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 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  谷崎潤一郎『過酸化マンガン水の夢』試論ー晩年の創作方法をめぐってー

 

谷崎潤一郎『過酸化マンガン水の夢』試論ー晩年の創作方法をめぐってー

 

 谷崎潤一郎の文学を通覧すると、大正の一時期は乱作で、彼の停滞期を掲げる場合、まず、この時期を取るのは定説化しているが、千葉俊二氏が丹念に同時代批評を検討し結論付けているように、この時期の文学的評価は決して低いものではなく、「スケールの大きさ、輪郭の彫りの深さ、文体の確かさなどによって時流を超えたものとして、文壇的には重きをおかれ、確乎とした位置を占め」(注1)つつあったとして、徒らに大正期の低迷を強調する従来の論を排する傾向が近年顕著である。現在の視点で俯瞰して、初期作品群に比べて強烈なるインパクトが感じられぬ故の評価と考えられるが、確かに通俗に堕す危険性を孕みながらも、彼の内なる創造性の枯渇を意味しない以上、いずれ通過脱出可能な一時的な現象でしかなかったともいえる。
 これに対し、戦後の低迷はより深刻である。戦後の軌跡を瞥見すると、『少将滋幹の母』(昭24)以降『鍵』(昭31)に至るまで約七年間、本格的な創作を発表していない。あるのは随筆や未消化な作品ばかりである。そして、この二つの作品が読者に与える雰囲気の截然たる差異を鑑みると、空白期の重要性は自ずと認識される。この間、『新訳源氏物語』にかかりきりであったという事情を差し引いても、『高血圧症の思ひ出』(昭34)に詳述される健康の悪化に直面し、創作活動が停滞していたのであった。
 彼は、既に戦前から高血圧症の兆候があったが、戦後、『細雪』下巻執筆(昭22)頃より本格的に発症し、一時、執筆中断に追い込まれている。その後、小康を得て『新訳源氏物語』にとりかかったが、昭和二十七年頃より再発、一時は完成が危ぶまれる事態に立ち至っている。谷崎は、肉体的衰弱の自覚を余儀無くされ、死の恐怖が現実化する。彼は、如何に創作意欲を減退させずに自らの余命を長らえるかという二律背反に苦悩せねばならなかった。
 河野多恵子氏は、この時期を、

 

谷崎にとって最大の危機であり、本当の危機としては唯一の危機でもあった。(中略)その後の谷崎はその危機から決して本当に逃れ出たわけではなく、捉えられたまま懸命に生き延びてきただけのことだったと思われる。その間、恐らく谷崎自身の心の奥底でも、行き詰まりの不安と焦りとが点滅し続けていたにちがいない(注2)

 

と規定、大正期よりも、この期に最大の危機を認めている。眩暈、二重視、記憶欠損など、作家生命に関わる障害によって、経済的生活的破綻と精神的動揺の二重の苦汁を嘗めることとなる。
 一般的にいって、死の恐怖は、どうしても健康や生活重視の傾向となり、創作は二の次になりがちである。だが、谷崎はこの低迷の泥沼から甦生、『鍵』(昭31)を始めとして陸続と晩期作品群を公にしていく。これは、昭和三十年代初頭数年における一時的な健康回復という肉体的側面のみで説明がつくものではない。谷崎は芸術家としての危機を如何に超克したのだろうか。
 その転換の折目となった作品こそ『過酸化マンガン水の夢』(原題『過酸化満俺水の夢』)であると愚考する。以下、この作品を精読し、晩期谷崎の創作方法を明らめる手掛りとしたい。

 

 

 『過酸化マンガン水の夢』は、従来、伊藤整が、

 

日記、感想、私小説など色々な性格を少しずつ帯びた作品として受け取っていいだろう。しかし多分これは小説か戯曲が成立する一歩手前でとどめられた特殊な作品だと思われる。もし読者が、この作者の『刺青』や『お艶殺し』や『武州公秘話』などにある怪奇性と残忍さとによる人間描写がどのようにして形造られるものか、と考えたことがある人なら、この作品は、最もよくその疑問に答えるものと言っていい。(中略)谷崎潤一郎の日常生活の中から、あの怪奇性のある諸作の形成される順を実験室の中で示すように説明されている(注3)

