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潤一郎・荷風

 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (論文)荷風のデパート

 荷風のデパート
           ー「市俄古の二日」を中心にー

                                               田辺俊建

 

                  一

  永井荷風『あめりか物語』の前半に、シカゴに出て中心街を見物する一編「市俄古の二日」がある。荷風自身に他ならない「自分」は、数多の自動車が風の如く行き来し、摩天楼連なるミシガン大通りの人の往来を眺めて、その偉容に圧倒される。
 荷風が彼の地を訪れた明治三十八年(一九〇五年)当時、東京で最も高い建物は浅草の凌雲閣(明治二十三年開業)であった。十二階建てだったので「浅草十二階」の名で親しまれていたのは周知の通りである。当時の浅草周辺に高層建築が林立していたはずもなく、また、建坪も大きくないので、建物というより塔のような存在で、東京タワー同様、当時のランドマークであった。形は東京タワーより、今年(平成二十四年)開業した東京スカイツリーに似ている。この建物、大正三年(一九一四年)に、集客力アップのために改装され、日本初のエレベーターが設置されたことでも建築史上有名だが、もちろん、この時、荷風が知っていたのは、階段で昇り降りした建築当初の十二階のほうである。
 東京を遠望できるところと言えば、他に駿河台のニコライ堂があげられる。眼下にひしめく庶民の住宅の間からは、砲兵工廠を始めとする煙突群がもくもくと煙をたなびかせていたことは、石版画などでも知られる。
 当時の東京は、未舗装の道から塵埃が舞い立つ、「塵の都」であった。電気網も現代に較べるとはるかに貧弱で、夜は「闇の都」と化しており、急ピッチで近代化を進めてはいたが、実際のところ、まだまだ「普請中」の街であった。
 こうした日本からやってきた彼は、はじめて見る大都会に度肝を抜かれる。高層ビルの陰になって薄暗くなっている大通りに、まるで「呑
まれる如く」無数の男女が見えなくなっていく様子を見、「恐怖の念」を抱く。連れの友人ジェームスが「Great City!」と誇らしげに感嘆するのに対して、彼は「Yes, Big Monster」と答えるのみ。日本人が見ると、まるで怪物のような街だというのである。
 シカゴは一八七一年の火災によって、町の大半を消失した。行政は耐火都市を目指して木造住宅を禁止し、高層ビル化を進めた。その結果、ニューヨークと並ぶ摩天楼が出現したのであった(ちなみに、現在のシカゴは、「オーヂトリヤム」をはじめ当時建設されたビルや橋が歴史的建造物となって残り、ガラスエリアの大きな現代的建築物と対比的な調和をみせている)。
 彼は、シカゴを訪れる旅人が立ち寄るのが義務のようになっているランドマーク「マーシャル・フヒールド」(Marshall Field's 現在の表記ではマーシャル・フィールド)を見物する。これは彼の地の名物デパートのことである。文中では「二十階近くある」と記されているが、実際は十二階だったようだ。彼は最上階に登り、中央部の吹き抜けから最下層階の客たちが親指ほどに見える様子を眺める。内部が吹き抜けの光景を、彼は「奇観!」という感嘆符付きで紹介している。おそらく荷風は、日本人で最も早く吹き抜けビルの巨大閉空間の眺望を味わった一人だったと言えるだろう。思うに、日本人の多くが巨大吹き抜けを見て感嘆するのは、新宿の高層ビルNSビル(三〇階まですべて吹き抜け)が昭和五十七年に姿を現すまで時代が下るのではないだろうか。

