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 この頁は、戦前・戦後のベストセラーについて論及した論文を掲載しています。

遅々として作業が進まず、過去に書いた論文のアップが遅れていますが、徐々に充実させていくつもりです。申し訳ありません。  

  (論文)検証ーベストセラーの構造(U)ー吉本ばななを中心にー

(論文)検証ーベストセラーの構造(U)
    ー吉本ばななを中心にー

 

はじめに

 

 文学書のベストセラーの流れを見ると、時折、突出的に文学書がベストセラーの上位に名を連ねる時期がある。例えば、昭和三十年代前半、五十年代前半は、新進作家の作品が多くの読者に迎えられた、ある意味で<幸福なる文学の時代>であった。この現象は、その時期その時期に、社会が文学作品に注目する何らかの要因があったためであり、真の精読者が増加した訳ではなかった。このため、多くの場合、ブームは数年の後、鎮静化していく。
 近年では、昭和六十二年からの数年間がそうであった。俵万智『サラダ記念日』が短歌ブームを作り、村上春樹『ノルウエーの森』が、濃緑のシンプルな自著装丁で女性のファションにまでなったことは記憶に新しい。そこで、本稿では、前稿(註1)の基本認識に立ち、読書環境の変質を視座に入れつつ、吉本ばななの小説を例に検証することで、この時期のベストセラーの状況を分析していきたいと思っている。

 

一  出版流通の変質

 

 文学の隆衰と言っても、ベストセラーという視点から見ると、それは書店に置かれた<書籍>という商品の販売実績の謂となる。そこで、まず、本を取り巻く出版流通の状況について概略をまとめたい。
 昭和五十年代後半以降、文学の退潮は、書店の文学の棚の縮少という実に現実的な形で顕在化した。専門書店街等では固定客中心のため目立たなかった面もあるが、地方都市では実に顕著となった。自動車が溢れ、駐車スペースの確保が困難な市街地は、相対的に商業地域として地盤沈下を起こし、地方都市の有力書店は郊外型店舗に経営を転換せざるを得なくなった。チェーン化、多店舗化に成功を収めた書店は、この郊外型のノウハウを武器に、全国展開するようになり、地域密着型で成り立っていた地方の中核書店も悠然としていられなくなった。郊外型店舗は敷地の多くを駐車場にし、食品スーパーとほとんど同型の店舗構えとなった。車でも視認できるように、「本」と大書した看板が目立つようになったのもこの頃のことである。郊外型店舗は、駐車スペースの維持など、性質上、利潤追求型の商売であり、地価高騰のあおりを受け、市街地立地の書店も、少ない売り場面積で効率的に利潤を追求せねば収益を上げられない事態となった。
 その結果、多くの書店の本の配架はどこも似たり寄ったりとなる。正面に雑誌類、その奥に文庫本、ビジネス書、漫画コーナー、サイドの壁に、コンピューター関係、旅の本などの実用書が並ぶという形態がそれである。利潤の多くは、雑誌、新書、文庫と実用書で占められ(註2)、書店の特色が出し難くなった。業界としての市場成長率は低迷、昭和六十年前後以降、雑誌が書籍の売上げを超え、その差を広げている。これは文芸書の不振ばかりでなく、これまで書籍部門を支えていた学習参考書部門が低迷し始めたことも大きな原因とされている(註3)。
 従業員も、スーパー型店舗などでは、読書案内人としての専門性は無用となり、レジ業務、注文発注業務等が出来ればパートで充分となって(註4)、商品を販売するという点で、他の分野の販売業との差がなくなった。地方の大手書店等では、きめ細かに職場を廻り、注文をとる営業(外交員)が、依然として活躍しているが、近年の多角経営の流れからか、従来より、多くの書店でなされてきた文房具販売の他に、OA機器、楽器、果ては食品等の贈答用品まで売り歩く状態となっている。文化を売る者としての自負は、過去のものとならざるを得なくなった。また、書店の専門性が消失した結果、読者が書店で購入する意味がなくなった。コンビニエンスストアが雑誌を目立つ所に置いて、集客を図っているのは周知の事実で、雑誌の販売実績も無視出来ないものとなり、書店業界自体が弱体化してきている。
  出版サイドも、文庫競争などで読者が低価格に慣らされ、新刊書籍にも低価格化を要求するため、価格は物価に比べ上昇率が悪く、逆に学術書など少量生産書が高価となり、二重構造に苦しむこととなった。単行本に関しては、必然的にリスクが大きくてもベストセラーとなる書籍に腐心することとなる。本を商品として如何に魅力的なものにし、書店を訪れた消費者に手に取ってもらうか。これまで職人芸的な勘に頼っていて、いい内容であれば売れる、といった素朴な信仰しかなかった業界に、マーケット分野、装丁等商品パッケージ概念の発達を促したという面では進歩した側面もあったが、その結果、話題性のある企画の同巧異曲の本が、多種類、同時期に出版され、潰し合い的な様相を呈してきている。
 種類が多いため、特に発売直後の売上のみで判断される傾向となり、かさばる単行本は早々に返本の運命を辿り、重版率が低下してきている。書籍の返本率はこの時期、三割を超えたとも言われた(註5)。最近は文庫も新刊依存が高まり、勝負は約一週間で決まると言われる。よい物を安く恒久的にという文庫の意義は消滅し、単に判型の違いしか意味がなくなってきているのも周知のことである(註6)。
 ある本をベストセラーにしようとする時、絶対条件は、如何にも売れていますという風に、同じ本を何冊も平積みにし、目立たせることである。ところが、大手の出版社を除いて、売れるかわからぬ新刊を、全国書店全てに何冊も配本することは不可能である。仮に、全国の総書店数と同数の初版を発行したとしても、各店舗一冊となって、棚の中に入れられ、本の背しか読者に見せないことになる。このため、出版社では、他の業界では、最早、常識となっているが、特定の店に集中的にスポット配本して様子を見るという方法をとる。こうして地方の小書店等では、初版さえ配本されないままという事態が慢性化していったのである。本は予約ということになるが、実物を手に取って確認出来ない不安感が読者には残り、また、数年前に出版されてカタログに残っているものなどは、読者の目に触れないまま埋もれていくといった事態が恒常化していく危険性も大きくなっていった。
 この対策として、出版情報雑誌の創刊、地方出版社の本の流通制度の確立、出版社への直接注文制度、出版社独自の友の会的な組織の新設、秦恒平のように、著者自身、自著を直接販売するといった方法が試みられたが、部分的な効果は期待できても、流通の抜本的解決とはなっていない。雑誌も含めた出版総数は、年々伸びているので、ますます多品種少量販売となっていく現状から、現在の機構のままでは飽和状態を迎えているといってよい。このように、多メディア情報化時代の中で、見え難くなっている部分が多くなっていった。
 書籍は、以前の<文化>の意味を失い、情報産業の一商品と認識する他なくなった。「情報通信産業のプリントメディア部門」(註7)と耶喩される位置にシフトしたことをまず認識しなければならないだろう。この点が、一九八〇年代に入ってからの最大の変化と規定して反論はあるまい。こうした中で、我々は文学を考えていかなければならない訳で、ある意味では、実に虚しい作業であるとも言える。文学書は、郊外型大型書店の場合、ほんの一角を占めているにすぎず、新刊本だけが平積みされているが、棚置きは、実用書、趣味の本の数分の一の所が多い。この売り場スペースの割合が、そのまま売れる本とは短絡できないが、文芸書の読者にとって寂しい現状となりつつある。
 以上、業界関係書の指摘を参考にしながら、主に出版流通サイドから状況を羅列してみた。煩雑ゆえ、数値等を挙げて論証しなかったが、諒とされる事柄ばかりではないかと考える。こうした状況では、評価の定まった文学の良書に読者が書店で出会う機会がなくなり、話題本を追っかけることのみが<読書>の内実となる。文芸書からは現在も多くのベストセラーがでているが、これと真の読書人の増加とは無縁であるのは、以上のような変質から当然であり、全体的には、文学は大きな退潮を余儀なくされていると言えよう。