 

と評価する如く、谷崎の創作活動の手の内を明かした作品として解釈されることが多かった。確かに、この作品によって、谷崎の豊潤なイメージがどのように日常生活の中から現像されるか垣間見ることができる。
 しかし、単にそれを読者に呈示するだけを目的としたとは考えられない。況んや、読者の覗き趣味・文人趣味に迎合したものではない。この時期、何故、かくの如き中途半端な作品を書かねばならぬ必然性があったのか。
 本作品は、一見、無雑作に日頃書き溜めた日記を抜き出しただけにみえるが、実際は、実に周到に練られた作品である。まず、執筆期間からみる。本作品は「中央公論」創立七十周年記念昭和三十年十一月特大号の企画の一環として組まれた。書肆からの依頼は、七月下旬〜八月上旬にはあった。書簡にある最初の本作品の記述は、八月十一日付嶋中鵬二宛のものである。「記念号の件ですが、先づその前に源氏の仕事もありますし、到底創作を書くことなどは思ひもよらないと思ひます」(注4)と執筆拒否の回答を送付している。ところが、約二週間後、二十五日付書簡では「仕事の予定は今月中に特製本源氏の修正を完了し来月初旬から七十周年記念号の原稿にかかり廿四五日頃までに脱稿のつもりです」(注5)と、既に承諾済の上、執筆予定が九月中となる点を明かしている。この間に着想・構想を得たと看倣せる。『過酸化マンガン水の夢』の時間設定は、八月八、九日の二日間で、前者の書簡の二日前である。実際に九日深夜に幻想を得たとしても、直ちに創作の発想には結び付かなかったようである。「二三日も過ぎてから、あ、あの晩こんな夢を見たつけと、ふと思ひ出すことがある」(『雪後庵夜話』)一事例なのかもしれない。後者の自信に満ちた文面から、この時、既に明確な形を成しつつあったと推察できる。
 谷崎は遅筆で知られる。対談(注6)などに拠ると、一日二三枚が限度という。この作品は、生原稿未見のため、正確には判断し難いが、換算すると約三十二枚である。谷崎は、二作品同時執筆はせぬ主義故、執筆中は本作品のみに没頭している。本作末尾に「昭和卅年十月稿」とあり(初出に無し。初版以降にあり)、執筆は丸一ケ月を要している。整理すると、実際の行動から構想に結実するまでに約半月、執筆期間は、九月上旬より十月までの約一ケ月である。小品ながら充分時間をかけて執筆されていることがわかる。
 次に内容からみる。大別して、前半の日記仕様の記録文と、後半、夢の叙述からなる。前半は八日の行動(上京ー観劇ー食事(中華料理))、九日の行動(映画ー食事(辻留))の在東京生活が報告され、熱海へ帰宅後の夜の出来事を架橋にして、後半の夢の記述に至る。前半の詳細な行動記録は、ある程度の取捨があるかもしれぬが事実である。こうした記録が漫然と記されているだけなら創作とは言えまい。しかし、後半、夢の記述が附されることで創作としての奥行きが出た。単調な行動記録は異常な夢を引き出す長い伏線として有機し、注意深く前半に織り込まれている。
 ここで便宜的に段落番号を附す。全十六段、@〜Cが八日、D〜Jが九日、R〜Rが夢の記述である。後半の夢は、過食による腹部膨満、脈拍結滞による体調変化、睡眠剤が直接的原因をなす。夢は、まず辻留の牡丹鱧(はも)の真白な肉と ぬるぬるした半流動体を想起、その想像が日劇で観た浴槽で体を洗う春川ますみを連想、映画でシモーン・シニヨレの情婦が校長ミシェルを浴槽に押し込む場面に変化、「濡れた髪の毛がべったりと額から眼の上に蔽ひかぶさり、その毛の間から吊り上った大きな死人の眼球が見える」。ところが「もう一つ奇怪な幻想」ー水洗トイレでのレッドピーツ(サラダ用火焔菜)混じりの排泄物から染む紅色の線に見惚れる幻想に転じ、再度、シモーン・シニヨレの悪魔的風貌となり、変じて「史記」呂后本紀にいう美女の千足を切断された人テイ(注…JIS表になし。テイは豚の意。以下二箇所カタカナ書き)に化す。この連鎖的幻想のうち、排泄物と人テイ以外は全て前半で触れられた事項である。Bの観劇では、ショー自体は印象薄だったが「春川ますみと云ふ娘に予は最も魅せられたり」と特記、D〜Hの仏映画批評も否定的論調の中で「一番悪魔的な凄さを感じさせる場面は、ニコルがミシェルを浴槽の中へ押し込むところと(中略)偽眼を取り外すところである」とし、「予も覚えずギヨツとさせられた」と告白する。Qでも辻留固執の理由が牡丹鱧であったと明かす。以上の記述に留意すれば、前半が単なる日記の抜粋ではなく意識的な所産であるのは明白である。一日間の行動の中で、特に谷崎の心を動かした強印象の情景や事実を、正確に対応させて夢の記述に使用しているのである。後半、初めて出てくる排泄物に混じる火焔菜の紅色も、胃潰瘍による血便かと不安な日々を送ったとあり、人テイも『新訳源氏物語』賢木の巻の頭注で触れ「何かの機会にこれを種材にして見たい」と常々思っていたという。以前より意識下に沈潜していた事項であった。伊藤整は「周到な観察、その急所の把握、その印象の強い残映、そこから生れる幻想、という順序で作り出される」(注7)とするが、<急所の把握>という評言が、この強印象の特記を指していると理解できる。本作品により、作者の夢想が如何に日常生活の印象と深く繋っているかを開示し、何らかの意図によって明らさまに強印象が夢に対応する作品を書いたわけである。

