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 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (論文)地理誌としての『日和下駄』ー荷風と小石川ー

地理誌としての『日和下駄』ー荷風と小石川ー
                                                      
 「三田文学」に大正三年八月より四年六月まで連載(大正四年三、四月号休載)された『日和下駄』は、荷風の江戸趣味韜晦が一個性となって開花した作品の一つとして評価され、「江戸の文化遺産への愛惜の情と、<現代日本の西洋式偽文明>がそれに破壊の暴を振う悪政の憤り(中略)が交錯した独得な文明批評」(網野義紘)(注1)が作品の精髄であるという評価が定着している。しかしながら、こうした文明批評は、多くの小説作品の基底ともなっており、一概に本作のみの特色とは言い難い。そこで、本論は、本作を「地理誌の系譜」の一つとしてとらえなおし、その上で、この作品独自の特徴を明らかにしていきたい。

 

一、先行作品との比較

 

 荷風の江戸趣味理解の上で重要なのは、意図的な仮構の姿勢が、合理主義がはびこる時代状況の中、自ら江戸文化の伝統を踏まえる後継者であるという自負によって下支えされている点である。ために、荷風の江戸趣味も、生来的に身についていたものというというばかりでなく、それを補強すべく努力した不断の<学習>の賜物といった面も大いにあるといって過言ではなかろう。
 本作も、幾多の先行文学を踏まえて、そうした作品の驥尾に連なることということを明確に意識して成立している。
 そこで、本論では、まず、『日和下駄』に流れる入る系譜を瞥見していきたい。

 

 本作は、「一名東京散策記」と副題されているごとく、基本的には「江戸名所記」の流れに属している。『江戸名所記』『江戸惣鹿子』『江戸めぐり』『江戸名勝記』等、先行作品に枚挙の暇はないが、やはり、一番有名なのは『江戸名所図会』(斉藤月岑編、長谷川雪旦画)であろう。親子三代三十年に渡り、従来の名所記の考証杜撰を概し、模範を作すことを目的としたこの書は、滝沢馬琴に、成功の因、文ではなく画にあると批評されているほどに図絵のウエイトが大きいには違いないが、大城を首(はじめ)とし、北斗七屋の位に配当、寺社の縁起等を詳述する記事は、「<制度>としての江戸を絶えず神話的な空間に読みかえて行く」(前田愛)(注2)ものであって、「こうした『江戸名所図会』のイデオロギーが神田雉子町の草創名主の家に生まれ、正月三日の江戸城参賀を欠かさなかった斎藤月岑の生活意識に根ざしていた」(同)ものだとするならば、同じ江戸地理誌とはいえ、文明批評を旨とするとする『日和下駄』との逕庭は明らかである。『日和下駄』を始め、荷風の著作にこの作品はしばしは言及されているが、それは参考資料としての域を脱してはいない。類似性は、江戸の地という素材面に限定されているといえる。

 

 次に、「繁昌記」の系譜として本作を認識することも可能である。寺門静軒『江戸繁昌記』により確立されたこの方法は、「〔初篇〕相撲、吉原戯場、千人会、金龍山浅草寺、楊花、両国花火……」と続く如く、江戸市中の風俗狸談を漢文調に書き綴ることで、『江戸名所図会』のような俯瞰的・体系的な見立てではなく、「都市空間を多様な形態素に分節したうえで、そのひとつひとつを風景と群衆がかたちづくる遠近法のもとに構成する手法」(同)だといえる。つまり、描写の中心は、「繁盛」の言葉通り、人間の活動のほうなのである。
 これに対し、『日和下駄』の部立ては、この『江戸繁昌記』より地誌的で、<繁昌>という概念で続括されるような人間的な活動が中心ではないが、各々の場所は、思い出話や、縁故・学識を披露しながら語られており、人間の<情>の世界に力点が置かれている部分も多い。また、前述の「名所図会」のような神話的空間ではなく、町人に親しい事柄を選ぶことで、体制を諷刺、無用人としての立場を矜持するなど、記述面、精神面においては、荷風が静軒から学んだ点は多いと言われている。
 ところが、同じ繁昌記でも、服部撫松『東京新繁昌記』になると意味合いが大きく違ってくる。「〔初篇〕学校、人力車附馬車会社、新聞社、貸座舗附吉原、写真、牛肉店……」と続く形式こそ同一だが、文明開化に供なう新奇な風俗を狙上にのせ、物珍し気に紹介していて、文明批評性に乏しい。塩田良平は、「田舎出の漢学者には新風物がすべて詩材であり清濁、粋不粋に対する潔癖感は薄かった」(注3)ためだと解している。ここでは、<繁昌>の意味が、人対人ではなく、「ものとひととの交換図式が優先」され、「その背後にあるものは単一な意味の繰り返し」(前田)(注4)でしかないという指摘もある。荷風に、この作品を評した小文があるが、鵺(ぬえ)の如き変体漢文が成功の原因だと、突き放したような言辞が見えることからも、彼の低い評価が知れよう。
 この作以降、『東京開化繁昌誌』(荻原乙彦・万青堂)、同標題の『東京開化繁昌誌』(高見沢茂・大和屋)、『東京繁昌新誌』(総生寛・中外堂)など、似通った傾向の作品が陸続と出版されているが、コンセプトは、皆、現世肯定的で、服部撫松と変化はなく、『日和下駄』との親近性は強くない。

