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潤一郎・荷風

 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (論文)永井荷風「狐」検証(上)ー故郷小石川の変容ー

(論文)永井荷風『狐』検証(上)
       ー故郷小石川の変容ー

 

一  はじめに

 

 永井荷風が留学に出発した明治三十六年は、変更に変更を重ねていた東京の都市計画が、ようやく「市区改正新設計」として公示され、工事に着手した年でもあった。五年後、帰朝した荷風の目に映ったのは、江戸の中心であった日本橋の町並み整理の工事を一つの頂点とする江戸の景観破壊の姿であった。直接、留学に材を取った作品を執筆する事で、自らの青春に区切りをつけた荷風は、『狐』に幼児期の故郷を描いて、江戸空間の再生作業を開始している。荷風の江戸趣味への韜晦は、無論、明治四十三年の大逆事件との関係も重要だが、その直接的契機は、矢張り、この江戸崩壊の痛恨の感懐からというべきであろう。
 荷風にとって、墨田川の存在は、数々の伝説がまつわる江戸空間の象徴であった。例えば、大川から吉原に折れる水路口にある今戸を舞台とする『すみだ川』を書くことで、江戸の文人の伝統に連なる事を表明し、江戸情緒濃い作品を書いていく訳だが、その思い入れ深い今戸の、長吉とお糸の逢引きの場所が、木造の橋から鉄橋になってしまっては、最早、自らの趣味が現実の近代主義に追い越され、傷めつけられている事を、まざまざと実感せざるを得なかった。そこで、これまで虚構の中で追懐していた江戸を、今度ははっきりと<市区改正>に対峙するものとして企図したものが『日和下駄』であるという図式になる。この『日和下駄』には、荷風が小説の舞台として利用する江戸の名残りの土地が多く紹介されており、彼の江戸理解の開示といった意味、或いは「後の日の語り草の種」とする、諦念をも入り混じった記録的営為という意味も感じ取れる。「市区改正の破壊を免れた旧道」を散策することで、明確に地理に材を採り、市区改正の如き皮相な近代主義への辛辣なアイロニーを発揮させているのである。かくの如くまで拘ったのは、彼の文明批評の源泉が、思想的、政治的なもの以上に、故郷小石川に残る<江戸>を奪われた、私怨にも似た感情の領域に比重があったからであろう。
 『狐』という小品は、前田愛の秀抜な論(註1)が出て以来、その存在が特にクローズアップされてきたと言ってよい。このため、この作品についての論は、この論文を避けて通れないのものとなった。そこで、本稿では、前田愛論文を踏まえ、執筆の背景として、小石川の実景とを照らし合わせながら作品世界を検証、若干の私見を述べたいと考える。
 猶、本稿は、拙稿「地理誌としての『日和下駄』ー荷風と小石川ー」(「国語研究」23 石川県高等学校教育研究会国語部会  昭和六十年度)において指摘した点を基底にして行論したものであり、論旨に若干重複がある点、了解願いたい。

 

二 故郷小石川の変容

 

  『日和下駄』の章立ては、「第一 日和下駄」として、自らの選択の偏向を正当化させる序文的性格の文章を置いて、その次に「第二 淫祠」を置いている。前稿で指摘したように、本来、東京のみに特色あるものでもなく、景物としても余りに微細に過ぎないものを、作品の冒頭といる場所に置くことに、荷風の大所高所的な市区改正に対する態度を感ずれば充分であろうが、それ以上に荷風の幼児の記憶を占めていたものが、実際、稲荷信仰に代表されるような、こうした伝説的な世界だったからであるとも言えるだろう。事実、荷風が生まれた明治初期、東京は現在の我々が想像する以上に、開けた土地ではなかった。

 

・その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山の手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋もれた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとにでて来た。
                 (田山花袋『東京の三十年
』)

・その時分、深川の小名木川の扇橋の袂荷は、始終狸が出ていたづらをすると云うことを、私はしばしば祖母や母から聞かされていた。私は、狸が時々大入道に化けて現れると云う小話を、一番恐れた。私は又、狸の腹鼓と云うものを、「ほら、あれがそうですよ」と云われて、遠くの方でぽんぽんと鳴っているのを、現に二三度聞いたことがあった。それで狐や狸の類が人間をたぶらかすことは、実際にあることなのだと、半ば疑いながら信じ且おびえていた。                               (谷崎潤一郎『幼少時代』)

 

