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 私の「かあてんこおる」U 1999-2000 
 私の「かあてんこおる」U 2001-補録 
金沢市民劇場

 □□  目  次  □□

 

一九九九年

 二月『朝焼けのマンハッタン』           
  四月『女の一生』                     
   六月『青空』                       
    七月『愛が聞こえます』           
     十月『研師源六』               
      十二月『きらめく星座』            

 

二〇〇〇年

 一月『どん底』                               
  四月『鳴神・狐山伏』                       
   六月『野分立つ』                          
    八月『キッチン』                        
     九月『黄金色の夕暮れ』                
      十一月『見よ、飛行機雲の高く飛べるを』 

 


 一 九 九 九  年

 

上海・東京・ニューヨーク      
                   地人会公演『朝焼けのマンハッタン』第217回例会

 戦前のニューヨーク・マンハッタンのボロアパートの最上階に、舞台は固定され、そこに住む、当時の日本人としてはリベラルな思想の持ち主の稲垣幸次郎・愛子夫妻(鶴田忍・渡辺美佐子)の生活の中に、日米関係の悪化、太平洋戦争、そして、戦後の赤狩りと進む現代史が織り込まれて物語は進行する。
 二人の思想には何の変化もないが、時代の流れの方が、右に行ったり、左に来たり。そのたびに、二人の生活や出入りする人たちの人生に大きな陰影を作っていく。
 この手法は、脚本の斉藤憐お得意のパターンで、時と場所を上海に移せば、有名な『上海バンスキング』、日本に移せば『グレイ・クリスマス』。今度はアメリカ在住になっただけで、手法も主張も一緒。正直、ワンパターンである。
 実は、そのことにいち早く気づいたのは、私ではなく友人のN氏。後から聞くと、彼はつまらないので早々に席を立って帰ってしまったそうだ。だから、彼の口から聞いた批評は、前半のみということになる。
 彼によれば、役者の出入りのご都合主義、それに、お目当ての有名女優、渡辺美佐子に華がなかったことにも失望したようだ。確かに、ストーリィ展開上は、聞き役的で、あまりスポットが当たる役どころではない。それに、彼女のスタイル(勿論、演劇の、ではなく、ボディのほう)が実にオバサンだったことも、幻滅につながったらしい。「さすがに女優さん。あの年齢で、お若いわ。」と、奥様方を唸らせなければ、主役失格であるというのである。なかなかの辛口批評であった。
 私はと言えば、歴史の取り込み方が、少々教科書的だったのが気になった。図式的なので、分かりやすいには違いないが、現代史の細部に不案内な人にとっては、少し不親切ではないかと思われるところと、妙に解説的な部分とが混ざっていた。そのあたりを自然に見せるのは、台本書きにとって至難の業であることは、充分承知しているつもりだが、やはり難しいものだと改めて感じた次第。
 長く芝居を見続けている人達にとっては、『エセルとジューリアス』に出てきたローゼンバーグ夫妻の名前が台詞の中に出てきたり、収容所の話で、井上ひさし『マンザナ、わが町』を連想したりと、色々な芝居のイメージを作者は有機的に取り込もうとしているように感じられて、この点、興味深かった。
 ただ、ラストシーン。乾杯とナレーションによる解説は明らかに蛇足である。即、カットすべし。   (パーティーに招かれておきながら、さっさと帰るなんて不自然だと感じた男より)                                    (1999・2)

補註
 金沢・野々市地区の五ステージの最終日。夫役の鶴田忍の体調不良のため、芝居途中で幕がおり、観客のなかに医者はいないかというアナウンスが入って、そのまま上演中止になった。映画と違って、生身の人間、こうしたこともあるという話は聞いていたが、実際に身近に起こったのは今回が初めてだった。
 観そこなった人たちのために、半年後の十二月、一回だけ再上演があった。座席が空いているので、もう一度観たい人は申し出て下さいとのことだったので、サークル仲間に声をかけたが、誰も希望者がいなかった。残念ながら、これがこの芝居の評価をはからずも表しているようであると言ったら、言い過ぎか。


