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 私の「かあてんこおる」U 2001-補録 
金沢市民劇場

  □□  目  次  □□

 

二〇〇一年

 三月『湧きいずる水は』                         
  五月『ら抜きの殺意』                           
   七月『ほにほに、おなご医者』                 
    十月『冬物語』                             
       十二月『崩れた石垣、のぼる鮭たち』       

 

補 録

 『青春デンデケデケデケ』                           
  『月夜の晩の出来事で、武士と呼ばれた侍が』       
     『すべて世は事も無し』                        

あとがき                                            

 

 

 二 〇 〇 一 年

 

花粉症の時期は避けて!   
                     劇団民藝公演『湧きいずる水は』第230回例会

 前回の例会『わがババわがママ奮闘記』(朋友公演)は、子供の頃、よく可愛がってくれた叔母が亡くなり、葬儀のため、観に行くことができなかった。そんな時に限って、えらく評判がよかったりする。よくある「マーフイーの法則」である。
 今回は、三月末の例会。年度末の多忙の中、かなり疲れ気味で、その上、去年から急に発症した花粉症の真っ最中。くしゃみが止まらず、途中で席を外すこと数回。観劇する体調としては最悪だった。
 前半は、襲う眠気との戦い、中盤は迷惑を考え中座して観ていないところがあり、感想を綴ること自体、芝居に対して不謹慎の謗りは免れない。
 で、断片的な感想を書きつけるしかない。

一、まず、モチーフは、まったく作者平石耕一の「地下水脈を信ずるという事」(「民藝の仲間」 309号)という文章に書かれている通りであった。平石は、妻の喘息のため信州に引っ越す こととなった。手頃な物件が見つかったが、近くに産廃処分場建設予定地があるという。御嵩 町町長テロ事件が記憶に新しい時だけに、興味を持って調べ始めたという。そのうち、「己が 出すごみ、処分を怠る企業の製品を無批判に受け入れている鈍感。すでに己の手は汚れている」 という実感を持つ。こうした作者を取り巻く状況を、そのまま作品化した感じである。
二、登場人物の役割分担は明確で、実にそつない。余分な人物はそぎ落として、産廃問題に対す る代表的立場を登場人物にうまく振り分けていた。特に、元大手電器メーカー製造部部長叶秋 夫(梅野泰靖)は、一度、企業産廃問題で汚染元だったという立場にあり、「脛に傷持つ」立 場という設定は、結局、今述べた作者の実感の投影といえ、なかなかうまい人物造型といえる。
三、処分場推進の悪徳企業が、嫌がらせにヤクザをつかうなど、如何にもありそうな手口で、作 者の産廃問題についての勉強の成果が、エピソードや会話の細かい部分などにうまく反映され ていた。
四、この芝居、女性は、島尾毅の妻絹子(日色ともゑ)を代表として、最後まで徹底抗戦派だが、 男の登場人物は優柔不断が目立つ。安藤直治(里居正美)は、長いものには巻かれろ路線だっ たかと思うと、最後に気骨を見せて態度を豹変させたり、毅(伊藤孝雄)は、反旗を翻す決心 がつかず、立場がはっきりしないまま。現実でも、こうしたケースでは、女性は恐いもの知ら ずで反対を押し通すが、男性は、サラリーマン同士ということで変に相手の立場も考慮して徹 底抗戦に至らず、いい加減な妥協をしてしまいがちだと聞いたことがある。同じ中年男性とし て、「さもありなん」と思った覚えがあるので、この話を覚えていた。それとまったく同じ構 図なのが、何だが可笑しかった。もちろん、これも作者は充分知っていて取り入れたのだろう。
五、にもかかわらず、筋自体はあまりテンポよく進んだとは言えず、会話だけで進んでいく傾向 が顕著だ。動きも少ない。案の定、きっちりとした終結はなく、我々に投げかけて終わる方式。 希望は感じられず、危ういまま。どうもすっきりこない。作者は、初稿を廃棄し、第二稿を書 くことで「資料の海からはい上がることができた」と自信を示している。だが、人物が資料を 語っているだけで、本人が言うほどこなれていない。