 

二 読者の変質

 

 こうした出版流通の変質は、無論、読者の変質を忠実に映している。
 前述のように、情報源としてのコンピューターを含む<文字系媒体>全般は、隆盛の一途を辿っている訳だが、その中で、大衆における文芸の重要性は確実に低下している。平和社会の長期化によるマンネリズム、教養主義の崩壊と、それに伴う知識人の地位低下、大衆の価値観の多様化、受験戦争による自我確立期の読書タイムの喪失、などの時代状況から、人生と正面から取り組むのを回避し、実社会に出るに際して、要領よく立ち回れるもの、便利なものを身につけることの方が重要と判断する人間の割合が増加した。また、これとは反対に、全く個人的な趣味の世界に自己を埋没することで、自己の精神世界を維持するという二極分化が進行していった。が、いずれにしても、必要なのは実用書の範躊のものである。例えば、書店の棚に並ぶ膨大なパソコン関係書は、今言ったような、仕事、趣味両方に活用され得るだけに、その繁栄はある意味で当然であろう。これは、うがった見方をすれば、本がパソコンに奉仕している訳で、メインの情報ルートのための下請けに堕しているとも言える。忙しくて腰を落ち着けて文芸書を読む暇などない、といったところが勤め人の実感だろう。
 また、現代は家庭での生活に大きな変化があり、それが、本との付き合い方に影響を与えたと考えられる。以前に較べて、家庭内に種々の電気機器が入り込み、家庭生活自体が<情報化>していった。老人の知恵といった<経験>を重要視する家庭運営ではなく、外部からの情報による<知識>によって判断されることが多くなった。これに伴い、地域社会の中での役割も低下、

家庭の主要な機能のうちの多くが外部に委託されるようになり、実際上、「くつろぎ」と「子供の養育」が大きな比重を占め(中略)今や家庭とは互いに干渉することを避け、それぞれが勝手なことをしても許される、それぞれにとっての「くつろぎ」の場所になっている(水野博介)(註8)

