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潤一郎・荷風

 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (論文)永井荷風「狐」検証(中)ー母性空間と狐伝説ー

(論文)永井荷風『狐』検証(中)
       ー母性空間と狐伝説ー

 

四 母性空間と狐伝説

 

 前田愛はこの作品を、「荷風自身の生の遠いみなもとへ回帰する試み」として書かれ、「闇の精霊として登場した狐に過酷な懲罰が下される」象徴的な物語であって、「追憶記の枠組みをこえ」たものと理解する。そして、崖上の新しい住居と崖下の暗い木立の庭とを、各々「文明と自然、東京空間と江戸空間、男性的世界と女性的世界、という一連の対立項」に分節し、崖上の世界が「崖下の世界にわだかまっていた『母なるもの』の原像を殺戮する祝祭劇」で、父親、田崎らが代表する「文明開化の実利的・合理的世界」が、母親や御飯焚きのお悦に代表される「母なるもの」「江戸空間」を抹殺する象徴劇であると分析している(註10)。明解な構造把握であり、稿者もこの見解の外に出るものではないが、稿者なりの理解をここに述べたい。
 前田は、こうした対立構造を明確にさせるため、実際の永井家の生活から洋風なものを削除させ、時代設定を荷風の実人生より若干遡らせて、小説としての<場>を江戸の延長にイメージさせていると指摘している(註11)。また、坂上博一は、狐退治の男衆が皆「すべて時代がかった芝居の登場人物に他ならない」(註12)と述べ、人間造型が芝居のように類型的との指摘しているが、これもこうした一環であろう。書生や出入りの者達との人間関係は、「幕府に昔と同様可笑しい程主従の差別のついて居た」間柄として描かれ、職業も、植木屋、鳶職と伝統的である。その行動も「倒にした天秤棒をかつぎ」「隊伍正しく崖の上に立ち現れた」等、歌舞伎的で、書割りも「粉々として降る雪」の中と、実にお誂え向きである。
 無論、こうした特色は、荷風は意識的に造作したのであり、題材が<狐>という古くから芝居にのせられたもの(「九尾の狐の殺生石伝説」等数多い)だけに、それらのイメージをうまく重ねる手段とした訳で、そうした目で読むと、舞台の狐が、往々にして狐自身としては余り姿を見せず、狂言回しの役どころなのと同様、この作の狐も、話題の中心でありながら、出現はほんの数場面にすぎない。荷風は芝居好きの母親の影響で、幼児から見物しているが(『監獄署の裏』等)、それからも本物の動物からと言うより、こうした伝説や芝居の狐が念頭にあったことは想像に難くない。
 この点に関し、磯田光一は、鳶の清五郎の台詞の中に「信田の森」云々とある事に着目し、その白狐伝説との関係を指摘している(註13)。この伝説は、

 

安倍保名に助けられた信田の森の狐が、葛の葉という娘になって妻となり、童子丸を生むが、正体がばれて、去る。童子丸は、後に陰陽師安倍晴明となる

 

という有名なものだが、もしこの磯田説を是認すると、「殺された狐に心ひかれる「私」には、信田の森の白狐を慕う安倍晴明がうつされている」(前田)ことになる。だが、果たしてこう単純に断定してよいものであろうか。
 この伝説は、所謂<狐女房型説話>の典型で、この説話の特色は、

 

狐の家族の分散と崩壊の事実と、その過程をなかば人間世界の中に持ち込み、より一層悲劇的要素を加えて、狐の子別れを再構成し、物語に仕立て上げたもの」(吉野裕子)(註14)

 