 世の中、組織の論理が優先なのは、この産廃問題に限らない。私の職場もしかり。職場で嫌な気分を大いに味わい、芝居でも味わう。おまけに、花粉症でぐずぐずな私は、いわばトリプルパンチで、座席に座っているだけでも辛かった。
 ところで、この芝居を見終わってから、友人が脱会する旨、電話があった。会費の値上げも今年ある。観劇環境が悪循環に陥っている。不況の中、減少しつづける会員数。いい芝居に巡り会うことしか脱却の妙薬はないはずなのだが……。 (この芝居にとって、最悪だった観客より)
                                                 (2001.3)


言葉を糺す人がいない。
                   テアトルエコー公演『ら抜きの殺意』第231回例会

 上につく動詞の種類によって「れる」「られる」を使い分けるのは、古典文法の「る」「らる」に区別があるのと同じで、日本古来から区別のある言葉。
  古典の動詞の種類は九種類、現代語は五種類。二段活用がなくなってシンプルになった。この流れでいくと、あと三百年くらいたつと三種類になるのではないかという予測をした国語学者の文章を読んだことがある。「ら」抜き言葉も、こうした単純化路線の一環で、日本語が痩せてきた証拠である。
 先日、カナダの方と話をしていたら(もちろん、向こうも結構日本語がわかり、こっちも日本語に大量の英単語を混ぜる式の会話です)、彼が「日本語は、ものに対する形容は多いけれど、感覚や感情に対する形容に乏しいのではないか」という指摘をしていた。暑いは暑いとしか言わない、しかし、英語では、「オーブンのように」とか「沸騰したかのように」とか、表現に工夫をする、それがないというのである。そういえば我々、そんな、気の利いた言い方をしようなどと心がけてはいない。「あぢぃー」とは言うけど……。(え、言わないって?)
 私は少し考えて、こう答えた。
 確かにそうかもしれない。しかし、もともと元々日本語の特質としてそうだとは言えない。古典には沢山の形容詞がある。現代語訳すると「優美だ」とか「かわいい」とかになってしまう同じような意味の単語が何種類もある。訳ではニュアンスがでないけれど、当時はそのあたりしっかり使い分けがされていたはずである。ということは、時代が下がるに従って日本人は言葉をロスト(!)していったのだと。(このあたりは、もちろんぺらぺらな方の通訳つき)
 つまり、我々は言葉をどんどん忘れている上に、工夫をする努力もしていないことになる。日本人は言葉を大切にしていないのだ。
  食堂でうどんを食べながらだったので、次に食べ物の話題になり、彼が河豚を食ったことがないと言い出し、どんな味だと聞かれ、「あっさり」した風味だと答えたので、その場は大混乱に陥った。
「どんな意味だ、その「あっさり」っていう日本語は?」
 そこにいた日本人一同、ハタと困った。ライトテイスト、ナチュラルテイストなどの訳を考え出したが、しっくりこない。では、反対語は何かという話になり、それは「こってり」だということで、いくつかこってり味の食べ物を並べ、という味の反対だと説明した。英語では、それを「リッチ」というと彼。では、その反対はと問うと、「マイルド」だという。なんだかコーヒーみたいだ。でも、マイルドコーヒーを「あっさり」味とは言わない。結局、英語ぺらぺらな人が、タングにテイストが長く残るのが「こってり」で、「あっさり」はその反対という説明を考え出し、そこにいる一同、ようやく安堵したのであった。
 こうなると英語力というより、言語感覚が鋭いかどうかの問題だろう。
 さて、この芝居、頑迷に正統日本語を貫こうとする国語教員海老名俊彦(安原義人)が、ら抜き男(落合弘治)や、相手によって言葉遣いコロコロ変わり女(雨蘭咲木子)、主語無し「てゆう〜か」男らがいる「場」へ放り込まれたらどうなるかという言語的状況がミソ。
 言葉は権力なり。相手の弱みを握ることで自分の意見に従わせようとする。なるほど、どういった言葉を使うかというのは、言葉それ自身の問題ではなく、人間関係の問題なのである。言葉は支配者が握るという古典的命題がここでも生きているようだ。お互い弱みを握ることで、正統男がら抜き言葉を、ら抜き男が正統言葉を不本意ながら使わなければならない羽目に陥るところが、喜劇としてのミソ。よくできた台本(永井愛)だ。鶴屋南北賞を受賞しているだけのことはある。(もっとも、同じく永井の『見よ、飛行機の高く飛べるを』は、平成九年度文化庁藝術祭大賞を受賞しており、受賞が作品の質を保証していないのは、先刻ご承知の通り。)
 ところで、日頃気になる言葉がある。スーパーの店員が使う、「千円から戴きます」の「から」。どう辞書をひいても出ていない。千円は動作の起点ではありません。あれは、おそらく「千円戴きました。そこから使った分を差し引いて、お釣りを差し上げます」の略なのだ。だから、「ちょうど三一五円から戴きます」とはどんな姉ちゃんでも言わない。「から」を使うことで、「私はお釣りがいることを知っています、ご心配なく」というニュアンスを出したかったのだろう。「その「から」の使い方、違うよ」と言いたいのだが、スーパーマーケットで変なおじさんしても仕方がないと、いつもぐっと堪えている。
 フランスが言葉に五月蠅いのは有名。日本はあまりにも寛容すぎないか。この芝居、「言葉は人なり」なのだから、もっと自分に正直に使おうという安全路線の結論だったが、私には全然物足りない。もっと保守的結論がほしかった。
 最近、言葉を注意する大人がいなくなったような気がする。もっと「その言葉の使い方違うよ」とビシバシ文句を言おうではないか。
 え、何だかこの話の国語教員の意見のようだって? 
 当然です。私は国語教員なのだから。
 この芝居、華がなかったと漏らされた方があった。でも、よく考えてみて下さい。国語教員が主役の話に華なんてある訳ないじゃありませんか。              (小言幸兵衛)
                                   (2001・6)