 デパートの歴史は、公式的には、パリでアリスティッド・ブシコー(Aristide Boucicaut)と夫人のマルグリット(Marguerite)によって始められた「ボン・マルシェ」であるとされている。鹿島茂『デパートを発明した夫婦』(講談社新書)によると、季節に合わせて実施されるバーゲン・セールや、ショーウィンドウ・ディスプレイの美しさ、商品の新奇さによって、商品自体をアウラ(オーラ)を放つ存在に見せ、消費者に必要のないものまで買わせる、すなわち、潜在的購買願望を目覚めさせる商売がデパート商法の特色だという。
 また、そこでは消費者に、より豊かなハイライフを設定してやって、それを目指すべく叱咤激励する「商品による消費者の教育」が行われたという。つまり、「よりよき生活をおくるためには、これはぜひ買わなければならない商品だ」という励ましの声を、これまで、揉み手で顧客の顔色をうかがっていた腰の低い商売人ではなく、礼儀と謙譲を身につけた同じブルジョワ(市民)層の店員がささやくことで購買意欲を掻き立てさせたところに先進性があったという。自分と同じ知性と教養のありそうな人が推薦してくれるから、自分にも必要なものだと思わせるような接客をしたというのである。
 そして、なによりも、そうした意識を権威的に定着させる仕掛けが、あの三越本店を日本の代表例とする装飾を施した巨大な筐体、ビルディングそのものであった。
  本家のボン・マルシェは、一八六九年に店舗を改装、続けてパリのオペラ座をモデルにして再改装し、一八八七年には権威的箱物が完成した。当時、ゾラはこのデパートを「消費信者のための消費の大伽藍」と評したという。
 有名な英国の老舗ハロッズも、ほぼ同時代に同様の偉容を現している。一八九八年には店内に英国初のエスカレーターを設置、一九一三年には王室御用達となり、世界最大のデパートとなった。その繁栄は当時の英国の経済発展とともにあり、賑わいは英国繁栄の象徴でもあった。
  件のマーシャル・フィールドも、そうした先駆的百貨店に少し遅れて、シカゴで生まれた高級百貨店であった。
 荷風が見たこのデパートは 彼の記述によれば「ストリートの角に城郭の如く聳えて」いる大伽藍であった。本文には「デパート」という文字はなく、「大商店」という言葉で表されている。当時、荷風は、耳では「デパートメント・ストア」と、英語で聞いていたのであろうが、日本人に説明する時、人口に膾炙する言葉ではないと判断してこういう言い方をしたのだろう。国内で「百貨店」という言葉が定着するのはもう少し歳月を待たねばならず、出現当初は「部門別大店」あるいは「専門大店」などと「分ける」意味を入れて訳していた。おそらく、荷風はフランス語のデパートの意味である「grand magasin」(大店)のほうを直訳したと考えられる。英語で聞いても、まだ辿り着いていないフランスの言葉のほうで訳すあたりに、アメリカを見ていてもフランス憧憬のフィルターを通して見ている彼の視点を感ずることができる。
 このデパートの外観は、末延芳晴『永井荷風の見たアメリカ』(中央公論)のカラー口絵に掲載されている古い絵葉書から知られる(後掲図絵参照)。通りの角に面して手前に少し背の低いビルが二棟、奥に背の高いビルが一棟(一見二棟にみえる)が確認できる。
  この建物は現存しており、荷風が見たのは、一八九二年完成の南棟(設計はD.H.BURNHAM)ではなかったかと思われる。中央棟は、資料によると一九〇六年完成とあるので、もしかしたら完成間近か仮稼働中だったのかもしれない(北棟は一九一四年の竣工。なお、資料によって、このあたりの情報には喰い違いがあり、はっきりしない)。外観は、そうデコラティブでもなく、一階に多少の装飾が施されているが、上階はストレートな縦線を基調とするすっきりとしたデザインである。印象的でシンボリックなビル角の大時計は、一八九五年に設置されており、これは荷風も目にしていたはずである(ちなみに、このデパートは二〇〇五年、業界最大手メイシーズに買収され、その傘下に入り、シカゴ市民を大いに落胆させた)。

 主人公「私」は、「雲表に高く聳ゆる此の高楼大廈」に入り、当時まだ珍しかったエレベーターで最上階まで上がり、吹き抜けを見下ろした。その時に目に飛び込んできた鳥瞰的な景色。当時二十六歳であった荷風は、作品の中で「偉大なる人類発達の栄光に得意たらざるを得なくなつた」と正直に告白する。それは、お上りさんが初めて大東京を目にした時に感嘆する文明的・都会的なものに対する素朴な驚き、憧憬と大きく変わりはないものであったにちがいない。そうして、重厚な建物の各階では、まさに鹿島茂が指摘する、新しいデパート方式の商法が煌びやかに行われていた。洒落た高級品がディスプレイされ、教育の行き届いた上品な店員が客と応対している。荷風が「人類発達の栄光」とまで感じたのはあながち過剰な反応ではなかったろう。
 しかし、「私」は、その前に、ビルの闇に人々が吸い取られる様子に恐怖の念を抱いたではなかったか。そして、「文明破壊者の一人に加盟したい念」まで起きたと告白していたのではなかったか。
 「文明破壊者」とは、もちろんテロリズムのことではなく、「反文明主義」、あるいは「文明批評」的態度の謂である。圧倒的な物量を前に、単に酔いしれるのではなく、コンクリートのカタマリのすき間に吸い込まれる人間たちに、おそらくはマルクス的な「疎外」のようなものを感じて生理的恐怖を感ずる。そうした、あくまでも文明観察者の視点を失わない荷風もそこにはいたはずである。
 荷風は、ここで特に人種を指定してはいないが、南北戦争以来、北部に労働力として流入し膨れ上がってきていた黒人層が、その景色の中心をなしていたことは想像に難くない。シカゴが米国屈指の大都市として急速に実力を上げつつあったこの時期、この街は貧富の差が増大し、都市の闇の部分である下層社会が形成される。その一端を荷風の観察眼は鋭く捉えていたというべきだろう。
 シカゴの黒人社会の成立と成熟は、有名なシカゴ・ジャズなどを生みだすが、それは一九一〇年代後半からのこと。もうしばらく時が必要であった。ちなみに、シカゴ・マフィアとして名をはせるアル・カポネがシカゴに居つくのも一九二〇年、ジャズと同時期のことである。
 しかし、こうした批判的立場に立っていても、感嘆し賛美する気持ちのほうに揺らいでいかざるを得ない彼の意識の表出が、この短編の眼目であることは疑いがない。それほど、荷風の目にデパートは魅惑に満ちた文明の精華のように映っていたのであった。