という。すなわち<家庭のホテル化>である。藤岡和賀夫が言う「大衆から少衆の時代へ」(註9)の変化も、この流れを捉えたもので、既に、日本の大衆が衆目一致するような興味関心は消失しつつある。
 文学に対する欲求は、そこに登場する人物や作者に親近感を覚えることが最初のステップとなるが、これは、或る種のコミュニケーションー<疑似コミュニケーション>であると言える。しかし、こうした役割も、テレビ、パソコンの普及によって代替されるようになっていった。家庭にテレビが入って久しいが、以前との大きな違いは、家族団欒の一環としてのテレビ視聴から、一時、<カウチポテト族>という語が流行したように、個人的メディアへ変遷していったことである。レンタルビデオ店でソフトを選び、個別の部屋で、個別に楽しむーこの個人化は、正に読書の行動と等価である。視聴者は全くの個室で、機械を通した疑似コミュニケーションを体験する。パソコンも全く事情は同じであるが、テレビのように一方的ではなく、キイボードで選択することにより、よりパーソナルなメッセージを受け取る事が出来る分、疑似化が高等となっている訳で、書籍に勝ち目はないといってよい。
 ソフトの動きという、あらかじめ用意された反応だけでなく、通信系ニューメディアの登場は、物理的に接触しなくても感情の交流ができるため、新たな人間関係を生んだと言われている。パソコン通信、パケット通信、パーティーラインなどがそれにあたるが、直接、相手を知らないため、特に意見の相違のを煮つめ、全人的に交渉する必要はなく、趣味など意見の合う部分でのみ関係すればよいというコミュニケーションのパターンが成立、現在は、その他の人間関係でもこうしたパターンの割合が増加している。
 相互の関係は、<メッセージ>の交換が中心となるが、その単一のコミュミケーションのルートにおいても、人間的な触れ合いを感ずるとすれば、機械の向こう側に、オンラインで人間がいようが、全くソフトによる対応のメッセージであろうが、その差異は大きくないことになる。こうしたコニュニケーションは、テレビゲームに熱中する若い世代に顕著で、機械を擬人化してつき合う傾向がある(例えば、機械やソフトにニックネームをつける)ことなど、既に多くの社会学者の指摘がある。
 また、藤竹暁は、「若者は気づまりを感じた時TVをつける」(註10)の中で、「テレビあるいはビデオは、会話の促進剤であり、団欒の接着剤」となっており、「画面をめぐって交わされる家族の会話が、テレビの影響力を中和する」機能を果たしていることに着目、「現代の生活では、外界と人間との間にメディアが介在するばかりでな」く、「人間と人間との間にもメディアが介在しなければ、人間関係が成立しにくくなってしまっている」と、機械を介在させないとコニュニケーションがとれなくなっている現状を指摘している。この傾向を危倶する論調も多いが、こうした付き合い方の割合は、今後とも増加することを念頭におかなければならないだろう。以前は、活動的な事を苦手としている若者が、文学青年として成長、よき読書人となっていたが、コミュニケーション機器の家庭侵入によって、こうした青年は、所謂<おたく>に吸い取られてしまっていると考えるのが自然だろう。 
 人間が本能的に志向する<他者との連帯><新しい世界への憧れ>といったものが、ニューメディアに侵略されると、読書という、手間がかかり、一方的でしかないメディアはその存在価値を失い兼ねない。(一)非常に廉価で、(二)近所には必ず書店があるといったような、情報メディアとして最も身近な存在で、(三)機械という介在物が入らず、(四)いちいち機械の前に座って起動させなくても、速やかに情報を入手できる、といった面でのメリットは、未だに本の方に一日の長があり、情報手段としての位置は不動であろうが、人間の心的状態に入り込む方面に関していえば、以上のように、要求度が低下、他のメディアに代替されている現状から、文学に残された課題や読者対象も限られてくるしかなかったというところだろう。
 しかし、文芸書は、時に『サラダ記念日』『ノルウエーの森』等の大ベストセラーを生む。これは、若い女性が支えている現象で、これまでの文学の伝統を無視し、読者対象を限定することで、いわば、その専門性によって文学が生き残っている姿であり、事態は楽観出来ないというのが、この稿の、実に粗雑な結論である。以下、こうしたメカニズムについて、各論として、この時期、女性に絶大な人気を得た吉本ばななのベストセラー作品群を分析することで考えていきたい。

 

三  吉本ばななの登場

 

旧世代の人間には想像もつかないような感覚と思考を、伝統的文学教養を全く無視して、奔放に描いた作品で、旧来の概念からして、文学の枠にはまろうがはまるまいが勝手にしろ、という無邪気な開き直りに新しい文学を感じた。(中村真一郎)

 