一人の命を救おうと思っても
                 劇団文化座公演『ほにほに、おなご医者』第232回例会

 『荷車の歌』『おりき』『サンダカン八番娼館』など、文化座には苦難を乗り越え生きる女性を描いた作品が多い。もちろん、看板女優の鈴木光枝にあわせての選択だが、どれも彼女の熱演とともに忘れられない舞台となっている。今は、その屋台骨を娘の佐々木愛がしっかり受け継いでいて、揺るぎない。
 舞台冒頭、老婆姿で出てきた時、あまりに母光枝そっくりなのに驚いた。特に、顔を前につきだした時の表情などは瓜二つ。体の動きは、まだ、若い人が老婆を演じているという感じが残っていたが、観続けて強く感じたのは、そうした類似は、親子のせいばかりではなく、母の演技の方法論を、彼女なりに吸収した結果、つまり、研鑽の賜物なのだということだ。『サンダカン八番娼館』のような母娘競演の舞台によって、彼女は舞台人の大先輩としての母を見続けた。それが彼女の今につながっているということなのだろう。
 小説ではなく、現実の女性をレポートした作品(志賀かう子『おなご医者』)を下敷きにして出来た台本ということでは『サンダカン八番娼館』、プロローグで老婆となった時代を描き、本編で若い頃へと遡って、以後、人生の重大事件をピックアップして描いていく手法は『荷車の歌』と同じで、外部発注ではない、劇団の堀江安夫の脚色は、このあたり手慣れたものである。
 久賀タエ(佐々木愛)は、岩手の貧乏士族の娘。娘涼子(桐山京 子役 工藤祐衣奈)を出産したばかりだが、医者になるため、親の反対を押し切り、赤子を故郷に置いたまま上京、のち宇都宮で開業する。男尊女卑の風潮、私生児と揶揄され、ひねくれる娘への感情、娘の早逝、戦争の荒波と、明治に職業婦人として自立を選んだ、当時、最先端だった女性の、苦難ではあったが明るく逞しく凛として生きた女の一代記である。
 伏線が実に効果的だったのも今回の特色。数え歌や懐刀、草編み飾りなど巧みに配され、その多くが、母子三代に連なる系譜、母子の証しとして、観客の胸を打つ話に仕立てられている。子を産みはぐくむ母という立場、命を守る医師という職業的立場、己を大事にし磨くことこそ真の武士道と喝破する士族の娘としての矜持。命の尊さを守ることへの強い意志は、その三つの、どの立場にも共通したもので、正に盤石である。そんな彼女の主張だからこそ、浮いた主張にならず、観客は心から耳を傾ける。
 時に、如何にも新劇らしい正面からの政治体制批判もタエ婆さんにしっかりさせていたが、あくどい感じはしなかった。
 「こっちが一人の命を救おうと躍起になっていても、原爆で何十万人がどんと殺されたら……。」という台詞などは本当に実感の言葉と思える。
  女性だというだけで、性差別や偏見をもたれ苦労する話は、時代がよくなったとはいえ、そのミュニチュア版くらいは経験し感じている現代の女性には、実に共感を呼ぶ話だろうなと、男故に、少々客観的な気持ちで会場を見渡せば、案の定、あちらこちらで涙を拭いている光景が……。
 観客のほとんどが中年以上の女性たち。その上、セーラー服が似合う孫の順子(大田原理香)でさえ、換算すると、今年六十六歳になるはず。つまり、自分たちと同世代。かつて婆ちゃんに聞かされたような内容なのだ。
 あっちでズルズル。こっちでズルズル。
 それでも、全然湿っぽくないのは、何があっても前向きで毅然とした態度でことに向かう彼女の天性の明るさのせいである。
 稿者にも、タエ婆さんと同じく昭和四十八年に死去した祖母がいた。享年八十三。タエ婆さんが九十四歳だったから、十一歳ばかり若い世代だが、明治の女性特有の共通点が感じられて、長いこと記憶の底に沈んでいた祖母のことがこの芝居中脳裏にちらついていた。
 ただ、そんな感じで観ていて、違和感をもったことが二つ。
 いくら喜劇的要素を取り入れているとはいえ、明治の年寄りはVサインなどしません。Vサインが定着したのは、私たち中年が若かりしころの話です。
 もうひとつは、冒頭部の三波春夫『ちゃんちきおけさ』。手回しSP蓄音機で流して途中で止まっていたが、あの曲が流行った昭和三十二年は、もうLPレコードの時代ではなかったかしら? どうでもいいディティールなのだが、気になって、今夏オープンしたばかりの「金沢蓄音器館」(金沢市尾山町)に行って、そのあたりを尋ねてみた。対応して下さったのはボランティアの方とかで、残念ながら、はっきりした回答は得られなかったが、戴いたパンフの「蓄音機年表」によると、どうも、SP・LP混在期だったようだ。
 それではと、今度はインターネットで「蓄音器」を検索すると、案の定、趣味の人がやっている蓄音器マニアのホームページを見つけた。そこで、掲示板に質問をしてみた。返事あり。「当時すでにLPが主力になりつつあったが、まだ家庭にはSP蓄音機が多くあり、SP盤も製作していた可能性が高い」とのこと。どうやら、これは私の思い違いだったようだ。
 ただ、クラシックならいざ知らず、たかが数分の歌謡曲で、途中でゼンマイがきれるのはやはりおかしい。あれでは、最初からほとんど捲かずに針を落としたことになる。昔を強調するためのちょっとした小細工なのだろうが、そんなところに違和感を持つ観客もいる。
 舞台は小説と同様、細かい事実の積み重ね。あれと思った途端に、そのことが気になって、意識が舞台から離れる。Vサイン一つ、ゼンマイ一つで、一瞬、芝居が壊れるとは、ほにほに、恐いものだ。                           (ホントにホントに、女性医師)
                                   (2001・7)