 

 これらに関連して、江戸(東京)風土記・案内記の類も考慮に入れるべきであろうか。幕府編の『御府内備考』(正篇名勝沿革由来、後篇社寺由来、文政年間の編集)、『御府内風土記』(『御府内備考』を資料に編集、明治五年焼失)、新政府の『東京府誌料』(明治五年国勢把握のための全国地理図誌の一環)、『東京府誌』(明治八年太政官の命、全百十巻)を経て、明治四十年、東京市役所市史編集掛編『東京案内』(同年の勧業博覧会に関連した企画)あたりに集大成される、いわば、これら官製風土記は、江戸(東京)を治政面で管理する具として編まれ、権威を徴すものであって、もちろん、荷風の精神とは非なるものだが、「形見を伝へて(中略)後の日のかたり草の種ともならばなれかし」(『日和下駄』序)とする記録的営為という面では、若干の関連性を持つかもしれない。特に『東京案内』は、来歴と現在の姿をコンパクトに解説してあり、荷風が情緒的、思い出的に書いて、現在の姿を述べていることを、この本で調べると、概ね一致しているものも多く、朝野の逕庭は大きいが、思いのほか類似性が感じられる。
 他に、同じ東京案内の名称ながら、『東京名所案内』などのタイトルで流布された夥しい小冊子群(注5)がある。これは、いわば、現代の観光ガイドと同質のもので、情報は新しいもののみ有効であり、現実と違ってきた記事は捨て去られる。「記する所の市内の勝景にして既に破壊せられて跡方もなきところ掛からざらん」(序)と現実の相違の中で過去を選んだ荷風の作とは、おのずと役割・方向性が違っている。

 

 また、編中、年中行事に触れる箇所が散見される。これは、荷風が江戸学習において『江戸年中行事』をしばしば播き、幼児期の記憶と照し合わせ、知識を血肉化していたからこそ自然に語られる訳で、明治に入って刊行された『明治年中行事』(明治三十七年、西川忠亮)、『東京風俗志』(明治三十二〜五年、平出鏗二郎 三冊、冨山房)、『東京年中行事』(明治四十四年、若月紫蘭、上下巻 春陽堂)などの年中行事誌の流れに荷風も触発され、彼自身、『東京年中行事』(大正七年)を草している程である。これは荷風の個人的趣味誌「花月」の裏見開きの埋草として執筆されたもので、力を入れての作品ではないが(一〜四月の記事を欠く)、その興味を知るには充分であろう。
 今あげた中で、若月紫蘭のものは、明治四十四年前後の「万朝報」の「△月の暦」欄、「本日の東京」欄の文章を基にしており(注6)、「万朝報」を購読していた荷風が、当時、好評のこのコーナーを興味を持って通覧していた可能性は極めて高い。

 

 これに対し、素材としては違っているものの、執筆の動機の面で影響が多大なのは、すでに多くの先学に指摘があるように、『板橋雑記』などに端を発する遊里誌の系譜である。明の文人余懐が江南の爛熟した文化に接し、清朝成立後往時を偲び執筆した『板橋雑記』の性格は、前田愛のまとめに拠ると、


(1)亡び去った華やかな文化に対する挽歌であり、
(2)余懐自身の青春の耽溺への追慕であり、
(3)新体制への憤怒、


の三点に整理されるという(注7)。山崎蘭斎の俗語訳(明和九年)で流布されると、政治的な意味が理解されず、遊女評判記、遊里探訪記という形に矯少化して亜流を生み、江戸軽文学の一領域として成立するに到る訳だが、その精神を最も忠実に受け継いだものは、成島柳北『柳橋新誌』まで待たねばならなかった。将軍侍講職任命の頃より、柳橋に出没、二十三才(安政六年)に初編を草し、明治四年(三十五才)に二編を上梓したこの書は、その間の時代の推移と感懐の変化によって二編の性格を異にしている。すなわち、「初編は柳橋の讃歌であり二編はその挽歌」(塩田)(注8)であり、前田の整理を援用すれば、初編に(2)の、二編に(1)(2)の性格が反映されていることになるという(注9)。
 この『柳橋新誌』に、荷風は深い影響を受けている。そして、この作品の性格を二つに分節し、風俗地誌的性格を『日和下駄』に反映させ、情炎誌的性格を、標題をも習い『新橋夜話』に反映させたと考えるのは、あまりに図式的に過ぎるであろうか。いずれにしろ、この柳北と荷風の関係は既に多く語られていることでもあり、贅言を要すまい。

 さて、基本的認識ゆえに、引用も憚られるくらいだが、一応、おさらいとして確認して置きたいのは、静軒・柳北の「無用人意識」は、荷風の韜晦の中核をなしており、

 