  こうした文章を例に採るまでもなく、狐狸が出没し、庶民は稲荷伝説を素朴に信ずる、そんな世界こそ日常であり、荷風にとっても原初的な故郷の認識だったのである。
 荷風の生地小石川金富町は、富坂新町、小日向金剛寺門前、金杉町の三町が、明治二年、合併して出来た町だが、その一つ金杉町を、東京市編纂『東京案内』(註2)では「里俗之を稲荷前と云」うとある。荷風が散策の際、携帯した「小石川切絵図」(註3)で調べると、「金杉稲荷別当玄性院」という社が確認できる。当時の一町の規模は現在の感覚から見ると極めて小さく、この稲荷は荷風の敷地の斜め隣程度の近距離にある。作品に名が出てきている訳ではないが、敷地内の古庭の方向から見て(註4)、この狐の出自がこの稲荷を念頭に置いて書かれた可能性は高いように思われる。また、伝通院敷地横には『江戸名所図絵』にも大きく描かれている「沢蔵稲荷」が近隣の庶民の信仰を集めていた。作品にも、飯焚きのお悦が「お狐さまを殺すのはお家の為に不吉である」と書生の狐退治に反対し、「私に向かつて狐つきや狐のたたり、又狐の化かす事、伝通院裏の沢蔵稲荷の霊験なぞ、こまごまと話して聞かせた」とある。まさに彼女の感覚こそ庶民の一典型であったといえよう。
 当時、民間信仰の中心が、こうした稲荷信仰であり、我が国十一万と言われる神社全体の三分の一が稲荷社で、邸内祠を数えると、殆ど把握不可能の数であったという。描かれた狐が、果して金杉稲荷、沢蔵稲荷、或いは限定のないものなのか、彼のイメージを特定することはできないが、彼の近親性は充分確認出来よう。
 荷風の故郷、小石川区の地勢は、引き続き、『東京案内』の文を引用すれば、「市の西北部に在り。東西弐拾五町、面積零方里四分にして、東南に狭く、西北に広し。(中略)丘陵多く、低高一ならず。就中西北より東南に走る三条の岡脈あり。」と記され、「海抜曲尺九十尺を区内の最高処とし、同じく十六尺を其最低処とす」る傾斜の土地を多く持ち、坂の多い土地であった。ちょうど、伝通院門前の安藤坂が小石川の丘陵の末端に位置しており、「小石川薬園及び士宅と寺院とは、確かに其特色なりしが如し」というように、その丘陵地帯には、江戸時代、伝通院を中心とする寺地、旗本等の武家屋敷と、それに付随して生活する町人達が小地に密集して形成されていた。荷風自身は、「他の町から此の一区域を差別させるものはあの伝通院である」として、伝通院周辺の地勢を次のように象徴的に説明している。

 

伝通院の古刹は地勢から見ても小石川と云ふ高台の絶頂であり又中心点であらう。小石川の高台は其の源を関口の瀧に発する江戸川に南側の麓を洗はせ、水道端から登る幾筋の急な坂によつて次第次第に伝通院の方へと高くなつて居る。東の方は本郷と相対して富坂をひかへ、北は氷川の森を望んで極楽水へと下つて行き、西は丘陵の延長が鐘の音で名高い目白台から、忠臣蔵で知らぬものがない高田の馬場へと続いてゐる。

 

  この伝通院の存在は、まさに小石川の象徴であり、「この地勢と同じやうに、私の幼い時の幸福なる記憶も此の伝通院の古刹を中心として、常にその周囲を離れぬ」と、自らの江戸の名残りの記憶が、この家康母堂菩提寺に収斂していると述べている。
 しかし、幕末維新期、その幕藩体制の秩序の崩壊にしたがって、士地を中心としていた小石川は荒れ果て、後見者を失った伝通院も寂れていく事になる。<無産之窮民>は、小石川を中心に、神田、深川なども含め、市中に七万人も集住する事となった。明治維新後、銀座等一部地域に、政府は急造な洋化都市行政を押し進めたが、小石川、赤坂、牛込等の山の手周辺は、武家階級の匹散などで、旧態然としており、明治十年代、宅地化の割合が他区に較べて低率になっている。空き屋敷には、新政府の役人が多く移り住んだと言われており、荷風の家もまた「旧幕の御家人や旗本の空き屋敷が其処此処に売物となっていた」ものを、「三軒ほどを一まとめに買占め古びた庭園やをそのままに広い邸宅を新築した」のであった。伝通院も引続き廃仏棄釈の影響で、大きな打撃を受けて衰微が続いている。彼が生まれ、『狐』で描かれる明治十年代はこうした状況であった。

