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 この頁は、耽美派の巨匠、永井荷風・谷崎潤一郎研究サイトです。論文、エッセイなどがあります。

・遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。 

  (論文)谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』論ノート(上)

(論文)谷崎潤一郎『瘋癲老人日記』論ノート(上)
                            
一 はじめに−『鍵』その後−
 
 谷崎潤一郎『鍵』評価のポイントは、結末部、妻の告白の記述をどう捉えるかにあると言ってよい。この部分は夫の死後のものであるから、夫に盗み見されているのを承知している前半よりも信頼性はあるが、絶対的記述ではない。不可思議な行動をとる娘に見られている可能性もあり、事実、娘向けと思われる記述もある。妻自身、当事者でもあり、全てを知った上ではないと断っている。推理小説の謎解き解決編とは似て非なるものである。 稿者は以前、この作が世論の反響によって予定を変更、長編となるものをこの記述によって終わらせたために、いくつもの伏線が流れてしまっていると愚考したが、これに対して、小さな変更はあったにしろ、現行のような、ある程度絶対性のある記述がくる以外、結末は考えられないから、基本構造に変化はなかったのではないかと考える説もある。 この当否は置くとしても、単行本出版後、読者からの指摘があったのであろうか、記述に矛盾のある箇所を、途中の版から慌てて訂正する錯誤も犯しており(「『鍵』本文訂正について」 昭三二.三)、その経緯から「私の『鍵』はあまり自信がありません」(ドナルド・キーン宛書簡五五八)と、高く評価していなかったようである。
 その彼が『瘋癲老人日記』において大幅に『鍵』で行った実験を取り入れているのは周知である。そこには、この五年間に『鍵』に対する自信を取り戻し、新作への有効利用の方向へ考えを変えていった経緯があったのではないだろうか。
 契機となったのは、皮肉にも変更を余儀なくされた世間の反響の大きさにあった。昭和三十二年度年間チャート五位のベストセラーとなり、多額の印税が作者に転がり込むこととなった。
 谷崎の金銭感覚は、幼児期の没落体験もあり、非常に現実的である。金銭の不如意の頃を回想して、

 

私はそんな時によく、二宮金次郎の幼児の話を思ひ浮かべたりしたが、それに依って奮起させられるどころではなく、どう考へても貧乏はつくづく嫌なものであると、云ふ風ばかり感じさせられた。(『幼少時代』)

 

と、清貧の情とは程遠かった心情を述べている。金は多くあるにこしたことはないという主義で、晩年、印税を一割五分要求する等、金銭に対する罪悪感は認められない。  

 

『鍵』は非常な売行で中央公論社ホクホクです。お正月に君が来たら何でも欲しいものを買って上げます。(少し高いもので結構)(渡辺千万子宛書簡)

 