自分で選んで歩き出した
                                              文学座公演『女の一生』第218回例会

 再三、金沢で舞台があったが、縁のないまま、杉村春子逝き、平淑恵主演で、今回、ようやく名作の誉れ高いこの作品を観ることができた。晩年の杉村の舞台は、ほとんど動かなくてもいいように演出されていたそうだが、若い平向けに再演出されて、同じ話でも、だいぶ印象の違う舞台になっていたそうだ。
 もともと、嫌戦思想を持つ作者の森本薫だが、戦時中の作でもあり、中国問題の解説っぽい部分が挿入されている。観客向け背景解説以前に「臣民教化」の臭いがして、これはいただけなかった。
 栄二(大滝寛一)が「転向」したのを、意志を貫いた形に改作したり、新たに、戦後のシーンを書き加えることで、それまでの話を相対化し、作品の生き残りをはかった訳だが、何だか、それだけでは戦前的残滓が払拭されておらず、キズのある作品という印象を強く持った。 
 話は、確かに典型的「女の一生」ものである。孤児から女中へ、嫁から女実業家へと展開していく流れは、一代記として何の問題もない。が、何だか、主人公の布引けい(平)は、自ら進んで非人間的教条主義で身を律しようと努力したふしがあり、栄二を売った後の、彼女の悲しみも、観客にとっては、「何だ、自分から彼を売っておいて……」と、鼻白らむ思いしか残らない。イヤな性格の主人公に思い入れをしろと言っても無理な話である。
 おそらく、作者は、彼女を時代に流された女性として定置させ、ラストシーンで「これから」の人生計画を語らせることで、再生の希望を託したかったのだろう。
 しかし、くどいけれど、ああも周囲の人たちに嫌われた彼女に、どんな輝く未来があると言うのだろう。
 つまらなかったのかと訊かれれば、そうでもなかったとは言えるが、こんなすっきりしない台本で、戦後千回以上上演され、「不朽の名作」「文学座の財産」扱いされていること自体、私にはさっぱりわからない。アクチュアリティ(適時性)にも欠ける。
 誰か、「過去の作品」として葬るべきと、きっぱり言い放つ人はいないのか。 
                                    (美田を買はず)
                                                                  (1999.4)