『南総里見八犬伝』の感覚で……
                  幹の会+リリックプロデュース公演『冬物語』第233回例会

 平幹二朗と前田美波里の二枚看板によるシェークスピア劇。久しぶりに、如何にもスター中心主義の「商業演劇」を観た気になったというのが、大掴みの感想である。
 もちろん、看板抜きの、全員一丸となって取り組む芝居も素敵だけれど、やはり、スターには華があって、出てくるだけで舞台が華やぐ。看板に頼り切った、スターを引き立てるだけの芝居は御免蒙りたいが、そこはそれ、脚本がシェークスピア。枠組みがしっかりしていて、引き立て芝居に堕ちる心配はない。スターと古典的名作。この組み合わせが、商業演劇としてきわめて安定したものである理由が、今回、遅まきながら理解できた。
  脚本の完成は、一六一〇年。シェークスピア晩年の作品。有名な歴史劇などに較べると、知名度は低く、一応、私も題名を知っていた程度。
 「ザ・ウインターズ・テイル」という題名は、何とも乙女チックで、今風のテレビドラマのタイトルと近しく感ずるのは、逆にテレビに毒されているせいかもしれない(こう書いて、今、気がづいた。そういえば、何とか夏物語というテレビドラマがあった。その印象があるからかも?)
 いずれにせよ、シェークスピアの作品らしくないタイトルだなと、漠然とは思っていた。
 だが、それは、この作品が大上段の内容ではなく、日本の古典でいう、作り物語系の話だからというのは、観劇後、関係資料を読んで知ったことで、観ている最中は、なんて分かりやすい話なのだろう、そういえば、「上演にあたって」(幹の会)の中に 「歌や踊りを随所に織り込み、楽しい作品に仕立てた」と書いてあったので、そうした努力の賜物なのだろうと、勝手に演出も担当している平幹二朗の努力の方に引きつけて考えていたのだった。
 今、稿者は「作り物語系の」という表現をしたが、正しくは「ロマンス」という分野。これは、ロマンス語で書かれた中世の通俗読み物のことで、誇張や理想化が強く、内容は、恋愛物、冒険物などが多かったという。当時は低級なものと見られていたが、浪漫主義の興隆や、二十世紀のアメリカ文学が、この流れを継いでいることなどで、近代文学のルーツの一つとして、近年、再評価されるようになった(「文藝用語の基礎知識」(至文堂)より)。
 この説明の中に、「滝沢馬琴の読本類は、わが国におけるロマンスの代表」(川崎寿彦)という記述があって、これで私は、イギリスの「ロマンス」というジャンルが大体どんなものなのか、実感できた。つまり、NHKの人形劇『八犬伝』を観る感じで観ればいいということである。もちろん、薬師丸ひろ子・真田弘之主演の映画の方でもいいけど。(そういえば、あの映画、夏木マリが血の池風呂から出てくるときの後ろ姿は妖艶だったなあ……と、どんどん脱線。)
 まあ、手っ取り早く言うと、この物語の、王の嫉妬のモチーフは、「玉梓が怨霊」みたいなものである(?)と思えばいい訳だ。