ここには作品に対する否定的な評価は感じられず、売れ行きを率直に喜んでいる様子である。
 その上、谷崎の国際的評価がこの作品によって確立したことも、自信を深める大きな要因となった。この時期を、佐伯彰一は日本文学国際化の発端期と定義している(「外から見た日本文学」)ように、日本文学の翻訳、紹介が本格化し始めた。『鍵』も、三島由紀夫『潮騒』、川端康成『雪国』等と共にこの頃翻訳された。代表作を吟味精選して翻訳する段階のこの時期にいち早く訳出されたのも、国内のベストセラー化により人々に膾炙した作品となったことと無関係ではあるまい。
 英訳は、はじめストラウスの予定であった(ドナルド・キ−ン宛書簡六〇一)が、サイデンステッカーにも意志があり(書簡六〇七)、最終的にはハワード.ヒベットが担当した。彼の訳は忠実なものではないが、雰囲気はよく伝えていると評されている。武田勝彦は、原作との相違点として、過激な性描写を避けてボカした言い方になっていること、段落が増加していること、夫婦の日記の書き分けに工夫がないことを指摘している(「海外における日本文学研究」)。前二点は、おそらく多くの読者を得んがための処置であろう。作者自身は、「書いてある事柄がやさしいので私にも面白く読めます」(キーン宛書簡六一四)と好意的である。稲沢秀夫は、サイデンステッカー等の端正な訳に較べて、「何度も奥さんを変えたハワード・ヒベットは色好みの点で谷崎潤一郎に相似た地質の持ち主であり(中略)その資質に導かれて、彼が必然的におのれのもっともよく理解できる世界を嘆ぎわけたというところだろう」(「谷崎潤一郎の世界」)と、穿った意見を述べている。サイデンステッカーは、周知のように『マキオカシスターズ(細雪)』の翻訳者で、まさに適材適所と言うべきである。
 昭和三十五年、ハードカバー版が発行、多くの書評が出、三十八年四月現在で一万五千部、三十七年発行のペーパーバックス版は二十五万部の売れ行きで、翻訳物としては現地で異例のベストセラーとなった。英訳以前に韓国語訳があったが、伊、独、蘭、スウェーデン、デンマーク語訳も次々と出ている(但し、訳本が本格的にべストセラーとなるのは、『瘋癲老人日記』執筆以降ではあるが……)。
 海外で好意的に迎えられた背景には、サイデンステッカーが「谷崎文学の国際性」の中で、当時、端的に指摘した如く、『鍵』が西洋のノベルの概念で容易に理解できる種類のものであり、性を中心とする人間の生理的方面の追求は万国共通のモチーフであるといった面があろう。日本的なモチーフでない分、先に訳されていた幾つかの谷崎作品より受け入れやすい要素を持っていた(アーサー・ウェーリーが『細雪』を平板の一言で一蹴した挿話は有名である)。この結果、皮肉なことに日本では失敗作とする批評もある、少なくとも当時、彼の代表作とは考えられていなかった『鍵』が、海外では代表作として認知されたのである。批評はどれも好評で、ドナルド・キーン宛書簡(六一九)によると、ストラウスが批評の切り抜きを数多く送付し、谷崎は目を通していたようである。
 こうしたベストセラー化、国際的評価をかためたという意義は小さいものではない。作品的には思惑どおり完成したものではない点で、不満を消し去ることはできなかったであろうが、発表時に起こった俗物的な論議が下火となり、逆に海外から賞讃の声が聞こえてくる。作家にとっては大いに自信を得たことであろう。その自信をもって、今度は『鍵』で十全に開花させられなかった点を『瘋癲老人日記』で押し進めたと考えるべきだろう。 口述筆記に楽な日記体、片仮名書きといった要素はそのまま利用し、中途半端であった末尾の記述を、完全な「絶対的記述」として完成させたのである。「佐々木看護婦看護記録抜粋」「勝海医師病床日記抜粋」「城山五子手記抜粋」と続く客観的な記述が、異常な行動をとる老人を照らす鏡として、作品の核となる形式に昇華している。このため、『鍵』の末尾がストーリー展開の一部として存在するのに対し、『瘋癲老人日記』の方は、ストーリーを離れても自立する事実そのものとなっている(逆に、蛇足と判断される危険性も内包することとなったが……)。
 三島由紀夫は、この臨床日記の部分で「氏の文体は女体を模倣する作業をきっぱりとやめ」、「美の崇拝者や寄食者の存在の実体をあばいてみせた」ものだとし、「作家の自我に対する苛烈なサタイア(風刺)であり、本物の嘲笑だった」(註1)とする。それが強烈な自己戯画化の後に置かれているだけに、冷徹な自己客観化の極北として類がないと言えよう。
 『瘋癲老人日記』は、以上のような谷崎の精神的な変化を経て成立している。以下、先人の指摘を踏まえ、幾つかの論点について卑見を述べていきたい。

 

二 老いの悲哀

 

 晩年の谷崎潤一郎の生活上の最大の悩みは、<老い>という不可避な事態に如何に対処していくかという点に尽きよう。持病の高血圧症は、当初、「別に肉体の苦痛はなく、よほど気候の悪い時に用心いたします程度」(・當世鹿もどき・)であったものが、昭和二十年代後半より徐々に悪化、右手の麻痺、冷感などの感覚異常、視力の低下、前立線肥大によるカテーテルの使用など、「次から次へと体ぢゆうの各部分に故障が出来て」、狭心症も併発、心臓の方へと拡大されていった。
 こうした老いの諸症状によって、彼は「ああ、かうして少しづつ次第弱りになつて行くのが老病と云ふものなんだな」との感慨を抱く。この感慨の行き着く先に死の想念があるのは、極めて自然なことである。

青年時代の「死の恐怖」は多分に空想的、文学的なものであったが、七十歳に近い今日では、「死」は恐怖よりもひたすらに悲哀をもたらすのみであつた。              (『高血圧症の思ひ出』)