 彼は、この短編の中で、モーパッサンの「厭ふべき同じき事の常に繰り返さるるを心付かぬものこそ幸なれ」という言葉を引用し、毎日、新聞を読みあさり事件を知ろうとするアメリカ一般大衆の、退屈で「変化なき人生」を、「最も幸福なる者」と揶揄している。こうした、後年の彼を髣髴とさせる皮肉的高踏的な態度がさっと全面に出てくるかと思えば、現地の友人の自由恋愛と自由なる家庭の雰囲気を、封建的な日本の家族制度と較べて、進んだものとして羨望感嘆し、手放しで礼賛する記述もまた散見するのである。賛辞と批判。この矛盾した二つの思想の間を彷徨う「定まらぬ心」は、勿論、そのまま当時二十六歳であった荷風の偽らざる心の揺れそのものであった。
 明治三十六年(一九〇四年)、米留学を開始し、タコマからセントルイスに行き、当時開催中だった万国博覧会を観る。彼はここでアメリカの文明の力を目にしたはずで、『あめりか物語』中の一編「酔美人」には、その様子が、時に批評的言辞は混じりつつ、ほぼ感嘆の念をもって語られる。そして、次の訪問地であるこのシカゴで、アメリカ有数の大都会を初めて見聞した彼は、規模の大きさに驚嘆しつつも、少しは冷静な観察者の視点を取り戻していたはずである。「市俄古の二日」の冷静な「文明破壊者」の視点がそこに現れており、しかし、それでも抗しがたい文明の羨望感嘆の念にも心囚われる。この心の揺れを作品の根幹としてそのまま記述するということは、自身の置かれた立場や自己の思想形成過程に無自覚であるはずもない。
 繰り返して言えば、この作品は、大伽藍主義の建物と吹き抜け、煌びやかな店内の売り場など文明の魔力や物欲刺激を直截に撒き散らす文明主義の抗しがたい誘惑に惹かれつつ、一方で、着実に現実を見据え、自己の視点を獲得していく初期段階の自分の一断面を、自分自身で描写してみせている作品ということになる。
 末延芳晴は、前出の論の中で、彼の留学が「東回り」でなされたことに注目している。確かに、それは順を踏んで、徐々に且つ多方面に西洋を見る目を育んだ。夢見る土地ではなかったアメリカに先に行き、地方巡りの果て、ニューヨークでの長逗留に至って、彼は西洋文明に対する思想の基底をほぼ確立した。タコマやカラマズーで発見した自然の美、シカゴやセントルイス万博での文明の輝き、ニューヨークでは、在米邦人として見聞・体験することになった西欧ビジネス界、シアトルなどで体験したジャップとしての被差別感……。そうしたトータルな意味での新興西洋文明そのものを体得して、最後の最後にフランスに短期滞在して伝統的欧州文化を吸収することとなる彼の立場は、距離的に近い「西回り」経由で寄り道もせず到着し、憧れのまま巴里の町並みを見とれて終わる他の留学者とは、抜本的に違ったものとなったのは当然で、彼は血肉化した真に西洋を知る者として成長していったのである。末延は、文明の本質を体得して世界一周した最も早い時期のインテリの一人ではないかと評しているが、新興文明、伝統的西欧文明の光と影、どちらも合わせ理解し得たという意味で、この指摘は正鵠を射るものと言う他ない。
 しかし、先走ってはならない。ここシカゴでの荷風はまだまだひよっ子である。既に引用した箇所を多く含んでいるが、「高楼大廈」に登った彼の感激ぶりが極まった部分を再度引用し、この章を終わりにしたい。