 

 

 以上の如く、本作品が、如何に用意周到で計算されたものであったとしても、創作としては些か未消化で「特殊な作品」という感は拭えない。何故、谷崎は執拗に夢の連鎖を迫わねはならなかったのか。 
 本作品の主題は文字通り<夢>である。作者は「フロイドの『夢判断』などにはどんな風に説明してあるか、又一般の人はどうであるか知らない」とかわしているものの、基本的には精神分析学の公式通り進行する。この点を重視する野口武彦氏は、

 

幻覚の進行過程にあって、いかに谷崎がフロイド学派のいわゆる小児性欲の記憶を異様な鮮明さで再現しているかについては、おそらくだれも異存はあるまい。フロイドが(中略)「自己愛的」と呼ぶこの性愛の特質は、口唇性と肛門性にあるといわれる。食物の摂取と排泄行為とが自己自身の肉体を対象とした快楽と未分化にあった状態の長いこと忘れられていた記憶が、この年七十歳の老谷崎の識閾にまざまざとよみがえる。(注8)

 

との見解を示す。若年時に心理学関係書を溺読した点を勘案すると、充分、フロイドを意識しての立案という推論も成り立つ。野口説の裁断は明解だが、果して単なる小児性欲の顕現と割切ってよいか。事実としても、それは本作品に描かれた作者の精神状態への分析であって、本作品が書かれねばならなかった必然性への明答は得られまい。しかし、この夢体験が、「作者の一種実存的な体験」の刻印として全存在を問う意義が内在していたとする見解には賛同したい。この夢体験の積極的活用こそ晩期蘇生の起爆剤となったのではないか。老悖による取材の狭限と集中力の散浸化、構成力の低下は、往々にして身辺雑記風私小説に陥る。だが、谷崎は果敢に夢を利用する。夢は作家の倫理観道徳観を解き放し、自由に想像を飛翔させる創造空間である。文学が想像の所産である以上、その原初的形態は夢の有効性の発現としてであるといってよい。日常空間での作家活動に制限をきたしている谷崎にとって、夢は現実の老苦と死の恐怖から離隔し、純粋に創造性を発揮できる貴重な場であったと想像される。睡眠中の奇態については、松子夫人の『倚松庵の夢』に詳しい。例えば、寝言である。