この著名な記述は、初期中期作品の扱う死が観念的であるのに対して、晩期作品が生理的実感的なリアリティーあるものになっていることからも、率直な実感であることは容易に伺われる。
 死が不可避の現実として到来した時、それはもはや恐怖するには余りに身近なものとなり、自らの死を諦念の混じった悲しみの中で捉え、親しい人との別離の感情に似た<悲哀>の感覚で見つめていたということなのであろう。最晩年、残り少なくなった時間を名残り惜しみ、松子夫人と共に涙したという『倚松庵の夢』に語られる挿話は、共有する時の限定を悲しむ、まさに<別離の悲哀>で、観念的な思想、宗教上の死生観とは別次元の、素朴とも言える人間的な感情であった。
 死の数年前から、彼の心にわだかまっているのは、生と死の分節点である<臨終>という実に現実的な風景である。彼は臨終の瞬間に自らを衿持できるかという点に異常なまでに拘っている。

はにかみやの私は、その場になっても照れ臭がらずに、正直に最後の言葉をそれぞれの人に云ふことが出来るかどうか、これは今から気になつてゐる。妻や義妹や娘や嫁たちが枕元へ寄つて来た時、別れの挨拶を云はうとしても、ついポロポロと不覚の涙がこぼれて醜態を晒すのではないか。出ても構はずに思ふことが云へればいいが、云はうとすると余計涙が出、そのために一層きまりが悪くなり、結局何も云へないのではないか。私は今からそんなことを気に病んゐる。                   (『雪後庵夜話』)

そして、こうした自分の臨終の場面を想像するにつけ、他人の臨終の態度に興味を抱く。気楽な噺家口調をまねた随筆『當世鹿もどき』の後半部「臆病について」以下の章は、文体とは裏腹に、様々な死にざまに対する感想で埋められているといってよい。赤穂義士や、森鴎外『堺事件』等の切腹について触れ、「手前なんぞにあ絶対出来つこない」との感想を漏らし、水死、縊死、轢死等の死に方にも言及、人生を最終的に決定するものとして、この時の態度の重要性を強調している。
 芥川龍之介について晩年語られるのもこうした流れの中で考えると納得がいく。他家に嫁していた松子夫人との出会いが芥川によってなされ、「芥川龍之介が結ぶ神」であったため、彼を語ることは、自分達の結婚に触れることになって、これまで語りにくかったという事情があったが、死ぬ前に誤解の多い自分達の夫婦関係について明確にしておきたいという気持ちが強まったからと説明されることが多い。この点に異論はないが、もっと単純に、自殺という死にざまを選んだ芥川龍之介自身への興味が湧いてきたからという面もかなり大きいように思われる。
  他人の死への関心は、『三つの場合』で顕著に作品化されている。親しかった三人の死にざまの対比がモチーフの作品である。奇術家阿部徳蔵の見舞いに行った折、相手の無作法に「死んで行く人にしてもあんまりだ」と立腹しつつ、

人は誰しも阿部さんのやうな生理状態に置かれると精神の働きが自然と変態を来たすのではないか。私だつて現在はさう思つてゐるけれども、死期が迫つて来れば必ずこんな風になるのではないか。(中略)私は幾度となく反省してみたけれども、いや、いや、自分なら決してこんなに取り乱しはしない、病気が重れば重なるほど一層さう云うふ配慮をする、自分の性質としてそんなことがあつてなるものか、と思へるのであつた。