もっとゴージャスだったら…… 
                     Kダッシュステージ公演『青空』第219回例会

 戦前、レビューのスターとして、一世を風靡したという川畑文子(土居裕子)を描いた女の半生記もの。
 戦前のヒット曲満載。昔は洋楽全体をひっくるめてJAZZと呼んでいた時代だ。現代からみると、えらくゴッタ煮の選曲だが、おそらく当時のレビューの演目自体が、こうした雑多な構成だったのだろう。
 小生、ジャズを聴き始めて四半世紀になる。ポピュラーミュージックはそれなりに知っているつもりだが、現代のジャズでは取り上げない幾つかの曲で、正直、よくわからないものもあった。(もっとも、『カイマナヒラ』まで出てくるものだから、なにも恥じることはないのかもしれないが……)
 モダンジャズでは、『ラバー・カムバック・ツゥー・ミー(恋人よ我に返れ)』あたりは、いまだに定番メニューだが、『青空ーMy Blue Heaven』を真っ向から取り上げることはほとんどない。戦前の流行り唄といった位置だが、どうやらこの曲、妙に日本人に哀愁を感じさせる曲のようだ。
 芝居は、冒頭に出演者の紹介があり、六人で二十五役すると宣言される。よくも取っ替え引っ替え、六人が大車輪で出てくるものだというのが、まず大方の素朴な感想だろう。こんな少人数で、歌って踊って、大変な重労働である。つまりは、人をこき使う台本。よく言えば、早変わり的感覚で楽しめばいいのだろうが、レビューシーン、六名でフィナーレというのは、何ともうら淋しい。
  楽団も同様。生演奏にこだわったのは大賛成だが、管楽器が二人だけというのが致命的。せめてトロンボーンがほしい。できれば、たった五人の楽隊ではなく、ビックバンドでやってほしかった。音に厚みがなく、ベースとピアノがよかっただけに、これも、うら淋しさが残った。
 結局、楽しめる場面は、バラエティーに富んだ選曲で、個々の俳優さんが、歌にタップに、中近東ダンスにと、藝を披露してくれるパフォーマンスパートということになる。この芝居、実は、ダンスの出し物が取っ替え引っ替えでてくる「大衆演藝」そのものであるという見方が一番すんなりくるのではないだろうか。
  プロットは、取り立てて言うべきことはない。アメリカでの人種偏見、父との関係、忍び寄る軍国主義と、お定まりの要素は一通り触れられているが、まあ、飾り程度のものだ。
 この芝居で一番の問題点は、彼女の半生自体、どうも劇的要素に乏しく、魅力的でないことだ。舞台になるくらいだから、ショウビジネスでは有名な人なのかもしれないが、少なくとも私の周りでは誰も知らなかった。終戦直後あたりで話は終わっているが、その後、活躍したのかさえ知らない。
 企画の江口剛史の文章「きっかけから『青空』誕生まで」(市民劇場機関誌)を読むと、「はじめに川畑文子ありき」ではなく、「土居さんと諏訪さんがご一緒する舞台を創ったらすごい競演になるだろうと。そこから、このミュージカル創りがはじまった。」という。
 1,日本のスターで、2,戦前の物語で、3,英語の歌も入り、スイングする作品というコンセプトが先にあり、この条件に合う、いにしえのスターを捜してきた結果が、この川畑文子なのだ。製作プロデューサーの立場から言えば、この立ち上げ方はおかしくないのかもしれないが、描かれる主人公の選定が一番最後になったという事情と、主人公に強烈な個性が感じられないというのは、重なっている気がしてならない。
 やはり、知っている人、せめて名前くらいは知っている人のほうが興味関心が湧くのではないだろうか……。
 作者の主張も、タップダンス教師ボージャングルが文子に語る「藝人は命のエネルギーを観客に与えるのだ」という台詞にきっちり述べられていて、「では、我々観客にもこの芝居で、そのエネルギーを与えてくれるんですね。」という気持ちで観ていくことになる。しかし、それにしては、思ったほど楽しいシーンで皆沸かなかった。例の、金沢人の無反応のせいだろうか。
 結論。豪華でないミュージカルはうら哀しい。予算のせいでしょうね。やっぱりこれも、『花よりタンゴ』と同じく。                  (狭いながらも○○な我が家)                                                        (1999・6)


障害の垣根を超えた場  
         秋田雨雀・土方与志記念 青年劇場公演『愛が聞こえます』第220回例会

 障害者の話を「青年劇場」がするーこれを聞いただけで、げっそりしてしまったというのが正直な感想。
 『遺産らぷそでぃ』での、説教臭い印象が尾をひいているからかもしれない。よく言えば、「真向うからの剛速球を投げこむ」(野間成之 市民劇場パンフ)劇団ということになるのだが……。
 観終わった感想はというと、まず、前半はなかなかうまく出来ていた。
 障害者を描いた芝居は、往々にして、わざとらしくなり、違和感が残るものだが、全然、それが感じられなかった。それほど役者の、個々の障害に対する研究がしっかりされていたということなのだろう。おそらく、直接、施設等へ行き、障害者とコミュニケーションをとった上での演技だと思う。そのあたり、この芝居の最もほめられるべきところだ。
 登場人物の設定も実に明解である。短気で、健常者に対して反抗意識の強い沖田清次(板倉哲)に対して、何事も内気な女性、水原瞳(重野恵)。その他、障害者を持つ家族のさまざまなスタンス。障害者問題を扱うに際して、雛型といえるほどうまく性格分けがされていた。
 喫茶店「赤とんぼ」という場に、これまで障害者とは無縁だったエリートサラリーマン岩下徹(千賀拓夫)を投げ入れることによって起こる波紋。特に、彼が、理解しなければと理屈ではわかっていても、この場を離れるとほっとしてしまうと、正直に告白するところなど、立場として健常者側にいるほとんどの観客にとって、ドキリとする指摘になっている。
 他にも、緘黙症の孫政志を持つ祖母、馬場満枝(小竹伊津子)が言う、「この子は家の宝だ」という台詞。障害者はお荷物で、家族は大変だという固定観念をかろやかに壊してくれて、はっとした。この台詞あたりに、この脚本家の姿勢がはっきりと出ていたように思う。
 では、手放しによかったかといったら、そうでもない。後半はダレダレだった。
 一番の原因は、エリートサラリーマンが、瞳の声を出させるために、仲人をひき受けるという嘘をつくことを承諾したためだ。そんな姑息な方便に加担すること自体、この人の性格からして不自然だし、既に、障害者に理解を示しつつあった訳だから、その後、瞳の声が出、仲人を承諾して大団円となるという予定調和のための設定としか思えない。つまり、ミエミエなのだ。それに長々とつき合わねばならなかった我々観客は少々つらかった。
 そもそも、現代、飾り仲人がほとんどの世の中、仲人決めが、そんなに重要な意味を持つのかという疑問も残る。高橋正圀自身、芝居は「書き直しという特技を使える」と言っているのだから、この点、是非、考えてほしい。
 それにしても、この不況下、作ったパンも売れ残っているみたいだし、喫茶店「赤とんぼ」が経営できているだけでも奇跡的なのに、あんなに銀行に借金して大丈夫なのだろうか。銀行からの借り入れが決まっただけで、すでに大儲けしたかのような金銭感覚に、バブル期の発想が感じられて、マスターの拡大路線を危惧する観客は多かった。         (末は火だるま)
                                       (1999・7)