・わたしは日和下駄をはいて墓さがしをするやうになつては、最早新しい文学の先陣に立つ事はできない。(中略)わたしはつまり用のない人になるわけなので折を見て身を引かうと思つてゐると……」(『正宗谷崎両氏の批評に答ふ』)

・私は別に此と云つてなすべき義務も責任も何もない云はゞ隠居同様の身の上である。その日その日を送るに成りたけ世間へ顔を出さず金を使はず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなつたのである。((第一 日和下駄))

 

という、著名な記述は、結局、「嗟々斯の無用の人にして、斯の無用の事を録す。」(静軒)、「正人君子の能く記する所の者は、固より余の之を記するを俟たず。正人君子の記すること能はざる所の者にして、余が輩の当に記すべき所也。」(柳北)という彼らの立場と同断の、荷風流換言であったという点である。
 彼等は、執筆当時、柳北は将軍侍講職、荷風は教授職と、実際には決して無用人ではなく、むしろインテリ・エリート層だったにも拘らず、こうした意識を前面に押し出している。これは、一つには匿名性を持たせることで、立場上、体制との軋轢を防ぐ方便でもあったが、二つには、そのことで、この態度こそ過去の文化に連なる「正統」なのだという矜持を表明したことにもなるからである。荷風が、(第一 日和下駄)の中で、江戸名所に興味を持つには、是非とも江戸軽文学の素養がなくてはならぬ。一歩進むれば戯作者気質でなければならぬ。と力説しているのもこの認識のためで、『日和下駄』は「単なる現代から逃避しただけの退嬰の書でなく、一歩進んでの江戸趣味への実践の書」(坂上博一)(注10)、つまり、自分自身が意識的に驥尾に付そうと勉強努力した過程の、実践記録をまとめたものになっていると考えることが出来る。当時、荷風は三十歳代後半に入ったばかり。未だ広範な知識を総括的に展開するには浅い年齢である。我々は、荷風の華麗な文体と韜晦の態度によって、老成し完成された江戸趣味を観ているかのように錯覚するが、実はまだまだ若造で、彼の趣味は形成途上にあったことを押さえておく必要があろうかと思う。

 以上のように、『日和下駄』は多く先人の聾に習い、地理誌の系譜に位置づけるという学習的態度の結果の「実践の書」であって、柳北が柳橋を哀惜と共に描き、新体制を罵倒したごとく、彼が生きた大正期の東京の風物を哀惜を込め描きつつ、文明批評的態度をもって現実を嘆じ、自己の趣味を実践したところにこの作品の意義があると言える。
 ここまで、彼が踏まえた先行文献からこの作品に至る系譜を検討してきた。では、はたして荷風という個性の作物としては、奈辺にその独自性があるのだろうか。以下、本文内容の検討によって明らかにしていきたい。

 

二、故郷への言及

 

 『日和下駄』執筆にあたって、直接、荷風が利用した資料は、文中の引用からほぼ察せられる。場所の確認や昔のイメージを「江戸切絵図(嘉永坂)」や清親「東京名所絵」、広重「東都名勝」等浮世絵で、時代を「武江年表」等で確認している。これらはこの種の考証随筆制作の常套である。
 全体の部立ては(第九 崖)に、「数ある江戸名所案内記中其最も古い方に属する紫の一本や江戸惣鹿子大全なぞを見ると、坂、山、窪、堀、池、橋なぞいふ分類の下に江戸の地理古蹟名所の説明をしてゐる。」と述べているように、『紫の一本』(戸田茂嘩、天和二年)と共通なものが多い点、すでに高橋俊夫(注11)に指摘がある。
 執筆動機については(第一 日和下駄)に詳説されている。

 

・今日東京市中の散歩は私の身に取つては生まれてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。

・私の好んで日和下駄を曳摺る東京市中の廃址は唯私一個人にのみ興趣を催させるばかりで容易に其の特徴を説明することの出来ない平凡な景色である。

 

つまり、当初より主観的な視点からの執筆で、客観的体系的な方法を取らぬ旨、冒頭で宣言している訳である。客観的に観れば、

 

・一体江戸名所には昔から其れほど誇るに足るべき風景も建築もある訳ではない。

・其角は江戸名所の中唯ひとつ無庇の名作は快晴の富士ばかりだとなした。これ恐くは江戸の風景に対する最も公平なる批評であらう。

 

と先刻承知の上なのである。荷風は、このため、読者に自分の場所選択の偏向性を承認させるべく、事前に転居体験の概略を報告している。
 彼は小石川金富町に生誕、一時、麹町永田町の官舎に移るなどしたが。再び小石川旧宅に転居する幼年時代を送っている。つまり、下谷竹町の鷲津家にしばらく預けられたことを除くと、荷風は典型的山の手育ちと言え、作品の場所の選択にも色濃く反映している。坂上博一は、このため、「『日和下駄』の中でも、下町の情緒を描いた部分よりも、自ら育った山の手の「閑地」「崖」「坂」などに関する箇所に実感が濃い」と評している。(注12)
 山の手の中でも、特に実感が濃く何度も触れているのは、言うまでもなく、生誕地小石川の風景である。つまり、この漫歩記は、地理誌の体裁を取りながらも、実は、生誕地への追懐が本来の目的なのではないかと訝られるほど小石川に偏重しており、それが、本作の大きな特色をなしていると言えるのである。 