とされる。即ち<化ける>ことが第一条件になっている。その上で、<子別れ>がある形をとる。ところが、荷風作の場合、狐の化ける側面を強調したものでも、特に子別れを暗示しているものでもない。この点で両者にははっきりとした相違がある。作者としては、登場人物に言及させることで、古来からの狐のイメージの一つとして<信田の森伝説>も絡めたといったところなのではないだろうか。磯田の指摘はこうしたスタンスで理解すべきで、過剰な影響論は無用のように思われる。
 この伝説が絡む近代文学作品としてすぐ想起されるのは、同じく耽美派の谷崎潤一郎『吉野葛』であろう。この作品について、作者は後年「母と共に見た団十郎の葛の葉から糸をひいていることは、争うべくもない」(『幼少時代』)と、明治二十六年、六歳の時に観た信田伝説を基にした歌舞伎「蘆屋道満大内鑑」の記憶が作品に投影されていると自ら指摘している。こうした歌舞伎経由の過程自体は『狐』とある意味で類似しているが、作品のモチーフの面での影響は子別れなどの点で較ぶべくもない。

 

五   父性と母性との間

 

 我々日本人は、古来、狐を化けるもの、人を騙すものとして恐れる反面、「土徳の所有者」(吉野)として土地の守護神として崇めてもいる。屋敷神となる所以もそこにある。この所謂、稲荷信仰には、中国での狐の伝説やイメージ、それに日本古来の土俗信仰が習合して、雑多な思想が混合しているということだが、矢張り、その信仰の中心は、<霊力による鎮土、そこに住む人間の加護、吉運の祈願>ということになろう。狐と母性としての土地は、分かち難く結びついているのである。
 信田妻伝説は、子の母恋いのテーマが狐のイメージを下敷に語られている訳だが、子の<母固着>というテーマを扱った日本の文学作品は数多い。これは、日本が母性を中心とした文化であるという背景を、忠実に反映している。前田論文にも言及があり、最早、常識の部類というべきかもしれないが、確認の意味を込めて、母性の役割について、河合隼雄氏の定義を引用したい(註15)。

 

母性の原理は「含包する」機能によって示される。(中略)その肯定面においては、生み育てるものであり、否定的には、呑み込み、しがみつきして、死に到らしめる面をもっている。(中略)母性原理に基づく倫理観は与えられた「場」の平衡状態の維持に最も高い倫理性を与えるものである。(中略)これに対して、父性原理は「切断する」機能にその特性を示す。

 

 これを作品にあてはめると、「私」は、母親が酒の燗について父に怒鳴られ、「下女まかせに出来ないと、寒い夜を台所へと立つて行」く様子に同情して、「父の無情を憎く思つた」り、書生の田崎を、「恐いような、憎いような気がして、あれはお父さまのお気に入りで僕らだのお母さまなどには悪いことをする奴である」と、敵対視している。つまり「私」は<場>の均衡状態を維持しようとする母性原理に寄っており、母親に同化させて自己を認識している。時に、男子として父達の行動を「勇ましい」と思い、「一同に加わつて狐退治の現場を見物したい」と言い出したりする事はあるが、何かがあると、母親の「柔らかいその袖にしがみつきながら泣いてい」るのが「私」なのである。そして、母親はそんな彼を「含包する」存在である。
 これに対して、「私」は、父を代表とする男達の心情を最後まで理解出来ない。「父はどうして、風に吠え、雨に泣き、夜を包む老樹の姿が恐くないのであろう」「夜更けまで舌なめずりしながら酒を飲んで居る人達の真赤な顔が私には絵草紙で見る鬼の通りに見えた」ーいずれも幼児の主人公には理解しがたい存在として描かれている。父は狐信仰を田崎同様、迷信とし、狐を「切断」(退治)しようとする。前田の指摘の通りである。
 しかし、母性と父性は、二極分化した<対立項>ばかりとは言えない。再度、河合の定義を引用する。

父性と母性のふたつの原理が人間の生き方の中に働いているが、我国の化は明らかに母性の原理に属している。しかしながら、ひとつの文化がひとつの原理のみで成立する筈がなく、何らかの方法で対立原理をその中に取り入れ補償をはかっている。我国の場合は、母性原理に基づく文化を父権の確立という社会的構造によって補償し、その平衡性を保ってきたと思われる。つまり、父親は家長としての強さを絶対的に有しているが、それはあくまでも母性原理の遂行者としての強さであって父性原理の確立者ではなかった。