つい百年前のことなのに……
                        劇団民藝公演『研師源六』第221回例会

 舞台は、幕末の混乱期。世相は騒然としている。その昔、親方の後を継いだ清次(岩下浩)は、博打で身代を潰して逃亡。親方の娘と彼の間に生まれた娘おせん(樫山文枝)を、弟弟子の源六(大滝秀治)は自分の子として育てている。そこへ、今ではお尋ね者となった清次が現れ……。
 脚本は、山本周五郎原作の『柳橋物語』と『むかしも今も』をつなげたものだが、言われなければ『研師源六』という題の小説があると錯覚しそうなくらいうまく出来ている。
 その昔、紀野一義『生きるのが下手な人へ』という新書本がベストセラーになったことがあった。著者は短大の宗教の先生で、仏教の教えを、現代詩などを例に使って、分かりやすく説明していて、ありがたい御法話を聞いた気分になったものだ。正直な話、私の「色即是空」についての理解など、この本で読みかじっただけで、以後、知ったかぶりして人生を過ごしている。
 その時、この本を紹介した書評の文章を、なぜか今も覚えている。「人間皆いい生き方をしたいと思っているが、そうそううまくはいかない。この本の表題は、人間誰でも持っている潜在的被害者意識に訴えかける」という指摘。つまり、皆、これは自分のことだと思ってしまうというのだ。少々揶揄が入っている感じだが、なるほど、ありそうな話である。
 この芝居を観ながら思い浮かべたのが、この「生きるのが下手な人」というフレーズ。愚直で一途な主人公源六は、まさにそんな人である。しかし、だからこそ、観客は彼に共感する。彼の言葉に、ああ、久しぶりにこういう生き方に触れたな、現代には消えた考え方だなと、何度、思ったことか。
 せかせかと日々を生きている我々現代人。人間として、今の生き方、世間との折り合いのつけ方でいいのかと反省を迫られた思いである。この話、いかにも「山本周五郎の世界」と言ってしまえばそれまだが、今だからこそ、彼の描く世界が貴重になっていると実感した。
 しかし、考えてみると、この話、そんなに古い話ではない。つい百年前である。同じ日本人と言えないくらい「日本人」の内実が変わったのだという思いを強くする。(まあ、二十歳ちょっと年下のコギャルでさえ、何考えているのだか、さっぱり分からないのだから、百年前だったら、当たり前か。) 
 お上の政治も変わる。人も有為転変。大店の娘は火事で店が焼け、女郎に身を落とし、おせんが思いを寄せていた大工は、連絡がないまま、いつの間にか如才ない商人へと変身している。源六がかつての仲間、清次に裏切られたように、おせんも彼に裏切られる。周囲はどんどん変わっていくけれど、源六・おせん父娘だけは何も変わらない。この対比がこの作品の骨格となっている。
  ラストに、おせんは父に研ぎを習いたいと言う。つまり、父の生き方を娘が継ぐということを暗示する。おそらく、おせんは立派に、そして愚直に、今度は明治の世を生き抜いていくことだろう。                                              
 振り返って、曾孫世代の我々はどうだろう。職場の、いかにも私はうまく仕事をこなしていますよ、沢山の仕事をバリバリ処理できますよと、目立つように、目立たず(?)PRする人間。若いのに妙に重厚に(ということは、別の言葉で言えば、偉そうに)振る舞う人間。その如才ない世渡りぶりが、総体として、日本丸の沈没を早めている原因になっているような気がしてならない。そんなことが、帰りの車の運転中、気になって仕方がなかった。
(最近、「愚痴が多くなってきたわよ」と同僚に指摘され、今も愚痴で終わったのを、読み直して発見した男より)                         (1999・10)