 

寝言と云えば又実に見事明快なもので、寝言の部類にはいるかと疑わしいが(中略)家族連れで神戸のお寿しやさんに行った。例の食べる時のわけても威勢のいゝ弾んだ声で皆の分まで註文、満腹して帰った夜の寝言に、鯛、あなご、いか、かっぱと次々註文の末、最後にいくら、(中略)と其の日のお寿しやのことを寸分誤りなく復誦したのには唖然とした。長い寝言を云う人はきいたが、ここまで語尾もはっきり順序正しく眠っていて云えるものか、頭の構造が少し違うのかしら、と家の者たちといぶかしく思った。

 

食事の場面が夢の中で反復されているわけで、現実の辻留での食事(牡丹鱧)が夢に再現する『過酸化マンガン水の夢』自体と類似する。谷崎自身、「巧い工合に寝られない時に最もしばしば考へることは何かと云へば、旨い物を食ふことである」(『雪後庵夜話』)と述べ、それが一番眠りに誘ってくれるという。熟睡するまでの浅い眠りの時、寝言となったのであろう。ここには、自己の行動を冷静に観察する作家としての眼がある。そして、それが強靱な記憶力によって、小説の<場>として仮構されていく。谷崎は『過酸化マンガン水の夢』の中で、「予は或る程度までは自分で自分の夢を予覚し、時には支配することさへ出来る」とする。豊潤な想像力で、単に白昼の出来事を再現するだけでなく、自らの意志で夢の登場人物を動かしたり作中人物を創造したりする。野放図な夢も意識的制御や取捨撰択によって整理されていく。睡眠の時間こそ晩期谷崎にとって創造性を発揮し得る小説家本来の<場>であった。
 夢について、谷崎は『雪後庵夜話』第四回(「中央公論」昭38・9)の項で詳細に書き残している。これによると、小説の筋を寝床で考え、名案が浮んだと喜ぶのだが、大概、目覚めると下らない思いつきで落胆することが多いという。寝つきがよく、すぐ熟睡する方なので、先に引用した如く、数日後に夢を思い出すことがある以外は記憶に残らないとも述べる。これらは我々もよく経験することである。無駄の多い睡眠の活用ではあるが、一旦、創作の端緒を掴まえた時は、根気よく培養し、作品に結実させていく。『夢の浮橋』(昭34)はこうして作られた。口述筆記の最初の小説のため緊張していたせいか「寝床の中で長く眼を覚まして考へつゞけた。そして次第に考がまとまつて行くことがこの上もなく楽しかつたことを今も忘れない」と回想している。
 想像を発揮できるのは、偶然的な睡眠の時ばかりではない。谷崎は人工的に半睡半醍の状態を作り出す。

 

「入浴の時、湯船の中でよく独り言を云っていらっしやいましたね。きっと創作の中での会話であったのでしょう。」(中略)新らしく来たお手伝いが湯殿の廊下を通りかかってこえを聞きつけて驚き、先生が何か仰っています、と駈けつけてきたことがあったが、私はさりげなく「心配なことではないのよ」と云ったものである。時に地の文らしく長く続くことがあった。(『倚松庵の夢』)

 