 シチリア王リオンティーズ(平)は、ボヘミア王ポリクシニーズ(渕野俊太)とは幼馴染みの親友だったが、自分の妻ハーマイオニ(前田)との仲を疑い、身ごもっている子も彼の子ではないかと邪推する。結果、親友を失い、妻と最愛の王子は死亡、産まれた娘バーディタ(麻乃佳世)は捨てられる。神託によって自身の過ちに気づいた王は悔恨の日々を送るが、娘は成長し、ポリクシニーズの王子と恋仲になり……という展開。
 後半、めでたしの大団円になることは予測できたが、最後に、死んだはずの妻までも復活してくるという、如何にも演劇的なエンディングまでは予想できなかった。侍女が王妃を十六年間も匿っていたというのが、一応の現実的説明にはなるが、そもそも、あの場面では完全に死んだ扱いになっていたし、娘も見つかり、ボヘミア王とも和解し、双方の子供が恋仲となり、全てが後にうまくいくことがあらかじめ予想されていたはずもないから、理屈としては破綻している。だが、それを矛盾としてあげつらう人はいまい。
 ラストシーン、再会した娘を抱く前田の姿は、まるでキリストを抱くマリアのように神々しく、一幅の西洋宗教絵画を観る思いだった。
 日頃、前田の演技は、彼女の体格同様、どうも大味で……と思っていたが、こうした西洋の王妃役は、見た目バタ臭い彼女には、長身の平の横に並ぶと特に似合っていて、適役という感を強くした。
 「コーラス」というらしいが、全てを知っている神の視点を与えられた、「時」という名の物語の進行役が出てくるのも、話が平板になるのを避けるのに効果的だ。もちろん、これはシェイクスピアの功績。二幕目冒頭、高下駄で身長を伸ばして出てきたコーラス役の平は、王役とは違う演技を見せてくれたし、同様に、前田も、筋とは何の関係もないが、踊り子役で純粋に踊りを披露して、得意の足あげダンスを堪能できた。観客を飽きさせないよう、娯楽性に気を遣ったという意図は十分窺えた演出だった。
 帰宅の道すがら、前を歩くご婦人方の会話が聞こえてきたが、「よかった」の連発であった。やはり、ご婦人方は、こうした華のあるスター芝居がお好きなようだ。ただ、看板二人が舞台に上がっていない中盤部の道化の部分はお気に召さなかったようで、あそこはない方がよいという意見だった。
 ただ、どうなのだろう? 道化はイギリスの伝統。芝居にも道化の部分が多くあるし、英国宮廷においても、「フール」という道化役(古来「弄臣」と訳す)がいて、無礼な言動も公許され、それがバランスのとれた政治には必要と考えられていた。『リア王』第一幕でも、この弄臣は大活躍する。
(これらは、渡部昇一「道化の効用ー参議院を「道化の府」とせよ」(『文科の時代』所収)からの知識。渡部の著作は、この後、タレント参院議員青島幸男が国会質問で、佐藤総理に「総理は財界の男妾だ」と言って物議をかもした事件を取り上げ、彼は、つまりは日本の政治におけるフールなのだという結論につながっていく。成程、インテリは政治ゴシップも実に教養深く論ずるものだと感心した思い出があって、で、その前説の英国の話もよく覚えていたのである。)
 歌舞伎などでも、主役の衣装替えや休憩のための場もたせに、こうした仕掛けをすることでもあるし、観客としては、楽しくつき合えばいいのではないだろうか。