煌めいてリベンジ               
                        こまつ座公演『きらめく星座』第222回例会

  悩める私の話を、まあ、聞いて下さい。
 私と、この『きらめく星座』との不幸な関係が、全ていけないのです。
 あれは、今から十三年前。市民劇場でこの芝居が例会となりました。井上芝居の傑作として世評も高く、脚本も読み、自分から感想文集係もかってでて、準備万端、楽しみにしていたのでした。
 ところが、職場で思わぬ怪我。目にソフトボールがあたって眼鏡が割れ、レンズの破片が目に入り、即入院。観劇は吹っ飛んでしまいました。後日、眼帯をして感想文編集の集まりに出るには出たのですが、何も出来なくて虚しく帰ったことを、つい昨日のことように思い出します。
 結局、私は、テレビ放映されたのを録ったビデオを友人に借りて、源次郎を名古屋章が熱演するバージョンで観てしまいました。
 ご存じのように、芝居をブラウン管で観ると、魅力は半減します。それでもいい芝居だということがひしひしと伝わり、なおさら、舞台で観たかったという気持ちが強く残ったことを、これも、はっきり覚えております。
 今回、例会になると聞いて、すぐに、今年度の運営サークル(芝居運営の手伝いをする係)担当は、このお芝居にし、今度は機関誌係を希望しました。そこで、私は、二頁、芝居の紹介コーナーをまとめました。一頁目は、出演者や舞台写真など紹介した定番の頁。これはカンタン。さて、もう一頁をどうしようかと悩み、古いこまつ座の機関誌「The 座」をひっくり返して、「役者紹介」を書きました。
 実は、これまで、一人一人の役者さんにはあまり興味がなく、こうして、チマチマと劇の感想文を書いている割には、役者への言及がほとんどないのはそのためなのです。しかし、必要に迫られて、役者さんの経歴やインタビューを連続して読み、役者への関心が少し高まりました。
 そんなこんなで、なんだか実際は観ていないにもかかわらず、外堀だけはしっかり埋めて、いわば、大耳年増状態。「『きらめく星座』のことなら、何でも聞いて下さい」モードに入っていました。
 さあ、あとはリベンジあるのみ。
 ところが、心の中に変な予感が湧いてくるんです。「もしかしたら、怪我か病気かで、また、観られないのではないだろうか」って。
  で、私は行動を自重し、斎戒沐浴して(もちろん、そんなことする訳ないけど。まあ、気分だけはそのくらいだったと思って下さい)、無事故・無違反、安全運転。快食快便。無事これ名馬? 当日を迎えたのでした。
 客席に座っての感想、「ああ、長い道のりだったなあ。」ー以上です。

 おいおい、肝心の芝居の感想がないじゃないかって?
 では、簡単に。今年度、良い作品に恵まれなかったこともあり、安心して楽しみました。ですが、実は、劇を見ている間中、熟知したお話を、目の前で再現されている感じで、事実の確認をしただけのような、味気ない気持ちを味わったのでした。

