿は、この論文に多くの示唆を得た。
(25)「薄紅梅」(『倚松庵の夢』中央公論社刊)
(26)注(16)に同じ。女性側の心理描写によって美的世界が崩れるという、この谷崎文学の限界を指摘したのは氏を嚆矢とする。
(27)同じ死に意義を認める立場でも、(二)と(三)とはある意味においてまったく対立的である。代表例として、(二)に十返筆「「思想」を徹底化する」(「中央公論」昭和三十二年一月号)、(三)に佐古純一郎「谷崎潤一郎の『鍵』について』(『文学はこれでいいのか』現代文芸社刊)等がある。
(28)既に作品完結直後、阿部知二が、「心理小説」としての意義を認める発言をしている。(「群像」昭和三十二年一月号「第一一六回 創作合評」阿部知二 丹羽文雄 高見順)

 

(追記)本稿は、もともと原稿用紙120枚の文章を抜粋要約したものである。

(書誌)元稿は1981年12月脱稿。1982年6月頃抜粋要約。「人文論叢」第22集(1982年9月)所収。2007年4月、加筆修正の上、HPに掲載。

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