  最後に、芝居を観ていて湧いた雑念を、正直に告白してこの文章を終えます。
 不倫は文学最大のテーマ。身分制度や家の制度が厳格だった昔、不倫は世継ぎの問題なども絡んで、社会や体制に反逆する、きわめて反社会的行動だった。日本も戦前まで犯罪だったことは、ご承知の通り。今は道徳上・感情の問題のみ。
 実は、今のアッケラカン娘がこの芝居を観たら、なぜ、他の男とちょっと仲良く話しをしただけで、こんな深刻なことになっちゃうのか、まず最初から、「あほくさいおっさんや」で話が終わってしまうのではないかと、現代娘の反応を予想していたら、スカートつんつるてん娘たちの姿が脳裏から消えなくなって、追い出すのに大変だった。
 なんで、シェークスピア劇観ている時に、そんな映像が浮かんでくるんだろうと、スケベ中年は、実は観劇の間中ずっと困っていたのである。        (フール・オン・ザ・ヒル)
                                                       (2001・10)


怒れ、親父。
                 文学座公演『崩れた石垣、のぼる鮭たち』第234回例会

 久しぶりに非現実的設定の芝居を観た。一九八九年に観た『夜の笑い』(青年劇場)以来だろうか。あれは、新築のマイホームを国籍不明の軍隊に攻撃され破壊される話だった。今回は、三年間、雨が降り続け、大陸が水没しつつある近未来の話。
 再建された城郭が見える料亭「二の丸」。今は、オーナー板前の息子(高橋克明)の下で働く元教師の親父(加藤武)は、教え子から同窓会をしたいと連絡を受け、安請け合いをして半年ぶりに店を開くことになったのだが、この異常気象では、まず食材の心配からせねばならず……という導入部。
 気になったのは、息子が、まるで他人と喧嘩をするかのように父を罵倒すること。
 いくら、過去に人生の失敗があって、息子に頭が上がらず、従業員扱いされているとはいえ、ああも偉そうにされたら、あの年代の親父は、聞き流すことなどできず、怒り出すのが普通だ。ところが、この親父は腹も立てず、そのまま話が進む。あの世代の人たちの考え方が全然わかっていない。そこにまず違和感を持った。
 台本書き(土田英生)は、気がつかなかったのだろうかと、「作者紹介」の欄を観たら、三十すぎのお方。家父長的権威の失墜した後の育ちで、おそらくご自身、親の権威主義の被害にも遭わずに大人になった世代なのだろう。自ら実感したことのない関係を、虚構の世界に描く難しさが出た感じだ。
 反面、マドンナ先生(柳原桜子)の、如何にも先生らしく、何でもうまく纏めようとする言動は実にうまい。料亭が流されようとした時、彼女がいなかったらもっとパニックになっていたのは必定で、教員としての存在感が感じられた。そうそう、四十年ぶりに教え子にあった時、顔と名前が一致していないにもかかわらず、知ったかぶりしてしまうトンチンカンも教員らしい。
  異常気象ーあと一年ほどで人類絶滅かという近未来設定だけが非現実で、後は料亭での同窓会という、実に日常的光景。日常に一点非日常を入れるというのは、お芝居で「人間とは何か」を照らし出そうとする時、もってこいの設定だ。
 こんな時にも合羽の色でファッションを忘れないものだとか、未来のない荒れる若者世代の精神を二重人格のアルバイトの若者で表したり、かつて川に流され死んだ同級生への心のわだかまりや、女生徒に手を出して教師を辞めた親父は、実は今も若いバイトの仲居にやはり手を出していて、人間は年をとっても変わらないものだとか、色々のエピソードがモザイク模様に出たり入ったりして話が進む。そして、最後、中州に閉じこめられた皆が生還できるかという点で一つになり、一応、収束する。
 話題の一つ一つはよく出来ている。だが、全体として筋の通ったものはなく、少々、まとまりに欠ける。
 最後、カラッと晴れ渡って大団円でもいいものを、また雨雲が近づいているとのニュース声を流す。作者の気ままで、話を逆転させているだけのように感じられた。話の作りがその場限りなので、どっちでもいいことになってしまい、この暗示のせいで、底の浅さが露呈してしまったと感じたのだが……。