 ところで、最後に皆さんにお尋ねしたいのですが、私は本当にリベンジできているのでしょうか。お教えください。                               (煌々と煌めく敦煌)
                                                        (1999・12)

 

 二 〇 〇 〇 年

 

ルカーは神の立場か?  
                             無名塾公演『どん底』第223回例会

 演劇史上、超(!)有名な、ゴーリキーの作品。
 「タイトルからして、最高に暗い。革命がらみで、カビがはえていそう。観ていて、しんどくなければいいけど……」という思いで席についた人も多かったのではないだろうか。
 実際、どことなく空席も多く、そもそも、足さえ運ばず、事前にパスしてしまった人もいそうな感じだった。 
 立派な舞台セットである。開演前から幕はあいており、役者は各々スタンバイしている様子。時々、布団がモソモソと動いていた。
 照明が入り、芝居がはじまる。大勢の人々が出たり入ったり。どうも状況がはっきり飲み込めない。ますます、つらい時間になるのではないかと危惧する。
 中盤になる。徐々に登場人物の立場や考え方がはっきりしてくる。面白くなってくるのは、この辺りからである。途中の殺人の話は、もともと推理劇でもなし、さほどの意味はないようだ。まあ、このエピソードがなければ単調すぎて飽きるからといったレベルである。
 後半、サーチン(仲代達矢)にスポットがあたるシーンや、巡礼ルカー(山本圭)の物語上の重要性が明らかになるにつれ、やはり、このメンバーでのスターは、仲代・山本の二人なのだという気がしてくる。初めの印象で群像劇だと思いこんでいたので、こうしたスターシステムの芝居作りが、何だか逆に古めかしく感じたのも事実。
 ところで、暗転毎に、同じ場所のはずなのに、小細工的に舞台の様子を違えていたのだが、あれはどんな意味があるのだろう。皆、不思議がっていた。誰か、お教え願いたい。
 もともと、思い入れしやすい話でもない。すこし眠ったただけで、後半、割としっかり観られたのをよしとする種類の話だと思えばよい。            (山で荷を運ぶ人は?)
                                                               (2000・1)


神も色香には……
                        前進座公演『狐山伏・鳴神』第224回例会

 『鳴神』の前に演じられる小品だから、てっきり『狐山伏』のほうも歌舞伎だと思っていたら、木下順二の民話劇で、ジャンルの違う作品の併演自体、いかにも前進座らしい。
 『狐山伏』の筋は、いたってシンプル。古典落語にありそうな話だ。
 百姓が嫌で村を出た、ならず者の勘太(山崎竜之介)が、山伏になりすまして村に帰り、一儲けしようと企む。だが、途中、狐を脅かしたせいで、狐から復讐され……という展開。
 登場人物は三人しかいないが、語り物系の演目として、大らかで適切な内容だ。ただ、落語のオチのようにならないのがラストの部分で、村人を騙すという目的が果たされない代わりに、故郷の美しさを発見し、改心するという、実に勧善懲悪的結末で終わる。
 この、一度、都会生活を味わった人間が、田舎に美を発見するというラストの構図に、何やら当時の思想が見え隠れする。この作品が昭和何年頃に書かれたものかは正確には判明していないようだが、もし、これが戦時中の筆だったら、「日本浪漫派」的な日本美の再発見の系譜につながるし、戦後だったら、荒廃し疲弊した日本に対する激励という意味合いが込められていることは容易に想像がつく。
 ただ、そうした、当時の観客が受けた作者からメッセージは、問題意識のない現代の観客には、もはや伝わらないだろう。
 残るのは、こうした時代性とは無縁の、ある意味、純粋に民話の世界への感慨だけだ。それではマズイと考える人もいるだろうし、そうした部分が見えなくなっても、作品自体に民話的感動を与えるものがあれば、作品として自立している訳だから、それはそれでよいと考える人もいるだろう。