 以下、この点を確認するために、各部立ての意義に関して適宜、若干の小解をなしながら、小石川付近の記述の主な箇所を列記して行きたい。(写真2葉は、現在の荷風生家跡)

 

 

(第一 日和下駄)
 しばしば言及したように、執筆企図を語った序文的性格で、場所の選択の恣意性を正当化させる目的がある。
「砲兵工敵の煉瓦塀にその片側を限られた小石川の富坂をばもう降尽さうといふ左側に一筋の溝川がある。その流れに沿うて蒟蒻閻魔の方へと曲つて行く横町」等。

 

(第二 淫祠)
 「「淫祠」を独立した一章として持つ名所記がどこにあるか」(高橋俊夫)(注13)という指摘の如く、異例の部立てが冒頭に置かれている点に留意すべきであろう。それは、淫祠が「昔から今に至るまで政府の庇護を受けたことはない」存在であるということで、彼の性情と合致したからでもあるが、それ以上に、彼の具休的な江戸のイメージが『狐』に描かれたような稲荷伝説的な世界として把握されていたからに他ならない(注14)。
「小石川富坂の源覚寺にあるお閻魔様には蒟蒻をあげ」(注15)

 

(第三 樹)
「小石川久堅町なる光円寺の大銀杏」
「小石川植物園内の大銀杏」
「小石川水道端なる往来の真中に立ってゐる第六天の祠の側」等。

 

(第四 地図)
 散策に必要ゆえ奇異ではないが、地形的な事象が多い部立ての中では異色である。名所記にも類をみない。それを強いて部立ての一つとして採っているところに、彼の江戸趣味への勉強努力ぶりを見るべきであろう。「江戸絵図によつて見知らぬ裏町を歩み行けば身は自ら其の時代にあるが如き心持となる」という言葉が、江戸から遅れてきた人・荷風の仮構的態度を示している。この絵図礼讃の影に、陸軍地測量部(陸軍管轄)の如き細密な西洋流の地図、ひいては軍部に対する批判が含まれていることは論を俟たない。また、師鴎外作成の方眼図に対する荷風なりの独自性の表明とも看倣せよう。
「小石川の高台を望む景色をば東京中で最も美しい景色の中に数えてゐる」
「行手に望む牛込小石川の高台にかけて」
「私は小石川なる父の家の門札に」
「小石川なる水戸の館第も今日吾々の見る如く陸軍の所轄となり」
「小石川の後楽園と並んで江戸名苑の一に」等。

 

(第五 寺)
(第六 水附渡船)
「第三は小石川の江戸川」
「小石川金剛寺坂下の下水を人参川と呼ぶ」
「小石川柳町の小流の如き」

 

(第七 路地)
 (第二 淫祠)と同じく「路地は公然市政によつて経営されたものではない」という態度による部立ての選択である。

 

(第八 閑地)
「小石川富坂の片側は砲兵工廠の火避地で、樹木の茂つた間の凹地には溝が小川のやうに美しく流れてゐた」

 

(第九 崖)
「小石川春日町から柳町指ケ谷町へかけての低地から本郷の高台を見る」 
「茗荷谷の小径から仰ぎ見る左右の崖で、一方にはその名さへ気味の悪い切支丹坂が斜に開けそれと向ひ合つては名前を忘れてしまつたが山道のやうな細い坂が小日向台町へと攀(よじ)登つてゐる」
「一体この水道端の通は片側に寺が幾軒となくつゞいて」等多数あり。(写真は現在の切支丹坂)

 

(第十 坂)
 この箇所については後述する。

 

(第十一 夕陽附富士眺望) 
 淫詞という微細なものから筆を起し、江戸唯一の名勝富士眺望を末尾に置く所に配列の妙を見る。
「小石川の雪中」等。

 