湯殿の中の朦朧とした状態を意識的に作り出し、その中で「創作の中の会話」や「地の文」が小説的結構を整えていく過程を経ながら紡ぎ出されていく。
 ただ、『倚松庵の夢』に描かれる、寝言、独語、夢想癖は、晩年に限ったものではない。代々木寛氏は、谷崎作品に独語癖の登場人物が頻出し、それが作者自身の習癖でもあったと指摘、そして、この習癖は、文壇登場以前の揺籃期に初現、その原因を、(一)倫理的指向から文学的指向への転換による自閉的志向、(二)英文科から国文科への転科と退学という現世的栄達からの背反、(三)家庭内友人間での孤立、に求める(注9)。この分析の当否は一応置くとしても、揺藍期より夢想家的性格を内包していたと看取できる。ここで想起されるのは『異端者の悲しみ』(大6)の独語癖の主人公章太郎である。彼は「覚めながらも夢を見ているも同然であった。寝ている時と起きている時との区別なく、奇怪極まる妖女の舞踊や、血だらけな犯罪の光景や、不思議な魔術師の舞台などが、阿片やハシイシュを飲むまでもなく、彼の眼の前に始終変幻出没」する。そしてこうした「彼の頭に醗酵する悪夢を材料にし」て「甘美にして芳烈なる芸術」を作り上げたという。端言の「唯一の告白書」という言葉の信憑性が高いとすれば、初期の創作方法も夢想の積極的活用の所産であったといい得るだろう。初期の意識については、中村光夫に卓見(注10)があり、稿者も氏の論以上の見解を有していないので触れるのみに止めるが、彼の場合、悪魔(悪夢)=芸術であり、芸術が生活を支配することが可能とする思想を持っていた。『饒太郎』(大3)に描かれる生活と芸術の一致の実践が好例となろう。『異端者の悲しみ』の章太郎も、実生活で放蕩無頼を実践することで、神経衰弱をある意味では故意に作り出し豊饒なイメージを取り出すことに成功している。ここに晩期谷崎の創作方法と相似する如く見えながら甚大なる差異が存する。晩期は前述の如く老羸による死の恐怖が作者を襲い、懸命なる延命こそ至上命令であった。自己の肉体の酷使による悪夢の摘出など無理である。
 また、中期の方法論確立も看過できない。古典を原拠とするなど、十分な調査研究の上での安定的な想像の発展が可能となる。具体的には松子夫人との出会いによる生活実践の中から、即ち、覚醒した白昼の意識の世界で、古典などから触発されるイメージを利用して創造性を鼓舞していく。それが高血圧症により崩れる。最早、こうした中期の創作方法では小説が書けぬことが明白となる。『小野篁妹に恋する事』(昭26)など、材料は揃いながら記録として止まった作品が惨めな姿をさらす。初期の肉体酷使の放蕩による芸術至上主義も、中期の根気のいる方法もとれない、そうしたこの行き詰まりの打解策として、再度、谷崎は夢想を利用しようとした。もちろん、初期の肉体酷使の方法は取り得ない。そこで、以上述べたような寝床や湯殿、あるいは『過酸化マンガン水の夢』の原因となった睡眠剤の利用を思い立ったのであろう。睡眠剤といっても、医者より高血圧症のため配給されたものであり、中毒の危険性はない。『過酸化マンガン水の夢』でも、ほとんど使用していない旨を記している。意識的健康的に夢想を活用するーそれが初期と中期の各々良所を採用することで創造性を枯渇させずに余命を長らえる二律背反を超克する唯一の道であった。
 豊饒たる夢想の利用は、創作の枯渇から救ったばかりではない。健康を享受し得た四年間には『幼少時代』(昭31)『親不孝の思ひ出』(昭32)他、多くの回想記を執筆する。『幼少時代』は、本来幼童時代より中学三年までを回想する予定であったが、いざ執筆を開始すると「最初に考へてゐたよりも予想外に書くことが多く、遠く記憶の埒外に、逸し去ってゐた筈のことが後から後からと思ひ出されて来る始末で、到底与へられた期間内に書き尽すことが出来」ず、結局は小学校卒業まで、それでも書き洩らしが沢山あり、優にもう一冊書ける分量を余していたという。