作品をみる。「私」が「すぐ崖下のに狐を打殺す銃声は如何に鋭く耳を劈くだらう」と、より近代的な銃殺を期待していたにも拘らず、実際の狐退治は、鳶の清五郎が打下す鳶口が「紛れ当り」に刺さったにすぎない。母性の象徴である「御扶持放れ」の狐が抹殺されるのは、父権の行使者である父が正統に行使した訳ではない。にも拘らず、行列は父を先頭に「隊伍正しく」帰って来る。滑稽感が感じられるところである。
 つまり、前田の指摘を私流にパラフレーズすれば、日本の、母性原理に深く根ざした社会では、近代を体現している父は、その<場>の中では、単に「平衡を保つ」為の「遂行者」の役割でしかなく、矢張り、最後まで「父性原理の確立者」ではなかったということになる。確かにこの物語は前田の言うように「『母なるもの』を殺戮する祝祭劇」ではあるが、それだけに留まらず、<場>としての「母なるもの」に佇立するしかなく、結局、その大きな器の中でしか演じられない<近代>の表層性、矮小性を、その作品構造の中に具現化し、些かの滑稽さを伴って描いているものだと言えるだろう。この小説の構造性自体に荷風の文明批評を読み取ることが出来るのである。
 その上、屋敷内という区切られた中での、父性、合理性の象徴性といった面ばかりでなく、子供の「私」には何の興味もなかったとしながらも、「崖下の貧民窟で提灯の骨けづりをして居た御維新前の御駕篭同心が首をくくつた」り、「水戸様時分に繁昌した富坂上の辰巳屋と云ふ料理屋がいよいよ身代限りをした」りと、塀の外では、容赦の無い殺伐な時代変化の風が吹き荒れていたのを附記しておくことを作者は忘れてはいない。それによって、狐退治が滑稽な<コップのなかの嵐>でしかなかったことを照らし出し、相対化の視点を用意しているのである。       (この稿つづく)

 

《註》

(10)註(1)に同じ。
(11)しかし、この例証として前田論文に引用されている「もう 

    三十余年の昔、小日向水道町に水道の水が露草の間を野川

    の如くに流れていた」という冒頭の字句は、執筆当時三十

    歳であったことを考えると、確かに虚構なのだが、違った

    意味もあるように思われる。明治二十一年、東京市区改正

    条例が公布、主に伝染病予防のための上水道工事がなさ

    れ、三十二年、改良上水道が完成するという東京改造の果 

    てに、帰朝時には、全面暗渠化されていた変化を強調する

    ことで、明治十八年、衛生局第三部長となり、上下水道に

    関する実状を紹介、「衛生二大工事」の著のある父久一郎 

    を念頭に置いた記述と考えられる。「維新の革命があつて

    程もなく、新しい時代に乗じた」という父に対する形容が

    初出にはあったり(のち削除)、「父は内閣を「太政官」

    大臣を「卿」と称した頃の官吏であつた」という可成り突

    き放した言い回しがあるなど、当初、この物語はかなり父

    親に対する鬱積した感情が投影されていたことは間違いな

    い。
(12)「永井荷風における東京ー荷風文学の原点ー」(『国文学

    解釈と鑑賞』昭五五・六 「特集 文学空間としての都

    市」
(13)『永井荷風』講談社(昭五四・一〇)
(14)『狐ー陰陽五行と稲荷信仰(ものと人間の文化史 3

    9)』法政大学出版局(昭五五・六)
(15)中公叢書『母性原理日本の病理』(中央公論社)
                             (「イミタチオ」第22号所収)
                                     (1993・11)

    [1] 
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