 この褒めたのか、けなしたのか判らないような『キッチン』の第六回『海燕』新人文学賞の選評に、彼女の文学の魅力は言い尽くされているように思う。伝統的な文学教養から言えば、作家の書いた文章の表記がおかしいというのは論外であろうが、例えば、「2度と」などと算用数字で表記されているのを見ると、国語教師を生業としている稿者などは、朱をいれたくなってしまう。他に、「『うひゃー。お嫁さんみたい。』とぶつぶつ文句を言って」ーこれも「大声をあげて」等が自然だろう。地の文でも「現実はすごい」といった言い回しをしている。「すごい」では、表現になっていない気がするのだが、それが平気で使われている。また、「私はたまげた」「極楽のように毎日がらくになった」といった過剰な、そして舌足らずの言い方。しかし、一見、未完成に見えるこうした表現が魅力の一つになっているのも事実のようだ。「もしこれが『クイズ100人に聞きました』の会場だったら、あるあるの声が怒号のように響きわたっていただろう。」ーこうしたテレビ番組を使った比喩は、文学の普遍性などと言うことを無視したところで発想されている。中村が「伝統的文学教養を全く無視し」た「開き直り」と感じた所為だろう。
 緻密に心理描写している部分とこうした部分、この落差感は、表現面ばかりではない。『満月ーキッチン2』の中で、死んだえり子のことを悲しむおかまのちかちゃんが、「私」にこっそり雄一の地図とメモを渡す場面で、「さすが水商売、やることはやる。ツボは押さえてるわ。と感心しながら、私はその大きな背中を切なく見送った」と、水をさすような会話を挿入したり、「私」の雄一に対する感情が高ぶって、遠く会いに行く場面でも、タクシー運転手に、「色恋ざただね」と、妙に客観的な台詞を言わせて、そこまで感情移入してきた読者をポッと放り出す。この落差感が、彼女の文体の魅力になっているように思う。読者は、ばななが今度はどんな落差を作ってくれているか、心待ちにして読み進む、そんな心境になる。
 俗語の使用は、随筆集『パイナップリン』では徹底していて、随筆は本業とは関係のない「グリコのおまけ」のようなものと割り切っているためでもあろうが、「よお〜く」「ありがてえことですだ」「〜でごんす」等々、実に勝手気まま流である。勿論、こうした表現は彼女の独創などではなく、現代の女の子同志が仲間うちで喋っている言いまわしであり、授業中、暇にまかせて綴る回覧文、手紙などによく見かける文体である。それらは、可愛いイラスト入りの便箋に丸文字で書かれていることが多いが、書籍となった彼女のエッセイを読んでいて、活字が窮屈に見えてきたのは稿者一人だけだろうか。
 こうした文体を含め、彼女の小説を<少女漫画的>と評する向きは多い。それは間違いではないし、彼女自身、「少女漫画は、一番身近な感じです。同世代作家より、やりたいことのニュアンスを身近に感じる」(註11)と認めているのだが、例えば、『満月』で「私」が雄一の彼女に詰め寄られた時、「とほほほ、と思った。」といった言い方をされると、単に漫画の表現を取り入れたという意図的なものではなく、漫画が自分の心情を仮託する最重要なメディアとなっており、漫画特有の表現によって心理を規定しているからこそ、自然にこの表現になったと考えるべきだろう。彼女にとって、情けない気持ちを表す言葉として、これ以上ぴったりしたものはないと感じた訳である。
 これを逆に言えば、今の若い世代にとって、書き手も含めて、小説が二次的なものとしてしか機能していない証しとなる。彼女の小説は、一時期の小説の危機説を超えて、漫画的発想を前提とした、ある種、開きなおった所から再出発している事が理解できるのではないだろうか。吉本ばななは、そうした言語状況を充分把握した上で、小説の分野を選んだように思う。「テレビをみないでわざわざ本をよませるということはむつかしい」「本をよんだことのないひとにも<本>だと思わずに読み切ってほしい」(註12)ーこの発言は本だと思われたら既に失敗しているという認識から出ている。小説は、依然として<本>である。小説とは思わず読んでほしいー即ち、彼女は自分の作品が小説である事を拒否しているのである。しかし、それを、<新しさ>として意気がるのではなく、本への回帰を希望する、或る意味で復古的な、より親派的な心情から発したものであるという逆説的な点に、彼女の存在意義があるのだと言えはしまいか。「日常では言葉はいつも人から良いものをうばってばかりいるが、紙の上ではちがうので、私は言葉を信じている」との宣言が何よりもの証拠だろう。
 彼女は、漫画的という批判に対して、絵と文とは別物という大前提を省いた議論で、「宇野千代の作品が少女漫画的でないかと言ったら、すごく少女漫画的だと思う」と反論する。ばななの作品はビジュアルで、残像が浮かぶというインタビュアーに対して、こう答えている。

具体的な像じゃなくて、雰囲気がね。自分としては、読んでもらったときに、頭の中にひとつの空間をつくってほしいという気持ちがある。絵でもなくて字でもない空間。あんまりこまかく限定すると<字>になっちゃうし、あんまりビジュアル的に描くとただの<絵>になっちゃう。その微妙な境い目みたいなところにいてほしい。立体感というのかな。

映像も好きだが、文章を書くこと以外に特技がないからという韜晦の言も含め、二つのメディアに対するスタンスの取り方に、彼女の文学の位置があると言えるだろう。
 本を感じさせない方法、それは<スピード感>だという。今の若い世代は、「漫画とテレビ育ち。だからスピードがないと絶対付いて行けない。(中略)ちょっと見て面白いか、面白くないか決めちゃう。一瞬の勝負」なのだそうだ。こうした認識は、近年、読者のほとんどは装丁とタイトルのみで本を選ぶ傾向があるとする指摘と歩を一にする。スピード感は、確かに背景説明の省略、あっけない程の死亡(例えば、おかまのえり子さんのキャラクターは、それだけで彼女を中心とした小説ができそうなのに、『満月』ではいきなり殺されている)等に特徴的である。彼女自身、「一行目は一番大事にしている」と言っているように、『キッチン』冒頭の台所への思いを述べた箇所など、印象的なプロローグとなっている。

 

四  ばななと映像

 