  実際の姿が判らないまま再建された城、その下には本物の崩れた石垣。「何かに目をつぶったまま表面だけをきれいにしてきた」(作者「上演パンフ」より)現代日本の象徴だ。産卵という目的のため川を上るのは鮭、上流に何があるのかわからないまま泳いでいくのは人間。タイトルの意味は、作者がこうして説明してくれていて、特に稿者が足すべきことはない。ただ、芝居の題としては新鮮である。
 また、鮭の切り身をおでこに載せた加藤武のさかさま写真(撮影 三橋純)のポスターも秀逸。舞台美術も、階段が揺れるなど大仕掛け。始まる前、客席の照明の点滅で雷を表現するなど演出(西川信廣)のアイデアも豊富だ。
 で、結論。
 台本はそうでもなかったが、その他は大変凝っていて、大いに楽しめた。
(今年、「五十間長屋」が完成し、「夢みどりいしかわ」なる緑化フェスティバルも開催され、観光誘致路線をひた走る、今の金沢城公園を観たら作者は何というだろうかと思った、八歳年上の男より)                                                 (2001.12)
(画像は文学座サイトより転載)

 

 補 録

 

演出の見事な仕事ぶり 
                 文化座公演『青春デンデケデケデケ』石川県高文連文化教室

 直木賞受賞作、芦原すなお『青春デンデケデケデケ』(河出書房新社)の舞台化。脚本は小松幹生。舞台用に原作をかなりアレンジしてある。
 昨年、下北沢駅前劇場で初演されて、圧倒的な好評を得、今年、東京で再演された後、地方公演をはじめたばかり。この六月に、石川県下二十一校の高校生が観ることになっていて、舞台として、一番勢いのある時に鑑賞することが出来たことになる。
 招聘元となる石川県高等学校文化連盟「文化教室」は、高校生に良質の芸術を味わってもらおうという趣旨で設立されたもの。この制度のおかげで、毎年、県内の高校生は劇か音楽かを鑑賞している。以前は、杉村春子など一流どころが、県内巡演してくれていたが、近年は予算の関係もあって、正直なところ、二流どころも多く、もはや、その役割を終えたのではないかという批判も聞こえてくるようになった
 文化座の芝居といえば、何と言っても、鈴木光枝が大看板。私は二週間後に、彼女主演の『サンダカン八番娼館』を観ることになっている。パンフレットを見る限り、出演者・スタッフとも重なっていないようだ。想像するに、文化座という看板を背負った幾つかのユニットが別々に活動しているのだろう。昨年の文化教室で観た、二期会のミュージカル『サウンド・オブ・ミュージック』が今ひとつだったこともあって、「また、二軍の公演か」と、正直、あまり期待していなかった。
 しかし、今回、これほど素晴らしい舞台を見せられると、自分のこうした偏見が恥かしくなる。
 お金さえ払えば、地方でも一流どころを観ることが出来る世の中になってきたとはいえ、文化教室を廃止すると、特に芝居好きでもない大多数の学生が、感受性豊かなこの時期に、劇の感動に一度も出会わぬまま大人になってしまうことになる。
 この制度、他県にはほとんどないそうで、石川県だけが無理して続けなくてもよいのではないかという話も聞く。しかし、教育・文化の質を下のレベルにあわせるのではなく、積極的に評価する方向に、意見を統一していこうという発想こそ大切なのではないだろうか。
 そういえば、その昔、私が高校生だったころ、やはり、この文化教室で、遠藤周作の『黄金の国』を観ている。名作『沈黙』の舞台化で、キリシタンの転びをテーマにした作品だが、次の日、芸術とはまったく縁のないような顔をした(どんな顔?)とある音楽教師が、「演劇で、ああ深いものを表現できるのかと、わたしは感激しました」と、授業中、感想を述べていたことを今でも覚えている。おそらく、この人にとっての演劇とは、ヘルスセンターのチャンバラ剣劇程度だったのだろうと思ったことも……。
 ずっと後に、同級生にこの芝居の話をしても、大抵の人は覚えていた。つまりは名舞台だったのだろう。このことだけでも大変なことではないか。