 大まかなリストアップではあるが、各章に故郷小石川の景物を織り込んでいることが理解されよう。
 ここで注目されるのは、(第九 崖)と(第十 坂)である。彼自身、(第十 坂)冒頭で「前回記する処の崖といさゝか重複する嫌ひがある」と了解を求めているように、(第九 崖)も、事実上、坂のことを述べており、区別は明確ではない。但、(崖)という部立ては「紫の一本その他の書にも、窪、谷なぞいふ分類はあるが崖といふ一章は設けられていない」。これに対して、(坂)は部立てとして採用されているものが多い(注17)。例えば、『紫の一本』には三十一の坂が掲げられている(注18)。『日和下駄』でも、このうち「古来その眺望よりして最も名高き」坂として、「江戸見坂」「塩見坂」等に言及している。(第十)として改めて採り上げる際、先行文献を踏まえなおしたというところだろうか。このために(第九 崖)が、団子坂を記して鴎外観潮楼での初対面の思い出に及び、蜀山人の狂歌に及ぶ等、かなり自由な構成で書き綴る随筆的色彩が濃いのに対して、(第十 坂)は、先人の文献に引きづられてか、分類的記述となっている。
 ところで、何故、荷風は(崖)(坂)と重複してまで語らねばならなかったのであろうか。
 その解答も、また、「私の生まれた小石川には崖が沢山あつた」(第九 崖)の一文によって容易に理解できる。矢田挿雲がその著『江戸から東京へ』(注19)の中で、「坂の多い東京市中でも、小石川はとりわけ多い。そして、我々の概念からいって、いわゆる坂らしい坂が一番この区に多い」と、はからずも述べているように、(崖)(坂)を語ることは、即ち、故郷を語ることに他ならなかった。矢田が、坂は交通の発達、都市化にとって有害であり、東京の悪路の一つとして歓迎されないが、心の奥には愛着を感じているものだとしているように、非能率として平面化を進める政府の「市区改正」に対して、荷風も矢田と同じ所見であった訳で、重複の意義は、こうした文明批評の面からも汲み取らねばならないだろう。
 先に引用を省略した(第十 坂)には、次のような故郷付近の記述がある。

 

「小石川牛天神の森を……」(注20)
「小石川伝通院前の安藤坂(注21)で、それと平行する金剛寺坂(注22)服部坂(注23)大日坂は皆斉しく小石川より牛込赤坂番町辺を見渡すによい」
「荒木坂」(注24)
「小石川改代町へ下る急な坂」
「小石川茗荷谷にも両方の高地が坂になつてゐる」
「小石川改代町には一方に本郷より下る坂あり、一方には小石川より下る坂があつて」等々。(写真は現在の金剛寺坂)

 

 すなわち、この章に、故郷追慕は顕著である。
 稿者は、この稿取材のため、荷風生誕地周辺に何度か出向いたが、荷風が触れている小石川の地域や坂が、今の感覚でいうと、「町内」といってよいくらいに極小さい区域の話であることに気がついた。あえて散策と銘打たなくてもいいような近さのものばかりである。しかし、作品では、それなり広い地区のことであるかのような印象を与えるのは、副題に「東京」とつけて、全域性を強調し、地名を細かく書き散らすことで、選択の狭小性を隠蔽する詐術に、その土地を詳しく知らない我々読者が見事に騙されてしまうからだろうとの感想を思った。(写真は現在の服部坂。右は荷風の母校黒田小学校校庭)

 

 

三 荷風にとっての小石川

 

 では、荷風にとって小石川とは何だったのか。「吾々はいかにするともおのれの生れ落ちた浮世の片隅を忘れる事は出来まい。」(『伝通院』)と述べるように、万人共通の思郷の念とのみ理解してよいか。
 小石川周辺の地は、江戸の昔、幕臣の武家屋敷とそれに付随して生活をする町人が小群落をなしていた。維新期、幕臣の匹散で人口が減少、一時、寂れたが、空いた武家屋敷に新政府の役人が入居する形で徐々に回復していった。荷風の父もまたその一人であった。荷風の記憶も、常に幼児であったこの明治十年代に遡行している。
 ところが、明治二十年代、東京砲兵工廠などの軍事工場が建設され、そこに働く労働者が急増、町の様子は一変した(注25)。「東京府各区郡部における宅地面積とその推移」の表(注26)を見ると、明治十六年の宅地面積を一〇〇とした場合、明治四十一年には一九三とほぼ二倍、区郡部別で最高の伸び率を示している。荷風は帰朝後、東京の急変に驚く訳だが、その眼は、郷里小石川に注がれていたからこそというべきだろう。異郷で夢想した至福の故郷は、現実によって打ちくだかれ、この落差に対する私怨が、彼の文明批評の直接の原動力となったことは想像に難くない。
 帰朝後、東京を舞台とした最初の小説『狐』(明治四十二年)は、前田愛が既に指摘しているように、父や田崎に代表される「文明開化の実利的・合理的な世界」が、母に代表される空間としての「「母なるもの」の原像を殺戟する祝祭劇」(注27)である。荷風は、日本の偽近代を痛感、仏蘭西に代る理想として東京に残存する江戸を希求し始めた。この意識形成がより明確となる過程と文明批評性が激烈になる過程は歩を一にしている。そして、その文明批評を発揮させるにあたって、自己のルーツたる江戸に対する認識を明確にする必要があった。それが帰朝直後の段階では未だ深化しておらず、まず自己の幼児体験を語るという極めて素朴な形でスタートさせたのがこの『狐』であると見做せないだろうか。

 『狐』の世界が、現実の明治十年代に比べて、場としての江戸空間を強調するため、西洋的雰囲気を拭消しているとはいえ、小石川は、やはり、江戸空間の象徴として独立する形で荷風は認識していたようだ。そこには、

 

 私の生まれた小石川を飽くまで小石川らしく思はせ他の町から此の一区域を差別させるものはあの伝通院である。(『伝通院』)