 彼女の場合、こうしたスピード感と省略の方法は、正確には、漫画からというよりも、映画からと言った方がよいのではないだろうか。描写面でも、『TUGUMI』のなかで、「私」が最後の夏をすごしに港に戻ってくるシーンは、はじめ「淡い光の中」の「コマ送りのような」単色の世界だったものが、現実に引き戻されて「色が戻ってきた」と、色彩の世界にスイッチする、映画の世界では『オズの魔法使い』などでおなじみの手法が使われているし、<光>に関する描写が目につくのも、直接、映像時代の感受性を表出していると解するべきであろう。 彼女の随筆やインタビューからは多くの映画名が出てくる。『TUGUMI』を自ら評して、『華麗なるギャッツビー』の土肥温泉版だと言ったり、『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』みたいな完全に美しい少女時代の思い出の話にしたかったと言ったりなど。「二度とかえらない少女たちの輝かしい季節」(帯コピー)を描いたこの小説は、作者自身、「子供時代、ただお友だちと一緒に楽しくすごして、まだ現実のきつさに出会わないころのこと、その感じをどうしても書きたかった」と述べているように、誰もが持つ思春期の純粋さを描いて、せつない感情を呼びおこしてくれるが、こうした「輝かしい一瞬をとどめて置きたい」というモチーフの表現は、映画が最も得意とするところである。
 また、非日常的なものが日常に入り込む事で、逆にリアルになると彼女が考えているのも、映画の感覚である。非日常的な設定が多い点に関して、彼女は、

 

何かこうふつうではない、どこか異常な人たちがそのことを気にしないで生きていくような話が好きなんです。異常な人とか異様なものをソフトに描きたいんじゃないかという気がする。

 

と述べ、藤子不二雄の漫画『ドラえもん』を例にあげている。『キッチン』の場合、おかまの母と息子の家庭生活という設定が既にそうであるし、主人公が、雄一と同時に同じ夢を見る不思議な体験も、現実にはありえないが、二人の心の在りかを描いて効果的である。吉本の小説作法は、彼女自身が語っているのだが、その小説にとりかかっている時の心の揺れを、全部リアルタイムで組み込んでいく方法をとる。『キッチン』が、男性にふられて落ち込んでいた時に、そのボロボロさを自己分析して書いたことは、既に有名な事柄となっているようだが、例えば、『白河夜船』では、花火大会に偶然出くわし、その折りのうなぎの夕食の会が楽しかったという、まったく個人的な体験が作品につながったそうで、その飛躍ぶりには少々驚く。
  その彼女の、映画の神様が、『ゾンビ』『サスペリア』などで著名なイタリアホラー映画の巨匠ダリオ・アルジェントだという。

 

私はいつもああいう映像を頭の中に描きながら、ああいう世界に近づこうとしながら書いている。『サスペリア』の頃からずっと、彼と私の生涯のテーマがよく似ているのを私は肌で感じていた。それから、私の心象風景を映像にしてくれるのはあの人だけだ。自分の心を目で見るのはとっても快いことだ。(中略)『ゾンビ』のようなものをいつか描くのが私の夢だ。あまりに作風が違うので表現するのが難しいのだけれど、あの、人間関係の感じ、(中略)生と死のドラマ、色彩、向上心のあり方、人間の品格についての考え方、生命力に寄せる作者の信頼の強さ……等々私の理想にぴったりと合っていて、見たのは中学生の頃だったが、未だにあの感動を胸に抱いている。

 

ホラー映画と吉本ばなな、彼女の作風との余りの違いに驚いたが、もう一度、『ゾンビ』を思い出すと、納得のできる点も多々あるように感じた。この映画では、死者がゾンビになっても生前の記憶が残っていて、巨大なスーパーマーケットに集まってくる人間の哀れさ、ゾンビに噛まれた友人を看護しつつも、ゾンビとして再生した瞬間、彼を撃ち殺さねばならなかった仲間の辛さ、ラストの場面、人類がほとんどゾンビと化し、もはや生き延びる事が不可能と思える中での絶望的なヘリコプターでの脱出、そして、そこに感じられる監督の生命への希望。ホラー映画という枠の中で、我々には見えてこなかった、監督の人間を見つめる眼差しを、彼女はしっかり見据えていたということなのだろう。

 

五  ばななと読者

 