と自戒、他山の石と考えていることが解る。第二話では記者であった岡成志、第三話では身内の渡辺明と、各々の死を見据えつつ、「人の一生はさまざまに変遷するもので、その人が生きてるゐ間は幸とも不幸とも俄に云ひきる訳には行かない」と、人生の評価とはその人物の死後に決まることを強調している。この作品は、病気のため完成度は低いものとなったが、もともと作品として趣向を凝らすといった意識よりも、作者自身、こうした点を確認して置きたかったからといった内的な欲求が露わになっている作品と言えるのではないか。 
 実際、昭和三十五年から三十八年頃にかけて、僚友とでも云うべき人の死が相次いでいる。そのため、晩年の小文の多くは追悼文で占められる。「吉井勇翁枕花」「古川緑波の夢」「若き日の和辻哲郎」「武林君を悼む」「『憮山翁しのぶ草』の巻尾に」、他に、故人との付き合い自体はほとんど無かったが「野崎詣り(池崎忠孝回想)」等がある。谷崎潤一郎の長寿を考えれば、これは当然のことであるが、内容的には少々異色な印象を受ける。哀惜を込めた鎮魂の文章というにはあまりに客観的な筆致のものが多く、特に竹馬の友笹沼源之助へのものなどは、無二の親友という気軽さもあったのかもしれないが、故人の性格的な欠点にまで言及しており、些か冷徹な印象を受ける。
 これは、最晩年の随筆『雪後庵夜話』において指摘されてるのと同様、生きている間に相手との関係を明らかにして置きたいという心情が反映されているからと見るのが自然だろう。哀悼とは、ある意味で自分を生の側におき、彼岸の故人を懐かしむという二元的な発想であるが、谷崎の場合、早晩、自身が鬼籍に入る事を強烈に意識しているからこそ、相手が故人であろうとも<生>を共有した同僚として語るために、もはや現実に相手が生きているか死んでいるか、周りに気を遣うべきであるかどうかなどは余り問題ではなくなっているからではないか。即ち、生の立場から死者を哀惜するといった距離感のあるものではなく、既に作者自身が故人と同様、生のラインを外したところで故人を語っているからと言えはしまいか。


三 実生活と作品の差異

 