 

というように、伝通院の存在の意味が大きい。「伝通院の古刺は地勢から見ても小石川と云ふ高台の絶頂であり又中心点であらう。(『同』)と説明しているように、小石川は伝通院を中心に広がっている町である。現在も、伝通院周辺には、多くの末寺が存在し、江戸の名残りをとどめている。荷風生地金富町も、門前の安藤坂を下り右小路を入った一角にある。『狐』においても、伝通院の縁日や、院前の生薬屋へ薬を買いに行く等、伝通院は物語に大きく影を落している。(写真は伝通院門前)
 伝通院、正しくは無量山伝通院寿経寺。応永二十二年(一四一五)了誉上人の開山。慶長七年(一六〇二)家康の生母於大の菩提寺として再興され、最盛期は増上寺に次ぐ地位を誇った。荷風の幼児期に見た伝通院は、維新の廃仏棄釈の打撃と御朱印の廃止、明治四年には寺地の上地命令が出、学寮制度も廃止され、往年の面影はなく、さびれた閑寺と化していたはずである(注28)。しかし、小石川の中心点という地勢には変りなく、荷風が携帯していた「江戸切絵図」小石川版を瞥見しても、その中央部は伝通院が占め、地図全体が、社寺の色分けである朱に染まってる。それは、あたかも寺の威光が町全体を支配しているかのようである。荷風にとっての母性としての江戸空間のイメージは、この家康母堂菩提寺に収斂されていると言って過言ではなく、象徴としてこの町を加護しているごとくである。そして、

 

 この地勢と同じやうに、私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古剃を中心として、常に其の周囲を離れぬのである。(『同』)

 

と彼自身それを認めている。
 この認識の披瀝は、その「母なるもの」の原像への愛着の表明に他ならない。小石川は、単なる生地という枠を超えて、常に帰るべき江戸空間の象徴として彼の原風景なのであり、彼が文明批評を発揮する時の基準絵となって作用しているというべきであろう。
 荷風は、帰朝ほどない明治四十一年十一月、伝通院を散策、追憶に浸ったその夜、院は火事により灰燼に帰してしまった(注29)。

 

 諸君は私が伝通院の焼失を聞いていかなる絶望に沈められたかを想像せらるるであらう(『同』)。

 

それは、彼にとって、単になれ親しんだ近隣の社寺が燃えたというばかりでなく、原風景の現実からの消失ということでもあった。
 ところが、その後、寺の再建が、「キリスト教のごとく半分西洋風に新築されると云ふ話」を聞き及ぶ(注30)。これは、彼にとって、江戸空間の象徴がすっぼり忌むべき「偽近代」に取って変わることを意味している。「ああ何たる進歩であらう。」彼の皮肉には悲嘆の色が濃い。
 この伝通院焼失、西洋風本殿の建立の噂によって、生家のことを強烈に思い出し、江戸文化が西洋文明に蹂躙される同じ構図の狐狩りの思い出が想起され、偽近代が母性を殺戮する象徴的結構に託して小説化したのが前述の『狐』だと言えはしまいか。焼失と執筆時期との近さを勘案すると、この伝通院焼失という事実が執筆の動機を与えた点、極めて蓋然性が高い。ここに指摘して置きたい。
 伝通院焼火以後も、荷風は、しばしば小石川を散策している。父の死去以降、父に対する憎悪から敬慕の念への変化は、小石川への追憶をより美化する作用をしたと思われる。浮世絵論執筆のための現地調査や、大正八年の転居に際しては、旧宅付近を候補に上げ、実地検分している。残念ながら価格面で折り合いがつかず断念しているが、「金富町は余が生まれし処なれば、若し都合よくば買ひ受け、一廬を結び、終焉の地になしたき心あり」と『断腸亭日乗』(九月二十九日、十月六日の項他)に書き綴っているくらいである。また、関東大震災によって東京が瓦礫となった後も、わずかな名残りを求め礫川(小石川の漢語表現)を徘徊し、荒れた墓の現状を確認、あわせて昔語りをなす『礫川彳尚彳羊(しょうよう)記』(大正十三年)を上梓している。この作品は『日和下駄』に較べ、題名通り地域が限定され、より個人的追懐の情が強い。現実が焼失した以上、その筆は老人の繰り言めいた印象を受ける。このように荷風にとっての小石川は、生地というだけに止まらず、創作を換起させるに欠くことのできない特別な意味を持つ存在であった。
 こうした志向の荷風にとって、『日和下駄』が、系統的なものでなく、「過去の生涯に対する追憶の道を辿る」文字通りぶらぶら歩きの主観的叙述を旨としたものであった以上、作品に小石川の風物が色濃く反映されていったのは当然で、無意識の結果だからこそ、また、その意味も重いと言わねばならない。荷風における小石川の意義については、紙幅の都合で概略を述べるに止まったが、いずれ詳論したいと思っている。 