 『キッチン』の「私」の気分は、正に「とほほほ」である。「ボロボロなときに、他人からまるで湯水のように親切を注がれたらいったいどうなるか」。彼女が作品に課したこのモチーフは、「何度でもカムバックする。負けはしない」との決意に至るし、『満月』でも、えり子の死で沈んだ心はラストで再生の糸口を見つけ出す。人間の寂しさを見据えつつ、決して絶望だけでは終わらないところに共通性があるように思う。決して事態は明るい訳ではないのだが、それでも<生>に対する希望だけは捨てない、そんな感じである。
 単行本『キッチン』の「あとがき」に、「私は昔からたったひとつのことを言いたくて小説を書き、そのことをもう言いたくなくなるまでは何が何でも書き続けたい」という印象的なフレーズがある。作者は後の自作自解で、「がんばろうというところにはそれほど重点はなくて、いま読むと、とにかくそのボロボロさかげんがよく反映されている気がします」「本当にまるごとそれがメッセージなら、あんな暗い物語書かないような気がする」と、否定的な感想を漏らしているが、初期作品を読む限り、当時の作者の制作意図はともかく、この生命感の甦生とでもいうべきものが作品の中心にあるのは間違いない。
 「克服と成長は個人の魂の記録であり、希望や可能性のすべてだと私は思っています」ーこの記述は、ばななの人生観であり、原モテーフと受け取ってよいだろう。つまり、彼女自身の「個人の魂の記録」は「克服と成長」の歴史として認識され、「希望や可能性」に至るべきものなのである。ばななについては、多くの論が出ている。評者によって「生の実感」「日常を生きる意志」等言葉は違うが、共通の読後感を述べているにすぎないように感じられる。読者は、彼女のこうした決意に励まされるが、これは、近年、現代の若者が作るロックやニューミュージックのヒット曲の歌詞に、人生の応援歌的なものが多くなっているのと符合するのではないだろうか。
  彼女は、訴えたい事と文章に距離があったら失敗と感じているという。「言葉と自分とが、友達と電話で話すみたいにすごく密接な感じ。言葉と主人公、主人公と読者ーその距離が密接な感じをだすために(中略)リアルな独り言と文章をないまぜにする」のだという。だから、「自分では読者への語りかけという気持ちはまったくな」く、「自分がよければいいと思って書いている」と述べている。ある種の状況の中で、私の感受性だとこういう感じを持つ、その気分の空間の表出が彼女の関心事なのだ。常に一人称なのもそのためだし、主人公は、常に作者の分身である。大学生であったり、アルバイトをしていたり、『白河夜船』のように、友人が秘密クラブに勤めているといった風俗が絡んでみたり、不倫だったりと描かれる状況は違うが、いずれにせよ、彼女と同世代の女性の周辺に起こり得るであろう状況が不可欠なのである。
 彼女の小説を買うのがほとんど女性なのも、彼女が提出した気分の空間に自分を重ねたり、友人を重ねたりして共感するからだろう。『TUGUMI』は、版元の中央公論社が取次に大入袋を配る程の、ばなな最大のベストセラーとなったが、読者の実に九二%は女性(うち七〇%は同世代かそれ以下)だったという。そのためというべきか、一部には、「寂しい女の子の日記を読み返す程度のもの」(新聞論説)といった批判も当時あった訳だが、彼女達の感性を正しく映すことさえ、他のメディアに奪われていて、小説にはできていなかった事こそ反省すべきなのかもしれない。
 井狩春男は、流通業界人の立場から、なぜ『TUGUMI』が売れたのかをまとめている(註13)。(一)ベストセラーの最終的な決め手は、女性による口コミで、ばななの小説は女性の読者が小説世界に抵抗なく入り込むことができ、複合的に伝わっていた。また、作者が美人だと女性読者に僻まれるが、彼女の場合、読者は友達のように感じていた。(二)マスコミも、吉本隆明の娘ということで話題性は高く、売る側も注目していた(既に『キッチン』の受賞で、下地を福武書店が作っており、『哀しい予感』等、既刊本の相乗効果もあり、また、この時点で、『キッチン』は五〇万部と売上げを伸ばして、読者も書店側も次回作を待っている状態であった)。(三)そうしたレディネスの上に、中央公論社は、初版三〇万部という大手ならではのベストセラーのノウハウを活かした勝負に出た。(四)カラフルで、美しい装丁(註14)、覚え易く、女性名を横文字で書く意外性のあるタイトル等、女性受けする要素が多かった、以上四点である。ベストセラーとするため、業界としての仕掛けが計算されていたことには違いないが、それを可能にしたのは、やはり、友達のように感ずる女性達の親近感があったからこそであろう。この点に関して、鎌田東二は、彼女の書く、「あとがき」に注目し、次のように述べている。

 

吉本ばななという作家は(中略)「あとがき」という装置もしくは形式にきわめて意識的で巧みな作家である。小説作品が一つのフィクションであるとすれば、「あとがき」はそうしたフィクション群に対するメタ・フィクションであるといえるだろう。この(中略)構造が、つねに自己言及的な全体構造をかたちづくっている。(註15)

 

「あとがき」を巧妙なしかけと認識する説である。作者自身にそうした意図があったかどうかという問題は置くとしても、このばななの、正直(そうにみえる?)な感想が、より読者に親近感をもたせることに成功しているとは言えるだろう。
 現代の女子高校生を大別すると、髪や化粧を気にし始めるグループと、あまり興味を示さぬグループがあるようである。自分が女性である事に疑問を持たぬ者と、スタンスを置く者と言い換えたらよいであろうか。『キッチン』には、おかまのちかちゃんに対して、「あまり認めたくないけど、彼女といるといつも私の方がずっと男らしいような気がする」という「私」の感想が記されている。自分としては、女性としての特性をよくも悪くも自覚しているのだけれど、ちかちゃん程、女っぽく振る舞うことはしない、そういう気持ちが「残念ながら」という字句の意味なのであろう。女性らしさを拒否した訳ではないが、自分の個性からして、それを強調したいとも思わない。旧来の概念からすると、中性的である事への不安、そして、そうした生き方への自信。彼女が描いている女性は、そんな性格の持ち主のようである。
 現代女性の持つこうした側面、例えば、雄一が居場所を提供してくれた親切に対し、「かたじけない」と表現してしまう感性は、男女に同僚的な関係が成立した社会となったからこそ成立するものといえよう。『TUGUMI』には、はっきり男言葉を使う男性的な女性「つぐみ」が出てくる。古風な少女小説の一面を持つこの小説が、現代的な感じに映るのは彼女の存在が大きい訳だが、彼女的な感性ー女っぽいという言葉とは無縁だが、本来的な意味で、女性のやさしさを内包している感性が、現代女性にとって、ひとつのあるべき女性のイメージとなって受け止められたことが基底にあることを再度確認して置きたい。