 少々、声高になってしまったようだ。
 この物語は、高校時代、ベンチャーズのエレキサウンドに痺れた、ちっくん(津田二朗)、坊主の息子、合田富士男(成田明哉)、アカシノタコ(青木和宣)らが、電気工作大好き人間谷口静夫(米山実)らの協力を得て、苦労を重ね、楽器を揃え、学園祭で発表するまでの青春群像を描いたもの。典型的な青春物語だ。
  中央のクルクル廻る廻り舞台は、もちろんアナログプレーヤーのターンテーブルをイメージしている。実際には、モーターで回転できるのに、自動で使われたのは、中年となった現在の場面のたった数回。高校時代の場面では、役者さんが人力で廻している。あの時代の表現として秀逸なアイデアだ。ターンテーブルは、ある時は、雨のそぼ降る道になり、ある時は工場のオートメーションになりと、大活躍であった。
 暗転を極力使わず、脇役の女性がそのまま黒子となって舞台道具を捌ける演出も新鮮で、全然、違和感がなかった。役者が舞台で着替えをするので、観客は最初、一様に驚いたが、これも逆転の発想。あの頃に戻っていくことを表現する手段として新鮮だった。決してギミックになっていないところがいい。
 音楽も懐かしいものばかりだ。懐かしがっている人たちは、三十代後半から五十代の人たち(つまりは引率の先生のほう)で、年齢的には二十年ほどの幅がある。本当の舞台の時代設定は、一九六〇年代半ばだから、その当時の高校生ということは、現在、四十代前半の人向きの話だということになる。
 だが、多くの観客に自分たちの世代だと実感させるために、一番古い曲は、一九五〇年代のロックンロール初期の名曲『ジョニー・ビー・グッド』あたりから、新しいものは、BGMで流される由紀さおりの『夜明けのスキャット』あたりまでの曲を使っている。つまり、ビートルズを真ん中にして、前後十年ほど幅を持たせた選曲をしている訳だ。なかなか巧い工夫である。
 芝居では、実際に役者が『パイプライン』などのベンチャーズメドレーを演奏したが、これがなかなかの腕前で、生徒には新鮮な音楽に映ったようだ。役の上とはいえエレキが弾けなければできない芝居で、役者は何とも大変な商売だ。
  舞台は、最後に、また、それぞれの職業の服に着替えて、現実の大人に戻っていく。しかし、その時、アカシノタコは、黒子に渡された髭をつけることを拒否するのである。私はこの小さな仕草に、演出家の思いが込められていると直感した。
 彼は人生に疲れた自分に戻っていったのではない。確かに、現実は以前と同じかもしれない。けれど、彼は最初に登場してきた時の彼ではない。大げさに言えば、彼の魂は、昔の仲間との再会で、新たに再生したのだと表明したかったにちがいない。

 その昔、演劇のことを何も知らなかった頃、私は、演出と舞台監督の区別さえつかなかった。高校生の舞台の制作に携わるようになって、演劇の成功失敗のほとんどが、演出の善し悪しによって決まることに気がついた。役者の実力、スタッフとのチームワークがあるレベルを超えると、後は、演出家の腕次第というところがある。今回の芝居の成功の全てを演出に帰することはかなり危険だが、少なくとも、演出がこんなに効いている芝居はそう多くない。感心の連続だった。
 演出家には、その戯曲の素晴らしさの本質を理解できる「感受性」がい

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