 老いの意識、友人の相次ぐ死は、自身の死生観の生成を強いることとなる。寺の法話を拝聴するなどして既成宗教が説く世界観に我が身の行く末を重ね、「あの世からのお迎えを待つ」といった日本的な仏教観で死の準備をしていくのが当時の老人の最大公約数といったところであろうか。しかし、特定の信仰を持たなかった彼にとって、死の想念は、宗教が提示する既成のものとは無縁であった。臨終の瞬間にこだわりをもつのも、安心して依るべき既成の死生観ではない分、想像するほかないという事情もあるのだろうか。
 分析は後述に譲るが、彼は本質的に宗教的人間ではない。神に対する問題に主体的に拘ることはなく、信仰の苦悩も希薄である。このため、彼の関心は、残された生の時間に集中する。彼にとって救済されるべきものは死後の魂などではなく、現実の肉体そのものなのである。この意味で、彼の死生観は<唯物的生死観>と呼んで差し支えない。
 『高血圧症の思ひ出』等に詳しく書かれたおびただしい新薬の名や最新式医療の驚くべき医学知識を見ると、彼の信仰の対象は神などではなく、<現代医学>そのものであることがわかる。俗に言う<医学信仰>である。効果的な医療を求めてトップレベルの医学を手配する姿は逆説的に求道的ですらある。猪野謙二はこうした物質主義的信仰を「谷崎さんの馬鹿くさいところ」と批判しつつも「しかしこれは社会一般の傾向で、谷崎さんの親しみやすい市民性の象徴がそこにあるとも言える」としている(註2)。江戸町人気質にその理由を求める論者も多い。
 彼の死生観は、そのまま『瘋癲老人日記』の主人公、督助に形象化されている。死後の夢想でさえも、現実的個人的な夢想の世界である。督助が「一日トシテ自分ノ死ノコトヲ考ヘナイ日ハナイ」とし、「自分ノ死ヌ時ヤ死後ノ光景ヲ微ニ入リ細ニ亙ツテ空想」するのは作者と同様である。また、「恐ろしく強気になる時と、反対に恐ろしく弱気になる時と、この二つに間を行つたり来たりする」(『雪後庵夜話』)という実生活の気持ちの揺れも、作品では、孫経助の内緒の見舞いに対して不覚にも涙を流し、「案外涙脆クツテ、屁デモナイコトニ訳モナク涙ガ出ル」と告白するかと思えば、娘に借金に申し出に意固地に拒否する強情さの二面性となって表現されている。こうした心情にの振れがあるのは、「死を恐怖する気持ちがある一面に、死を覚悟して諦め、半ば安住した気持になる時がある。恐怖と安住と、一日のうちに幾度となくが変わる」という現実生活での死に対する感情の揺れがその基底となっていると思われる。
 この引用の他にも、晩年に書かれた随筆作品に表れる作者の心情と同一のものが多く、督助の心情の大部分は実生活での感情を忠実に写し取っている。その上、督助の病状がそのまま谷崎潤一郎のそれと重なるものも多く、就中、七月二十五日の記述などは、殆ど『雪後庵夜話』中の前立線肥大に触れた話と同一である。つまり、この作品はある意味では私小説的な手法をとっている。
  しかし、勿論この作品を<私小説>と呼ぶことは出来ない。そこにはどういう魔術が使われているかを考えてみる必要があろう。
 前述の如く、谷崎の死生観は無神論的で特定の宗教による救済といった信念はなく、ただに<悲哀>を感じる他なかった訳だが、この、実生活での「「死」は恐怖よりもひたすらに悲哀をもたらすのみであつた」という認識が、作品の督助の感想では、「若イ時ハ非常ニ恐怖感ヲ伴ツタガ、今デハソレガ幾分楽シクサエアル」という言葉に換えられている。つまり<悲哀>という実感は、老いの<楽シミ>という認識に置換されているのである。
 結論を先に言えば、この違いこそ実生活と作品の最も大きな相違であり、この基本認識が違っているからこそ、どれだけ実生活の情報を作品に混入しても単なる私小説に堕さなかったといえるのではないかと推察する。
 この点を詳細に対照してみよう。督助は隠居の老人という設定になっており、自ら働く必要のない人物である。彼の消閑法は日記をつけることと、「時々前ノ日記ヲ取リ出シテ見ル」ことである。これに対し谷崎潤一郎は現役作家であり、「私の現在の消閑法は、創作をしやべつて人に筆記して貰ふことと、五十九年間の旧作の山をほじくり返して、彼方此方を読み散らかして遠い昔を偲こと、この二つに尽きる」という。旧作を読み返す事は小説家の特権であり、一般的でないことから日記に変えただけであり、こうした方面での差はほとんどない。
 しかし、こと女性に関する限り、実に巧妙な仮構が施されている。七月十日付け日記の記述にある督助の残虐な女性に対する興味関心については谷崎自身しばしば触れてきたことであり、作者本人の嗜好と同一であるが、実生活の場合、「恋をしたい意志はあってもこの老惚れを誰も相手にしてくれないことなどは今更改めて云ふまでもないので、さう云ふ不満は疾うに卒業してしまつてゐる」と、直接的な関与を、少なくとも文面では諦めている傾向があるのに対して、作品では「生ニ執着スル気ハ少シモナイガ、デモ生キテヰル限リハ、異性ニ惹カレズニハヰラレナイ。コノ気持ハ死ノ瞬間マデ続クト思フ」となって、あくなき執着を全面的に示し、「既ニ全ク無能力者デアルガ、ダカラト云ツテイロイロノ変形的間接的方法デ性ノ魅力ヲ感ジルコトガ出来ル」とし、「現在ノ予ハサウ云フ性欲的楽シミト食欲ノ楽シミトデ生キテヰルヤウナモノダ」と、自らの生が性欲の楽しみに依存して維持されていることを強調するのである。
 これに対して、作家自身は「美人が傍らにゐてくれること、作家に取ってこれが何よりの刺激になることは老人も壮者も変りはない」と、やはり美女の効用を語ってはいるものの、「あまり美し過ぎる人が傍近くゐると、却つて興奮し過ぎて何も出来」ず、「美人が眼の前から去つて猶幾分の余韻が残つてゐ、興奮状態が適度に弱まつた頃が、創作欲の最も活発に動き出す時」であるという言い方をしている。血圧の上昇が性的興奮度を表すバロメーターのような危険な遊戯に耽ける督助とは対極の慎重さであり、性に耽溺している督助に比べ、創作家としての立場が読み取れる。
 谷崎は老齢となっても、実に平然且つ率直に女性に対する欲情を述べる。

私は日常見馴れている自分の周囲の女たちの、肉体の部分部分にそれぞれの長所があるのにふと気がついて瞠目することがある。梅原龍三郎君の裸婦によく見るムツチリと肥えた赤みを帯びた肉体、私は殊にあれに魅せられる。ああ云ふものを見ると、俄に世間が明るくなつたやうに感じ、やはりなかなか死んではならないと思ひ、何かがムクムクと腹の底から湧き上がつて来る。私が積極的に、強気になるのはそんな時である。