老人とも思えぬこの記憶の鮮明さも、夢の利用であったとすれば充分納得がいく。後に「時たま見る夢の中に出て来る人物が、悉くと云ってもいいくらゐ、もう死んでしまつた過去の知人ばかりである。」(『雪後庵夜話』)と述べ、母親や旧友笹沼源之助など『幼少時代』などの回想記にしばしば登場する人物の名を掲げている。夢が過去の記憶に向った時、回想記に連結し、悪魔的内容を帯びた時、小説に結実していったと考えられる。事実、『過酸化マンガン水の夢』において作者が強印象を受けたのは、シモーン・シニヨレの悪魔的風貌など全て所謂悪魔的な事象である。これによっても、本作品が悪魔主義的創作系列の流れを汲んでいると看倣すことができよう。纏めると、晩期に至って、日本の美を象徴するような根気のいる仕事が出来なくなった時、夢の利用で成り立つ回想記と、衣が洗い流されて作者の夢想が裸形で現れる創作群とに二分できる仕事ぶりになったのは、こうした創作裏事情のためたと考えると判りやすい看取りになるということである。
 睡眠や人工的夢空間で紡ぎ出された夢想は、白昼、執筆者谷崎によって作品化される。自ら制御・演出した夢を、作者はただ記述すればよいのである。彼の執筆時間が常に早朝に限られ午後にかからなかったのも、健康維持のためばかりではなく、夢と執筆を直結し忘却を防ぐ措置ではなかったか。作家には書きながら纏めていく型と机に向った時には既に小説の大筋が無意識の底にでき上っている型とがあるが、晩期に限って言えば、谷崎は後者であるといえるだろう。昭和三十四年以降の口述筆記でも基本的に大きなゆるぎがなかった理由もここにある。
 『過酸化マンガン水の夢』が、晩期作品群執筆の直前のこの時期に善かれた必然性も、この新しい創作方法と密接に関連するといえる。昭和三十年、谷崎は従来の手慣れた手法ではなく、まったく新たな創作方法で作品を紡ぎ出さねばならなかった。言うなれば白紙の状態である。新方法で直ちに創作を執筆するのは余りに危険である。谷崎は、一度その前段階として、本作品で試したのではないか。一ケ月の長きにわたる執筆時間をかけて、自ら起った日常生活から湧き出る夢の連鎖を忠実に跡付けることで、創作が紡ぎ出される過程を反芻し、新しい創作方法の手順を再確認しようとしたのではないか。
 この点、『鍵』が本作品と同時平行的に企画されていることに留意したい。『鍵』は、本作品の執筆を拒否した八月十一日の段階で既に腹案が浮んでおり、執筆を快諾した二十五日には、ほぼ腹案が纏まっている(前稿参照)(注11)。共に八月中に企画されながら、遅れて発表された『鍵』の構想の方が先行しているのである。この点から観て、本作は、この『鍵』の構想の熟成の過程で発想された謂わば創作のための試作であるといえる。本格的創作の執筆のために、事前に習作や断片を発表することは作家によってはしばしば見受けられるが、そうした言い方で言えば、本作品は『鍵』ばかりではなく、『夢の浮橋』『瘋癲老人日記』など晩期創作群全ての試作となっている。単なる断片としての習作ではなく、今後の創作方法に関わる試作であるだけに本作品の意義は極めて大きい。『過酸化マンガン水の夢』で行なった創作方法を確認する作業は、晩期作品群を書き始める谷崎にとって一度やっておかねばならぬ必須行動であった。この意味で本作品はこの時期作者の内部で書かねばならぬ必然性を持った作品である。決して売文のために草した安易なものではない。新創作のための手順練習ノート、予行演習であるといえる。谷崎がこうした予行演習を公にした御蔭で、我々は晩期創作の醗酵過程が手に取る如く見透すことができる。谷崎は、晩年、創作作品発表には慎重の上にも慎重を期している。例えば、口述筆記となってもすぐには創作の筆を執らず、随筆を数本執筆した上で創作に着手している。この慎重な発表方法を勘案しても、創作執筆前に予行演習として本作品を書いてみた蓋然性は高いと思われる。