 

  建物は丁度大きな筒の様に、中央は空洞をなし、最絶頂の硝子天井から進み入る光線は最下層の床の上まで落ちるようなつて居るので、出入の人々が最下層の石畳の上を歩行して居る様をば、何百尺真上から、一目に見下ろす奇観! 男も女も、漸く母指程の大きさも無く、両腕と両足とを動かして、うぢうぢ蠢いて行く様、此様滑稽な玩弄物が又とあらうか! 然し一度、此の小さな意気地なく見える人間が、雲表に高く聳ゆる此高楼大廈を起こし得た事を思ふと、少時前文明を罵つた自分は、忽ち偉大なる人類発達の光栄に得意たらざるを得なくなつた(「市俄古の二日」)

 

 文明の実際的な成果をダイレクトに感じた感激と、はっきりとはしないが、生理的に危険なものを感ずる恐怖感。振り子のように揺れ動く若き心。彼の文明に対する彷徨は始まったばかりである。

 

    二

 

 実は荷風は、当地に行って初めてデパートを見知った訳ではない。若き日、ゾライズムの影響濃い時期、彼はゾラの『Au Bonheur des Dames(後の邦題「ボヌール・デ・ダム百貨店)』(ルーゴン・マッカール叢書十一 一八八三年)なる作品を読んでいるか、解説などを通して知っていたようである(持田叙子『朝寝の荷風』(人文書院)の指摘による)。
 ゾラの小説は、大枠としては、田舎娘の売り子ドゥニーズがその誠実さでデパートの支配人ムーレと結ばれるまでを描く玉の輿物語である。しかし、物語の面白さはそこではなく、客のマルティ夫人が、陳列棚に並んでいる品物を湯水の如く買いあさって、真面目な教師の夫を死に追いやったり、ボーブ夫人なる客が万引きを繰り返す様子を描くなど、デパートという売り場で繰り広げられる御婦人方の物欲の生態や不健全性を暴き出し、また、近隣の小売商店を圧迫・押しつぶしながら集客を続ける新奇な商法に潜む暴力性を嘲笑的筆致で描くところにあった。
 荷風の『野心』(一九〇二年 明治三十五年)は、これを参考にした二十三歳の時の作である。舞台を日本にし、本邦初のデパートを開店させようと奔走する男を描いている。最終的には放火にあい彼の野望は潰え去る設定になっているが、そうしたシニカルさは残しつつ、同時期の『新任知事』などの徹底した俗物批評と比較すると、かなり異質の、西洋文明を定着させようとする男の浪漫的なものへの憧憬も感じられる作品で、他とは違いがある。
 本家ゾラが嘲笑的な内容であるのに反して、荷風はこうした早い時期から、デパートには好意的のようである。実際、発表時、日本にはまだデパートは出現しておらず、ちょうど準備段階(三越開店は一九〇四年)であったことを考えると、若い荷風は、意欲的に当時の最先端の話題を先取りした作品を書いて衆目を集めようしたと言うこともできる。そして、実際、この作品は彼の出世作の一つとなったのであった。
 後年も、散歩のついでに銀座界隈のデパートに寄り、総菜を買い求めたり、デパート催事に興味を示したりと、利用こそすれデパートの存在に特別な嫌悪を感じてはいない。これは、風俗や新奇なものへアンテナが常に敏感な彼自身の資質を素直に示しているものといえる。 関東大震災によって帝都が灰燼に帰し、この頃まで依然として残っていた江戸の名残の文物が一挙に消え失せてしまった時期、荷風の心には怨み・怒り・諦めなどが渦巻くが、それはそれとして、新しい都市計画の下、近代都市へ大きく変貌する帝都を、彼はすぐに興味深く観察しはじめる。
 帝都の復興は昭和五年頃には顕著となり、古を残していた浅草も近代的な風景に衣替えする。地上七階建てターミナルビルに松屋デパート(松屋呉服店)が入居、開店したのは六年の終わり頃。「松屋呉服店の建物屹立せり。(中略)市街の光景全く一変したり。」(『断腸亭日乗』昭和六年十二月十一日)と、あたりの景色に群を抜いて「屹立」する様子を書き記し、また、翌七年四月には「新大橋より船に乗り吾妻橋に至り、松屋百貨店の楼上を歩む。」と、実際にデパートに立ち寄って、屋上で景色を楽しんでいたりする。そこにあるのは、文明批評とは別の、新奇なものを物珍しく「観る」人=「観察者荷風」の視点である。これは別の言葉で言えば、「日和下駄」者=「散歩者荷風」の視点であるとも言える。そして、彼のそうした資質を磨いたのが、若き日の西域への旅行であったのは言うまでもない。