 

三 砲兵工廠の存在

 

 明治四年六月、陸軍所要にかかる兵器製造修理、及び、海軍所要の火薬の製造を任務とする砲兵工廠が、近隣の旧水戸藩邸の地に移転した。荷風の幼児期こそ江戸屋敷の面影を残していたが、日清戦争など富国強兵、軍需の伸びを背景に大幅に敷地内を改築、事業拡大をはかったため、労働者が急増、閑静な屋敷地は、労働者が大挙働く雑踏の街に変貌しつつあった。以下の落合直文の文章は、その光景を実に巧みに描写している。

 

ここにまた砲兵工廠の方より、幾百人ともしらず、人々のうちむれて来るあり。はじめは葬式にもあらむと思ひしに、よく見れば同廠の職工なりけり。洋服をつけて下駄を穿てるものあれば、紋付の羽織をきて、股引をつけたるもあり。尻をからげたるもの、腕をまくりたるもの、シャツに袴をつけたるもの、右の足に長靴をはき、左の足に半靴をはきたるもの、草履と駒下駄と、かたかたづつにはきたるもの、髪の長きもの、短きもの、坊主なるもの、髷なるもの、千態万状、かきつくすこと能はず。顔はさらなり、背のあたり汗しみ出でて、その香いみじうくさきに、立ちのぼる塵にまみれて進みくるさま、えもいはず。あはれあはれ、こも我が同胞兄弟なるよと、ひとりもの思ふをりしも、また塵をあげて走りくる馬車あり。こを見よかしと、目をそそぎしに、乗れる人、酒にゑひたらむ、うちねぶりながら、こもまたしらで行き過ぎたり。

                         「塵のちまた」 (明二六)(註5)

 

  一体、当時の東京は「塵の都」と呼ばれる程、道路事情が悪く、塵をまきあげていたのだが、特に砲兵工廠周辺は、直文が描いたように「もうもうたる塵の名所」といわれる地区となっていたのであった。こうした近代主義の触手は既に留学前から生地を侵食していた訳だが、日露戦争をはさんだ留学後の光景はもっと殺伐としたものとなっている。明治四十四年刊の『東京年中行事』では、次のように描く。

 

工廠の最も趣味に富んだ時は、午後の六時から七時の間で、早朝よりここで働きつめておる数千の男女工に対して最も幸ある時である。希望の時である。彼らが自己の生活というものを自覚するの時である。自ら生物であるか人間であるかさえを打ち忘れて、ただ機械的に手を動かし足を動かしいたる彼等は、ピユーと物の一分間も凄じく響き渡る汽笛の音につれて、忽然として我に帰り、家を思い、子を思い、父母を思い、妻を思い、夫を思い、ここに再び我が世の人になるのである。彼等にありては、この笛の音は実に希望の音楽たると同時に、又浮世の警鐘である。彼等はこの汽笛の響を聞いて全身に慰安の念を感ずると同時に、その血の一時に湧立つを覚ゆるのである。見よ、瞬時にして東と西の黒門がドヤドヤと吐き出す彼等の疲れ果てて艶なき顔にも、その眼の如何ばかり希望と慰安の光に輝くかを。門から吐き出された男女は、古下駄や破れ足駄をカラリコロリと音重たげに引き摺りつつ、男は皆一様にドイツ帽をかぶって、ものの一時間の東と北と南とに大波を打って流れてゆく。おお、その列の長さよ! 葬式があるのではないかとは、始めて見たものの必ず疑うところである。工廠に向かった片側には、とんびとんびに間口の狭い居酒屋がある、汁粉屋がある、寒い日の夕方など寿しと肉太に染め出した紺暖簾や、馬肉なべとべた書きになぐりつけた障子の中から、化物の様な白首が二つ三つも寒そうな顔を出して、囚われたる突貫連の元気よく駆け込むのを待っている姿がよく眼につく。そして、ようやくにして長い大波が過ぎ去ってしまうと、おっ開いた街路はまたしても人通りが次第に薄くなって、いたずらに名物の埃が天地にみちみちて、夜業連の仕事であろう、まれまれに電車が通う合間々々を、ターンターンと言う重々しい音が中の方から聞こえ出すのである。(註6)

 