 以上の点、繰り返すと、『日和下駄』は、江戸以来の名所記等の系譜に連なり、精神は成島柳北等の影響が大きい。しかし、「一名東京散策記」という副題が示すように、基本的には気まままな散策記であり、個人的な「追懐の道を辿る」ことが主眼で、当初より体系的な著作を企図したものではなかった。このため、山の手、特に荷風にとって特別の意味を持つ生誕地小石川近辺に関する記述については、実感的、情緒的で、幼児期の思い出話や、鴎外団子坂での挿話等、自由闊達に筆が伸び伸びとして、精彩に富み、本作の最も魅力的な部分であるといえる。 
 また、この作品の持つもう一つの魅力は、本稿では余り分析の手を加えなかったが、荷風の学識を表わしている考証随筆的な部分である。例えば、(第八 閑地)の其角の俳句についての論及や、(第九 崖)の狂歌について触れている箇所などがそれに当たる。
 この両面性の混在は、前述したように、荷風の江戸趣味の実態が、文明批評の原動力となっていく幼児の追懐から発する原風景への回帰的指向を持つ情緒的なものと、意識した後の韜晦の所産たる江戸に対する知的理解が混然として分ち難く結びついて結晶しているということをそのまま暗示しており、これが、こうした志向を持たない江戸時代以来の同系列の作品との大きな差異である。『日和下駄』は、自己の資質に忠実に書き綴った故に成功したのであり、体系化を企図していたならば、本作の滋味は失なわれていたであろう。本作は、この混在こそが、ぶらぶら歩きの「散策記」らしい雰囲気を横溢させていて、成功しているといえる。荷風が虚構的作品群を書くに際しての地理的方面のモチーフが裸出している点、荷風の趣味の両要素がはからずも開示されている点、他作品との関連もあわせて、興味のつきない作品である。(完)

 


(1)「永井荷風 人と作品」(清水書院刊)
(2)「開化のパノラマ」(『都市空間のなかの文学』 筑摩書房)
(3)「解題」(「筑摩明治文学全集C 成島柳北・服部撫松・栗本鋤雲集」)
(4)(1)に同じ。
(5)例えば、次の如きものがある。

 東京地理小誌 土方幸勝 雄風舎  四冊 明治十年〜十二 年             
 東京市街案内 飯島有年         明治十一年 
 東京土産 岡山伴治   博真堂         明治十三年                   
 東京独案内 佐藤頴吉  平野伝吉          明治十四年                 
 東京案内          児玉永成  大倉孫兵衛        明治十四年                
 東京案内         小林鉄次郎                 明治十五年                
 東京案内         錦栄堂                    明治十七年                
 東京遊覧記 原田真一・小林仙鶴堂        明治二十一年              
 東京著名録 宮川文次郎                明治二十二年              
 東京漫遊独案内 梅亭金鵞・漫遊会          明治二十三年              
 東京土産 原田真一 文魁堂          明治二十三年               
 東都指南車 佐伯 彪                 明治二十三年              
 東京名所独案内 上田維暁・青木嵩山堂       明治二十三年              
 東京市中案内大全 井上円城哲学書院           明治二十三年  等多数。
(朝倉治彦「『東京案内』について」(復刻版「東京案内」解説)参照)

(6)「解説」(朝倉治彦校注「東京年中行事@」東洋文庫 平凡社)による。
(7)「『板橋雑記』と『柳橋新誌』」(「国語と国文学」第四十一巻第三号)、『成島柳北』(朝日評伝11 朝日新聞社)参照。
 他に、岩城秀夫「解説」(『板橋雑記』『蘇州画舫録』」東洋文庫29、平凡社)参照。
(8)(3) に同じ。
(9)(7) に同じ。
(10)「永井荷風における東京 荷風文学の原点」(「国文学解釈と鑑賞」昭和五十五年六月号)
(11)『日和下駄』小解」(「荷風文学閑話」笠間選書)
(12)(10)に同じ。
(13)(11)に同じ。
(14)『狐』の場合、伝通院横の慈眼院沢蔵主稲荷のことである。寺発行の縁起によれば、伝通院に沢蔵主なる人物が現われ、三年で仏門の奥儀を極め、暁雲に隠れたという旨が記されているが、『狐』で下女が話したというこわい狐つきの話は、残念ながら取材できなかった。(写真は沢蔵主(司)稲荷)

(15)蒟蒻閻魔として民間信仰されていた有名な寺。荷風作品にもしばしば言及されている。若月紫蘭『東京年中行事』「迷信の東京」の項に、「小石川初音町にあり、蒟蒻を断って願がけすると眼病者もかなわぬほどに眼病が癒ると云い正月と七月との十六日には、閣魔様の縁日だけあって蒟蒻を上げる事おびただしいものである。」と記載されている。
(16)切絵図には「火除地」とある。江戸の華、火事対策の空地のこと。『伝通院』に「富坂の火避地には借家が建てられ当時の名残の樹木二、三木を残すに過ぎない。」とあり、既に空地はなくなっていたことがわかる。
(17)代表的なものとして次のようなものがある。