 

 

 『過酸化マンガン水の夢』は、晩期作品群の試作として位置する。この点は、各々晩期作品と具体的に関連させればより明確となる。
 まず、久しぶりに現代小説、それも初期悪魔主義を彷彿とさせる作品を書いたとして話題となった『鍵』について。この作品の時間設定は、発表されたその年、昭和三十一年である。谷崎は、前年暮に、翌年のカレンダーを念頭に入れて執筆するという手のこんだ配慮をして「今」に合わせる努力をしている。つまり、今を描いた現代小説であることが重要だった訳で、そうした現代の悪魔主義的作品としては、何も『鍵』を待つまでもなく、『過酸化マンガン水の夢』の方が、実際あったことをそのまま書くという素朴な形ながら二ケ月先行している。また『過酸化マンガン水の夢』には、『鍵』で有効に使用される数々の要素が何気なくさらされていて興味深い。作中批評された映画の、『鍵』のプロットへの影響は顕著であるし、映画の小道具として使用された鍵が、『鍵』での表題と小道具に援用されたことは小出博氏の論考(注12)に詳しい。他に、『過酸化マンガン水の夢』末尾に引用される「史記」の書き下し文から『鍵』の片仮名日記が発案されたことも充分考えられる。主題的にも、『過酸化マンガン水の夢』が排泄物に悪魔的女性を重ねることで逆に鮮烈に美を自覚するのに対し、『鍵』は、その延長として美を自覚した男性が悪魔的女性にとるマゾヒズムにイメージを押し進めた結果である。つまり、『過酸化マンガン水の夢』の「予」の後の姿こそ『鍵』の夫(教授)なのである。『鍵』にスカトロジカルなイメージこそ発現しないが、意識の上では発展的な形を成す。作者の意識の醗酵を観るものとして、この作品との関連は一番重要である。
 また、『鍵』がプロットの変更により無残な爪跡を残した作品となった理由もここから明らかとなろう。稿者は、前稿で原因を、(一)途中休載などによる慌ただしい執筆、(二)国会換問などにいたる輿論の異常な反響(注13)、の二外因のみを掲げたが、秦恒平氏が「外側から釆なくても内側からも。彼自身の中にも、それから家庭生活の中にも」、義孫渡辺たをり氏が「精神的に彼自身の方で挫折した」(注14)と仮説する如く、谷崎の内面の問題のために挫折すべくして挫折したとする見解の根拠を示し得る。『過酸化マンガン水の夢』の成果により、充分、新創作方法で創作執筆可能と高をくくり、『鍵』に着手したものの、予想以上に困難が伴ない、仕方無く従来の手慣れたマゾヒズムの構図に依存、推理小説仕立てとすることでかろうじて結構を整えたのが『鍵』だと考えられる。即ち、『鍵』は新方法の処女作故に失敗したといえるのではないか。第三因に掲げたい。
 笠原伸夫氏は、『過酸化マンガン水の夢』の夢の制御を、「老いからくる性的挫折について、夢の領域でなら救済が可能だ、という切実な願望に支えられた行為」(注15)と認識する。『夢の浮橋』はこの具体的願望の展開に他ならない。前稿で論じた「夫=間男同一化のイメージ」は、この願望の所産である。これが谷崎固有の母性憧憬と融合し、父子の妻譲り譚に結晶する。父の妻譲り願望は、そのまま性的挫折からの松子夫人救済を意味し、息子乙訓糺の母譲りの受容も、今度は谷崎が糺にすり寄った自己の願望の顕現である。父子共谷崎の化身であり、表面上「母子相姦」の形態をとるが、これは、直接、相姦願望があったというより、分化した夢想が統一化した時、結果的にそういう形になったのだと稿者は愚考する。晩年には珍しく、本作の批判に対しては厳然と不満を表明したという逸話(注16)からも、如何にこの願望が作者にとって切実であったかが理解される。
 『瘋癲老人日記』(昭36)では、明らさまに『過酸化マンガン水の夢』の実験が集大成される。主観的で屈折した主人公督助は、谷崎の夢想の誇張された姿である。『瘋癲老人日記』が谷崎の実生活と当時の社会状況を忠実に写しとって進行することは、既に先覚に依って明らかとなっている(注17)が、谷崎はこの骨幹に夢を瘋癲老人の<妄想>というリアリティとして附加していく。『過酸化マンガン水の夢』においては、前半・後半に分離していたものが、一つ器に融合し、創作として昇華されたものと解釈できる。
 以上、足早であったが、各作品と対応させても、本作品が晩期小説群の試作となる役割を担っていることは明らかである。本作品は、確かに伊藤整が評した如く、創作の成立する一歩手前で止められた特殊な作品ではあるが、それは故意に止めたのであり、一ケ月という充分な執筆期間をもって丹念に現実生活と夢の連鎖を跡付けることで、夢想を健康的意識的に利用する新しい創作方法の確認作業をした試作であると結論できる。晩期に突入する直前のこの時期に書かねばならぬ必然的な作品であった。晩期創作群の先蹤をなす作品として、その内的な位置は極めて高いと言わねばならない。