ただ、ここでいう強気とは、女性に対する積極性ということではない。

たまには恐ろしく積極的に、強気になることがないでもない。肉体の苦痛が激しいと、却つてそれと闘つて立派な仕事をしてやらうと云ふ反抗心が湧き、それに興味を抱く場合がないではない。

という言葉から察せられるように、肉体的苦痛に対抗する生命力、創作への意欲の謂である。彼の場合、創作の原動力となっているものこそ若い女性の肉体美ということになる。
 即ち、作品と実生活の差異は明かであろう。実生活の創作家谷崎潤一郎は、老いによる創作力の衰えを、若い女性の肉体への興味関心を原動力にして回復させようとしているのに対して、作品では、その若い女性の肉体そのものが、そのまま<生>の目的となっているのである。つまり端的に言うと、<媒介>から<目的>への転位がなされているといえる。このからくりこそ晩年の彼の創作の秘密であると稿者は考える。
 健康を害し取材が思うに任せなくなり、身辺取材しかできなくなった時、そのままでは単なる身辺雑記に堕してしまう。晩年の谷崎は、読者が老年になった自分の作物を面白がってくれるか非常に心配していることが書簡などから知られるが、何とかして創造的な作物を作りたいという試行錯誤の中から、谷崎は身辺に起こった出来事を利用して、このからくりを最大限に発揮することで、仮構された世界を再び紡いでいく方途を得たのではなかったか。
 特に、最晩年、入院など極めて限定された世界の中で、有効に且つ最大限に発揮されたのが本作であるということができるだろう。作者自身「私は鍵よりもむしろこの方を一層読んで戴きたいと思つてゐるものです」(書簡)という自信の弁は、より方法論的で、私生活に密着している分、そう言えたのではないだろうか。単に『鍵』が当初の予定を変更した不本意な作という理由だけではないだろう。
  かつて古井由吉がこの作品を評して、「作者が主人公のすぐ背後に付いているか、それとも神のごとき客観の位置にあるのか、と首をかしげさせられる」(註3)と述べたが、この感想もこのからくりの御蔭に他ならない。身辺に起こった雑事を大胆に使いながら<神のごとき客観の位置>が得られたのである。
 寺田透は、

僕はあの瘋癲老人日記を読んでいて、しょっちゅう吹き出したんですが、自分のことを自分の目でとらえて、心からひとが笑えるようなものを書くというのは、珍しい例じゃないでしょうか。それもやっぱり書き手を瘋癲と設定したからそういったんだろうと思うのです。正気の人間じゃ自分の滑稽さを見て見ぬふりをしたり、歪めたりしちゃうが、瘋癲だからこそ、それがちゃんと出来た。また逆にそれで瘋癲が造型される。老人の滑稽さというものを客観的につかみうるというところまで。谷崎さん来たという、そういう感じで僕は読んだんですけど。(註4)

と感想を述べているが、これもこの点を述べたものであろう。創作のエネルギー源とでもいえるものを対象に転移させることで、自己を女に執着する<瘋癲老人>に仮託させ得る客観的な立場を手に入れることが出来、その上で、思うように自己戯画化していく。こうした過程を踏まえた作品形象化であったからこそ、老人の持つ滑稽さを老人である自分自身が客観的に描出できたといえるだろう。この客観化が不十分であれば、督助の妄想イコール作者と混同させる余地の大きな作品となり、醒めたユウモアなどは出ず、作者一人面白がっているグロテスクな作物となった危険性があった。
 そして、この、発見された自己戯画化の手法自体、極めてマゾヒチックな行為であることも、彼にとって有効であった。自己の性情に合致していることで、作者は楽しんで創作することが出来、一石二鳥の方法であったともいえる。      (つづく)

 

(註)
(1)「谷崎潤一郎論」(昭和三十七年十月十七日〜十九日「朝日新聞」)
(2)「谷崎潤一郎」(伊藤整 寺田透 勝本清一郎 猪野謙二)(柳田泉、    勝本、猪野編「座談会 大正文学史」(岩波書店))
(3)「肉体の専制ー私の「東京物語」考 その十三」(「図書」昭和58・7)
(4)註(2)に同じ。

 

<附記>
 本稿のうち、「一 はじめに 「鍵」・その後」は、以前、発表した小文「鍵ーその後」(「異郷通信」第四号 平成二年八月)を改稿の上、挿入したものである。

                 (「イミタチオ」第24号 平成6年12月)

    [1] 
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