 考えてみれば、昭和四十年代頃まで、デパートは日本人の買い物の華であった。お子様はデパート屋上のプレイランドに心躍り、お子様ランチの中央に立つ旗が自分のものになったことに心から満足していた。大人は、日頃見ることない洋物や洒落たデザインの品々に目の保養をした。しかし、当時の懐具合ではそう買いあさることもできず、特別な日をつくって、装いを余所行きに改めて、買い物にでかけた。
 戦前、そんなデパートをめぐり、食品売り場を物色して、市井の店よりよほど高価な総菜や手に入りにくい全国銘菓や輸入ものを購うグルメな独身男は、当時としてそれなりに珍しかったに違いない。独り身を隠し目立たないように食を購うのではなく、今でいうデパ地下で男一人堂々と高級な食材を購入する。それは、西洋生活を体験した者ならではの、ある種のダンディズムの発露であり、「独身者荷風」の矜持であった。
 荷風の表現は古めかしく、洋食のレストランでさえ「小料理屋」となってしまうので、一見、想像しにくいが、そこで繰り広げられる食生活は、持田の指摘を待つまでもなく、限りなくお洒落で現代的なスタイルである。購ったクロワッサンとショコラで食事をしたためる姿は、昭和二、三十年代、グローブのようなジャムパンがパンだと思い込んでいた我々世代には、驚異的にモダンである。
 若き日、文明の華と闇との間に逡巡した荷風であったが、歳月へ経て、似而非西洋、軍国主義へと呪詛対象を変えていった中で、西洋デパートは利用価値のあるものとして彼の合理的生活スタイルの一部となって血肉化・日常化していったのだろう。彼にとってデパートはゾラ的な意味で文明批評の対象になり得ない。なぜなら、憧れの巴里こそ、デパートの発祥の地に他ならないからである。
 このように考えて行くと、彼の生き方の流儀は、少々乱暴に言えば、デパートによって担保されていたと言える。おそらく戦争激化によって、デパートに物がなくなった時こそ、彼の人生最大の危機であったと言えるのではないだろうか。思えば、『野心』を書き表した明治三十五年から戦後の死に至るまで、人生のほとんどを独り身ですごした彼にとって、「大商店(部門別大店)」とは本当に長きわたるつきあいをしたことになる。
 荷風の死は昭和三十四年。いわば戦後デパートの最後の健全な全盛期であった。その後のバブルと凋落は周知の通り。荷風にとって日本のデパートは、日本国民、特に女性たちが等しく持っていたイメージとそう変わることがない部分も多いようだが、それに、彼独特のダンディズムの流儀が色濃く加わっていた。現代の我々にとって、老残を晒す以前の荷風の買い物や食のスタイルは、羨ましくも懐かしく、且つ、今もって断然新しい。
            (平成二十四年十二月二十五日擱筆)

 

(付記)
 この「市俄古の二日」は、二〇〇五年度大阪大学(前期文系)の入試問題に採られており、

 

・文中のモーパッサンの言葉をわかりやすく表現し直せ。
・なぜ「非常な恐怖の念に打たれた」か説明せよ。
・「文明破壊者」とはどういう人のことをいっているのか。説明せよ。
・「自分の定まらぬ心」とはどういう心か。文章全体から具体的にまとめよ。

 

 などの問題が出題されている。本稿は、数年前、稿者が実施したこの入試問題解説が端緒となっており、いわば、稿者なりの作品解説をまとめたものである。設問は、荷風に対する知識の有無、古風な文体への慣れなどで、人によって難しさは違ったようだが、純粋に文章から読み取れる設問が多いので、難問とはいえない。
 今挙げた最後の設問の赤本の解答は「新聞を読みあさるシカゴの人々を  見て、人生の退屈さを知らぬ幸福案人々よとあざけり、また、まるで怪物のように人呑み込むシカゴの高層ビル群を見て恐怖心を抱き、反文明主義の立場に立つかと思えば、巨大商店の最上階から最下層でうごめく人々を眺めて、偉大な文明を築き上げた人類を誇りに思うというように、その場その場で意見が変わる一過性のない心」とあった。説明の前半は問題ないが、文末のこの纏め方はほとんど間違いに近いように思われる。       (了)

    [1] 
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