 対して『鳴神』は、有名な歌舞伎の十八番。名は知っていても観劇は初めて。もっと荒事系の、凛とした話なのかと思っていたら、途中、山に登ってきた雲の絶え間姫(河原崎國太郎)が鳴神(嵐圭史)を口説くあたりから、えらく世話物的展開となって、それも、かなり下品な内容で、肩すかしぎみであった。神さえ色香に迷うというのは、久米の仙人の例を持ち出すまでもなく、日本人好みのモチーフである。おそらく、江戸庶民には、この下ネタで大いに受けただろうが、「歌舞伎=高級」というイメージになっている現代人が、この素朴で大らかなエッチぶりを観せつけられると、こちらがどう対応していいのか困ってしまう。
  終末近く、怒りの見得の型がこれでもかとばかり披露される。お話の展開としては終わっているので、それぞれの見得をゆったりと楽しめばいいのだが、現代的解釈が身に染みついている我々には、ああも固めて連続させることに何の意味があるのか、ただ引き延ばしているだけではと感じられてしまう。
 おそらくマニアックに、今の型は先代の誰々の型を引き継いでいるなどと役者の工夫を味わうのが芝居観の本道なのなのだろうが、歌舞伎座や国立劇場がある東京ならいざ知らず、そのあたりまでわかっている人は、地方では、ごく少数のはずだ。     (荒らぶるうちの山の神)
(2000・4)


郡山冬果讃
                                     文学座公演『野分立つ』第225回例会

 早くに夫をなくした嫁の佐和子(倉野章子)は、自然に、自分が老いた舅(加藤武)の面倒を見るものと思い、同居しつづけて十五年。そこへ、外国暮らしが長かった娘夫婦(赤司まり子・清水幹生)が戻ってきた。築四十年を経た家をつぶして新築し、そこで父の面倒を見るという。佐和子は、自分が一族にとって赤の他人であることをまざまざと実感させられる……。
 まさしく、この劇は正統な「ホームドラマ」である。舅と嫁・娘の関係を軸にして、老後の問題、嫁の立場、生活の場としての家のあり方、それに孫の生き方など、平和に暮らしてきた四人家族に連鎖的に起こる問題を、実に無理なく描いていく。ちょうど、それは山田太一の『岸辺のアルバム』にも似ている。もちろん、家が流されたのでも、妻が浮気をしていたのでもないけれど、最終的に家族が家族としての絆を見出していくように、この話も、なるように再び四人の絆が確認されていく。
 はたから見れば、嫁は、まるで娘夫婦に長年暮らし慣れた土地をのっとられたかのような結末になるのだけれど(そして、それは、孫娘綾子の現代っ子的解釈によって、しっかり批判されてはいるけれど)、まさに、落ち着くべきところに落ち着いたといった印象だ。
 血はつながっていないが、長年つれそった夫婦のような関係になっている息子の嫁の方に老後を託したい舅、これに対して、急に舞い降りてきたかのような娘夫婦は、確かにこの物語では悪役が割り振られてはいるが、娘の心情告白は納得のいくものであったし、娘なりに親孝行と思って言っている訳で、責められるものでもない。(ほっぱらかしにしていた父の面倒を急に見たいというのだから、土地目当てという面も大いにあることを完全に差し引いての話だけど……)まして、女二人、お互い、気を遣っているにせよ、ケンカしている訳でもない。
 経済的援助の継続が必要なのに、孫息子の邦彦(中村彰男)は、勝手に大学院進学を決めてしまうし、綾子は、自分の立場で言いたい放題、デリカシーに欠ける典型的現代娘。二人共まさしく兄妹である。
 結局、嫁の佐和子こそ、途中、懐疑心に心乱れるが、義父の面倒を見、子供を育て、仕事もこなし、おまけに、新しく買ったマンションのローンも払い続けなければならないし、えらく損な役まわりになってしまったけれど、逆にそれをすべて引き受けて、苦労の顔も見せない、つまりは天使のような人なのである。
 パンフレットに「幕切れは現実離れした夢物語かもしれない」とあったが、だからこそ、生臭くなりがちな老親の面倒の問題、相続の問題を舞台にのせられたのだろうし、最終的には関わる人の思いやりの問題なのだと納得することができるのだろう。 
 義父役は、これまで高原駿雄であったが、亡くなったため加藤武となった。二人の役者の個性があまりに違うように感じられ、如何にもおじいちゃん然とした高原の方で観たかったと思わないでもなかったが、現代のおじいちゃん像としてはバイタリティーのある加藤の方が正解とも言える。高原の方は観ていないが、いずれにしろ、味わいは違ったものになっていたのではなかったかと思われる。 
 今回、一番注目したのは、綾子役の郡山冬果。『きらめく星座』にも長女役で出演していたし、舞台ではおなじみの人だ。決して役年齢(二十歳)と同じとはいえないお歳で、あれだけ見事に演じ、ブーたれ現代娘そのものと観客に感じさせるのは大変なことだ。多くの場合、わざとらしくなり、無理している感じになる。
 明るく元気一杯の演技でステキだった。贔屓にしようっと。
 あれっ。前号の機関誌で、知人が彼女にインタビューして一緒に写っている。
 ちょっと、うらやましい。