 


(1)「『或る顔の印象』をめぐって」(紅野敏郎、千葉俊二編「資料 谷崎潤一郎」桜楓社刊、昭55・7) 二七二〜二七四貢
(2)「谷崎文学と肯定の欲望」(文芸春秋社刊、昭5l・9)二一六頁
(3)「谷崎潤一郎の文学」(中央公論社刊、昭45・7)一九九〜二〇〇頁
(4)全集二十四巻書簡番号五三四
(5)全集二十四巻書簡番号五三六
(6)例えば、「座談会 谷崎文学の神髄」谷崎潤一郎、伊藤整、武田泰淳、三島由起夫、十返肇(「文芸」臨時増刊「谷崎潤一郎読本」昭31・3)などに詳しい。
(7)注(3)に同じ。
(8)「谷崎潤一郎諭」(中央公論社刊、昭48・8) 三一五頁
(9)「谷崎潤一郎の意識ーあり得べかりし「青年の書」ー」(「解釈」昭57・5)二九〜三二頁。拙稿は、この論考より多大な示唆を得た。『倚松庵の夢』における指摘も氏の論考に基づいている。ここに記して感謝申し上げたい。
(10)「谷崎潤一郎諭」(河出書房刊、昭27・10)
(11)「谷崎潤一郎『鍵』に関する一考察ープロットの変更ー」(「二松学舎大学人文論叢」第二十二輯、昭57・9)参照。
(12)「『鍵』とフランス映画」(早稲田大学 「国文学研究」第三十集、昭39・4)
(13)原因第二点についての詳細は、拙稿「谷崎潤一郎『鍵』論争覚書」(安田学園「研究紀要」第二十三号、昭58・2)を参看されたい。
(14)共に、「共同討議 晩年の谷崎」(「国文学解釈と教材の研究」昭53・8)一二五頁、での発言である。
(15)「谷崎潤一郎ー宿命のエロス」(冬樹社刊、昭55・6)三〇二頁
(16)「谷崎潤一郎 風土と文学」野村尚吾(中央公論社刊、昭48・2)に詳しい。
(17)井川拓「『夢の浮橋』から『瘋癲老人日記』へーねぬなはに胚胎する世界から仏足石に収斂する世界へー」年表(紅野敏郎編著「論考 谷崎潤一郎」桜楓社刊、昭55・5)二六三〜二六七頁

 

〔附記〕
 本稿脱稿後、竹内清己「谷崎潤一郎晩年の文学」(「芸術至上主義文芸」第四号、昭53・11)を参看する機会を得た。氏も『過酸化マンガン水の夢』を、「谷崎<晩年>の作風を顕著にしたもの」と認識、『瘋癲老人日記』と詳細に対応させて、その意義を評価している。本稿では、紙幅の都合で、後の作品との関連については触れるのみに止まったが、氏の検証によって本稿の論旨は補強される。いずれ稿者も本稿における基本的認識の上に立って詳論したい。力量不足による独断等御容赦を乞う次第である。

 

(「二松学舎大学人文論叢」第24号(1983年3月)
(2005.1文章の表現などを一部修正
 )

    [1] 
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