  このように食事時になると、工員が路上に出て、労働者目当ての屋台に群がり、立ち喰いする光景が見られたという。『明治大正図絵』(註7)に載る当時の工廠の写真を瞥見すると、煙突が乱立し、工場の大屋根が木立の間より見え、帝都の一大産業地であったことが理解される。
 宅地的にも、「東京府各区郡部における宅地面積とその推移」の表(註8)によると、こうした雇用労働者が帝都に激増したため、中心部が飽和状態となり、山の手の市街地化が顕著となっている。宅地面積は、城北地域を中心に増加し、明治十六年を一〇〇とした場合の指数で、小石川区は、明治二十五年には一四二、荷風が帰朝した明治四十一年には一九二と倍増し、一〇〇前半の多いその他の区部の中で、特に際立った伸び率となっている。
 荷風の繊細な幼心に感じた、「伝通院の前から富坂へと連なる砲兵工廠の練塀とその構内に茂った深い樹木とは、いかに物恐ろしく私の眼に映じたであらう。」(『下谷の家』)といった江戸の名残りの町並みは、

 

水戸藩邸の最後の面影を止めた砲兵工廠の大きな赤い裏門は何処へやら取除けられ、古びた練塀は赤煉瓦に改築されて、お家騒動の絵本に見る通りであつたあの水門はもう影も形もない。(中略)表町の通りに並ぶ商家の大抵は目新しいものばかり。以前此辺の町には決して見られなかつた西洋小間物屋、西洋菓子屋、西洋料理屋、西洋文具屋、雑誌店の類が驚くほど沢山出来た。                    

                                        (『伝通院』)

 

いう浅薄な町になり果てていた(註9)。生地、小石川金富町から、この工廠まではほんの数分の隣町である。この帰朝後の落差が、留学の地で夢想した懐かしき故郷の夢を如何に打ち砕いたかは想像に難くない。帰朝後でさえ、「小石川の丘陵をば一年一年に恋ひしく思返す」と語るーそんな懐旧の地が、上からの変革である市区改正と、当時の人達の盲目的ともいえる早急な近代化志向によって、「東京全市の発達と共に数年ならずしてすつかり見違へるやうになつてしまふ」との危機感を持つ。荷風の意識の中では、「私の稚時の古跡はもう影も形もなく此の浮世から湮滅してしまつた」と断言してしまうまでに強い憤りとなって表出されてくるのである。
 その上、前稿においても指摘した点ではあるが、小石川の象徴的存在であった伝通院が、明治四十一年暮れに出火、灰塵に帰し、再建する本堂が、西洋風の建物となると聞き及ぶ(『伝通院』)。江戸の昔、増上寺、寛永寺とともに三霊山として仰がれた、荷風にとっての江戸の象徴の<中心点>は、ばっさりとその役目を抹殺させられてしまったのである。それは、前田の提出した狐退治の構図と同じであると言えよう。荷風の記述では、明治四十一年十一月、伝通院の資料によると十二月三日と、出火日に多少判然としないところはあるが、『狐』が翌年の一月発表であることを念頭におけば、執筆の直接的契機となったのが、この伝通院の火事ではなかったかという推理を、再度ここに提出して置きたい。                                    (この稿つづく)

 


(1)「廃園の精霊」(『都市空間のなかの文学』筑摩書房 昭五

       七・一二 )
  (2)復刻版 批評社刊(昭六一・一〇)下巻
  (3)「嘉永版 江戸切絵図」(復刻 人文社蔵版)の内、 

       「十三 小石川絵図」
  (4)「荷風生誕の屋敷図面」(『荷風全集』第一巻 口絵)

        より
  (5)『明治東京逸聞史一』林銑三 東洋文庫一三五(昭四

        四)「明治二十六年「砲兵工廠の職工」」。
  (6)若月紫蘭著、明治四十四年 春陽堂刊(朝倉治彦校注

       『東京年中行事』東洋文庫121  昭四四・八)
    (7)『明治大正図絵2 東京(二)』筑摩書房(昭五三・一

        〇)「第二章 二十世紀の都市空間」五八頁の写真。
  (8)石塚裕道「明治期の都市と近郊農村ー日露戦争期までの

        東京についてー」(「歴史公論」昭五八・五 「特集 近

        代日本の都市」)の付表より。
  (9)現在の小石川金富町周辺は、町名整理で春日二丁目とな 

        っており、金富小学校の名にわずかに旧町名が残ってい

        る。現地走査をしたが、現在はほとんど住宅地で、町並み

        で往時を偲ぶものは、寺院以外には余り見つからない。し

        かし、道筋はほぼ当時のままで、『狐』に描かれる範囲の

        確認は容易であった。
                         (「イミタチオ」第21号所収)
                                (1993・5)

    [1] 
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