 最後は、少々真面目に一言。
 せっかくのタイトルです。もう少し、舞台に季節感を出したらよかったのではないですか……。演出家(藤原新平)さん。               (健康診断要観察項目五つ持ち男)
                                   (2000.6)


キッチンの中心は冷蔵庫                         
                                         地人会公演『キッチン』第226回例会

 結婚十年をすぎたころから、我が家の電気製品がバタバタと死んでいった。電話機、洗濯機、掃除機……。先日、ついに、配偶者と共に我が家に輿入れた五ドア冷蔵庫も、あえなくお亡くなりになり、一時、細菌培養庫と化した。新製品の高いものは、大型化し、省エネだったり、しゃべったり、扉に液晶がついたりしていて、妻は欲しいとせがんだが、「どうせ、なーんにも料理なんぞしないのだから、なーんにもついていないシンプルな普及機がいいのだー」と、妻の機嫌を損ねる発言を敢えてして、特売のを買った。値段は最新型の二分の一である。
  ところで、何が大変だったといって、死亡日が真夏だったことである(聞くところによると、冷蔵庫がお亡くなりになるのは、やはり真夏が圧倒的に多いという)。注文して新しい冷蔵庫がくるまで、冷蔵庫なしの耐乏生活が数日あり、酷暑の中、冷たいものが一切ない生活は、昔は当たり前だったとはいえ、正直、なかなか辛いものがあった。
 毎朝、近くのコンビニエンス・ストアにカットアイスを買いに走り、キャンプで使う保冷サーバーに氷をいれ、麦茶を作って、それでようやく一息ついた。もちろん、新鮮な生野菜は買えず、これはコンビニサラダで何とかしのいだ。
 我々の生活は、今や電気製品に完全に依存している。特に冷蔵庫は「何はなくとも」だ。そういえば、上京して大学生生活を始めたときも、まず買ったのはパーソナル冷蔵庫だった。他の電気製品は、少しずつ揃えてもそんなに困りはしない。地味な機械なので、あって当たり前、特に意識しなかったが、こうして壊れてみて、はじめて有り難さがわかる、第一級の生活必需品だ。
 この芝居、厨房が舞台。正面後方に大きな業務用冷蔵庫がデンと配され、調理台はその前、デザートのパテシェは下手、コーヒー沸かしは上手に配されている。『ザ・キッチン』と題されている芝居に相応しい舞台装置の配置だと、幕開け冒頭、今の私にしか実感できないであろう感想が脳裏に浮かんだ。
  地人会公演とはいえ、ミュージカルの有望株、オペラ出身者まで動員しての一大力作。台詞と歌の繰り返しがミュージカルだと思いこんでいたが、今回は、演奏者を舞台の階上に置き、終始、音楽が鳴りっぱなし、役者は歌しか歌わず、二十人近い登場人物は、ほとんど出づっぱり、場面も厨房のみと、かなり、実験色が強い作品であった。
  この作品で褒められるべきは、何といっても実力ある役者さんたちである。踊りよし、歌よし。これだけパワーを持続できるのは大変なもの。まず、その点を一番に褒めたい。
  逆に、欠点は、音楽が鳴りっぱなしで、五月蠅く、どうしても台詞の意味

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