 

六  特定の読者の時代へ

 

  文学のベストセラー化の条件のひとつに、その作品の主人公の生き方が、反面教師であれ、憧れ、理想像であれ、社会状況として興味関心が集まる、問題意識のあるものが盛り込まれていることがあげられる。ばななの表出する感受性が、現代女性の自己投影と成り得たから売れ、現代女性の一個性を鮮やかに描いてみせたことが成功の秘訣であるとしたならば、そこには、単に思春期特有のものと言ってすまされない、現代に生きる女性の立場自体がかかえる不安定感が潜んでいると考えてよいだろう。
 男女同権が定着してきたとはいえ、現代社会に生きる女性としての葛藤は避けられない。徹底してキャリアウーマンとして生きるか、ある程度で妥協し、キャリアウーマン的な雰囲気を味わった後、玉の輿を狙うか、家庭重視で生きるか等々、どの位置で自らを定置するのか。長期低落傾向の男性の立場のように単純な構図ではない分、女性の場合、複雑で、個人個人の対応が迫られる。そうした下地が、女性論や女流文学の隆盛に、大きく寄与していることは言うまでもない。<人生、如何に生くべきか>的な命題は、女性の生き方論へ、ハウツウ的には、現代社会の中で、如何にうまく女性として生きていくかという命題にすりかわった形で、ようやく文学は命脈を保っていると言える。そこには、上野千鶴子のようにアカデミックな意匠を纏ったものを好むか、文学のように、よりイメージ的に把握していくか、アプローチの違いがあるだけである。とすれば、前述のように、男性が旧来的な意味での文学をもはや読書対象にしていない以上、女性の生き方にある程度の固定化が起こるまで、女性中心の文学購読の状態は変化しないように思われる。
 今後も文学は出版界の仕掛けにのって、根強い女性支持に依存しながら、女性のその時その時の新風俗や心理をうまく表出したものが、単発的にベストセラーとして打ち上がるという形をとるだろう。江藤淳は、昭和五十年代に台頭した新文学、例えば、『なんとなく、クリスタル』の風俗を、サブカルチュアに堕す危険性を、註という形の文明批評で辛うじて引き留めることができたのだ、という言い方で評価したが、この思考自体が、<文明批評>という意味性によって引き留めただけで、こうした批評の方法が、既に無効となっているのが現代だといってよかろう。サブカルチュアとして捨て去ったものを、今後拾い上げねばならない訳で、文学の変質に伴って、研究の方法も変質せねば、手だてが無くなっていくことを肝に銘ずべきであろう。
 書店の文芸書コーナーに隣接して、女性コーナーが設置されている書店も多く、売り場面積も今では、ほぼ同程度に拡大している。以前、書店の文学書コーナーでは、アイウエオ順に作者別の名を記した板が入って、本の検索に便利になっていたが、最近はない書店が多くなった(文庫本棚では未だに多く見かけるが、以前のように、版元をこえて作者名で纏めるという陳列の仕方は、やはり出来なくなっているようである)。文学者という概念が曖昧になった分、多様な著者が既成作家の作品の間に入りこむようになり、作家名板が逆に煩わしくなったためではないかと愚考する。このため現在では、著名な既成作家の作品でさえ、活躍中にも拘らず配架分は少なく、以前、純文学と言われていた棚の全体的な眺めは、ここ十年で大きく変化している。今後の文学の行方は分明ではないが、少なくとも流通上は、この二つのコーナーの境界が曖昧となる事態も予想されなくもない。現に書店では、そうしたイメージで文芸書の販売戦略をしているところも多く、今後も文学は、女性に奉仕する印象を強めていくとの予測は容易である。
 ある一つの作品、作家に感応する読者層は非常に限られてきている。『TUGUMI』を初めとするばななの作品は若い女性、司馬遼太郎の時代小説は勤め人、というように。即ち、繰り返すが、文学は間口を狭くとることで、一部読者による流行現象を狙うという形に変質してきており、<少衆>として個別化が進んだ読者に対応して、専門性による生き残りを図っているというのが昨今の現状ということになろう。タイトルと作者名、装丁を見ただけでその購買層がほぼ予測でき、それ以外の層に広がることが極めて少なくなってきている。とするならば、文学を現代社会の動向全体を映す鏡として把握するような認識は、もはや有効性を消失していると言えるだろう。
 以前、文学衰退が大きく論じられた際、いずれ近代文学研究者は、漫画を研究対象にせねばならなくなるかもしれぬという、冗談とも予言ともつかぬ論評があった。現在、実際に漫画のコマ割の象徴性などを論じた評論が、違和感なく文芸評論誌等に掲載される時代となっている訳で、漫画に取って替わられるのではないかといった強迫観念はさて置くにしろ、再度、<文学の輪郭>を見つめ直さなければ、専門性という袋小路の中で、文学という存在自体が拡散していくことになりはしないかとの危倶が、常に稿者の念頭にはある。吉本ばななの登場が、前述のように、文学に対する一種復古的な親派の行動であるとしたならば、こうした志向を含めて、文学の有効性を再検討する試みとその結実が、今後、多く生まれてくることを期待するしかない(文学の有効性に現在も拘泥していること自体、今や単なるロマンティズムなのかもしれないが……)。以上、粗雑にして悲観的な結論であるが、稿者の認識を、かろやかに超えていく作者、作品を期待して稿を終わりたい。                                                                        
 註