 書名            発行年         坂名数    編 著 者       
  紫の一本 天和二年(一六八二)      三一  戸田茂睡           
  江戸惣鹿子       元禄三年(一六九〇) 三九 藤田理兵衛        
  江府名勝志 享保十八年(一七三三) 七四 藤原之廉          
  続江戸砂子 享保二十年(一七三五) 四八 菊岡 涼          
  万世江戸町鑑 宝暦三年(一七五三) 三一 野路昌蔵、坂本清右ヱ門  
  御府内備考 文政十二年(一八二九) 一九一 三島政行ほか     
  江戸名所図会 天保七年(一八三六) 五九 斎藤幸雄・幸孝・幸成
  東京地理沿革誌 明治二十三年(一八九〇) 二〇五 村田峰次郎        
  東京案内 明治四十年(一九〇七) 一九三 東京市役所       
  江戸の坂東京の坂 昭和四十四年(一九六九) 四三三 構関英一    
 (俵元昭「解説」(横関英一「続江戸の坂東京の坂」中公文庫)参照。)

(18)長坂(永坂)、狸穴の坂、聖坂、榎坂(増上寺裏門)、榎坂(赤坂溜池)、行人坂(目黒)、女夫坂(四谷伝馬町)、不動坂(目白坂)、金剛寺坂、とび坂(本郷、小石川の両方の坂)、菊坂、なしの木坂(本郷)、無縁坂、車坂、屏風坂、小坂、逢坂(牛込大坂)、浄瑠璃坂、左内坂、梅林坂(城内)、法眼坂、南部坂(赤坂)、紀伊国坂(旧名赤坂)、紀の国坂(竹橋)、道玄坂(渋谷)、もちの木坂、江戸見坂、塩見坂(城内)、神楽坂、清水坂(谷中)。
(19)第八巻 小石川「小石川坂づくし」(中公文庫)
(20)荷風が作品でしばしば言及する生地付近の小神社。『江戸名所図会』によれば、源頼、朝夢に菅神牛に乗りて現われた古事より名付く。
(21)古くは網干坂、伝通院前の坂。坂横に安藤飛騨守屋敷あり。生地に最も近い大きな目抜き通りの坂であり、中島歌子の歌塾「萩の舎」があったことでも有名である。『伝通院』に「平かに地ならしされた」とあるが、これは段々坂の段がなくなった意か。
(22)『狐』で描かれる富坂新町を下る坂。水道町との境の坂。金剛寺は地下鉄により消失、坂の一部が架橋となっている。
(23)切絵図に服部権太夫の屋敷がある。現、小日向神社に登る坂。
(24)新坂と服部坂の中間の坂、坂上に荒木志摩守屋敷あり。いずれも生家近隣の坂。
(25)『東京年中行事』「砲兵工廠と後楽園」の項に、工廠の下級労働者が町内にある立喰い屋にひしめく様子が描かれており、小石川の労働者町化がうかがわれる。
(26)石塚裕道「明治期の都市と近郊農村−日露戦争期までの東京についてー」(「歴史公論」昭和五十八年五月号)付載図表。
(27)「廃園の精霊」(「都市空間のなかの文学」筑摩書房)。なお、本稿はしばしば引用しているように、氏の論考に負っているところが多い。ここに記して感謝申し上げる。
(28)伝通院発行「伝通院略誌附墓碑録(小伝)」参照。
(29)(28)の書によると、十二月三日とある。荷風の錯誤か。
(30)(28)の書に本堂再建にあたり、勧募のために配った再建趣旨書の図画が載る。この図を見るに、半西洋式とも思われないが、「略誌」文中に、「当時としては全く斬新な葬祭場兼備の大殿」とあるので、些か新風を取り入れた設計が噂になったのであろうか。

 

(附記)
 本稿は石川県高等学校教育研究会国語部会昭和六十年度講演研究発表会(十月十七日於石川県婦人会館)にて口頭発表したレジメを基に起稿したものである。この作品についての論考は少なく、本稿はその基礎的整理となれば幸いである。腹案の段階で東洋大学教授小林一郎教授の助言を受けた。ここに感謝申し上げる。大方のご叱正を乞う次第である。(昭和六十一年二月十一日擱筆)

 

(書誌及び追記)
 昭和六十年度「国語研究23」(昭和六十一年三月三十日 石川県高等学校教育研究会国語部会)所収。
 既に二十年以上経過した旧稿である。原稿をスキャニングの上、誤変換を糺したが、見落としがあるかもしれない。なお、電子化に際し、多少、文章に修正を加えた。
 この稿執筆当時、既に江戸東京ブームの予兆があり、散歩人荷風というイメージが徐々にクローズアップされつつある時期であった。その後、大ブームの様相を呈し、この『日和下駄』も、東京徘徊のバイブル的な存在として認知されるようになった。このため、後日、論文やエッセイも多く発表され、ここに書かれた一部は、格段、目新しいものではなくなってしまったが、それ以外に今でも多少意義のある部分もあり、ここにアップした。(平成十八年九月十日) 

 

 

 

 

 

(生家を右に見る。右に生家跡を説明する看板が見える)

    [1] 
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