(1)この点については、拙稿「ベストセラーの構造ー昭和三十年代と五   

   十年代とー」(石川県高等学校教育研究会国語部会『国語研究』二   

   七号平成二年三月二十日)に詳しく論じた。本稿は、この続稿として、   

   その後の読書の状況を、社会情勢を視座に入れつつ、吉本ばななを例   

   に概観することを企図したものである。当然とすべき事柄も多い点、   

   事前に了承願いたい。
(2)近年、実用書にも、かげりが見えはじめている。これは、所謂、ハウ   

   ツウビデオの進出によるという。現在、書籍部門で堅調な売上げをあ   

   げているのは、人生論、宗教関係書、心理を扱ったもので、現代人は、   

   心の隙間を埋めるものを求めていることが浮き彫りにされる。
(3)この理由については、生徒が勉強しなくなった訳ではなく、最近、塾   

   が独自にテキスト、問題集を製作、それを使用しているからと考えら   

   れる。自分で選ぶのではなく、与えられたもので勉強していることに   

   疑問を感じるのは稿者だけだろうか。また、コピーで対処する方法が   

   大学生ばかりでなく、中高校生にまで下りてきている現状もある。
(4)これとは逆に、中央の大手書店などでは、趣味の専門化、細分化が進   

   んだ影響で、専門書店並みの知識を顧客が要求してくるという。
(5)現在、返本率三十五パーセントと言われている。重版に関しても、初   

   版完売をPRするため、故意に初版部数を押さえて、売り切れ状況を   

   作りだし、購買意欲をそそるという姑息なテクニックが日常化してい   

   る。同様に、こまめに少部数を増刷することで、刷数を稼ぐ方法もあ   

   る。
(6)現在、その反省時期にきており、新判型の文庫本の発刊など、揺り戻   

   し現象も起きているようである
(7)『出版ーマスコミの明日を問う 2』 研究集団・コミュニケーシ   

   ョン ’90編(大月書店)。出版流通関係の記述は、この本に負う   

   ところが多い。
(8)「ニューメディアと家庭生活」(『ニユーメディアと社会生活』竹内   

   郁郎、児島和人、川本勝編(東京大学出版会))
(9)『さよなら大衆ー感性時代をどう読むかー』(PHP文庫)
(10)「メディアの映す社会心理16」(『書斎の窓』三九六号 一九九   

   〇年七、八月号)
(11)「ばななワールドにようこそーヤングの心の語り部ー(吉本ば   

   なな対談さくらももこ)」(『北国新聞』平成二年一月三日)
(12)「吉本ばなな大インタビューーこんなに話したことはないー」   

   (『文芸春秋』一九八九年一一月号)。引用の彼女の発言はこのイン   

   タビューと(註11)の対談による。
(13)『ベストセラーの方程式』(ブロンズ新社)
(14)『TUGUMI』の花柄の装画は、山本容子の銅版画。氏は、雑誌   

   の表紙の仕事が多く、本を読んで、読書感想文を書くように描くとい   

   う(平成四年五月六日夜のNHKラジオ放送による)。女性の感覚で   

   作品のイメージを視覚的に表現したものが、この装画なのであり、多   

   くの女性読者が、装丁に感応したのも当然といえよう。絵だけでも充   

   分にインパクトのある色合いであるが、タイトル、ハードカバーの薄   

   ピンク地がそれを強調している。
(15)「「あとがき」と「なつかしさ」ー吉本ばななの世界感覚」(『 女 

   性作家の新流』長谷川泉編 至文堂)

 

[付 記]
 本稿には、以前発表した小文「「とほほほ」の感性ー『キッチン』『満月』を読むー」(金沢近代文芸研究会『イミタチオ』第十三号 平成二年二月)を一部取り込んだ部分がある。同時期に本稿を企図したが、完成が遅れ、ここでいう<現在>から数年を経た。このため、多少、現状と合わなくなった部分がなくはない。註で補足したが、それ以外は、特に加筆訂正しなかった。この点、了承願いたい。
 今回は、女性面からの分析であったが、こぼれる事由は多い。今後、詳細に考えて行きたい。社会分析の記述は簡略を旨としたため、断定的で、筆の滑った記述も多いかと思われる。御寛容を乞う次第である。なお、執筆に際して、神田神保町「書泉」の田崎考一氏より情報と助言を得た。ここに感謝申し上げる。
                 (平成四年六月十八日擱筆)

    [1] 
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(ベストセラー論関係書)
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